2019年12月11日

◆韓国の思想的内戦 〜 

    伊勢雅臣


The Globe Now: 韓国の思想的内戦 〜『反日種族主義』を読む

 韓国内では、朱子学的全体主義勢力と自由民主主義文明勢力との命運を
かけた政治的・思想的内戦が展開されている。
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■1.朱子学的全体主義勢力と自由民主主義文明勢力との戦い

 10月3日、9日と二度にわたって、文在寅政権に反対する50万人規
模のデモがソウル中心部に発生した。韓国の保守リーダーたちは、これを
「文明勢力」と呼んでいる。自由、人権、民主主義、市場経済、法治を信
条とする近代文明を守ろうという勢力である。

 彼らが反対している文在寅政権は、韓国を日米から離反させ、北朝鮮、
中国の仲間入りさせようとしている。中朝とも中華型の全体主義体制を
とっており、皇帝独裁を支える伝統的な朱子学と親和性が高い。

__________
つまり、いま韓国で展開している戦いは朱子学的全体主義勢力と自由民主
主義文明勢力との体制の命運をかけた、妥協が不可能な戦いなのだ,[1]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 とは、麗澤大学客員教授・西岡力氏の総括である。韓国内だけではな
い。日米 対 中朝の争いも、同様に両勢力の命運を賭けた戦いである。こ
れに負ければ、我々日本国民も自由、人権、民主主義を失う。そういう戦
いが目の前で展開されているのである。

 この「朱子学的全体主義勢力」の本質を学問的に明らかにした『反日種
族主義』[2]が、韓国で10万部を超えるベストセラーとなり、日本語版
も発売2週間で20万部を超えている。

 これを読むと、韓国内の前近代的な「種族主義」、すなわち思想的文化
的に閉ざされた集団に閉じこもり、他集団を敵とする古代呪術的体制が学
問的に解剖されており、こういう集団には、史実も学問的議論も国際常識
も通用しない事がよく判る。

 こういう種族主義的勢力に対抗して、生命の危険をかけても学問的に正
しい事実を伝えようとする著者・李栄薫氏のような「文明勢力」がいるこ
とを知ると、少しは希望も湧いている。


■2.「日帝をどのように批判したらいいのか分からなくなる」

『反日種族主義』では、「従軍慰安婦」「徴用工」「植民地化」など韓国
の訴える「反日」について、史実を踏まえて、その「嘘」が暴かれてい
る。講義を聞いた韓国の学生たちは次のような感想を漏らすという。

__________
「今まで教科書で習って来たことが事実ではないという点を受け入れる
と、日帝(JOG注: 日本帝国主義)をどのように批判したらいいのか分から
なくなる」
「日帝の植民地支配を正当化してしまうのではないかと怖くなる」[2, 827]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この感想自体が、韓国での研究も教育も非学問的なレベルのものである
事をよく現している。というのは学生たちは「日帝は批判すべきもの」と
いう前提を信じ込んでいるからだ。すなわち「日帝とは悪魔のように呪詛
すべきもの」という「呪術的信仰」が暗黙の前提となっている。これがま
さに「反日種族主義」の正体である。


■3.「日帝の所業に間違いない」

「呪術的信仰」の典型が「鉄杭騒動」である。日本は朝鮮を併合した後、
土地調査のため、朝鮮の歴史上初めての近代的測量を行った。その過程で
測量基準点の標識を朝鮮全土の高い山に設置した。

 朝鮮では、土地には人体のように気脈が流れているという古代中国起源
の風水の自然観が信じられていた。近代的測量の目的も技術も知らない当
時の朝鮮人たちは、大地に打ち込まれた鉄杭を見て、「倭人たちが朝鮮に
人材が出ないように穴(急所:つぼ)を塞ぎ回っている」と噂し、それを
広めた。住人たちは夜、山に登っては、この棒を抜いて、金槌で砕いたと
いう。

 この迷信を国策に利用したのが、金永三政権が1995(平成7)年2月に始
めた「光復50周年記念力点推進事業」だった。大統領の指示を受けた内
務省が全国の地方自治体に公文を送り、日帝が打ち込んだ鉄杭を見つけて
抜くよう指示をした。6ヶ月間で全国から439件の申告があり、うち日
帝が打ち込んだ鉄杭だとして除去されたものは18本だった。

 当時、『月刊朝鮮』の記者だった金容三氏は、この18本の鉄杭除去現
場を訪ね、事実を調査した。慶尚道亀尾市の金烏市で除去された鉄杭を鑑
定したのは、易術人・閔(ミン)スンマン氏だった。彼は「金烏山に鉄杭が
打たれている場所は風水学的に明堂(優れた場所)だ」と言った。「龍が天
に向かって立ち上がる場所に仏が横たわっており、その額の部分に鉄杭が
打たれていた」と言う。

 金氏が「仮にそうだとしても、この鉄杭が日帝が打った、という科学的
で客観的な証拠は何ですか」と訊くと、彼は「証拠はないが、金烏山は風
水的観点からして非常に重要なので、日帝の所業に間違いないと推定し
た」と答えた。


■4.「日本人は我々民族の精気と脈を抹殺しようと」

 忠清北道永同郡で除去された鉄杭に関しては、郡庁の担当公務員が「日
帝が打ったと言う根拠がなく、そうなのかどうなのか迷いながら抜いた」
と語った。しかし、同年6月5日午後、盛大な山神祭とともに除去され
た。その行事は、日本のNHKやTBSも取材に来て、撮影したという。

 同じ地方の永春面(JOG注: 面は日本の村に相当)でも3本の鉄杭が発見
され、情報提供者たちは「1984年頃、永春面で抗日義兵と日本軍の間で大
きな戦争が起こった。それで、抗日運動が再び起こらないように、日帝が
将来、将軍の生所となる場所に鉄杭を打ち込んだのだ」と主張した。

 永春面の前・面長であった禹ゲホン氏は、「それは日帝が打ったもので
はなくて、解放後住民たちが北壁の下に舟の綱を結ぶために打ち込んだも
のだ」と証言した。禹氏は「郡庁の人たちにこの事実を何度も説明したけ
れど、どんなに話をしても聞き入れてくれず、日帝が打った鉄杭に化けて
しまった」と、虚しく語った。

 江原道揚口郡では3本の鉄杭が除去された。それは表面に錆もなく、あ
まりにも新しくきれいなので、最近作られたものに間違いないと、金氏は
思った。もしも日帝の仕業でなかったらどうしようかと、と心配した人々
が「専門家の考証を受けた後で除去するのがよさそうだ」という意見を出
したが、無視された。

 この鉄杭も、マスコミの大々的な注目を浴びながら引き抜かれ、ソウル
国立民族博物館で開かれた光復50周年記念の一部として展示された。そ
こには次のような説明文がつけられた。

__________
 民族抹殺政策の一環として、日本人は我々民族の精気と脈を抹殺しよう
と、全国の名山に鉄杭を打ったり、鉄を溶かして注いだり、炭や瓶を埋め
た。風水地理的に有名な名山に鉄杭を打ち込み、地気を押さえ人材輩出と
精気を抑え付けようとしたのだ。[2, 2974]
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■5.「祖先から受け継いで来た伝統文化に引きずられた結果」

 住民たちが舟の綱を結ぶために打ち込んだ鉄杭まで持ち出して、それを
「日帝」が「民族の精気と脈を抹殺」するために打ったものだとする。何
の証拠もなく、自分たちの古代的信仰をそのまま日本への糾弾に使う。そ
れは事実ではない、という地元の証言も聞き入れない。

 しかも、それを首都の国立民族博物館という、学問的な権威が必要とさ
れる場所で堂々と語る。ここには、近代的学問の論理的な姿勢はまるでな
い。そしてそれがいかに恥ずかしい事か、という認識もない。

 李永薫教授は、韓国の教科書を執筆した歴史家は、日帝には「土地だけ
でなく食料も、労働力も、果ては乙女の性も収奪された、と教科書に書い
てきました。その全てがでたらめな学説です」と述べている。その精しい
内容は実証的な事実によって『反日種族主義』で検証されているが、「で
たらめな学説」が横行している理由について、こう述べる。

__________
 歴史家たちがでたらめな学説を作り出したのは、何かしらの邪悪な意図
からというよりは、無意識による、幼い頃から彼らが呼吸して来た、祖先
から受け継いで来た伝統文化に引きずられた結果だと言えます。[2, 556]
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 すなわち「鉄杭」神話は、風水説という「伝統文化」に引きずられて生
み出され、広められたものである。そこには史実も合理性も学問的検証も
ない。ただ空理空論で世界のあるべき姿を追求した朱子学的世界観であ
る。李栄薫教授ら「文明勢力」が戦っているのは、このような前近代的思
考に閉じこもった人々なのである。


■6.風水で朝鮮総督府庁舎も解体

 金永三大統領は、鉄杭の除去に留まらず、旧朝鮮総督府の庁舎と総督官
邸の解体まで指示した。その理由も、風水研究家が次のような主張をし
て、世論をリードしたからだった。

__________
 北岳はソウルの主山だが、その優れた気脈が景福宮の勤政殿まで伸び、
その血脈を広げ、そこから国中に白頭山の精気を分け与えるというのが、
伝統地理家たちの考えだ。
ところが倭人たちが国土を強占した後、北岳の精気が景福宮に続く所に彼
らの頭領である朝鮮総督の宿所を造り、気脈の首を絞め、国気の出発点で
ある景福宮南側に総督府の庁舎を造り、首を絞め、口を塞ぐはめになっ
た。当然二つの建物を撤去し原状復旧することが風水の正道だ。[2, 2139]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 文化界の有名人氏たちも「日帝が朝鮮王朝の景福宮を破壊し、そこに朝
鮮総督府の建物を建てたため、国の脈が切れて国土が分断され、同族を殺
し合う悲劇が訪れた」と賛同した。朝鮮戦争まで、風水で説明する。

 1995年8月15日の光復50周年慶祝式で、朝鮮総督府庁舎の撤去作業
が始まり、翌年11月13日、建物の地上部分の撤去が完了した。朝鮮総
督府は日本統治時代に10年の工期を費やして完成した建物で、当時はイ
ギリスのインド総督府やオランダのボルネオ総督府を凌駕する東洋最大の
近代式建築物だった。


■7.「恥ずかしく清算すべき歴史」

 朝鮮総督府庁舎は、戦後も大韓民国の重要な歴史が刻まれた舞台だっ
た。1945年9月9日、ここで第9代朝鮮総督・阿部信行が米第24軍軍団長
ジョン・ホッジ中将に降伏文書を手渡した。ソウルに進駐した米軍は、こ
こを米軍政庁として使った。

1948年5月31日、中央庁の中央ホールで大韓民国の国会が開かれ、
同年7月17日には憲法がこの場で公布された。続いて7月24日には大韓民国
の初代大統領の就任式が、8月15日には大韓民国政府の樹立の宣布が、
中央庁の広場で行なわれた。

 この建物は1950年10月7日まで国会議事堂として使われ、その後は李承
晩大統領の執務室となり、朝鮮戦争で火を放たれたが、1962年11月22日、
復旧され、その後、中央行政府の庁舎として使用されてきた。

 朝鮮総督府庁舎は、大韓民国の建国以来の歴史の中心的舞台だったので
ある。それを風水で「国の脈が切れて国土が分断され」た事を理由とし
て、解体撤去するというのは、どういう心理だろう。風水を信ずる多くの
韓国民は快哉を叫んだが、金永三大統領の真の目的は別の所にあった。

 金泳三大統領の秘書官・金正男は、『月刊朝鮮』におけるインタビュー
で「金泳三大統領は、中央庁の建物で展開された韓国現代史が、自分の政
権の正統性とはほど遠い恥ずかしく清算すべき歴史なので、その建物に対
し愛着を感じなかったようだ」と発言している。

 今までの韓国現代史を「恥ずかしく清算すべき歴史」とするのが、金永
三大統領の歴史観だった。それは現在の文在寅大統領にも継承されてい
る。その歴史観を李永薫教授は、次のように要約してる。

__________
 日本の植民地時代に民族の解放のために犠牲になった独立運動家たちが
建国の主体になることができず、あろうことか、日本と結託して私腹を肥
やした親日勢力がアメリカと結託し国をたてたせいで、民族の正気がかす
んだのだ。民族の分断も親日勢力のせいだ。解放後、行き場のない親日勢
力がアメリカにすり寄り、民族の分断を煽った」 (『大韓民国の物語』
文藝春秋)。[3]
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 すなわち現在の大韓民国とは、「日帝時代の親日勢力」の残党がアメリ
カと結託して建てた国であり、本来の正統的国家は北朝鮮だというのであ
る。3代続いている北朝鮮の金王朝こそ、朝鮮の正統な支配者であり、ま
たその背後にある習近平の独裁政権も、伝統的な中華帝国の支配者と見る。

 中国も北朝鮮も、それぞれの前近代的な伝統に基づく独裁国家である。
そこには自由、人権、法治、市場経済という文明的概念はない。こういう
東アジアの朱子学的全体主義勢力と戦っているのが、韓国内の自由民主主
義文明勢力なのである。


■8.「今の日本は敵でなく、共産主義と共に戦う味方だ」

 この夏、8月15日にもソウルで反文在寅の「太極旗デモ」が行われ、
参加者は「日本は敵ではない」「反日は反逆だ」などのスローガンを大声
で叫んだ。演説会でも「文在寅政権の反日は親北容共で韓国に有害だ」
「反日は愛国ではなく反逆、利敵だ」「今の日本は敵でなく、共産主義と
共に戦う味方だ」という発言が相次ぎ、参加者が大声で唱和した。[3]

__________
 現在の韓国の反日は、文政権とその支持勢力が主導する「親北反日」
で、それを見抜いた韓国の自由民主主義勢力がアンチ反日運動に立ち上
がって、韓国内で激しい政治的、思想的内戦を展開しているのだ。[3]
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 西岡力教授の結論である。香港のデモも本質は同じだろう。自由な日本
と台湾のすぐ隣、大陸との境界では、「激しい政治的、思想的内戦」が起
こっていることを我々は認識しなければならない。『反日種族主義』が韓
国でベストセラーになったのは、自由民主主義文明勢力の反撃の狼煙なの
である。
(文責 伊勢雅臣)

■『No.1141 日系移民がペルー社会を固めた「根っこ」』へのおたより

■(けんたれ3さん)

毎週、珠玉の記事をありがとうございます。
本記事に感動しました。

南米に移民して大変なご苦労をされたにもかかわらず、戦前の日本人は、
利他心とノブレスオブリージュが備わっている人が多く、それは一等国民
として恥ずかしくない恰好をという国家と歴史に対する誇りが根っこにあ
ると感じました。

フジモリ大統領の「正直・勤勉・技術」というスローガンも日本精神の根
本であると思いますし、われわれ日本人も肝に銘じておかねばならないと
思います。

昨今の若者による詐欺の隆盛などを見ますとある種、将来へ希望を持てな
い若者たちのテロという意味で以前のペルーと似ている気がします。

やはり、自身に健全な誇りを持てる国家観を醸成する教育と相対的貧困を
減らして将来に希望を持てる経済成長を前提とする経済政策また、少子高
齢化に対応した抜本的な社会保障制度の構築(これは言うは易くで経済成
長により全体的なパイを増やさないとどうしても限られたパイを奪い合う
ゼロサムゲームになって給付者と納付者の対立が避けられませんので)が
必要かと考えます。

とはいえ、天下国家を論じる前にわれわれ自身一人一人が「正直に誠実
に、報徳思想で自分のことだけでなく自分の身の回りのことにも奉仕して
付加価値のある製品やサービスを生み出していけるよう勤勉に働く」とい
うことを体現していきたいと決意を新たにいたしました

2019年11月20日

◆大嘗祭 〜「安国と知ろしめせ」

伊勢雅臣


1.新嘗(にいなめ)とは「産屋の忌み」

 11月14日(木)・15日(金)にかけて大嘗祭(だいじょうさい)が行われ
た。5月1日に行われた「剣璽等継承の儀」と、10月22日の「即位礼正殿の
儀」によって、天皇の位の継承は済んでいるはずだが、これらに加えて大
嘗祭を行う意味はどこにあるのか? 実はそこに我が国の文化伝統の深い
「根っこ」が秘められている。

 稲の収穫儀礼として毎年、秋に行われるのが、新嘗祭(にいなめさい)で
あり、天皇が即位された最初の年に行われる新嘗祭が、大嘗祭である。こ
の「にいなめ」という不思議な言葉の語源を辿ると、その「根っこ」が見
えてくる。

 工藤隆・大東文化大学名誉教授は『大嘗祭ー天皇制と日本文化の源流』
で、もとは「ニフノイミ」だったのが、「ニフナミ」から「ニヒナメ」と
なった、という説を提示している。それによると「ニフ」とは「産屋」、
「ノイミ」は「の忌(い)み」で、合わせると「産屋の忌み」となる。


■2.「産屋の忌み」

「産屋」というのは、新しく収穫された稲穂は新たに誕生した「稲魂」で
あるという考え方から来る。マレイ半島では、まさにこの「産屋の忌み」
を示す古代の収穫儀礼が伝わっている。

__________
巫女が田に出かけ、前もって定めておいた母穂束から稲魂を収め取る。
「米児」と呼ばれる七本の稲束を魂籠に納める。・・・家では主婦がその
魂籠を迎え、寝室に迎え入れ、枕の用意してある寝具用のござむしろの上
に安置し、規定の呪儀のあとで白布をかぶせておく。
そのあと 主婦は、三日間「産褥(さんじょく) にあるときに守らねばなら
ないのとまったく同じタブー」を厳守する。・・・
一方、田に遺されていた母穂束は最後に主婦によって刈り取られ、家に持
ち帰られる。「稲魂の母」「新しい母」と呼ばれ、子を出産した母として
扱われる。[1, 4102]
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 水田耕作は揚子江の中下流で始まったとされている。そこで紀元前
6〜5千年には稲作を始めていたのが長江文明で、漢民族の黄河文明より
古い。しかし、戦闘的な漢民族に追いやられて、中国南部から東南アジア
に移り、一部は台湾から日本にやってきたと考えられている[a]。した
がって、マレー半島と日本列島で類似した農耕儀礼が残っていても不思議
ではない。

 我が国でも古代には、一般民衆の家々で同様の「産屋の忌み」が行われ
ていたようで、『萬葉集』には次のような和歌もある。

__________
誰(たれ)そこの屋(や)の戸押(お)そぶる新嘗(にふなみ)にわが背を遣(や)
りて斉(いは)ふこの戸を
(きょうはニイナメなので私の愛しいあなたを外に出して儀礼を行ってい
ます。それなのに、誰か(あなた)が(まるで訪れてきた神のように)戸を
押して揺らしています。)[1, 1825]
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■3.マレイ半島の収穫儀礼と大嘗祭の類似

 マレイ半島の収穫儀礼には「大嘗祭の重要な要素のほとんどすべてが
揃っている」と、工藤教授は指摘する。

__________
「巫女」はサカツコ(酒造児)、「稲魂」は神聖な稲、「稲魂を収め取る」
行事は抜穂、「寝室」は大嘗殿内陣、寝具用のござむしろは白端御帖(し
らべりのおんたたみ)、「白布」は衾(ふすま)、「枕」は坂枕などに対応
する。[1, 4112]
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 サカツコは「酒(サカ)の(ツ)童女・巫女(コ)」で、稲から酒を造る未婚
の娘である。大嘗祭では悠紀(ゆき)、主基(すき)両国の現地から占いで選
ばれる。このサカツコが「抜穂」、すなわち育った稲を抜く。そして大嘗
宮に向かう行列においても、神聖な稲の黒木輿(くろきのこし)の前を、白
木輿(しろきこし)に乗って先導する。

