2017年02月28日

◆木津と応仁の乱 続編 C 

白井 繁夫



応仁の乱も文明4年(1472)となると、すでに戦乱も6年、兵士たちも厭戦気分です。

ところが、将軍義政をはじめ幕府首脳に戦乱を治める収拾能力が欠けていました。だから、管領家の家督相続争い.守護被官やその国人層の分裂抗争など諸事情あり、だらだらと応仁の乱は長引いていたのです。

そこで、前回述べたように同年5月、西軍の総大将山名宗全が東軍の細川勝元に講和を提案しましたが赤松政則の強硬な反対、西軍では畠山義就も拒絶し和平は成立できませんでした。

不成立になると早速、最強硬派畠山義就は京の喉首と云われてきた重要拠点の天王山を守る東軍の赤松政則の軍勢に意表を突く夜襲攻撃を仕掛けて(当時では想定外の戦法)、勝蔵寺から山頂に攻め上った。

不意の急襲を受けた東軍は防御できず退却しましたが、西軍が戦勝に酔い休息していた早朝、今度は赤松軍の浦上則宗が間道から反転攻撃に出て山頂を奪回する戦闘がありました。但し、この合戦は相国寺の戦闘のような大激戦ではありません。

京やその周辺(山城など)の収拾が治まらない間に、守護が不在の領国では勢力争い.他国の侵入.治安の乱れなどが各地で起こり、戦乱地から抜けて帰国する武将も出始めました。

文明5年(1473)に入ると、京ではだれも予想が出来なかった状勢の変化が起こりました。西軍の領袖山名宗全が3月に70歳で病没し、その2ヶ月後の5月に東軍の領袖細川勝元が44歳の若さなのに一週間の患いで(伝染病に罹感か?)逝去してしまいました。

宗全の嫡子教豊(のりとよ)は没していたので孫の山名政豊(まさとよ.33歳)が家督を継ぎますが、勝元の嫡子細川政元(まさもと)はわずか8歳で家督を継ぐのです。

しかしながら、両者はともに戦意に欠しく、京都においてはしだいに両軍ともに和睦のムードが高まり(各武将も国元の治安が気がかり)、町衆も平和の期待が高まりました。

そうした状況のもと、翌年(文明6年)4月に山名政豊と細川政元は会見し、講和を決定しましたが、またも全面講和には至りませんでした。

和平に反対する西軍の大内軍と東軍畠山政長は同年7月に入り京都一条の猪熊や堀川などで戦い、焼けずに残っていた市街までがまた灰になりました。更に、東軍の政長は13日には油小路の西軍(大内軍)を攻撃して妙光寺.法華堂なども焼失したのです。

もっと大きく驚愕したのは、西軍の総師山名政豊が和平後東軍に属したことです。これに反対した西軍の諸将(大内政弘.畠山義就.土岐成頼)は自分たちの今までの領袖山名政豊を北野神社に包囲したのです。この戦いで北野から千本にかけて数多の民家が巻き込まれ焼失したと云われています。

両軍の停戦交渉が軌道に乗らないのは度々述べたように、東軍赤松氏は嘉吉の変の失地奪回、畠山両家の家督をめぐる領地争いが続き家臣たちの対立も更に激化、西軍大内氏らの諸将は将軍家の足利義政と義視の和睦を条件にしたこと等で解決が出来なかったのです。

その上に、大乱が終息できない最大の要因は将軍家の権威が失墜してしまったことです。
大内政弘は合戦を一気に集結させようとして、諸国より軍勢を徴集し、大和では古市胤栄が呼応して京へ軍勢を進めたのです。

内乱は京だけでなく、各地でも領国内の対立が激化してきました。文明7年5月には大和の合戦が南山城にも影響して、西軍は木津を攻めましたが、大和の筒井軍の支援を得て「木津」は無事でした。

しかし、大内軍が相楽(木津川市相楽)に陣を張り、大和の古市軍(鹿野薗.長田氏等)が次々と山城に出陣してきて再び緊張は高まり、14日、遂に全面的な合戦になりました。

奈良の春日神社大鳥居では西軍の古市.越智.五条野氏らと東軍の成身院.箸尾.十市北氏などが合戦し、市氏らが敗北。木津近郊の小寺口では大内軍と東軍の狭川.福住氏が戦い、天神川原では大内軍と東軍の筒井軍が合戦、東軍の秋篠.宝来.超昇寺氏らは大内軍が守る染山城(木津川市相楽曽根山)を落城さす。いずれも東軍の筒井派軍勢が全面的勝利でした。

この戦いは大規模な合戦でしたが筒井一族の奮戦で木津はまた焼亡が避けられました。

(応仁の乱が起こり京の公家衆や多数の人々は戦乱から逃れ疎開しましたが、西軍の陣所近隣に居住していた大舎人織手座(おおとねりおりてざ)の人々も同じく奈良、大津、堺などへ疎開しました。)

