2018年10月24日

◆世界が称賛する 国際派日本人(5)

伊勢雅臣


■■■ JOG Wing ■■■ 国際派日本人の情報ファイル■■■
皇太子殿下の祈り−世界の水問題に取り組む人々の連帯の「象徴」

 日本の皇太子殿下は、民の幸せを無私の心で祈る、という皇室の伝統精
神を通じて、水問題に取り組む世界の人々の連帯の「象徴」となっています。
■■ 転送歓迎 ■■ No.2820 ■■ H30.10.22 ■■ 7,836部■■


■1.「殿下への高い評価は日本人だけが知らないのでは」■

皇太子殿下は国連「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁をお務め
になり、また平成15(2003)年の京都、平成18(2006)年メ キシコ、平
成19(2007)年大分、平成20(2008)年スペイ ン、平成21(2009)年ト
ルコで行われた世界の水問題に関わる国 際会議で、講演をされている。

日本のジャーナリストが、水問題の海外の専門家に「海外での殿下の評
価はどうか」と質問したところ、「どうしてそんな質問をされるのか。そ
れは愚問というものだ。殿下の高い評価は言わずもがな。日本人だけが知
らないのでは」と、やり込められる場面があった。

世界水フォーラムを運営している世界水会議のロイック・フォーション
会長は、記者との会見で、「皇太子殿下のご存在は、水の分野におけるオ
ム・デタ (Homme d'Etat) だ」と述べた。

フランス語のオム・デタは英語で言えば“Statesman”、無私の心で国家 公
共のことを案ずる元首や政治家を意味する。日本語で言えば、天皇が日
本国民統合の象徴であるように、皇太子殿下が水問題に取り組む世界の
人々の連帯の「象徴」となっている、という意味で捉えてもよいのではな
いか。

無私の心で国民の幸せを祈られるのが我が皇室の伝統であるから、殿下
は水問題で、皇室の伝統的精神を発揮されている。こうしたことをあまり
報道しないのも日本のマスコミの偏向と言うべきか。

■2.世界の諸問題の根幹にある水問題■

貧困や飢餓の問題を辿ると、水問題にぶつかる。たとえば、アフリカに
は広大な土地があるのに、なぜ飢餓や貧困で多くの幼い命が失われている
のか。水がないからである。水さえあれば広大な荒れ地や砂漠が、緑の農
地に生まれ変わる。

中国のように乱開発から砂漠化が進み、黄河が一年の半分近くも干上が
り、大都市では飲料水ですら危機的状況にある国もある。

水は足りなければ問題だが、多すぎても問題を起こす。地球温暖化や異
常気象も、海面上昇や集中豪雨による河川氾はん濫らんなどの水の問題を
通じて災害を引き起こす。津波もその一つである。

平成21(2009)年3月にトルコ・イスタンブールで行われた第5回世界水
フォーラムでは基調講演で、徳川家康が当時の江戸湾にそそい でいた利
根川を銚子から太平洋に出るようにして江戸の洪水を防いだ事例 を紹介
され、こう述べられた。

平地の少ない日本では、時には猛威をふるう河川を流域全体で適切に管
理することが、国民生活の持続可能な発展に必須の条件でした。そのため
の努力が日本では継続的に続けられてきたのです。……

水関連災害については、災害直後には盛んに議論されますが、しばらく
経つと忘れ去られがちです。日本には、「災害は忘れたころにやってく
る」ということわざがありますが、災害が起こってからでは遅すぎます。

災害を起こさないような備えこそが求められているのです。そのために
は、昔も今も変わることなく、絶え間ない努力によって、一歩一歩、地道
に歩みを進めていくしかないのでしょう。
(『皇太子殿下││皇位継承者としてのご覚悟』明成社編より)


(続きは下記の書籍でご覧下さい)


■リンク
a. 伊勢雅臣『世界が称賛する 国際派日本人』、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594075681/japanonthegl0-22/
アマゾン「日本史一般」カテゴリー1位 総合61位(H28/9/13調べ)


__________
■『世界が称賛する 国際派日本人』に寄せられたカスタマー・レビュー 
62件、5つ星のうち4.9

★★★★★自分が生まれた国の文化、歴史、伝統を再発見出来る(ともちゃん)

 同一作者の著書「世界が賞賛する日本人が知らない日本」を読んで感動
し、同書をすぐに購入しました。時代を追って偉人達を紹介するとばかり
思っていたのが、ここ数年の記憶に新しい偉人達からの紹介で、とても新
鮮で分かり易く身近で同じ時代を生きる方々に感動しました。自分が生ま
れた国の文化、歴史、伝統を再発見出来る素晴らしい一冊です。

2017年09月04日

◆憲法学者に惑わされないために

伊勢 雅臣



一般国民の社会常識を働かせば、自衛隊違憲論には惑わされない。


■1.「危機が起きてからでないと法制はできませんでした」

朝のテレビ・ニュースを見ていたら、突然、それを遮って、「北朝鮮から
弾道ミサイルが発射されました。屋外にいる場合は、近くの頑丈な建物や
地下(地下街や地下駅舎などの地下施設)に避難して下さい」とのテロッ
プとアナウンスが流れた。全国瞬時警報システム(Jアラート)というシ
ステムだそうだ。

北朝鮮の最近のミサイル実験が、我々の日々の生活にも影響を及ぼし始め
た一瞬だった。こういう現実に直面すると、野党やマスコミが今まで騒い
でいた森友やら加計学園の空騒ぎぶりが、改めて国民の目の前に明らかに
なった。

ちょうど、自由民主党本部で湾岸戦争以降のすべての安全保障・防衛政策
の策定・立案等に関わってきた田村重信氏の近著『知らなきゃヤバい! 
防衛政策の真実』を読んでいたら、唖然とした一節があった。「今までの
危機管理法制というのは、危機が起きてからでないと法制はできませんで
した」と氏は指摘しているのだ。

昭和34(1959)年の伊勢湾台風で死者・行方不明者5千人以上を出して、災
害対策基本法ができた。よど号ハイジャック事件の後に「ハイジャック防
止対策本部(常設)の設置」などが決められた。平成7(1995)年の阪神・
淡路大震災では、放置車両が自衛隊の救援活動を妨害したので、災害対策
基本法が一部改正された、という具合である。

防衛政策や危機管理体制に関して、実際に被害が出てからでないと考えな
い、というのは、我々現代日本人の一大欠陥ではないか、と思えてくる。
この点で、Jアラートシステムにしろ、昨年の平和安全法制にしろ、北朝
鮮からの脅威に対して、現実の被害が出る前に対応が少しずつでもなされ
ているのは、一歩、前進だろう。


■2.半世紀以上も繰り返される同工異曲の批判

防衛政策に関して、なぜ「危機が起きてからでないと法制はでき」ないの
かは、田村氏の著書を見れば良く分かる。その都度、左翼が激烈な抵抗を
していたからである。

昭和35(1960)年の日米安保条約改定では、「米国の戦争に日本が巻き込ま
れる」と、全学連のデモ隊が国家に突入し、激しい反対闘争が繰り広げら
れた。

平成4(1992)年のPKO(国連平和維持活動)への自衛隊参加に道を開く
ためのPKO協力法案審議では「戦争への道だ!」と社会党、共産党が反
対し、朝日新聞も「PKO協力の不幸な出発」と題した社説を発表した。

平成11(1999)年に有事関連法制が国家に提出された時も、「有事法制は戦
争法だ」「アメリカの戦争に協力するためのもの」などと左翼は反対した。

こうした左翼の批判が正しかったかどうか、その後の歴史を見れば誰の目
にも明らかだ。日米安保条約で、日本はアメリカの戦争に巻き込まれた
か? PKO協力法で、わが国は自衛隊を「海外派兵」し、侵略戦争に乗
り出したのか?

その後、カンボジアやモザンビーク、南スーダンなど各地における自衛隊
の活動は世界の平和に大きく貢献し、各国から感謝され、国際的にも高い
評価を得ているのはご存じのとおりです。当時、猛烈に反対していた朝日
新聞なども、今では自衛隊のPKO支持に転じています。[1, 1588]

昨年、成立した平和安全法制に関しても、野党やマスコミの一部は「安倍
政権は日本の軍国化を目指している」「米国が起こす戦争に荷担すること
になる」などと批判をした。60年安保以来、半世紀以上もの間、現実を見
ずに同じ批判を繰り返しているのである。

一般社会で、ある人物が50年以上も誤った言説を主張し続け、しかも間
違っていた事実を認めず、反省も謝罪もしないとしたら、そんな人物はど
う受けとめられるだろうか? 間違った信念に凝り固まった狂信者か、別
の目的のためにそのような言説を繰り返す確信犯か、あるいは生活のため
にはもはや転向できなくなった利得者のいずれかであろう。

いずれにせよ、そのような人物を政界やマスコミ、学界に多数、抱えてい
ることは、わが国の自由民主主義国家としての構造的欠陥である。


■3.「サシミの法則」

「サシミの法則」をご存知だろうか? 「刺身」ではなく「三四三(サシ
ミ)」である。アリや蜂の社会を観察すると、自ら先頭に立って働く蜂が
3割、与えられた仕事をしている蜂が4割、怠け者の蜂が3割だという。

防衛の分野に当てはめると、国家の平和と安全を守るために声をあげてき
たリーダー蜂が3割、黙々と日々の仕事に打ち込んでいる働き蜂が4割、
半世紀以上も反省もなく誤った言説をまき散らしてきた抵抗蜂が3割とい
う構図だろう。

3割の抵抗蜂が狂信者か、確信犯か、利得者であるとすれば、事実も観
ず、論理も通らない彼らの考えを変えさせようとすることは無駄な努力だ
ろう。自由民主主義国家では言論と思想の自由があるから、放っておくし
かない。

ポイントは、4割の働き蜂がこれらの抵抗蜂の言説に惑わされずに、自ら
の目で事実を観て、自らの頭で論理的に考えるようにすることである。そ
れには抵抗蜂たちの言論がいかに事実に悖(もと)り、論理を歪めている
かを示すことだろう。この4割の働き蜂が健全な見識を持つことが、自由
民主主義社会を護る本道である。

その意味で、政権与党として、憲法や国際情勢の制約の中で、抵抗蜂と戦
いながら国民の安全と平和を守るために苦闘してきた田村重信氏の著書
は、4割の働き蜂が国防の常識的な事実と考え方を学ぶ上で好適である。


■4.「国家として当然の権利である自衛権」

抵抗蜂たちが働き蜂を惑わすために用いる代表的な言い分が「自衛隊は憲
法違反だ」という主張である。わが国は平和憲法を持っており、戦争を放
棄したのだから、軍隊は持つべきではない。したがって、自衛隊は憲法に
違反している、という。これに関しては、まず「自衛権」の概念を良く理
解する必要がある。

・・・国際法上、日本は国家として当然の権利である自衛権を有するとい
うことですので、したがって、自衛行動は憲法上許される。自衛のための
戦力に至らない必要最小限の実力という保持もこれは合憲である。[1, p2050]

平成24(2012)年2月、「民主党政権」時代に野田内閣の藤村修・官房長官
が衆議院予算委員会で答弁した内容である。これが伝統的な政府見解であ
り、最近の安倍首相も同様の発言をしている。

自民党から民主党に、そして再び、自民党へと政権が移っても、政府とし
ての憲法解釈は、そう簡単には変えられない。責任ある政権政党なら当然
の政治姿勢だろう。

ここで言われる「自衛権」とは、個人になぞらえて考えたら分かりやす
い。たとえば、「平和を愛する周囲の人々の公正と信義に信頼して、自分
の安全と生存を保持しようと決意した」人は、もし暴漢に襲われたとして
も、何の自衛手段もとれないのだろうか。

誰でも正当防衛の権利はある、というのが、人間社会の常識だろう。「だ
れかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と聖書は説く
が、どんな敬虔なキリスト教徒でも「暴漢に長男を殺されたら、次男を差
し出しなさい」とは言わない。

理想と現実のギャップを少しでも埋めようとする努力は大切だが、その
ギャップを無視して、あたかも理想が実現しているかのように振る舞うこ
とは、狂信者の行いである。

アフリカ・ソマリア沖を通過するタンカーなどを海賊から護るために海上
自衛隊の護衛艦を派遣する事に反対していたピースボートが、地球一周の
船旅で海自に護衛して貰った[2]。彼らは自らの理想が実現していると信
ずる狂信者ではなかった、ということである。偽善者ではあったが。


■5.国民を護るのは国家の義務

「自衛隊が違憲か」に関して、最高裁が唯一、憲法第9条の解釈をしたの
が「砂川判決」であり、そこには自衛権をベースに次のように述べられて
いる。

憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と
隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会に
おいて、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民と共にひとしく
恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認す
るのである。

しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持してその存立を全うするた
めに必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使と
して当然のことといわなければならない。


日本国民も「平和のうちに生存する権利」を有する。国家は、国民が互い
に助け合う共同体である、と考えれば、国家が国民の「平和のうちに生存
する権利」を護るために自衛権を持つというのは、国民に対する義務でも
ある。これが国際常識である。

人権を大切と考えるなら、最も基本的な人権は生命の安全なのだから、国
民の安全が北朝鮮の核ミサイルに脅かされている現在、人権運動家こそ、
現在の防衛体制で国民の人権を護れるのか、と政府に問い詰めなければな
らない。


■6.自衛のための「必要最小限度の武力の行使は許容される」

日本が国として自衛権を持ち、「そのための必要最小限度の武力の行使は
許容される」というのが、上述の最高裁の判断であり、従来からの日本政
府の基本的な立場でもある。

それでは憲法9条はどうなのか、との疑問があがるが、これについての政
府見解は、次のようなものであると田村氏は説明している。

まず、第1項の「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実希
求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛
争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」に対しては、政府は
次のような答弁書を出している。

憲法第9条第1項は、独立国家に固有の自衛権までも否定する趣旨のもの
ではなく、自衛のための必要最小限度の武力を行使することは認められて
いるところであると解している。[1, 172]


「自衛のための必要最小限度の武力」という点が、キーポイントである。
9条1項が禁じているのは、北朝鮮が核ミサイルでわが国を脅かしている
ような武力の使い方であって、その脅威から日本国民を護ろうとする武力
の行使は認められている、という解釈である。

第2項は「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保
持しない。国の交戦権は、これを認めない」であるが、これに対して、同
じ答弁書は次のように指摘している。

憲法第9条第2項は、『戦力』の保持を禁止しているが、このことは、自
衛のための必要最小限度の実力を保持することまで禁止する趣旨のもので
はなく、これを超える実力を保持することを禁止する趣旨のものであると
解している。[1, 204]


「必要最小限度の実力」に関しては、「性能上専ら他国の国土の潰滅的破
壊のためにのみ用いられる兵器については、これを保持することが許され
ないと考えており、たとえば、ICBM(大陸間弾道ミサイル)、長距離
戦略爆撃機、攻撃型空母みたいなものは保有することは許されない」とし
ている。[1, 204]


■7.「自衛隊が憲法違反だ」とする主張は憲法違反

政府見解はそうだとしても、ほとんどの憲法学者は「憲法9条は『戦力は
持てない』としているのだから、自衛隊は憲法違反だ」と考えている。彼
らは問い詰めるであろう、「政府見解がほとんどの憲法学者よりも正し
い、とする根拠はどこにあるのか」と。この異議に対する田村氏のカウン
ターパンチは単純明快である。

憲法81条は、「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に
適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である」と述べて
いる。政府見解が正しいか、大方の憲法学者が正しいのかを、最終的に決
定するのは最高裁判所である。

前述の砂川判決が最高裁が下した唯一のものである以上、「自衛隊が憲法
違反だ」とする主張そのものが憲法違反なのである。

もし憲法学者が心底から「自衛隊が憲法違反だ」と考えたら、その後の論
理展開は以下の3通りになる。

a)武力をいっさい認めない憲法では国民の「平和のうちに生存する権
利」を守れないから、自衛隊を合憲とするよう憲法を改正すべきである。

b)憲法の命ずる通り、武力はいっさい持つべきではない。したがって他
国に侵略された場合は、それを甘受し、どれほど国民が虐殺、略奪されて
も仕方がない。

c)憲法の命ずる通り、武力はいっさい持つべきではない。日本さえ他国
を侵略しなければ戦争は起こらないから、平和も人権も保てる。

一般社会の常識から考えたら、b)もc)もあり得ないだろう。それなら、
a)を主張すべきだが、憲法学者が改憲を主張している姿はあまり見たこ
とがない。要は、憲法学者の多くは、法学の世界に閉じこもっていて、そ
こから先を考えてないのである。

彼らの中には狂信者や確信犯や利得者もいるだろうが、いずれにせよ、3
割の抵抗蜂であることは確かである。我々、働き蜂の一般国民は国防の基
本的常識を学び、彼らの言説に惑わされないようにしなければならない。



■リンク■

a. JOG(969) 憲法9条改正シナリオ
 9条1項の「積極的平和貢献」は日本の伝統的理想、それを実現するた
めに2項「非武装」を改変すべき。
http://blog.jog-net.jp/201609/article_5.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 田村重信『知らなきゃヤバい! 防衛政策の真実』★★★、扶桑社、H29
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594077714/japanontheg01-22/

2. 産経新聞、H28.5.17「『危ないときは守って』はムシがいい」 ソマ
リア沖で海上自衛隊の護衛艦がピースボートを護衛」
http://www.sankei.com/politics/news/160517/plt1605170038-n1.html

■拙著『世界が称賛する国際派日本人』へのおたより

■明治維新以来の近代化指向が生んだ国際人の系譜をたどる(倉石英一さん)

本書の構成は、現代の国際人、ノーベル賞受賞の大村智氏から始まり、明
治天皇にまで遡っている。日本が多くのノーベル賞受賞者を輩出するの
は、国際人としての活躍が評価されているからだ。

しかし、そのルーツは明治維新から、我が国の近代化を実現するために、
多くの政府幹部を欧米に派遣したことだ。彼我のあまりの格差に愕然とし
ただろうが、当然ながら国際人としての見識を身に着けて帰国し、政府の
要職について活動したことが、明治期の近代西洋文明への挑戦を経て、富
国強兵など国力の増進に貢献した。

皇太子の地球レベルの水問題への関心から、多くの国際会議への参画な
ど、世界の水問題に取り組む連帯の象徴として活動しておられる。皇族の
立場を超えて、立派な国際人と言える。

不幸にして太平洋戦争に敗れたが、その過程、特に戦後処理の過程で、多
くの将軍たちが自らの責任を取る形で、部下の命を守った。これも立派な
国際人としての振る舞いだ。

また、戦後、植民地だったアジア諸国に残って、その独立のために戦っ多
くの日本軍人、民間人の活躍も国際人としての面目躍如たるものだ。

戦争末期に多くのユダヤ人を救ったエピソードも有名だ。偉大なる人道主
義者、樋口季一郎氏や杉原千畝氏は永遠に記憶に残るだろう。

戦後も、多くの日本人が、発展途上国の食糧問題に取り組んできた。中国
の米作りの指導、植林の支援、ネパールの高地での稲作指導など枚挙にい
とまがない。

この本には、上記以外にも、明治以来の系譜を引き継いだ、多くの有名、
無名の国際派日本人が登場する。今後とも、これらに倣って多くの日本人
に国際人としての活躍を期待したいものだ。その意味で、特に青少年の読
者に勧めたい一書といえる。

伊勢雅臣『世界が称賛する 国際派日本人』、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594075681/japanontheg01-22/

2017年08月08日

◆先人が歩んでいた人作りの道

伊勢 雅臣



〜『世界が称賛する 日本の教育』発売

我々の先人は、人作りの本当の道を知っていた。その事実を辿って、空想
的な左巻きき思想に基づく戦後教育から脱し、真の人作りの道に立ち返ろう。


■1.『世界が称賛する 日本の教育』アマゾン「日本論」1位

■2.まえがき 「手塩にかける」

創業110年以上、連結の従業員数20万人近くの日本を代表する名門大企
業・東芝が、不正会計処理や原発事業での買収失敗による巨額の損失で存
亡の危機に立たされています。またエアバッグで世界シェア20パーセント
を占める優良メーカー・タカタが世界で1億台以上、費用は1兆円に上る
リコールで経営破綻し、中国メーカーの傘下に入るようです。

