2020年07月08日

◆GIRL’S KEIRIN「顔より太もも

馬場伯明

 
新橋駅日比谷口改札を出ると広場の正面に蒸気機関車(SL)がある。夕刻のサラリーマンの待ち合わせ場所である。クリスマスの夜には美しいライティングが施される。右のビルを見上げれば巨大な看板CMがある。公益財団法人JKA:GIRL’S
KEIRINの「顔より太もも」だ。

キャッチコピー「顔より太もも(腿)」の下地には、若い女子競輪選手の鍛えた「太もも」の画像があり、すごい迫力だ。夕暮れのSL広場で、人待ちの男たちが斜め上を向きあんぐり口を開けている。どこを、何を?・・・女子選手の太ももを見ている。私は男たちのうしろ姿を見てニヤリとする。自分もその1人だから(笑)。

「顔より太もも」の左横にはサントリーの角瓶ハイボールの看板CMがある。大人の女性の色気が漂う井川遙がこちらを見下ろし微笑んでいる。1976年生まれの井川遥は三代目の角ハイボール女優である。初代の小雪は1977年、二代目の菅野美穂は、1976年生まれと、3人ともアラサーであり、同年代の「太ももより・・顔」系統のいい女である。 

「太ももより、ハイボールでしょ」とでも言いたげに、隣で「やっぱり、新橋の、角ハイボールが、お好きでしょ」と色っぽい目線が流れくる。

だが、そのCMの右側には、若い女子競輪選手の「顔より太もも」のピチピチした新手の画像CMが次々と登場し、「まくって」くるので、井川遙たちは年齢差が露わになり、その迫力に押され気味である。

2つのCMを見ながら「うんうん、太もも女子も、ハイボール姉(あね)さんも、いいねえ・・」とうなずきつつ、新型コロナウイルスなど何のその。私たちは、夕闇の新橋の飲み処へ、三々五々、消えていく。

(世間的にはまだマイナーである)GIRL’S KEIRIN
(女子競輪)が飲み処で多くの人たちの話題になれば、「顔より太もも」と「ハイボールがお好きでしょ」の隣同士のCMの相乗宣伝効果があるということになる。 

それにしても、宣伝(CM)は「視覚」に働きかける方法がもっとも効果が大きいと思う。新橋駅の「顔より太もも」はその証明の一つである。さらに、テレビの動画CMのように音響(音楽や言葉)が加わると、いやでも影響を受けてしまう。

その視覚効果であるが、「メラビアンの法則」という聞きなれない言葉がある。Wikipediaより抜粋する。

《・・感情や態度について矛盾したメッセージが発せられたときの人の受けとめ方について、人の行動が他人にどのように影響を及ぼすかという実験に基づく法則。結果は、1.話の内容などの言語情報(Verbal)が7%、2.口調や話の早さなどの聴覚情報(Vocal)が38%、3.見た目などの視覚情報(Visual)が55%だった。そこから「7-38-55の法則」「3Vの法則」とも言われている》。

ところが、この実験結果を「外見が一番」とか「話の内容より喋り方のテクニック」が重要だという短絡的な理解のままで結論に持っていく「俗流解釈」が、世間にはびこるようになってしまったという。

その典型が「人は見た目が9割」という本だ(2005 竹内一郎)。「人は顔より性格」であるという(床の間の)正論を、「人は見た目」という(井戸端の)俗論が完全に打ち砕いた。ベストセラーとなり100万部を売った。

「メラビアンの法則(俗流解釈)」をベースに出版社が意図的につけた題名が功を奏した。「表題の見た目」が読者を一瞬で洗脳したのである。しかし、著書の本文をじっくり読めば、「人は見た目が9割」ではなく、やっぱり、「人は中身が大事である」ということがわかる。

この本は大半が買ったら終わり、最後まできちんと読んでいる人は多くはなく、表題の「見た目」フィーバーの後は売れていないとも聞いた。

競輪場で車券を買うときは、「(俗流解釈の)メラビアンの法則」により「視覚(55%)聴覚(38%)言語(7%)」の順番で判断するのがよい。そのときは、視覚と言っても、押さえるべきポイントは、やはり「顔より太もも」であろう。

女性の前で、公然と「『顔より太もも』です」と言えば、「この変態オッサンは、何を言っているのだろう!」と顰蹙を買うのかな。

勤務先の若い女性にCM「顔より太もも」の話を振ったら、「そんなCMを出すなんて、競輪関係団体はセクハラっぽいオヤジが仕切っている印象です。女性蔑視も感じます。CMは逆効果じゃないですか?」と。また、「でも、オヤジの街である『新橋のSL広場』での掲示ならば、よろしいかも(笑)」と軽くあしらわれた。私はひどいドヤ顔をしていたのかなあ(笑)。

総武快速のグリーン車を待ち、東京駅の地下ホームで並んだら、ヒップが左右に張った若い女性が前にいた。ぴちっとしたジーンズに包まれたヒップから太ももにかけてのゆるやかで丸い曲線が美しい。
(・・・でも、こう書くと、また「スケベオヤジ!」と非難される一因になるかも。とかく、文章は災いの元である)。

最後に、別件だがうれしい出来事があった。水泳の池江瑠璃子さんが復
活に向けて動き出したのだ。池江さんが白血病の治療とリハビリテーションの訓練する様子をNHK・TVで観た。ついに、プールで泳ぐまでに回復してきたのである。

しかし、その姿はまだ痛々しいものであった。長身の池江さんが、ファッションモデルのように、首と腕が細くなり、肩の筋肉も落ちてしまっている。胸のふくらみも減退し、脚も太ももも細くなった。抗がん剤治療により髪の毛も抜け落ちていた(帽子・ウイッグ着用)。

かつての、たくましく太い腕、盛り上がった両肩の筋肉、堂々とした腰の張り、何よりも推進力の源泉であった、はちきれるような立派な太ももの復活を私は心から望みたい。遠いパリ五輪というよりも、2021東京五輪での復帰を目指してほしい。戦う世界は違うけれども、池江さんには、女子競輪選手同じく「顔より太もも」の精神でがんばってほしい。

早くコロナ禍の目途がついてほしい。GIRL’S
KEIRINの観客有りのレースが再開されたら、競輪場(女子)へ出かけてみよう。(2020.7.6 千葉市在住)

2020年07月02日

◆原監督の賭けゴルフ?

馬場伯明


戸塚カントリークラブでのラウンド中にキャディさんが言った。「前は先の巨人監督の原辰徳さん(以下「原さん」)たちです。原さんは昨年(2016)のクラブチャンピオンです」と。そう、原さんはトップアマなのだ。前の組とは大きな技量の差があるので、また、キャディさんが配慮したのか、前の組に追いつきそのプレーなどを近くで見ることは終日なかった。

ラウンド後風呂に原さんがいた。裸同士、私は気軽に訊いた。「初めてお声をかけますが、後ろの組でした。今日の調子はいかがでしたか?」「ええ、まあまあでした・・」と。当時の原さんはハラが出ていた。

さて、表題の「原監督の賭けゴルフ?」。週刊新潮(2020.7.2号・以下「新潮」)が書いている(2人の証言の一部を抜粋する)。

《(1)スポーツ紙デスク。「2000年代後半に、宿泊先のホテルで朝、あるコーチが『昨日も(原)監督に50万(円)やられちゃって、どうせ今日も負ける・・』などとぼやいているのを耳にしました・・」(30p)。
(2)十数年前から一緒にラウンドしてきた50代の男性。「原さんはとにかく賭けゴルフが大好き。すごい腕前の上にとんでもないレートで握るから、これまで累計で何百万円持っていかれたことか・・・」(29~30p)。

「秋季キャンプが終わってから1月末までで、多い時には1年に2~3回はご一緒していましたね。ルールは『5・10・2:ゴットーニ』。1打5000円・ホールごと1万円・ハーフの勝敗ごとに2万円。・・・さらに『ラスベガス』というルールが加わる。・・レートは1打1000円。『ゴットーニ』と併せて100万円近くが動いていました」(30p〜31p)》。

当然、原さんは反論する。《当の原監督に質すと「(賭けゴルフを)いつやるって?俺、500円以上の賭けごとはしたことないよ。(ラスベガスというルールは)知るか、そんなもの」そう笑い飛ばすのだが・・(新潮・32p)》。

巨人球団からも・・反論があった(2020.6.24「東スポWeb」より)。
《本件記事は『十数年前から一緒にラウンドしてきた50代の男性』(以下「当該男性」)の証言を根拠に、原監督が高額の賭けゴルフを繰り返してきたと指摘していますが、そのような事実は一切ありません。

そもそも本件記事に掲載されている原監督と当該男性のツーショットの写真は、2007年12月に撮影されたものですが、その後、当該男性はゴルフ仲間と音信不通になっており、当然、原監督もこの10年以上当該人物に会ったことすらありません。本件記事は、このような当該男性の証言のみに依拠しこれを否定する当球団の回答を一方的に無視しており、裏付け取材を一切行っていない悪意に満ちた記事と言わざるを得ません。

・・原監督の名誉を著しく毀損するものです。・・週刊新潮編集部が本件記事の掲載を強行したことは甚だ遺憾で、速やかに本件記事を取り消し、謝罪文を掲載するよう求めた次第です》。

新潮が仕掛けた「賭けゴルフ」の真偽は、疑惑の森へ分け入っても、ボールは薮の中でロストとなってしまうだろう。新潮の記事は、顔写真が隠れた人とデスクの匿名者2人の「証言」だけであり、その他の確たる証拠がない。新潮は「続報」するのか? それとも・・マッチポンプか? 

私は長年のカープファンである。今最大の関心事は開幕したプロ野球の行方である。カープは最強のライバル球団である巨人からのペナント奪還を狙う。今のタイミングでこの記事は大いに迷惑だ。カープには正々堂々と原巨人と闘い優勝しもらいたい。原さんの賭けゴルフ疑惑(?)の追及は、シーズンオフにゆっくりやってもらいたい。

ところで、原さんは「『(ラスベガスというルールは)知るか、そんなもの』そう笑い飛ばすのだが、(新潮・32p)」。ゴルフのbet(ベット・賭け・握り)の一つである「ラスベガス」とは何か?普通のゴルファーなら知っており、やっているが、その「起源」まではどうだろうか。

有力説がある。勤務した川崎製鉄(現JFE)に楫西雄介さんという部長がいた。昭和59(1984)年に手書き印刷の「ラスベガスルールブック」を貰った。楫西さんは自著「旅・たび・三度び(1998)」で触れている(87p)。

《昭和53(1978)年、新日鉄・日新製鋼・川崎製鉄の亜鉛鉄板界営業の3K(傑)と呼ばれた三課長(楫西のKなど)が「ラスベガス」ルールを進化させた。次に紹介する。1.順位1・4と2・3のペア方式を考案。2.バーディまたはパー2個で相手のスコアを反転。ex(47)を(74)に。3.極端な下手にはハンディを付与するなど。

「ラスベガス」は鉄鋼業界から商社へ、商社から取引先へと瞬くうちに全国のゴルファーに広まっていった。私(楫西)はありうべきケースを網羅した「ラスベガスルールブック」を書きあげ、何十部と刷った》とある。 

ペアは打順の「1・3」番対「2・4」番と各ホールで入れ替わる。4人の実力が拮抗していれば勝敗の差は小さいが、極端な下手と上手い人がいたら、他の2人の実力に関係なく大きな差(金額)になり、ま、上手が勝つ。

たとえば、パー3でバーディが出て、(2・3)と(4・7)のスコアはありうる。この場合、47が74に反転し、2人パー以上で2倍となるルールなので、(74−23)×2=102となる。@100円でも、1ホールだけで、10,200円だ。原さんは500円以上の賭けごとはしたことないらしいが、もしそれが単価@500円ならば、1ホールで51,000円となる。ラスベガスは(下手にとっては)「ギャンブル」のメッカの名の通り相当危険な賭けである。

一方「ナッソー(Nassau)」は1900年発祥という伝統的な賭けだ。アウト・イン・合計の3分野のネットスコアで勝敗を決める。1,000円ナッソーなら、全部負けたら1人に3,000円。3人に全敗ならば9,000円だ。

「原さんとプレーする時のルールは、一般に『5・10・2(ゴットーニ)』と呼ばれるものでした(50代の男性・新潮30p)」。1打5,000円、ホールごと1万円、ハーフごと2万円(とあるが)、真実この「5・10・2」なら高額だ。仮に賭けていたとしても単価は@は一桁下ではなかったのか。

別件。神戸の震災後大阪のある事業部の責任者だった頃、初受注したゼネコン(M社)の部長らを兵庫県のゴルフ場(センチュリー三木GC)で接待した。M社4人、当社は私以下4人の2組。M社の課長から提案があった。「ラスベガス@500円、ナッソー@5,000円など・・」と。

普段ラスベガスは@100、ナッソー1,000だ。何とかラスベガス@300、ナッソー3,000にして貰った。私は部下の3人に厳命した。「OB打つな。半端なパットにOK出すな。絶対に負けるな!」と。結果は4人対4人の合計金額で10数万円の当方の勝ちとなった。18番ホールでは「プッシュ(勝てばチャラ、負ければ2倍)」を提案されたが「でも、万が一失敗されたときは、さらに危険でしょう・・」とやんわり拒否し、了解を得た。

私はM社の人の魂胆が読めていた。「接待だ。あいつらは、最後には負けてくれる」と思っていたのだ。だから、仲間内のゴルフの場合よりもレートを大幅に上げ、18番ホールでプッシュを要求したのだ。

