2017年05月18日

◆対中国外交に思う

真鍋 峰松



まず、この文章をお読み頂きたい。

「正道を歩み、正義のためなら国家と共に倒れる精神がなければ、外国と満足できる交際は期待できない。その強大を恐れ、和平を乞い、みじめにもその意に従うならば、ただちに外国の侮蔑を招く。


その結果、友好的な関係は終わりを告げ、最後には外国につかえることになる。とにかく国家の名誉が損なわれるならば、たとえ国家の存在が危うくなろうとも、政府は正義と大義の道にしたがうのが明らかな本務である。・・・・戦争という言葉におびえ、安易な平和を買うことのみに汲々するのは、商法支配所と呼ばれるべきであり、もはや政府と呼ぶべきでない」。 


キリスト教信者として名高い内村鑑三氏の著書「代表的日本人」中の西郷隆盛の言葉である(1908年原著 岩波文庫 鈴木範久訳)。


この言葉の真髄は“ただ相手国の強大さに萎縮して、うまくやろうというような処世術的外交は避けるべきである。 そうすると、かえって侮られ、それまでの友好関係もくずれてしまう”という一点にある。
 

読めば、この文章、これまでの我が国の対中国外交への痛烈な皮肉と解釈できるような気がする。 戦後数十年かかってここまできた日中の外交関係。この偉大な先人の言葉を無視・軽視するような事態を招くことによりその成果まで灰燼に帰すことのないよう願いたい。


また、過去の日本外交においてややもすれば多々見受けられた“商法支配所”、即ち、経済的利益を重視するあまり、我が国外交を誤らせたという事態も同様である。

幸い、今回の尖閣列島を巡る二国間の衝突に関しては、経済界や財界からの、紛争の早期解決だけを願う声も少ないように思う。それにはそれなりの理由があるのだろう。


周知のように、近年の中国の居丈高な過剰反応は尖閣列島周辺海域の石油等の資源開発に絡んでのことであり、日本においてもこの側面が熟知されている。 これが今回の場合、経済界・財界からの横槍や雑音がない理由であろう。

著しく経済力を増した中国にとって経済カードは強力な武器になる。我が国経済にとってレアアースの輸入停止は甚大な影響を及ぶすとしても、中国経済にとっても多少影響があろう。


だが、全てにおいて政治が優先する社会ではそれは問題にならない。そこで参考になるのは、米国のグーグル社の態度であろう。

自由主義社会の柱とも言うべき情報の自由を求めて中国当局と真正面からぶつかったのだが、これも最悪の場合には撤退もやむを得ないという同社の覚悟があってのこと。

果たして、口を開けば自由主義経済・市場経済の効用を説く日本の財界・経済界の人達にこの覚悟が有りや無きや。 史上初の財界人から登用された日本の中国大使、これにどう対処していくのか、注目したい。


また、事件に関する新聞テレビ等の報道やコメンテーターの解説を見聞きしていると、相変わらず、中国側の国内事情、つまり国家指導者間の主導権争いや貧富の過大な所得格差問題などを取り上げ、訳知り顔で背景説明をしているように見受けられる。

このこと自体は事実なのであろうが、だからどうだと言いたいのだろうか。日本の主張を手控えよ、とでもいうのだろうか。


それより、国際紛争対処の常識として、これら外交紛争に関する政治上の議論は国内だけで止めるべきであり、交渉相手国の国内諸事情を参酌し過ぎる人間や最終的な解決策を持たずして、相手国に乗り込む愚を犯す政治家等が多過ぎるのも困ったことではないだろうか。

こういった国内の無責任な議論や対応で、対外折衝の任にある者の足を引っ張って何になると言うのか。 老獪な中国外交のこと、日本国内の議論の誘発・分断が計られ、結局は日本の国益が損なわれるだけだろう、と思う。


皮肉なことに、中国古典である孟子の離婁篇第四に「夫れ、人は必ず自から侮りて 然る後によそ人もこれを侮り、家は必ず自から毀(こぼ)ちて 然る後によそ人もこれを毀ち、国は必ず自から伐(やぶ)りて 然る後によそ人もこれを伐う。」とある。