不正会計、買収の失敗、品質問題など、これらはすべて経営の失敗であ
り、ひいては経営者育成の失敗と言えます。

ここで対照的な例として思い起こされるのが、拙著第3弾『世界が称賛す
る日本の経営』で登場いただいた日本電産の創業者・永守重信氏です。日
本電産は高度成長が終わりかけた昭和48(1973)年にわずか4人の若者で事
業をスタートしたにもかかわらず、現在では日本では従業員1万人、世界
33カ国で11万人の巨大・優良企業に育っています。

この急成長の原動力が破綻しかけた企業の買収や合併で、人は1人も切る
ことなく、永守氏自身が買収先・合併先を定期的に訪れて指導をする。こ
れによって50社以上の再建をすべて成功させているといいます。

最近はあまり使われなくなったが、?手塩にかける?という言葉がある。
厳しさのなかにも愛情があふれ、未熟で不慣れな後輩をそれぞれの個性や
タイプに応じて、手間暇かけてじっくりと一人前に育て上げていくという
イメージがあって、わたしの好きな言葉の一つである。
(永守重信著『人を動かす人になれ!』三笠書房より)


このように人や会社、部下が大変身を遂げ、強く、たくましくなっていく
姿を眺めるのが、わたしの最高の喜びであり、生き甲斐でもある。(同前)

■3.「松下電器は人をつくっています」

数人の町工場から世界的な大企業に成長させたという面での大先輩が松下
電器産業株式会社(現・パナソニック株式会社)を創業した松下幸之助で
あり、拙著にも「日本的経営の体現者」として登場いただきましたが、そ
の中で人作りに関しては次のような発言を紹介しました。

私はまだ会社が小さいころ、従業員の人に、「お得意先に行って、『君の
ところは何をつくっているのか』と尋ねられたら、『松下電器は人をつ
くっています。電気製品もつくっていますが、その前にまず人をつくって
いるのです』と答えなさい」ということをよく言ったものである。

いい製品をつくることが会社の使命ではあるけれども、そのためにはそれ
にふさわしい人をつくらなければならない。
(松下幸之助著『実践経営哲学』PHP研究所より)


日本電産やかつての松下電器の興隆と、東芝やタカタの失敗を比べてみれ
ば、「事業は人なり」という言葉がいかに真実をついているかが、よく分
かります。


■4.「人さえ作れば、利益は勝手についてくる」

私自身も、はるかに小さな事例ですが、日本での子会社、ある事業本部、
その後、イタリアとアメリカの現地法人のトップを勤めて、この「事業は
人なり」を「体感」しました。

社長は事業の細部に口を挟んだり、従来とは違う事をやろうとするより
も、社員を「手塩にかけて」育て、一人ひとりがその才能や適性をフルに
発揮できるような環境と組織を整えて、それぞれの仕事にやる気に燃えて
取り組めるようにした方が、はるかに事業成果の面でも早道なのです。
「人さえ作れば、利益は勝手についてくる」というのが、私の口癖でした。

実際に、合計4つの事業・会社のそれぞれで、私の在任中に過去最高益を
達成しました。しかし、私の本当の自慢は、私の後任により優れた経営者
が来ると、育った社員たちが彼らのもとで実力を発揮して、さらに最高益
を更新していったことです。従業員たちが活き活きと仕事に取り組み、私
の後でも最高益を更新し続けてくれる姿を見ることは、何にも替えがたい
喜びでした。

「事業は人なり」という事は簡単な算術で説明できます。100人の会社
で社長だけがさらに平均的社員の5倍働いても、105人分の働きにしか
なりません。それよりも、100人の社員の能力ややる気を伸ばして、全
員が10%、より良い仕事ができるようになると、110人分の働きとな
ります。

その分だけ、社員は仕事にやりがいを持てるようになりますし、利益が増
えて社員の処遇を良くする事も出来ます。そういう良い仕事をする社員た
ちの活躍で、お客様により喜んでいただけるようになりますし、事業の発
展は社会にも貢献します。

前著『世界が称賛する日本の経営』では「売り手良し、買い手良し、世間
良し」こそ日本の経営の本質だと指摘しましたが、その「三方良し経営」
の原動力は人づくりなのです。(以下略)


■5.本書の内容(一部)

◎「子は国の宝」の経済学
 教育経済学という最先端の研究分野で、我が国の伝統的な躾の効果が実
証されつつある。

◎「日本人という生き方」
 ウガンダの高校で野球監督となった日本人青年が、日本の躾で選手たち
を鍛えたら、、、

◎「教育勅語」――世界人類に共感される広やかな
「教育勅語」を下敷きにしたアメリカの道徳教科書が3千万部も売れた。

◎学力・体力トップクラス一――福井県の子育てに学ぶ
 福井県の子供たちは、あまり塾にも行かないのに、なぜ学力も体力も日
本トップクラスなのか。

◎親学のすすめ――母の愛で子は育つ
「学校でも大学でも教えていないのは、親になる方法だ」

◎江戸日本はボランティア教育大国だった
 江戸時代の日本は当時の欧米諸国をはるかに凌駕する教育大国で、それ
は全国の寺子屋の「お師匠さま」たちが実現した。

◎国語力が「壁を乗り越える力」「共に生きる力」を養う
 3年間かけて薄い文庫小説を一冊読むという破天荒な国語教育が東大合
格者数日本一をもたらした。

◎古典教育が日本の近代化をもたらしたという逆説
 漢文の素読など古典教育を受けた青年たちが、どうして明治日本の近代
化を成し遂げたのか。


■6.あとがき 〜 「空想から科学へ」

 筆者が製造業の技術屋として社会生活をスタートした頃、先輩や上司か
ら口うるさく指導されたのは、「机上の空論に頼るな、現場で虚心に事実
を観ろ」という事でした。

 これは単純ですが、深い教えでした。たとえば、人類は昔から太陽や星
が地球の周りを巡っているという天動説を信じてきましたが、ガリレオ・
ガリレイの望遠鏡による天体観測から、地球が太陽の周りを回っていると
いう地動説が有利になりました。

しかし、当時のキリスト教会は、神が創った人間の住む地球が宇宙の中心
だというキリスト教的世界観から天動説への疑いを許さず、ガリレオを宗
教裁判にかけて有罪としました。ガリレオの望遠鏡によって「事実を見
る」という行為がなければ、人類は今でも天動説という「机上の空論」を
信じていたかも知れません。


■7.「科学から空想へ」の逆コースを辿った戦後教育

 自然科学や技術の世界では「事実を観る」ことで着実な進歩を遂げてい
ますが、社会科学では難しいようで、「机上の空論」が長い間、人類を支
配する、ということがよくあるようです。

典型的な例がカール・マルクスで、大英図書館で共産主義という壮大な机
上の空論をでっちあげました。それまでの空想的共産主義から科学的な共
産主義に進化するという意味でマルクスは「空想から科学へ」と言いまし
たが、マルクスは事実をしっかり観察することが科学の基本だということ
が分かっていなかったようなのです。

そして、マルクスの空論によって、その後、世界中に共産革命が起き、そ
れに反対する1億人とも言われる人々が犠牲となりました。マルクスが大
英図書館を出て、もう少し事実を観ていたら、こんな悲劇は起こらなかっ
たかも知れません。

 実は、教育思想の面でも、同様の机上の空論が幅をきかせてきました。
たとえば、「近代教育学の祖」と言われるジャン・ジャック・ルソーは人
間は文明社会の中でゆがんで育てられている、という空想から、教育では
子どもの天性をそのまま伸ばすべきだと考えたようです。そして自分で
は、5人の子どもを生まれたそばから次々に遺棄してしまいました。今
日、「子どもの権利」を主張する教育思想は、ここから来ています。

 ルソーの影響を受けたレーニンは、共産革命後のソ連で家族解体法を制
定しました。その影響で堕胎と離婚が急増し、数百万人の孤児の発生など
で社会が崩壊状態となり、スターリンはあわてて、この法律を廃止しまし
た。しかし、福島瑞穂氏はそんな事実も観ずに、「事実婚主義」を掲げ
て、いまだにレーニンの家族解体思想を「理想」としています。

 英国のジョン・スチュワート・ミルは人妻の愛人となり、その夫や子ど
もたちとも同棲する二夫一妻関係に陥って、英国社会からごうごうと非難
を浴びましたが、その弁護のために持ち出したのが、「他人の自由を侵害
しない限り何をやっても良い」という自己決定の概念でした。今日の左巻
きの教師が「性の自己決定権」などと子どもたちを洗脳しているのは、こ
の受け売りです。

 欧米でも歴史伝統に基づいた立派な教育もあるのですが、その事実を観
ることなく、欧米の最も空想的な教育思想を直輸入して、我が国の伝統的
な教育を歪めてきたのが、我が国の戦後教育と言えるでしょう。いわば、
「科学から空想へ」という逆コースを歩んできたのです。

No.442 「科学から空想へ」 〜 現代日本の教育思想の源流
「子供の権利」「自己決定権」「個性尊重」などの教育思想の源泉にある
「空想」
http://blog.jog-net.jp/200604/article_1.html


■8.我々の先人は、人作りの本当の道を知っていた

 本書では、こうした机上の空論の愚を避けるために、江戸時代から現代
までの様々な教育実践事例で成功してきた事実を取り上げて考察しまし
た。そこから浮かびあがって来た事実は、我々の先人は、人作りの本当の
道を知っていた、ということです。それが本書のタイトルである「世界が
称賛する 日本の教育」です。

 もちろん、それは完全なものではなく、たとえば、大東亜戦争の敗戦に
見られるように、政治家や軍人などリーダー層の育成に関しては、反省す
べき点が多々あると考えます。

 それはそれとしても、少なくとも乳幼児から青年に至るまでの教育に関
しては、現代の我々が謙虚に学ぶべきたくさんの事実が、先人たちの事績
にはある、という事が、本書を通じて明らかにできたのではないか、と思
います。
 
 昨今、国民が左巻きの空想から解放されつつある現況というのは、大
変、喜ばしいのですが、間違った空想がなくなったからと言って、正しい
方向に歩んでいけるとは限りません。どのような教育を目指すべきか、と
いう方向を、しっかりした事実認識をベースに考える必要があります。本
書がそのために多少なりともお役に立てれば、これに勝る喜びはありませ
ん。(以下略)

2017年08月02日

◆冷戦下のヒロシマ

伊勢 雅臣



トルーマンは、ソ連を威圧するために原爆の威力を実戦で見せつけた。
(平成11年8月7日発信)

昭和20年8月6日 広島への原爆攻撃がなされました。当時、制海権も 制空
権も奪われた日本の降伏は時間の問題で、原爆攻撃どころか、本土進 攻
も不要だと考えられていました。なのに、なぜ原爆攻撃は行われたので
しょうか?

■1.不必要だった原爆投下■

アイゼンハワー連合軍最高司令官(後の米国大統領)は、スティムソン
陸軍長官から、原爆使用の計画を聞かされた時の事を思い出して、次のよ
うに述べている。

彼が関連の事実を述べているうちに、自分が憂鬱な気分になっていくのが
分かって、大きな不安を口にした。まず、日本の敗色は濃厚で、原爆の使
用は全く不必要だという信念を持っていた。・・・ 日本はまさにあの時
期に、「面目」を極力つさない形で降伏しようとしていると、私は信じて
いた。[1,p11]

当時の米陸海軍の高官たちは、異口同音に原爆使用が不必要だったと述べ
ている。たとえば:

アーネスト・J・キング米艦隊最高司令官:(原爆も日本本土への上陸作
戦も必要ないとして)なぜなら、じっくり待つもりさえあれば、海上封鎖
によっていずれ石油、米、薬品などの必需品が不足し、日本人は窮乏して
降伏せざるをなくなるからだ。[1,p471]

カーティス・E・ルメイ陸軍航空軍少将:(B29bの空襲に より、日本に
はすでにめぼしい爆撃目標がなくなりつつあり)ロシアの参戦がなく、原
爆がなくとも、戦争は2週間で終わっていただろう。[1,p485]

同様な見解を漏らした米軍人としては、ウィリアム・D・レイヒ海軍大
将・大統領首席補佐官、チェスター・ニミッツ提督、ウィリアム・ハル
ゼー大将、ヘンリー・H・アーノルド陸軍航空軍司令官、あのダグラス・
マッカーサー元帥など枚挙に暇がない。

これら米軍高官たちの意見を無視して、トルーマン大統領は広島、長崎に
原爆投下を命じた。その狙いは何だったのか?

■2.原爆という切り札■

1945年5月6日、英首相チャーチルは、緊急の米英ソ首脳会談をトルーマ
ンに提案した。ソ連は占領下のポーランドで傀儡政権を作り、16人の地下
活動家を逮捕していた。このままでは東欧全域がソ連の勢力圏内に入って
しまう、と危惧したのである。

トルーマンの回答は、会談には賛成だが、7月15日以前では出席できない
というものだった。「会計年度内に予算教書を作らねばならない」という
理由に、チャーチルはあきれ、怒った。何度も早期開催を要求したが、ト
ルーマンの返事は変わらなかった。

トルーマンが、ポツダム近郊でスターリンと会談をしたのは、7月17日正
午であった。そのわずか21時間前に、米国ニュー・メキシコ州で世界最初
の原爆実験が成功していた。

科学者たちは悪天候のために、実験延期を主張していたが、責任者のグ
ローブス少将は強行させた。「ポツダムの事がそんな具合だっら、・・・
延期できなかった」と後に語っている。トルーマンは、原爆という切り札
を手にしてから、スターリンと対決しようと考えていたのである。

■3.トルーマンの強気■

チャーチルは本会議の始まった瞬間からトルーマンが強気なのに驚いてい
た。原爆のことを知った後で、彼はスティムソン陸軍長官に語った。

昨日トルーマンに何があったのか、やっと分かった。私には理解不能だっ
た。この(実験成功の)報告を読んだ後で会談にやってきた彼はまったく
別人だった。とにかくロシア人に向かってああしろ、こうしろと指図し、
初めから終わりまで会議を取り仕切っていた。[1,p372]

一方、スターリンも、スパイによって原爆の情報をつかんでいた。宿舎
に帰ってから、モロトフ外相に言った。「クルチャトフに、すぐに連絡し
て、仕事を早めろといっておこう。」 クルチャトフとは、ソ連の核開発
の責任者である。[2,p82]

これが米ソの核軍拡競争の始まりであった。

■4.ロシア参戦の前に片をつけたい■

米国は45年4月半ば位までは、日本を降伏させるために、ソ連の参戦は必
要不可欠だと考えていた。本土侵攻のためには、関東軍を満洲に釘付けに
しておかねばならず、そのためにソ連の北からの攻撃が必須であった。ま
たソ連の参戦自体が、日本を降伏に追い込む大きな衝撃になりうると考え
ていた。

しかし、その後、米海軍が制海権を握ったことにより、関東軍の帰国を阻
止できる見通しがついた。またB29による絨毯爆撃で、日本本土侵攻自体
ももはや不要という見方が広がっていた。

さらにソ連を参戦させることは東ヨーロッパのような厄介な問題を極東に
持ち込む恐れがある。「ロシアが参戦する前に何としても日本問題に片を
つけたい」(バーンズ国務長官)というのが、当時のアメリカの本音だっ
た。[1,p392]

スターリンは5月7日のドイツ降伏から3ヶ月たてば、対日参戦すると約
束していた。8月の初旬である。後のニキタ・フルシチョフ首相は次のよ
うに回想している。

スターリンは軍の幹部に、できるだけ早く軍事行動を始めるよう圧力をか
けた。・・・ 参戦する前に日本が降伏すればどうなるか。ソ連にはまっ
たく借りがないとアメリカは主張するだろう。[2,p88]

■5.日本は降伏しようとしている■

冒頭で引用した「日本は降伏しようとしている」とのアイゼンハワー司
令官の言葉は、まさに当時の米国首脳部に共通の認識であった。

日本の暗号はすべて解読されており、日本政府内のやりとりは筒抜けに
なっていた。7月12日には、東郷外相がモスクワの佐藤大使にあてた電報
が傍受されている。

天皇陛下は、現今の戦争が日々、すべての当事国の国民により大きな災い
と犠牲をもたらしていることに配慮され、心より早期終戦を望んでおられる。

戦争終結に向けてソ連の支援を要望する親書を携えた天皇の特使をソ連政
府が受け入れるように要請していた。[1,p332]

■6.日本の降伏を阻んでいた「無条件降伏要求」■

日本の降伏に最大の障害となっていたのは、ルーズベルト前大統領が言い
出した「無条件降伏」であった。無条件降伏ともなれば、占領、賠償金、
領土割譲、戦争指導者の処刑など、戦勝国に何をされても文句は言えない
わけで、国政に対して責任を持つ政 府が受諾できるものではない。無条
件降伏を求める事は、「全滅するまで戦うしかない」と相手を追い詰める
ことに他ならない。

降伏条件を明確にすることで、日本が望む降伏への道を早く開き、連合
国側の犠牲を食い止める事ができる、というのが、当時の米国首脳部の一
致した意見であった。

トルーマン大統領に対して、「降伏条件の明確化」を訴えていたのは、
グルー国務長官代行、フーバー元大統領、レイヒ大統領首席補佐官、ス
ティムソン陸軍長官、バード海軍次官、統合参謀本部など、米国指導者の
ほとんどであり、チャーチル首相と英軍トップの指導者全員がこれを支持
していた。[1,p432]

さらに米国のマスコミも、ワシントン・ポスト、ニューヨーク・タイム
ズ、タイム、ニューズウィークなどが条件明示による早期戦争終結を主張
していた。

■7.削除された「天皇制容認」条項■

日本側が受諾可能な降伏条件として、天皇制の存続を認めることが不可欠
だという点は、米政府内の一致した見解であった。また国内外に残る数百
万の日本軍に降伏を受け入れさせるためにも、天皇の命令が必要だと米軍
トップは認識していた。

このような主張をもとに、米国務省、陸軍、海軍3省の合同委員会によっ
てまとめられたポツダムでの声明案第12項には、次のように、天皇制の存
続を認める一節が含まれていた。

これらの目的が達成され、日本国民の総意を代表する平和志向で責任ある
政府が疑いの余地なく樹立されるのと同時に、連合国の占領軍部隊は日本
から引き揚げる。

そのような政府が将来の日本において侵略的な軍国主義の台頭を許さない
という決意で平和の政策を実施すると、平和を愛好する国々(連合国)が
確信をもてれば、現在の皇室の下で立憲君主制ということもありうる。
[1,p430]

しかし、7月26日に発せられたポツダム宣言では、この後半部分がト
ルーマン大統領とバーンズ国務長官により削除された。

日本政府はそのために、ポツダム宣言をいったんは「黙殺」したが、8
月6、9日の広島、長崎への原爆攻撃、および、8日のソ連の宣戦布告の
後の10日、「国家統治の天皇の大権にいかなる変更も加えるものではない
という了解のもとに」受諾した。翌11日、連合国側から日本の降伏を受け
入れる回答がなされた。

日本側の条件は、まさにポツダム宣言から削除されていた天皇制容認条
項と合致している。トルーマンはこの条項を一旦削除した上で、日本側か
ら要求されると、すぐに了承したのである。

マッカーサーは「アメリカが後に実際にそうしたように、天皇制の維持
に同意していれば、戦争は何週間も早く終わっていたか もしれなかっ
た」と述べている。[1,p508]

■8.冷戦の最初の犠牲者■

となると、問題なのは、なぜトルーマンが一時、ポツダム宣言から天皇
制容認の条項を削除したかである。大統領の7月25日の日誌にはこうあ
る。[1,p436]