M社は「スーパーゼネコン」ではなかったが、問題は企業規模の大小ではない。その品性を疑った。「あんたら、仕事(受注)はどうするんや?」と訊かれたら「『貴社からの仕事(受注)は成り行きで・・・』と応じろ」と私は指示していた。故意に大負けするつもりはなかった。

ところで、微妙な問題がある。この場合M社の立場を忖度しわざと負け続けたら、賭博罪(刑法185条)の構成要件に該当するのかどうか?「賭博とは、偶然の事実によって財物の得喪を争うことを言う」と定められている。故意による負けは、偶然の負けではなく必然の負けだ。賭博罪に該当しないと私は思うが、論争があるらしい。

個人企業ならともかく、大手企業間の接待で麻雀やゴルフの負けを企業の接待費で負担する「慣習」は国内企業ではあまり聞かない。敗けた個人が負担する。わざと負けた者はかわいそうであり、理不尽なことだ。

「魚心あれば水心」なのか?「ラスベガス@1,000円、ナッソー@10,000円」の高ルールで、接待側4人で30万円負け工事完了までに4回なら120万円だ。その場合追加工事の精算で戻ることがあるとも聞いた(ホンマ?)。でも、その増収分を敗者個人へどう戻すのか悩ましい。だから、サラリーマンの企業間接待の賭けゴルフはそれなりのレートにすべきなのだ。

私的なゴルフでも賭ける。ところが、上手なゴルファーが大半勝つ。なぜか?スタート前に勝ちが見えている。上手は口もうまい。下手の自尊心をくすぐり、ハンディキャップが不公正になる傾向にある(私の経験)。

上手は猫なで声で囁く。《馬場ちゃん、最近また飛ばしとるらしいな!調子がいいのか。すごいな。そいで、今日のハンディやけど、8ではあんたのプライドが許さんやろ。思い切って4でどうや。俺は今腰が痛うて飛ばんし・・。お願いや。4やったらあんたの今後の励みにもなるで・・》

私は思う。《そうか、腰が痛いんか。今D1は飛ぶ。4でやってみるか》という気になるから、不思議だ。ゴルフの朝は忙しい。受付、着替え、コーヒー、パット練習、雑談。その間隙で「HCP、8から4」への急な申入れ。スタート時刻も迫る。ついつい「ま、ええか!」となってしまう。

戦いすんで日が暮れる。18ホールの結果は、当然のごとく負ける。上手は軽く一言。《・・なんか、今日はパターがはいりよった。偶然、勝たせてもろた。ありがと。次に、がんばってや・・・》でチョンだ(笑)。

性格がいい人のゴルフの賭けは赤字になりがちだ。原さんは性格がいいように見えるので、ゴルフは上手いが大した儲けはないのではないか。

ゴルフはあくまでラウンド(プレー)が主である。ゴルフの賭けは泣き笑い。賭けで泣いても自分は性格がいい人間なのだと慰める。そして、ラウンドが終われば「お疲れさまの『ノーサイド』」にしたい。
原さんも、ほどほどがよろしいようで・・。(2020.7.1千葉市在住)


2020年05月19日

◆サンズ、日本(横浜)カジノ断念

馬場伯明


新型コロナウイルス禍の拡散にうんざりの日々であるが「サンズ日本(横浜)カジノ(IR)断念」の知らせは、コロナ禍が手を貸した逆方向への流し打ちヒットかもしれない。

「カジノ実施法(特定複合観光施設区域整備法)」が2018.7.20にあっという間に成立し、日本では3ヶ所に立地が認められることとなった。世界のカジノ運営企業が利益を求め日本へ殺到してきていた。

日経新聞。《 米カジノ大手のラスベガス・サンズは2020.5.13、日本市場への参入を断念すると発表した。横浜市が計画するカジノを含む統合型リゾート(IR Integrated
Resort)への参入をめざしてきたが、取りやめる。 

新型コロナウイルスの感染拡大により同社の業績は急激に悪化していた。IR整備を進める日本政府がモデルにしてきた業界大手が進出断念を決めたことで、今後の整備計画に影響が出る可能性もある。

同社のシェルドン・G・アデルソン会長は同日、「日本におけるIR開発の枠組みでは、私たちの目標達成は困難」とし、「今後、日本以外での成長機会に注力する」とのコメントを出した。日本のIRは、政府が事業を認める期間が10年で、多額の投資回収は困難と判断したとみられる。今後はマカオやシンガポールなど既存のIR施設に投資を振り向ける》(引用終わり)。

私にすれば「ざまみろ!」である。サンズは冷徹な「賭博(とばく)運営企業」である。横浜市などの建前によるIR何たらの「きれいごと」をその収支予想であっさりと打ち砕いた。単に「儲からん。じゃあ、やらないよ」であり、「後足で(軽く)砂をかける」のものである。

林文子横浜市長は、別のIR事業者でも同様の動きが広がる可能性があるかについては「想像もつかない」と。でも(コロナ禍の影響・・に)「驚きはない」と話し、IRの推進を引き続き続ける方針を示した(日経新聞2020.5.13)。

私は、IRと称する「カジノ(賭場)の日本への誘致に(個人的に)反対してきた。と言っても、小さな蟷螂の斧の存在にすぎない。それでも、言うべきことは言わなければならない。本誌には、過去3回、反対の意思の拙稿を掲載していただき、主宰者に感謝している。

推進論と反対論の分水嶺は経済と道徳である。推進論はカジノには大きな経済効果があり、ギャンブル依存症など負の側面は是正が可能だという。でも、青少年や国民の教育や道徳に役に立つという推進論者はいない。一方、反対論の主たる根拠は道徳の涵養と健全な社会の防衛・維持である。

私がもっとも重視するのは、カジノ(賭場)が子供たちへの正しい経済教育や道徳教育とは真反対であるからだ。それは簡単に証明できる。カジノ推進論者の知人に訊いてみた。「あなたやあなたの家族・親族は、開業したら、当然みんなでカジノへどんどん行くのでしょうね?」と。

ところが、彼は口ごもった。そう、自分たちは行かないのだ。自分の家族などには「さあ、カジノへ行って金を儲けよう」とは言わず「カジノ(賭場)には行くな。はまるな」とこっそり説教する。他人ならばカジノ(賭博)へ誘導し、行かせ、散財させ、ギャンブル依存症へ追いやってもいいという理屈である。

つまり、自分はしない。他人が不幸になれという言行不一致の二枚舌である。そのように親に説教された子供や孫なども、おそらく、二枚舌が得意な人間に育つことだろう。

カジノ運営業者が儲けた利益の残滓を得る。それを経済効果というのなら、それは真っ当な事業利益ではない。他人の不幸を踏み台にする事業(商売)に頼る不健全な成長戦略などは、くそ喰らえと言いたい。かつて、渋沢栄一翁は事業には「論語と算盤」が必要であると説いた。以って肝に銘ずるべきである。

横浜市では、藤本幸夫横浜港運協会(240社)会長は横浜カジノ反対の先頭に立ってきた。

《人が生きるために政治や経済はある。人が安全に仲良く暮らせているか、そこが一番大切だ。経済効果だけでカジノを進めるのは順番が違う。・・・道路や橋を造ろうってなんなら分かる。ばくち(博打)場をつくろうってんだからね。ばくち場を作るからどいてくださいって言われて、どけますか?体を張って阻止するしかないでしょ》(2019.9毎日新聞)。そう、統合型リゾート(IR Integrated
Resort)と称しているが、その本質はカジノ(賭場)と見抜いている。

林文子市長やその応援団の政治家や経済人たちは、意気地がないと思う。「私たち一族郎党はこぞってカジノ(賭場)へ行きます。カジノ愛好者(➡依存者)になります」と、宣言する勇気もない。せめて、そう宣言した上でカジノ(賭場)の推進に取り組んでほしい。

ところで、サンズのシェルドン・G・アデルソン会長は、「日本におけるIR開発の仕組みでは、私たちの目標達成は困難」とし、「今後日本以外での成長機会に注力する」と述べた。う〜〜ん、これって、「運営条件UP闘争」ではないのか?

トランプ大統領の意(?)を受けたアデルソン会長の条件闘争により、日本政府が腰砕けになり、運営条件を緩めないことを祈りたいが、どうだか・・・。(2020.5.17 千葉市在住)

(追記)
ラスベガス・サンズの日本参入断念を受けて、中国資本等が進出を伺うとの声も聞こえてくる。断固として阻止しなければならない。(了)

2020年05月14日

◆確りせよと抱き起し

馬場 伯明


2020.5.10(日)NHK9:00〜の「日曜討論 現場で何が 緊急事態宣言延長 命と暮らしをどう守る・・・」を観た。加藤勝信厚生労働大臣は「対策を・・・しっかり実施していきたい」というふうに「しっかり」を多く使った。気になり数えたが4回でやめた。

「コロナ」よりも「しっかり」の方が重要なキーワードなのか・・・、確かに「実施していきたい」だけでは迫力に欠ける。視聴者に「やる気がないと」受け取られることを避けたかったのかもしれない。

新型コロナウイルス対策を担当する西村康稔経済再生大臣も「しっかり」をよく使う。三村明夫日本商工会議所会頭など他の(業界の)論者は「しっかり」をほとんど発しなかった。「しっかり」は国会議員や政治家の専売特許の「決め台詞」のようにも思われた。

「しっかり」を少し長いがGoo辞書で見る。《 しっかり【確り/聢り】の解説 [副(詞)](スル)1
物事の基礎や構成が堅固で安定しているさま。(ア)かたく強いさま。「ロープを―(と)結ぶ」。(イ)確かでゆるがないさま。「土台の―(と)した建物」。2
考えや人柄などが堅実で信用できるさま。「―(と)した意見の持ち主」「論旨の―(と)した論文」》。

《 3 気持ちを引き締めて確実にするさま。「―(と)勉強する」「上級生らしく―しなさい」。4
身心(ママ)が健全であるさま。また、意識がはっきりしているさま。

「―(と)した足どり」「高齢でも頭は―している」。5
十分であるさま。たくさん。皮肉をこめていうこともある。「今のうちに―と)食べておく」「金を―ためこんでいる」6
相場が上昇傾向にあるさま。》(引用終わり)。

加藤大臣や西村大臣が使った「しっかり」は、「3 気持ちを引き締めて(課題を)確実に(実行)する」という意図をもって、「4
身心(ママ)が健全である」という自意識の上で使用しているようである。

すなわち、数々の政治課題そのものを「しっかり」解決するという意味と、自分自身が「しっかり」しなければならないという二つの場面で使われている。

「しっかり」は、似たような言葉である「きちんと」や「ちゃんと」よりも、物事が確実に達成されるかのような信頼感があり、言葉に重量感がある。聞く側はなんとなくその気になり安心してしまう。

神永曉(国語辞典編集者)氏による「知識の泉」というサイトがある。「楽しもう、ニッポンの知識」とあり「日本語、どうでしょう?(第68回2017/11/20)」という表題で「しっかり」という言葉を国会会議録で手間をかけて検索した結果が書かれている。

《 1983年中曽根康弘内閣時代には321件。森喜朗内閣から増え始める。2002年の小泉純一郎内閣では925件となりピークに達する。小泉内閣時代に国会の「『しっかり』指数」が大きく上昇した。民主党政権時代も中曽根内閣の2倍以上の件数で推移し、今に至っている》とある。

「(このような金にならない調査をするなど)我ながら暇だとは思うのだが(神永氏)」とあるが、それを引用させてもらい、この雑文を書いている私(馬場)も、神永氏に勝るとも劣らない・・・相当な暇人であるといえる(笑)。

かつて、人気の小泉内閣では、経験の浅い小泉チルドレン代議士が急増した。「そういう新人代議士たちに『しっかり』してもらわなければならない」という党内の事情があったのかもしれない。

とりあえず、何事も「しっかり」と言っておけばその場が収まるような気もする。駆使する人もいる。しかし、「猫だまし」のような方法で事態を切り抜けようとするのは姑息であり、終には見透かされる。

「しっかり」は物事の説明を補強する言葉(副詞)である。本来、責任ある説明は「数字」をもって行う。特に数量・金額・期限はそうするべきである。

「しっかり」の変わった用法に「6
相場が上昇傾向にあるさま」がある。株式の市場用語で、相場が上昇している状態や株価が高い状態のことを「しっかり」という。

逆に、相場が下落している状態や株価が安い状態のことを「甘い」という。また、相場が少し上昇している状態のことを「こじっかり」といい、相場が少し下落している状態のことを「小甘い(こあまい)という」(株式用語辞典)。

内容が曖昧な「しっかり」という言葉を気安く連発する人は、心ある人から「小甘い」から「甘い」と評価され、人間の値打ちが下がる。政治家の皆さんには、「しっかり」という言葉を、乾坤一擲の場面で真の意味での「決め台詞」として、使ってもらいたい。

ところで、軍歌「戦友」の4番に有名な一節がある。作詞 真下飛泉 作曲 三善和気。

軍律厳しき中なれど 
これを見捨てて置かりょうか
確(しっか)りせよと抱き起し
仮繃帯も弾丸(たま)の中

「♪確(しっか)りせよと抱き起し」の歌詞に差しかかるところで、私は、その戦場の情景を想像し(歌いながらも)涙することがある。

政治家の皆さんに切にお願いしたい。国会、重要な会合やTV出演などの前夜には、ひとり静かに低い声でこの歌を唱えつつ、意志を固め、明日の現場に臨んでほしい。そして、確(しっか)りせよ、と。(2020.5.13 千葉市在住)