ところが、堺に疎開して海岸沿いに居住していた織手座の人たちへ、文明7年(1475)8月、大阪湾に起きた大高潮が襲いかかり多数の死傷者が出たと云われています。
この人々も長引く応仁の乱の不幸な犠牲者となったのです。

しかし、応仁の乱は地方から戦線に参加した兵士や、各地へ避難した京都の文化人や技術者により京の文化.技術などが全国的に伝わり、京の人々も避難先でいろいろ学びました。

堺へ疎開した大舎人織手座の人々は大変な被害を受けましたが、堺では中国(明時代)伝来の最新織物技術を習得しました。(戦乱後は西陣:西軍の陣地跡:に帰り、新しい高度な織物の生産をはじめ、高級織物の産地:西陣織として、現在は世界的にも有名になっています。)

戦乱もだらだらと続き乱れていた京で、文明8年(1476)11月、3代将軍義満造営の室町第(花の御所)が民家からの火事の延焼によって灰となりました。この室町第には後土御門天皇の臨時皇居があり、将軍義政との同居(避難)状態が約10年近くになっていました。

その後、文明9年11月に旧土御門内裏の修復計画に取り掛かり、清涼殿、黒戸御所、春興殿を修理して、東、北、西門と改築し、なんとか天皇が皇居へ帰られたのは文明11年12月でした。(皇居修復費用としての臨時課税が町衆の抵抗で長期間要したと云われています。)

戦乱から逃れて地方の領地へ疎開した公家衆も、荘園主(本来の領主)とは名ばかりで、地元の国人(土地の武士)か侵略者の被官が領地を押領しており、本来の領主としての縁も切れた状況では、きちんと遇してももらえませんでした。

戦乱も開戦以来11年となった文明9年(1477)、9月に情勢が大転機を起こしたのです。
享徳3年(1454)以来畠山政長と家督争いを繰り返し戦ってきた超主戦論者の畠山義就が応仁の乱に見切りをつけて、幕府を見限り、馬上3百余騎と甲冑兵数千の軍勢を従え、堂々と隊伍を組んで領国(河内国)へ帰還したのです。
(反将軍派(西軍)の最強の武将(義就)の行進に対して東軍は手出しできず眺めるだけでした。河内では管領畠山政長の被官遊佐長直が治めていました。)

南山城では、義就の河内入国で情勢が一変し、下狛の大北城にいた西軍大内政弘の軍勢(甲冑兵3百.雑兵数千)が南都攻めを目指し、10月12日に突如行動を起こしました。

東軍(畠山政長)の支援についた伊賀の仁木氏軍や大和の宝来氏らも木津氏の援軍として戦うが敗れ、木津氏らは没落、木津の町並みも遂に炎上し、般若寺まで焼亡しました。
(尚、大内軍の南都への侵攻は大和の西軍古市氏の奔走で阻止できたと云われています。)

河内国は現管領畠山政長の領国ですが、義就は入国後河内を瞬く間に占領し、大和も押さえて、(東軍の被官らを没落させる)大成功を収めました。他方京都では西軍の武将朝倉孝景は東軍派になっており、義就が抜けた西軍は解体寸前となり、11月に美濃守護土岐成頼は不運な足利義視を伴い敗軍の将のごとくすごすごと美濃へ帰って行きました。

西軍の雄大内政弘は幕府に降伏して、改めて周防.長門.豊前.筑前の4ヶ国守護を将軍より安堵されて、同じく11月11日に京を出発して帰国の途に就きました。
これで西軍の有力武将は全て京から退きました。応仁.文明の乱は11年間をもって終結したのです。だから、形式上は東軍が勝利したことになりました。

大内軍の帰国で木津はまた平穏になりましたが、長期にわたる戦乱で京都の町はほとんどが焼け野原になってしまいました。その上将軍の権威もすっかり弱くなり京に隣接する山城国ぐらいまでしか将軍の意向が伝わらなくなりました。

しかし、山城国ではその後も畠山政長と義就の両家の紛争が繰り返してつづき、南山城の国人らによる山城国一揆が後に起きるのです。他方京都からの京文化が日本各地へ伝播しましたが、同時に地方へ疎開した人々により新しい文化も取り入れられ、日本の中心都市京都で京文化が再び芽生えさらに発展して千年の歴史を刻んできたのです。(完)

参考資料:木津町史  本文篇  木津町、  山城町史  本文編  山城町。
     京都の歴史  2  中世の展開  熱田 公 著
     乱世京都  上  明田 鉄男 著

2017年02月27日

◆木津と応仁の乱 続編 B

白井 繁夫


応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)までの11年間と言われていますが、
最も激しい合戦は初期の2年間です。この間、洛中では東軍(細川勢)と西軍(山名勢)の戦闘に巻き込まれた数多の神社.仏閣は焼亡し、その上、戦乱に紛れて足軽集団が公家屋敷や町家にまで放火し、掠奪するため、京は治安が大変乱れた焼け野原の都と化しました。