われわれはジャップに降伏して命を救うように要請する警の声明を発表
する。だが、やつらは降伏しないであろう。

トルーマンは日本が受諾しないだろうと知りつつ、ポツダム宣言から天
皇制容認条項を削除し、戦争を長引かせるような措置を意図的にとった事
になる。

同じくこの25日早朝には、ポツダムからワシントンの国防総省に、「8
月3日以降なるべくすみやかに原爆を落とせ」という命令が届けられた投
下はポツダム宣言発表の前日に、すでに命令されていたのである。

トルーマンの意図について、歴史家のハーバート・ファイスはこう述べて
いる。[1,p457]

原爆の威力を実際の戦闘で実証すれば、ソ連と対立していた問題の解決
でアメリカ政府の威信を効果的に増大できるだろうと考えられていたこと
は大いにありうる。

彼らは誇示する力が強力であることを望み、また、それは原爆の威力がお
びただしい数の死傷者によって示されて初めて可能だと考えられたと、さ
らに推論することができる。

トルーマンは、ソ連を威圧し、極東での発言権を封じるために、 原爆の
威力を実戦で見せつけ、原爆が−ソ連参戦でなく−日本を 降伏に追い込
んだという形を狙った。

そのためには、原爆投下前の日本降伏は避けねばならず、ポツダム宣言を
日本がすぐには受諾できないように改変した。これが、[1]の著者アルペ
ロピッツが唯一成り立ち得る仮説として述べているものである。

原爆投下は第2次大戦最後の軍事行動というより、ロシアとの外交上の冷
戦における最初の主要な作戦だった。(イギリスのノーベル賞物理学者
P・M・S・ブラケット)[1,p181]

とするならば、広島の20万人以上、長崎の7万人以上の死者 は、米ソ冷
戦の最初の犠牲者だったということになる。黙祷。

■ 参考 ■
1. 「原爆投下決断の内幕・上」、ガー・アルペロビッツ、ほるぷ出版、
  H7.8
2. 「アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか」、ロナルド・タカキ、
  草思社、H7.6



2017年07月31日

◆日本が直面した共産主義の脅威

伊勢 雅臣



ロシア革命 〜 日本が直面した共産主義の脅威

共産主義がどのような脅威を与え、どのような悲劇をもたらしたのか。


■1.「良い動機が必ずしも良い結果を生まない」

東京書籍版(東書版)中学歴史教科書は、「ロシア革命」にまるまる2頁
を割いて、ずいぶんと意気込んだ記述をしている。冒頭からして、こんな
書き出しである。


【ロシア革命】 社会主義は、資本主義がもたらした社会問題を解決しよ
うとして生まれた思想でしたが、国境をこえた労働者の団結と理想社会を
目指す運動になって、各国に広がりました。ロシアでも、政府による弾圧
にもかかわらず、社会主義は勢力を拡大していました。[1, p200]


労働者階級の貧困を助けよう、という動機は立派だが、ここから始まった
社会主義・共産主義によって、世界全体で1億人とも言われる犠牲者が生
まれ、今もその残滓がシナや北朝鮮に残って、日本を含めた周辺諸国を脅
かしている。

良い動機が必ずしも良い結果を生まないという現実を学ぶことは、歴史教
育の眼目の一つであろう。それを歴史から学ぶことで人類の文明も進歩し
てきた。しかし、東書版の記述を見ると、この歴史の智恵を筆者たちが学
んでいるのか、不安を感ずるのである。著者の過ちは、この教科書で歴史
を学ぶ中学生にも受け継がれてしまう。


■2.暴力革命

まず、ロシア革命の経過について、東書版は次のように記述している。

第1次世界大戦が総力戦として長引き、民衆の生活が苦しくなると、ロシ
アで戦争や皇帝の専制に対する不満が爆発しました。1917(大正6)年に「パ
ンと平和」を求める労働者のストライキや兵士の反乱が続き、かれらの代
表会議(ソビエト)が各地に設けられました。

皇帝が退位して議会が主導する臨時政府ができましたが、政治は安定せ
ず、社会主義者レーニンの指導の下、ソビエトに権力の基盤を置く新しい
政府ができました(ロシア革命)。この革命政府は、史上初の社会主義の政
府でした。[1, p200]


「皇帝の退位」に関しては、「ニコライ2世」と題した則注があり、「革
命の翌年に、家族とともに処刑されました」とある。

同じ部分を、育鵬社版はこう記述している。ソビエト政権の誕生までは、
ほぼ同様の記述だが、それからが異なる。

ロシアの革命政府はドイツと講和を結び戦争を中止し、革命に反対する国
内勢力との内戦に入りました。退位したロシア皇帝やその家族は処刑さ
れ、資本家や地主知識人は捕らえられ、多数の人々が殺害されたり、シベ
リアに追放されたりしました。[2, p212]

内戦、逮捕、殺害、追放などの記述は、東書版には全く登場しない。東書
版では、ロシア革命が「暴力革命」であることを学べないのである。


■3.「ソ連の計画経済」の実態

次いで、革命政府がどのような経済政策をとったのか、育鵬社版は、こう
説明する。

ソビエトは世界初の共産主義社会の実現をめざす政府でした。貧富の差を
生むとして自由な生産活動を禁止し、土地や農場銀行、鉱山、鉄道などほ
とんどすべての企業を国有化し、国家が管理することになりました。議会
政治を否定し、共産党にすべての権力が集中する一党独裁政治が行われ、
市民の自由は奪われました。[2, p212]

計画経済を導入しようとすれば、必ず人々の自由を奪い、議会政治を否定
し、独裁政治となる。これが共産主義の常道であり、無数の悲劇もここか
ら起こる。育鵬社版の記述は簡潔かつ正確である。

東書版では「ソ連の計画経済」という3分の1頁ものコラムを設け、その
仕組みを詳しく説明する。

社会主義を唱える人々は、資本主義の問題点が利益を目指す自由競争にあ
ると考え、私有財産を制限して自由競争をなくし、国家が計画的に物を生
産して、個人の必要に応じて分配する理想社会を作ろうと考えました。
[1, p201]

と、また理想論から説き始め、生産性向上のための「5カ年計画」が建て
られたことを紹介して、その結果をこう総括する。

最初の5か年計画は4年で達成され、次の5か年計画に移行するなど、世
界恐慌で苦しんだ資本主義の国々とは対照的に、ソ連は順調に経済成長を
達成し、国家建設が進むかに見えました。

しかし、第2次大戦後には、資本主義の国々に包囲された条件の中で、
人々の自由な活動や個性は抑圧され、形式的な面ばかりが重視されるよう
になり、ソ連の社会は非効率になっていきました。[1, p201]

ソ連の躍進を述べた後で、第2次大戦後には「ソ連の社会は非効率になっ
ていきました」と言う。「非効率」どころか、計画経済の行き詰まりか
ら、社会主義体制が崩壊した事を語らない。しかも、「資本主義の国々に
包囲された条件の中で」と原因を他所に求める。世界中が社会主義になっ
ていたら、うまく行っていたはずだ、とでも言いたいようだ。


■4.「干渉戦争」

皇帝を処刑し、国内の反対者を逮捕、処刑する暴力革命は、欧米諸国や日
本を震撼させた。育鵬社版の記述では:

ロシア革命の影響を警戒した欧米諸国は、シベリアに兵を送り、革命政府
に圧力を加えました。わが国も1918(大正7)年、アメリカなどとともにシ
ベリア出兵を行い、共産系軍と戦いましたが、成果がないまま撤退しまし
た。[2, p212]

 東書版はこう記述する。

ロシア革命は、資本主義に不満を持ち、戦争に反対する人々に支持され、
各国で社会主義の運動が高まりました。しかし、イギリス、フランス、ア
メリカ、日本などは、革命政府の外交方針に反対し、また社会主義の影響
の拡大をおそれて、ロシア革命への干渉戦争を起こし、シベリア出兵を行
いました。

革命政府は労働者と農民を中心に軍隊を組織して干渉戦争に勝利し、国内
の反革命派も鎮圧して、1922年にはソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)
が成立しました。しかしソ連はしばらくの間、国際社会から国として認め
られませんでした。[1, p201]

愛国的なソ連の歴史学者が、干渉戦争の勝利、反革命派の鎮圧を歌いあげ
ているような筆致である。


■5.「文明への恐るべき脅威」

シベリア出兵には、もう少し複雑な背景がある。ドイツは革命政権との講
和により東部戦線から西部戦線に兵力を集中し、英仏は苦戦に陥った。そ
こで、英仏はロシア帝国軍の一部として戦っていたチェコ軍を救出するこ
とを名目に、日本に出兵を求めたのである。

英仏としては、日本軍がシベリアに出兵することで、ドイツの目を再び、
東方に向けさせること、また反革命に立ち上がっていたロシア軍(白軍)
との共同で、革命政権を打倒する事を狙った。日本としては、白軍がシベ
リアで反共産主義の自治領を樹立すれば、共産主義への防壁となる、とい
う防衛構想があった[3,p95]。

これにアメリカも賛同し、日米を主力として英仏伊を加えた連合軍による
共同出兵となった。シベリアでの内戦では60万人の共産軍(赤軍)に対
し、白軍が40万人、それに日本軍7万3千などの連合国が荷担した。

1918(大正7)年11月にドイツが降伏し、また白軍政府も崩壊すると、連合
国はシベリア介入の目的を失い、1920年には相次いで撤退した。しかし、
その矢先に起きたのが、樺太の対岸、尼港(ニコライエフスク)で起きた
虐殺事件だった。

これは共産軍が、白軍と日本軍が護っていたニコライエフスクを襲い、市
民6千人とともに、駐留日本軍と在留邦人約730人を虐殺した事件であ
る。その残虐さに日本国民は激昂し、それがために撤兵も大幅に遅れたの
である。

アメリカのラインシング国務長官は、日本のシベリア出兵に関して、日記
にこう書いている。

ボルシェビキ(共産主義過激派)が満鮮に浸透した場合の日本に対する危
険を考へてみる時、過激派進出を阻止するため日本が十分な兵力を派遣す
ることに反対すべきではない。何故なら、極東へのボルシェビズムの蔓延
は文明への恐るべき脅威だからである。[4, p170]


東書版では則注で「特に日本は、シベリア領土を得ることも目的にして、
大軍を派遣しました」と書くが、シベリア出兵から共産主義の脅威という
背景を隠してしまえば、こういう記述になってしまうのだろう。


■6.日本共産党はコミンテルン日本支部

実際に、革命政府はすぐに世界の共産化に乗り出した。その様を、育鵬社
版はこう記述する。

1919年、世界に共産主義を広めるため、 コミンテルンとよばれる革命指
導組織がつくられました。各国の共産党はコミンテルンの支部として結成
され、それぞれの国を共産化するための活動を始めました。[2, p213]

 さらに、この部分の則注として:

ロシア革命の発生は、日本の社会主義者を強く刺激した。彼らの一部は、
コミンテルンの支援と指導を受けて,1922年、ひそかに日本共産党を結成
した。

日本共産党の正体は、コミンテルン日本支部なのである。この点を、東書
版は次のように巧みにぼやかしている。

ロシア革命を指導した政党は、将来の共産主義の実現をかかげていたの
で、名前を共産党に改めました。共産党は他の国にも設立され、ソ連共産
党を頂点とする国際的な機関も結成されましたが、ソ連以外では社会主義
革命は実現しませんでした。[1, p201]

日本共産党の幹部だった筆坂秀世氏は「活動資金までコミンテルンに依存
していたこともあり、共産党はコミンテルンの歯車の一つだったに過ぎな
い」と語っている[a]。また、コミンテルンの手先だった朝日新聞記者・
尾崎秀實(ほつみ)は「ソ連を日本帝国主義から守る」ために、日本と蒋
介石との戦いを煽っていた[b]。

日本のシベリア出兵をソ連に対する「干渉」と言うなら、こうしたコミン
テルンの工作も日本の内政に関する「干渉」なのである。


■7.「多くの犠牲者」

レーニンの世界革命路線が失敗すると、後を継いだスターリンについて、
東書版はこう述べる。

このためレーニンの後に指導者になったスターリンは、ソ連一国での共産
主義化を優先し, 1928(昭和3)年からは5か年計画を始めて、重工業の増
強と農業の集団化を強行しました。この計画経済によって、 ソ連は国力
をのばしました。しかしその一方で、国の強硬な方針に批判的な人々は、
追放されたり処刑されたりして、多くの犠牲者が出ました。[1, p201]


最後の一文にいたって、ようやく「多くの犠牲者」が出てくる。共産主義
の犯罪を研究した『共産主義国書』では、ソ連の犠牲者数は2千万人とさ
れている。「多くの犠牲者数」という表現から、こんな規模を思い浮かべ
る中学生はいないだろう。

一方、育鵬社版は、次のように総括する。

レーニンの死後、権力をにぎったスターリンは、農業の集団化をおし進め
るとともに、工業国への転換をめざしました。そのあいだ、スターリンは
秘密警察による情報網をはりめぐらせ、共産党に反対する人々を摘発して
収容所に送り、おびただしい数の犠牲者を出しました。[2, p213]

東書版に比べ、「秘密警察」や「収容所」を出して、はるかに具体的だ
が、「おびただしい数の犠牲者」でも、まだ規模のイメージはつかめな
い。確定数字は出せないにしても、過去の主要な研究でいくつかの推定数
字を出すだけでも、ロシア革命による犠牲者数は世界史上空前であること
が分かるはずだ。

育鵬社版は、この項を「わが国は、北の国境で共産主義という新たな脅威
と直面することになりました」と結んでいる。これだけの犠牲者を生み出
す共産主義から、いかに国を護るか、これが20世紀に入ってからの我が
国の重要な防衛課題となるのである。そういう認識が、東書版にはまった
くないように見える。



■リンク■

a. JOG(941) 日本共産党小史 〜 国民政党なのか、外国工作機関なのか
 日本共産党は世界共産化を狙うコミンテルンによって設立され、その資
金と指示で武闘路線を歩んできた。
http://blog.jog-net.jp/201603/article_1.html

b. JOG(263) 尾崎秀實 〜 日中和平を妨げたソ連の魔手
 日本と蒋介石政権が日中戦争で共倒れになれば、ソ・中・日の「赤い東
亜共同体」が実現する!
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h14/jog263.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 『新編新しい社会歴史 [平成28年度採用]』★、東京書籍、H27
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4487122325/japanontheg01-22/

2.伊藤隆・川上和久ほか『新編 新しい日本の歴史』★★★、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4905382475/japanontheg01-22/

3. 伊藤之雄『政党政治と天皇 日本の歴史22』★★、講談社学術文庫、H22
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4062919222/japanontheg01-22/

4. 中村粲『大東亜戦争への道』★★、展転社、H2
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4886560628/japanontheg01-22/

2017年07月17日

◆マラリアと戦う日本の蚊帳

伊勢 雅臣



■1.「これだけ多くの世界中の人々に、うちの蚊帳は期待されているのか」

国際社会を代表する政治家や実業家が年に1回、スイスの保養地ダボスに
集まって、世界の諸問題を討議するダボス会議。2005(平成17)年の「貧困
撲滅のための財源に関する分科会」で、一つの事件が起きた。[1]

壇上から、タンザニアのムカパ大統領が「今日も、この瞬間も、マラリア
で亡くなっていく子供たちが存在します。今すぐに助けが必要なのです」
と訴えた。現実に2000年には世界で84万人の死者が出ており、そのほと
んどがアフリカだった。[2]

それを聞いていたハリウッド女優のシャロン・ストーンが「私が個人とし
て、一万米ドルを供出します。それでオリセットの蚊帳を購入して配布し
てほしい。他にも賛同する方はいませんか」と呼びかけた。その呼びかけ
にマクロソフトのビル・ゲイツなどが次々に賛同し、その場で100万ド
ル、1億円相当の寄付が集まったのである。

オリセットネットは蚊帳を作るポリエチレンの糸に防虫剤を練り込み、そ
れが徐々に表面に染み出して、5年以上も防虫効果を持つという製品で、
日本の住友化学が開発した。

ダボス会議の前年に、オリセットネットは米国の『TIME』誌から、"Most
Amazing Invention"(最も驚くべき発明)の表彰を受けており、シャロ
ン・ストーンが「オリセットの蚊帳を」と言い出したのは、こういう
ニュースで有名になっていたからだろう。

ダボス会議に招待されていた住友化学社長・米倉弘昌(よねくら・ひろま
さ)は、この光景を見ていて、「これだけ多くの世界中の人々に、うちの
蚊帳は期待されているのか」と思った。「これはうちとしてもひとつ、覚
悟をもって世界の期待に応えていかねばなるまいな」と決心した。


■2.「あなたがた日本人ならみんな知っているかと思った」

ここまで来るまでには、住友化学の中で多くの人々による十数年にわたる
悪戦苦闘があった。発端は、かつて住友化学が世界のベストセラーとして
売っていたマラリア対策の殺虫剤スミオスチンが徐々に売り上げを減らし
ていたことだった。

日本では戦後の早い時期に、下水溝整備など蚊の発生源対策と殺虫剤散布
により、マラリア撲滅に成功していた。しかし広大なアフリカ大陸で発生
源対策も不十分なまま、殺虫剤を撒き続けていて、いつかはマラリア撲滅
に成功するのだろうか? そんな疑問が先進国の政府援助を減らしつつ
あった。

海外農薬事業を担当していた川崎修二は、この苦境を乗り切る術(すべ)
はないかと、旧知の世界の熱帯医学の権威的存在である英国の医学研究所
のカーチス博士に相談した。博士の答えに川崎は驚いた。

「あなたがた日本人ならみんな知っているかと思った。今、注目されてい
るのは蚊帳(かや)を使ったマラリア対策ですよ」。[1, 366]

日本人の伝統的な生活の智恵である蚊帳が、マラリア対策として注目され
ているという。しかも、博士はその蚊帳に殺虫剤を染みこませておけば、
蚊の絶対数を減らしていける、という。

 川崎の下で研究に従事していた伊藤高明も、アメリカの国際開発庁が殺
虫剤に浸した蚊帳を使って、住民参加の実験を始めている、という情報を
つかんでいた。しかし、その蚊帳は単に殺虫剤の溶液に浸しただけで、半
年ごとにそれを繰り返す「再処理」をしなければならない。

途上国の普通の人が、殺虫剤の液で蚊帳を処理すること自体が、常識的に
考えてあり得ない行動やな。本気なのか、このやり方は。


■3.分子レベルの設計

伊藤は樹脂の中に殺虫剤を練り込んで、すこしづつ滲み出てくるようにす
れば、「再処理」などしなくとも長く使える蚊帳が作れるのでは、と思い
ついた。そこで樹脂や製造工程に詳しい奥野武に相談した。奥野は初め
は、そんなものは商売にはならない、と乗り気ではなかったが、熱心な伊
藤に根負けして開発を始めた。

奥野は、繊維の中に練り込まれた殺虫剤の分子がどのような温度でどう動
くのかまで検討して、樹脂の仕様や製造方法を検討した。その結果、何年
も殺虫効果が続く樹脂を作ることができた。

また、伊藤は、暑いアフリカで蚊帳の中を少しでも涼しくするための編み
目の大きさにもこだわった。蚊は編み目を通過しようとする時、羽を広げ
た状態で通ろうとする事を発見し、マラリアを媒介するハマダラカは日本
の蚊よりも一回り大きい事から、編み目を少し大きくする事とした。

こうしてできあがった蚊帳を外務省のODA(政府開発援助)担当者や
JICA(国際協力機構)に説明したが、その良さは理解が難しく、反応
は鈍かった。川崎は現地でこの蚊帳の効果を実証することが必要と考え、
「小規模援助」に着目した。各途上国の日本大使が少額の人道支援を大使
権限で実施できるという仕組みである。