2020年05月07日

◆重井博先生の「倉敷昆虫館」

馬場伯明


私は昆虫少年だった。長崎県島原半島のふるさと南串山町(現在は雲仙市)の田舎で昆虫採集や標本作りに熱中していた。いま採集はしていないが昆虫への興味と関心は持続している。

小学校6年の夏休みの昼、「お母(か)ちゃん、モンキアゲハ(紋黄揚羽)ば(を)捕ったよ!」と、走ってきた小庭から縁側に飛び上がり台所の母に向かって大声で叫んだ。隣家の庭でモンキアゲハ(雄)を捕獲したのである。

傷や破れのない完璧な羽根のモンキアゲハである。茶褐色の前翅、真っ黒な後翅、ビロードみたいなつややかな光沢の鱗粉はまるで濡れているように見えた。うれしさと興奮で手の震えが止まらない。蝶へのホルマリン注射や展翅板へのピン刺しなどの展翅作業が暫時できなかった。

この年、作品「アゲハの採集(馬場伯明・浦島稔)」は島原市・南高来郡(島原半島)の夏休み自由研究小学生の部で金賞を受賞した。52年後、回想して「モンキアゲハを追いかけて」を書いた。(「嶽南風土記NO.16」長崎県南島原市有家町
有家史談会誌 平成21.1.30発行)。

大学卒業後川崎製鉄(株)に入社し、倉敷市の水島臨海工業地帯に立地する水島製鉄所に配属され、その後家庭を設け東京転勤まで都合10数年暮らした。倉敷市は美観地区の古い街並みや大原美術館に代表される文化と芸術の街であり、全国有数の観光地である。

その観光コースの定番ではないが、個性的な歴史がある「倉敷昆虫館」は全国に異彩を放っている。倉敷市を訪れる機会があれば美観地区とともに倉敷昆虫館の見学を強く推奨する。入場無料である。「しげいの自然保護−ふるさと岡山の自然とともに−」(冊子)、「倉敷昆虫館」
 
・「倉敷昆虫館」住所 岡山県倉敷市幸町2-30 しげい病院1階(院長 重井文博)。TEL086(422)8207 ・営業時間 午前9時30分〜午後1時/午後2時〜午後5時
(入館は午後4時30分まで)・観覧料無料 ・定休日 月曜日(祝日・休日の場合は開館、翌火曜日休館)年末年始(12月29日〜1月3日)・HP http://www.shigei.or.jp/ento_museum/index.htm
メールアドレス:kurakon@shigei.or.jp

なぜ、病院の中に昆虫館があるのか?由来を記す。
《倉敷昆虫館の開設者の重井博(1924〜1996)は幼い頃から野口英世にあこがれ、1948年岡山医科大学専門部を卒業し医師となった。実は根っからの「生物屋・虫屋」。しげい病院・重井医学研究所・同附属病院の開設者であるとともに、倉敷昆虫館・重井薬用植物園の設立や倉敷市立自然史博物館開設への協力、また自然保護運動の指導者として活動した。優れた医学者であるとともに自然を探究する人だった。 

1945(昭和20)年に「岡山博物同好会」ができ、その有志により「倉敷昆虫同好会」が誕生した。この岡山博物同好会や倉敷昆虫同好会に重井博も参加していた。重井博は専門の医学研究に専念する傍ら、関連した昆虫学分野の「衛生害虫」の研究にも力を注いでいた。

展示および収蔵標本は主に倉敷昆虫同好会員による半世紀以上の調査活動の成果による。そのうち3,200種15,000点を展示している。
60年前からの標本の所蔵点数は4,000種30,000点に及んでいる。絶滅種や絶滅危惧種を含め、とくに、岡山県を中心とした身近な種をはじめ、現在では(全国でも)ほとんど見ることができなくなった種や、当館にしかない貴重な県内産標本を観ることができる》。
  
ところで、場所を移す。東京・文京区千駄木には、ファーブル昆虫館「虫の詩人の館」がある。昆虫好きには見逃せない昆虫館だ。館長の奥本大三郎氏は幼い頃から無類の昆虫好きだったという。1944年大阪生まれ、フランス文学者、作家、東京大学大学院修了。大阪芸大教授・埼玉大名誉教授。何といっても大作、10巻20冊のファーブルの「完訳ファーブル昆虫記(集英社)」の翻訳者として有名である。

昆虫館の展示物は大規模ではないが、手作りの落ち着いた展示室は魅力的だ。アゲハ蝶群の怪しく光る青い鱗粉の美しさが目に焼き付いている。
ファーブル昆虫館 「虫の詩人の館」・開館日:土日曜日・開館時間:13:00〜17:00・入館料:無料・管理・運営:NPO
日本アンリ・ファーブル会・協力:ファーブル昆虫塾・住所:113-0022
東京都文京区千駄木5-46-6 電話:03-5815-6464 ・(常勤スタッフなし。開館時間内のみ対応。時間外問合せはFAX:03-5815-8968など)

さて、終わりに、12世紀平安時代の物語であるが、昆虫の話については「蟲(むし)愛づる姫君」を外すことはできない。Wikipediaから。

《按察使大納言の姫は美しく気高いが、裳着(元服に相当)を済ませたにもかかわらず、化粧せず、お歯黒も付けず、ゲジゲジ眉毛のまま、引眉せず、平仮名を書かず、可憐なものを愛さず毛虫を愛する風変わりな姫君だった。美男子の若い貴族も愛想を尽かし「もうお手上げだ・・・」と嘆く。話は突然終わり「二の巻にあるべし」とあるが、第二巻はない》。

高校のとき古文の参考書で読んで驚いた。短編物語集「堤中納言物語」内の10話の一つである。美しく気高くありながら、虫が大好きな高貴な姫(女の子)がいた、平安時代にこの姫を想像し創作した作者は・・偉い(!)

毛虫も芋虫もやがて美しく華やかな蝶(や蛾)になる。この美しい姫はまさに「(元祖)虫女子」であり、その異端・偏執・溺愛・反慣習の徹底ぶりには、あきれるというか、感心してしまう。

これには、わが愛するカープファン仲間の「カープ女子」も、ちょっと負けてしまうなあ〜〜(笑)。

ともあれ、倉敷昆虫館とファーブル昆虫館「虫の詩人の館」が多くの昆虫好きの人たちに支えられ、持続的に発展することを心より祈る。(2020.5.4 千葉市在住)

2020年05月04日

◆「いたずら」は楽しく、せつない

馬場伯明


少子化時代の今の子供は孫などの例を見ても勉強も遊びも一人でする傾向である。六十数年前は子供が多かった。同級生だけでなく地域の上下の学年の者もいっしょに遊んでいた。男女で遊ぶことはなかった。

「いたずら(悪戯・徒)1」は「いじめ(虐め)」と紙一重のようだが、違う。当時は「いじめ」という新聞用語はなかった。「小さい子や弱い者を『いじめ』てはならない」と両親に厳しく教育された。しかし「『いたずら』をするな」とは言われなかった。1語源は「いたづら」であるが本稿では「いたずら」の方を使う。

「いたずら」とは、1いたずら(徒に)、2いたずら(悪戯)の2つの意味に分かれる。1は、〈無駄に〉〈無益に〉〈意味もなく〉という意味。2は、〈わるふざけ〉〈面白半分〉〈淫らな〉の意味である。

私の「いたずら」は2の方だ。ちょい悪・ちょっかい・茶目っ気・楽しさ・自己顕示・いい恰好・可愛げ・ふざけ・愛情の裏返し・存在認知・女子への示威・・。「いたずら」には複雑な要素が入り混じっていた。

多くの「いたずら」をした。楽しかった。子供の娯楽の一つでもあった。だが、その種類や態様は様々だった。夕方家に帰り今日を振り返ったとき、一人になると、ときに「せつない」気分にもなることもあった。

新聞は「いたずら」を、意味の一つである「性的に淫らな行為(強制猥褻等)の婉曲表現」で使うようになった。強姦等の性犯罪の公式新聞用語になった。茶目っ気がある「いたずら」が凶悪な犯罪と同義の言葉に成り下がってしまった。今の「いたずら」のWEB画像は見るに堪えない。

腕白小僧だった65年前の頃の懐かしい、ほのぼの「いたずら」の記憶の数々を思いおこし、記述してみたい。

「黒板消し落とし1」:教室の入口の引戸の上部に白墨の粉が付いた黒板消しを、粉側を下にして挟む。引戸を開けたら黒板消しが落下し、入室者の頭に当たり白墨の粉まみれになる。それを見て笑った。小学校5年生のとき、T先生の紺の背広の右肩が白く汚れた。「誰がやったのか!」(T先生)。犯人のA君がすごすごと名乗り出た。

これは刑法2の「愉快犯」の範疇だが器物損壊罪の恐れがある。Z先生の一張羅、紺色の背広の白墨がとれない。処分は「廊下で立ってろ!」だった。背広の白墨は消えた。奥さんが時間をかけ蒸しタオルで消したのだ。2大学時代平場安治教授の刑法ゼミに(一応!)所属していた。

「屁の音の玩具2」:C子ちゃんは椅子に薄い座布団を敷いていた。その下に置く。座った途端に「ぶ〜〜」。皆が振り向き教室は爆笑。俯くC子ちゃん。犯人が判明した。B君が名乗り出たが、悪びれていない。

B君の行為は被害者のC子ちゃんへの好意の裏返しだったのだ。自分の方を向いてもらいたい一心からだった。でも、それは逆効果になったかなあ。C子ちゃんは幼くB君の真意と深意を忖度できる年齢ではなかった

「ムカデ(百足)・ヘビ(蛇)模型3」:中学1年。D君がゴム製のムカデ(百足)・ヘビ(蛇)の模型を学校へ持ってきた。E子ちゃんの机上に無造作に載せた。

「キャ〜〜」。D君はE子ちゃんを好きだったのに・・。また、ある日私の机上に「うんこ」があり、私はD君に殴りかかった。 

「握りっ屁4」:祖父から聞いた話。わが家の本家である南串山村の11代目最後の庄屋であった馬場立造先生は、明治になり荒牧小学校の初代校長になられた。幼い祖父は、先生に「こん(の)漢字は、何て(と)読むと(の)ですか?」と目の前に本を開き差し出した。本の下からは(自分の)屁を握っている右手をそっと開いた。「うっ、臭(い)か、臭かな」と立造先生。「わ、わかりました。『くさか』と読むと(の)ですか」と言って家へ逃げ帰った。

翌日、恐る恐る学校へ行ったが、立造先生は、祖父を叱ることもなく、泰然自若としておられたという。私は小学校の先生に「握りっ屁」を開く勇気はなかった。祖父は剛毅で「のふどか3」子供だったのだ。当時の家に経済的な余裕はなかったけれども自学自習で祖父は検定を突破し教師となり校長になった。3「のふどか」:島原半島の方言。「のふぞ(野風増)」:やんちゃ・生意気な。

「草結び5」:原っぱでは走り回って遊ぶ。鬼ごっこや駆けっこである。30〜40cmのカホン科類の草を一掴み結ぶ。F君がそこに突っかかって転んだ。歓声が上がる。こんな危険なことをやっていたのである。だが、すこし手加減をしていた。草を固くは結ばなかった。

「膝かっくん6」:後ろからそっと近づき、G君の膝の裏を自分の膝でぐいと押す。不意な「攻撃?」で膝が、かっくんとなりよろける。一瞬何が起きたのか。「何ばすっとか」。さあ、逃げるが勝ち・・走り去る。

「麦わら人形7」:I君はG君にいじめられていた。少年雑誌の漫画から「呪い殺す」と決意し麦わら人形を作りG君に見立て、「死ね」と言って人形の胸に5寸釘を打った。でも、G君に変化はなかった。これを「不能犯」という。G君に『必ず殺す』と手紙を書き直接怒声で迫れば脅迫罪(精神・意思の平穏を損なう)になる。

「不能犯」には伝統的な刑法の定義がある。意思(故意)をもって犯罪の実行に着手したがその行為自体には目的を達成させる危険性がない。だから刑罰は科されない。いたずら(強姦)目的で犯罪の実行に着手したが直前に「不能」となり中止した場合は違う。危険性があり未遂犯である。

「尻突き8」:6と同じく、後ろからH君に近づき、両手を合わせ、組み、人差し指と中指を突き出し、尻の穴をぐいっと突く。やられたらこれは痛い。憎い相手だけにするという訳でもなく、ま、親愛の情の証明に近い。「やったなあ〜」で終わりだ。今度は私がやられる番になる。

「落とし穴9」戦国時代には実戦で使われていた。日清・日露戦争でも活用されたのではないか。ただ、戦争用の落とし穴には中(底)に竹やりが埋め込まれていたらしい。H君を落とした落とし穴は深さが浅く竹やりももちろん立ててはいない。

「脅し『わっ!』10」:I君の前にものも言わずつかつかと進み、両腕・拳を脇腹に「ヨーイ・ドン」の形にし、「わっ!」と叫び体の斜め下にズイと伸ばす。何だ? I君は驚く。ただそれだけの「いたずら」である。

「ビンタ11」:J君の左頬に自分の左手の甲を当て、右の手の平で思い切り左の手の平を打つ。パーンと大きい音が出るが、打つ瞬間に左手を手前に引き、J君に何の被害も与えないのが「コツ」である。