その後の洛中では、両軍ともにゲリラ戦などの小規模な衝突程度の戦いとなり、戦乱はむしろ地方の地域へと拡大していきました。

応仁3年4月には、改元して文明元年となりました。しかし、東軍(細川方)は将軍.嫡子義尚と天皇も取り込んでおり、「官軍」と称していますが、西軍(山名方)は将軍の弟(義視)を引入れただけです。

だから山名宗全は南朝の後胤.小倉の宮(南朝最後の後亀山天皇の孫)の御子を西軍の総師として迎えようと思うのです。そこで大和高市郡の越智邸から、文明3年(1471)7月に京の安山院(尼寺)へ御子を迎え入れたのです。

ところが、西軍の有力武将畠山義就の領国(河内.紀州)と南朝の勢力地とが重なるため、義就の強い反対にあい、その後御子を上手く利用も出来ず、宗全は後南朝勢の小倉宮皇子として西軍の西陣南帝としたが、御子の存在そのものも不明になってしまいました。

応仁2年以降、洛外に拡大しはじめた戦乱は、当時の日本における2大都市「京都と奈良」を結ぶ重要な地域「山城国」の争奪戦の渦に、木津川地域を巻き込んで行くのです。大和では長年筒井.十市氏等と古市.越智氏等の両派が争ってきましたが応仁の乱でもそれぞれが東軍細川方の畠山政長と西軍山名氏の畠山義就方に属していました。

「山城国の十六人衆」は応仁の乱開戦以来、細川勝元の被官として合戦に動員されており、出陣の際には兵糧米に宛てるため自身の支配地以外の興福寺や石清水八幡などの荘園も押領していたのです。

他方、洛外に拡大し山城乙訓郡.摂津.河内に勢力を強めていた畠山義就.大内政弘の西軍の大内軍が文明2年(1470)7月南山城に進出してきました。

大軍で押し寄せた大内軍は先ず東軍の宇治大路氏を7月22日に降参させ、山城国十六人衆の内12人も瞬く間に降参させました。残ったのは木津.田辺.狛.井出別所氏の4氏でした。この間、西軍方の椿井氏までが古市胤栄を頼り大和国へ没落(避難)しました。

7月25日、大内氏の大軍は杉備中守.弘中上総守を両大将にして田辺郷(京田辺市)を強襲し、田辺郷の武士(荘官:下司.公文の2人:田辺氏.武藤氏)は支えきれず自ら城を焼き没落したと云われています。

田辺郷の合戦には狛下司.木津氏も参戦するが、戦いに敗れた狛氏は隠居して子息を降人に出して解決しました。木津氏も同じく子息に家督を譲り降人に出したのです。田辺郷の寺や民家はほとんど焼亡してしまうが、ただ天神宮(棚倉孫神社)だけが焼け残ったと云われています。

今まで南山城は東軍が優勢でしたが、大内軍の進攻で大部分が大内氏の支配下になり、平野部ではわずかに木津だけが東軍の手に残る状況となりました。東軍は西軍に対抗するため、8月末、伊賀国守護仁木氏が伊勢国の関.長野氏の軍勢を率いて木津に進出してきました。

9月には筒井派の狭川氏が東軍(仁木氏)の支援に入り、大和の古市勢は大内軍に加わって
合戦が起きましたが、東軍が木津へ引き上げて、大内.古市両氏により守備された下狛の城は以後、戦乱がおさまる文明9年11月まで西軍が支えていたのです。

文明3年(1471)4月、大内軍と畠山義就軍は木津の占領を目指し、古市氏とも連絡を取って、木津川の対岸(北側)の上狛、下流(西側)の吐師.相楽等に火を放ち木津の小寺口まで押し寄せたが、本隊は木津川を中に挟んだ対陣状態で、結果的に、木津の町は焼けずに済みました。

この時、西軍(大内軍)の軍勢数はあまり多くなく、翌日木津の東軍からの反撃で合戦は鎮静化しました。しかし、この戦闘中の火災で、数多の寺院や民家が焼亡し、特に奈良時代の行基が開祖と云われる泉橋寺(木津川市山城町)の門前に建つ地蔵堂も炎上しました。

この地蔵堂には徳治3年(1308)9月9日般若寺(奈良市)の真円上人が造立供養した日本一大きい石造地蔵菩薩坐像(高さ5.88m)が祀られていたのです。被災した地蔵堂跡の地蔵尊は元禄年間(1688-1703)損傷部を修復して露佛となった状態のまま祀られています。

また、文明3年(1471)には、将軍義政から越前守護職の補任を得た「朝倉孝景」は斯波義廉の有力家臣でしたが、東軍に寝返り、5月に京の戦乱地から領地を治めるため、越前へ復帰してきたのです。

越前では(西軍)斯波義廉や重臣の越前守護代甲斐敏光と合戦になりましたが、越前の国人達(斯波義敏側)の支援を得た朝倉孝景軍が実力で越前一国を掌中に収めてしまいました。