 大嘗殿内陣には、敷き布団(白端御帖)、枕(坂枕)、夜着(単、ひとえ)、
掛け布団(衾)と寝具一式が揃っている。これが何を意味するのか、いろい
ろな説がある。しかし、上述のマレイ半島の「米児を寝具用のござむしろ
の上に安置し」という点に引き比べると分かりやすい。稲の新生児を寝か
しておく寝具なのだ。


■4.降臨したニニギノミコトは稲穂の稔りの象徴

 衾は天孫降臨のシーンにも出てくる。天照大神の孫・ニニギノミコトは
生まれたばかりの姿で「真床追衾(まとこおうふすま)」にくるまれて、地
上に送られた。「ニニギ」とは「日本米の原種である古代の赤米が赤らん
で実った姿をいうもの」と、本居宣長は『古事記伝』で解釈した。そこか
ら「ニニギノミコトは稲穂の稔りを象徴する穀童を意味する」とされてい
る。[2, 324]

 マレイ半島の「米児」を寝具に安置するのと、『古事記』で「穀童」が
寝具にくるまって地上に天降るのと、この酷似は偶然ではありえないだろう。

 そもそも、天照大御神が孫のニニギノミコトを降臨させた狙いはどこに
あったのか。天孫降臨が決められた経緯は、「大祓詞(おおはらえのこと
ば)」という祝詞の冒頭にこう語られている。

__________
 八百万(やおよろず)の神等を神(かむ)集(つど)えたまひ、神議(はか)り
に謀(はか)りたまひて、我が皇御孫命(すめみまのみこと)は、豊葦原(と
よあしはら)の瑞穂国(みずほのくに)を安国(やすくに)と平らけく知ろ
しめせと事依(ことよ)さしまつりき。[2, 553]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 すなわち高天原の神々が相談した結果に基づいて天照大神が「我が皇御
孫命」すなわちニニギノミコトに、「豊葦原の瑞穂国」を「安国」、安ら
かな国とするよう治めよ、と委任されたのである。

「豊葦原の瑞穂国」について、皇學館大学・真弓常忠教授はこう語る。

__________
 わが国の古い呼び名を「豊葦原(とよあしはら)の瑞穂国(みずほのくに)
という。豊かな稲穂の稔りに恵まれた国を意味する。葦の豊かに茂る原は
みずみずしい稲も育つとの経験によった名であるが、必ずしもあるがまま
の姿ではなく、多分に期待と祈りをこめた讃め言葉である。
 日本の神話を記す『古事記』には、天照大御神がはじめて稲を得られた
とき、これこそが天下万民の「食いて活くべきもの」とされて、「斉庭
(ゆにわ)の穂(いなほ、高天原の神聖な稲穂)」を皇孫ニニギノミコトに授
けられて、天降らしめられたと伝える。・・・

 天上の稲を地上に移し替えて、この国を文字通り稲穂の豊かに実る国に
しようというのが、古人の共通の願いであった。[2,328]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 わざわざ赤子を天降りさせたというのは、生まれたばかりの新生児ほど
霊威が強いという古代の信仰によるものらしい。

 新たに収穫された稲穂を嬰児と見立てて、丈夫に育つよう寝床にくるむ
という点では、マレイ半島の古俗も日本神話も共通であるが、日本神話で
はそれを民間習俗に終わらせずに、国家の始原の物語に位置づけている点
が異なる。


■5.前天皇の死と新天皇の誕生

 新しく生まれた稲穂を迎える大嘗祭・新嘗祭も、基本的にはマレイ半島
の古俗と同じ起源を持っているのだろう。ニニギノミコトの降臨にも関係
がありそうだが、実際、どのような儀式が行われるのか。

 大嘗祭では、冬至の頃の一日、夜7〜9時に天皇が悠紀殿に進まれて儀
式を行い、その晩の午前2時からは主基殿で同じ儀式を繰り返す。冬至の
頃に行われる理由を工藤教授はこう説明している。

__________
『日本書紀』によれば、初代神武から持統天皇(41代)までは、前天皇の
死→新天皇の誕生が基本だった。[1, 4426]

大嘗祭当日の行事は、季節の衰弱の秋の部分が前天皇の衰弱および稲の収
穫に対応した午後九時頃からのユキ殿での行事であり、深夜零時前後が冬
の極まりで季節の仮死、すなわち前天皇の死(天皇霊の持続性という視点
からは仮死)また収穫後の稲の仮死を象徴し、
午前二時頃からのスキ殿での行事は季節の復活の春の始まり、新しい稲の
子の誕生、新天皇の誕生を象徴しているとしてよいだろう。[1, 4438]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■6.天皇の聖なる使命を新たに伝える儀式

 悠紀殿、主基殿での儀式とはどのようなものか。天皇は斎戒沐浴の後、
神に食事を捧げ、御自らも箸をとられる。『国史大事典』の説明を引用す
ると:

__________
陪膳の采女たちが奉仕して、八重畳の東の神座と御座に米と粟の飯・粥に
黒酒(くろき)・白酒(しろき)を中心とした数々の料理の品々の神と天
皇の膳を並べる。天皇は神の食薦(けごも)の上に神饌の品々を十枚の葉
盤(ひらで)に取り分けたものを供え、その神饌の上に神酒をそそぐ。そ
して天皇も箸をとってたべる形をとる。この神事が神饌親供である。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 これが、悠紀殿の夕御饌(ゆうみけ)、主基殿の朝御饌(あさみけ)と繰り
返される。この儀式はどういう意味を持っているのか? 真弓教授は、こ
う説かれる。

__________
 その稲は、皇祖天照大神より授けられた「斉庭の穂」である。それは皇
祖=日神(ひのかみ)の霊異がこもっている。これをきこしめす(JOG注: お
食べになる)ことは、皇祖の霊威を身に体し、大御神とご一体になられる
ことである。そういう意義をもっておこなわれるのが大嘗祭であり、それ
を年々くり返して霊威の更新をはかられるのが新嘗祭である。[2, 576]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 工藤教授は、西郷信綱・横浜市立大学名誉教授の次の指摘を引用している。

__________
 世々の天皇はみなホノニニギの命であり、新たなホノニニギの命として
初代のホノニニギの命を大嘗宮で再演するのである。つまり、たんに次々
に位を受け継ぐのではなく、高天原直伝の君主として、それぞれ新規に瑞
穂の国に降臨する。[1, 4416]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 つまり、ここでも天皇は代々、ニニギノミコトの生まれ変わりであり、
新しい天皇となられる際に、天照大御神をお迎えして、「安国と平らけく
知ろしめせ」との委任を新たに受けられる。そして、毎年の新嘗祭でもこ
れを繰り返され、この「聖なる使命」を確認されるのである。


■7.国民の幅広い参加

 大嘗祭も新嘗祭も、皇室だけの儀式ではない。国民も様々な形で参加す
る。まず悠紀殿、主基殿で供される神聖なる稲穂をとる田は、亀の甲を焼
いてその亀裂によって神意を判ずることによって選ばれる。概ね悠紀は京
都より東、主基は西国から選ばれる。今回は栃木県と京都府が選ばれた。

 悠紀(ゆき)とは斉酒(ゆき)で、「神聖な酒」の意だとされている。神聖
な米から酒も作るので、こう呼ばれたのだろう。主基(すき)は「次」で第
二の儀式だから、という説もあるが、工藤教授は「サ(神聖な)キ(酒)」が
転じた言葉という説を提唱している。

 両国から提供される米以外に、紀伊国からあわびやさざえ、海藻等6
種、阿波国からあゆ、橘子(たちばなのみ)など12種、淡路国から壺など
容器3種類などが調進される。また神に献上する生糸を作り、服を織るの
は参河国(三河)と阿波国だ。こうした様々な献物を納める行列を迎えるの
が、現在の鹿児島県あたりからやってきた隼人百余人である。

 大嘗祭、新嘗祭は、天皇が天照大御神から授けられた聖なる使命への決
意を新たにする儀式であるが、その儀式を支える多くの民の姿をご覧にな
る事で、その責任の重大さをいよいよ感じとられたであろう。また、民の
方も、この神聖な儀式を支える行為を通じて、天皇の聖なる使命を自分た
ちもお助けしなければ、という思いを新たにしたろう。

 大嘗祭、新嘗祭は、天皇と民が互いに支え合い、助け合う心を新たにす
る、いかにも「和の国」[b]にふさわしい儀式であった。


■8.アニミズム文化圏の中で唯一、近代国家を創り上げた国

 マレイ半島の収穫儀式は、稲の命を人間と同様に見なすアニミズム文化
である。同様のアニミズム文化が長江以南から東南アジアにかけて広く見
られるが、それらの民族は国家を作らなかったか、作っても弱小であっ
た、と工藤教授は指摘する。

「アニミズム系文化には、自然と共に生きる思想と、自然が与えてくれる
恩恵に感謝しながら生きる節度ある欲望の利点がある」[1, 4891]と工藤
教授は指摘するが、その穏やかさのためか、遊牧民族や一神教教徒には敵
(かな)わなかった。長江文明が漢民族に追いやられたり、近代に西洋諸国
の植民地とされたのも、その一例であろう。

 しかし、我が国は、アニミズム文化圏の中で、唯一強力な近代国家を創
り上げた。マレイ半島と同じ収穫儀式を基底としながらも、そこから国家
建設の神話と民の平和を願う国家的理想を生み出した。それを洗練された
伝統儀式として発展させ、1300年以上も継続してきた。大嘗祭で我々が目
にしたのは、そういう奇跡だった。

 自然の命を人間と同様に見なすアニミズム文化は、一神教による近代文
明の自然破壊を転換させる智慧を備えている。また一人ひとりの人間の命
を大切にする思想は、共産主義などの独裁を否定し、国民を大切にする福
祉国家の在り方を指し示す。古代のアニミズム文化を発展させて、唯一近
代国家を創り上げた我が国は、そういう道を世界に指し示す事ができるの
である。

2019年11月18日

◆大嘗祭 〜「安国と知ろしめせ」

  伊勢雅臣


1.新嘗(にいなめ)とは「産屋の忌み」

 11月14日(木)・15日(金)にかけて大嘗祭(だいじょうさい)が行われ
た。5月1日に行われた「剣璽等継承の儀」と、10月22日の「即位礼正殿の
儀」によって、天皇の位の継承は済んでいるはずだが、これらに加えて大
嘗祭を行う意味はどこにあるのか? 実はそこに我が国の文化伝統の深い
「根っこ」が秘められている。

 稲の収穫儀礼として毎年、秋に行われるのが、新嘗祭(にいなめさい)で
あり、天皇が即位された最初の年に行われる新嘗祭が、大嘗祭である。こ
の「にいなめ」という不思議な言葉の語源を辿ると、その「根っこ」が見
えてくる。

 工藤隆・大東文化大学名誉教授は『大嘗祭ー天皇制と日本文化の源流』
で、もとは「ニフノイミ」だったのが、「ニフナミ」から「ニヒナメ」と
なった、という説を提示している。それによると「ニフ」とは「産屋」、
「ノイミ」は「の忌(い)み」で、合わせると「産屋の忌み」となる。


■2.「産屋の忌み」

「産屋」というのは、新しく収穫された稲穂は新たに誕生した「稲魂」で
あるという考え方から来る。マレイ半島では、まさにこの「産屋の忌み」
を示す古代の収穫儀礼が伝わっている。

__________
巫女が田に出かけ、前もって定めておいた母穂束から稲魂を収め取る。
「米児」と呼ばれる七本の稲束を魂籠に納める。・・・家では主婦がその
魂籠を迎え、寝室に迎え入れ、枕の用意してある寝具用のござむしろの上
に安置し、規定の呪儀のあとで白布をかぶせておく。
そのあと 主婦は、三日間「産褥(さんじょく) にあるときに守らねばなら
ないのとまったく同じタブー」を厳守する。・・・
一方、田に遺されていた母穂束は最後に主婦によって刈り取られ、家に持
ち帰られる。「稲魂の母」「新しい母」と呼ばれ、子を出産した母として
扱われる。[1, 4102]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 水田耕作は揚子江の中下流で始まったとされている。そこで紀元前
6〜5千年には稲作を始めていたのが長江文明で、漢民族の黄河文明より
古い。しかし、戦闘的な漢民族に追いやられて、中国南部から東南アジア
に移り、一部は台湾から日本にやってきたと考えられている[a]。した
がって、マレー半島と日本列島で類似した農耕儀礼が残っていても不思議
ではない。

 我が国でも古代には、一般民衆の家々で同様の「産屋の忌み」が行われ
ていたようで、『萬葉集』には次のような和歌もある。

__________
誰(たれ)そこの屋(や)の戸押(お)そぶる新嘗(にふなみ)にわが背を遣(や)
りて斉(いは)ふこの戸を
(きょうはニイナメなので私の愛しいあなたを外に出して儀礼を行ってい
ます。それなのに、誰か(あなた)が(まるで訪れてきた神のように)戸を
押して揺らしています。)[1, 1825]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■3.マレイ半島の収穫儀礼と大嘗祭の類似

 マレイ半島の収穫儀礼には「大嘗祭の重要な要素のほとんどすべてが
揃っている」と、工藤教授は指摘する。

__________
「巫女」はサカツコ(酒造児)、「稲魂」は神聖な稲、「稲魂を収め取る」
行事は抜穂、「寝室」は大嘗殿内陣、寝具用のござむしろは白端御帖(し
らべりのおんたたみ)、「白布」は衾(ふすま)、「枕」は坂枕などに対応
する。[1, 4112]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 サカツコは「酒(サカ)の(ツ)童女・巫女(コ)」で、稲から酒を造る未婚
の娘である。大嘗祭では悠紀(ゆき)、主基(すき)両国の現地から占いで選
ばれる。このサカツコが「抜穂」、すなわち育った稲を抜く。そして大嘗
宮に向かう行列においても、神聖な稲の黒木輿(くろきのこし)の前を、白
木輿(しろきこし)に乗って先導する。

 大嘗殿内陣には、敷き布団(白端御帖)、枕(坂枕)、夜着(単、ひとえ)、
掛け布団(衾)と寝具一式が揃っている。これが何を意味するのか、いろい
ろな説がある。しかし、上述のマレイ半島の「米児を寝具用のござむしろ
の上に安置し」という点に引き比べると分かりやすい。稲の新生児を寝か
しておく寝具なのだ。


■4.降臨したニニギノミコトは稲穂の稔りの象徴

 衾は天孫降臨のシーンにも出てくる。天照大神の孫・ニニギノミコトは
生まれたばかりの姿で「真床追衾(まとこおうふすま)」にくるまれて、地
上に送られた。「ニニギ」とは「日本米の原種である古代の赤米が赤らん
で実った姿をいうもの」と、本居宣長は『古事記伝』で解釈した。そこか
ら「ニニギノミコトは稲穂の稔りを象徴する穀童を意味する」とされてい
る。[2, 324]

 マレイ半島の「米児」を寝具に安置するのと、『古事記』で「穀童」が
寝具にくるまって地上に天降るのと、この酷似は偶然ではありえないだろう。

 そもそも、天照大御神が孫のニニギノミコトを降臨させた狙いはどこに
あったのか。天孫降臨が決められた経緯は、「大祓詞(おおはらえのこと
ば)」という祝詞の冒頭にこう語られている。

__________
 八百万(やおよろず)の神等を神(かむ)集(つど)えたまひ、神議(はか)り
に謀(はか)りたまひて、我が皇御孫命(すめみまのみこと)は、豊葦原(と
よあしはら)の瑞穂国(みずほのくに)を安国(やすくに)と平らけく知ろ
しめせと事依(ことよ)さしまつりき。[2, 553]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 すなわち高天原の神々が相談した結果に基づいて天照大神が「我が皇御
孫命」すなわちニニギノミコトに、「豊葦原の瑞穂国」を「安国」、安ら
かな国とするよう治めよ、と委任されたのである。

「豊葦原の瑞穂国」について、皇學館大学・真弓常忠教授はこう語る。

__________
 わが国の古い呼び名を「豊葦原(とよあしはら)の瑞穂国(みずほのくに)
という。豊かな稲穂の稔りに恵まれた国を意味する。葦の豊かに茂る原は
みずみずしい稲も育つとの経験によった名であるが、必ずしもあるがまま
の姿ではなく、多分に期待と祈りをこめた讃め言葉である。
 日本の神話を記す『古事記』には、天照大御神がはじめて稲を得られた
とき、これこそが天下万民の「食いて活くべきもの」とされて、「斉庭
(ゆにわ)の穂(いなほ、高天原の神聖な稲穂)」を皇孫ニニギノミコトに授
けられて、天降らしめられたと伝える。・・・

 天上の稲を地上に移し替えて、この国を文字通り稲穂の豊かに実る国に
しようというのが、古人の共通の願いであった。[2,328]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 わざわざ赤子を天降りさせたというのは、生まれたばかりの新生児ほど
霊威が強いという古代の信仰によるものらしい。

 新たに収穫された稲穂を嬰児と見立てて、丈夫に育つよう寝床にくるむ
という点では、マレイ半島の古俗も日本神話も共通であるが、日本神話で
はそれを民間習俗に終わらせずに、国家の始原の物語に位置づけている点
が異なる。


■5.前天皇の死と新天皇の誕生

 新しく生まれた稲穂を迎える大嘗祭・新嘗祭も、基本的にはマレイ半島
の古俗と同じ起源を持っているのだろう。ニニギノミコトの降臨にも関係
がありそうだが、実際、どのような儀式が行われるのか。

 大嘗祭では、冬至の頃の一日、夜7〜9時に天皇が悠紀殿に進まれて儀
式を行い、その晩の午前2時からは主基殿で同じ儀式を繰り返す。冬至の
頃に行われる理由を工藤教授はこう説明している。

__________
『日本書紀』によれば、初代神武から持統天皇(41代)までは、前天皇の
死→新天皇の誕生が基本だった。[1, 4426]

大嘗祭当日の行事は、季節の衰弱の秋の部分が前天皇の衰弱および稲の収
穫に対応した午後九時頃からのユキ殿での行事であり、深夜零時前後が冬
の極まりで季節の仮死、すなわち前天皇の死(天皇霊の持続性という視点
からは仮死)また収穫後の稲の仮死を象徴し、
午前二時頃からのスキ殿での行事は季節の復活の春の始まり、新しい稲の
子の誕生、新天皇の誕生を象徴しているとしてよいだろう。[1, 4438]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■6.天皇の聖なる使命を新たに伝える儀式

 悠紀殿、主基殿での儀式とはどのようなものか。天皇は斎戒沐浴の後、
神に食事を捧げ、御自らも箸をとられる。『国史大事典』の説明を引用す
ると:

__________
陪膳の采女たちが奉仕して、八重畳の東の神座と御座に米と粟の飯・粥に
黒酒(くろき)・白酒(しろき)を中心とした数々の料理の品々の神と天
皇の膳を並べる。天皇は神の食薦(けごも)の上に神饌の品々を十枚の葉
盤(ひらで)に取り分けたものを供え、その神饌の上に神酒をそそぐ。そ
して天皇も箸をとってたべる形をとる。この神事が神饌親供である。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 これが、悠紀殿の夕御饌(ゆうみけ)、主基殿の朝御饌(あさみけ)と繰り
返される。この儀式はどういう意味を持っているのか? 真弓教授は、こ
う説かれる。