つまり、人間というものは、自尊心を失って、自身を軽蔑するようになると、その気持が言動に現れて卑屈、投げやりになり、それが他人の軽侮を招く、他人に軽蔑される原因は、自分が作っているのだ。


自らを持することが厳でなくなると、家を治めることもできなくなって、家は崩壊する。内輪がしっかりしてさえおれば、外圧だけでは決して壊れるものではない。


国家とても同じことで、内に姦邪の臣がはびこり、君主に統御の才なく、国民に不平不満が高まるという末期症状が現れて、他国に攻め滅ぼされるわけであり、明主賢臣がいて善政を布いている限り、自壊作用が起こらず、従って他国の攻め込む隙はない、というのである。


この紀元前4世紀の孟子の言葉は、ひとり我が国のみならず、現代中国の為政者への痛烈な皮肉となり得ると受け止めるのは、私だけではあるまい。

2017年05月02日

◆童話に教えられること

真鍋 峰松


まず、この話をお読み頂きたい。
 

「オオカミが羊の群れを襲う機会をうかがっていたが、犬が見張っていて手を出すことができないので、目的を達するために策略を用いることにした。オオカミは羊に使者を遣って犬を引き離すように求めた。
 

自分と羊とのあいだの反目の原因は犬であり、犬を引き渡しさえすれば、羊とのあいだに平和が永遠に続くだろうとオオカミは言った。何が起こるのかを予見できない羊は犬を引き渡した。


いまや絶対的優位に立ったオオカミは、もはや守る者のいなくなった群れをほしいままに食い荒らした。」(「新訳イソップの寓話集」塚崎幹夫訳 中公文庫)。


以前、読んだ童話の中の話である。日本の昔話や童話の中では、子ども向けに最後の下りがメデタシ、メデタシ、そして二人で幸せに暮らしました風、或いは勧善懲悪の教訓話が多い。
 

だが、西洋の有名なイソップやグリム兄弟の童話集にはハッピー・エンドばかりではなく、相当にアンハッピー・エンド、残酷な結末で終わる話が多いという。
 

これは、欧米系人と日本人との民族性の違い、とりわけ日本人の現世肯定の現実主義と、子供には夢と希望をという一種の理想主義とが合体したところから生じたのであろうか。


童話の専門家でもない私が、このことを詳しく述べるのは本題ではない。


私がこの話から直ちに連想したのは、昨今の米軍基地の移転問題。いつしか日本近海でキナ臭い話が充満する昨今、基地をどこか国外に移転しろと言うのは、果たして如何なる外国の、或いは宇宙人の策略なのかどうか、私には専門外の話。


だが、この童話、如何にも当て擦り的な寓話のように思えてならない。明らかに分かるのは、昨今の米軍基地問題を巡る議論では、どこか基本的な問題が抜け落ちているのではないのか、ということ。
 
つまり、この寓話での犬の果たす役割〜国の安全保障体制の問題である。 


最近の鳩山首相の発言の中にあった、色々と勉強している中で、仰止力のためには米軍基地の分散化には一定の限界があるとの発言に、びっくり仰天するしかなかった。
 

一体、この人物は何年の間、国会議員を勤めて来たのだろうか。それなのに一番大事な国の安全保障について、首相になってから勉強とは。 しかも、この後に及んで仰止力について初めて理解したというのか。惟、唖然とするしかない。
 

国の果たすべき役割の最たるものの代表例は防衛・外交、司法。 戦後の防衛・外交の中心的役割を担ってきたのが日米安全保障条約。それ位は誰でも簡単に解ること。


片務的契約だの、何だのという議論はさて置き、明白なのは、現在の日本自身の防衛力だけでは、近代戦闘では非常に心もとない。
 

米国の軍事力を背景にしなければ、とてもじゃないが周辺の好戦的・反日的な国に太刀打ちできるものではない、ということ。


この件に限らず、今後一体、この国はどこを向いて動いて行くのだろうか。確たる方向性があり、操舵手はいるのだろうか。
        

政治と童話と言えば、イソップ童話の北風と太陽の話。言うまでも無く、これは隣国韓国の対北朝鮮政策の話。
 

三代前の大統領 金大中氏及び後継者盧武鉉氏と、現在の李明博氏の対照的な政策を表現することは、夙に有名である。
 

現時点でも最終判断は保留状態のようだが、これらの政策の行き着いた先が、最近の北朝鮮軍による韓国艦艇への攻撃と数十人の戦死と多数の負傷兵員の発生とすれば、私には自ずと優劣の差も判明したようにも思える。