「いたずら:性犯罪12」:この「いたずら」は実行すれば重罪となる。中学生のKさんが僕ら小学生3人に言った。「これからL子ちゃんの家に行く。俺(おい)が『する』けん(から)お前(まい)たちゃ(たちは)L子ちゃんの足を押さえておけ」と。年長のL君は「する」の意味がわかった。僕ら3人は同行を嫌った。Jさんは「冗談、冗談」と言いL子ちゃんの家には行かなかった。危うく「する」共犯に陥るところだった。

「ハート・ラブレター13」:(長じて)大学入学前の「いたずら」。好きでもないのに友人M君と2人でN子さんに匿名のラブレターを書いた。
《 【3X 2- 2|X|Y + 3Y 2 = 4】 つまり、【3X(Xの2乗)- 2X(Xの絶対値)XY
+ 3Y(Yの2乗)=
4】の数式を図形に描き、中を赤く塗ってください。それが私の心です》。図形はハート型になる。後日ばれた。N子さんから「もっと優しくやわらかいレターにしてよ」と叱られた。

最後に、前川清が歌った「愛のいたずら」を紹介する。この歌の「いたずら」とは、「いたずら」の定義の1「徒」:無駄に・無益に、と2「悪戯」:悪ふざけ・面白半分、の意味が混在しているように思われる。

愛のいたずら(1970)
内山田洋とクール・ファイブ 歌 前川清 
安井かずみ 作詞  彩木雅夫 作曲

あなたはもういないと 
心にきめたのに・・・
愛のさだめのいたずらなのね
会えて 会えて ときめく 
会えて 会えて ふるえる
もう迷わせないで   
夢をもたせないで
あなた あなた そんな風にしないでね (2番 略)

この曲は、安井かずみの歌詞もよく22歳の前川清の声の高音もすばらしい。しかし、どういう「愛のさだめのいたずらなの」か。私たちの愛も人生も、いたずらに(無駄に・面白半分で)終わってしまうものなのか・・、せつない。(2020.5.3千葉市在住)
 

2020年05月03日

◆思いおこせば ひとつ浮かんだ迷い雲

馬場伯明


気になっていた昔の歌がある。「♪思いおこせば ひとつ浮かんだ迷い雲
・・・」。歌詞は半分ほど覚えている。今WEB検索万能環境の時代である。調べてみた。

「テレビドラマデータベース(http://www.tvdrama-db.com/)」ですぐわかった。NHKの連続TVドラマ「その人は今・・・」の主題歌であった。ドラマは1976(昭和51)年秋からから1977(昭和52)年の春までの半年間放送された。そう言えば、だんだん思い出してきた。引用する。

《お盆の休みからみかんの花咲くころまでを背景に、3人の娘が別々の道を歩むまでを描く。制作・キー局
NHK 月曜日1976/10/11〜1977/03/28 放送時間 20:00-20:50 主な出演者 仁科明子、小川知子、高橋洋子、あおい輝彦、久我美子(中略)岸部シロー、西田敏行。 脚本 高橋玄洋、演出 中山三雄・高松良征。(そして)主題歌「思いおこせば」作詞:塚原将 作曲・歌:小椋佳》。

市場調査なのか、下欄に「DVDが欲しいですか?」とあり、ポチっと押したら「今221
人の方がこのドラマDVDに興味を持っています」と更新された。

次に「NHK番組発掘プロジェクト通信」。概要説明がもう少し詳しい。《故郷を離れ異郷の地で働く若者たちが、さまざまな出来事に出会い、複雑な人間関係に身を置きながら、豊かな生命力でさわやかに生きる姿を描いた物語。出演:仁科明子(亜季子)、小川知子、高橋洋子、(あおい輝彦)ほか。出演者の仁科さんが録画していたテープなど数本が保存されています》とあった。

このNHKのサイトを見た人は169人。「思い出のコメント」欄には、《小学生の頃、家族で見ていました。子どもながらに仁科明子さんのことを「きれいなお姉さんだなぁ」と憧れていました。小椋佳さんの歌も印象的で今も口ずさみます。(菜穂さん:投稿日2019.12.17)》と。

しかし、コメント欄はこの人たった一人である。私は少し長めの投稿をし、2人目の投稿者となった。次のとおり。(2020.5.1)。

《当時私は32歳、瀬戸内海の製鉄所で総務部の掛長をしていました。若い女性社員20数人を含む50人の部下がおり、海を見下ろす高台のホテルでの課全員の泊まり込み忘年会は、元気一杯の若さで大いに盛りあがりました。車座のお喋りでは、その年(1976年)の秋に始まったこの番組の話題で持ちきりでした。女性たちは西田敏行を無視しあおい輝彦に肩入れし、私たち男性は美しい仁科明子や小川知子などを思い思いに持ち上げました。

私と同年生まれの小椋佳が歌っていた主題歌「思いおこせば」が印象に残っています。作詞の塚原将が小椋佳の義兄(奥さんの兄さん)であったことを後に知りました。青春群像劇の内容はほとんど忘れていますが、あの高度成長の時代、若い私たちは「今日も、明日も、ずっと明るい」と信じ、顔をあげ前を向いて生きていました》(投稿終わり)。

せっかくだから、ここで、このドラマの主題歌の歌詞の全文を載せる。(JASRACの許可は未取得であるが)。

「思いおこせば」 作詞 塚原将 作曲 小椋佳

思いおこせば ひとつ浮かんだ迷い雲
いつの間に生まれきて  
拡がる空をひとり占めして
夢をはこぶ舟のように   
流れてあきて 消えてゆく
そんなふうに時を過ごしてみたい日があった

思いおこせば 開き初(そ)めてる朝の花
濡れたまま摘みとって
あなたの眠る部屋の窓辺に
そっと飾り 風のように
遠くに孤(ひと)り 去ってゆく
そんなふうな愛に憧れていた日があった

そんな私が いま過ぎ行く時と同じ速さで
心の中の玩具箱の鍵を探して暮らしています

そうだ。ドラマの主役は全員20代の若者だった。(TVの中で)彼らは夢を求め語り合い、悩み、苦しみ、もがき、そして行動した。倉敷市水島臨海工業地帯の製鉄所の私の部下20数人の女性は全員独身で24歳以下であった。

思いおこせば(!)ドラマの仁科明子や小川知子の(役の)生き方は、視聴した彼女たちの近い未来に密接に繋がっていたのだ。電話交換のチーフだったK子さんは「共感することが多く、歌も覚えました」と忘年会の翌朝私に話した。

ところで、当時、同じ倉敷市の児島(地区:旧児島市*1)には全国有数の学生服の縫製工場が立ち並び、私の出身県である長崎県の五島、対馬、島原半島などから、多くの中学校を卒業した女子が集団就職した。働きながら定時制高校に通い4年間がんばって高校を卒業する。(*1)今、「ジーンズの聖地」となり、外国人の訪問も多い。

関連して私には会社の仕事とは別の仕事があった。倉敷市(産業振興)から依頼で、倉敷市長崎県人会が組織され役員の一人として、より若い人たちのお世話に当たっていた。ずばり地域の雇用定着である。

一定の予算をもらい、臨海工業地帯(男性)や縫製工場(女性)の若者たちを集め、芸能歌謡大会、九州各県対抗運動会、また、長崎龍踊りの水島港祭への出演を企画し実行した。瀬戸内の島などへの合同小旅行には毎回男女100人以上が参加していた。参加者は女性の方が多かった。

製鉄所のOLたちより若かった彼女たちも、NHK「あの人は今・・・」のTVドラマを観ていた。「自分もいつか・・」と心に夢を描き、自分の未来に重ね合わせていた。真剣でありその気持ちは私の胸に響いた。

それでも、日々の昼の仕事と夜の学業に耐えきれず、様々な誘惑と勧誘により他業種へ転職する者(男女)もいた。県人会として相談にも乗ったが、華やかな夜の飲食業の仕事へ移る女性もいた。(あれから半世紀近く経った。現在の外国人技能実習生の若者たちの就業・離職・分散が、私にはあの時代の再現のようにも思えてくる)。

このドラマの具体的な内容はWEBでは探せなかった。(あればご教示をお願いしたい)。主題歌が示唆を与えてくれそうである。長い最終フレーズで歌は終わる。《♪そんな私が
いま過ぎ行く時と同じ速さで 心の中の玩具箱の鍵を探して暮らしています 》。

視聴者は、何か中途半端な感じというか、手探りの状態のままで残された気がするだろう。小椋佳の義兄(6歳上)であるこの作詞者(塚原将)は詩人だったという。《想い出が 遠いほうから順序よく わたしの胸に帰ってきて 一番不機嫌な顔をしているのは 今日だ》。塚原将・詩集「閉ざされた愛」の“今日”より。

また、小椋佳が歌う「時」も魅力的だ。《街角で偶然に出逢った とてもとても遠い日・・》で始まる。

塚原将は、主題歌「思いおこせば」の歌詞で、若者たち(男女)の願望(のぞみ)と現実の揺れ動くさまを心憎いばかりに表現している。若い小椋佳はそれをのびやかに歌った。(塚原将、2012年74歳、逝去)。

若いTV聴視者の心の中にはどんな玩具箱があったのか(また、私の心にも)。大きいか、小さいか。豪華なのか、粗末な木箱か。そして、探していたその鍵は見つかったのか。

私は、本稿を書いているうちに、「その人は今・・・」のDVDをほんとに観たくなった。(2020.5.2千葉市在住)

2020年04月09日

◆開幕のカープへ贈る言葉

馬場伯明


2020年は新型コロナウイルス禍のためにプロ野球開幕の予想がつかない。どうにもならない。新聞の「2020プロ野球戦力診断(5)」の二つのフレーズが2020年のカープを次のように表現している。「V争いへ
奮起だ 救援陣」「主力残留
打線は理想的」。投打守走の担当記者の採点は5点満点で3・4・3.5・3.5であった(朝日新聞2020.4.6)。う〜ん、この点数はちょっと厳しすぎるのでないか。

私は小学校5年生、昭和31(1956)年からカープファンだから、64年間の正真正銘の古参のファンだ。近年の「カープ女子」人数の増加には「何か違う」と戸惑いつつもうれしく感謝している。

2020年、カープはどう戦うのか。ファンの目標は明確だ。「セリーグのペナント奪還と日本一」である。佐々岡真司・新監督、頼んまっせ!コロナ、コロナで、今世間の様子が暗くなり沈滞しつある。せめて、わが愛するカープを鼓舞しその活躍を展望し、世の中をど〜んと明るく盛り上げたい。

居酒屋閉鎖で帰宅が早い。自宅でカープ関連本をざっと再読した(一部は図書館)。カープ選手OBや中国新聞の記者などの「カープ愛」が熱く迫る。関係者の著書の一節を贈り、2020年のカープ必勝への追い風としたい。(掲載は順不同。カープファン以外の人は「カープ」を自分の応援球団向けに読み替えてもらってもいい。ん、無理か!〈笑〉)。

「浩二の赤ヘル野球」(山本浩二・1989・文藝春秋)。《サチ(衣笠祥雄)は・・人と同じことをやらない。(みんなで)一緒になじみのスナックへ入り、カラオケをやったり打撃論を交わしたりして大騒ぎをするのだが、途中で必ず40分間中座する。帰ってくると・・上気して汗ばんでいる。『彼女とええことしてきよったか?』。『ちょっと用事や』。ある後輩が言った。『キヌさんなら、バット・スイングをやっとったですよ』と(290p)》。
山本は2019年膀胱がん・肺がんの手術が成功し復帰した。ミスター赤ヘルの闘志で今年ももうひと頑張りしてほしい。

「カープルール」(鯉党制作委員会・2013・中経出版)。《真正カープファンの判別法。「俺も前からファンだったんだ」と言いだす人がいる。(ファンが増えるのはうれしいが)・・・判別する方法を一つ。真正ファンは『カープ』と呼んで『広島』と呼ぶことはない(147p)》。う〜〜ん、そういえば、確かにそうだなあ。

「最後のストライク」(津田晃代・1995・勁文社)《(引退通告の翌日)スポーツ新聞を主人に渡した。ガッツポーズの写真とともに『炎のストッパー
津田引退』の文字を見たとたん、主人は泣き出してしまった。私も泣いた。だが、主人は新たな闘志を燃やしていた。『テル(晃代)、泣くな。俺は絶対に負けんからな!絶対復活してやるからな!』なんという精神力だろうか。・・・この人はきっと病を克服すると思った(143p)》。

「すごい広島カープ」(赤坂英一・2016・PHP研究所)《黒田博樹が日米通算200勝を前に0:6で巨人に負けた。私(赤坂)の問いに黒田はこう答えた。『どこも悪いところはありませんけど、打たれてしまったという結果がすべてですから。自分の力の無さですね。・・・今回も次のマウンドに向けて、しっかり準備できることをやっていきたい』(黒田は)徹頭徹尾、真摯で律儀な受け答えだった(23p)》。

「前田健太 感謝!」(橋本清・2011・徳間書店)《(PL学園の先輩の橋本がマエケンから聴取)。「先発が前田健太だと聞いたときに、相手チームから嫌がられるピッチャーになりたいですね。数字で目指すのは0敗です。15勝0敗とか、20勝0敗。登板した試合では自分も勝ちにこだわるし、チームにも勝ってほしい。難しくても、挑戦したい」(145p)》

「惚れる力 カープ筋50年
苑田スカウトの仕事術」(坂上俊次・2015・サンフィールド)《(中国放送のアナウンサーが伝説のスカウト苑田氏との対話から書いた本。「黒田は、大学時代はひたすら夢中で投げているという感じでしたが、今は、1球1球を頭のコンピューターに入れて投げている感じがします。もう黒田は雲の上の人ですよ」と、黒田博樹をスカウトした苑田氏は)嬉しそうに語る(10p)》。