__________
 その稲は、皇祖天照大神より授けられた「斉庭の穂」である。それは皇
祖=日神(ひのかみ)の霊異がこもっている。これをきこしめす(JOG注: お
食べになる)ことは、皇祖の霊威を身に体し、大御神とご一体になられる
ことである。そういう意義をもっておこなわれるのが大嘗祭であり、それ
を年々くり返して霊威の更新をはかられるのが新嘗祭である。[2, 576]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 工藤教授は、西郷信綱・横浜市立大学名誉教授の次の指摘を引用している。

__________
 世々の天皇はみなホノニニギの命であり、新たなホノニニギの命として
初代のホノニニギの命を大嘗宮で再演するのである。つまり、たんに次々
に位を受け継ぐのではなく、高天原直伝の君主として、それぞれ新規に瑞
穂の国に降臨する。[1, 4416]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 つまり、ここでも天皇は代々、ニニギノミコトの生まれ変わりであり、
新しい天皇となられる際に、天照大御神をお迎えして、「安国と平らけく
知ろしめせ」との委任を新たに受けられる。そして、毎年の新嘗祭でもこ
れを繰り返され、この「聖なる使命」を確認されるのである。


■7.国民の幅広い参加

 大嘗祭も新嘗祭も、皇室だけの儀式ではない。国民も様々な形で参加す
る。まず悠紀殿、主基殿で供される神聖なる稲穂をとる田は、亀の甲を焼
いてその亀裂によって神意を判ずることによって選ばれる。概ね悠紀は京
都より東、主基は西国から選ばれる。今回は栃木県と京都府が選ばれた。

 悠紀(ゆき)とは斉酒(ゆき)で、「神聖な酒」の意だとされている。神聖
な米から酒も作るので、こう呼ばれたのだろう。主基(すき)は「次」で第
二の儀式だから、という説もあるが、工藤教授は「サ(神聖な)キ(酒)」が
転じた言葉という説を提唱している。

 両国から提供される米以外に、紀伊国からあわびやさざえ、海藻等6
種、阿波国からあゆ、橘子(たちばなのみ)など12種、淡路国から壺など
容器3種類などが調進される。また神に献上する生糸を作り、服を織るの
は参河国(三河)と阿波国だ。こうした様々な献物を納める行列を迎えるの
が、現在の鹿児島県あたりからやってきた隼人百余人である。

 大嘗祭、新嘗祭は、天皇が天照大御神から授けられた聖なる使命への決
意を新たにする儀式であるが、その儀式を支える多くの民の姿をご覧にな
る事で、その責任の重大さをいよいよ感じとられたであろう。また、民の
方も、この神聖な儀式を支える行為を通じて、天皇の聖なる使命を自分た
ちもお助けしなければ、という思いを新たにしたろう。

 大嘗祭、新嘗祭は、天皇と民が互いに支え合い、助け合う心を新たにす
る、いかにも「和の国」[b]にふさわしい儀式であった。


■8.アニミズム文化圏の中で唯一、近代国家を創り上げた国

 マレイ半島の収穫儀式は、稲の命を人間と同様に見なすアニミズム文化
である。同様のアニミズム文化が長江以南から東南アジアにかけて広く見
られるが、それらの民族は国家を作らなかったか、作っても弱小であっ
た、と工藤教授は指摘する。

「アニミズム系文化には、自然と共に生きる思想と、自然が与えてくれる
恩恵に感謝しながら生きる節度ある欲望の利点がある」[1, 4891]と工藤
教授は指摘するが、その穏やかさのためか、遊牧民族や一神教教徒には敵
(かな)わなかった。長江文明が漢民族に追いやられたり、近代に西洋諸国
の植民地とされたのも、その一例であろう。

 しかし、我が国は、アニミズム文化圏の中で、唯一強力な近代国家を創
り上げた。マレイ半島と同じ収穫儀式を基底としながらも、そこから国家
建設の神話と民の平和を願う国家的理想を生み出した。それを洗練された
伝統儀式として発展させ、1300年以上も継続してきた。大嘗祭で我々が目
にしたのは、そういう奇跡だった。

 自然の命を人間と同様に見なすアニミズム文化は、一神教による近代文
明の自然破壊を転換させる智慧を備えている。また一人ひとりの人間の命
を大切にする思想は、共産主義などの独裁を否定し、国民を大切にする福
祉国家の在り方を指し示す。古代のアニミズム文化を発展させて、唯一近
代国家を創り上げた我が国は、そういう道を世界に指し示す事ができるの
である。

2019年10月10日

◆「お陰様」と「おもてなし」


■1.「これを見て貰う以上に、言うべき言葉はない」

 オリンピックやサッカー・ワールドカップと並んで、世界三大スポー
ツ・イベントとされるラグビー・ワールドカップが始まった。国内各地で
各国選手を迎える歓迎ぶりが、世界で反響を呼んでいる。

 日本代表との壮行試合に41−7で勝利した南アフリカ代表は、次なる
キャンプ地、鹿児島市へ。公開練習に約5000人も観客が詰めかけ、メディ
ア関係者のMatt Pearce氏はその光景をピッチから撮影し、ツイッターで
こう発信した。[1]

__________
 鹿児島での公開練習で大変な群衆。熱く、惜しみない歓迎が続く。天気
と同じくらい熱い!(拙訳)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ウェールズ代表がキャンプする北九州の商店街ではチーム旗が飾られ、
「ウェールズ代表を応援しよう」と書いた幟(のぼり)が立てられた。小
倉城天守閣はチームカラーの赤でライトアップされて、選手からも「ファ
ンタスティック」などの感激コメントが寄せられた。9月16日のミクニ
ワールドスタジアム北九州での初の公開練習では開場以来最多の1万
5300人の観客が集まった。

 さらなるサプライズは、選手がグランドに出てくる際に、観客がウェー
ルズ国歌「Land of My Fathers」(「父祖の土地」)を斉唱して迎えたこ
とだ。続いて応援歌でもある賛美歌「Calon Lan」。チームの公式ツイッ
ターではその光景をビデオで撮って、「これを見てもらう以上に、言うべ
き言葉はない」と感激を伝えた。

 各国代表をその国の国歌で迎えるのは、ラグビー元日本代表主将・廣瀬
俊朗氏の発案で、出場20カ国のカナ付き歌詞カードが公開された。廣瀬
さんは「きちんとその国の言葉で話ができなくても、その国のアンセム
(国歌)を歌えば心が通じる」と語っている。[2]

 その言葉通り、元代表キャプテンのライアン・ジョーンズ氏は公開練習
後、「これまでのラグビーキャリアでこのような経験をしたことは一度も
なかった」とメディアに感動を伝えた。

 それにしてもなぜ、日本人はこれほど「おもてなし」に心を籠めるのだ
ろうか? 海外からの賓客を歓迎するのは、どこの国民でもするが、その
際の心の籠め方が、日本人の場合はレベルが違うように思う。それが外国
人を感激させるのである。


■2.「おもてなし」と「サービス」の違い

 山村明義氏の近著『日本人はなぜ外国人に「神道」を説明できないの
か』[3]で、日本のおもてなしと欧米のサービスとの違いをこう述べている。

__________
欧米のキリスト教社会の「サービス」は、「私」と「あなた」、つまり個
人と個人の関係をハッキリさせた上での「行為」です。 一方、「おもて
なし」は、「私」が「あなた」に「成りかわる」ことによって相手への好
意を表す日本独自の「好意」なのです。
・・・〈「私」と「あなた」は違う〉という視点に立つのが「サービス」
で、〈「私」と「あなた」は同じです〉という視点に立つのが「おもてな
し」なのです。[3, 20]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 相手国の国歌を斉唱するのは、まさに相手の身に「成り代わって」相手
が喜ぶことを行い、相手が喜べば自分もまた喜ぶ、という相手との一体感
が、「おもてなし」の基本のようだ。この発想は神道から来ている、と山
村氏は指摘する。


■3.「お客様は神様です」

 「お客様は神様です」とは演歌歌手・三波春夫の口癖だったが、神道に
おいてはこれは譬喩ではない。日本の神様は時々遠方からやってくる「お
客様」であった。『神道大事典』はこう解説している。

__________
 奈良時代に神社が成立することによって、神社に神体が安置され、神が
常住するという考えが現れてきたが、それ以前は祭儀にあたって山や海の
彼方といった他界から神を招き降ろし、祭儀が済めば神を送るのがつねで
あった。・・・
 山や海の彼方の他界から訪れ、穀物の豊穣や幸福をもたらし、また戒め
を与えて、人々の生活を安泰にすると信じられている。[4, p94]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 民族学、国文学の大家であり、神道家であった折口信夫は、このような
神を「まれびと」と呼んだ。「希(まれ)」にしか来ないからである。菅
野覚明・皇學館大学神道学科教授は、次のように解説している。

__________
神さまは第一義的にはお客さまなのであるから、当然のことながら丁重に
おもてなしをし、上機嫌でお帰りいただくのが神さまとのつき合い方のイ
ロハである。神さまは客であり、人と神との交流は基本的に接待である。
この接待のことを、お祭り(祭祀)と呼ぶ。
お祭りに酒やごちそうがつきものなのも、祭祀が接待であるということと
関係している。祭りは接待の宴会である。というより、今日の日本人の接
待文化や宴会好きの起源が、そうした神さまのお祭りにあるといってもよ
いのである。[5, 62]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■4.荒魂と和魂

 観客として、遠方からやってきた外国の選手と一体感を持っておもてな
しをするのは良いが、自国の選手と試合をする場合はどうなのか。試合に
は敵味方があり、勝敗がある。これでは相手との一体感を保てないのでは
ないか、と疑問が湧くが、山村氏は名著『神道と日本人』の中で、こう説
明する。

__________
武道や神道では人間の「魂」は、その時々によって、姿かたちをかえる、
とされている。人が怒ったとき、あるいは戦うときの魂が「荒魂(あらみ
たま)」であり、その一方で、普段の柔和な生活を送っているときの魂
は、「和魂(にぎみたま)」と呼ばれる。[6, p143]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 相手チームを迎える時は「和魂」で相手と一体となり、心を込めた「お
もてなし」をするが、いざ試合になると「荒魂」を振るい起こして、全力
を尽くさなければならない。「闘魂」とか「敢闘精神」とか「一球入魂」
などというのは、この類いであろう。しかし、神道では、勝負が終わった
ら「荒魂」から「和魂」に戻さねばならないと教える。

__________
 神道や武道では、「荒魂」を呼び出すことを「振る魂」といい、「和
魂」に戻すことを「魂鎮(たましず)め」と呼ぶが、日本の神道では、こ
の双方を合わせて「鎮魂(法)」と呼ばれている。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 山村氏は明治神宮武道場「至誠館」の第三代館長・荒谷卓(あらや・た
かし)氏の次の言葉を紹介している。荒谷氏は陸上自衛隊では初めての
「日本版の特殊部隊」と呼ばれた「特殊作戦群」の初代群長を務め、鹿島
の太刀、合気道六段の武道の達人でもある。

__________
戦場に慣れてしまうと、普段の生活に戻れず、戦場を転々として歩く。あ
るいは逆に、荒魂を呼び出せずに、恐怖に怯えて精神病になる人もいる。
必要なときには荒魂のはたらきを強くし、不必要なときには和魂で暮ら
す。本当のプロの軍人とは、そういう"魂の管理"ができる人たちです。
[6, p144]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ラグビーでも「ノーサイド」と言われる。戦い終えたら、敵味方はな
く、同じ仲間だ、という意味である。ラグビーはイギリス発祥の紳士のス
ポーツだが、イギリスの紳士階級は日本でいえば武士階級である。戦士と
しての振る舞いの理想を追求した騎士道と武士道が、同様の結論に辿り着
いたのも偶然ではないだろう。

 荒谷氏は、武道に関してもこう続ける。

__________
(武道の)試合が終わったあと、荒魂と和魂をちゃんと入れ替えて、それ
からまた協和状態に戻る。日本の武道では勝者にこそ、この精神が必要で
す。(スポーツなら許される)ガッツポーズが、日本の武道ではなぜ見苦
しいのか、というと、興奮を収められない人は、気鎮め(鎮魂)が出来な
い、ということを意味しているからです。[6, p145]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 和魂に戻らなければならないのは、試合の後には相手との和合で終わる
のが武道の理想だからだ。山村氏は語る。

__________
 武道を突き詰めて行くと、単に相手を倒す、あるいは負かすことを考え
がちですが、本当は自分が相手を包容し、調和と融合の世界にコントロー
ル(制御)して、相手に対して事を収めて終わる──ということに尽きま
す。[3, 283]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この「調和と融合の世界」は、まさしく「おもてなし」の目指す所でも
ある。


■5.スポーツ選手はなぜ神社に参拝するのか

 スポーツ選手で神社に参拝する人は少なくない。愛知県大府市の「八つ
屋神神社」は女子レスリングの吉田沙保里選手がずっと通っており、男女
のレスリング選手の「金メダル神社」と呼ばれている。箱根の「九頭龍神
社」は「水の神様」を祀っており、水泳の萩野公介選手らが参拝した。男
子体操の内村航平選手も自分の住む地域の「草加(そうか)神社」によく
参拝していた。

 スポーツ選手が神社に参拝するのは「神頼み」なのだろうか? 山村氏
はその効用を次のように説明する。

__________
その人が参拝する神社では、自分のやり遂げたいと願う計画や目標につい
ても、神様の前で誓います。それが上手く行けば、今度は神様に感謝をし
ながら報告し、ときには「お祭り」を行います。まず自分が生かされてい
ること、あるいは努力できる環境にいることに「感謝」をしながら、神様
にまた祈るわけです。
 そうすると、今後は頑張って実践して行くうちに、ある程度の「成果」
が生まれ、自分がやっていることに対して自信や誇りがついて来ます。・・・
 そして自分に自信と誇りができると、また頑張ることができます。それ
を繰り返していくうちに、自分の目標は達成され、大きな成果を上げるこ
とができることになります。[3, 216]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 神社に参拝する時には、「金メダルをとらせて下さい」などと結果を神
様に頼むのではない。まず自分で「こういう目標に挑戦します」という
「誓い」を立てる。その目標に向けて練習に励み、その結果がある程度出
れば、神様に「感謝」する。結果が出なくとも、努力ができる環境に生か
されていることに感謝する。

 こういう誓いや感謝など、前向きの心持ちでいることで、自分の実力が
向上していく。


■6.神社参拝のPDCA

 興味深いのは、山村氏は神社参拝の効用を、経営学で用いられる
「PDCAサイクル」で説明していることだ。これはPlan(計画)-Do(実
行)-Check(評価、問題点の把握)-Act(問題点の改善)で、このサイクルで
自分の問題点を改善しつつ、次のより高いレベルのサイクルに移行すると
いう経営概念である。これを神社参拝に当てはめて、山村氏は次のように
説明する。

__________
日本人の神社での行いに置き換えてご覧になればわかることだと思います
が、「P」は目標への「祈り」や「誓い」、「D」は自らの「努力」と
「実践」、「C」は神様(上司)への「相談」と「報告」、あるいは「決
済」、「A」は「改善」と「実行」による最終的な「成果」や「勝利」と
いうわけです。[3, 242]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 山村氏の説明になぞらえると、神社参拝のPDCAとは次のように言い換え
ることができるだろう。

 Pray: 祈り Do: 実践 Consul: 相談 Appreciate: 感謝

 これは単なる語呂合わせではなく、「人間の意欲的な目標設定と、事実
に基づく合理的な反省こそが、進歩を生む」という人間心理の働きを現代
経営学は活用しているのだが、それを日本人は大昔から神社参拝で実行し
てきた、という事なのである。


■7.「お陰様」

 我々が普通、神社に参拝する時は、家内安全、無病息災、受験合格、商
売繁盛など、自分の生活での「現世利益」を神様にお願いすることがほと
んどだろう。それはそれで良いし、現実に神社でも「交通安全」など各種
のお守りが売られている。それは我々が自分自身の力を超えた神様がいる
ことを信じ、神への畏敬の念を抱いているからだ。

 一方、神主が祝詞(のりと)は神様に感謝することが基本だと、國學院
大學神道学専攻科で祝詞(のりと)の講師を務めている金子善光宮司(神
奈川県川崎市の中野島稲荷神社など七社)は教えている。

__________
昔の祝詞を見ると、あまり願い事をいっていません。なぜいっていないか
というと、やはり昔の日本人には"お陰様″という気持ちの方が強かったか
らだと思います。それは、昔は共同体全体が、"お陰様″という意識で神様
に向かっていたからだと思うのです。[6, p26]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 日本人にとって神様は「お陰様」と感謝する対象であり、また「まれび
と」としてやってきた神様には、心を込めて「おもてなし」をする。そう
いう時の人間の心は利己心から離れて、清く明るい心持ちになる。そうい
う生き方を我々の先祖は大切にしてきたのである。ご先祖様たちは、それ
が幸福への近道である事を知っていたのだ。
(文責 伊勢雅臣)

2019年09月05日

◆「ローカル経済圏」

伊勢 雅臣



■1.雇用の8割を占める「ローカル経済圏」

 第1次安倍政権が誕生した平成25(2013)年の夏頃、「アベノミクス第
3の矢」の成長戦略メニューに関して、こんな感想を述べた人がいた。

__________
 アベノミクス 第三の矢の成長戦略メニューって、おおむね正しいんだ
けど、何かピンとこないんだよね。

 これ、要は大手製造業やIT企業などのグローバル成長を意識したメ
ニューなんだけど、日本経済でこうした産業が占める割合って、もはやせ
いぜい三割程度。雇用にいたっては二割くらいなんだ。[1, 2457]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 政府の肝入りで発足し、カネボウなど多くの事業再生を支援した「産業
再生機構」の代表取締役を務めた冨山和彦氏の発言である。

 富山氏は大手製造業やIT企業などグローバル市場で活躍する企業群を
「グローバル経済圏」、それ以外を「ローカル経済圏」と呼ぶ。後者は地
域の小売り商店、ホテルや旅館、レストラン・食堂・飲み屋、病院や介護
施設、学校・塾、バスやタクシー・地域鉄道、スポーツ・ジムその他のレ
ジャー施設、行政など、要は我々が日常生活でお世話になっている事業者
からなる。

 こういう「ローカル経済圏」が経済規模で7割、雇用で8割を占めると
いうから、この部分を見過ごした経済対策では、「ピンとこない」のも無
理はない。


■2.「ローカル経済圏」が提供する雇用機会

「グローバル経済圏」と「ローカル経済圏」の違いは大きい。

 まずは地元雇用への波及効果が違う。たとえば、トヨタはアメリカに工
場を持ち、アメリカ市場で相当のシェアを持っている。そこでの稼ぎはト
ヨタの米子会社の利益となり、米国に税金を払う。日本国内にはその一部
が、トヨタ本社への配当や技術使用料として還流してくるが、それが多少
増えても、トヨタ本社が研究者や管理スタッを比例して増やすわけではない。

 それに対して、「ローカル経済圏」では、外国人観光客が増えれば、ホ
テルもレストランの売り上げも比例して増える。当然、従業員もそれなり
に増やさなければならない。地域の雇用が増えれば、新たに雇われた人た
ちの外食やレジャー支出などが増えるので、地域はさらに潤っていく。