が、これも鶏が先か卵が先か、どちらが原因で結果なのか、素人眼には結論を出し難い面もある。


最後に、もう一つ。


「兎が獣の会議に出かけてゆき、これからどうしても万獣平等の世にならなければならぬと、むきになって論じ立てた。獅子の大王はこれを聞いてニコニコ笑いながら、兎どん、お前の言うのは尤もだの。だがそれには、まず儂どもと同じに、立派な爪と歯を揃えてからやって来るがいい、と言った。」 

2017年04月23日

◆公財政を揺るがす「抗し難い圧力」

眞邊 峰松



私は、本欄で、<特に大阪のように本来豊かな税源を持つ地域でも、現行税配分方式ではその多くが中央に吸い上げられ、辛うじて地方交付税の配分で息を繋いでいる情けない実態>と書いた

更に、<大阪の地盤沈下が叫ばれて久しいが、この主原因は在阪企業の利潤中心の東京移転ではなかったのか、果たして府なり大阪市の力でこれら企業の東京移転を阻止できたのか、これら民間企業経営者の本音の意見を聞きたいところだ>とも指摘した。

その上で、<今後日本経済の復元に成功したとしても、結果的には国と東京の一人勝ちとなり、大阪の地盤沈下が一層明白になり、府下の公財政の改善を求められたとしても、制度の抜本的改革なしには、一歩も進まない実態が明らかになると思われる>と警鐘を鳴らした。

そこで、改めて私の考えを述べてみたい。私も、かっての府下公財政のあり方を決して是認するものではない。例えば、平成17年秋以降の大阪市の職員厚遇や第三セクターの相次ぐ破綻処理問題、平成18年春から次々と明らかになってきた同和行政を巡る乱脈経理。あらゆるところに蔓延する談合体質。

これらは明らかに公財政のあり方を根底から揺るがすものだ。 ただ、私の経験から言えるのは、その背景には、自己の利権と集票のみに関心を持つ低劣な議員、政治分野にのみ存在感を誇示し、真の公正妥当な職員福利の増進を無視してきた労働組合、人権擁護を表看板に有形無形の、抗し難い圧力の下に進められてきた諸団体の活動があったことも事実だ。 


当然担当部署は、それらの圧力に屈することなく公務員本来の全体の奉仕者として踏ん張るべきであったろうと思う。そこが社会の指弾の的になっているのだろう。 
 
しかし、その彼らを支えるべき議会・マスコミ・警察権力はどこにあったのか、眼を向けていたか。否、全く無かった。

逆に、寧ろ問題の糊塗を進める要因の一つだった、いうのが実態だったであろう。 梯子を登って後ろを振り返れば、誰も続く者とてなく、猪武者扱いされるのが関の山。 全体として、決して褒められた実態ではなかったと確信している。

果たして行政と公財政を取り巻くこのような複雑怪奇な実態を知らず、地方行政に対する見識・胆識をもお持ちとは些かも思えない特定人物を重宝がること自体が、果たして良いのだろうか、正しいのだろうか、と疑問を持たざるを得ない。 単なるパフォーマンス・綺麗事で終わるなら、長期的・最終的に被害を蒙るのは住民・国民ではないか。

まぁ、そうは言っても、民間でもOBとなられた人物で、企業経営から相当期間離れられ、その後色々な経験を重ねられた上で、大所高所から言われることなら、とは思う。 とりわけ行政の弱点である最小コスト・最大効果という点で民間知識を生かしていくのが効果的だとは考えないことではない。