この仕組みを使って、5年ほどの間に43カ国にわたって、数十帳から時に
は千張もの蚊帳が現地で使われるようになった。マラリアの院内感染が明
らかに減少した、という報告も6カ国からあがってきた。


■4.アメリカ国際開発庁からのクレーム

しかし、思わぬ所から横やりが入った。マラリア対策に取り組んでいるア
メリカの国際開発庁から、1990年にクレームが届いたのである。

自分たちがせっかく殺虫剤を「含浸するタイプの蚊帳」を広め、ユーザー
である住民自身での「再処理」習慣を根付かせるための啓蒙活動を行って
いる横で、「再処理をしなくてよい」という製品を展開するとは、どうい
うことなのか。マラリア対策プログラムに対して、「マイナスの影響を与
える製品」の展開はやめてほしい。[1,
 677]


国際開発庁が広めようとしていた蚊帳は、単に殺虫剤の溶液に漬けて、繊
維の表面に殺虫剤が付着しているだけの従来型のものだ。半年もすると殺
虫剤が消え失せて、効果もなくなってしまう。そのために、半年ごとに殺
虫剤の溶液に含浸するという「再処理」が必要だった。それをいかにアフ
リカの住民にさせるか、がネックとなっていた。

マラリア退治を真の目的としていれば、再処理を必要としない住友化学の
オリセットネットの登場は両手をあげて歓迎すべきことだった。しかし、
国際開発庁の担当者たちは、そんな事をしたら、自分たちが今まで進めて
きた対策を否定することになる、と考えたのだろう。

いかにも唯我独尊、不合理な主張だが、米国の国際開発庁は世界のマラリ
ア対策の主導権を握っていた。その影響力で、各国からの注文は減って
いった。今まで事業を担ってきた川崎も奥野も他の部署への異動を命ぜら
れた。オリセットネットの先行きは真っ暗になった。


■5.「この申請は、スミトモからのあの蚊帳か」

独り、オリセットネット事業に残った伊藤は、それでもあきらめなかっ
た。今までの各地での適用成果をレポートにまとめて、WHO(世界保健
機構)の認定を受ければ、道は開けるかもしれない、と考えた。認定には
3年の年月と数百万円の費用がかかる。伊藤は新しい上司を説得して、な
んとか申請の許可を貰った。

その申請を受け取ったWHOの職員、ピエール・ギエ博士はルワンダ人の
学生スタッフを呼んで聞いた。「この申請は、スミトモからのあの蚊帳
か」「ドクター・ピエール。間違いありませんね。日本のスミトモの、オ
リセットネットという蚊帳です」

ピエールはフランスの開発研究局の出身で、以前からアフリカの現地でマ
ラリア対策活動について研究を積み重ねていた。その学生スタッフが、あ
る日、持ち帰った蚊帳を見て、「これは、珍しい製品があったものだね」
とピエールは感心した。それは川崎の時代に少額無償援助で各地にばら撒
いたオリセット蚊帳のひとつだった。

マラリア対策の現地での実態を目の当たりにしていたピエールは、住民に
従来型の蚊帳を再処理させることが、その普及の妨げになっていることを
理解していたのである。

その時の事を思い出しながら、ピエールは思った。

そうか。あの蚊帳がついにWHOに認定の申請をよこしてきたというわけ
か。今の動きからすると、これは大きな潮目の変化になり得るかもしれな
い。[1, 816]


■6.WHOの前代未聞の推奨と大量注文

2001年春、ピエールから伊藤にメールが入った。オリセットの件で話がし
たい、ということだった。来日したピエールはフランス語訛りの英語で伊
藤に言った。

WHOは今、マラリア対策蚊帳について、大きな方向転換をしようとして
います。これまでに再処理を行わせることで、ユーザー住民の啓蒙を図る
ことを目指してきました。だが今、ようやく、そのプロセスを経ていて
は、普及が進まないということが、合意となりつつあります。

 WHOはそう遠くない将来、長期残効蚊帳、つまり再処理をしなくて
も、長期間にわたって殺虫効果が残るものを推奨する方向に舵を切り替え
るでしょう。そのときに、あなたがたのオリセットの蚊帳は、現時点で最
も性能面で優れている蚊帳であると理解せざるを得ません。[1, 850]

同年10月、WHOは「長期残効蚊帳」という新しいカテゴリーを創設し、
その第一号認可品としてオリセットを推奨した。WHOが新カテゴリーま
で創設して推奨するのは前代未聞のことだった。同時に「フィールド評価
用」として、7万張りもの発注をしてきた。今までの膠着在庫が一掃され
るだけでなく、大至急、増産体制を作らなければならない。

伊藤は上司に掛け合って奥野を戻して貰った。奥野は事態の急進展に驚い
たが、大車輪で動いて、年間10万張りの生産体制を整えた。


■7.「WHOが無償でうちの技術が欲しいといっていると?」

WHOはさらにオリセットの急速な普及を促進するために、矢継ぎ早に手
を打ってきた。

すばらしい技術であるオリセットの技術を、アフリカで現地生産できるよ
う、できれば無償で蚊帳生産技術を供与してほしい。それにより生産規模
を拡大し、安く大量の蚊帳を供給できる体制を構築したい。[1, 930]


WHOは「安く大量の蚊帳を供給できる体制」のメンバーも揃えていた。
住友化学が殺虫剤、エクソンモービルがポリエチレン樹脂を提供し、技術
供与されたアフリカ現地の製造委託先が蚊帳を製造する。それをユニセフ
が買い上げ、PSI(ポピュレーション・サービス・インターナショナル)
がマラリアの感染地域に配布・啓蒙を行う、という体制である。

「WHOが無償でうちの技術が欲しいといっていると?」と、社長の米倉
弘昌は上申書に目を留めた。技術で商売をしてきた住友化学がタダで外部
に技術を出すなど前代未聞だった。

しかし、と米倉は考えた。技術料をタダにしても、その分、製品価格が下
がり、販売量が増えれば、殺虫剤の販売だけでも利益は確保できるだろ
う。なにより、それだけ多くのマラリア患者を減らせるし、現地生産に
よって現地の雇用も生み出せる。


■8.「三方良し」経営の世界的な成功事例

アフリカでの製造技術移転先として、ピエールからの紹介もあり、タンザ
ニアの企業、AtoZが選ばれた。住友化学が設備投資のアドバイス、機械の
調達先の紹介、ライン作り、作業者の指導まで行った。

やっとのことで生産ラインを設置し、しばらく経ってから、住友化学の指
導員が訪問してみると、工場の床は散乱し、物も乱雑に置かれていた。そ
んな状況から、指導を繰り返し、2005年には300万張りへと拡大すること
ができた。
 
 冒頭で紹介した米倉がダボス会議で「これだけ多くの世界中の人々に、
うちの蚊帳は期待されているのか」と感じたのは、この頃のことであった。

 ユニセフからは再三にわたり、オリセットの供給能力を年産数千万張り
に増強して欲しいとの要求が来ていた。増産のために、現地でのもう一つ
の製造会社として、AtoZ社のグループ会社と住友化学のジョイント・ベ
ンチャーを作った。

 こうした思い切った増産により、現在、タンザニアの生産能力は年間
3000万張りに達し、最大7千人もの雇用機会を生み出している。なにより
もオリセットネットやその他の対策の効果もあいまって、マラリアによる
死者はかつての100万人規模から現在では60万人レベルに減少している。

 拙著『世界が称賛する 日本の経営』[a]では「売り手良し、買い手良
し、世間良し」の「三方良し」経営が日本の経営の本質だと説いたが、オ
リセットネットはその世界的な成功事例と言えよう。



■リンク■

a. 伊勢雅臣『世界が称賛する 日本の経営』、育鵬社、H29
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594076858/japanontheg01-22/


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 浅枝敏行『日本人ビジネスマン、アフリカで蚊帳を売る: なぜ、日本
企業の防虫蚊帳がケニアでトップシェアをとれたのか?』★★、東洋経済新
報社、H27
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4492557628/japanontheg01-22/

2. Malaria cases and deaths, Global Health Observatory (GHO) data
http://www.who.int/gho/malaria/epidemic/en/

2017年06月26日

◆ブラジル日系移民、一世紀の苦闘

伊勢 雅臣



 日系移民がブラジルで尊敬される地位を獲得するまでには、日本人の
「根っこ」に支えられた苦闘の物語があった。


■1.「ブラジルでは日系人は人口の1%しかいないのに、大学生は10%
も占める」

筆者がアメリカに留学していた時に、ブラジルから来た留学生から「ブラ
ジルでは日系人は人口の1%しかいないのに、大学生は10%も占める」と
聞いて、嬉しく思った事がある。

たとえばサンパウロ大学は、ブラジルのみならずラテンアメリカ世界での
最難関大学であり、多くのブラジル大統領を出しているが、そこでの日系
人学生は14%を占めている。

筆者が嬉しく思ったのは、日本人が優秀だ、という事ではない。ブラジル
に移住した日本人も、親は子のために尽くし、子もその恩に応えて頑張
る、という日本人らしさを発揮しているのだろうと想像したからだ。

私自身も一度、ブラジルに出張して仕事をした事があるが、多くの日系人
社員が企業の幹部を務め、その誠実さと有能さは、日本からの駐在員に勝
るとも劣らないと実感した。ブラジル国内でも日系人はいまや社会的に尊
敬されている。

親が子を思い、子が親の恩に応えるという、いかにも日本人らしい成功物
語が地球の裏側で展開されたと私は受け止めていたのだが、それがいかに
浅薄な理解であるかを、深沢正雪氏の『「勝ち組」異聞─ブラジル日系移
民の戦後70年』[1]を読んで知った。

深沢氏は長らくサンパウロ市の邦字紙「ニッケイ新聞」の編集長を勤め、
この本でも現地で集めた多くの史実を紹介している。それらを通じて、ブ
ラジルの日系移民が今日の地位を得たのは、一世紀もの間、幾多の苦難を
乗り越えてきた苦闘の結果である事がよく分かった。

その苦闘ぶりにこそ、日本人らしさが現れていることも。


■2.出稼ぎ

日本からブラジルへの移民は明治41(1908)年に始まり、戦前戦後を通じ
て25万人にのぼるが、その半分以上にあたる13万人が1926年から1935
年までの10年間に集中している。

これは大正12(1923)年の関東大震災、昭和5(1930)年から翌年にかけての
昭和大恐慌という国内の経済的困窮に迫られたこと、国外からは大正
13(1924)年に米国で排日移民法が成立して道をふさがれ、ブラジルが新た
な移民の受入れ先になったことによる。

しかし、1934年にはブラジル政府が日本移民の入国制限を始め、またその
ころには満洲が新たな移住先となっていたことで、ブラジルへの移民は激
減した。ブラジルへの移民は自由な選択というよりも、国内の経済的逼迫
と国際政治の風向きによって、やむなく新天地を求めた、という側面が強
かったようだ。

したがって戦前の移民20万人のうち、85%は何年かブラジルで働いて金を
貯めたら、帰国しようとする出稼ぎ意識でやってきたのである。


■3.日系移民の苦難

しかし移民がたどり着いたブラジルは、豊かで平和な新天地とはほど遠
かった。

ブラジルは土地も肥沃で日本の日雇い労働者の2倍も稼げるという話に惹
かれてやってきたのだが、大規模コーヒー農園で働いても、低賃金から食
費を引かれるとほとんど残らない。やむなく自力で低湿地を切り開いて米
を作り始めても食べるのに精一杯、雨期には蚊が大量発生してマラリアの
病魔に襲われたりもした。[a,b]

社会的にも「かつてのブラジル人エリートは常に人種差別者だった。ブラ
ジルが発見された当時、下等民族とみなされたインディオが大量虐殺さ
れ、黒人は動物,商品として非人間的な扱いを受け、その次は移民、特に
アジア系移民が標的にされた」と評される有様だった。[1, p255]

政治的にも不安定で、1924年には6千の革命軍が20日にわたってサンパ
ウロ市内を占拠し、それを3万の政府軍が包囲して激戦を展開する、とい
うような物騒な国だった。

言葉も解さず、政治力も持たない日本人移民は農村に散在していたが、革
命軍の敗残兵は格好の餌食としてそうした植民地を襲って、略奪を行っ
た。移民たちは結束して銃撃戦を繰り広げて自衛したが、無残に撃ち殺さ
れる人々も少なくなかった。

そんな苦難の中でも、日本語学校が集団地ごとに作られ、戦前だけで500
校近くあったという。ブラジルで生まれた子供たちも、やがて日本に帰っ
た時、普通の日本人としてやっていけるように、という親心からだろう。

日系移民たちは互いに助け合って、共同体として生き延びるしかなかっ
た。そんな共同体を支えたのが、勤勉、誠実、正直という日本人の「根っ
こ」だった。そして苦難の中で生き抜くことで、日本人の根っこは移民た
ちの心の中で、より太く、深く成長していったのではないか。

そうした勤勉さで成功した移民の中からは、大農場や工場、貿易会社を営
む人々も現れるようになった。


■4.日系移民への弾圧

1930年に軍事クーデターを成功させたヴァルガスが大統領となった。ヴァ
ルガス独裁政権はブラジルでのナショナリズムの高揚を狙って、初等、中
等教育でのポルトガル語以外の外国語の学習を禁じた。1938年にはブラジ
ル全土の日本語学校が閉鎖され、1941年には日本語新聞禁止令によって全
邦字紙が停刊となった。

1941年12月、大東亜戦争が勃発すると、日系人が築いてきた大規模農場、
商社、工場などの資産が差し押さえられた。日系社会の指導者層が検挙さ
れ、拷問を受けた。

1943年7月に、サンパウロの外港・サントス港沖でアメリカとブラジルの
汽船合計5隻がドイツの潜水艦によって沈められると、日独伊の移民に対
して24時間以内にサントス海岸部からの立ち退きを命ぜられた。日系移
民も女子供老人に至るまで手回り品だけをもって、移民収容所まで歩かさ
れた。

その当時の人々の心境を、移民画家・半田知雄氏は次のように描いている。

多くのものが警察に拘引され、留置場にたたきこまれ、ときには拷問され
たという噂があり、不安がつのればつのるほど、この状態を脱出するため
の未来図は、東亜共栄圏内に建設されつつあるはずの『楽土』であった。

民族文化を否定され、そのうえ日常生活のうえで、一歩家庭をでれば、
戦々恐々として歩かねばならないような息苦しさに、ブラジルに永住する
心を失った移民たちは、日本軍部が約束した共栄圏のみが、唯一の生き甲
斐のあるところと思われた。[1, p64]


■5.勝ち組と負け組

1945年8月14日(時差により日本時間とは一日ずれる)、祖国敗戦の報が
もたらされた。いつかは帰国すると願っていた移民たちにとって、敗戦は
帰る場所が無くなってしまう事を意味した。

その心理的抵抗に加えて、「天皇の神聖な詔勅が、ポルトガル語で新聞に
でたというのが、すでにおかしい」とか、「20万同胞の在住するブラジル
に、正式な使節が派遣されないという理由はない」と多くの人々は考え、
実は日本が勝ったという噂が広がった。移民の7、8割がこれを信ずる
「勝ち組」に属した。

一方、移民社会のリーダーたちは、戦時中の検挙や資産差し押さえに懲り
て、ブラジル政府を恐れ、敗戦を受け入れて「負け組」となった。彼らは
勝ち組がやがてブラジル政府批判を始めて、自分たちはその巻き添えを食
うという心配から、勝ち組を抑えにかかった。

戦前には大日本帝国の国威発揚を説いていた指導者たちが、手のひらを返
すように敗戦を説き始めたことに、勝ち組の人々は裏切られたと感じた。
負け組からは「負けたんだから、もう日の丸はいらない」などという発言
まで飛び出したという。


■6.「日本国家と皇室の尊厳のために立ち上がったんです」

負け組の筆頭と目された脇山甚作・退役陸軍大佐は勝ち組の若者4人に暗
殺された。実行犯の一人、日高徳一はこう語っている。

僕等はなにも勝った負けたのためにやったんじゃない。あくまで日本国家
と皇室の尊厳のために立ち上がったんです。脇山大佐には申し訳ないが、
彼個人になんら恨みがあったわけではない。[1, p176]

日高はすぐに自首して、牢獄島で2年7ヶ月を過ごしたが、その後、官選
弁護士からは「目撃者はいない状況では犯罪は成立しない」から釈放だ、
と言われた。日高は「それは違う。人の家庭をグチャグチャにしたんだか
ら、こんなことで釈放では大義名分が通らない」と言い張り、約30年の
量刑を言い渡された。

結局、10年で釈放されたのだが、「日本人が普通の生活をしていたらそれ
だけで模範囚ですから、どんどん刑期が短縮されちゃうんですよ」。テロ
リストですら純真な日本の心根を持っていた。

こうした事件を機に、ブラジル官憲が勝ち組と見なした3万人以上、すな
わち在留邦人の7人に一人が取り調べを受けるという捜査を行った。その
中では、「御真影(天皇陛下の写真)を踏んだら、留置所から出してや
る」と言われた移民もおり、それを拒否しただけで監獄島に送られる、と
いう弾圧も行われた。


■7.「日本を愛する心を子どもに植え付けるために」

戦後、4、5年も経つと「戦争は終わり、日本は負けた。でも日本は残っ
ている。引き揚げ者であふれ、食糧難の日本には帰れる場所はない。それ
に、子供はブラジルで大きくなってしまった。ブラジルに骨を埋めざるを
えないのか」という諦めが広がっていった。

しかし、その諦めをバネにして「ここで子供にしっかりと勉強させて良い
大学にいかせ、社会的に立派な立場にさせよう。そうすることで戦争中に
自分たちをバカにしてきたブラジル人を見返さなくては」という志につな
がった。サンパウロ大学を「ブラジルの東大」と呼んで、親は身を粉にし
て働き、子供を送り込んだ。

勉学ばかりでなく、「日本を愛する心を子どもに植え付けるために日本語
教育に力を入れよう」と考え、日本語教育や日本文化継承に全身全霊を捧
げた人々も現れた。

拙著『世界が称賛する 日本人の知らない日本』でも、江田島の旧海軍兵
学校を訪れた17歳のナタリア・恵美・浅村さんが、英霊の心を偲んで書
いた「げんしゅくな気持ち」という一文を紹介した[c, p201]。

ナタリアさんは、サンパウロ市の松柏(しょうはく)学園の生徒で、この
学園は2年に一度、2,30人の生徒を日本に送り、生徒たちは約40日をか
けて沖縄から北海道までを回っている。

地球を半周する飛行機代と40日もの宿泊費は送り出す親にとって相当な負
担であるが、「自分のルーツに誇りを持ってほしい」「美しい日本を見て
きてほしい」という日系人父兄の切なる願いが40年にもわたる使節団の
派遣を支えてきたのである。

このように祖国は敗れ、帰国も絶望的になったという境遇の中でも前向き
な精進を続ける所に、日本人の根っこからのエネルギーが発揮されている。


■8.「我々は日本語や日本文化の灯を絶やさなかったから生き残った」

深沢氏は勝ち組系の二世長老から聞いた次のような発言を紹介している。

戦後、認識派(JOG注: 負け組)の子孫はどんどんコロニア(JOG注: 日系
人社会)から離れ、同化して消えていったが、我々は日本語や日本文化の
灯を絶やさなかったから生き残った。そして、むしろそれが評価される時
代になった。[1, p77]


日本人としての「根っこ」を失えば、圧倒的多数のブラジル人に同化吸収
されてしまう。逆に日本語や日本文化の根っこを大切に育ててきた人々
は、ブラジル社会に独自の貢献ができ、それが評価される。

ブラジル法学界の権威である原田清氏は編著書『ブラジルの日系人』の中
で「ニッケイは日本人の魂をもってブラジル人として振る舞う」人々で、
「本国ではもう見られないような(伝統的な)日本文化をわかちがたい絆
として引き継いでいる」と書いている。