「ローカル経済圏」は労働集約型のサービス産業が中心のため、雇用を生
み出す力が格段に大きい。そこが活性化すれば、より多くの国民が仕事と
収入を享受できる。

 雇用の中身も違う。トヨタの研究者や経理スタッフには、高度の知識・
経験が必要であり、一般人が即戦力になりうる職種ではない。「ローカル
経済圏」では、たとえばホテルの清掃やレストランの給仕など、高校生の
アルバイトでも戦力となる。子育てを終わった主婦や、定年後の第二の仕
事を求める高齢者も活躍できる。

 雇用の流動性も高い。トラックの運転手や看護師が同業他社に移ること
は、トヨタの研究員が定年後に他所で専門知識を生かせる仕事を見つける
よりは遙かに容易だ。

「ローカル経済圏」での雇用は、量が大きいだけでなく、質の面でも一般
人への間口が広く、敷居も低いのである。


■3.幸せな生活スタイルにつながる「ローカル経済圏」

 富山氏は言及していないが、働き手の生活スタイルも大きく異なる。ト
ヨタは全国から多くの人を雇用しているが、彼らの多くは出身地を離れ
て、本社のある愛知県豊田市や、東京本社などで働く。国内の転勤のみな
らず、海外勤務も珍しくない。

 それに対して「ローカル経済圏」なら、たとえば福井生まれの人が地元
の商店に勤めて、両親と同居することも可能である。子供を授かれば三世
代同居となり、そういう家庭の多いことが、福井県の小中学生が学力や体
力で常に全国のトップクラスにつけている要因の一つとされている。[a]

 主婦は子育てを祖父母に助けて貰うことで、育児をしている女性の有業
率では全国2位(平成29年)、出生率(同)も全国で12位。お年寄り
も、子や孫との接点が増えて、安心で生きがいのある生活を送れる。
「ローカル経済圏」が活性化することで、多くの国民が生まれ故郷での幸
せな暮らしをすることができるようになり、それが人口減少対策にもなる
のである。


■4.「ローカル経済圏」の高齢化と人手不足

 しかし、現実の「ローカル経済圏」はどうだろうか? 駅前はシャッ
ター街、郊外には独居老人という有様だ。その原因として「地方は疲弊し
ていて仕事がなく、結果的に人手が余っていて、職に困った若者が東京に
出て行ってしまい空洞化が起こっている」と言われるが、これには富山氏
は首を傾(かし)げる。

 富山氏は現在、コンサルティング会社「経営共創基盤」を経営している
が、同社が100%出資している東北の地方公共交通の運営会社は、バブ
ル時代ですら運転手不足で困っていたという事実があるからだ。

__________
地方は高齢化がすさまじい勢いで進行していて、どこの病院も看護師不足
で悩んでいる。どこの介護施設も、介護福祉士がいないと嘆いている。医
師不足は別の問題だが、とにかくどこへ行ってもひどい人手不足に陥って
いた。[1, 190]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 生産年齢人口(15歳以上、65歳未満)の平成2(1990)年から平成
24(2012)年の変化で見ると、東京は約13万人増加しているのに対し、
東北地方はおよそ90万人も減少している。

 すなわち、「ローカル経済圏」は働き手が都会に流出してしまうこと
で、人手不足が深刻化しているのである。人手の流出で駅前商店街が後継
者不在でシャッター街となり、バス会社も残業、休日出勤が増えて、ます
ます就職希望者が減ってしまう。


■5.「ローカル経済圏」の労働生産性と賃金の低さ

 人手不足なのに、なぜ働き手が都会に出てしまうのか。それは賃金水準
が低いからだろう。平成30(2018)年の都道府県別年収で見ても、東京が
622万円でダントツだが、岩手、山形、青森、秋田各県はいずれも
400万円以下である。これではいかに家が広く、自然が豊かでも、都会
に出ていこう、と考えるのも無理はない。

 賃金が安いのは労働生産性が低いからだ。日本の主要製造業の労働生産
性は世界トップレベルで、「グローバル経済圏」はそれをテコに世界市場
で勝負して利益を上げ、高い賃金も払える。

 しかし「ローカル経済圏」では、アメリカを100とすると、小売り・
卸売りで42.9、飲食・宿泊ではなんと26.8である。[1, 1641]

 この低生産性の主要因は「ローカル経済圏」の人口密度の低さである。
東京都の人口密度は平方キロあたり約6,300人。対して東北地方では
福島県135人を筆頭に、青森県130人と続き、岩手県に至っては81
人と、と東京のおよそ80分の1である。

 人口密度が数十分の1では同じようにローカルバスを走らせても、客も
売り上げもはるかに少ない。東京なら10分に1本のバスでも相当な客が
乗っているのに、地方では2時間に1本で乗客は数人という光景が珍しく
ない。これでは運転手1人あたりの売り上げも微々たるもので、当然、給
料も抑えざるをえない。

 この人口密度の低さというハンディをなんとか乗り越えようというアイ
デアが「コンパクト・シティ」構想である。地方のターミナル駅を中心に
人口30〜50万人程度の中核都市圏を作り、周辺の小さな市町村から人
口と都市機能を集める。東北地方であれば、青森市や盛岡市(ともに30
万人)のイメージである。

 介護施設、病院などが集まってくれば、高齢者が車の運転ができなく
なっても、歩いて通院出来る。保育施設や幼稚園などが集まれば、働く女
性も住みやすくなる。人が集まれば、飲食店やレジャー施設も繁盛する。
駅前のシャッター街はこうして復活していく。

 人口密度が高まれば、労働生産性も高まり、賃金水準も高くできる。そ
れによって、働き手も集まってくるから、さらに人口密度が高くなる、と
いう善循環が生まれよう。


■6.先のない企業の「穏やかな退出」を

 富山氏は産業再生機構での経験を生かして、労働生産性向上のための政
策提案をしている。それは生産性が低いがために赤字となっている企業の
「退出」を促進することである。たとえば、赤字企業はたいていの場合、
銀行から最大限の融資を受けている。その際に、銀行は経営者の個人保障
を求める。

 個人保障ゆえに、いざ企業が倒産したら、経営者は個人の貯金や家屋敷
まで取り上げられる。子供は進学を諦め、家族は路頭に迷う。それを避け
るために、中小企業の経営者はなんとしても倒産は避けようと、先行きの
展望がなくとも必死の苦闘を続ける。

 富山氏は、産業再生機構時代には、倒産した経営者からは生活財産や、
つつましいマンションなら取り上げなかった。その後も生活していかねば
ならないからだ。このように、事業を畳んだとしても、最低限の生活はで
きるよう保障すれば、生産性の低い、先の見通しの立たない事業は早めに
諦めることができるようになる。

 そうなれば、破綻寸前の企業の悪あがき的な安値攻勢もなくなって、競
合企業も健全な利益を得て、適正な賃金を提供できる。従業員も一時は失
業しても、生産性のより高い企業に移ることができる。結果的に、生産性
の高い企業の人手不足は緩和され、「ローカル経済圏」全体の労働生産性
も上がっていく。

 さらに、人余りの時代に、なるべく中小企業を潰さないように支援して
いた政策も見直す必要がある。その一つが信用保証協会の債務保証で、銀
行は通常の融資ができない破綻寸前の企業でも、その債務保証があれば、
融資をしてくれる。それでも倒産して、協会が代わって弁済した金額は平
成29(2017)年で3万6千件、3500億円。富山氏は次のように指摘する。

__________
 一九九〇年代ごろまでは、保証協会の社会政策的合理性はあったと思
う。当時は深刻な人余り状態だったので、保証協会融資を実行することで
倒産を防ぐ意味があった。しかし、地方の人口が減少し、過疎が進むとい
うことを受け入れず、闇雲にがんばって延命医療をすることに社会政策的
意味はなくなっている。[1, 2151]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 破綻した企業の尻拭いに3500億円も使うくらいなら、「転廃業支援
金」「事業譲渡促進支援金」という形で、「穏やかな退出」のためにお金
を使った方が良い、と富山氏は主張する。それにより倒産した経営者が、
別の事業に再チャレンジしたり、あるいはそれを元手に年金生活に入ると
いう道が開かれる。

 現行の銀行融資や保証協会制度は、企業経営者を鞭打って、半死半生の
企業に延命措置をしている。それによって従業員には低賃金、同業者には
安売りという迷惑をかけている。そんな企業が往生できるような施策が必
要である。


■7.外国人労働者は対処療法に過ぎない

 人手不足というと、すぐに外国人労働者を入れようという主張する輩が
いるが、富山氏はこの問題に関して、貴重な経験をしている。

__________
私の祖父母は戦前、北米カナダに移民し、父はそこで生まれ、思春期まで
を過ごした。もともと植民地で、かつ多くの移民を受け入れていたカナダ
でさえ、移民を受け入れる側の白人社会と、移民した側の日本人との間の
ストレスがいかに大きいものだったか、私は父や祖父母から嫌というほど
聞かされた。
この手のストレスは、上流階級同士ではあまり生まれない。その地域のま
さにL(JOG注:「ローカル経済圏」)な世界で生きてきた人たちと、そ
こに下層労働者として入ってくる移民との間で生まれるものだ。[1, 2406]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 移民に関しての同様の軋轢が世界中で起こっている。移民がもたらすス
トレスとは文化的な問題だけではない。移民労働者は低賃金で「ローカル
経済圏」に入ってくるので、そこでの職を奪い、かつ賃金水準を下押しす
る。「ローカル経済圏」で働く人々にとっては、招かれざる客なのだ。

 企業側にとっても、一時的に人手不足は解消できるが、それがために生
産性を向上させようという志は薄れてしまう。低生産性が低賃金をもたら
す、という根本的な問題はそのままである。それでは、いずれ外国人労働
者ももっと稼ぎのよい都会に去ってしまうだろう。「ローカル経済圏」に
とって、外国人労働者とは一時しのぎの対処療法でしかない。

 そもそも、労働生産性で小売り・卸売りはアメリカの4割程度、飲食・
宿泊に至っては3割以下という状況で、「人手不足だから外国人労働者
を」という主張自体がおこがましい。

 多くの経営者が「外国人の雇用」「女性と高齢者の活用」「労働生産性
の向上」という順序で考えている事に対して、富山氏は言う。

__________
正しいのは、反対の順序だ。最初に生産性を上げることを考え、女性と高
齢者の就労率を上げることを考え、外国人労働者についてはまずは高度人
材から、そして非高度人材については必要最低限の範囲で期間限定型での
導入を検討し、最後に移民の問題に入るべきだ。[1, 2432]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 生産性向上については日本の「グローバル経済圏」は世界最高レベルの
「改善」の経験とノウハウを持っている。また国民一人ひとりの教育水準
も高く、顧客や企業に対する強い利他心を持っているので、改善には積極
的である。そういう日本人の強みを十二分に発揮させれば、労働生産性を
向上させて高い賃金を実現できよう。

 そうなれば、仕事では適正な収入と生きがいを得つつ、豊かな自然の中
で、家族や郷里の人々と共に暮らせる幸せな「ローカル経済圏」を実現す
ることができる。それこそ明日の明るい「和の国」日本の姿である。
(文責 伊勢雅臣)

2018年10月24日

◆世界が称賛する 国際派日本人(5)

伊勢雅臣


■■■ JOG Wing ■■■ 国際派日本人の情報ファイル■■■
皇太子殿下の祈り−世界の水問題に取り組む人々の連帯の「象徴」

 日本の皇太子殿下は、民の幸せを無私の心で祈る、という皇室の伝統精
神を通じて、水問題に取り組む世界の人々の連帯の「象徴」となっています。
■■ 転送歓迎 ■■ No.2820 ■■ H30.10.22 ■■ 7,836部■■


■1.「殿下への高い評価は日本人だけが知らないのでは」■

皇太子殿下は国連「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁をお務め
になり、また平成15(2003)年の京都、平成18(2006)年メ キシコ、平
成19(2007)年大分、平成20(2008)年スペイ ン、平成21(2009)年ト
ルコで行われた世界の水問題に関わる国 際会議で、講演をされている。

日本のジャーナリストが、水問題の海外の専門家に「海外での殿下の評
価はどうか」と質問したところ、「どうしてそんな質問をされるのか。そ
れは愚問というものだ。殿下の高い評価は言わずもがな。日本人だけが知
らないのでは」と、やり込められる場面があった。

世界水フォーラムを運営している世界水会議のロイック・フォーション
会長は、記者との会見で、「皇太子殿下のご存在は、水の分野におけるオ
ム・デタ (Homme d'Etat) だ」と述べた。

フランス語のオム・デタは英語で言えば“Statesman”、無私の心で国家 公
共のことを案ずる元首や政治家を意味する。日本語で言えば、天皇が日
本国民統合の象徴であるように、皇太子殿下が水問題に取り組む世界の
人々の連帯の「象徴」となっている、という意味で捉えてもよいのではな
いか。

無私の心で国民の幸せを祈られるのが我が皇室の伝統であるから、殿下
は水問題で、皇室の伝統的精神を発揮されている。こうしたことをあまり
報道しないのも日本のマスコミの偏向と言うべきか。

■2.世界の諸問題の根幹にある水問題■

貧困や飢餓の問題を辿ると、水問題にぶつかる。たとえば、アフリカに
は広大な土地があるのに、なぜ飢餓や貧困で多くの幼い命が失われている
のか。水がないからである。水さえあれば広大な荒れ地や砂漠が、緑の農
地に生まれ変わる。

中国のように乱開発から砂漠化が進み、黄河が一年の半分近くも干上が
り、大都市では飲料水ですら危機的状況にある国もある。

水は足りなければ問題だが、多すぎても問題を起こす。地球温暖化や異
常気象も、海面上昇や集中豪雨による河川氾はん濫らんなどの水の問題を
通じて災害を引き起こす。津波もその一つである。

平成21(2009)年3月にトルコ・イスタンブールで行われた第5回世界水
フォーラムでは基調講演で、徳川家康が当時の江戸湾にそそい でいた利
根川を銚子から太平洋に出るようにして江戸の洪水を防いだ事例 を紹介
され、こう述べられた。

平地の少ない日本では、時には猛威をふるう河川を流域全体で適切に管
理することが、国民生活の持続可能な発展に必須の条件でした。そのため
の努力が日本では継続的に続けられてきたのです。……

水関連災害については、災害直後には盛んに議論されますが、しばらく
経つと忘れ去られがちです。日本には、「災害は忘れたころにやってく
る」ということわざがありますが、災害が起こってからでは遅すぎます。

災害を起こさないような備えこそが求められているのです。そのために
は、昔も今も変わることなく、絶え間ない努力によって、一歩一歩、地道
に歩みを進めていくしかないのでしょう。
(『皇太子殿下││皇位継承者としてのご覚悟』明成社編より)


(続きは下記の書籍でご覧下さい)


■リンク
a. 伊勢雅臣『世界が称賛する 国際派日本人』、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594075681/japanonthegl0-22/
アマゾン「日本史一般」カテゴリー1位 総合61位(H28/9/13調べ)


__________
■『世界が称賛する 国際派日本人』に寄せられたカスタマー・レビュー 
62件、5つ星のうち4.9

★★★★★自分が生まれた国の文化、歴史、伝統を再発見出来る(ともちゃん)

 同一作者の著書「世界が賞賛する日本人が知らない日本」を読んで感動
し、同書をすぐに購入しました。時代を追って偉人達を紹介するとばかり
思っていたのが、ここ数年の記憶に新しい偉人達からの紹介で、とても新
鮮で分かり易く身近で同じ時代を生きる方々に感動しました。自分が生ま
れた国の文化、歴史、伝統を再発見出来る素晴らしい一冊です。

2017年09月04日

◆憲法学者に惑わされないために

伊勢 雅臣



一般国民の社会常識を働かせば、自衛隊違憲論には惑わされない。


■1.「危機が起きてからでないと法制はできませんでした」

朝のテレビ・ニュースを見ていたら、突然、それを遮って、「北朝鮮から
弾道ミサイルが発射されました。屋外にいる場合は、近くの頑丈な建物や
地下(地下街や地下駅舎などの地下施設)に避難して下さい」とのテロッ
プとアナウンスが流れた。全国瞬時警報システム(Jアラート)というシ
ステムだそうだ。

北朝鮮の最近のミサイル実験が、我々の日々の生活にも影響を及ぼし始め
た一瞬だった。こういう現実に直面すると、野党やマスコミが今まで騒い
でいた森友やら加計学園の空騒ぎぶりが、改めて国民の目の前に明らかに
なった。

ちょうど、自由民主党本部で湾岸戦争以降のすべての安全保障・防衛政策
の策定・立案等に関わってきた田村重信氏の近著『知らなきゃヤバい! 
防衛政策の真実』を読んでいたら、唖然とした一節があった。「今までの
危機管理法制というのは、危機が起きてからでないと法制はできませんで
した」と氏は指摘しているのだ。

昭和34(1959)年の伊勢湾台風で死者・行方不明者5千人以上を出して、災
害対策基本法ができた。よど号ハイジャック事件の後に「ハイジャック防
止対策本部(常設)の設置」などが決められた。平成7(1995)年の阪神・
淡路大震災では、放置車両が自衛隊の救援活動を妨害したので、災害対策
基本法が一部改正された、という具合である。

防衛政策や危機管理体制に関して、実際に被害が出てからでないと考えな
い、というのは、我々現代日本人の一大欠陥ではないか、と思えてくる。
この点で、Jアラートシステムにしろ、昨年の平和安全法制にしろ、北朝
鮮からの脅威に対して、現実の被害が出る前に対応が少しずつでもなされ
ているのは、一歩、前進だろう。


■2.半世紀以上も繰り返される同工異曲の批判

防衛政策に関して、なぜ「危機が起きてからでないと法制はでき」ないの
かは、田村氏の著書を見れば良く分かる。その都度、左翼が激烈な抵抗を
していたからである。

昭和35(1960)年の日米安保条約改定では、「米国の戦争に日本が巻き込ま
れる」と、全学連のデモ隊が国家に突入し、激しい反対闘争が繰り広げら
れた。

平成4(1992)年のPKO(国連平和維持活動)への自衛隊参加に道を開く
ためのPKO協力法案審議では「戦争への道だ!」と社会党、共産党が反
対し、朝日新聞も「PKO協力の不幸な出発」と題した社説を発表した。

平成11(1999)年に有事関連法制が国家に提出された時も、「有事法制は戦
争法だ」「アメリカの戦争に協力するためのもの」などと左翼は反対した。

こうした左翼の批判が正しかったかどうか、その後の歴史を見れば誰の目
にも明らかだ。日米安保条約で、日本はアメリカの戦争に巻き込まれた
か? PKO協力法で、わが国は自衛隊を「海外派兵」し、侵略戦争に乗
り出したのか?