「カープスピリッツ2016」(編集人:小田原昌子・辰巳出版・2016)《(鯉辞苑」より)。「ジェット風船」:1978年カープファンが甲子園で7回に飛ばしたことが始まりと言われている(199p)。「カープうどん」:50年以上の歴史を誇る球場内うどん店。旧広島市民球場完成と同時にオープン。メニューはきつね、天ぷら、肉、全部のせ。早い・安い・うまいと三拍子揃ったソールフードだ(202p)》。新球場へ移転。

「カープの美学」(迫勝則・広島国際大学教授・2012・宝島社)《大好きな歌がある。「それ行けカープ」である。「カープ、カープ、カープ、広島、広島カープ・・・」。かつて、長嶋茂雄が言った。「あの歌を聞くと、どうしても戦意が下がるんだよね」。そして、山本浩二も言った。「守備についたとき、つい口ずさんでしまうんだよね」(188p)》。

「アンチ巨人読本」(畑田国男・1983・角川書店)《1982.6.18広島市民球場、巨人13回戦。両軍で9本の本塁打がとび交ったが、江川(卓)に5本の本塁打を浴びせてKOした広島が、首位攻防戦に先勝した。カープが10対3で勝った。勝利投手福士、敗戦投手は江川(86p》。私はこの試合を球場のネット裏で観戦した。私の中では対巨人戦最高の試合である。

「広島力」(達川光男・2020・講談社)《1997日本シリーズ、「江夏の21球」。キヌさん(衣笠祥雄さん)に直接聞いたことがあります。『お前が(カープを)辞めるんならおれも一緒にやめてやるから』という話があるでしょう。あのとき本当は江夏さんに何と言ったのですか」私が聞くと、キヌさんはこう答えた。『集中しろと言ったよ。豊、いまはバッターを抑えることに集中しろと』。

衣笠さんは、私にはそこまでしか言わなかった。「一緒に辞めてやるから」と江夏さんに言ったとは、公にも一度も認めていない。・・ただ事実のようです。キヌさんとしては、江夏さんとの間だけの思い出にしておきたかったのかもしれんのう」(139p)》。

「ただ、ありがとう」(新井貴裕・2019・ベースボールマガジン社)《(野球で)燃え尽きるなら・・・。脳裏に浮かんだのは、やはり赤いユニフォームを着た自分だった。育ててくれた広島ですべてを出し尽くしたい、と。しかも苦しい時にどこよりも早く(松田オーナーが)手を差し伸べ、あたたかい声を掛けてくれた。最後に針は振り切れた(171p)》。

「決断に悔いなし」(古葉竹識・2006・熊本日日新聞社)《昭和54年11月4日、日本シリーズ第7戦初の日本一を決めた。・・・9回無死満塁、江夏は『俺が投げてる時にブルペンに行かせたでえ。もう投げる気せんなあ』とプライドを傷つけられたという。(しかし)私は指揮官として当然のことをしたと思っている。代える気持ちはまったくなかった。同点で延長になった場合のことを考え、(北別府と池谷の)リリーフを用意をしておいたにすぎない(109p)》。

「カープ魂」(大野豊・達川光男・2013・ベースボールマガジン社)《達川「じゃあ、『カープ魂』とは何でしょう?」。大野「あきらめないことじゃないかな。試合で大量リードされていても絶対にあきらめない。10ゲーム離されても・・・」。達川「はい、正解です(笑)。わしも同じことを考えとった(194p)》。

「広島を愛し、広島に愛された男」(ブラッド・エルドレッド2018・洋泉社)《長い期間お世話になったカープに恩返しがしたい。もしかしたら、それが一番やりたいと思っているかもしれない。・・。ぼくの第二の故郷だからね(166p)》。

「赤ヘル1975」(重松清・2013・講談社)《みなさん、けさの中國新聞の「球心」を読みましたか?名作でしたね。・・・絶品だった(書いたのは津田一男記者)。『真っ赤な、真っ赤な、炎と燃える真っ赤な花が、いま、まぎれもなく開いた。祝福の万歳が津波のように寄せては、返している。苦節二十六年、開くことのなかったつぼみが、ついに大輪の真っ赤な花となって開いたのだ(471p)』。

「カープ女子 鯉に恋する女のコたち」(カープ女子会・2015・アスペクト)《女子がカープ野球を好きになるのは、とても大事なこと。だって、カープ女子は『未来のカープお母さん』なわけですから。(川名和美教授、高千穂大経営学部、大学きってのカープ女子・2児の母)(110p)》。

男は子供を産めない。一代限りだ。カープの未来はカープ女子にかかっているのかもしれない。読み進むうちに想い出が走馬灯のように巡り来たる。諸氏の熱い「カープ愛」に思わずうるっとなった。2020年カープの必勝を心から祈念する。(2020.4.9 千葉市在住)

2020年03月18日

◆「ブラタモリ」島原・天草

馬場伯明


私は長崎県島原半島の生まれである。NHKの「ブラタモリ」は好きな番組の一つでありよく観ている。今回は故郷の島原半島の放送なので大いに期待していた。だが、内容には少し違和感があった。

番組の概要をNHK番組案内より一部を引用し紹介する。2020.3.14(土)NHK総合
19:30〜20:15で「#160
島原・天草〜なぜキリシタンは250年も潜伏できた?〜」の放送がある。

舞台は、熊本県・天草と長崎県・島原。2018年「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界文化遺産に登録されたこの地域で、明治まで約250年もの長いあいだ潜伏キリシタンが信仰を守り続けた秘密と痕跡を探る。出演はご存じタモリと林田理沙NHKアナウンサー。

熊本県天草・ア津では文化2(1805)年に露見したが「宗門心得違い」という沙汰で赦免され生き残った事情などが紹介された。そこからフェリーで島原半島の原城跡に移動し「島原の乱(*1)」の激戦の跡を辿る。(*1)学術表現としては「島原・天草一揆」と統一されたらしいが、本稿では「島原の乱」とする。

では、私の違和感の中身を記す。

まず、番組進行の順番が間違っている。「なぜ250年もの間キリシタンが潜伏できたのか?」と天草・ア津に上陸し「ブラタモ」した。しかし、その前に「なぜ、潜伏せざるを得なかったのか?」という重大な歴史事実を深堀りすべきだろう。順路は原城➠ア津の方がよかった。

津の街歩きでは潜伏の秘密が種々解き明かされる。(1)八個の丸い銭を並べ十字架を表現した(証拠が残らない)。(2)家の注連飾りを十字架風にした。(3)アワビの貝殻にマリア様を見た(信仰者にしか見えない)(4)真鍮製の踏絵には十字架がないので踏む抵抗感が薄れたなど。

(5)潜伏が露見した決定的な事件があった。文化2(1805)年の「天草崩れ」である。ア津村などで5,000人以上のキリシタンを捕らえたが何と村民の5~7割にも達した。しかしお寺の檀家であり神社の総代を務める者もいる。島原の乱から167年を経て幕府に逆らう気もない。

彼らに厳罰を科し暴発されては大変である。そこで幕府は大所高所から策を練る。彼らをキリシタンではなく異宗信仰者あり宗門心得違いの者であると認定し、改めて踏み絵を踏ませ、「異宗」改心の誓約を書かせ赦免としたのだ。つまり、潜伏キリシタンを宗門心得違い者と読み替えた。タモリが笑って言った。「今の政府(役人)と変わらないね」。

ア津の寿司屋の主人が「うちも潜伏キリシタンでした」と話したあとで、「じつは世界遺産に登録された2年前の42歳のときに知りました」とゆるくボケた(!)ことを言う。笑ってしまった。筋金入りの「潜伏キリシタン(➠カトリック教徒)」の末裔を出演させるべきではないのか。

山の上からの神社の鳥居と教会(修理中)とが重なる画像、少年遣欧使節が持ち帰ったという八百屋の「南蛮柿(無花果:いちじく)」、帰国した少年らが秀吉に披露したという楽器「イタリアン・ヴァージナル」の演奏もあった。(東京藝大音楽学部大学院卒という林田理沙アナが少し演奏した。上手である)。

しかし、250年間に及ぶ命をかけた寺社宗教からの大脱走というか大潜伏
を取材するという悲壮感や緊張感はあまり伝わってこない。NHKが段取りした観光視察旅行であった。なぜか?その理由は「キリシタンは、なぜ、潜伏せざるを得なかったのか?」という深刻な歴史的な背景の追及が不十分だったからである。ただ、専門家の安高啓明(熊本大学文学部准教授)の説明は丁寧でわかりやすかった。

タモリ・林田アナ一行はフェリーに乗り(一揆軍が決起の談合をした)湯島(談合島)を遠望しつつ激戦の地「原城跡」に到着した。一揆軍37,000人と幕府軍12万人の熾烈な戦いで死屍累々の人骨が埋まっている場所である。どうなるのか?視聴者は息を殺してTV画面を待ったに違いない。

原城跡の探索が始まった。ところが、正直言って期待外れであった。一揆軍の防御が強かった理由の一つとして原城の門路が折れ曲がった「枡形(ますがた)」道になっていたからだと城郭考古学者の千田嘉博奈良大学教授は指摘した。

「この形は何でしたっけ?」と訊かれ、林田アナは一瞬ためらったが、「ま・す」のヒントにより「枡形」と正解した。(何かやらせ風?)。しかし、この城は一揆軍が造ったものではない。島原藩か築城したが、島原城へ移り廃城になっていた原城へ一揆軍がなだれ込み籠城したのである。

籠城37,000人の食料と水が必要だ。海水は飲めない。海岸へ降りると島原半島ジオパーク協議会の大野希一事務局次長が待機していた。この崖は元の地層の泥岩の上に阿蘇山の大噴火(*2)の火砕流が降り注いでできた地層(ASo4)であり、雨水が濾過され池(「蓮池」)ができたと言う。

(*2)固い元からの地層:海抜+2〜3m、11万年前の阿蘇山噴火:+20m(火砕流・火山灰)、9万年前の阿蘇山噴火:+10m。天然の濾過・浄水装置になったと推測できる。原城の地下トンネルには清流があるという。

一揆軍は「蓮池」の水を飲んだと思う。何せ37,000人もの籠城だ。南島原市在住の原田建夫さんが電話で説明してくださった。「一揆側が『蓮池』の水を飲んだとの古文書はない。また井戸の有無も不明。本丸の東側にも池があった。なお、城内の6ヶ所の井戸は大正・昭和の掘削である」と。要するに「空気と水はタダ」だったから記録がないのだ(!)。

幕府軍が城へ撃ち込んだ(鉛の)弾で作られたという十字架の画像が写された。タモリは「幕府軍は宗教がこんなに人を奮い立たせることを知った」と話した。一面の真理ではある。だが、本質は政治の問題である。

一揆軍から幕府軍への矢文が小豆島の壺井家に保存されているという。「(幕府には恨みはない)・・・あわれ長門首を我々ニ見せ被下候ハヽ、城中人民共ニ悉縄をかゝり、始終の事とも申上け死罪ニ行れ本望ニ可存候由」と。(苛斂誅求の)松倉長門守(松倉勝家)の首を見せてくれれば(自分たちは)縄にかかって死罪でもよいと。(「検証
島原天草一揆」〈大橋幸泰〉より)。

島原半島南目のキリシタン農民は禁制によりほぼ棄教していた。しかし、松倉の圧政と苛斂誅求に耐え兼ね「立ち返り(再び信者になる)」したのである。一揆軍は幕府軍の兵糧攻めにより3ヶ月後「餓死」同然となり37,000人がほぼ全滅した。戦闘員が約13,000人、老人、女、子供、幼児らが約24,000人との記録がある。まさに政治的苦渋の決断であった。

「ブラタモリ(2020
3.14)」では、島原の乱と直接的には関連が少ない(9〜11万年前の)大昔の阿蘇山大噴火による地層の話を長々と放送した。タモリの個人的な興味への配慮なのだろうと私は邪推した。

終わりにプロデユーサーとディレクター氏にいくつか要望をしたい。

(1)原城跡の図面が出されたが、むしろ、この戦いの内容を想起させる絵図や動画(映画)等を挿入し放送してほしかった。同じ日本人同士がなぜここまで妥協のない絶望的な「戦い」をしなければならなかったのか?その意味を提示してほしかった。

(2)キリスト教の日本伝来と布教の功罪について多くの新しい研究成果が生まれている。とくに、日本侵略の先兵としてのキリスト教・宣教師の機能(役割)が「外国の当事者の資料」により証明されつつある。一方、豊臣・徳川幕府の「日本国を守った政治」への評価が高まっている。両論併記でもいいからこの論点への大胆な言及を期待したい。

(3)37,000人の戦死者の悲惨な事実があったから、250年間も恐れ潜伏したのだということを強く発信すべきである。乱の後、島原半島には潜伏キリシタンは残らなかった。厳しい追及に天草や五島へ転じたのかもしれない。本番組では「宗教と政治の分離」がいかに大切であるかという現代的なメッセージも発信してほしい。

(4)原城跡の本丸の入口付近には「ホネカミ地蔵」という小さなお地蔵さんが祀られている。ホネカミ地蔵は、明和3(1766)に有馬村願心寺の注誉上人が、この戦乱で斃れた人々の骨を敵・味方の区別なく拾い、霊を慰めた地蔵尊塔である。