文明4年(1472)に入ると、南山城の両軍の合戦は下狛大北城の攻防後、東軍が退きしばらくは平静になりました。京においては、開戦以来6年ともなると、兵士たちもさすがに少々厭戦的になって来たのです。

ところが、国元では反乱や、隣国からの侵略、農民の一揆などと気がかりなことが発生しており誰のための戦いか各守護や被官たちも動揺を感じるようになりました。

そんな状況の折、西軍の山名宗全から東軍の細川勝元に講和の提案がありましたが、細川方の武将赤松政則が頑なに反対したのです。(赤松氏は嘉吉の乱後、山名宗全に奪われた領地(播磨など)の奪回のため、東軍に参加して、宗全打倒を目指して戦ってきたのです。)

超有力管領畠山家の義就と政長が西軍と東軍の武将に分かれて領地をめぐる激烈な家督争いを続けてきており、やはり講和には断固反対でした。

しかし、文明5年には誰も予期出来なかった事態が発生するのです。(つづく)

参考資料: 木津町史  本文篇  木津町、 山城町史  本文編  山城町
      京都の歴史  2  中世の展開  熱田 公 著
      乱世京都  上  明田 鉄男 著

2017年02月25日

◆木津と応仁の乱 続編

白井 繁夫



木津と応仁の乱をしばらく休ませて貰い間延びしてしまいました。少し遡りますが、前回の概要を兼ね、再度箇条書きします。

長禄.寛正の飢饉(ちょうろく.かんしょうのききん:1459−1461年)中世最大の災害が起こり世は乱れ、京になだれ込んだ流民らから多くの餓死者も発生し、各地には土一揆も起こりましたが、8代将軍足利義政(よしまさ)は政に余り関心を寄せないため、将軍家の権威は弱まって来ました。

三管領家随一の名門畠山家においても、畠山持国には嫡子がいないため、家督をめぐり、庶子の畠山義就(よしなり)と甥:弟の子:政長(まさなが)との間で激烈な抗争が繰り返されるようになり、内紛に乗じ、畠山家の勢力を少しでも弱めようとして細川勝元(かつもと)は政長側に付きました。

京に密接する南山城や大和地方等においても、守護大名家(管領家)の被官らもおのずから抗争に組み込まれて行きました。


大和では嘉吉の乱後、復帰した畠山持国の支援を受けて、古市.豊田氏が官符衆徒となるが、長禄3年(1459)5月、筒井順永、成身院光宣は勝元の助言を得て将軍義政により赦免されました。更に、順永は勝元の援軍も得て、大和に入国し、官符衆徒の棟梁に復帰しました。


畠山弥三郎の死後、弟の政長を勝元は擁立したが、他方の義就は寛正元年(1460)に出仕が停止され、畠山政長に対し将軍義政は家督を安堵しました。畠山義就は遂に朝敵として追討されて、河内嶽山(大阪富田林市)に籠城する事になりました。

義就はその後4年間もの長期籠城戦に耐えましたが、寛正4年4月落城し、紀州から吉野へと逃れました。越智.古市勢も山城から引き揚げ、勝元側の狛下司を含む山城十六人衆は帰還出来しました。

嘉吉の乱後、赤松家の所領を得て、勢力を拡大して来た山名持豊(宗全)は義就の嶽山合戦の奮戦を聞きいたく感動して、義就を味方に引入れ、細川勝元に対抗することとなりました。
(赤松家の当主則尚:のりひさは享徳3年、義政より赦免され細川勝元の傘下に入る。)

将軍義政は寛正5年(1464)弟を還俗させて、将軍後継者「足利義視:よしみ」としましたが、夫人の日野富子が翌年男子義尚(よしひさ)を出産しました。富子は我が子を将軍にと思い四職家の実力者山名宗全を頼り、将軍後継者問題も分裂を招く原因になりました。

文正元年(1466)12月25日管領畠山政長と家督争いをしている義就が河内国から兵を伴い、上洛して千本釈迦堂に宿りました。山名宗全の助力により義就の罪が解かれました。
翌年正月二日に出仕して将軍義政に対面出来ました。長禄4年(1460)家督を廃されて以来です。この時、義就は河内を含む三ヵ国の守護職(しゅごしき)を安堵されたのです。

文正元年末の宗全の対勝元側への仕掛けより、翌正月の諸策が大乱の導火線へ繋がります。

文正二年(応仁元年:1467)の年明けは、山名宗全と細川勝元との対立抗争を生む暗雲の状況になりました。正月二日の椀飯(おおばん)の儀:将軍が管領邸を訪問する武家の慣例行事:の重要行事なのに、管領政長邸への将軍の御成(おなり)は突如中止されました。

他方、畠山義就は山名宗全邸を借り正月五日に将軍を招き大宴会をしますが、政長は同六日に屋敷の引渡しを命じられました。その上、八日に政長は管領職も解かれ、山名宗全側の斯波義廉(しばよしかど)が管領に補任(ぶにん)されました。(両畠山の勢力の逆転です。)