その後、カンボジアやモザンビーク、南スーダンなど各地における自衛隊
の活動は世界の平和に大きく貢献し、各国から感謝され、国際的にも高い
評価を得ているのはご存じのとおりです。当時、猛烈に反対していた朝日
新聞なども、今では自衛隊のPKO支持に転じています。[1, 1588]

昨年、成立した平和安全法制に関しても、野党やマスコミの一部は「安倍
政権は日本の軍国化を目指している」「米国が起こす戦争に荷担すること
になる」などと批判をした。60年安保以来、半世紀以上もの間、現実を見
ずに同じ批判を繰り返しているのである。

一般社会で、ある人物が50年以上も誤った言説を主張し続け、しかも間
違っていた事実を認めず、反省も謝罪もしないとしたら、そんな人物はど
う受けとめられるだろうか? 間違った信念に凝り固まった狂信者か、別
の目的のためにそのような言説を繰り返す確信犯か、あるいは生活のため
にはもはや転向できなくなった利得者のいずれかであろう。

いずれにせよ、そのような人物を政界やマスコミ、学界に多数、抱えてい
ることは、わが国の自由民主主義国家としての構造的欠陥である。


■3.「サシミの法則」

「サシミの法則」をご存知だろうか? 「刺身」ではなく「三四三(サシ
ミ)」である。アリや蜂の社会を観察すると、自ら先頭に立って働く蜂が
3割、与えられた仕事をしている蜂が4割、怠け者の蜂が3割だという。

防衛の分野に当てはめると、国家の平和と安全を守るために声をあげてき
たリーダー蜂が3割、黙々と日々の仕事に打ち込んでいる働き蜂が4割、
半世紀以上も反省もなく誤った言説をまき散らしてきた抵抗蜂が3割とい
う構図だろう。

3割の抵抗蜂が狂信者か、確信犯か、利得者であるとすれば、事実も観
ず、論理も通らない彼らの考えを変えさせようとすることは無駄な努力だ
ろう。自由民主主義国家では言論と思想の自由があるから、放っておくし
かない。

ポイントは、4割の働き蜂がこれらの抵抗蜂の言説に惑わされずに、自ら
の目で事実を観て、自らの頭で論理的に考えるようにすることである。そ
れには抵抗蜂たちの言論がいかに事実に悖(もと)り、論理を歪めている
かを示すことだろう。この4割の働き蜂が健全な見識を持つことが、自由
民主主義社会を護る本道である。

その意味で、政権与党として、憲法や国際情勢の制約の中で、抵抗蜂と戦
いながら国民の安全と平和を守るために苦闘してきた田村重信氏の著書
は、4割の働き蜂が国防の常識的な事実と考え方を学ぶ上で好適である。


■4.「国家として当然の権利である自衛権」

抵抗蜂たちが働き蜂を惑わすために用いる代表的な言い分が「自衛隊は憲
法違反だ」という主張である。わが国は平和憲法を持っており、戦争を放
棄したのだから、軍隊は持つべきではない。したがって、自衛隊は憲法に
違反している、という。これに関しては、まず「自衛権」の概念を良く理
解する必要がある。

・・・国際法上、日本は国家として当然の権利である自衛権を有するとい
うことですので、したがって、自衛行動は憲法上許される。自衛のための
戦力に至らない必要最小限の実力という保持もこれは合憲である。[1, p2050]

平成24(2012)年2月、「民主党政権」時代に野田内閣の藤村修・官房長官
が衆議院予算委員会で答弁した内容である。これが伝統的な政府見解であ
り、最近の安倍首相も同様の発言をしている。

自民党から民主党に、そして再び、自民党へと政権が移っても、政府とし
ての憲法解釈は、そう簡単には変えられない。責任ある政権政党なら当然
の政治姿勢だろう。

ここで言われる「自衛権」とは、個人になぞらえて考えたら分かりやす
い。たとえば、「平和を愛する周囲の人々の公正と信義に信頼して、自分
の安全と生存を保持しようと決意した」人は、もし暴漢に襲われたとして
も、何の自衛手段もとれないのだろうか。

誰でも正当防衛の権利はある、というのが、人間社会の常識だろう。「だ
れかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と聖書は説く
が、どんな敬虔なキリスト教徒でも「暴漢に長男を殺されたら、次男を差
し出しなさい」とは言わない。

理想と現実のギャップを少しでも埋めようとする努力は大切だが、その
ギャップを無視して、あたかも理想が実現しているかのように振る舞うこ
とは、狂信者の行いである。

アフリカ・ソマリア沖を通過するタンカーなどを海賊から護るために海上
自衛隊の護衛艦を派遣する事に反対していたピースボートが、地球一周の
船旅で海自に護衛して貰った[2]。彼らは自らの理想が実現していると信
ずる狂信者ではなかった、ということである。偽善者ではあったが。


■5.国民を護るのは国家の義務

「自衛隊が違憲か」に関して、最高裁が唯一、憲法第9条の解釈をしたの
が「砂川判決」であり、そこには自衛権をベースに次のように述べられて
いる。

憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と
隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会に
おいて、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民と共にひとしく
恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認す
るのである。

しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持してその存立を全うするた
めに必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使と
して当然のことといわなければならない。


日本国民も「平和のうちに生存する権利」を有する。国家は、国民が互い
に助け合う共同体である、と考えれば、国家が国民の「平和のうちに生存
する権利」を護るために自衛権を持つというのは、国民に対する義務でも
ある。これが国際常識である。

人権を大切と考えるなら、最も基本的な人権は生命の安全なのだから、国
民の安全が北朝鮮の核ミサイルに脅かされている現在、人権運動家こそ、
現在の防衛体制で国民の人権を護れるのか、と政府に問い詰めなければな
らない。


■6.自衛のための「必要最小限度の武力の行使は許容される」

日本が国として自衛権を持ち、「そのための必要最小限度の武力の行使は
許容される」というのが、上述の最高裁の判断であり、従来からの日本政
府の基本的な立場でもある。

それでは憲法9条はどうなのか、との疑問があがるが、これについての政
府見解は、次のようなものであると田村氏は説明している。

まず、第1項の「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実希
求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛
争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」に対しては、政府は
次のような答弁書を出している。

憲法第9条第1項は、独立国家に固有の自衛権までも否定する趣旨のもの
ではなく、自衛のための必要最小限度の武力を行使することは認められて
いるところであると解している。[1, 172]


「自衛のための必要最小限度の武力」という点が、キーポイントである。
9条1項が禁じているのは、北朝鮮が核ミサイルでわが国を脅かしている
ような武力の使い方であって、その脅威から日本国民を護ろうとする武力
の行使は認められている、という解釈である。

第2項は「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保
持しない。国の交戦権は、これを認めない」であるが、これに対して、同
じ答弁書は次のように指摘している。

憲法第9条第2項は、『戦力』の保持を禁止しているが、このことは、自
衛のための必要最小限度の実力を保持することまで禁止する趣旨のもので
はなく、これを超える実力を保持することを禁止する趣旨のものであると
解している。[1, 204]


「必要最小限度の実力」に関しては、「性能上専ら他国の国土の潰滅的破
壊のためにのみ用いられる兵器については、これを保持することが許され
ないと考えており、たとえば、ICBM(大陸間弾道ミサイル)、長距離
戦略爆撃機、攻撃型空母みたいなものは保有することは許されない」とし
ている。[1, 204]


■7.「自衛隊が憲法違反だ」とする主張は憲法違反

政府見解はそうだとしても、ほとんどの憲法学者は「憲法9条は『戦力は
持てない』としているのだから、自衛隊は憲法違反だ」と考えている。彼
らは問い詰めるであろう、「政府見解がほとんどの憲法学者よりも正し
い、とする根拠はどこにあるのか」と。この異議に対する田村氏のカウン
ターパンチは単純明快である。

憲法81条は、「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に
適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である」と述べて
いる。政府見解が正しいか、大方の憲法学者が正しいのかを、最終的に決
定するのは最高裁判所である。

前述の砂川判決が最高裁が下した唯一のものである以上、「自衛隊が憲法
違反だ」とする主張そのものが憲法違反なのである。

もし憲法学者が心底から「自衛隊が憲法違反だ」と考えたら、その後の論
理展開は以下の3通りになる。

a)武力をいっさい認めない憲法では国民の「平和のうちに生存する権
利」を守れないから、自衛隊を合憲とするよう憲法を改正すべきである。

b)憲法の命ずる通り、武力はいっさい持つべきではない。したがって他
国に侵略された場合は、それを甘受し、どれほど国民が虐殺、略奪されて
も仕方がない。

c)憲法の命ずる通り、武力はいっさい持つべきではない。日本さえ他国
を侵略しなければ戦争は起こらないから、平和も人権も保てる。

一般社会の常識から考えたら、b)もc)もあり得ないだろう。それなら、
a)を主張すべきだが、憲法学者が改憲を主張している姿はあまり見たこ
とがない。要は、憲法学者の多くは、法学の世界に閉じこもっていて、そ
こから先を考えてないのである。

彼らの中には狂信者や確信犯や利得者もいるだろうが、いずれにせよ、3
割の抵抗蜂であることは確かである。我々、働き蜂の一般国民は国防の基
本的常識を学び、彼らの言説に惑わされないようにしなければならない。



■リンク■

a. JOG(969) 憲法9条改正シナリオ
 9条1項の「積極的平和貢献」は日本の伝統的理想、それを実現するた
めに2項「非武装」を改変すべき。
http://blog.jog-net.jp/201609/article_5.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 田村重信『知らなきゃヤバい! 防衛政策の真実』★★★、扶桑社、H29
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594077714/japanontheg01-22/

2. 産経新聞、H28.5.17「『危ないときは守って』はムシがいい」 ソマ
リア沖で海上自衛隊の護衛艦がピースボートを護衛」
http://www.sankei.com/politics/news/160517/plt1605170038-n1.html

■拙著『世界が称賛する国際派日本人』へのおたより

■明治維新以来の近代化指向が生んだ国際人の系譜をたどる(倉石英一さん)

本書の構成は、現代の国際人、ノーベル賞受賞の大村智氏から始まり、明
治天皇にまで遡っている。日本が多くのノーベル賞受賞者を輩出するの
は、国際人としての活躍が評価されているからだ。

しかし、そのルーツは明治維新から、我が国の近代化を実現するために、
多くの政府幹部を欧米に派遣したことだ。彼我のあまりの格差に愕然とし
ただろうが、当然ながら国際人としての見識を身に着けて帰国し、政府の
要職について活動したことが、明治期の近代西洋文明への挑戦を経て、富
国強兵など国力の増進に貢献した。

皇太子の地球レベルの水問題への関心から、多くの国際会議への参画な
ど、世界の水問題に取り組む連帯の象徴として活動しておられる。皇族の
立場を超えて、立派な国際人と言える。

不幸にして太平洋戦争に敗れたが、その過程、特に戦後処理の過程で、多
くの将軍たちが自らの責任を取る形で、部下の命を守った。これも立派な
国際人としての振る舞いだ。

また、戦後、植民地だったアジア諸国に残って、その独立のために戦っ多
くの日本軍人、民間人の活躍も国際人としての面目躍如たるものだ。

戦争末期に多くのユダヤ人を救ったエピソードも有名だ。偉大なる人道主
義者、樋口季一郎氏や杉原千畝氏は永遠に記憶に残るだろう。

戦後も、多くの日本人が、発展途上国の食糧問題に取り組んできた。中国
の米作りの指導、植林の支援、ネパールの高地での稲作指導など枚挙にい
とまがない。

この本には、上記以外にも、明治以来の系譜を引き継いだ、多くの有名、
無名の国際派日本人が登場する。今後とも、これらに倣って多くの日本人
に国際人としての活躍を期待したいものだ。その意味で、特に青少年の読
者に勧めたい一書といえる。

伊勢雅臣『世界が称賛する 国際派日本人』、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594075681/japanontheg01-22/

2017年08月08日

◆先人が歩んでいた人作りの道

伊勢 雅臣



〜『世界が称賛する 日本の教育』発売

我々の先人は、人作りの本当の道を知っていた。その事実を辿って、空想
的な左巻きき思想に基づく戦後教育から脱し、真の人作りの道に立ち返ろう。


■1.『世界が称賛する 日本の教育』アマゾン「日本論」1位

■2.まえがき 「手塩にかける」

創業110年以上、連結の従業員数20万人近くの日本を代表する名門大企
業・東芝が、不正会計処理や原発事業での買収失敗による巨額の損失で存
亡の危機に立たされています。またエアバッグで世界シェア20パーセント
を占める優良メーカー・タカタが世界で1億台以上、費用は1兆円に上る
リコールで経営破綻し、中国メーカーの傘下に入るようです。

不正会計、買収の失敗、品質問題など、これらはすべて経営の失敗であ
り、ひいては経営者育成の失敗と言えます。

ここで対照的な例として思い起こされるのが、拙著第3弾『世界が称賛す
る日本の経営』で登場いただいた日本電産の創業者・永守重信氏です。日
本電産は高度成長が終わりかけた昭和48(1973)年にわずか4人の若者で事
業をスタートしたにもかかわらず、現在では日本では従業員1万人、世界
33カ国で11万人の巨大・優良企業に育っています。

この急成長の原動力が破綻しかけた企業の買収や合併で、人は1人も切る
ことなく、永守氏自身が買収先・合併先を定期的に訪れて指導をする。こ
れによって50社以上の再建をすべて成功させているといいます。

最近はあまり使われなくなったが、?手塩にかける?という言葉がある。
厳しさのなかにも愛情があふれ、未熟で不慣れな後輩をそれぞれの個性や
タイプに応じて、手間暇かけてじっくりと一人前に育て上げていくという
イメージがあって、わたしの好きな言葉の一つである。
(永守重信著『人を動かす人になれ!』三笠書房より)


このように人や会社、部下が大変身を遂げ、強く、たくましくなっていく
姿を眺めるのが、わたしの最高の喜びであり、生き甲斐でもある。(同前)

■3.「松下電器は人をつくっています」

数人の町工場から世界的な大企業に成長させたという面での大先輩が松下
電器産業株式会社(現・パナソニック株式会社)を創業した松下幸之助で
あり、拙著にも「日本的経営の体現者」として登場いただきましたが、そ
の中で人作りに関しては次のような発言を紹介しました。

私はまだ会社が小さいころ、従業員の人に、「お得意先に行って、『君の
ところは何をつくっているのか』と尋ねられたら、『松下電器は人をつ
くっています。電気製品もつくっていますが、その前にまず人をつくって
いるのです』と答えなさい」ということをよく言ったものである。

いい製品をつくることが会社の使命ではあるけれども、そのためにはそれ
にふさわしい人をつくらなければならない。
(松下幸之助著『実践経営哲学』PHP研究所より)


日本電産やかつての松下電器の興隆と、東芝やタカタの失敗を比べてみれ
ば、「事業は人なり」という言葉がいかに真実をついているかが、よく分
かります。


■4.「人さえ作れば、利益は勝手についてくる」

私自身も、はるかに小さな事例ですが、日本での子会社、ある事業本部、
その後、イタリアとアメリカの現地法人のトップを勤めて、この「事業は
人なり」を「体感」しました。

社長は事業の細部に口を挟んだり、従来とは違う事をやろうとするより
も、社員を「手塩にかけて」育て、一人ひとりがその才能や適性をフルに
発揮できるような環境と組織を整えて、それぞれの仕事にやる気に燃えて
取り組めるようにした方が、はるかに事業成果の面でも早道なのです。
「人さえ作れば、利益は勝手についてくる」というのが、私の口癖でした。

実際に、合計4つの事業・会社のそれぞれで、私の在任中に過去最高益を
達成しました。しかし、私の本当の自慢は、私の後任により優れた経営者
が来ると、育った社員たちが彼らのもとで実力を発揮して、さらに最高益
を更新していったことです。従業員たちが活き活きと仕事に取り組み、私
の後でも最高益を更新し続けてくれる姿を見ることは、何にも替えがたい
喜びでした。

「事業は人なり」という事は簡単な算術で説明できます。100人の会社
で社長だけがさらに平均的社員の5倍働いても、105人分の働きにしか
なりません。それよりも、100人の社員の能力ややる気を伸ばして、全
員が10%、より良い仕事ができるようになると、110人分の働きとな
ります。

その分だけ、社員は仕事にやりがいを持てるようになりますし、利益が増
えて社員の処遇を良くする事も出来ます。そういう良い仕事をする社員た
ちの活躍で、お客様により喜んでいただけるようになりますし、事業の発
展は社会にも貢献します。

前著『世界が称賛する日本の経営』では「売り手良し、買い手良し、世間
良し」こそ日本の経営の本質だと指摘しましたが、その「三方良し経営」
の原動力は人づくりなのです。(以下略)


■5.本書の内容(一部)

◎「子は国の宝」の経済学
 教育経済学という最先端の研究分野で、我が国の伝統的な躾の効果が実
証されつつある。

◎「日本人という生き方」
 ウガンダの高校で野球監督となった日本人青年が、日本の躾で選手たち
を鍛えたら、、、

◎「教育勅語」――世界人類に共感される広やかな
「教育勅語」を下敷きにしたアメリカの道徳教科書が3千万部も売れた。

◎学力・体力トップクラス一――福井県の子育てに学ぶ
 福井県の子供たちは、あまり塾にも行かないのに、なぜ学力も体力も日
本トップクラスなのか。

◎親学のすすめ――母の愛で子は育つ
「学校でも大学でも教えていないのは、親になる方法だ」

◎江戸日本はボランティア教育大国だった
 江戸時代の日本は当時の欧米諸国をはるかに凌駕する教育大国で、それ
は全国の寺子屋の「お師匠さま」たちが実現した。

◎国語力が「壁を乗り越える力」「共に生きる力」を養う
 3年間かけて薄い文庫小説を一冊読むという破天荒な国語教育が東大合
格者数日本一をもたらした。

◎古典教育が日本の近代化をもたらしたという逆説
 漢文の素読など古典教育を受けた青年たちが、どうして明治日本の近代
化を成し遂げたのか。


■6.あとがき 〜 「空想から科学へ」

 筆者が製造業の技術屋として社会生活をスタートした頃、先輩や上司か
ら口うるさく指導されたのは、「机上の空論に頼るな、現場で虚心に事実
を観ろ」という事でした。

 これは単純ですが、深い教えでした。たとえば、人類は昔から太陽や星
が地球の周りを巡っているという天動説を信じてきましたが、ガリレオ・
ガリレイの望遠鏡による天体観測から、地球が太陽の周りを回っていると
いう地動説が有利になりました。

しかし、当時のキリスト教会は、神が創った人間の住む地球が宇宙の中心
だというキリスト教的世界観から天動説への疑いを許さず、ガリレオを宗
教裁判にかけて有罪としました。ガリレオの望遠鏡によって「事実を見
る」という行為がなければ、人類は今でも天動説という「机上の空論」を
信じていたかも知れません。


■7.「科学から空想へ」の逆コースを辿った戦後教育

 自然科学や技術の世界では「事実を観る」ことで着実な進歩を遂げてい
ますが、社会科学では難しいようで、「机上の空論」が長い間、人類を支
配する、ということがよくあるようです。

典型的な例がカール・マルクスで、大英図書館で共産主義という壮大な机
上の空論をでっちあげました。それまでの空想的共産主義から科学的な共
産主義に進化するという意味でマルクスは「空想から科学へ」と言いまし
たが、マルクスは事実をしっかり観察することが科学の基本だということ
が分かっていなかったようなのです。

そして、マルクスの空論によって、その後、世界中に共産革命が起き、そ
れに反対する1億人とも言われる人々が犠牲となりました。マルクスが大
英図書館を出て、もう少し事実を観ていたら、こんな悲劇は起こらなかっ
たかも知れません。

 実は、教育思想の面でも、同様の机上の空論が幅をきかせてきました。
たとえば、「近代教育学の祖」と言われるジャン・ジャック・ルソーは人
間は文明社会の中でゆがんで育てられている、という空想から、教育では
子どもの天性をそのまま伸ばすべきだと考えたようです。そして自分で
は、5人の子どもを生まれたそばから次々に遺棄してしまいました。今
日、「子どもの権利」を主張する教育思想は、ここから来ています。

 ルソーの影響を受けたレーニンは、共産革命後のソ連で家族解体法を制
定しました。その影響で堕胎と離婚が急増し、数百万人の孤児の発生など
で社会が崩壊状態となり、スターリンはあわてて、この法律を廃止しまし
た。しかし、福島瑞穂氏はそんな事実も観ずに、「事実婚主義」を掲げ
て、いまだにレーニンの家族解体思想を「理想」としています。

 英国のジョン・スチュワート・ミルは人妻の愛人となり、その夫や子ど
もたちとも同棲する二夫一妻関係に陥って、英国社会からごうごうと非難
を浴びましたが、その弁護のために持ち出したのが、「他人の自由を侵害
しない限り何をやっても良い」という自己決定の概念でした。今日の左巻
きの教師が「性の自己決定権」などと子どもたちを洗脳しているのは、こ
の受け売りです。

 欧米でも歴史伝統に基づいた立派な教育もあるのですが、その事実を観
ることなく、欧米の最も空想的な教育思想を直輸入して、我が国の伝統的
な教育を歪めてきたのが、我が国の戦後教育と言えるでしょう。いわば、
「科学から空想へ」という逆コースを歩んできたのです。

No.442 「科学から空想へ」 〜 現代日本の教育思想の源流
「子供の権利」「自己決定権」「個性尊重」などの教育思想の源泉にある
「空想」
http://blog.jog-net.jp/200604/article_1.html


■8.我々の先人は、人作りの本当の道を知っていた

 本書では、こうした机上の空論の愚を避けるために、江戸時代から現代
までの様々な教育実践事例で成功してきた事実を取り上げて考察しまし
た。そこから浮かびあがって来た事実は、我々の先人は、人作りの本当の
道を知っていた、ということです。それが本書のタイトルである「世界が
称賛する 日本の教育」です。

 もちろん、それは完全なものではなく、たとえば、大東亜戦争の敗戦に
見られるように、政治家や軍人などリーダー層の育成に関しては、反省す
べき点が多々あると考えます。

 それはそれとしても、少なくとも乳幼児から青年に至るまでの教育に関
しては、現代の我々が謙虚に学ぶべきたくさんの事実が、先人たちの事績
にはある、という事が、本書を通じて明らかにできたのではないか、と思
います。
 
 昨今、国民が左巻きの空想から解放されつつある現況というのは、大
変、喜ばしいのですが、間違った空想がなくなったからと言って、正しい
方向に歩んでいけるとは限りません。どのような教育を目指すべきか、と
いう方向を、しっかりした事実認識をベースに考える必要があります。本
書がそのために多少なりともお役に立てれば、これに勝る喜びはありませ
ん。(以下略)

2017年08月02日

◆冷戦下のヒロシマ

伊勢 雅臣



トルーマンは、ソ連を威圧するために原爆の威力を実戦で見せつけた。
(平成11年8月7日発信)

昭和20年8月6日 広島への原爆攻撃がなされました。当時、制海権も 制空
権も奪われた日本の降伏は時間の問題で、原爆攻撃どころか、本土進 攻
も不要だと考えられていました。なのに、なぜ原爆攻撃は行われたので
しょうか?