骨かみ地蔵に花あげろ
三万人も死んだゲナ
小さな子供もいたらうに
骨かみ地蔵に花あげろ  (八波則吉作)

「ホネカミとは骨をかみしめる」こと。転じて「(人々を)救済する」という意味であるという。私はここへ行くたびにお参りしている。

原城跡を去るときに、タモリと林田アナは、一揆軍の死者(27,000〜37,000人:諸説あり)との幕府軍の死者(1,130〜5,712人:諸説あり)の霊を想い、せめて「ホネカミ地蔵」に手を合わせてほしかった。残念である。長崎県出身の林田アナの「ブラタモリ」の最後の旅も尻切れトンボになってしまったような気がした。

林田アナは「終わっちゃったんですね。いや〜もう・・」と感極まった様子で(中学生のように)涙ぐんだけれども・・、そうではなく、ホネカミ地蔵に手を合わせているうちにうるうるとなる、(演出ではなく)番組がそのように終わればよかったのにと思った。(2020.3.16千葉市在住)

(追記)本稿の「見解等」は私見であり、その全責任は私にある。(了)


2020年01月16日

◆ナイキの「魔法の靴」の行方

                                  馬場伯明


第96回箱根駅伝(5区間109・6キロ)は記録ずくめの超高速駅伝になった。すでに種々報道されたように、記録ラッシュの理由の一つはナイキの厚底シューズによるものと思われる。ナイキの「魔法の靴」ヴェイバーフライ(ズームXヴェイバーフライネクスト%)を今大会210選手中177選手が履いていたのである。

2020.1.5「サンスポ」より。《令和最初の箱根駅伝は全10区間中、7区間で新記録が生まれ、往路、復路、総合の優勝タイムも全て大会新記録だった。・・・2017年から登場し、軽量化やクッション性のほか高い反発力が売り。新開発で炭素繊維のプレートが埋め込まれ、男子マラソンの世界記録を持つエリウド・キプチョゲ(35・ケニア)や日本記録保持者の大迫傑(28・ナイキ)らトップ選手も履いて注目を集めている。

箱根駅伝では全10区間の区間賞獲得者のうち、10区の創価大・嶋津雄大(2年)を除く9区間の選手が着用した。総合優勝した青学大は今季から(ナイキを)解禁した(デサント等から全員切り替え)。総合2位の東海大も全員が履いた・・・。

2020.1.1日の全日本実業団対抗駅伝でも着用した選手が目立ち続々と好記録が誕生した。世界陸連が公平性の観点から調査に乗り出すとの報道も出ており、今後の行方が注目される》(引用終わり)。

様々なスポーツにおいて道具の開発と進化はその発展に寄与し次々に記録を伸ばしてきた。ところが、1960年ローマ五輪金メダルのアベベ・ビキラ(エチオピア)はシューズを履かず裸足で走った。完全に自分の脚(足)の力だけで走り抜いた。

ナイキが開発したシューズは、炭素繊維のプレートを靴底に組み入れており、そのプレートは反発力(弾性)を有する。つまり、人間の脚(足)の力だけで走るのではなく、「道具」の力を借りて走り記録を伸ばしていると思われる。

スポーツと道具についての関心事を順不同で記述する。

私のスキー履歴は毎シーズン10数日間滑っていただけである。それでも、1990年代にカービングスキーが登場し滑ったときのターンのしやすさ(小回転半径)には驚いた。現在ではほぼ100%使用され、競技者はもちろん一般人へのスキー普及に大きく貢献したと思う。

また、ジャンプ競技ではスキー(板)は度々規制が改定され、現在は長さ(身長の145%)や幅(95〜105mm)などとなっている。かつて、日本人ジャンパーに不利になるように変更されたとの報道もあった。

棒高跳びのポール(棒)の材質等も変遷した。木、竹、金属(鉄・アルミ・ジュラルミン等)のポールが使われたが、グラスファイバー・ポールなどが開発され大きな弾性を利用することで記録は1m以上飛躍的に伸びた。ただし、ポールの長さ、太さ、材質等にルール上の制限はない。体力と技術が重視されている。

D・ブラック(米)は、自身の4.80mの世界記録(1960)がグラスファイバー・ポールで、無名選手に4.83mと更新されたとき「これから棒高跳びはサーカスの連中がやればいいんだ」とグラスファイバー製ポール使用を拒否した。その後、S・ブブカ(ロシア)はグラスファイバー製ポールで、1993に6.15m(室内)を飛び「鳥人」と呼ばれた。屋外記録6.14m(1994)は25年後の今も破られていない。

イギリスのSPEEDO社が競泳用水着レーザー・レーサー(LZR Racer)を開発した。2008年に入りこの水着を着用した選手が次々と世界記録を連発した。2010年世界水連は水着の布地は「繊維を織る・編む・紡ぐという工程でのみ加工した素材」に限定とし使用禁止とした。

ドライバー(D1)で球をより遠く飛ばすことはゴルファーの永遠の夢だ。しかし、公式競技ではクラブの仕様にはプロ・アマとも規制がある。ヘッド容積(≦470cc)・長さ(≦48インチ)・反発係数(≦0.830)など。

若者のゴルフ離れとゴルファーの老齢化が進み「飛ぶクラブ」と「飛ぶボール」の売上が増えているらしい。(違反の)飛ぶクラブと飛ぶボールを知人から借り私的なラウンドで打ってみたら、何と250ヤードを軽く超え300ヤードに迫るような飛距離がでた。自尊心と個人的な顕示欲が(表面的には)満たされるけれども、私は使う気はない。

35歳から(硬式)テニスを始めたので、使用ラケットはデカラケだけ。ラケットの長さ・大きさ・形状(円・楕円)・弾性などの仕様には規制がない。普通は長さ69cm前後、重さ240〜380g程度。ラケットよりもストロークなどの打つ技術の方がゲームの勝敗を左右するからだと思われる。

2020.1.12春高バレーの女子決勝をTVで観た。身長180cm超の選手に交じり170cm未満の選手がスパイクのブロックアウトなどで得点をあげた。バレーボールのシューズにナイキの炭素繊維のプレートや強いバネを埋め込み、ジャンプ力を補助してやりたいと低身長の選手に同情した。

2012年ロンドン五輪(パラリンピック)金メダリストで右脚のないM・レーム選手(独)はオリンピック代表選考会も兼ねた2014年の(健常者を含む)独陸上選手権で8.24mを飛び優勝した。しかし、「カーボン繊維製の義足が跳躍に有利に働いたのではないか」と論議を呼び、結局独陸連は2位の健常選手を2016リオ五輪代表に選んだ。

国際陸上競技連盟は選手自身に「義足の反発力が競技に有利に働いていないことの証明を求める」とした。「義足の有利性」の証明(結論)は出ていない。証明のコストは数千万円とも言われ、義足の種類(弾性)も多く選手自身(!)が客観的な証明するのは不可能と思われる。身障者の義足での跳躍記録を健常者の大会に適用すべきではないと思う。

また、パラリンピックなど身障者の走り幅跳びでも、片足のない選手が強い反発力がある義足(道具)で踏み切る跳躍には違和感がある。義足は跳躍のための助走の補助具に限定すべきではないか。でも一方で「両足切断の身障者は義足がないと跳べない」という事実もあり、悩ましいが・・。

さらに、走り高跳びや走り高跳びで、炭素繊維入りの高反発プレートや鋼製バネを組み入れたシューズは使用できるのか?プロ野球の飛ぶバットや球は今どうなっているのか?など、スポーツと道具の関連はいくら調べてもきりがないほどである。

ここまでいろいろ講釈したが、結論を述べる(私見です)。

すべてのスポーツ(運動)の基礎的な能力は「人間の走る能力」である。その走力を「道具」で補助・促進することを競技で無制限に許すべきではない。適正なルールのもと人間の力そのもので競技するべきである。その判断基準を下に示す。この先に、ナイキの「魔法の靴」の行方の是非が見えてくるだろう。

第1. 競技の本質を損なわないレベルの規制とする。たとえば、走り高跳びで3m超の記録が出るようなシューズは不可である。
第2. 道具の仕様を世界のメーカーや競技者などに公開し万人が公平に利用できる。その販売価格が異常な高値ではなく適正である。

第3. 規制はプロもアマも順位を競う公式競技での使用に限る。
第4. 規制外の道具の練習や娯楽での使用は安全であれば使用可とする。たとえば、駅伝やマラソンの練習で、ナイキの厚底シューズよりもっと反発力が強いシューズであっても、脚(足)や腰を痛めることなく訓練でき、また一般ランナーが楽しくより速く走ることが出きるならば、それも可である。

2020年の東京オリンピック・パラリンピックの成功を心から祈念する。選手のみなさんは正々堂々と人間の力で限界に挑戦し、競技をがんばってもらいたい。私は精いっぱい応援する。(2020.1.14 千葉市在住)


◎デユポンが韓国でレジストを製造か:前田正晶

BSフジのPrime Newsで13日に司会の反町が「デユポンが韓国でレジストを21年から生産」というチャートを出して見せました。これに対して、ゲストコメンテーターの愛知淑徳大学の真田教授は「韓国は先走って具体性がない段階でもこういう発表をしたがる傾向がある。もしかするとLetter of Intentにサインした程度のことかも。今時デユポンが韓国に新規に投資するだろうか」との疑問を呈しました。

実は私は昨年の第3四半期にある信ずべき複数の筋から「韓国でも生産可能」と聞かされておりました。それがこのデユポンの韓国進出と同じ事か否かは不明ですが、そういうこともあり得るかと思わせられたと同時に「これも文在寅大統領の国内向けの選挙対策的な動きか」と思って聞きました。即ち、韓国で自製すれば韓国向けに輸出してきた日本のメーカーを窮地に追い込むとでも言いたいのでしょう。

因みに、デユポンは元はDuPont Nemours で、現在はDowと合併してDowDuPontとなっていると思うので                       

2019年12月25日

◆企業のカレンダー

                         馬場伯明


1986(昭和43)年に大学を卒業。川崎製鉄に入社し倉敷市の水島製鉄所に
配属された。あの頃「今年はどんなカレンダーを貰えるかなあ」は年末の
楽しみの一つだった。

あれから50年を超えた。日本中の大半の大企業から中小企業まで、自社を
宣伝するために(独自の)カレンダーを制作していた。意匠には日本の観
光地の四季の風景、伝統的な印象派の画家の絵、当代の著名な絵・書・彫
刻、特殊な素材や奇抜なデザインの現代美術などが使われた。今もまだ、
その「伝統」は残っている。

水島製鉄所は社員12,000人に加え下請業者8,000人を抱えていた。世界に
冠たる製鉄所には納入業者や下請け業者が群がっており、師走には責任者
が筒状のカレンダーを小脇に340万坪の広大な敷地に散らばる事務所など
を車で巡回していた。

私が8年間勤務した総務部の事務所の端っこには大きな段ボール箱が置か
れていた。部課長が貰ったカレンダーを女子社員が受け取り無造作にそこ
へ投げ入れていた。私たちは12月の半ばには好みのカレンダーを持ち帰り
他部課の社員にも配った。

人気があるカレンダーはすぐなくなる。大原美術館の絵画で構成されてい
るクラレ、斬新なカーデザインの三菱自動車、また、化学工業の旭化成や
石油の日本鉱業など、コンビナートの一流企業は費用をかけ華麗なカレン
ダーを制作していた。それらを誰もがほしがった。

では、(わが)川崎製鉄のカレンダーはどうだったのか。じつは、世の風
潮(トレンド)とは違っていた。世間では、俳優、歌手、プロ野球や体操
などのスポーツ選手、名所旧跡の観光地や山岳風景の写真、新旧の絵画作
品などが全盛であった。しかし、川鉄のカレンダーは漢字と数字だけの単
純なデザインだった。35×40cm大で1ヶ月1枚の12枚綴り。

ところが、世の中、何が幸いするかわからない。このカレンダーは隠れた
ところで人気があった。各所から求められた。その「人気」とは何だろう
か。それは、ずばり「(実際に)使える」ことである。

各所で非常によく使われていたのである。

漢字と数字だけのカレンダーは、一見、味も素っ気もない。だが、風景や
人物はカレンダーの本質ではない。年月日こそ実用である。企業でも評価
が高かったが、とくに役所や公共施設では重宝がられた。

なぜ人気があり評価が高く重宝されたのか。次のことが考えられた。

第1.(変な)絵がないのがよかった。役所などには常に不特定多数の人
が訪れる。銭湯の壁画のような富士山の風景や特定の美人俳優の笑顔で
あっても万人が好むわけではない。

第2.カレンダーを切り離し前後の月を並列に掲示すれば業務予定の確認
がしやすい。1〜12月を事務所に並べて貼っている企業もあった。後年、
ある企業が3ヶ月分を縦につなげて見ることができるカレンダーを作った。

第3.とにかく目立たないデザインであり場に溶け込んでいた。そう、事
務所の壁に黒や赤の太字の数字が「で〜〜ん」と並べば、事務所内の環境
や雰囲気が乱れ、微妙な違和感に包まれる。

川鉄の「数字と曜日だけのカレンダー」は(身贔屓で言えば)控え目で品
がよかった。地色は薄いグレーと水色系の落ち着いた中間色。文字や数字
は太めではなく黒系統だがどぎつい真っ黒ではない。字体はすっきりした
ゴシック体であり遠くからも視認ができた。土日・祝日の薄い赤色の数字
が自然なアクセントになり好感度を上げていた。