三管領家の斯波義健(よしたけ)に嫡子がなく、家督をめぐり義敏(よしとし:細川側)と義廉(山名側)との分裂抗争も起きていました。山名宗全は富子に足利義尚の後援依頼を受けており、富子(義尚)を絡め?勝元の勢力を剥ぐため、宗全.義就がクーデター計画を企てたか。

細川勝元は京極持清(もちきよ).赤松政則(まさのり)等と畠山政長を援護しようとするが、将軍家に止められ、政長が17日に上御霊神社に陣を張っても、援軍を出せなかった。
翌日早朝からの畠山両家の戦いは終日の私合戦となり、畠山政長が京を退くこととなった。
(この御霊林の合戦こそ、以後11年にわたる応仁の乱の始まりと言われています。

将軍義政は弟の義視を後継にと強引に引き出したが、実子義尚が誕生し妻富子に泣かれると継嗣問題は宙に浮いた状態となった。山名宗全は前年末来の企画がうまく行き、勝元の勢力を弱めたと思い、宗全邸では連日のように宴会や催事が開かれました。


3月3日の節句祝賀には山名宗全.斯波義廉.畠山義就等山名側諸大名が幕府へ出仕しまし
たが、細川勝元側はだれ一人として顔を見せませんでした。この異常な状態を境に、宗全と勝元と双方の対立.緊張が一気に加速しました。

文正2年は正月から、管領家の争いがあり、また近年はずっと飢饉や、疫病の蔓延、農民の台頭による土一揆などがつづき、3月5日には年号を文正から応仁に改元しました。


5月に入ると両勢力の緊張がさらに高まり、細川方.山名方の双方がともに同20日には
軍勢の招集をしました。東軍の細川勝元方は細川一族(讃岐.和泉.備中等の守護)、近江
半国の守護京極持清、赤松家当主赤松政則、若狭守護武田信賢、管領家の斯波義敏と畠山政長など。大和では筒井一族が味方し、山城では木津氏.田辺氏.狛下司を含む山城十六人衆。


両軍は堀川を挟み東側に勝元邸(東軍の本陣)、西側に宗全邸(西軍の本陣)があり、この屋形の所在地から東軍.西軍と称したのです。山名宗全方(西軍)は山名一族(伯耆.因幡.備後等の守護)、美濃守護土岐成頼、近江半国守護六角高頼、管領家の斯波義廉、畠山義就ら11大名20ヶ国勢が京に集まり、少し遅れ周防等の守護大内政弘が加わりました。大和では越智氏、古市氏など。山城では椿井氏、斯波氏の被官中黒氏など。

当時の京の人口は約20万人と言われていましたが、東軍(細川方)の兵合計約16万1千5百、西軍(山名方)の兵約11万6千と、京の人口より多くの兵が京都に集められました。

応仁元年(1467)5月26日早朝、東軍から西軍守護の各陣地へ攻撃が開始され、洛中の民家も寺社も、27日、28日と続く激しい戦火の炎に包まれてしまいました。両軍の全面戦争に将軍義政は停戦を命じますが、誰も聞く耳を持ちません。


西軍には管領斯波義廉がおり、日野富子は山名派(西軍)です。細川勝元は前回宗全のクーデターにしてやられたが、今回は将軍義政の取り込みに成功しており、6月、義政は妻の富子の反対を退けて将軍の牙旗(がき:将軍の居場所に立てる旗)を勝元に授けました。

このことは東軍が将軍派であり、西軍は反乱軍となり、両軍の性格がはっきりと形式上区別されました。即ち、西軍の諸将は管領や守護などの将軍任命の地位や身分を失うのです。
初期に戦闘準備が出来ていた東軍は、将軍派となって、更に力を得て、6月.7月とやや優勢に戦闘を進めることが出来ました。

この間に、各地から武将が次々と到着してきましたが、その中で西国最大の雄大内政弘(周防.長門.豊前.筑前の守護)が伊予の兵や瀬戸内の海賊衆も加えて約2万の大軍で8月に上洛して西軍に加わりました。

大内氏は細川氏.山名氏より格は下ですが、一大派閥を形成している守護大名です。大内氏の参戦により、中部日本から北九州地域までの諸国の軍勢が京都に集結して東西両軍のどちらかに分かれて、戦うことになったのです。

応仁の乱は緒戦において細川方が優勢でしたが、大内軍が参戦して西軍は勢いづき、9月の
東岩倉山の合戦、10月3日.4日の大激戦となる相国寺の合戦などで西軍が優勢となる。
初年の戦いで、洛中の大半が焼失し相国寺.南禅寺も焼失して花の御所も被害を受けたのです。

東軍は幕府を中心とした一角に追い込まれて、戦況はそのまま膠着状態となりました。
洛中の兵、両軍合わせると30万弱になりますが、この数の大多数が足軽兵です。しかし、この足軽たちが、前々回の序文でも触れましたが、放火し、掠奪するから洛中は乱れ、治安が悪化し、応仁の乱の初年から祇園祭りなどが中止となりました。 