深沢氏が「どんな伝統的な日本文化が次の世代に継承されるのか」と原田
氏に問うと、「勤勉、真面目、責任感、義理、恩、礼などが残ると思う」
と答えた[1, p76]。

これらの徳目こそ、日本人の根っこそのものだろう。本国・日本では占領
軍とその後の左翼思想による歴史の断絶によって、我々の根っこがほとん
ど断ち切られてしまったが、ブラジルの日系人は意図的な努力で根っこを
太く深く伸ばし、そこから湧き出るエネルギーによってブラジル社会で称
賛される地位を築いたのである。

 ブラジルの日系人の苦闘の物語は二つの事を我々に示してくれている。

 第一に、日本人の根っこは、ブラジルという異境の大地においても、
しっかりと太い根を伸ばし、立派な幹を育て、美しい花を咲かせたこと
だ。この事実は、日本人の根っこが世界に通用する普遍性を持っているこ
とを示している。いまや世界各地で暮らし、仕事をしている在外邦人に
とって貴重な示唆である。

 第二に、ブラジルの日系人が、日本人の根っこからのエネルギーによっ
て苦難を乗り越え、その過程でまた根っこを太く深く伸ばした事である。
これは防衛、経済、少子高齢化など多くの苦難に直面している日本列島に
住む日本人に希望を指し示している。

 現代の日本人全体にこのような貴重な教訓を示してくれた在ブラジル同
胞の一世紀の苦闘に深甚の敬意と感謝を捧げたい。


■リンク■

a. JOG(396) ブラジルの大地に根付いた日本人(上)
家族のために「大儲けして、一日も早く広島に戻らんといけんなあ」と
二人はブラジルに出発した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h17/jog396.html

b. JOG(397) ブラジルの大地に根付いた日本人(下)
ブラジルの大地に残した「ジャポネース・ガランチード」(日本人は保
証付き)の足跡
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h17/jog397.html

c. 伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人が知らない日本』、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 深沢正雪『「勝ち組」異聞─ブラジル日系移民の戦後70年』★★★、無明
舎出版、H29
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4895446247/japanontheg01-22/

2017年05月27日

◆『日本の経営』を読み解く

伊勢 雅臣



〜『世界が称賛する、日本の経営』を読み解く〜
■■■ JOG Wing ■■■ 国際派日本人の情報ファイル ■■■

『国際インテリジェンス機密ファイル』

(伊勢雅臣) 私が常々、参考にさせていただいているメルマガ書評紙
「国際インテリジェンス機密ファイル」で、拙著が紹介されましたので、
転載させていただきます。

読者に興味深いポイントを厳選して抜き出して拙著の言わんとしている所
を示していただきました。

伊勢雅臣『世界が称賛する 日本の経営』、育鵬社、H29
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594076858/japanontheg01-22/
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※要旨


・筆者は欧州で4年、アメリカで3年、
日本企業の現地法人社長として企業経営を経験している。


・逆に欧米で仕事をしていると、
欧米企業のほうが、かつての日本的経営の良いところを学んで、
元気を回復しつつある、と感じる。


・近年の多くの日本企業は、
アメリカからやってきた株主資本主義的経営こそ
最新の経営だと思い込み、
かつての三方良しを追求する日本的経営など時代遅れのものとして、
捨て去ってしまったのではないか。


・しかし、人間が成長する存在であることを考えてみれば、
日本的経営の方が経済的パフォーマンスも良く、
人々や社会を幸福にするパワーもはるかに優れていることは、
自明ではないか。


・たとえば、人間はじっくり育てて、創造力、意欲、
チームワーク力を伸ばせば、数倍、数十倍の働きができる。
それを派遣社員・アルバイト化して、人件費を下げて、
仕事量が減ればすぐ人員整理するというアプローチでは、
まさに宝の持ち腐れである。


・「人の能力差は、あると言ってもせいぜい5倍。
しかし意識の差は100倍もある。
能力は磨いて上げるのは難しいが、
意識は磨けば磨くほど上げられる。
だから、企業を強くしたかったら、社員の意識を磨け」
(川勝宣昭『日本電産・永守重信社長からのファックス42枚』)


・永守流経営の基本は「6S」である。
これは整理・整頓・清潔・清掃・作法・躾の6つの「S」を意味する。
この観点から各事業所を100点満点で評価するのだが、
これが60点を超えれば事業は必ず黒字になる。


・当たり前のことを徹底する。


・トイレ清掃などから芽生えた「ものを大切に使おう」という意識が、
こういう問題に向けられ、設備や部品を少しでも安く買い、また設備や作
業者や事務員の時間を大切に使おうという、当たり前のことが徹底して行
われるようになる。


・知的障がい者が社員の7割を占める、

チョーク製造の日本理化学工業の会長、大山泰弘さんは
わからないことがあった。

彼らは会社で働くより施設でのんびりしている方が楽なのに、なぜ彼らは
こんなに一生懸命働きたがるのだろうか、ということだった。

・これに答えてくれたのが、ある禅寺のお坊さんだった。
曰く、

幸福とは「人の役に立ち、人に必要とされること」この幸せとは、施設で
は決して得られず、 働くことによってのみ得られるものだと。

大山さんは目から鱗が落ちる思いがした。


・ソニーは今まで他人のやらないことをやってきた。未解決のものがあ
れば、ソニーで解決してやればいい。日本初、世界初のものをつくってこ
そ、人より一歩先に進むことができるのだ。(井深大)


・1973年、本田技研の社長本田宗一郎が中国出張中に「本田社長、藤澤副
社長引退」との 予期しないニュースが流れた。

本田が帰国すると 迎えに出た西田専務は藤澤武夫副社長の辞意を伝えた。

・本田はすぐに藤澤の思いを理解し、副社長の藤澤がやめるというのな
ら、自分も一緒に辞める、と西田に言った。

マスコミは「さわやかなバトンタッチ」と賛辞を送った。

・退任が決まった後のある会合で、本田は藤澤に言った。

「まあまあだな」

「そう、まあまあさ」と藤澤。

「幸せだったな」

「本当に幸せでした。心からお礼を言います」

「おれも礼を言うよ。良い人生だったな」

(本田宗一郎『夢を力に』)


・事業が成功するか失敗するかは、 一にも人物、二にも人物、その首脳
となる人物如何によって決まる。(安田善次郎)


・「陰徳を積め」とは、安田善次郎が子供のときから、父親から叩き込
まれた精神であった。人に知られることがなくても世のため人のためにな
ることを黙々と実践しなさい、 というのである。


・自分の利益ばかり考えていると利益は逃げていってしまうが、
陰徳を積んでいると、勝手に利益が向こうからやってくるという
商売の秘訣を、善次郎はすでに25歳で身につけていた。


・道徳が経済を発展させる。


・日本的経営で追求すべき徳が、
「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」なのである。
※コメント
日本が長い歴史と伝統をもって作り上げた仕事手法、経営手法の凄さを
知った。
これは伝統芸といってもよい。
たった一代でマニュアルを読んで習得できるものではなく、 先祖代々、
先人たち、大物たちの苦労して導き出された経営力だ。これを今一度、思
い返し、日本の政治経済、社会に活用したい。


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2017年05月01日

◆国際共産主義はグローバル資本が生み育てた

伊勢 雅臣



■1.「ロシア革命はユダヤ革命」

世界でおよそ1億人を殺害したと言われる共産主義の幕開けは、今から
ちょうど100年前、1917年に始まったロシア革命だった。その末裔である
シナや北朝鮮が今もわが国の安全を脅かし、国内でも日本共産党が存在感
を示していることを考えると、過ぎ去った過去の1ページと片付けるわけ
にはいかない。

実は、ヨーロッパでは「ロシア革命はユダヤ革命」と言われている。ロシ
アで迫害されていたユダヤ人が自らを解放するための革命だった、という
のである。[1, 646/2084]

一見、眉唾物の陰謀史観に見えるが、元ウクライナ大使の馬渕睦夫氏の著
作から共産主義とユダヤ財閥との関連を見ていくと、本誌でも取り上げ
た、その後の第二次大戦、シナの国共内戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争な
ど、国際共産主義が絡んだ戦争にまつわる数々の謎が解けていく。

馬渕氏の論説は現代のグローバリズムにまで及んでいるが、本稿ではまず
ソ連の関わったこれらの戦争の舞台裏を、馬渕氏の著作から見てみたい。


■2.日露戦争で日本を助けたユダヤ資本

事の発端は、ロシアで行われていたユダヤ人弾圧である。18世紀末、ポー
ランドはロシア、プロイセン、オーストリアなどに分割され、ロシアは同
国にいた多くのユダヤ人を帝国内に抱えることになった。

ところが、ユダヤ人はロシアに同化せずに独自の生活様式に固執しました。

また、商才を発揮して無知なロシア農民を搾取したことから、ロシア農民
の間にユダヤ商人に対する反感が強まり、それが高じて集団でユダヤ人を
襲うようになっていったのです。

ロシア帝国はユダヤ人排斥主義をとっており、ポグロムと呼ばれるユダヤ
人殺戮を繰り返していました。[1, 828/2084]


ロシア革命前の1904-5年に勃発した日露戦争では、アメリカの国際銀行
クーン・ロープ商会のヤコブ・シフが大量に日本の国債を買って支援し
た。シフはユダヤ人で、同胞の資本を集めて、日本に戦費を供給してくれ
たのである。[a]

その資金を使って、日本陸軍の明石元二郎大佐はレーニンなどの共産主義
勢力に膨大な援助をして革命運動を煽り、ロシアを背後から動揺させた。
この工作が日露戦争の勝因の一つとなった。[b]


■3.ユダヤ財閥が支援したマルクスの共産主義研究

ロシア革命を主導したレーニンはユダヤ人の血が四分の一入っている。大
学生の時代からカール・マルクスの『資本論』などの著作を読みふけり、
共産主義に傾倒するようになった。

そのマルクスもユダヤ人で、研究を支援していたのが、これまたユダヤ財
閥ロスチャイルドだった。資本家が共産主義の研究を支援するというの
は、一見、矛盾しているが、ロスチャイルドが国際資本家であることを考
えれば、共通点が見えてくる。

ロスチャイルドの基礎を築いたマイアー・アムシェル・ロートシルト(こ
の英語読みがロスチャイルド)は18世紀後半、フランクフルトのゲットー
(ユダヤ人隔離居住区)出身で、銀行家として成功し、5人の息子をフラ
ンクフルト、ウィーン、ロンドン、ナポリ、パリの5箇所に分散させて、
銀行業を国際的に拡大させた。

彼らには祖国はなく、ある国家の弾圧を受けても生き延びられるよう各国
に事業を分散させたのである。カール・マルクスもプロイセン(現ドイ
ツ)に生まれたが、共産主義活動で各国政府から追放されたり、弾圧から
逃れたりしながら、パリ、ブリュッセル、ケルンと放浪した。その後、ロ
ンドンに移り住んで『資本論』を書き上げたのである。

ユダヤ人が世界に離散して住むことを「ディアスポラ」と呼ぶ。国民国家
とはある民族の共同体として作られているが、自らの民族国家を持たない
ユダヤ人はどこに行っても少数民族で、いつ弾圧されるか分からない。そ
ういう状況で生き延びるためには、国際金融で成功して国家を超えた力を
持つか、国際共産主義で国家を滅ぼすしかない。

国家を否定し、国家を超えた力を持とうとするところに、ロスチャイルド
とマルクスの共通項があった。しかも革命によって実現した共産主義社会
は、エリートによる独裁と大衆支配、宗教や道徳を否定する唯物的思考と
いう点で、グローバル資本主義社会と瓜二つだった。


■4.ユダヤ人によるユダヤ人のためのロシア革命

革命が勃発すると、イギリスのロスチャイルドとアメリカのヤコブ・シフ
はスイスに亡命していたレーニンを支援して、ロシアに戻した。同じくユ
ダヤ人でアメリカにいたトロッキーは、米政府から支給されたパスポート
をもってロシアに戻り、革命指導者となった。一緒にニューヨークの金融
街ウォール・ストリートなどで働いていたロシア系ユダヤ人を引き連れて
行った。

2人以外にも、カーメネフ、ジノヴィェフ、ラデック、スヴェルドルフ、
リトヴィノフなど、当時の革命指導者の8割以上がユダヤ人だった。

革命と共に、ニコライ2世とその家族は銃殺され、数百万人から一千万人
と言われるロシア民衆の粛清が行われた。ロシア革命はロシア皇帝の圧政
に立ち上がったロシア民衆によるものというのが定説だが、それならなぜ
こんな大規模な粛清が必要だったのか、説明がつかない。ユダヤ革命に反
発するロシア民衆を弾圧した、と考えると納得がいく。

トロッキーが政権をとって最初に行ったことは、人民から金(ゴールド)
を供出させることだった。共産主義国家では金の私有は禁止される、とい
うのが表向きの理由だったが、ロマノフ王朝から取り上げた財宝と共に、
革命に資金援助をしたユダヤ財閥への返済に使われたのだった。

ロシア系ユダヤ人で、アメリカのオクシデンタル石油会長のアマンド・ハ
マーもロシア革命を支援し、革命成功後にはすぐにレーニンを訪ねてアメ
リカの穀物やトラクターなどを売りつけ、ビジネスを始めている[2,
p35]。革命や戦争はユダヤ資本にとっては、絶好の収益機会なのである。


■5.ルーズベルトの親ソ政策

革命後のソ連とアメリカの奇妙な友好関係は、国際ユダヤ資本という共通
項に着目すると謎が解けてくる。アメリカのフランクリン・デラノ・ルー
ズベルト民主党政権は1933年にソ連を承認した。それまでの4代の大統領
は、共産主義がアメリカに浸透することを恐れて承認を拒否していたのだ
が、それを覆したのである。

ルーズベルトの家系もユダヤ系と言われている。母親の実家デラノ家は19
世紀にシナにアヘンを売り込んで世界的な大富豪にのし上がった。また、
夫人のエレノアは社会主義者だった。

ルーズベルトは大恐慌に際して、ニューディール政策で経済のてこ入れを
図った。この政策自体が政府の大規模公共投資という社会主義的な性格を
持っていた。この時も、政府に資金を貸し付けて大儲けしたのは国際資本
だった。

ルーズベルト政権に多くの共産主義者が入り込み、その政策を親ソ反日に
ねじ曲げていった様子が、近年公開されたアメリカの機密資料・ベノナ文
書などで明らかにされている。当時、日本はソ連と敵対していた反共国家
だった。日露戦争の時に反露親日だった米国は、ロシア革命を機に親ソ反
日に転換したのである。

独ソ戦が始まると、ルーズベルト政権はソ連に対して凄まじい軍事支援を
行った。航空機1万4千7百機(零戦の全生産量に匹敵)、戦車7千両、
装甲車6千3百両、トラック37万5千台、ジープ5万2千台という規模で
あった[c]。これも単なる親ソ政策というだけでなく、これだけの生産を
して儲けたのが誰かを考えれば、十分納得がいく。

ルーズベルト政権は、欧州での対ドイツ戦に絶対に参戦しないという公約
で再選されたのだが、その公約を破らずに参戦するために、日本を追いつ
め、真珠湾攻撃を仕掛けさせて、米国民を戦争に引きずり込んだのである。

当時の米共和党下院リーダー・ハミルトン・フィッシュ議員は、「ルーズ
ベルトは、われわれをだまし、いわば裏口からわれわれをドイツとの戦争
にまきこんだ」と著書で公言している。[d]


■6.シナ大陸をソ連陣営にプレゼントしたトルーマン民主党政権

アメリカの共産主義陣営への奇妙な肩入れは、その後も続く。大東亜戦争
の末期に、もうソ連の肩入れなど必要ないのに満洲・樺太・千島列島侵攻
を許した。ヤルタ会談ではソ連に満洲での利権を与えるという約束が秘密
裏になされ、蒋介石はショックで打ちのめされた。

またシナ大陸で国民党と共産党との国共内戦が始まると、ルーズベルトの
後をついだトルーマン民主党政権が送った特使マーシャルは、国民党軍が
優勢になる都度、停戦をもちかけて、その勝利を妨害した。蒋介石への軍
事支援は止められ、アメリカからソ連への軍事援助が一部シナ共産党軍に
流れても見て見ぬふりをしていた。

米議会が国民党軍への軍事支援を求めると、国民党軍が「共産主義に敗れ
る恐れはない」と制止し、2年後に共産党軍が優勢となった頃には、支援
は手遅れだと否定した。

それでも議会が2億75百万ドルの経済支援と1億25百万ドルの軍事支援
を行う案を議決すると、8ヶ月も実施を遅らせ、最初の船積みが行われた
時にはシナ共産党が大勢を決して、中華人民共和国の建国を宣言してい
た。[e, 3, p36]

アメリカが本来の国力を使って蒋介石を支援していれば、シナ大陸は蒋介
石の国民党が統治し、ソ連に対する防壁となったはずである。ルーズベル
トの後をついだトルーマン政権はわざわざシナ大陸をそっくりソ連の陣営
にプレゼントしたのである。なぜ、そんな事をしたのかは、その後の歴史
を辿ると見えてくる。


■7.仕掛けられた朝鮮戦争

1950年1月12日、マーシャルの後任、アチソン国務長官は「アメリカのア
ジア地域の防衛線には南朝鮮を含めない」と演説した。いわゆるアチソ
ン・ラインである。これは共産主義勢力に南朝鮮が侵略されてもアメリカ
は関与しない、というゴー・サインであるととられても仕方のない発言で
あった。

北朝鮮はこの発言を承けて、半年後の6月25日に38度線を越えて韓国侵攻
を開始した。朝鮮戦争の始まりである。

国連軍の編成には安全保障理事会の承認が必要だった。ソ連の外相グロム
イコは当然、拒否権を発動すべきとスターリンに進言したのだが、スター
リンは「私の考えでは、ソ連代表は安保理事会に出席すべきではないな」
と述べた。ソ連の意図的な欠席により、国連軍が出動できたのである。

北朝鮮軍は半島南端の釜山まで韓国軍を追いつめていたが、ここでマッ
カーサー指揮する国連軍が巻き返しを図り、北朝鮮軍を押し返して、シナ
国境まで追いつめた。

マッカーサーは中共軍が満洲から北朝鮮に入ってくるのを防ぐために、鴨
緑江(おうりょくこう)にかかる橋を爆撃する作戦を立てたが、国防長官
になっていたマーシャルに拒否された。積極的攻勢をとろうとするマッ
カーサーは解任され、後を継いだクラーク将軍も「私には勝利するために
必要な権限も武器・兵員も与えられなかった」と自著のなかで書いてい
る。[2, p184]
 
朝鮮戦争は3年も続いたが、こうした民主党政権の介入で米軍は手足を縛
られ、結局、開戦前とほとんど変わらないラインで休戦協定が調印され
た。戦場となった朝鮮半島と、戦い合った米軍とシナ軍は多大な損害を受
けたが、得をしたのはシナの台頭を防いだソ連と、膨大な軍備・軍需物資
を売ったグローバル資本だった。


■8.作られたベトナム戦争

1961年5月に、ケネディ民主党政権が「軍事顧問団」という名の特殊作戦
部隊600名を送り込んで始まったベトナム戦争も、その裏での奇妙な米ソ
結託があったという点で、朝鮮戦争とよく似ている。

1966年10月、ベトナム戦争が最も激しさを増した時、ジョンソン民主党政
権はソ連などに総額3百億ドルを融資し、ソ連などはこの資金を使って、
アメリカから「非戦略物資」の輸入にあてた。その「非戦略物資」には、
石油、航空機部品、レーダー、コンピューター、トラック車両などが含ま
れていた。ソ連はこれらを北ベトナムへの支援に使った。