■1.不必要だった原爆投下■

アイゼンハワー連合軍最高司令官(後の米国大統領)は、スティムソン
陸軍長官から、原爆使用の計画を聞かされた時の事を思い出して、次のよ
うに述べている。

彼が関連の事実を述べているうちに、自分が憂鬱な気分になっていくのが
分かって、大きな不安を口にした。まず、日本の敗色は濃厚で、原爆の使
用は全く不必要だという信念を持っていた。・・・ 日本はまさにあの時
期に、「面目」を極力つさない形で降伏しようとしていると、私は信じて
いた。[1,p11]

当時の米陸海軍の高官たちは、異口同音に原爆使用が不必要だったと述べ
ている。たとえば:

アーネスト・J・キング米艦隊最高司令官:(原爆も日本本土への上陸作
戦も必要ないとして)なぜなら、じっくり待つもりさえあれば、海上封鎖
によっていずれ石油、米、薬品などの必需品が不足し、日本人は窮乏して
降伏せざるをなくなるからだ。[1,p471]

カーティス・E・ルメイ陸軍航空軍少将:(B29bの空襲に より、日本に
はすでにめぼしい爆撃目標がなくなりつつあり)ロシアの参戦がなく、原
爆がなくとも、戦争は2週間で終わっていただろう。[1,p485]

同様な見解を漏らした米軍人としては、ウィリアム・D・レイヒ海軍大
将・大統領首席補佐官、チェスター・ニミッツ提督、ウィリアム・ハル
ゼー大将、ヘンリー・H・アーノルド陸軍航空軍司令官、あのダグラス・
マッカーサー元帥など枚挙に暇がない。

これら米軍高官たちの意見を無視して、トルーマン大統領は広島、長崎に
原爆投下を命じた。その狙いは何だったのか?

■2.原爆という切り札■

1945年5月6日、英首相チャーチルは、緊急の米英ソ首脳会談をトルーマ
ンに提案した。ソ連は占領下のポーランドで傀儡政権を作り、16人の地下
活動家を逮捕していた。このままでは東欧全域がソ連の勢力圏内に入って
しまう、と危惧したのである。

トルーマンの回答は、会談には賛成だが、7月15日以前では出席できない
というものだった。「会計年度内に予算教書を作らねばならない」という
理由に、チャーチルはあきれ、怒った。何度も早期開催を要求したが、ト
ルーマンの返事は変わらなかった。

トルーマンが、ポツダム近郊でスターリンと会談をしたのは、7月17日正
午であった。そのわずか21時間前に、米国ニュー・メキシコ州で世界最初
の原爆実験が成功していた。

科学者たちは悪天候のために、実験延期を主張していたが、責任者のグ
ローブス少将は強行させた。「ポツダムの事がそんな具合だっら、・・・
延期できなかった」と後に語っている。トルーマンは、原爆という切り札
を手にしてから、スターリンと対決しようと考えていたのである。

■3.トルーマンの強気■

チャーチルは本会議の始まった瞬間からトルーマンが強気なのに驚いてい
た。原爆のことを知った後で、彼はスティムソン陸軍長官に語った。

昨日トルーマンに何があったのか、やっと分かった。私には理解不能だっ
た。この(実験成功の)報告を読んだ後で会談にやってきた彼はまったく
別人だった。とにかくロシア人に向かってああしろ、こうしろと指図し、
初めから終わりまで会議を取り仕切っていた。[1,p372]

一方、スターリンも、スパイによって原爆の情報をつかんでいた。宿舎
に帰ってから、モロトフ外相に言った。「クルチャトフに、すぐに連絡し
て、仕事を早めろといっておこう。」 クルチャトフとは、ソ連の核開発
の責任者である。[2,p82]

これが米ソの核軍拡競争の始まりであった。

■4.ロシア参戦の前に片をつけたい■

米国は45年4月半ば位までは、日本を降伏させるために、ソ連の参戦は必
要不可欠だと考えていた。本土侵攻のためには、関東軍を満洲に釘付けに
しておかねばならず、そのためにソ連の北からの攻撃が必須であった。ま
たソ連の参戦自体が、日本を降伏に追い込む大きな衝撃になりうると考え
ていた。

しかし、その後、米海軍が制海権を握ったことにより、関東軍の帰国を阻
止できる見通しがついた。またB29による絨毯爆撃で、日本本土侵攻自体
ももはや不要という見方が広がっていた。

さらにソ連を参戦させることは東ヨーロッパのような厄介な問題を極東に
持ち込む恐れがある。「ロシアが参戦する前に何としても日本問題に片を
つけたい」(バーンズ国務長官)というのが、当時のアメリカの本音だっ
た。[1,p392]

スターリンは5月7日のドイツ降伏から3ヶ月たてば、対日参戦すると約
束していた。8月の初旬である。後のニキタ・フルシチョフ首相は次のよ
うに回想している。

スターリンは軍の幹部に、できるだけ早く軍事行動を始めるよう圧力をか
けた。・・・ 参戦する前に日本が降伏すればどうなるか。ソ連にはまっ
たく借りがないとアメリカは主張するだろう。[2,p88]

■5.日本は降伏しようとしている■

冒頭で引用した「日本は降伏しようとしている」とのアイゼンハワー司
令官の言葉は、まさに当時の米国首脳部に共通の認識であった。

日本の暗号はすべて解読されており、日本政府内のやりとりは筒抜けに
なっていた。7月12日には、東郷外相がモスクワの佐藤大使にあてた電報
が傍受されている。

天皇陛下は、現今の戦争が日々、すべての当事国の国民により大きな災い
と犠牲をもたらしていることに配慮され、心より早期終戦を望んでおられる。

戦争終結に向けてソ連の支援を要望する親書を携えた天皇の特使をソ連政
府が受け入れるように要請していた。[1,p332]

■6.日本の降伏を阻んでいた「無条件降伏要求」■

日本の降伏に最大の障害となっていたのは、ルーズベルト前大統領が言い
出した「無条件降伏」であった。無条件降伏ともなれば、占領、賠償金、
領土割譲、戦争指導者の処刑など、戦勝国に何をされても文句は言えない
わけで、国政に対して責任を持つ政 府が受諾できるものではない。無条
件降伏を求める事は、「全滅するまで戦うしかない」と相手を追い詰める
ことに他ならない。

降伏条件を明確にすることで、日本が望む降伏への道を早く開き、連合
国側の犠牲を食い止める事ができる、というのが、当時の米国首脳部の一
致した意見であった。

トルーマン大統領に対して、「降伏条件の明確化」を訴えていたのは、
グルー国務長官代行、フーバー元大統領、レイヒ大統領首席補佐官、ス
ティムソン陸軍長官、バード海軍次官、統合参謀本部など、米国指導者の
ほとんどであり、チャーチル首相と英軍トップの指導者全員がこれを支持
していた。[1,p432]

さらに米国のマスコミも、ワシントン・ポスト、ニューヨーク・タイム
ズ、タイム、ニューズウィークなどが条件明示による早期戦争終結を主張
していた。

■7.削除された「天皇制容認」条項■

日本側が受諾可能な降伏条件として、天皇制の存続を認めることが不可欠
だという点は、米政府内の一致した見解であった。また国内外に残る数百
万の日本軍に降伏を受け入れさせるためにも、天皇の命令が必要だと米軍
トップは認識していた。

このような主張をもとに、米国務省、陸軍、海軍3省の合同委員会によっ
てまとめられたポツダムでの声明案第12項には、次のように、天皇制の存
続を認める一節が含まれていた。

これらの目的が達成され、日本国民の総意を代表する平和志向で責任ある
政府が疑いの余地なく樹立されるのと同時に、連合国の占領軍部隊は日本
から引き揚げる。

そのような政府が将来の日本において侵略的な軍国主義の台頭を許さない
という決意で平和の政策を実施すると、平和を愛好する国々(連合国)が
確信をもてれば、現在の皇室の下で立憲君主制ということもありうる。
[1,p430]

しかし、7月26日に発せられたポツダム宣言では、この後半部分がト
ルーマン大統領とバーンズ国務長官により削除された。

日本政府はそのために、ポツダム宣言をいったんは「黙殺」したが、8
月6、9日の広島、長崎への原爆攻撃、および、8日のソ連の宣戦布告の
後の10日、「国家統治の天皇の大権にいかなる変更も加えるものではない
という了解のもとに」受諾した。翌11日、連合国側から日本の降伏を受け
入れる回答がなされた。

日本側の条件は、まさにポツダム宣言から削除されていた天皇制容認条
項と合致している。トルーマンはこの条項を一旦削除した上で、日本側か
ら要求されると、すぐに了承したのである。

マッカーサーは「アメリカが後に実際にそうしたように、天皇制の維持
に同意していれば、戦争は何週間も早く終わっていたか もしれなかっ
た」と述べている。[1,p508]

■8.冷戦の最初の犠牲者■

となると、問題なのは、なぜトルーマンが一時、ポツダム宣言から天皇
制容認の条項を削除したかである。大統領の7月25日の日誌にはこうあ
る。[1,p436]

われわれはジャップに降伏して命を救うように要請する警の声明を発表
する。だが、やつらは降伏しないであろう。

トルーマンは日本が受諾しないだろうと知りつつ、ポツダム宣言から天
皇制容認条項を削除し、戦争を長引かせるような措置を意図的にとった事
になる。

同じくこの25日早朝には、ポツダムからワシントンの国防総省に、「8
月3日以降なるべくすみやかに原爆を落とせ」という命令が届けられた投
下はポツダム宣言発表の前日に、すでに命令されていたのである。

トルーマンの意図について、歴史家のハーバート・ファイスはこう述べて
いる。[1,p457]

原爆の威力を実際の戦闘で実証すれば、ソ連と対立していた問題の解決
でアメリカ政府の威信を効果的に増大できるだろうと考えられていたこと
は大いにありうる。

彼らは誇示する力が強力であることを望み、また、それは原爆の威力がお
びただしい数の死傷者によって示されて初めて可能だと考えられたと、さ
らに推論することができる。

トルーマンは、ソ連を威圧し、極東での発言権を封じるために、 原爆の
威力を実戦で見せつけ、原爆が−ソ連参戦でなく−日本を 降伏に追い込
んだという形を狙った。

そのためには、原爆投下前の日本降伏は避けねばならず、ポツダム宣言を
日本がすぐには受諾できないように改変した。これが、[1]の著者アルペ
ロピッツが唯一成り立ち得る仮説として述べているものである。

原爆投下は第2次大戦最後の軍事行動というより、ロシアとの外交上の冷
戦における最初の主要な作戦だった。(イギリスのノーベル賞物理学者
P・M・S・ブラケット)[1,p181]

とするならば、広島の20万人以上、長崎の7万人以上の死者 は、米ソ冷
戦の最初の犠牲者だったということになる。黙祷。

■ 参考 ■
1. 「原爆投下決断の内幕・上」、ガー・アルペロビッツ、ほるぷ出版、
  H7.8
2. 「アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか」、ロナルド・タカキ、
  草思社、H7.6



2017年07月31日

◆日本が直面した共産主義の脅威

伊勢 雅臣



ロシア革命 〜 日本が直面した共産主義の脅威

共産主義がどのような脅威を与え、どのような悲劇をもたらしたのか。


■1.「良い動機が必ずしも良い結果を生まない」

東京書籍版(東書版)中学歴史教科書は、「ロシア革命」にまるまる2頁
を割いて、ずいぶんと意気込んだ記述をしている。冒頭からして、こんな
書き出しである。


【ロシア革命】 社会主義は、資本主義がもたらした社会問題を解決しよ
うとして生まれた思想でしたが、国境をこえた労働者の団結と理想社会を
目指す運動になって、各国に広がりました。ロシアでも、政府による弾圧
にもかかわらず、社会主義は勢力を拡大していました。[1, p200]


労働者階級の貧困を助けよう、という動機は立派だが、ここから始まった
社会主義・共産主義によって、世界全体で1億人とも言われる犠牲者が生
まれ、今もその残滓がシナや北朝鮮に残って、日本を含めた周辺諸国を脅
かしている。

良い動機が必ずしも良い結果を生まないという現実を学ぶことは、歴史教
育の眼目の一つであろう。それを歴史から学ぶことで人類の文明も進歩し
てきた。しかし、東書版の記述を見ると、この歴史の智恵を筆者たちが学
んでいるのか、不安を感ずるのである。著者の過ちは、この教科書で歴史
を学ぶ中学生にも受け継がれてしまう。


■2.暴力革命

まず、ロシア革命の経過について、東書版は次のように記述している。

第1次世界大戦が総力戦として長引き、民衆の生活が苦しくなると、ロシ
アで戦争や皇帝の専制に対する不満が爆発しました。1917(大正6)年に「パ
ンと平和」を求める労働者のストライキや兵士の反乱が続き、かれらの代
表会議(ソビエト)が各地に設けられました。

皇帝が退位して議会が主導する臨時政府ができましたが、政治は安定せ
ず、社会主義者レーニンの指導の下、ソビエトに権力の基盤を置く新しい
政府ができました(ロシア革命)。この革命政府は、史上初の社会主義の政
府でした。[1, p200]


「皇帝の退位」に関しては、「ニコライ2世」と題した則注があり、「革
命の翌年に、家族とともに処刑されました」とある。

同じ部分を、育鵬社版はこう記述している。ソビエト政権の誕生までは、
ほぼ同様の記述だが、それからが異なる。

ロシアの革命政府はドイツと講和を結び戦争を中止し、革命に反対する国
内勢力との内戦に入りました。退位したロシア皇帝やその家族は処刑さ
れ、資本家や地主知識人は捕らえられ、多数の人々が殺害されたり、シベ
リアに追放されたりしました。[2, p212]

内戦、逮捕、殺害、追放などの記述は、東書版には全く登場しない。東書
版では、ロシア革命が「暴力革命」であることを学べないのである。


■3.「ソ連の計画経済」の実態

次いで、革命政府がどのような経済政策をとったのか、育鵬社版は、こう
説明する。

ソビエトは世界初の共産主義社会の実現をめざす政府でした。貧富の差を
生むとして自由な生産活動を禁止し、土地や農場銀行、鉱山、鉄道などほ
とんどすべての企業を国有化し、国家が管理することになりました。議会
政治を否定し、共産党にすべての権力が集中する一党独裁政治が行われ、
市民の自由は奪われました。[2, p212]

計画経済を導入しようとすれば、必ず人々の自由を奪い、議会政治を否定
し、独裁政治となる。これが共産主義の常道であり、無数の悲劇もここか
ら起こる。育鵬社版の記述は簡潔かつ正確である。

東書版では「ソ連の計画経済」という3分の1頁ものコラムを設け、その
仕組みを詳しく説明する。

社会主義を唱える人々は、資本主義の問題点が利益を目指す自由競争にあ
ると考え、私有財産を制限して自由競争をなくし、国家が計画的に物を生
産して、個人の必要に応じて分配する理想社会を作ろうと考えました。
[1, p201]

と、また理想論から説き始め、生産性向上のための「5カ年計画」が建て
られたことを紹介して、その結果をこう総括する。

最初の5か年計画は4年で達成され、次の5か年計画に移行するなど、世
界恐慌で苦しんだ資本主義の国々とは対照的に、ソ連は順調に経済成長を
達成し、国家建設が進むかに見えました。

しかし、第2次大戦後には、資本主義の国々に包囲された条件の中で、
人々の自由な活動や個性は抑圧され、形式的な面ばかりが重視されるよう
になり、ソ連の社会は非効率になっていきました。[1, p201]

ソ連の躍進を述べた後で、第2次大戦後には「ソ連の社会は非効率になっ
ていきました」と言う。「非効率」どころか、計画経済の行き詰まりか
ら、社会主義体制が崩壊した事を語らない。しかも、「資本主義の国々に
包囲された条件の中で」と原因を他所に求める。世界中が社会主義になっ
ていたら、うまく行っていたはずだ、とでも言いたいようだ。


■4.「干渉戦争」

皇帝を処刑し、国内の反対者を逮捕、処刑する暴力革命は、欧米諸国や日
本を震撼させた。育鵬社版の記述では:

ロシア革命の影響を警戒した欧米諸国は、シベリアに兵を送り、革命政府
に圧力を加えました。わが国も1918(大正7)年、アメリカなどとともにシ
ベリア出兵を行い、共産系軍と戦いましたが、成果がないまま撤退しまし
た。[2, p212]

 東書版はこう記述する。

ロシア革命は、資本主義に不満を持ち、戦争に反対する人々に支持され、
各国で社会主義の運動が高まりました。しかし、イギリス、フランス、ア
メリカ、日本などは、革命政府の外交方針に反対し、また社会主義の影響
の拡大をおそれて、ロシア革命への干渉戦争を起こし、シベリア出兵を行
いました。