しかし、正直、それでも長い期間に養われた視野、当該問題に対する現実や関わる裾野まで見渡せる経験・知識という点では、一般的には自治体職員OBの中の優れた人材と比べて、果たしてどうだろうか。

卑近な例でも、大阪府のりんくうタウンや大阪市の大阪湾埋立地の事業への批判。世の非難はその見通しの悪さを批判の的にしている。 これらは明らかに土地神話やバブルの崩壊によるものだ。 

現時点に立てば、これらを第三者の目で批判・非難することは簡単だが、私の目から見れば、これらの埋め立て事業自体は海面から新しい国土を生み出したという意味で、土地投資に対する安易な融資による金融危機と、同列に扱われることに抵抗を感じる。 

もっと長期的に考えれば、無から有を生み出したという評価だって有り得るのではないだろうか。 過去の責任を追及するばかりというのもどうか、と思う。 

大阪市、大阪府に新しい首長があいつで誕生した。今後、将来の大阪のために、思い切った施策や投資を立案し、実行するかどうか疑問が湧いてきて、背筋が寒くなる。

2017年04月16日

◆桜の季節〜日本人の心

真鍋 峰松



この季節、日本各地で見事に咲いた桜の花が見られる。 私なども毎年見るたびに“よくぞ日本に生まれけり”という気持になる。 それほどに日本人の心の奥深く刻まれ、古来から詩歌にも読まれてきた。 

ところで、桜の開花予想はニュースとして報じられるが、その開花基準になるのが「休眠打破」だと言われる。 

桜の花芽は前年の夏に形成され、それ以上生成されることなく晩秋から「休眠」状態になり、冬にかけて一定期間、低温に曝されることで眠りから覚め、開花の準備を始める。 これを「休眠打破」と言うのだそうで、さらに温度が上がるにつれて、花芽が成長生成し、気が熟して開花に至る。 

この故に、桜は四季のある日本で進化した植物と言われる。これほどに時間をかけ開花に至る桜だが、咲き誇るのはほんの僅かの期間。日本人はその桜の花の華麗さとは裏腹の、儚さにも強く惹かれ、その魂の、あたかも象徴の如くに看做してきた。

その典型が、本居宣長の歌「 しきしまの やまと心を ひととはば 朝日ににほふ やま桜はな 」なのであろう。 

また、西行法師には、「 春風の 花を散らすと 見る夢は さめても胸の さわぐなりけり 」と、その出家の秘密を封じた悲恋の歌があり、さらには、「 願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの  望月の頃 」、「 散る花も 根にかへりてぞ  または咲く 老こそ果ては  行方しられね 」という死生観を桜の花に寄せる歌まである。
     
欄漫と咲き誇る桜の花に寄せる心象の一方、そこには日本特有の無常観を底辺に置いた「わび」「さび」「もののあわれ」と言った“ものの見方”も発達してきた。

兼好法師の徒然草第百三十七段「 花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。 雨にむかひて月をこひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほ哀に情ふかし。 咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見所おほけれ 」

これこそが日本人特有の美意識そのものと思っていたのだが、意外にも、古くから日本で読まれてきた中国古典、明末の洪 自誠の「采 根 譚」の中に、「花は半ば開くを看、酒は微かに酔うを飲む。此の中に大いに佳趣有り。若し爛漫氈陶(らんまんもうとう)に至らば、便ち悪境を成す。盈満(えいまん)を履む者、宜しく之を思うべし 」と記されている。

その大意は「 花は五分咲きを見、酒はほろ酔いぐらいに飲む。その中にこの上もなくすばらしい趣がある。 もし、花は満開しているのを見、酒は泥酔するに至るまで飲んだのでは、その後はかえっていやな環境になってしまう。 

満ち足りた世界にいる人は、よくよくこの点を考えるようにしなさい 」とのことだが、徒然草の言葉とは同じようなことを言っているようにも思えるが、どこか微妙に違っているように思える。

いずれにしても私には、この季節、一年で最も温暖・快適であり、日本人の心に触れる事柄が多い時期を迎えているように思う。(完)