◆参考資料: 木津町史  本文篇  木津町、  山城町史  本文編  山城町
      京都の歴史  2   中世の展開  熱田 公 著



2017年02月24日

◆木津と応仁の乱(序)

白井 繁夫



古代から政治の中心地である大和と京、難波を木津川の水運など利用して結ぶ泉津(木津)が歴史の表舞台に登場して最も輝いた時は、奈良時代に聖武天皇が恭仁京(くにきょう)へ遷都(天平12年:740年)した時期です。 

木津川市は地理的に奈良と京都の国境にあり、泉津(木津)が交通の要衝であることから、各時代の表裏いずれかの歴史の舞台に関わってきました。

室町時代におきた応仁の乱についても、京の都に近い南山城は戦乱の影響を避けて通ることは出来ませんでした。

例えば、南山城が東軍(細川勝元側)の時、西軍(山名宗全側)の大内軍が木津川の右岸まで進攻して来て、足軽兵等によって地蔵堂や各寺院が焼き払われました。下記一例です。

奈良時代の高僧、行基が木津川に架けた泉大橋を守護、管理するため建立した泉橋寺の門前に、石造の座像としては日本で一番大きい地蔵石仏(4.58m高)を祀る地蔵堂【徳治3年(1308)上棟、供養:願主:般若寺の真円上人】が文明3年(1471)応仁の乱の影響により焼失し、石仏も焼損しました。(その後、江戸時代の元禄3年石仏の頭部と両腕は修復したが、現在も地蔵石仏は露座のままです。)

話題が少し外れますが、過日(5月1日)、蕪村生誕三百年記念シンポジウムが大阪市立
都島区民センターで開催され、俳句のことは全く不勉強ですが蕪村、芭蕉は木津川にも縁のある俳人と聞いたことを思い出し、知人と講演会に参加しました。

まず驚いたのは、会場の定員をオーバーする参加者のため主催者が別途椅子を用意したこと、各講師の講演内容はそれぞれが個性あふれる特徴をもち、俳句を何も知らない私でも居眠りどころか最後まで有意義な時間を過ごせました。

例えば、蕪村について、与謝蕪村の与謝は幼少期に母に連れられて行った母の故郷(丹後与謝野)からのネーミング、南宋画が生活の糧となり、写実的な俳句をも創造した。

江戸時代前期:木津川の上流三重県の伊賀上野では俳聖と言われる、俳諧師:松尾芭蕉の故郷がある。江戸中期:木津川が合流する淀川の下流の都島区の毛馬には、与謝蕪村の生誕地があります。

蕪村は芭蕉、一茶と並び称される巨匠であり、しかも江戸俳諧中興の祖、俳画の創始者でもある。明治時代に正岡子規によって蕪村が真に大きく評価されたこと等。

また、奥の細道図巻で、蕪村が画いた絵に記述した文章の字体にまで調和のとれた美があるなど、いろんな角度からの各講師の講演に感動しました。

話題をもとに戻しましょう。

応仁の乱は1467年(応仁元)から1477年(文明九)までの11年間にもわたる大乱で、京都を中心舞台とする戦乱から、京都の市街のみならず各地方も巻き込んだ大戦乱となり、影響を受けた地方も、灰燼となりました。

この京都の歴史を変えた大事件(戦乱)は室町幕府の弱体化こそ大きな原因の一つです。  しかし、他のいろいろな原因も重なって大戦となり、京都の市街が焼け野原と化して、再び荒れ野から新しい京都の文化が芽生え、1000年の都、京都が復活したのです。

飢饉や疫病の流行りと政治の乱等で世が乱れ、大乱になって行った原因は足利将軍の継嗣問題と守護大名の家督相続争い、管領(細川氏)と所司(山名氏)の対立などと、一般的にはよく言われています。

これらの原因を簡略化して記述しながら、地方の木津(南山城)が戦乱に組み込まれた状況をも、折り込み話題を進めてみたいと思います。

足利尊氏が1336年京都に開いた武家政権は三代将軍足利義満の時、京都北小路室町に花の御所(御殿)を造営し最盛期をむかえました。以後、人々はこの屋敷兼政庁を地名の室町第から室町幕府と称しました。

義満から4代義持、5代義量(よしかず)と親から子供へ将軍職が譲られました。ところが
5代義量は酒色に溺れ19歳の若さで継嗣(子息)なく、病死しました。親(4代義持)が代行しましたが、次期将軍を指名せず、遂に臨終の床に伏せたので、義持の兄弟4名の中から、くじ引により、6代義教(よしのり)が選ばれました。

6代将軍義教は天台宗に出家して天台座主にもなっており将軍就任を固辞したが、管領等の
説得により承諾したのです。しかし、くじ引将軍と陰口され、将軍の権威も失墜しました。

義教は将軍の権威回復を得るため、独裁政治を採り、さらに強化して恐怖政治と云われる政策(守護の家督を交替、公家.僧侶の追放など)を実施し、次は播磨守護赤松満祐が危ういと云う噂までたちました。

幕府の侍所の長官でもある赤松氏は1441年(嘉吉元)6月24日、西洞院二条の自邸での饗宴に将軍義教を招き、管領細川持之、侍所長官山名持豊(後の宗全)らがいる席で将軍を先制して殺害した。(細川氏も山名氏もなにもせず、大急ぎで現場を離れて立ち去った。
赤松氏は自邸を焼き領国へ逃げたが追討者はなしの状態、将軍の自業自得の犬死?)