革命政府は労働者と農民を中心に軍隊を組織して干渉戦争に勝利し、国内
の反革命派も鎮圧して、1922年にはソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)
が成立しました。しかしソ連はしばらくの間、国際社会から国として認め
られませんでした。[1, p201]

愛国的なソ連の歴史学者が、干渉戦争の勝利、反革命派の鎮圧を歌いあげ
ているような筆致である。


■5.「文明への恐るべき脅威」

シベリア出兵には、もう少し複雑な背景がある。ドイツは革命政権との講
和により東部戦線から西部戦線に兵力を集中し、英仏は苦戦に陥った。そ
こで、英仏はロシア帝国軍の一部として戦っていたチェコ軍を救出するこ
とを名目に、日本に出兵を求めたのである。

英仏としては、日本軍がシベリアに出兵することで、ドイツの目を再び、
東方に向けさせること、また反革命に立ち上がっていたロシア軍(白軍)
との共同で、革命政権を打倒する事を狙った。日本としては、白軍がシベ
リアで反共産主義の自治領を樹立すれば、共産主義への防壁となる、とい
う防衛構想があった[3,p95]。

これにアメリカも賛同し、日米を主力として英仏伊を加えた連合軍による
共同出兵となった。シベリアでの内戦では60万人の共産軍(赤軍)に対
し、白軍が40万人、それに日本軍7万3千などの連合国が荷担した。

1918(大正7)年11月にドイツが降伏し、また白軍政府も崩壊すると、連合
国はシベリア介入の目的を失い、1920年には相次いで撤退した。しかし、
その矢先に起きたのが、樺太の対岸、尼港(ニコライエフスク)で起きた
虐殺事件だった。

これは共産軍が、白軍と日本軍が護っていたニコライエフスクを襲い、市
民6千人とともに、駐留日本軍と在留邦人約730人を虐殺した事件であ
る。その残虐さに日本国民は激昂し、それがために撤兵も大幅に遅れたの
である。

アメリカのラインシング国務長官は、日本のシベリア出兵に関して、日記
にこう書いている。

ボルシェビキ(共産主義過激派)が満鮮に浸透した場合の日本に対する危
険を考へてみる時、過激派進出を阻止するため日本が十分な兵力を派遣す
ることに反対すべきではない。何故なら、極東へのボルシェビズムの蔓延
は文明への恐るべき脅威だからである。[4, p170]


東書版では則注で「特に日本は、シベリア領土を得ることも目的にして、
大軍を派遣しました」と書くが、シベリア出兵から共産主義の脅威という
背景を隠してしまえば、こういう記述になってしまうのだろう。


■6.日本共産党はコミンテルン日本支部

実際に、革命政府はすぐに世界の共産化に乗り出した。その様を、育鵬社
版はこう記述する。

1919年、世界に共産主義を広めるため、 コミンテルンとよばれる革命指
導組織がつくられました。各国の共産党はコミンテルンの支部として結成
され、それぞれの国を共産化するための活動を始めました。[2, p213]

 さらに、この部分の則注として:

ロシア革命の発生は、日本の社会主義者を強く刺激した。彼らの一部は、
コミンテルンの支援と指導を受けて,1922年、ひそかに日本共産党を結成
した。

日本共産党の正体は、コミンテルン日本支部なのである。この点を、東書
版は次のように巧みにぼやかしている。

ロシア革命を指導した政党は、将来の共産主義の実現をかかげていたの
で、名前を共産党に改めました。共産党は他の国にも設立され、ソ連共産
党を頂点とする国際的な機関も結成されましたが、ソ連以外では社会主義
革命は実現しませんでした。[1, p201]

日本共産党の幹部だった筆坂秀世氏は「活動資金までコミンテルンに依存
していたこともあり、共産党はコミンテルンの歯車の一つだったに過ぎな
い」と語っている[a]。また、コミンテルンの手先だった朝日新聞記者・
尾崎秀實(ほつみ)は「ソ連を日本帝国主義から守る」ために、日本と蒋
介石との戦いを煽っていた[b]。

日本のシベリア出兵をソ連に対する「干渉」と言うなら、こうしたコミン
テルンの工作も日本の内政に関する「干渉」なのである。


■7.「多くの犠牲者」

レーニンの世界革命路線が失敗すると、後を継いだスターリンについて、
東書版はこう述べる。

このためレーニンの後に指導者になったスターリンは、ソ連一国での共産
主義化を優先し, 1928(昭和3)年からは5か年計画を始めて、重工業の増
強と農業の集団化を強行しました。この計画経済によって、 ソ連は国力
をのばしました。しかしその一方で、国の強硬な方針に批判的な人々は、
追放されたり処刑されたりして、多くの犠牲者が出ました。[1, p201]


最後の一文にいたって、ようやく「多くの犠牲者」が出てくる。共産主義
の犯罪を研究した『共産主義国書』では、ソ連の犠牲者数は2千万人とさ
れている。「多くの犠牲者数」という表現から、こんな規模を思い浮かべ
る中学生はいないだろう。

一方、育鵬社版は、次のように総括する。

レーニンの死後、権力をにぎったスターリンは、農業の集団化をおし進め
るとともに、工業国への転換をめざしました。そのあいだ、スターリンは
秘密警察による情報網をはりめぐらせ、共産党に反対する人々を摘発して
収容所に送り、おびただしい数の犠牲者を出しました。[2, p213]

東書版に比べ、「秘密警察」や「収容所」を出して、はるかに具体的だ
が、「おびただしい数の犠牲者」でも、まだ規模のイメージはつかめな
い。確定数字は出せないにしても、過去の主要な研究でいくつかの推定数
字を出すだけでも、ロシア革命による犠牲者数は世界史上空前であること
が分かるはずだ。

育鵬社版は、この項を「わが国は、北の国境で共産主義という新たな脅威
と直面することになりました」と結んでいる。これだけの犠牲者を生み出
す共産主義から、いかに国を護るか、これが20世紀に入ってからの我が
国の重要な防衛課題となるのである。そういう認識が、東書版にはまった
くないように見える。



■リンク■

a. JOG(941) 日本共産党小史 〜 国民政党なのか、外国工作機関なのか
 日本共産党は世界共産化を狙うコミンテルンによって設立され、その資
金と指示で武闘路線を歩んできた。
http://blog.jog-net.jp/201603/article_1.html

b. JOG(263) 尾崎秀實 〜 日中和平を妨げたソ連の魔手
 日本と蒋介石政権が日中戦争で共倒れになれば、ソ・中・日の「赤い東
亜共同体」が実現する!
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h14/jog263.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
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1. 『新編新しい社会歴史 [平成28年度採用]』★、東京書籍、H27
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4487122325/japanontheg01-22/

2.伊藤隆・川上和久ほか『新編 新しい日本の歴史』★★★、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4905382475/japanontheg01-22/

3. 伊藤之雄『政党政治と天皇 日本の歴史22』★★、講談社学術文庫、H22
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4062919222/japanontheg01-22/

4. 中村粲『大東亜戦争への道』★★、展転社、H2
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2017年07月17日

◆マラリアと戦う日本の蚊帳

伊勢 雅臣



■1.「これだけ多くの世界中の人々に、うちの蚊帳は期待されているのか」

国際社会を代表する政治家や実業家が年に1回、スイスの保養地ダボスに
集まって、世界の諸問題を討議するダボス会議。2005(平成17)年の「貧困
撲滅のための財源に関する分科会」で、一つの事件が起きた。[1]

壇上から、タンザニアのムカパ大統領が「今日も、この瞬間も、マラリア
で亡くなっていく子供たちが存在します。今すぐに助けが必要なのです」
と訴えた。現実に2000年には世界で84万人の死者が出ており、そのほと
んどがアフリカだった。[2]

それを聞いていたハリウッド女優のシャロン・ストーンが「私が個人とし
て、一万米ドルを供出します。それでオリセットの蚊帳を購入して配布し
てほしい。他にも賛同する方はいませんか」と呼びかけた。その呼びかけ
にマクロソフトのビル・ゲイツなどが次々に賛同し、その場で100万ド
ル、1億円相当の寄付が集まったのである。

オリセットネットは蚊帳を作るポリエチレンの糸に防虫剤を練り込み、そ
れが徐々に表面に染み出して、5年以上も防虫効果を持つという製品で、
日本の住友化学が開発した。

ダボス会議の前年に、オリセットネットは米国の『TIME』誌から、"Most
Amazing Invention"(最も驚くべき発明)の表彰を受けており、シャロ
ン・ストーンが「オリセットの蚊帳を」と言い出したのは、こういう
ニュースで有名になっていたからだろう。

ダボス会議に招待されていた住友化学社長・米倉弘昌(よねくら・ひろま
さ)は、この光景を見ていて、「これだけ多くの世界中の人々に、うちの
蚊帳は期待されているのか」と思った。「これはうちとしてもひとつ、覚
悟をもって世界の期待に応えていかねばなるまいな」と決心した。


■2.「あなたがた日本人ならみんな知っているかと思った」

ここまで来るまでには、住友化学の中で多くの人々による十数年にわたる
悪戦苦闘があった。発端は、かつて住友化学が世界のベストセラーとして
売っていたマラリア対策の殺虫剤スミオスチンが徐々に売り上げを減らし
ていたことだった。

日本では戦後の早い時期に、下水溝整備など蚊の発生源対策と殺虫剤散布
により、マラリア撲滅に成功していた。しかし広大なアフリカ大陸で発生
源対策も不十分なまま、殺虫剤を撒き続けていて、いつかはマラリア撲滅
に成功するのだろうか? そんな疑問が先進国の政府援助を減らしつつ
あった。

海外農薬事業を担当していた川崎修二は、この苦境を乗り切る術(すべ)
はないかと、旧知の世界の熱帯医学の権威的存在である英国の医学研究所
のカーチス博士に相談した。博士の答えに川崎は驚いた。

「あなたがた日本人ならみんな知っているかと思った。今、注目されてい
るのは蚊帳(かや)を使ったマラリア対策ですよ」。[1, 366]

日本人の伝統的な生活の智恵である蚊帳が、マラリア対策として注目され
ているという。しかも、博士はその蚊帳に殺虫剤を染みこませておけば、
蚊の絶対数を減らしていける、という。

 川崎の下で研究に従事していた伊藤高明も、アメリカの国際開発庁が殺
虫剤に浸した蚊帳を使って、住民参加の実験を始めている、という情報を
つかんでいた。しかし、その蚊帳は単に殺虫剤の溶液に浸しただけで、半
年ごとにそれを繰り返す「再処理」をしなければならない。

途上国の普通の人が、殺虫剤の液で蚊帳を処理すること自体が、常識的に
考えてあり得ない行動やな。本気なのか、このやり方は。


■3.分子レベルの設計

伊藤は樹脂の中に殺虫剤を練り込んで、すこしづつ滲み出てくるようにす
れば、「再処理」などしなくとも長く使える蚊帳が作れるのでは、と思い
ついた。そこで樹脂や製造工程に詳しい奥野武に相談した。奥野は初め
は、そんなものは商売にはならない、と乗り気ではなかったが、熱心な伊
藤に根負けして開発を始めた。

奥野は、繊維の中に練り込まれた殺虫剤の分子がどのような温度でどう動
くのかまで検討して、樹脂の仕様や製造方法を検討した。その結果、何年
も殺虫効果が続く樹脂を作ることができた。

また、伊藤は、暑いアフリカで蚊帳の中を少しでも涼しくするための編み
目の大きさにもこだわった。蚊は編み目を通過しようとする時、羽を広げ
た状態で通ろうとする事を発見し、マラリアを媒介するハマダラカは日本
の蚊よりも一回り大きい事から、編み目を少し大きくする事とした。

こうしてできあがった蚊帳を外務省のODA(政府開発援助)担当者や
JICA(国際協力機構)に説明したが、その良さは理解が難しく、反応
は鈍かった。川崎は現地でこの蚊帳の効果を実証することが必要と考え、
「小規模援助」に着目した。各途上国の日本大使が少額の人道支援を大使
権限で実施できるという仕組みである。

この仕組みを使って、5年ほどの間に43カ国にわたって、数十帳から時に
は千張もの蚊帳が現地で使われるようになった。マラリアの院内感染が明
らかに減少した、という報告も6カ国からあがってきた。


■4.アメリカ国際開発庁からのクレーム

しかし、思わぬ所から横やりが入った。マラリア対策に取り組んでいるア
メリカの国際開発庁から、1990年にクレームが届いたのである。

自分たちがせっかく殺虫剤を「含浸するタイプの蚊帳」を広め、ユーザー
である住民自身での「再処理」習慣を根付かせるための啓蒙活動を行って
いる横で、「再処理をしなくてよい」という製品を展開するとは、どうい
うことなのか。マラリア対策プログラムに対して、「マイナスの影響を与
える製品」の展開はやめてほしい。[1,
 677]


国際開発庁が広めようとしていた蚊帳は、単に殺虫剤の溶液に漬けて、繊
維の表面に殺虫剤が付着しているだけの従来型のものだ。半年もすると殺
虫剤が消え失せて、効果もなくなってしまう。そのために、半年ごとに殺
虫剤の溶液に含浸するという「再処理」が必要だった。それをいかにアフ
リカの住民にさせるか、がネックとなっていた。

マラリア退治を真の目的としていれば、再処理を必要としない住友化学の
オリセットネットの登場は両手をあげて歓迎すべきことだった。しかし、
国際開発庁の担当者たちは、そんな事をしたら、自分たちが今まで進めて
きた対策を否定することになる、と考えたのだろう。

いかにも唯我独尊、不合理な主張だが、米国の国際開発庁は世界のマラリ
ア対策の主導権を握っていた。その影響力で、各国からの注文は減って
いった。今まで事業を担ってきた川崎も奥野も他の部署への異動を命ぜら
れた。オリセットネットの先行きは真っ暗になった。


■5.「この申請は、スミトモからのあの蚊帳か」

独り、オリセットネット事業に残った伊藤は、それでもあきらめなかっ
た。今までの各地での適用成果をレポートにまとめて、WHO(世界保健
機構)の認定を受ければ、道は開けるかもしれない、と考えた。認定には
3年の年月と数百万円の費用がかかる。伊藤は新しい上司を説得して、な
んとか申請の許可を貰った。

その申請を受け取ったWHOの職員、ピエール・ギエ博士はルワンダ人の
学生スタッフを呼んで聞いた。「この申請は、スミトモからのあの蚊帳
か」「ドクター・ピエール。間違いありませんね。日本のスミトモの、オ
リセットネットという蚊帳です」

ピエールはフランスの開発研究局の出身で、以前からアフリカの現地でマ
ラリア対策活動について研究を積み重ねていた。その学生スタッフが、あ
る日、持ち帰った蚊帳を見て、「これは、珍しい製品があったものだね」
とピエールは感心した。それは川崎の時代に少額無償援助で各地にばら撒
いたオリセット蚊帳のひとつだった。

マラリア対策の現地での実態を目の当たりにしていたピエールは、住民に
従来型の蚊帳を再処理させることが、その普及の妨げになっていることを
理解していたのである。

その時の事を思い出しながら、ピエールは思った。

そうか。あの蚊帳がついにWHOに認定の申請をよこしてきたというわけ
か。今の動きからすると、これは大きな潮目の変化になり得るかもしれな
い。[1, 816]


■6.WHOの前代未聞の推奨と大量注文

2001年春、ピエールから伊藤にメールが入った。オリセットの件で話がし
たい、ということだった。来日したピエールはフランス語訛りの英語で伊
藤に言った。

WHOは今、マラリア対策蚊帳について、大きな方向転換をしようとして
います。これまでに再処理を行わせることで、ユーザー住民の啓蒙を図る
ことを目指してきました。だが今、ようやく、そのプロセスを経ていて
は、普及が進まないということが、合意となりつつあります。

 WHOはそう遠くない将来、長期残効蚊帳、つまり再処理をしなくて
も、長期間にわたって殺虫効果が残るものを推奨する方向に舵を切り替え
るでしょう。そのときに、あなたがたのオリセットの蚊帳は、現時点で最
も性能面で優れている蚊帳であると理解せざるを得ません。[1, 850]

同年10月、WHOは「長期残効蚊帳」という新しいカテゴリーを創設し、
その第一号認可品としてオリセットを推奨した。WHOが新カテゴリーま
で創設して推奨するのは前代未聞のことだった。同時に「フィールド評価
用」として、7万張りもの発注をしてきた。今までの膠着在庫が一掃され
るだけでなく、大至急、増産体制を作らなければならない。

伊藤は上司に掛け合って奥野を戻して貰った。奥野は事態の急進展に驚い
たが、大車輪で動いて、年間10万張りの生産体制を整えた。


■7.「WHOが無償でうちの技術が欲しいといっていると?」

WHOはさらにオリセットの急速な普及を促進するために、矢継ぎ早に手
を打ってきた。

すばらしい技術であるオリセットの技術を、アフリカで現地生産できるよ
う、できれば無償で蚊帳生産技術を供与してほしい。それにより生産規模
を拡大し、安く大量の蚊帳を供給できる体制を構築したい。[1, 930]


WHOは「安く大量の蚊帳を供給できる体制」のメンバーも揃えていた。
住友化学が殺虫剤、エクソンモービルがポリエチレン樹脂を提供し、技術
供与されたアフリカ現地の製造委託先が蚊帳を製造する。それをユニセフ
が買い上げ、PSI(ポピュレーション・サービス・インターナショナル)
がマラリアの感染地域に配布・啓蒙を行う、という体制である。

「WHOが無償でうちの技術が欲しいといっていると?」と、社長の米倉
弘昌は上申書に目を留めた。技術で商売をしてきた住友化学がタダで外部
に技術を出すなど前代未聞だった。

しかし、と米倉は考えた。技術料をタダにしても、その分、製品価格が下
がり、販売量が増えれば、殺虫剤の販売だけでも利益は確保できるだろ
う。なにより、それだけ多くのマラリア患者を減らせるし、現地生産に
よって現地の雇用も生み出せる。


■8.「三方良し」経営の世界的な成功事例

アフリカでの製造技術移転先として、ピエールからの紹介もあり、タンザ
ニアの企業、AtoZが選ばれた。住友化学が設備投資のアドバイス、機械の
調達先の紹介、ライン作り、作業者の指導まで行った。

やっとのことで生産ラインを設置し、しばらく経ってから、住友化学の指
導員が訪問してみると、工場の床は散乱し、物も乱雑に置かれていた。そ
んな状況から、指導を繰り返し、2005年には300万張りへと拡大すること
ができた。
 
 冒頭で紹介した米倉がダボス会議で「これだけ多くの世界中の人々に、
うちの蚊帳は期待されているのか」と感じたのは、この頃のことであった。

 ユニセフからは再三にわたり、オリセットの供給能力を年産数千万張り
に増強して欲しいとの要求が来ていた。増産のために、現地でのもう一つ
の製造会社として、AtoZ社のグループ会社と住友化学のジョイント・ベ
ンチャーを作った。

 こうした思い切った増産により、現在、タンザニアの生産能力は年間
3000万張りに達し、最大7千人もの雇用機会を生み出している。なにより
もオリセットネットやその他の対策の効果もあいまって、マラリアによる
死者はかつての100万人規模から現在では60万人レベルに減少している。

 拙著『世界が称賛する 日本の経営』[a]では「売り手良し、買い手良
し、世間良し」の「三方良し」経営が日本の経営の本質だと説いたが、オ
リセットネットはその世界的な成功事例と言えよう。