第4.これが決定的なダメ押しであった。つまり「川崎製鉄」という企業
名は表示されているが小さく色も薄く目立たない。「株式会社」の文字も
ない。常識的な企業では「せっかく高価なカレンダーを制作するのだから
自社名とロゴマークを強くアピールしなさい」となる。カレンダーを貰う
相手ではなく自社ファースト(自利)の姿勢なのだ。

ところが、制作企業の意図とは反対に、黒々とした太い企業名とロゴを前
に、カレンダーを受け取り掲示する企業・役所・家庭などはたじたじとな
り、結果、掲示をやめる。ただし、優れた絵画や風景写真のカレンダーで
は最下段の企業名を切り捨て掲示する人もいるという。

それに、県市やなどは特定のカレンダーの企業と癒着しているのではない
かなどと勘ぐられるのを嫌う。だが、企業は企業名やロゴが見えなくては
何のためにカレンダーを配布するのか、わからなくなる。

ということで、絵がなく企業名の文字も小さい川崎製鉄のカレンダーは人
気ものとなった。では全国の人気が低いカレンダーの末路はどうなるの
か。企業、役所、学校、家庭で選ばれ1年間掲示されるカレンダーは幸運
である。余ったものはどうなるのか。私の経験では妻や家族に気に入られ
ないものはすぐ「ボツ」になる。

しかし、カレンダーは紙質がいいので転用が効く。白い裏面は幼児のお絵
かきや落書きに適する。カットして揚げた天婦羅の受け紙にもよい。丈夫
で白く大きさも適度だからイベント会場での観客の順路指示用紙にもでき
る。練習用画用紙の代わりにもなる。

しかし、それでは「トホホ・カレンダー」だ。本来の宣伝目的が果たせな
い。近年カレンダーの年末配布の宣伝効果を疑問視し配布に消極的な企業
が増えているらしい。「猫も杓子もカレンダー」という時代は去ったのか
もしれない。

それでも、上質な絵付きカレンダーは不滅である。生き残っていく。たと
えば、代表的な印刷企業の大日本印刷のカレンダーは出色である。絵の部
分と数字・曜日のバランスがいい。何よりも「大日本印刷」が小さい文字
で右下端にある(日付の数字の面積の1/5!)。小さくても「どの会社の
ものだろうか?」と逆に大きな関心を持たれる。

もう一社あげる。大林組のカレンダー。日本の伝統的な建築を構成する部
位を特集し日本の伝統美を表現している。2019年のテーマは「支(構
造)、2020年は「窓」だ。居間に掛ければ空気がなごむ。しかも、社名は
漢字ではなく「OBAYASI」の小さな文字だ(日付数字の1/8!)。緑の扇形
ロゴが最下段中央にちょこんとあるだけ。結果として印象に残るすばらし
いカレンダーである。

この2社の人たちとは川崎製鉄に勤務していた頃たまに飲食を共にした。
カレンダーがいいと「いい企業だなあ・・」とも思ってしまう。いいカレ
ンダーは絵入りであっても企業の宣伝のツールとしてなお捨てがたいもの
なのである。

国宝級の蒐集品の図版が毎年採用される上品な企業カレンダーがあり、私
は古くからのファンである。が、ただ一つ不満がある。企業名の表示が大
きいのだ。「小さければねえ〜〜。貴社名は切り取れない。失礼だ
し・・」といただいた方にぼやいた。じつは、再来年(2021年)のカレン
ダーにひそかに期待している。(2019.12.25 千葉市在住)

追記(長い追記ですがお許しを・・・)
1. 大日本印刷と大林組のカレンダーを紹介したが、それがすべてではな
い。私が知っているだけ。他にもいいものがあると思う。
2. 企業カレンダーではなくオリジナルな創作カレンダーがネットで売ら
れている。個性的なものが多い。池袋の専門店で買ったことがある。
3. 小形の卓上式のカレンダーが流行している。デザインに趣向を凝らし
たものが多い。「2020開運歴」(藪内佐斗司・東京藝大教授謹製)は伝
統・荘厳・滑稽・(そして)美しい・・・最高である。

4. カレンダーと言えば、恒例のというか、おなじみの「三日坊主めくり
ご教訓カレンダー」が健在だ。2020年大賞は、2020.10.6〜8の「アウト0
時−シンデレラ」である。落ち込んだ夜であっても、翌朝にこのカレン
ダーを眺めれば元気よく出勤できる。
5. そして、川鉄の人気のあのカレンダーは、その後どうなったのか。私
は知っているけど・・・(笑)(了)

2019年10月23日

◆二日市保養所を忘れるな

馬場 伯明



本誌(第5197号2019.10.13)に筑紫野市の岡具博さんが「引揚孤児を救っ
た『聖福寮』」について感想を書いてくださった。私は1944年生まれだ
が、同年代の方だろうか。うれしい。

《満州から引揚げた父・・・明日はたまたま母親の七周忌の法事を郷里の
久留米の菩提寺で行います。明日参加する私たち兄弟三名は、この機会に
両親にしっかり感謝をささげたいと思います。馬場さま有難うございまし
た。福岡県筑紫野市在住 岡 具博》と。

岡さんは「二日市保養所」についての下川正晴氏の文章を紹介されてい
る。二日市保養所とは、在外同胞援護会救援部の泉靖一氏、田中正四氏
や、山本良健氏、橋爪将ら、京城帝国大学卒の医師らの手でつくられた。
女性引揚者の「不法妊娠(*1)」の堕胎(中絶)手術のための極秘の医療
施設である。

《第2次世界大戦後、引揚者の中でソ連兵や朝鮮人、中国人等(*2)による
度重なる強姦(性的暴行)を受けた日本人女性に対する堕胎手術や性病の
治療が(福岡県の)二日市保養所で行われた。当時堕胎は違法行為(堕胎
罪)であったが、(国は超法規的措置として黙認し)施設閉鎖まで約500
件の堕胎手術が実施された。優生保護法の施行に伴い、全国の指定医師が
中絶手術を行えるようになったため、1947年(昭和22年)10月に二日市保
養所は閉鎖された》(Wikipediaより)。 

関連の本から二日市保養所でのいくつかの場面を抜粋する。

まず、「村石正子看護婦からの談話聞書(2011.12高杉志緒:*高杉)」よ
り。*高杉151p《・・命がけの堕胎(中絶)等の手術でした。麻酔もない
状態で子宮に根を張っている胎盤ごと剥がされるのですから(女性の)痛
みは想像を絶するものがあります。しかし、誰一人として、大声を出して
暴れたり取り乱したりする人はいませんでした。黙って歯を食いしばり耐
える女性ばかりだったのです(村石)》

とはいえ、麻酔なしの中絶等手術である。痛みに耐えつつも「チク
ショー!」と呻(うめ)いた女性がいたという。自分を暴行し蹂躙した獣
欲の人面が浮かんだのであろう。


「水子の譜(1979.8上坪隆:*上坪)」より。
*上坪194p《「(不法妊娠」の堕胎等手術には)・・・この風呂場を利用
しました。(ここを)急ごしらえの手術室に橋爪(将)先生が改造しまし
た(池上澄江看護婦)」。この風呂場でとりあげられた妊娠後半期の赤
ちゃんはしばしば泣き声をあげたという。

生きて生まれてきたのである。弱いうぶ声をあげて泣く赤ちゃんを看護婦
たちはどうすることもできず、風呂場の片すみに置いていたという。泣き
声はいつか細くなりそのうち冷たくなっていった。「(死んでいった子
の)泣き声は今も耳にこびりついています(池上)」》

*上坪195p《橋爪(将・医師・手術主任)氏は、・・8ヵ月以降の堕胎手術
には穿頭手術なるものを施すことにした。「赤ちゃんの頭が見えてきたと
きですね。その頭に特殊なノミのような器械を入れ(打ち込み)ま
す。・・・頭がつぶれて中の脳が出てきます(橋爪)」。衰弱した母体を
保護する目的もあったし同時に(赤ちゃんの)泣き声を打ち消すことにも
なった》。

*上坪198p《・・京城の女学校の同級生が患者として運ばれてきた。彼女
は池上さんの前で「こんにちは」といった。池上さんは「あっ、・・さ
ん、まあ、あなた」と声を出したっきり、何もいえなかった。その同級生
も同様で、涙だけ頬に伝わっていた。・・手術のときも立ち会わなかっ
た。帰るとき「どうもありがとう」「おだいじに(池上)」と短い会話を
交わしただけだった》。彼女の行方を池上さんは知らない。

「談話聞書(高杉志緒)」や「水子の譜(上坪隆)」に続いて「忘却の引
揚げ史〜泉靖一と二日市保養所〜(下川正晴:元毎日新聞論説委員・
2017.8.5・弦書房 *下川)」を読んだ。「水子の譜」から38年後の出版で
あり、集大成のような本だ。山本良健医師のご遺族から私の姉(医師)が
いただいた。私が2歳の頃の出来事である。順番に読むにつれ、くやしく
て、悲しくて、なかなか読み進むことができなかった。

先の第5195号(2019.10.12)で紹介した京城帝国大学の教師だった泉靖一
氏たちが、帰国し必死の思いと行動で「聖福寮」に続き、苦悩する引揚げ
女性のために「二日市保養所」を開設し運営した。中絶手術は違法行為と
自覚しつつも、職を賭して行なった人道的な行為である(*3)。

今ではまったく忘れられてしまっている二日市保養所を立ち上げ運営した
人たちの奮闘と努力の足跡を辿ってみたい。

二日市保養所設立の中心人物は、田中正四氏と泉靖一氏の2人だ。MRU(移
動医療局)を「在外同胞援護会救援部」に改編し、「聖福病院」を運営し
ていた。そして作ったのが二日市保養所である(*下川47p)。東京での
設立工作は松田令輔(九州地方副総監)と泉靖一が中心だ。泉が巧みに連
携プレイし、この困難な事業を完遂した(*下川72p)。なお、保養所の
敷地は2000坪、木造2階建、延床面積128坪。

二日市保養所の組織は、内医師2名 橋爪将(所長)秦禎三、看護婦10名
(内3人は産婆資格あり)、事務職員3名(内1名は事務長)雑役4名(*上
坪184p)。橋爪は京城帝大医学部同期の山本良健(「聖福寮」寮長)が口
説き落とした(*下川72p)
博多港には累計139万人余が引揚げた。その中に「不法妊娠」等の多くの
患者がいる。病院はできたものの、どのようにして(引揚者の)患者を収
容するのか。

2つの方法をとった。1つは、乗船地の診療所で問診し引揚船の船医へ相談
させる。もう1つは新聞広告。「・・いまはしき病に罹り、或は身の異状
におぞましき翳をまとひて家郷に帰り、親兄弟にも明かされず・・暗澹た
る憂悶の日々を送っている御婦人・・」「不幸な御婦人方の、救援に最善
を尽くし・・お待ちして居ります(*上坪182p)」と婉曲表現で誘った。
でも、読めば、本人にはわかる。患者が集まってきた。

保養所の目的は、患者の健康を回復させ、堕胎手術を済ませ「軽い体」で
ふるさとへ帰ってもらうことだ。カルテや入院手術記録は廃却、中絶の子
は敷地内に埋葬した。1982年、済生会二日市病院により、その跡に祠がつ
くられ水子地蔵が安置されている。毎年5月14日には慰霊祭が行われてい
るという。

その横には、前年の1981年、元修猷館高校教師の児島敬三氏が私財を投
じ、医師や看護婦たちを顕彰する「仁」の1字を彫りこんだ「仁の碑」を
建立した。

堕胎等手術の現場の写真を探検家・写真家の飯山達雄氏が撮った。泉氏が
依頼したものだ。「この事実と惨状をぜひ記録しておかねばならない。飯
山さん頼む」と(*上坪168p)。貴重な歴史的記録(証拠)となった。飯
山氏は朝鮮で旧制中学時代の若い泉氏らに登山や探検を指導した人であ
る。記録を残すという発想は文化人類学者の性(さが)であり、冷徹な泉
氏の面目躍如たるところである。

だが、この写真は33年後の1979年3月「水子の譜(*上坪)」で初めて世に
出た。同年10月、飯山達雄氏は「遥かなる中国大陸写真集3 敗戦・引揚
げの慟哭(*飯山)」(国書刊行会1979.10.20)を出版している。

私が読んだ限りの書籍・文献等では、泉氏らはソ連、中国、朝鮮人らの悪
行を糾弾していない。泉氏たちの認識はこうであった。「戦争に暴行はつ
きものである。ソ連兵は・・何でも欲しがった。粗暴な者が多かった。日
本人、朝鮮人の女性にも見さかいがなかった。・・娘が目の前で強姦さ
れ、いきり立った父親が銃殺された。そうした女性たちが日本に上陸して
くるに違いない(*上坪176p)」と。だから、目の前の女性の緊急の大問
題に真正面から取り組み、一刻も早く解決することに集中したのだと思う。

泉氏は仕事人間である。山も学問も忘れてどろどろになって働いた。東奔
西走、東京博多。朝鮮への密入国なども。寝る間もなく働き、聖福寮や二
日市保養所を開設し1947年10月東京へ去った。疾風怒濤の働きで、困った
人を助けた。まるで鞍馬天狗のようである。が、聖福寮の従業員への置手
紙にあった歌は泉氏の心境を静かに物語っている。

我がさがは旅の心のひたぶるに人見ぬ国を求めんとす  泉靖一

その後、泉靖一氏は、明治大学助教授(1949.4)。東京大学東洋文化研究
所助教授(1951.11)に転出。東洋文化研究所教授に昇任した
(1964.11)。1970年4月に同研究所長。屈指の文化人類学者として、国内
外で活躍。アンデス古代文明調査の業績に対し、ペルー政府から最高勲章
を贈られている。正四位勲三等旭日中綬章。1977.11.15に55歳の若さで死
去。(Wikipedia)。