独裁者(義教)死後の混乱(有力守護の思惑)などで、追討軍の出発は20日後管領細川氏
一族を中心とした大手軍が京都を立つが戦意はあまりなく、さらに遅れて出発した搦手軍(からめてぐん)の山名持豊軍も初期は大手軍の戦意なき状況同様でしたが、一転して闘志を燃やし、領国の但馬から播磨へ入り9月10日、赤松満祐の城山城(きのやま)を攻め自害させました。

将軍暗殺から赤松満祐自害までの合戦を「嘉吉(かきつ)の乱」と言い、山名氏一族はこの戦功により赤松氏の領国(播磨.美作.備前)の守護を獲得し、3代将軍義満に追討され勢力が大削減した「明徳の乱(1391)」の汚名をすすぎ、勢力も回復しました。

一方、赤松氏一族は山名氏らの弾圧を受けながらも、赤松則尚が再興運動を起こして享徳3年挙兵したが翌年山名持豊に討伐される。

その後、細川氏の支持も得て、満祐の弟の孫、赤松政則(まさのり)が長禄の変で神璽奪還(1458年8月)の功もあり、将軍義政から家督として家の再興を許されました。(嘉吉の乱の赤松氏が許され、山名持豊は激怒し、隠居して?以後宗全と名乗る)

山名宗全は幕府を二分する派閥の領袖と言われる勢力となり、管領細川勝元と対立を深め、勝元も宗全の勢力を削ぐことに腐心していました。将軍家の権威は弱体化して行き、その上、有力守護大名家の畠山氏や斯波氏の家督相続争いが起きますが、将軍家も継嗣問題を抱えており、政権が不安定になり大乱が起きる要素がいくつも吹き出てきました。

嘉吉元年は全国各地で広汎な一揆の蜂起があり、京都へ攻め込んだ人数は十数万と云われる規模でした。室町幕府も耐え切れず最初の徳政令を発布しました。

長禄元年(1457)の徳政一揆の時は南山城の土一揆が京都へ攻め込み、三十三間堂へ達した時も、細川勝元は木津.田辺の両被官を中心に南山城の被官達を宇治橋に集め防御を命じたが、宇治の民家まで焼き払われて、法性寺から三十三間堂へ10月29日先遣隊7〜8百人が夕方到着しました。

11月1日南山城の土一揆は竹田.九条の京都南郊の土一揆と合流して京中へ入り、京の
酒屋.土倉(土蔵を構えた有力質屋)などの高利貸業者の倉を開かせました。(つづく)

参考資料: 木津町史  本文篇  木津町
      京都の歴史 2 中世の展開 内乱の時代  熱田 公著

2016年11月24日

◆木津と応仁の乱 続編B

白井 繁夫



応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)までの11年間と言われていますが、
最も激しい合戦は初期の2年間です。この間、洛中では東軍(細川勢)と西軍(山名勢)の戦闘に巻き込まれた数多の神社.仏閣は焼亡し、その上、戦乱に紛れて足軽集団が公家屋敷や町家にまで放火し、掠奪するため、京は治安が大変乱れた焼け野原の都と化しました。

その後の洛中では、両軍ともにゲリラ戦などの小規模な衝突程度の戦いとなり、戦乱はむしろ地方の地域へと拡大していきました。

応仁3年4月には、改元して文明元年となりました。しかし、東軍(細川方)は将軍.嫡子義尚と天皇も取り込んでおり、「官軍」と称していますが、西軍(山名方)は将軍の弟(義視)を引入れただけです。

だから山名宗全は南朝の後胤.小倉の宮(南朝最後の後亀山天皇の孫)の御子を西軍の総師として迎えようと思うのです。そこで大和高市郡の越智邸から、文明3年(1471)7月に京の安山院(尼寺)へ御子を迎え入れたのです。

ところが、西軍の有力武将畠山義就の領国(河内.紀州)と南朝の勢力地とが重なるため、義就の強い反対にあい、その後御子を上手く利用も出来ず、宗全は後南朝勢の小倉宮皇子として西軍の西陣南帝としたが、御子の存在そのものも不明になってしまいました。