■リンク■

a. 伊勢雅臣『世界が称賛する 日本の経営』、育鵬社、H29
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594076858/japanontheg01-22/


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 浅枝敏行『日本人ビジネスマン、アフリカで蚊帳を売る: なぜ、日本
企業の防虫蚊帳がケニアでトップシェアをとれたのか?』★★、東洋経済新
報社、H27
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4492557628/japanontheg01-22/

2. Malaria cases and deaths, Global Health Observatory (GHO) data
http://www.who.int/gho/malaria/epidemic/en/

2017年06月26日

◆ブラジル日系移民、一世紀の苦闘

伊勢 雅臣



 日系移民がブラジルで尊敬される地位を獲得するまでには、日本人の
「根っこ」に支えられた苦闘の物語があった。


■1.「ブラジルでは日系人は人口の1%しかいないのに、大学生は10%
も占める」

筆者がアメリカに留学していた時に、ブラジルから来た留学生から「ブラ
ジルでは日系人は人口の1%しかいないのに、大学生は10%も占める」と
聞いて、嬉しく思った事がある。

たとえばサンパウロ大学は、ブラジルのみならずラテンアメリカ世界での
最難関大学であり、多くのブラジル大統領を出しているが、そこでの日系
人学生は14%を占めている。

筆者が嬉しく思ったのは、日本人が優秀だ、という事ではない。ブラジル
に移住した日本人も、親は子のために尽くし、子もその恩に応えて頑張
る、という日本人らしさを発揮しているのだろうと想像したからだ。

私自身も一度、ブラジルに出張して仕事をした事があるが、多くの日系人
社員が企業の幹部を務め、その誠実さと有能さは、日本からの駐在員に勝
るとも劣らないと実感した。ブラジル国内でも日系人はいまや社会的に尊
敬されている。

親が子を思い、子が親の恩に応えるという、いかにも日本人らしい成功物
語が地球の裏側で展開されたと私は受け止めていたのだが、それがいかに
浅薄な理解であるかを、深沢正雪氏の『「勝ち組」異聞─ブラジル日系移
民の戦後70年』[1]を読んで知った。

深沢氏は長らくサンパウロ市の邦字紙「ニッケイ新聞」の編集長を勤め、
この本でも現地で集めた多くの史実を紹介している。それらを通じて、ブ
ラジルの日系移民が今日の地位を得たのは、一世紀もの間、幾多の苦難を
乗り越えてきた苦闘の結果である事がよく分かった。

その苦闘ぶりにこそ、日本人らしさが現れていることも。


■2.出稼ぎ

日本からブラジルへの移民は明治41(1908)年に始まり、戦前戦後を通じ
て25万人にのぼるが、その半分以上にあたる13万人が1926年から1935
年までの10年間に集中している。

これは大正12(1923)年の関東大震災、昭和5(1930)年から翌年にかけての
昭和大恐慌という国内の経済的困窮に迫られたこと、国外からは大正
13(1924)年に米国で排日移民法が成立して道をふさがれ、ブラジルが新た
な移民の受入れ先になったことによる。

しかし、1934年にはブラジル政府が日本移民の入国制限を始め、またその
ころには満洲が新たな移住先となっていたことで、ブラジルへの移民は激
減した。ブラジルへの移民は自由な選択というよりも、国内の経済的逼迫
と国際政治の風向きによって、やむなく新天地を求めた、という側面が強
かったようだ。

したがって戦前の移民20万人のうち、85%は何年かブラジルで働いて金を
貯めたら、帰国しようとする出稼ぎ意識でやってきたのである。


■3.日系移民の苦難

しかし移民がたどり着いたブラジルは、豊かで平和な新天地とはほど遠
かった。

ブラジルは土地も肥沃で日本の日雇い労働者の2倍も稼げるという話に惹
かれてやってきたのだが、大規模コーヒー農園で働いても、低賃金から食
費を引かれるとほとんど残らない。やむなく自力で低湿地を切り開いて米
を作り始めても食べるのに精一杯、雨期には蚊が大量発生してマラリアの
病魔に襲われたりもした。[a,b]

社会的にも「かつてのブラジル人エリートは常に人種差別者だった。ブラ
ジルが発見された当時、下等民族とみなされたインディオが大量虐殺さ
れ、黒人は動物,商品として非人間的な扱いを受け、その次は移民、特に
アジア系移民が標的にされた」と評される有様だった。[1, p255]

政治的にも不安定で、1924年には6千の革命軍が20日にわたってサンパ
ウロ市内を占拠し、それを3万の政府軍が包囲して激戦を展開する、とい
うような物騒な国だった。

言葉も解さず、政治力も持たない日本人移民は農村に散在していたが、革
命軍の敗残兵は格好の餌食としてそうした植民地を襲って、略奪を行っ
た。移民たちは結束して銃撃戦を繰り広げて自衛したが、無残に撃ち殺さ
れる人々も少なくなかった。

そんな苦難の中でも、日本語学校が集団地ごとに作られ、戦前だけで500
校近くあったという。ブラジルで生まれた子供たちも、やがて日本に帰っ
た時、普通の日本人としてやっていけるように、という親心からだろう。

日系移民たちは互いに助け合って、共同体として生き延びるしかなかっ
た。そんな共同体を支えたのが、勤勉、誠実、正直という日本人の「根っ
こ」だった。そして苦難の中で生き抜くことで、日本人の根っこは移民た
ちの心の中で、より太く、深く成長していったのではないか。

そうした勤勉さで成功した移民の中からは、大農場や工場、貿易会社を営
む人々も現れるようになった。


■4.日系移民への弾圧

1930年に軍事クーデターを成功させたヴァルガスが大統領となった。ヴァ
ルガス独裁政権はブラジルでのナショナリズムの高揚を狙って、初等、中
等教育でのポルトガル語以外の外国語の学習を禁じた。1938年にはブラジ
ル全土の日本語学校が閉鎖され、1941年には日本語新聞禁止令によって全
邦字紙が停刊となった。

1941年12月、大東亜戦争が勃発すると、日系人が築いてきた大規模農場、
商社、工場などの資産が差し押さえられた。日系社会の指導者層が検挙さ
れ、拷問を受けた。

1943年7月に、サンパウロの外港・サントス港沖でアメリカとブラジルの
汽船合計5隻がドイツの潜水艦によって沈められると、日独伊の移民に対
して24時間以内にサントス海岸部からの立ち退きを命ぜられた。日系移
民も女子供老人に至るまで手回り品だけをもって、移民収容所まで歩かさ
れた。

その当時の人々の心境を、移民画家・半田知雄氏は次のように描いている。

多くのものが警察に拘引され、留置場にたたきこまれ、ときには拷問され
たという噂があり、不安がつのればつのるほど、この状態を脱出するため
の未来図は、東亜共栄圏内に建設されつつあるはずの『楽土』であった。

民族文化を否定され、そのうえ日常生活のうえで、一歩家庭をでれば、
戦々恐々として歩かねばならないような息苦しさに、ブラジルに永住する
心を失った移民たちは、日本軍部が約束した共栄圏のみが、唯一の生き甲
斐のあるところと思われた。[1, p64]


■5.勝ち組と負け組

1945年8月14日(時差により日本時間とは一日ずれる)、祖国敗戦の報が
もたらされた。いつかは帰国すると願っていた移民たちにとって、敗戦は
帰る場所が無くなってしまう事を意味した。

その心理的抵抗に加えて、「天皇の神聖な詔勅が、ポルトガル語で新聞に
でたというのが、すでにおかしい」とか、「20万同胞の在住するブラジル
に、正式な使節が派遣されないという理由はない」と多くの人々は考え、
実は日本が勝ったという噂が広がった。移民の7、8割がこれを信ずる
「勝ち組」に属した。

一方、移民社会のリーダーたちは、戦時中の検挙や資産差し押さえに懲り
て、ブラジル政府を恐れ、敗戦を受け入れて「負け組」となった。彼らは
勝ち組がやがてブラジル政府批判を始めて、自分たちはその巻き添えを食
うという心配から、勝ち組を抑えにかかった。

戦前には大日本帝国の国威発揚を説いていた指導者たちが、手のひらを返
すように敗戦を説き始めたことに、勝ち組の人々は裏切られたと感じた。
負け組からは「負けたんだから、もう日の丸はいらない」などという発言
まで飛び出したという。


■6.「日本国家と皇室の尊厳のために立ち上がったんです」

負け組の筆頭と目された脇山甚作・退役陸軍大佐は勝ち組の若者4人に暗
殺された。実行犯の一人、日高徳一はこう語っている。

僕等はなにも勝った負けたのためにやったんじゃない。あくまで日本国家
と皇室の尊厳のために立ち上がったんです。脇山大佐には申し訳ないが、
彼個人になんら恨みがあったわけではない。[1, p176]

日高はすぐに自首して、牢獄島で2年7ヶ月を過ごしたが、その後、官選
弁護士からは「目撃者はいない状況では犯罪は成立しない」から釈放だ、
と言われた。日高は「それは違う。人の家庭をグチャグチャにしたんだか
ら、こんなことで釈放では大義名分が通らない」と言い張り、約30年の
量刑を言い渡された。

結局、10年で釈放されたのだが、「日本人が普通の生活をしていたらそれ
だけで模範囚ですから、どんどん刑期が短縮されちゃうんですよ」。テロ
リストですら純真な日本の心根を持っていた。

こうした事件を機に、ブラジル官憲が勝ち組と見なした3万人以上、すな
わち在留邦人の7人に一人が取り調べを受けるという捜査を行った。その
中では、「御真影(天皇陛下の写真)を踏んだら、留置所から出してや
る」と言われた移民もおり、それを拒否しただけで監獄島に送られる、と
いう弾圧も行われた。


■7.「日本を愛する心を子どもに植え付けるために」

戦後、4、5年も経つと「戦争は終わり、日本は負けた。でも日本は残っ
ている。引き揚げ者であふれ、食糧難の日本には帰れる場所はない。それ
に、子供はブラジルで大きくなってしまった。ブラジルに骨を埋めざるを
えないのか」という諦めが広がっていった。

しかし、その諦めをバネにして「ここで子供にしっかりと勉強させて良い
大学にいかせ、社会的に立派な立場にさせよう。そうすることで戦争中に
自分たちをバカにしてきたブラジル人を見返さなくては」という志につな
がった。サンパウロ大学を「ブラジルの東大」と呼んで、親は身を粉にし
て働き、子供を送り込んだ。

勉学ばかりでなく、「日本を愛する心を子どもに植え付けるために日本語
教育に力を入れよう」と考え、日本語教育や日本文化継承に全身全霊を捧
げた人々も現れた。

拙著『世界が称賛する 日本人の知らない日本』でも、江田島の旧海軍兵
学校を訪れた17歳のナタリア・恵美・浅村さんが、英霊の心を偲んで書
いた「げんしゅくな気持ち」という一文を紹介した[c, p201]。

ナタリアさんは、サンパウロ市の松柏(しょうはく)学園の生徒で、この
学園は2年に一度、2,30人の生徒を日本に送り、生徒たちは約40日をか
けて沖縄から北海道までを回っている。

地球を半周する飛行機代と40日もの宿泊費は送り出す親にとって相当な負
担であるが、「自分のルーツに誇りを持ってほしい」「美しい日本を見て
きてほしい」という日系人父兄の切なる願いが40年にもわたる使節団の
派遣を支えてきたのである。

このように祖国は敗れ、帰国も絶望的になったという境遇の中でも前向き
な精進を続ける所に、日本人の根っこからのエネルギーが発揮されている。


■8.「我々は日本語や日本文化の灯を絶やさなかったから生き残った」

深沢氏は勝ち組系の二世長老から聞いた次のような発言を紹介している。

戦後、認識派(JOG注: 負け組)の子孫はどんどんコロニア(JOG注: 日系
人社会)から離れ、同化して消えていったが、我々は日本語や日本文化の
灯を絶やさなかったから生き残った。そして、むしろそれが評価される時
代になった。[1, p77]


日本人としての「根っこ」を失えば、圧倒的多数のブラジル人に同化吸収
されてしまう。逆に日本語や日本文化の根っこを大切に育ててきた人々
は、ブラジル社会に独自の貢献ができ、それが評価される。

ブラジル法学界の権威である原田清氏は編著書『ブラジルの日系人』の中
で「ニッケイは日本人の魂をもってブラジル人として振る舞う」人々で、
「本国ではもう見られないような(伝統的な)日本文化をわかちがたい絆
として引き継いでいる」と書いている。

深沢氏が「どんな伝統的な日本文化が次の世代に継承されるのか」と原田
氏に問うと、「勤勉、真面目、責任感、義理、恩、礼などが残ると思う」
と答えた[1, p76]。

これらの徳目こそ、日本人の根っこそのものだろう。本国・日本では占領
軍とその後の左翼思想による歴史の断絶によって、我々の根っこがほとん
ど断ち切られてしまったが、ブラジルの日系人は意図的な努力で根っこを
太く深く伸ばし、そこから湧き出るエネルギーによってブラジル社会で称
賛される地位を築いたのである。

 ブラジルの日系人の苦闘の物語は二つの事を我々に示してくれている。

 第一に、日本人の根っこは、ブラジルという異境の大地においても、
しっかりと太い根を伸ばし、立派な幹を育て、美しい花を咲かせたこと
だ。この事実は、日本人の根っこが世界に通用する普遍性を持っているこ
とを示している。いまや世界各地で暮らし、仕事をしている在外邦人に
とって貴重な示唆である。

 第二に、ブラジルの日系人が、日本人の根っこからのエネルギーによっ
て苦難を乗り越え、その過程でまた根っこを太く深く伸ばした事である。
これは防衛、経済、少子高齢化など多くの苦難に直面している日本列島に
住む日本人に希望を指し示している。

 現代の日本人全体にこのような貴重な教訓を示してくれた在ブラジル同
胞の一世紀の苦闘に深甚の敬意と感謝を捧げたい。


■リンク■

a. JOG(396) ブラジルの大地に根付いた日本人(上)
家族のために「大儲けして、一日も早く広島に戻らんといけんなあ」と
二人はブラジルに出発した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h17/jog396.html

b. JOG(397) ブラジルの大地に根付いた日本人(下)
ブラジルの大地に残した「ジャポネース・ガランチード」(日本人は保
証付き)の足跡
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h17/jog397.html

c. 伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人が知らない日本』、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 深沢正雪『「勝ち組」異聞─ブラジル日系移民の戦後70年』★★★、無明
舎出版、H29
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4895446247/japanontheg01-22/

2017年05月27日

◆『日本の経営』を読み解く

伊勢 雅臣



〜『世界が称賛する、日本の経営』を読み解く〜
■■■ JOG Wing ■■■ 国際派日本人の情報ファイル ■■■

『国際インテリジェンス機密ファイル』

(伊勢雅臣) 私が常々、参考にさせていただいているメルマガ書評紙
「国際インテリジェンス機密ファイル」で、拙著が紹介されましたので、
転載させていただきます。

読者に興味深いポイントを厳選して抜き出して拙著の言わんとしている所
を示していただきました。

伊勢雅臣『世界が称賛する 日本の経営』、育鵬社、H29
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※要旨


・筆者は欧州で4年、アメリカで3年、
日本企業の現地法人社長として企業経営を経験している。


・逆に欧米で仕事をしていると、
欧米企業のほうが、かつての日本的経営の良いところを学んで、
元気を回復しつつある、と感じる。


・近年の多くの日本企業は、
アメリカからやってきた株主資本主義的経営こそ
最新の経営だと思い込み、
かつての三方良しを追求する日本的経営など時代遅れのものとして、
捨て去ってしまったのではないか。


・しかし、人間が成長する存在であることを考えてみれば、
日本的経営の方が経済的パフォーマンスも良く、
人々や社会を幸福にするパワーもはるかに優れていることは、
自明ではないか。


・たとえば、人間はじっくり育てて、創造力、意欲、
チームワーク力を伸ばせば、数倍、数十倍の働きができる。
それを派遣社員・アルバイト化して、人件費を下げて、
仕事量が減ればすぐ人員整理するというアプローチでは、
まさに宝の持ち腐れである。


・「人の能力差は、あると言ってもせいぜい5倍。
しかし意識の差は100倍もある。
能力は磨いて上げるのは難しいが、
意識は磨けば磨くほど上げられる。
だから、企業を強くしたかったら、社員の意識を磨け」
(川勝宣昭『日本電産・永守重信社長からのファックス42枚』)


・永守流経営の基本は「6S」である。
これは整理・整頓・清潔・清掃・作法・躾の6つの「S」を意味する。
この観点から各事業所を100点満点で評価するのだが、
これが60点を超えれば事業は必ず黒字になる。


・当たり前のことを徹底する。


・トイレ清掃などから芽生えた「ものを大切に使おう」という意識が、
こういう問題に向けられ、設備や部品を少しでも安く買い、また設備や作
業者や事務員の時間を大切に使おうという、当たり前のことが徹底して行
われるようになる。


・知的障がい者が社員の7割を占める、

チョーク製造の日本理化学工業の会長、大山泰弘さんは
わからないことがあった。

彼らは会社で働くより施設でのんびりしている方が楽なのに、なぜ彼らは
こんなに一生懸命働きたがるのだろうか、ということだった。

・これに答えてくれたのが、ある禅寺のお坊さんだった。
曰く、

幸福とは「人の役に立ち、人に必要とされること」この幸せとは、施設で
は決して得られず、 働くことによってのみ得られるものだと。

大山さんは目から鱗が落ちる思いがした。


・ソニーは今まで他人のやらないことをやってきた。未解決のものがあ
れば、ソニーで解決してやればいい。日本初、世界初のものをつくってこ
そ、人より一歩先に進むことができるのだ。(井深大)


・1973年、本田技研の社長本田宗一郎が中国出張中に「本田社長、藤澤副
社長引退」との 予期しないニュースが流れた。

本田が帰国すると 迎えに出た西田専務は藤澤武夫副社長の辞意を伝えた。

・本田はすぐに藤澤の思いを理解し、副社長の藤澤がやめるというのな
ら、自分も一緒に辞める、と西田に言った。

マスコミは「さわやかなバトンタッチ」と賛辞を送った。

・退任が決まった後のある会合で、本田は藤澤に言った。

「まあまあだな」

「そう、まあまあさ」と藤澤。

「幸せだったな」

「本当に幸せでした。心からお礼を言います」

「おれも礼を言うよ。良い人生だったな」

(本田宗一郎『夢を力に』)


・事業が成功するか失敗するかは、 一にも人物、二にも人物、その首脳
となる人物如何によって決まる。(安田善次郎)


・「陰徳を積め」とは、安田善次郎が子供のときから、父親から叩き込
まれた精神であった。人に知られることがなくても世のため人のためにな
ることを黙々と実践しなさい、 というのである。


・自分の利益ばかり考えていると利益は逃げていってしまうが、
陰徳を積んでいると、勝手に利益が向こうからやってくるという
商売の秘訣を、善次郎はすでに25歳で身につけていた。


・道徳が経済を発展させる。


・日本的経営で追求すべき徳が、
「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」なのである。
※コメント
日本が長い歴史と伝統をもって作り上げた仕事手法、経営手法の凄さを
知った。
これは伝統芸といってもよい。
たった一代でマニュアルを読んで習得できるものではなく、 先祖代々、
先人たち、大物たちの苦労して導き出された経営力だ。これを今一度、思
い返し、日本の政治経済、社会に活用したい。


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