このタイミングでのソ連支援は、結局、ベトナム戦争を長引かせる効果し
かなかった。ジョンソン政権が本当にベトナム戦争の勝利を欲したなら、
こんな支援をするはずがない。結局、ジョンソン政権の狙いは、戦争を長
引かせ、軍備・軍需物資を大量に消費させて、グローバル資本が儲け続け
る点にあったと考えざるを得ない。

こうしてベトナム戦争は1973年に、ニクソン共和党政権がベトナムから米
軍を撤退させるまで10余年に渡って続いた。米国内では反戦運動が激化
し、それまでアメリカ社会の主流を握っていたWASP(白人で、かつア
ングロサクソン、プロテスタント)の権威が一気に凋落した。

 カーター政権で国家安全保証を担当していたブレジンスキー大統領補佐
官は「WASPの没落のあとに、アメリカ社会で支配的エリートになった
のはユダヤ社会である」と述べている。[2, p132]

 アメリカ社会を支配したグローバル資本は、東西冷戦の敵役として使っ
てきたソ連の役割は終えたとして、ソ連を打倒して、その天然資源を手中
にした。ソ連の国営・公営企業を民営化して、7つの新興財閥が産まれた
が、そのうち6つがユダヤ系だった。一方、天然資源はないが、安価なで
豊富な労働力があるシナは共産主義体制を温存させたまま「世界の工場」
と化した。

 こうして東西冷戦は幕を閉じ、戦後は第二幕を迎えた。その後の混沌と
した世界情勢もグローバル資本の動きから見ると、よく理解できる。これ
については、稿を改めよう。



■リンク■

a. JOG(291) 高橋是清 〜 日露戦争を支えた外債募集
 莫大な戦費の不足を補うために欧米市場で資金を調達する、との使命を
帯びて、是清は出発した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h15/jog291.html

b. JOG(176) 明石元二郎〜帝政ロシアからの解放者
 レーニンは「日本の明石大佐には、感謝状を出したいほどだ」と言った。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h13/jog176.html

c. JOG(951) ルーズベルト大統領が播いた「竜の歯」 〜 日米戦争、冷
戦、そして共産中国
 共産主義者に操られたルーズベルト大統領が、日本を開戦に追い込み、
ソ連を護り育て、世界に戦争の危機をばらまいた。
http://blog.jog-net.jp/201605/article_4.html

d. JOG(096) ルーズベルトの愚行
 対独参戦のために、米国を日本との戦争に巻き込んだ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h11_2/jog096.html

e. JOG(441) 中国をスターリンに献上した男
 なぜ米国は、やすやすと中国を共産党の手に渡 してしまったのか?
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h18/jog441.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 馬渕睦夫『世界を操るグローバリズムの洗脳を解く』(Kindle
版)★★★、悟空出版、H27
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4908117144/japanontheg01-22/

2. 馬渕睦夫『「反日中韓」を操るのは、じつは同盟国・アメリカだっ
た!』★★★、WAC BUNKO、H26
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4898317073/japanontheg01-22/

3.馬渕睦夫『[新装版]国難の正体』★★★、ビジネス社、H26
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/482841777X/japanontheg01-22/

2017年04月25日

◆ベトナム独立運動を扶けた日本人

伊勢 雅臣



ベトナム独立に共鳴する日本人の支援を受けて、300人に及ぶ留学生が日
本で学んだ。

■1.両陛下を大歓迎したベトナム国民

本年2月28日から3月6日にわたって、両陛下が初めてベトナムを訪問さ
れた。

ベトナム・フエでは空港から約16キロの宿舎までの間、ほぼ途切れること
なく沿道で地元住民が両陛下を出迎え、日本国内各地へのご訪問と遜色な
い光景が見られた。[1]

両陛下はフエで独立運動家ファン・ボイ・チャウの記念館を訪問された。
ベトナムで日本語・日本文化を教えていた田中孜(つとむ)ホンバン大学
名誉教授はこの人物を次のように紹介している。

ヴェトナムでは、潘佩珠(JOG注: ファン・ボイ・チャウ)のことを知ら
ない人はいません。「ヴェトナム民族の独立と解放運動の最も著名な指導
者」として、教科書にも取り上げられています。また、潘佩珠の名前は学
校や道路にもつけられています。[2, p236]

このファン・ボイ・チャウはフランスからの独立を目指して、日露戦争に
勝利した日本に学ぶ「東遊(ドンズー)運動」を始め、一時は300人もの
留学生を日本に呼び寄せて独立の志士として育てた人物である。その過程
で朝野の日本人が親身になって彼らの世話をし、運動を支援した。

ベトナムの人々がこれほどまでに両陛下を歓待したのも、そういう日越の
歴史的な繋がりも一役買っているだろう。本号ではファン・ボイ・チャウ
と彼を助けた日本人たちの足跡を辿ってみたい。


■2.「全生涯をかけて革命運動にこの身を捧げる」

見なれない1隻の船が『浅羽病院』のある海岸に着いた。(中略)船に
は、大きな魚樽(だる)が乗っていた。中から風采(ふうさい)ただなら
ぬ人物が出てきた(注… この海岸は、神奈川県前羽村町屋<現在は神奈川
県小田原市の一部> の海岸)。集まってきた漁師たちは話しかけても通じ
ない。筆談もだめ。『この村でいちばん偉いのは浅羽先生だ。先生の所へ
行けば何とかなるだろう』と。[2, p78]

静岡県浅羽町の『町史』の一節である。ファン・ボイ・チャウが日本に上
陸した経路については諸説あるが、この記述が信憑性が高いと田中氏は指
摘はしている。

ファンは1867年、日本の明治維新の前年にベトナム中部の旧首都フエの郊
外で生まれた。父は貧しい寺子屋を営んでいた。その父に厳しく躾けられ
て、ファンは神童と呼ばれた。父はファンが学者として育ってくれる事を
期待したが、当人は祖国ベトナムがフランスのもとで植民地化されていく
現状を悲憤慷慨し、シナ古典の勉強では飽き足らなくなっていった。

フランスのベトナム侵略は、1802年にベトナムを統一した阮(グエン)朝
がキリスト教宣教師とフランス人傭兵部隊の力を借りた時点から始まって
いる。キリスト教の浸透が徐々に進み、フランス人の影響力も強まって
いった。フランスは軍艦を送って、ベトナム支配を徐々に広げ、1884年に
はベトナム全土がフランスの保護下に置かれた。

抵抗したベトナム人は逮捕され、処刑された。1902〜3年の間に2万4380
人が収監され、1万2千人がギロチンで処刑されている。ファンは20歳の
時に、「不法侵略者フランス軍から祖国の独立と同胞の自由を奪還するの
には革命以外には道はない」と考え、「全生涯をかけて革命運動にこの身
を捧げる」と決意した。


■3.「ベトナムは日本に学ぶべき」

ファンは、フランスの傀儡となっていた阮朝13代のバオ・ダイ帝を見限
り、阮朝初代からの直系であるクオン・デ侯を盟主として、立憲君主国を
建てることを目指した。同志を集めつつ、国際情勢を研究して、日本に着
目した。

日本は若い志士たちが力を合わせて、明治天皇を中心とする新政府を樹立
し、急速な近代化を進めていた。ロシアと戦争になりかけているが、必ず
日本は大国ロシアに勝利するであろう。ベトナムは日本に学び、かつ独立
のための武器援助を受けるべきだ、とファンは考えた。

1904年、ロシアのバルチック艦隊がベトナムのカムラン湾に寄港し、その
威容を見た人々は「こんな凄い艦隊を日本がやっつけることができるわけ
がない」と、ファンを疑った。しかし日本海海戦で日本が大勝利を上げる
と、ベトナム人同志たちは日本の力を再認識し、ファンへの評価と信頼も
一気に高まった。

1905(明治38)年1月20日、ファンはシナ人に変装して、ベトナムを脱出、
香港、上海を経由して、4月下旬、日本に上陸したのである。


■4.東遊(ドンズー、日本に学べ)運動の発端

言葉も分からず、知人とていないファンを世話したのが、医師・浅羽佐喜
太郎だった。朝羽邸の近くに大隈重信(おおくま・しげのぶ)の別邸があ
り、朝羽はファンを紹介したようだ。大隈はすでに日本初の政党内閣を組
閣した元勲であり、この時点では野党・憲政本党の党首で、腹心として犬
養毅(いぬかい・つよし)がいた。

浅羽とともに、大隈・犬養と会ったホァンは筆談で、革命への援助を要請
した。しかし、犬養は「日本政府が武力をもって他国の革命運動に参加す
ることは国際法上不可能であるが、政党としてなら我々は貴下の計画を支
援する用意がある」と答えた。そして大隈はこう提案した。

愛国の青少年の海外脱出の勇気とこれを激励する指導者なくしては、救国
運動は不成功になるに決まっている。貴下のなすべき急務とはまさにこの
ことである。貴下の党の勢力が増加傾向にあるのであれば、思い切ってこ
の際、同志来日を勧誘したらどうであろうか。愛国心に富む我々日本人
は、貴下およびその同志達を礼をもって迎える。[2, p86]

ファンは感激し、大隈に丁寧に一礼した。さらに犬養は、クオン・デ殿下
の来日を促し、将来の立憲君主国の君主としての見聞を日本で広めること
を勧めた。これが東遊(ドンズー、日本に学べ)運動の発端となった。


■5.300人ものベトナム留学生

ファンは7月上旬、ベトナムに舞い戻り、日本での状況を説明した上で、
9月末に横浜に再上陸した。この時は3名の学生を連れていた。また一行
の後を追って、さらに6人が来日した。

一同は浅羽医師の病院に住み込み、日本語などの勉学に打ち込んだ。犬養
は3名を振武学校に、1名を東京同文書院に入学させ、給費生として学費
も支給されるようにした。振武学校は陸軍士官学校入学を目指すシナ人の
ための学校で、蒋介石もここで学んでいる。東京同文書院もシナ人留学生
のために創設された学校である。

明治40(1907)年3月には、クオン・デ侯もベトナムを脱出して、横浜に辿
り着いた。生まれながらの地位も名誉も捨て、妻と幼い子供たちを残して
の来日だった。振武学校はクオン・デを受け入れたが、フランスの了解が
ないため、貴賓としてではなく一介の留学生として受け入れざるを得な
かった。

ベトナム人留学生たちは、日本で懸命に勉強し、心身を鍛えた。その様子
がベトナムに伝えられると、留学希望者が殺到し、明治40年には約200人
に達して、さらに増える勢いだった。学生の急増で東亜同文書院の教室が
足りなくなると、同校の役員たちは私財を投じて、5つの教室を増築した。

ベトナムの志ある人々は、一人でも有為な青年を日本に送ろうと高額の旅
費を工面し、フランス官憲の厳重な警戒をくぐり抜けて留学生を送り出し
た。やがて留学生は300人もの規模に達した。

 
■6.ドンズー運動の終焉

ファンはドンズー運動を拡大するために、檄を書いては、母国に一時帰国
する留学生に持たせて、配布させた。『全国父老に敬告する』では学生の
留学費用の援助を呼びかけ、『海外血書』では、「東洋の大国日本」にお
いては「仁義あふれる対応」をしてもらえるのに、祖国ベトナムにおいて
は「牛馬鶏豚の家畜類」と同類に扱われていると、フランスの統治を厳し
く攻撃した。

フランス総督府はこれらの印刷物を入手し、証拠物件として日本政府に抗
議をしてきた。しかし日本政府は「該当するようなベトナム人はいない」
と突っぱねた。こういう時のために、ベトナム人留学生の国籍を清国とし
ていたのである。

明治41(1908)年、フランス総督府は一計を案じて、ファンに「有志から集
めた大金を渡したいので、受取の者を送られたい」とのニセの手紙を出し
た。二人の留学生が金を受け取りに帰国した所を逮捕され、機密書類は没
収され、2人は三年の禁固刑を言い渡された。

 ここに至っては、日本政府もフランス総督府の要求を断り切れなくな
り、学生たちに直ちに帰国する旨の手紙を自宅宛に書くことを要求し、こ
れを拒む者はフランス大使館に引き渡すと申し渡した。

 フランス総督府は、逮捕していた留学生の父兄に「お前が帰国してくれ
れば、私たち家族は解放されて無罪となり、お前の罪も問われないから」
と返事を書かせた。多くの親思いのベトナム留学生たちがその報せを受け
て、次々と帰国していった。

 フランス総督府はファンとクオン・デ侯の逮捕・引き渡しも要求した
が、日本政府はこちらは断固拒否した。大隈と犬養の強い反対があったよ
うだ。しかし、帰国旅費を工面できない大勢の留学生を見て、ファンは途
方に暮れた。

 犬養はファンに「一年くらい隠れていれば、かならず我々が元通りす
る」と約束し、日本郵船から「横浜−香港」間の乗船券100枚もの寄付
を取り付けてくれた。さらに自身のポケットマネーで2千円(現在価値で
約5千万円)を渡した。

 これで多くの留学生は帰国できたが、なおもファンと志を共にして、秘
かに日本に留まった者が百数十名いた。彼らは早稲田大学や東京帝国大学
などを卒業し、後に独立戦争の将校や地域の指導者、事業家として活躍す
るのである。


■7.浅羽佐喜太郎の義挙

 この前年、留学生の一人が街頭で行き倒れになっているのを、通りがか
りの人が見つけ、応急手当をしたうえに、かなりの金額を手渡して、名も
告げずに立ち去った、という新聞報道があった。この紳士が浅羽佐喜太郎
であり、助けられた留学生グエン・タイ・バットは、この縁で浅羽家に書
生として住み込み、同文書院に通った。

 グエンはファンの窮状を知って、朝羽に金銭的援助を求めては、と勧め
た。ファンは浅羽には来日以来、大勢の学生がお世話になっているのに、
これ以上、多額の援助を受けるのは忍びないと、少額の援助を申し込む手
紙を書いた。

 ところが、その手紙を受けとった朝羽は、家中の金をかき集めて、グエ
ンを通じて、ホァンに渡した。1700円(現在価値で約4千万円以上)
の大金だった。浅羽はかねてから医学の研究にドイツ留学を考えており、
そのための貯えを渡したようだ。

 ファンはこの義挙に驚き、感涙にむせんだ。そしてこの資金を使って、
独立のためのパンフレット作成や、活動費、旅費などに充てた。しかし、
明治42(1909)年、ついに日本政府はクオン・デ侯とファンに国外退去命
令を受けた。


■8.浅羽佐喜太郎の顕彰碑

 その後、ファンは大隅の紹介で、タイの王室の支援を受けてバンコク郊
外に農場を作り、留学生たちを呼び集めて、独立運動の拠点とした。さら
に1912年の孫文による辛亥革命の成功に刺激を受けて、在シナのベトナム
人を集めてベトナム革命軍を組織するが、袁世凱が権力を握ると逮捕され
て、4年間も監禁された。

 その後、ベトナムに戻ったファンはしばらく積極的な活動は控え、多く
の著書を著した。1918(大正7)年には秘密裏に日本を訪れた。日本に残留
している留学生たちと情報交換し、また大隈、犬養と会って、今後の活動
の助言を受けることが目的だった。さらに浅羽佐喜太郎へのお礼に向かっ
たが、浅羽はすでに亡くなっていた。

 ファンは驚き悲嘆にくれたが、浅羽から受けた大恩を思うと、このまま
では帰るに帰れないと、浅羽を顕彰する記念碑の建立を思い立つ。しか
し、資金が足りない。村長の岡本節太郎に挨拶に立ち寄って顕彰碑の話を
すると、村長は大いに感激して、費用の不足分は村民で運搬や据え付けな
どをやって、なんとか実現しようと皆に訴えた。

 こうして、わずか1週間後には、高さ2.7メートルの立派な石碑が建
てられた。碑文はファンが次の内容の漢文を書いた。

われらは国難(べトナム独立運動)のため扶桑(ふそう、日本)に亡命し
た。公は我らの志を憐あわれんで無償で援助して下さった。思うに古今に
たぐいなき義侠のお方である。ああ今や公はいない。蒼茫(そうぼう)た
る天を仰ぎ海をみつめて、われらの気持ちを、どのように、誰に、訴えた
らいいのか。ここにその情を石に刻む。[2, 161]

 1925年、フランス官憲に逮捕されたファンは、終身刑の判決を受けた
が、日本で学んだ留学生を先頭に、学生や市民が総督府、裁判所、刑務所
を幾重にも囲んで、減刑を求めた。その凄まじいエネルギーを恐れた総督
は、「今後は活動しない」という条件で釈放し、ファンはその後、フエで
軟禁生活を送った。

1940年10月25日、ファン・ボイ・チャウは75歳の生涯を閉じた。 その
1ヶ月前に日本軍がベトナム北部に進駐し、ベトナム独立の歴史は新 た
なページに入っていた。



■リンク■

a. JOG(338) 大東亜会議 〜 独立志士たちの宴
 昭和18年末の東京、独立を目指すアジア諸国のリーダー達が史上初め
て一堂に会した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h16/jog338.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 産経ニュース、H29.03.06「日本の足跡、再発見の旅 両陛下ベトナ
ム、タイご訪問」
http://www.sankei.com/life/news/170306/lif1703060030-n1.html

2. 田中孜『日越ドンズーの華―ヴェトナム独立秘史 潘佩珠(ファンボイ
チョウ)の東遊(ドンズー)(=日本に学べ)運動と浅羽佐喜太郎』★★★、明成
社 、H22
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4944219903/japanontheg01-22/



2017年04月10日

◆日本の国柄、日本の経営

伊勢 雅臣


■1.『五箇条の御誓文』と日本的経営

上記にご紹介したように来週16日に、横浜で『日本の国柄 日本の経営』
と題した講演をさせていただくが、本号ではその一部をご紹介する。ご好
評をいただいている『世界が称賛する 日本の経営』のあとがきで次のよ
うに書いたが、この点を敷延したい。[a, p236]


本書でとりあげた日本的経営の「三方良し」の理想とは、実はわが国建国
の理想を事業面で語ったものだと言えます。日本的経営はわが国の建国以
来の伝統に根ざしているのです。

『五箇条の御誓文』は慶応4(1868)年、明治政府発足に当たって明治天皇
が天地神明に誓約する形式で示された基本方針だが、それはわが国の建国
以来の伝統的理想を、新しい時代に即した形で謳い上げたものだった。

 すなわち、わが国の歴史伝統という共通の「根っこ」から伸びた政治面
の表現が『五箇条の御誓文』であり、企業経営の面での方途が日本的経営
である。両者は共通の「根っこ」から生まれているので、『御誓文』から
日本的経営を読み解くことができる。


■2.「広く会議を興し、万機公論に決すべし」

[1]の冒頭で紹介した日本電産の創業者・永守重信氏は危機に陥った会社
を50社以上も買収し、1人の首を切ること無く、再建してきた。その一例
である三協精機は年間赤字287億円と倒産寸前だったのが、わずか1年で
150億円の黒字企業に生まれ変わった。

永守氏の再建手法の一つが、買収した企業の従業員との徹底した話し合い
である。1年間で昼食懇談会を52回開催し、若手1056人と話し合った。ま
た25回の夕食会で課長以上の管理職327人と語り合った。これらを永守氏
は「餌付けーション」「飲みニュケーション」と呼んでいる。

食事をしたり、一杯飲みながら、皆の不平不満を吸い上げ、解決してい
く。その上で、経営者として会社の将来の姿を説明する。社員が一致協力
して進むべき方向を共有化するための手段であった。[a, p26]

「衆議公論」、すなわち、皆で議論をして公の結論を導くというのは、わ
が国の根強い政治的伝統である。古事記の「神集い」から、聖徳太子の
17条憲法、鎌倉幕府の御成敗式目と続く政治伝統が、明治新政府の施政
方針の冒頭に記されたのである。[b]

これが経営面でも、皆で議論をしながら、様々な事実と衆知を集め、全員
が全社的な立場から何をどうすべきか議論する形となる。この衆議を通じ
て生まれた目指すべき姿、「公論」を皆が共有し、その実現への意欲を抱
く。そのための「会議」「根回し」に時間をかける。