結論に入る。冒頭、岡具博さんが紹介された下川正晴氏の文章を読む。
《地元の二日市中学校は今年(2016)夏、引揚げと二日市保養所の悲劇を
演劇化した「帰路」を上演した。私の連載記事にも地元から反響があっ
た。少しずつだが「二日市保養所の悲劇を語り継ごう」という動きが出て
きた。この動きをさらに高めなければならない》(「二日市保養所」の悲
劇を語り継げ〜引揚げ女性への性暴行と中絶 下川正晴2016.12.7「Net
IB News」から)(*4)。

同感である。二日市保養所であった女性の悲劇の歴史事実とその克服の方
向を後世に語り継がなければならない。同時に、その跡地に埋まり眠って
いる水子らの魂に、遠くからではあるが、私は頭(こうべ)を垂れ、合掌
し、追悼の誠を捧げる。(2015.10.23千葉市在住)

(追記)

(*1)「不法妊娠」:強姦(性的暴行)による妊娠のことを優生保護法施
行以前はこう呼んだ。不法妊娠であっても堕胎(人口妊娠中絶)は有罪で
あった。人工妊娠中絶とは人工的な手段を用いて意図的に妊娠を中絶させ
ることであり、刑法では堕胎という。1948(昭和23)年優生保護法が成立
し中絶が一定の条件により合法となった。

(*2)強姦(性的暴行)妊娠・性病感染および暴力・殺人・略奪などにつ
いて、ソ連・朝鮮・中国などからの謝罪や補償は一切ない。

(*3)佐世保港上陸の引揚者約139万人の中の被害女性の堕胎等手術は、
九州大学産婦人科教室の管理下で、福岡と佐賀(中原)療養所などで行わ
れた。また、全国のその他数か所で実施されたと思われる。(*下川
88p〜90p)。

(*4)二日市保養所での中絶(堕胎)等手術について、現代のジェンダー
論により批判する人がいる。たとえば「満州へ渡った女性たちの役割と性
暴力被害」松田澄子・山形県立米沢女子短期大学教授(2018.3)。他の論
文も読み必要なら後日反論したい。

2019年10月12日

◆引揚孤児を救った「聖福寮」

馬場伯明


1945年8月15日、日本の敗戦時の海外に残留していた日本人は約660万人。
軍人・軍属が330万人、一般人300万人。1946年末までに約500万人が引揚
げたと言われる。

ポツダム宣言第9項の軍隊優先帰国条項により軍人・軍属は優先的に本土
へ帰還した(復員者)。一般人(引揚者)は取り残され遅れた。ソ連は
軍・民約57.5万人をシベリアに抑留し強制労働に従事させ、約5.5万人が
死亡した。

1946年3月まで満州には105万人がおり、同年5月から引揚げ本格化した
が、(日ソ戦での死亡者を含め)満州からの引揚者の死者は約24.5万人、
うち満蒙開拓団員が8万人である。民間人犠牲者数では、東京大空襲や広
島・長崎への原爆投下、さらには沖縄戦を凌ぐ。

朝鮮北部からは20万人が38度線を越え帰国を果たしたが、栄養失調・飢
え・病気で3万人以上が死亡した。一方、朝鮮南部からは1946.春までに40
万人が引揚げた。(➠引揚げの経緯は主にWikipediaより転載)。この間、
ソ連軍や朝鮮人らによる強姦などの女性の被害も多かった(女性の被害は
「別稿」とする)。

「流れる星は生きている(藤原てい)」は、6歳、3歳の兄弟を連れ、生後
1ヶ月の長女を背負い、満州の新京から引揚げてきた苦難の記録である。
作者には筆力がある。作家新田次郎(本名:藤原寛人)の妻。3歳の次男
は数学者の藤原正彦氏(76)。後に「国家の品格」など著書多数。

私は1944年10月生まれ。長崎県島原半島の小中高校の同級生には引揚者が
多い。小学校の頃は引揚者の家族を蔑み一段下の人間だと思っていた。そ
の後、「引揚者」の事実を知り、大いに反省した。

S君(男性)の父母は彼と姉を連れ38度線を突破し帰国した。Yさん(女
性)家族は満州から引揚げたが、故郷に耕す農地はなく山林を開墾した。
一方M君の家族は中国では裕福だった。手持ちのお金を他人に持たせ(貸
し・与え)奉天から帰国した。T先生(後に校長から教育長)はシベリア
抑留で塗炭の苦しみを味わった。Rさんの父は引揚げてきたが故郷にいい
仕事はなく家族は苦労を重ねた。

満州・朝鮮などからの引揚の道程は悲惨の一語に尽きる。栄養失調・飢
え・病気の連鎖である。引揚の話は涙なしには聴けない。しかし、戦後74
年、それを直接語る人は私の周りにはもういない。

本題の「聖福寮」の話に入る。まず、本拙稿で参考にした図書の一部を記
す。できれば手に取り読んでほしい。「流れる星は生きている」(藤原て
い)「水子の譜」(上坪隆)」「日本に引揚げた人々(高杉志緒)」「忘
却の引揚げ史」(下川正晴)。

聖福寮の概要を紹介する。194年8月15日、福岡市に引揚者医療孤児収容施
設「聖福寮」が開設され、まず44人の引揚孤児を受け入れた。1947年3月
18日に閉寮し最終的に164人を収容し114人を身寄りに引き渡した。死亡者
4人、公共の健康回復施設に40人移した。残留者が6人。

この聖福寮の開設と運営に主導的に関わったのは(1)京城帝国大学の教
師グループと(2)月刊誌「婦人の友」の女性読者組織の「友の会」グ
ループである。その中から何人かを紹介する。 

泉 靖一さん(いずみ せいいち 1915.6.3〜1970.11.15)。京城帝国大学
法文学部卒。助教授(当時30歳)。太平洋戦争敗戦による朝鮮統治の終了
と大学の閉鎖で、1945年12月妻子3人を追い福岡市博多へ引揚げる。占領
期の数年間は博多の聖福寺境内に設置された在外同胞援護会救療部に勤務
した。後に東大教授、文化人類学者、インカ遺跡の発掘・発見者。

企画力、行動力、説得力が抜群の正義派。土地の調達、医師・職員の確
保、物資の調達、困難な開設初期資金の調達を担当し、成功する。泉さん
の八面六臂の活躍で、あれよあれよという間に聖福寮は完成した。

1946年春、資金調達を含めた折衝のために、朝鮮人医師と偽称し博多から
帰朝船に乗り込み釜山へ密航した。再渡航で米軍(CIC)に逮捕された
が、堂々と「裸同然で逃げて来た同胞を助けるためだ」と主張し釈放され
ている。人助けのためだけにそんな無鉄砲なことをする人は当時皆無だ。

疾風怒濤のように働き、「聖福寮」を作り1947年10月東京へ去った。「聖
福寮のおなつかしい小母さん方へ」と置手紙を書き、歌を残した。

我がさがは旅の心のひたぶるに人見ぬ国を求めんとす  泉靖一

次は山本良健さん(やまもとよしたけ、当時34歳)。京城帝大医学部卒、
朝鮮全羅北道で勤務医師。泉さんの親友。聖福寮の寮長となる。妻高子さ
んは4人の子供を連れて元山から引き揚げた。山本さんは妻子に遅れ1946
年2月に福岡へ戻った。後に聖福子供医院を開業・運営した。

1946年早春、石賀信子さんは1通の電報を受け取った。「引揚者の親類つ
き合い始めたし様子知らせ」。発信人は(「婦人の友」創設者の)羽仁も
と子氏主宰の「友の会」中央本部である。石賀さんは東京の自由学園卒業
生だが、勤務半年の福岡女学院をやめ聖福寮で働くことを決心した。まさ
に「いざ、鎌倉!」の心意気である。

「婦人之友」は引揚援護事業を推進し全読者(友の会)に引揚家族への
「親類づきあい運動」を呼びかけていた。石賀信子さんはすぐ発信する。
その電報に呼応し、大分から一人娘を連れ笠村田鶴さん、長崎からは内山
和子さんが駆けつけた。内山さんを追い長崎から活水女専英文科2年の松
重一江さん(18歳)が退学し来福した。福岡友の会青年部から福岡女学院
卒の山崎邦栄・邦歌さん姉妹も保母として加わった。

このようにして、寮長山本良健さん、医師藤本茂・馬場静子(小児科医)
さん、看護婦千原辰子さん、保母石賀信子・内山和子ほか10数名の保母・
スタッフの体制ができ、活動が開始された。

聖福寮の最大の目的は、引揚孤児に食事を与え病気を治療し、彼らの身元
を調査し親類縁者を見つけだし、病気回復後に引き渡すことである。開所
からすぐ多忙で凄まじい日々が続いた。買出し、調理、食事、風呂、便
所、運動、遠足、クリスマス等行事、検査、治療、就寝、日誌、記録など。

保母の日誌より。「真っ赤にただれた目と疥癬だらけの細い手足」「夢遊
病者みたいだ。深夜にたった4つで2階の職員室まで行って眠っていた」
「母の遺骨を胸に抱いた子供は、それをなかなか手放そうとはしなかっ
た」「(子どもが)標準体重に近づくのはとてもうれしいことでした」。

栄養失調と病気の2歳の赤ちゃんの荒川富夫ちゃんが死んだ。保母の山崎
邦栄さんの保育日誌(1946.9.11)より、長いが、これは引用する。

《おいしいお月見だんごとぜんざいをいただいて、子ども達が床について
間もなくだった。5日前に入寮したばかりの2歳の(荒川)富夫ちゃんが遂
になくなる。私どもの最初の犠牲者であれば、種々の思いが皆の胸一杯に
なる。お月見の野の花で花輪を作り、山本(良健)先生、藤本先生、庶務
の堀江さんを加え、お通夜をする。

骨と皮ばかりになった弟(の富夫ちゃん)を、(引揚げ途中で亡くなっ
た)母に代わってたった1人で弱い肩におんぶして、遠い中国の吉林から
この博多まで、固い高粱飯を自分の口でかみくだいては食べさせてきたと
いう12歳のお姉さんの(荒川)文江ちゃんの悲しみはなぐさめようもな
い。今夜は心も体も疲れすぎて床に入ってもなかなかねつかれな
い。・・・冴えた月がきょう1日のこの寮での出来事を静かに見守ってい
る》(保育日誌終わり)。

保母たちは、文江ちゃんの所作を見て、亡くなる前の母親がきっと同じよ
うにして栄養失調の幼い弟(2歳)に口移しで食べさせていたにちがいな
いとわかったのである。

応召された父の行方はわからなかった。文江ちゃんは群馬県の叔父斉藤光
得さんに引き取られた。参考図書の著者らの調査でも彼女のその後の消息
は追跡できていない。2019年10月現在生存ならば95歳になる。

聖福寮は開設の7ヵ月後の1947年3月18日に閉寮した。その後、宿泊託児所
「聖福子供寮」➡「保育所(1947認可)」➡「いずみ保育園
(1952〜1965)」と変遷した。1965年に土地を聖福寺へ返還することとな
り閉鎖となった。

聖福寮の開設から18年9ヶ月、引揚孤児164人を含めここに在籍した園児は
合計981人を数えた。この地は児童福祉施設の養護施設・乳児院・保育園
の全国の先駆けとなった。石賀信子さん、山崎邦栄さん、内山和子さん
は、その後も、それぞれの場所で保母などの仕事を続けた。

私には次の疑問がある。しかし、その答えはわからない。
Q1:(シベリアへの抑留者以外の)関東軍の軍人は、引揚途中の日本人同
胞を、ソ連軍人・朝鮮人・中国人らの略奪や強姦などから、なぜ守らな
かったのか?(敗戦で関東軍は「馬糞の川流れ」状態?)

Q2:聖福寮は、なぜ京城帝国大学の教師グループと「婦人の友」の「友の
会」グループだけなのか?本土の国(官僚)、地方公共団体(公務員)、
大学(教授ら)、宗教団体(寺社等)などは、なぜ引揚孤児の支援に消極
的だったのか?(自分のことだけで精一杯?)

Q3:不思議に思うこともある。泉靖一、山本良健、石賀信子、内山和子さ
んたちは(参考図書の記述の範囲では・・)救援活動の停滞にあまり不満
を言わない。終わったことを悩まない。また、引揚者を苦しめたソ連・中
国・朝鮮を非難しない。またアメリカも。(そんな余裕もなかった?)。

聖福寮に集い引揚孤児を救った人たちの思いやりの心と祖国愛に思いをい
たせば涙がにじむ。敗戦直後の我利が蔓延した時代に、このような利他心
を有した日本人がいたのだ。阪神淡路大震災や東北地震・津波などの被災
地に何回か参加した私のボランティア活動とは次元が全く異なる。

敗戦の混乱の時代の福岡市(博多)に、聖福寮の人たちは祖国愛と奉仕の
精神で日本人引揚孤児を救った。国会議員や高級官僚ではない。左翼でも
右翼でもない。2019年の今聖福寮は忘れられている。いや、元々知られて
いない。だが、その存在は淡いまぼろしのように輝きつづける。

聖福寮で引揚孤児を救った人たちに敬意を表し心から感謝する。その尊い
偉業を私たち現在の日本人は決して忘れてはならない。(2019.10.8千葉
市在住)