応仁2年以降、洛外に拡大しはじめた戦乱は、当時の日本における2大都市「京都と奈良」を結ぶ重要な地域「山城国」の争奪戦の渦に、木津川地域を巻き込んで行くのです。大和では長年筒井.十市氏等と古市.越智氏等の両派が争ってきましたが応仁の乱でもそれぞれが東軍細川方の畠山政長と西軍山名氏の畠山義就方に属していました。

「山城国の十六人衆」は応仁の乱開戦以来、細川勝元の被官として合戦に動員されており、出陣の際には兵糧米に宛てるため自身の支配地以外の興福寺や石清水八幡などの荘園も押領していたのです。

他方、洛外に拡大し山城乙訓郡.摂津.河内に勢力を強めていた畠山義就.大内政弘の西軍の大内軍が文明2年(1470)7月南山城に進出してきました。

大軍で押し寄せた大内軍は先ず東軍の宇治大路氏を7月22日に降参させ、山城国十六人衆の内12人も瞬く間に降参させました。残ったのは木津.田辺.狛.井出別所氏の4氏でした。この間、西軍方の椿井氏までが古市胤栄を頼り大和国へ没落(避難)しました。

7月25日、大内氏の大軍は杉備中守.弘中上総守を両大将にして田辺郷(京田辺市)を強襲し、田辺郷の武士(荘官:下司.公文の2人:田辺氏.武藤氏)は支えきれず自ら城を焼き没落したと云われています。

田辺郷の合戦には狛下司.木津氏も参戦するが、戦いに敗れた狛氏は隠居して子息を降人に出して解決しました。木津氏も同じく子息に家督を譲り降人に出したのです。田辺郷の寺や民家はほとんど焼亡してしまうが、ただ天神宮(棚倉孫神社)だけが焼け残ったと云われています。

今まで南山城は東軍が優勢でしたが、大内軍の進攻で大部分が大内氏の支配下になり、平野部ではわずかに木津だけが東軍の手に残る状況となりました。東軍は西軍に対抗するため、8月末、伊賀国守護仁木氏が伊勢国の関.長野氏の軍勢を率いて木津に進出してきました。

9月には筒井派の狭川氏が東軍(仁木氏)の支援に入り、大和の古市勢は大内軍に加わって
合戦が起きましたが、東軍が木津へ引き上げて、大内.古市両氏により守備された下狛の城は以後、戦乱がおさまる文明9年11月まで西軍が支えていたのです。

文明3年(1471)4月、大内軍と畠山義就軍は木津の占領を目指し、古市氏とも連絡を取って、木津川の対岸(北側)の上狛、下流(西側)の吐師.相楽等に火を放ち木津の小寺口まで押し寄せたが、本隊は木津川を中に挟んだ対陣状態で、結果的に、木津の町は焼けずに済みました。

この時、西軍(大内軍)の軍勢数はあまり多くなく、翌日木津の東軍からの反撃で合戦は鎮静化しました。しかし、この戦闘中の火災で、数多の寺院や民家が焼亡し、特に奈良時代の行基が開祖と云われる泉橋寺(木津川市山城町)の門前に建つ地蔵堂も炎上しました。

この地蔵堂には徳治3年(1308)9月9日般若寺(奈良市)の真円上人が造立供養した日本一大きい石造地蔵菩薩坐像(高さ5.88m)が祀られていたのです。被災した地蔵堂跡の地蔵尊は元禄年間(1688-1703)損傷部を修復して露佛となった状態のまま祀られています。

また、文明3年(1471)には、将軍義政から越前守護職の補任を得た「朝倉孝景」は斯波義廉の有力家臣でしたが、東軍に寝返り、5月に京の戦乱地から領地を治めるため、越前へ復帰してきたのです。

越前では(西軍)斯波義廉や重臣の越前守護代甲斐敏光と合戦になりましたが、越前の国人達(斯波義敏側)の支援を得た朝倉孝景軍が実力で越前一国を掌中に収めてしまいました。

文明4年(1472)に入ると、南山城の両軍の合戦は下狛大北城の攻防後、東軍が退きしばらくは平静になりました。京においては、開戦以来6年ともなると、兵士たちもさすがに少々厭戦的になって来たのです。

ところが、国元では反乱や、隣国からの侵略、農民の一揆などと気がかりなことが発生しており誰のための戦いか各守護や被官たちも動揺を感じるようになりました。

そんな状況の折、西軍の山名宗全から東軍の細川勝元に講和の提案がありましたが、細川方の武将赤松政則が頑なに反対したのです。(赤松氏は嘉吉の乱後、山名宗全に奪われた領地(播磨など)の奪回のため、東軍に参加して、宗全打倒を目指して戦ってきたのです。)

超有力管領畠山家の義就と政長が西軍と東軍の武将に分かれて領地をめぐる激烈な家督争いを続けてきており、やはり講和には断固反対でした。

しかし、文明5年には誰も予期出来なかった事態が発生するのです。(つづく)

参考資料: 木津町史  本文篇  木津町、 山城町史  本文編  山城町
      京都の歴史  2  中世の展開  熱田 公 著
      乱世京都  上  明田 鉄男 著