それに対して、株主資本主義的経営は、「上意下達」「トップダウン」が
原則で、トップが決定したことを部下は実行するだけ。上が頭、下は手足
に過ぎない。

株主資本主義的経営では決定は早いが、実行面での連携の齟齬や予期せぬ
問題が起きて頓挫しやすい。日本的経営では決定には時間がかかるが、実
行部隊が全体方向と各部の役割をのみ込んでいるので、動き出したら速
く、問題を乗り越える能力も高い。日本電産が買収した企業が短時間で業
績を回復しているのも、この原則を最大限に活用しているからであろう。


■3.「上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし」

「経綸」とは「国家を治めととのえること。また,その方策」と『大辞
林』にある。企業においては「経営」と言い換えて良いだろう。したがっ
て、この項は企業経営においては、全員が心を一つにして、活発な経営を
行うべし、と読める。[a]で「日本的経営の体現者」として登場いただい
た松下幸之助はこう述べている。

また仕事をすすめてゆくについては、和親一致の協力が一番大切なことで
ある。何としても全員心を一に和気あいあいのうちに、松下電器と、その
従業員の向上発展と、福祉の増進を図らねばならない。[a, p181]

世界大恐慌が日本を直撃して、松下電器も売上げがぴたりと止まり、製品
在庫が工場に積み上げられたとき、幸之助はこう社員に伝えた。

明日から工場は半日勤務にして生産は半減、しかし、従業員には日給の全
額を支給する。そのかわり店員(社員)は休日を返上し、ストックの販売
に全力を傾注すること。[a, p184]

いよいよクビ斬りかと覚悟していた従業員たちは、思いも寄らぬ話に大喜
びし、鞄に商品見本を詰め込んで、販売に飛び出していった。その心意気
で二カ月後には在庫の山がなくなり、半日待機をしていた工員たちもふた
たびフル操業を開始した。

株主資本主義的経営では、経営者は業績を上げることだけを考え、従業員
は給料を貰うために命ぜられたことをやる。両者の「心を一つ」にする必
要はない。

日本的経営においては、社長から平社員まで「三方良し」の実現を目指し
て、「心を一つ」にして考える。従業員は給料を貰うことだけでなく、
「三方良し」を実現しようという心からのエネルギーを発揮する。どちら
の経営がよりパワフルかは明らかである。


■4.「官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして
倦まざらしめんことを要す」

日本理化学工業は粉の出ないダストレスチョークで3割のシェアを持つ
が、約50人の従業員の7割を知的障害者が占めるというユニークな企業で
ある。

知的障碍者を雇い始めたのは、近隣の施設から2人の少女を1週間だけ作
業体験をさせて欲しいと依頼されたのが発端だった。2人の少女の仕事に
打ち込む真剣さ、幸せそうな顔に周囲の人々は心を打たれ、社長の大山氏
に「みんなでカバーしますから、あの子たちを正規の社員として採用して
ください」と訴えた。

それから知的障害者を少しずつ採用するようになったのだが、大山氏にわ
からなかったのは、会社で働くより施設でのんびりしている方が楽なの
に、なぜ彼らはこんなに一生懸命働きたがるのだろうか、ということだった。

これに答えてくれたのが、ある禅寺のお坊さんだった。曰く、幸福とは
「人の役に立ち、人に必要とされること」。この幸せとは、施設では決し
て得られず、働くことによってのみ得られるものだと。[a, p59]

株主資本主義的経営では、企業は収益マシーンであり、社員はその歯車に
過ぎないから、使えなくなった歯車は取り替えれば良い。

日本的経営は「売り手良し」も追求し、「売り手」の主役である従業員に
生活の糧を与えるだけでなく、会社の使命に合致した志をそれぞれに持た
せ、「その志を遂げ、人心を倦まざらしめん」とする働きがいのある環境
を目指す。給料を与えるだけの株主資本主義的経営に比べ、日本的経営は
従業員の生き甲斐・成長も含めた全人的な幸福を目指すのである。


■5.「旧来の陋習(ろうしゅう)を破り、天地の公道に基づくべし」

香川県の勇心酒造株式会社は安政元(1854)年創業の老舗で、現在の当主・
徳山孝氏は5代目である。コメと醸造・発酵技術を結びつけて、アトピー
性皮膚炎に効き、ステロイド剤の副作用がまったくない『アトピスマイ
ル』を開発、大ヒットさせた。氏はこう語る。

お米の場合、清酒や味噌、醤油、酢、みりん、あるいは焼酎、甘酒といっ
た非常に優れた醸造・醗酵・抽出の技術があるんですけれども、明治以
降、新しい用途開発がまったくと言っていいほどなされていなかった。つ
まり、近代に入ってから、お米の持つ力を日本人は引き出してこなかっ
た。・・・

西洋のヒューマニズム・・・何事も人間を中心に「生きてゆく」という発
想。だから、人間と自然との乖離がますます大きくなってきた。環境問題
ひとつ解決できない・・・

一方、東洋には自然に「生かされている」という思想があります。私なん
か、多くの微生物に助けてもらってきたわけで、まさに「生かされてい
る」と思います。[a, p36]


清酒や味噌、醤油などを作る醸造・醗酵は伝統的な技術だが、明治以降の
わが国は近代西洋技術を学ぶのに忙しくて、新しい用途開発はされておら
ず、まさに「旧来の陋習」状態だった。その状態から、勇心酒造は自然の
力を借りる、という日本古来からの伝統技術を発揮することで、新たな活
路を見出した。

「天地の公道」とは、真正なる自然観、社会観と考えても良いだろう。自
然においては「物体ない」、すなわち物の本来の姿を実現出来ないことを
申し訳ないと思い、不良やムダの削減に力を尽くす。社会においては企業
が成り立っているのは、従業員やお客様、世間の「お陰様」と考え、「三
方良し」をさらに追求する。

株主資本主義的経営では利益がすべてであるから、利益のためには地球環
境を破壊しようが、地域社会に悪影響を与えようが、従業員を犠牲にしよ
うが、忖度しない。現代シナの企業がその最悪の例である。日本的経営の
三方良しは、世間、顧客、従業員のためを考えるから、自ずから「天地の
公道」に則ったものとなる。


■6.「智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」

伊庭貞剛は住友家支配人で、明治38(1905)年、銅の精錬で発生する亜硫酸
ガスの害を除くために、年間売上げの8割もの巨費をかけて、精錬所を瀬
戸内海の小島に移転するも、風に運ばれた亜硫酸ガスが四国沿岸部を襲っ
て失敗。

伊庭の後継者たちはあきらめず、亜硫酸ガスを無害化する技術を求め、つ
いにドイツで開発されたペテルゼン式硫酸製造装置を導入して、亜硫酸ガ
スから硫黄分を取り除いて硫酸を作り出す事に成功。さらに米国からアン
モニア合成法の特許を買って、その硫酸から化学肥料の硫安を作り出す技
術を完成させた。

これらの技術により、亜硫酸ガスの濃度は急速に低下し、昭和10(1935)
年には0.19パーセントと、今日の大都市の火力発電所の排出濃度に近
い水準となった。当時としては世界のトップレベルである。[a, p141]

「皇基」とは「天皇が国を治める事業の基礎」(『大辞林』)。天皇統治
の目的は、民を大御宝として、その安寧を実現することである。日本的経
営では、企業は社業を通じて「三方良し」を実現し、天皇統治を補翼する
責務がある、考える。

「皇基」というとわが国だけの理想のように思えるが、世界の良くまと
まった国民国家が持つ、それぞれの国民統合の原理と考えれば良い。(か
つての)米国のアメリカン・デモクラシー、スウェーデンの福祉国家、
等々。「三方良し」とは、それぞれの国の国民統合の原理を補翼する形で
追求されるべきものである。

 そして、より良い「三方良し」の実現のためには、常に新たな「智識」
が必要である。その自主開発は怠ってはならないが、仮に他社、他国に優
れた智識があれば、進んでそれを請う。その智識の応用を通じてさらなる
改良を加え、新たな智識でお返しをする。

 このように智識とは人類共通の財産であって、しかるべき対価のやりと
りはしつつも、企業間、国家間で学び合うことで、人類全体の幸福が増進
される。世界の各国各企業が「智識を世界に求め」なければならない。

 株主資本主義的経営では、自社利益の最大化のために、独自技術の公開
を拒んだり、あるいはしかるべき対価も払わずに他社の商品をコピーした
りする。こういう企業ばかりでは、人類の技術進歩は遅れ、人類全体の幸
福増進も妨げられてしまう。


■7.国民国家を護る日本的経営、壊す株主資本主義的経営

「三方良し」、すなわち、「売り手」「買い手」「世間」にとって何が良
いか、という価値観は、それぞれの国の歴史や文化によって異なる。たと
えば、キッコーマンは醤油をアメリカ人の家庭にまで浸透させたが、肉を
醤油につけて焼くテリヤキなどの料理を開発し、アメリカ人の嗜好に合わ
せて成功した。[a, p97]

 このように「三方良し」を追求する企業は、その国の歴史文化から生ま
れた独自の「三方良し」とは何かを考えなければならない。したがって
「三良し」を目指す経営には国境がある。

 一方、株主資本主義的経営は、利益という世界共通の単一目的だけを追
求するので、歴史文化などというお国柄は経営効率を阻害する「障壁」で
しかない。かつてアメリカの自動車メーカーは、左ハンドル車を日本にそ
のまま売り込んで失敗した。株主資本主義的経営は利益追求のために必然
的にグローバル、ボーダーレスを目指す。

 ここから各国の文化、歴史、法制度などを、「自由化」「グローバル
化」の美名のもとに破壊しようとする近年の政治動向が出てくる。単一の
商品や製造・販売・管理方法で世界中で儲けるために、「貿易・投資自由
化」「英語公用化」「契約万能主義」、「会計基準の世界標準化」などを
推し進める。

 また、「売り手良し」には従業員は含まれていないので、低賃金で、い
つでもクビにできる労働力を求める。そのために「派遣社員化」「移民促
進」「低賃金国への生産移管」「男女共同参画」などが推し進められる。
これらが社会的にどんなリスクやコストを伴うかは考慮しない。

 株主資本主義的経営は、必然的にグローバル化、ボーダーレス化、貧富
の差の拡大を推し進め、各国文化の衰退、社会の荒廃を招く。現代世界の
各国民国家は、株主資本主義的経営から攻撃されているのである。

 逆に「三方良し」を目指す経営は、各国の歴史、文化、社会を尊重し、
国民国家を護る。その最も進化した形である「日本的経営」は、「日本の
国柄」から生み育てられたもので、「日本の国柄」を護る手段でもある。

 一つの文化を共有した共同体である国民国家で暮らすことが、人間の幸
せな生き方であるので、日本的経営をさらに推し進めていくことが、日本
の国柄を護り、日本国民を幸福にする。それが世界の各国民に幸せへの道
を指し示すことにもなる。これこそ我々日本国民が「大いに皇基を振起」
する道であろう。
(文責:伊勢雅臣)


■リンク■

a. 伊勢雅臣『世界が称賛する 日本の経営』、育鵬社、H29
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594076858/japanontheg01-22/
アマゾン「日本論」カテゴリー 1位(3/6-10)

b. JOG(082) 日本の民主主義は輸入品か?
 神話時代から、明治までにいたる衆議公論の伝統。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h11_1/jog08


2017年03月29日

◆徳川家康の学問による国づくり

伊勢 雅臣



戦国の世を終わらせ、平和な国家を建設するために、家康は朝廷にも武家
にも学問を勧めた。

■1.「文の時代」の幕開け

徳川の世となって最初に行われたのが、武家諸法度(ぶけ・しょはっと)
や禁中並公家(きんちゅう・ならびに・くげ)諸法度により、国家統治の
基本ルールを確立したことだった。

「武家諸法度」については東京書籍(東書)版、育鵬社版ともに、その一
部を引用しているが、選択に違いがある。「城の修理許可制・新設禁止」
「大名間婚姻許可制」は両教科書で共通しているが、東書版は「学問・武
道の奨励」を冒頭に掲げている[1, p113]。育鵬社版にはそれがなく、
「参勤交代」と「服装は身分相応」を加えている。[2, p117]

「城の修理許可制・新設禁止」「大名間婚姻許可制」は諸大名の幕府への
反乱を防ぐための施策であり、徳川幕府の安泰だけでなく、戦乱の世を終
わらせるためにも必要なことであった。

ただ東書版で引用されている「学問と武道にひたすら精を出すようにしな
さい」という項目が第一条に置かれている点に、徳川の国家統治思想がよ
く現れているので、以下、考察したい。


徳川時代の大きな特徴は、「文」が起こったことである。戦国時代が
「武」の時代だったとすれば、徳川時代は「文」の時代だった。[3, p41]

渡部昇一氏の言葉だが、この「文の時代」の幕開けが武家諸法度の第一条
だった。


■2.「学問と武道」

武家諸法度の第一条に「学問と武道」を置いたのは、いかにも家康らし
い。家康は儒学・仏教・神道・日本古典を広く学び、それらを通じて政治
の在り方を考究した。

文禄2(1593)年、秀吉の朝鮮出兵が行われていた頃、50歳の家康は藤原
惺窩(せいか)を呼んで『貞観政要(じょうがんせいよう)』を講義させ
ている。この書物は唐の太祖が群臣と交わした議論を収めており、国家を
統治する王者の道を説いている。鎌倉時代初期に北条泰時などの名君が現
れて仁政を展開したのも[a]、『貞観政要』による所が大きかった、と言
われている。

家康の学問重視は書物の出版にも熱心だった点にも表れている。慶長
4(1599)年、関ヶ原の戦いの前年から、『孔子家語』『貞観政要』『吾妻
鏡(鎌倉時代の政治史)』などを出版させている。

また「武」も、戦闘のための「武術」から人格形成のための「武道」へと
昇華させた。家康に取り立てられ、2代目将軍・秀忠、3代目・家光の兵
法指南役となった柳生宗矩(やぎゅう・むねのり)は江戸初期を代表する
剣士であったが、人を斬ったのは大坂の陣で秀忠に迫った豊臣方の武者7
人を瞬く間に倒した時だけだったと伝えられている。

宗矩は懇意にしていた沢庵(たくわん)和尚から禅を学び、「剣禅一致」
を唱えて、後の武士道の発展を導いた。戦国時代に戦闘者であった武士は
江戸時代には為政者となっていくが、その基盤を家康は文武両道に置いた
のである。

シナや朝鮮では、為政者は儒学を修めた文人であったが、机上の学問だけ
では政治が乱れやすく、一旦乱れると学問のない群雄がのし上がって弱肉
強食の世となってしまう。文と武の分離がシナの政治の不安定の一大要因
だった。わが国では為政者たる武士が文武両道を学んだ点が、長き徳川の
平和をもたらした大きな要因だろう。

この点は、徳川幕府の国づくりが、いかにシナや朝鮮と異なっていたか、
という重要なポイントであり、歴史教科書本文の記述にも含めるべき点だ
ろう。


■3.「天子が習熟すべき諸芸能は、第一に御学問である」

家康は朝廷に向けては「禁中並公家諸法度」を発したが、東書版、育鵬社
版の記述は、それぞれ以下の通りである。


(東書版)また幕府は、京都所司代を置いて朝廷を監視し、禁中並公家諸
法度という法律で天皇や公家の行動を制限し、政治上の力を持たせません
でした。[1, p113]

(育鵬社版)幕府にとって征夷大将軍という役職は全国支配のよりどころ
であり、その任命者は朝廷でした。幕府は朝廷を敬いながらも禁中並公家
諸法度を定め、京都所司代を置くなどその動きを監視し、幕府をおびやか
さないよう注意を払いました。[2, p117]

育鵬社版の「征夷大将軍という役職は全国支配のよりどころ」「幕府は朝
廷を敬いながら」という点が異なる。シナでは古い王朝を倒した権力者が
皇帝となって新しい王朝を始めるのだが、江戸幕府は朝廷を注意深く統制
しながらも、その権威をそのままに活かした。ここにわが国の特質がある。

実は「禁中並公家諸法度」の第一条も「学問」から始まっている。その現
代語訳は以下の通りである。

天子が習熟すべき諸芸能は、第一に御学問である。「学問を学ばなければ
古道も明らかにならない。学ぶことでよき政事を行い、太平を実現するこ
とができるのであるが、未だそうなっていない」と『貞観政要』にも明記
されている。

(平安時代に宇多天皇が子の醍醐天皇に与えた)『寛平の遺誠(かんぴょう
のゆいかい)』にも、「経史(経書や歴史書)をすべて読むことはできなく
ても『群書治要』は暗誦できるほど読むべきである」と記されている。
[4, p33]

この部分は、鎌倉時代に順徳天皇が著した朝廷の儀式や政務に関する『禁
秘抄』からの引き写しであり、さらにその中に平安時代に宇多天皇が遺さ
れた『寛平の遺誠』が言及されている。すなわち、この第一条は、皇室の
伝統的理想を継承したものだと言える。

この制定に関しては、家康は朝廷に赴いて親王や公家達と意見を交わした
り、文書で意見を求めており、かならずしも幕府側の一方的押しつけでは
なかった。

この「禁中並公家諸法度」は、武家が文武両道の為政者となるのと並行し
て、朝廷にも国家統合の権威の中心としての見識を求めたものと言えよ
う。権威を司る朝廷と権力を用いる幕府が両輪となって、共通の学問を基
軸として国家の安泰を築こうとする家康の思想が窺われる。


■4.武士は戦時の戦闘員から、平時の社会の指導者へ。

徳川時代の武士の実態について、もう少し見てみよう。東書版はこう記す。

武士は、主君から領地や米で支給される俸禄を代々あたえられ、軍役など
の義務を果たしました。武士は、名字・帯刀などの特権を持ち、支配身分
として名誉や忠義を重んじる道徳意識を持つようになりました。これは
「武士道」とも呼ばれます。[1, p114]

「軍役などの義務」は、260余年続く平和の時代には、武士の中心的任務
ではなかったろう。「支配身分」というのも抽象的である。そもそも、支
配身分になれば、自然に「道徳意識を持つように」なるわけでもない。そ
こには別の事情があるはずだ。

武士のあり方について、育鵬社版はこう記述する。

武士は社会の指導者として名字・帯刀を許され、武士道とよばれるきびし
い規範を身につけることを要求されました。本来、武士は武芸に励み、戦
いに備えることが最大の仕事でしたが、平和が続くにつれ幕府や藩の役人
として政治をにない、治安を維持することが仕事の中心となりました。[2,
p122]

この記述の方が具体的で正確である。家康は、武士を戦時の戦闘員から、
平時の「社会の指導者、役人、治安維持」の役割に変えた。そのためにも
学問を奨励し、武術を武道に昇華させ、「武士道とよばれるきびしい規範
を身につけることを要求」したのである。

■5.「百姓が餓死することは、我等に恥を与えることである」

武士を束ねる大名の役割について、育鵬社版はこう説明する。

とりわけ大名は、藩の経営に責任を負っており、領民の生活を安定させる
ことが求められました。百姓一揆がおきるなどの失政があれば、幕府から
きびしく責任を問われたため、大名や役人は、百姓の不満に対して適切に
対処しなければなりませんでした。[2, p122]

これに相当する記述は、東書版にはない。この点はマルクス主義史観での
「江戸時代は階級差別と搾取の暗黒時代だった」とする考え方を否定する
大事なポイントである。

たとえば、寛永17(1640)年、蝦夷駒ヶ岳の降灰、翌年の日照り・長雨など
から、全国的な飢饉に襲われた。大老・酒井忠勝は国元の若狭などを治め
る家老たちから、村の百姓たちが10人、20人と饑餓に及ぶほど切迫した状
況にあるとの報告を受けて、激しい叱責を送っている。

どうして百姓が饑餓に及ぶほどまでに放置しておいたのか。・・・百姓が
餓死することは、我等に恥を与えることである。年寄共に「国の仕置」を
任せているのは、このような時のためではないか。[4, p143]

同じ頃、安芸広島藩主・浅野光晟(みつあきら)も、国許に次のような書
状を送っている。

 ・・・もし本当に餓死しているのであれば、当面どれだけの支出・損失
になってもいいから、百姓が生きていけるように対策をとりなさい。[4,
p142]

「大名は、藩の経営に責任を負っており、領民の生活を安定させることが
求められました」というのは建前だけでなく、こういう実態を伴ってい
た。幕府においても、時の三代将軍・家光主導で次々と対策が打ち出さ
れ、諸大名には交替で帰国して飢饉対策に当たるよう指示が出されている。


■6.農民の権利を守る法令

家康は農民保護についても「郷村(ごうそん)法令」を出した。しかも、
それは家康が征夷大将軍に任ぜられた慶長8(1603)年2月の翌月、最初の
法令として出されたものだった。

 ・私領の領主に「人質を取られ、せんかたなきに付いては」、幕府の代
官や奉行所へ届けた上で直目安(じきめやす、家康への直接の訴状)を出
してよい。しかし、幕府代官の「非分(非法行為)については、そうした
届け出無しに直接出して良い。

 ・幕府代官や領主に「非分」があって、百姓が「所を立ち退(の)き逃
散(ちょうさん)をする場合は、たとえその領主が求めても、安易に強制
送還されることはない。

 ・百姓を理由もなく殺す事は禁ずる。たとえ罪のある百姓といえども、
これを逮捕し、奉行所において対決の上、罰を申しつけるべきである。
[4, p12]

戦国時代は農民も野盗からの自衛のために、あるいは村どうしの争いのた
めに武器をとって戦っていたが、秀吉は「刀狩り」と「兵農分離」により
百姓が武器を持たなくとも暮らせる社会を目指した[b]。それをさらに徹
底して、平和な農村社会を実現しようとしたのが「郷村(ごうそん)法
令」だった。

特に、領主や幕府代官の不正を防ぐために、農民に訴えや逃散、あるいは
裁判を受ける権利を認めていたのは、現代のシナ農村よりもはるかに近代
的である。


■7.美政をもたらした学問の力

こうした農村保護の法令は、幕府によってかなり徹底されたようだ。

東北の会津藩40万石は加藤明成が治めていたが、年貢率の引き上げ、無地
高(土地がないのに石高だけある)の押しつけなどで百姓が困窮している
ところに、寛永19(1642)年の凶作が襲った。2千人の百姓たちが一斉に
「田畑を捨て、妻子を連れ、隣国に奔るること大水流のごとく」逃散を始
めた。

その状況が隣国から幕府に注進され、加藤氏は翌年に改易(領地没収)さ
れた。次の領主となった保科氏は、?村触(ごうそんぶれ)を出して、逃
散した百姓の還住(げんじゅう)を呼びかけた。

逆に米沢藩を治めた上杉家は、藩内の経済開発に努め、天明の大飢饉で平
年の2割ほどに米作が落ち込んでも、備蓄米を活用して、死者を1人も出
さず、他藩からの難民も救った。幕府からも「美政である」と3度も表彰
を受けている。[c]

その上杉家代々の家訓「伝国の辞」は、次の3箇条からなっている。

・国家は、先祖より子孫へ伝え候国家にして、我私すべきものにはこれなく候
・人民は国家に属したる人民にして、我私すべきものにはこれなく候
・国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民にはこれなく候

 このような近代的な統治思想をもたらしたのが、学問の力であった。江
戸時代の260余年にも及ぶ平和は、こういう学問を学んだ幕府や大名、
武士たちによって築かれたのである。


■リンク■

a. JOG(910) 歴史教科書読み比べ(22): 北条氏の仁政
 北条氏は「道理」と「合議」に基づく政治により、安定した社会を生み
出した。
http://blog.jog-net.jp/201507/article_7.html

b. JOG(986) 歴史教科書読み比べ(30) 織田信長・豊臣秀吉による天下統一
 天下統一には、武力による全国制覇だけではなく、「安定した近世社会
のしくみ」作りが必要だった。
http://blog.jog-net.jp/201701/article_3.html

c. JOG(130) 上杉鷹山〜ケネディ大統領が尊敬した政治家〜
 自助、互助、扶助の「三助」の方針が、物質的にも精神的 にも美しく
豊かな共同体を作り出した
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h12/jog130.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 『新編新しい社会歴史 [平成28年度採用]』★、東京書籍、H27
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4487122325/japanontheg01-22/

2.伊藤隆・川上和久ほか『新編 新しい日本の歴史』★★★、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4905382475/japanontheg01-22/

3.渡部昇一『「日本の歴史」〈第4巻〉江戸篇―世界一の都市 江戸の繁
栄』★★★、H22
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4898311466/japanontheg01-22/

4. 横田冬彦『日本の歴史16 天下泰平」★★、講談社、H14
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4062689162/japanontheg01-22/

■前号「トランプ政権の『経済力による平和』戦略」に寄せられたおたより

■中国の「100年マラソン」(T.N生さん)

 支那共産党政権が樹立した1949年生まれの団塊世代です。Globe
Now: トランプ政権の「経済力による平和」戦略及びJOG(937) 中国
「100年マラソン」の野望を読みました。中国と国交をはじめた田中角
栄総理と周恩来との談笑光景が甦り、いかにお人好しの日本だったかと
(現在も)、ぞっとする思いです。

 20歳代、農民と労働者の味方毛沢東!文化大革命を礼参する会社の先
輩に誘われ日中友好協会に入会し人民日報はじめ毛沢東選集etc.など手に
したこともありますが、あれから48年経過し人生を振り返らざるをえま
せん・・・ネット時代に入り「日本解放第二期工作要項」なるモノを知り
中国の我が国への浸食をいかに謀って来たか。

 いま振り返ると中国の「100年マラソン」でいえば当時38年目、あ
れから30年経過、韓国の混迷、悪辣な独裁国家北朝鮮の暴走が報じられ
「100年マラソン」は現在我が身と同じ68年目。現在の中国の横暴ぶ
りに新ためて脅威を覚え、我が国の国勢を謀る政治家、官僚、そして財界
企業家の深慮遠謀を期待するものです・・・・。


2017年03月28日

◆世界最高の教育水準が実現した農村自治

伊勢 雅臣



年貢納めまで自主的に行っていた農村自治は、世界断トツの農民の読み書
き能力が支えていた。

■1.農民の自治で年貢納め?

江戸時代の農民は、高度な自治を行っていた。育鵬社版はこう述べる。

百姓は農村に住み、幕府や藩に年貢米を納めていました。百姓は自分の土
地をもつ本百姓と土地をもたない水呑(みずのみ)百姓に分かれ、本百姓
の中からは名主(庄屋)、組頭、百姓代とよばれる村役人が選ばれました。
本百姓たちは寄合を開き、年貢や祭り、共有地の世話や用水の管理などを
話し合いによって運営しました。[1, p123]


東京書籍版の記述もおおむね同様だが、一部、「幕府は、安定して年貢を
取るため、土地の売買を禁止したり、米以外の作物の栽培を制限したりす
るなどの規制を設けました」などと、幕府の統制について付言している程
度である。[2, p115]

しかし、考えてみれば、百姓たちが自治を通じて年貢米を納める、という
のは不思議なことだ。現代日本でも企業がサラリーマンの税徴収を代行し
たり、あるいは税の取り立てのための「徴収官」が活躍しているように、
好き好んで税金を払う人は少ない。江戸時代の農民たちが自主的に年貢を
納めていたというのは、いったいどんな自治の仕組みがあったのか?


■2.6万人ほどの百姓を一人の代官と数人の手代で管理

当時の村の自治の様子を見ると[3]、現代日本と比べても徹底したもので
あり、おそらく世界的に見ても希有なレベルのものだったのではないか。
当時の幕府領はおよそ400万石だったが、代官数は江戸時代初期の延宝元
(1673)年でわずか69人、中期の享保15(1730)年では42人がそれぞれ数人の
手代とともに管理していた。

初期の69人で400万石を割ると一人当たりでは6万石近く、人口規模で言
えば6万人ほどの比較的大きな大名クラスの所領を管理していたことにな
る。どうしてこんな事が可能になったかをまとめると、次の二つの要因が
あったからである。

第一に、役人の不正や重すぎる年貢などによる苛斂誅求が少なく、おおむ
ね妥当、かつ公正な徴収が行われていたこと。そうでなければ、多くの農
民が自治を通じて大人しく年貢を納めることなどするはずがない。もし不
正や苛斂誅求があれば、百姓の側からも訴えや一揆で牽制することができた。
 
第二に、すべての行政、すなわち年貢高の設定から徴収に至るまでの事務
が文書によって行われており、農民の方もほとんどが読み書きができて、
それらの文書を自分で作成したり、確認できた。

第一の点は前号で述べたので[a]、今回は第二の点に絞って見ておこう。


■3.文書主義を可能にした百姓の読み書き算盤能力

まず、年貢の徴収がどのような仕組みになっていたかを見てみよう。

毎年秋に、代官から各村毎に検地高(田の面積による想定産出高)にその
年の年貢率を掛けて、納めるべき年貢高を記載した「免状」が出される。

村を治める庄屋が、村の納めるべき年貢高を、村民一人ずつの所有面積か
ら割り出して、各自の年貢高を計算した「免割帳」を作成する。免割帳に
は、庄屋と百姓全員が立ち会い、各自の分を確認した上で、それぞれ判を
押す。押印後の免割帳は代官に提出して、確認を受ける。

米の収穫後、それぞれの百姓が庄屋のもとに年貢米を納める際、庄屋は
「庭帳」という帳簿に、納入者の名前と量を書きつけ、百姓に確認印を押
させるとともに、受取の証拠として手形を渡す。年貢納入が終わると、代
官、庄屋、百姓が立ち会って確認し、その帳面に相違なしとの判を押す。

このように諸帳簿をきめ細かくつけさせ、それを百姓たちにも公開して、
代官や庄屋の不正や、百姓側の滞納などが相互に見えるように仕組みを整
えていたのである。[3, p208]

このようにすべて文書主義できちんと管理するためには、名主のみならず
百姓たちも読み書き算盤ができなければならない。江戸時代の百姓の教育
レベルは、それだけ高かったのである。

東書版には「年貢納め」の絵があって、「百姓が納めた年貢を、武士が立
ち会って量り直しています。百姓には年貢のほか、労役も課されました」
と説明がなされている[2, p115]。

いかにも、武士が百姓から厳しく年貢米を取り立てていた、と言いたげだ
が、絵の中では代官と思われる武士は隅の方で座って見ているだけで、そ
の前には帳簿が開かれている。こういう平和的な光景を成り立たせていた
百姓の読み書き能力については、東書版では何も記述がない。


■4.世界でも群を抜いた読み書き能力

百姓の読み書き能力に関連して、育鵬社版では、江戸時代の身分制度」と
いうコラムで、こう述べている。

百姓は、農民を含めて、農業を経営しながら他業にも従事する人たちを指
します。検地によって百姓は、実質的な田畑の所有権を得て、米以外の商
品を生産する者も出ました。中には、醸造業や織物業さらに廻船業を営む
者もあらわれ、村の中に都市化する場所が増えました。

こうした貨幣経済の発達もあって、豊かな百姓・町人の中には武士身分の
買い取りや武家との養子縁組などにより武士になる者もいました。この背
景には、行政を行ううえでの読み書き能力を、百姓ももっていたことがあ
げられます。[1, p123]

商品を売ったり運んだりして儲けるには、当然、受け払い記録や在庫管理
などのための読み書き算盤能力が必要である。また武士は行政官であった
から、さらに高度な文章作成・読解能力が求められた。百姓がこうした高
度な能力を持っていたからこそ、商売に進出したり、武士になることもで
きたのである。

幕末に日本にやってきたプロイセン海軍のラインホルト・ヴェルナーは、
その航海記で次のように述べている。

日本では、召使い女がたがいに親しい友達に手紙を書くために、余暇を利
用し、ボロをまとった肉体労働者でも、読み書きができることでわれわれ
を驚かす。民衆教育についてわれわれが観察したところによれば、読み書
きが全然できない文盲は、全体の1%にすぎない。世界の他のどこの国
が、自国についてこのようなことを主張できようか?」
<『エルベ号艦長幕末記』(ラインホルト・ヴェルナー著、新人物往来
社)より>

民衆の読み書き能力では、江戸時代の日本は世界でも断然のトップだった。


■5.「男女共に、貴賤万民共に」

このような読み書き能力は、村が共同で設けた寺子屋によって育成され
た。その様子を育鵬社版は、次のように詳細に記している。


庶民の学びの場・寺子屋 工業が発展し、農書などもさかんにつくられる
ようになると、庶民のあいだでも、読書をしたり、帳簿をつけたりするこ
とが多くなってきました。このような生活上の理由から、江戸や京都など
の都市部には、 寺子屋が開かれるようになりました。17世紀末になる
と、寺子屋は農漁村にも広がり、幕末のわが国には,約1万もの寺子屋が
あったといわれます。・・・

寺子屋で習う内容は「読み・書き・そろばん」のほか、道徳や古典、地理歴
史など多方面にわたりました。往来物とよばれた寺子屋向けの教科書も出
版され、その数は7000種類にもおよびました。こうした民間での教育の普
及によって、江戸時代後期から末期の教育水準はきわめて高いものになっ
ていました。このことは、のちの明治時代以降のわが国の近代化の際に、
大いに役立つこととなりました。[1, p131]

寺子屋で子供たちを教育することは、農民自身が豊かさを求めて実施した
ことであろうが、藩としても教育を奨励していた事例がある。寛文
2(1662)年の土佐藩の国掟には、次のように百姓の子供にも手習いをさせ
るべきことを定めている。

百姓の子供は男女共に89歳にもなれば「面々の事を仕習せ」るべきであ
る。庄屋や手前富貴な者は子供に「物を書かせ算用をもさせ」るが、貧し
い者はさせていない。そもそも貴賤万民共に貧富はあっても、人々の志次
第で「芸能も調う」ものである。

しかしそうはいっても百姓はまず百姓のことが第一であるから、物書算用
は暇時を考え、「夜役(夜間)」にでもさせるように。よくできる者はひと
かどに取り立てよう。[3, p229]

「男女共に」「貧富はあっても」という事から、男女や貧富の差に関係な
く、国民全体を教育する近代教育の意識がすでに芽生えていたようである。

一方、東書版での寺子屋に関するの記事は、以下の文章のみである。

庶民の間にも教育への関心が高まり,町や農村に多くの寺子屋が開かれ、
読み・書き・そろばんなどの実用的な知識や技能を教えました。[2, p131]

この淡々とした記述では、ヴェルナーを驚かせたわが国の教育水準の高さ
を、中学生たちは知らずに読み過ごしてしまう。しかも、育鵬社版の指摘
するように、この庶民の教育が、明治以降のわが国の近代化の基盤となっ
た。近代化が遅々として進まなかったシナや朝鮮との違いはここにある。
この点を知らずしては、わが国の歴史を学んだとは言えないだろう。


■6.「農業の進歩」が、なぜ実現したのか?

こうした農民の自治と教育水準が相俟って、江戸時代の農業技術は大いに
進歩した。その様子を東書版は次のように記述する。

「農業全書」などによって近畿地方の進んだ農業の技術が各地に伝わり、
深く耕すことができる備中ぐわや、脱穀を効率的にする千歯こきなどに
よって生産力が上がりました。

都市で織物や菜種油しぼりなどの手工業が発展すると、農村では、現金収
入を得るため、原料となるあさ、綿、あぶらな、こうぞ、みつまたなどの
商品作物の栽培が広がりました。

染料では阿波(徳島県)のあいや出羽村山地方(山形県)の紅花、宇治(京都
府)の茶、紀伊(和歌山県)のみかん、備後(広島県)のいぐさ、薩摩(鹿児
島県)のさとうきびなどが生産され、地方の特産物になりました。[2, p120]

史実の豊富な記述は良いが、「幕府は,・・・米以外の作物の栽培を制限
したりするなどの規制を設けました」という記述との整合はどうなったの
か、と嫌みの一つも言いたくなる。いや、それよりも農民の教育水準が驚
くべき水準にあった事を説明していないので、これだけの「農業の進歩」
がなぜ実現したのかが分からない。

しかも、この農業技術の進歩は世界史的に見ても傑出した水準であった。
たとえば、朝鮮半島は李朝時代まで原始的な焼き畑農業をしていたが、日
本統治時代に「農産漁村振興運動」で植林、灌漑、水田開拓など、江戸時
代の日本が行っていた農業技術を展開した結果、20年間で米の生産量が
約1千万石から2千万石へと倍増し、人口も980万人から、1,866万人と倍
増している。[b]


■7.「激しい身分による差別」!?

東書版が、世界に卓越した庶民の教育水準のかわりに、3分の1ページも
費やして書いているのが、「激しい身分による差別」という項での「えた
身分」「ひにん身分」である。

たしかに、こうした被差別階級はあったが、それも他国と比較してみない
と、どの程度のものだったかが分からない。インドのカースト制度は言う
に及ばず、シナも膨大な数の奴隷が労働力の中核をなしていた。欧州では
ギリシア、ローマ時代から奴隷が存在し、近代に至ってもアフリカで黒人
を捕まえて新大陸で売りさばく奴隷貿易が盛んだった。

こういう「世界標準」に比べれば、日本の身分差別が特にひどいものだっ
たとは思えない。朝鮮の白丁が「文字を知ること」「墓碑を建てること」
まで禁ぜられたのに比べれば、はるかにマイルドな制度であったと言える
のではないか。

育鵬社版では4行ほどで、「えた・ひにん」が「死んだ牛馬の処理、皮革
製品をつくったり、役目として罪人の世話」を担当していたことの一方
で、「住む場所や服装を制限されるなど、さまざまな面できびしい差別を
受けました」と書く。[1, p123]。この程度の記述が妥当だろう。

東書版は、世界でも傑出した庶民の教育水準については黙して語らず、世
界のどこにでもあった階級差別について執拗に記述する。このアンバラン
スな記述では、中学生たちは日本の優れた点は教えられず、暗い面ばかり
吹き込まれることになる。世界史的な視野から自国を見なければ、わが国
の本質を理解することは出来ない。



■リンク■

a. JOG(996) 歴史教科書読み比べ(33): 徳川幕府の学問による国づくり
 戦国の世を終わらせ、平和な国家を建設するために、家康は朝廷にも武
家にも学問を勧めた。
http://blog.jog-net.jp/201703/article_7.html

b. JOG(056) 忘れられた国土開発
 日本統治下の朝鮮では30年で内地(日本)の生活水準に追いつく事を
目標に、農村植林、水田開拓などの積極的な国土開発が図られた。
http://blog.jog-net.jp/199810/article_1.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 伊藤隆・川上和久ほか『新編 新しい日本の歴史』★★★、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4905382475/japanontheg01-22/

2. 『新編新しい社会歴史 [平成28年度採用]』★、東京書籍、H27
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4487122325/japanontheg01-22/

3. 横田冬彦『天下泰平 日本の歴史16』★★、講談社学術文庫、H21
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4062919168/japanontheg01-22/

4. ラインホルト・ヴェルナー『エルベ号艦長幕末記』、新人物往来社
「日本の世界一」、「世界が驚嘆した識字率世界一の日本」より再引用
http://www.nipponnosekaiichi.com/mind_culture/literacy_rate.html

5. Wikipedia contributors. "賤民." Wikipedia. Wikipedia, 3 Nov.
2016. Web. 3 Nov. 2016.

6. Wikipedia contributors. "奴隷." Wikipedia. Wikipedia, 24 Feb.
2017. Web. 24 Feb. 2017.

7. Wikipedia contributors. "白丁." Wikipedia. Wikipedia, 10 Dec.
2016. Web. 10 Dec. 2016.