2017年04月08日

◆いつまでも残る「教え」(後)

眞鍋 峰松



中学時代の先生で、今でもその先生のお顔もお名前も鮮明に記憶しているが、確か、復員軍人上がりの、しかも将校経験のある人であった。 その先生の授業中で、担当教科に何の関係もない一言が今でも忘れられない。

それは、黒板に大書された「男子、青雲の志を抱き、郷関を出れば・・・・」という言葉。

今から思い起こしても、少々時代錯誤的な言葉に聞こえるようだが、間違いなくその後の私の人生に影響を及ぼした言葉であることは事実だ。

最近になって、陳 舜臣氏の著書「弥縫録」の中で久し振りにその言葉に出逢えた。
 
<〜青雲の志を抱いて郷関を出る〜>といった表現がある。

この場合の青雲の志とは、功名を立てて立身出世しようという意欲のことなのだ。辞典には、この外に「徳を修めて聖賢の地位に至る志」といった説明もある。 

だが、実際には功名心の方にウェイトがかかっている。「ボーイズ・ビ・アンビシャス! 青雲の志を抱け」というのだ。  

青といえば、すぐに連想されるのが、春であり、東であり、竜である。

東は日の出る方角であり、人生に日の出の時期を「青春」というのは、これに由来している。青は若く、さわやかである。

それに「雲」という言葉をそえると、心はずむような語感がうまれる。雲は天の上にあるのだから。若い日の功名心は、まさに天に昇ろうとするかのようである。

流石に、良い言葉ではないか。要は、望ましい教師像として私が言いたいことは、19世紀英国の哲学者・ウイリアム・アーサー・ワードの次の言葉に簡潔に表現されている気がする。

        ・凡庸な教師は しゃべる。
        ・良い教師は  説明する。
        ・優れた教師は 示す。
        ・偉大な教師は 心に火を付ける。
                               (完)

2017年04月07日

◆いつまでも残る「教え」(前)

眞鍋 峰松
   


最近、マスコミに登場する方々を拝見していると、どうも物事を斜めに見て論じる人が多いように感じられてならない。多分、論じておられるご本人は、それが正しいと信じ切っておられるのだろう。 

これは何も最近になって起こった現象とは限らない事なのかも知れないが、まさにマスコミ好みの人種ということなのだろう。

例えば、靖国神社参拝問題についても、国のために尊い命を捧げた旧日本軍将兵の御霊に感謝の念を表すことは大事な筈だが、その方々はこれに対して、「中国・韓国の国民感情に配慮し外交関係・国益を考えるべし」とおっしゃる。それでは、どうするのか。

物事を斜めに見ると、その二本の線はそれぞれが独立した線の衝突の側面しか見えない。 

A級戦犯合祀の問題も含め、人により立場により色々な考え方があるのだろうが、私には真正面から考えると、この二つの命題はそもそも両立できないことではないと思える。 

歴史的な経緯があるにせよ、また諸外国から如何に言われようが、日本国にとっては本来一方が他方を排除したり、相容れない事柄ではないはずだ。 

それより戦後60年間以上もこれまで避けられてきた国内論議の決着の方が先決だろう、と思える。だからこそ、外交面では未来志向型の解決しかないのだろうという気がする。
   
過去を振り返ると、私の学校時代の教員にも、物事を斜めに見る性癖のある人達が結構多かった。

とりわけ「己を高く持する人物」に多々見られる事柄でもある。それはそれ、その御仁の生き方・信条そのものの問題だから、他人である私が、眼を三角にしてトヤカク言う必要のないことではある。 

ところが、教員という職業に就いている人間がそういう性癖を持ち、日頃児童・生徒に接しているとしたら、そうはいかない。
   
私の経験でも、「物事を斜めに見る性癖のタイプ」の教員が結構多かった。

結論から言えば、そういうタイプの教員は教育現場では有害無益な人間と言わざるを得ないのではないか。
  
実社会においても一番扱いの難しいのが、こういうタイプの人間だろうし、往々にして周辺の人間からも嫌われてもいる。 

多情多感な青少年にとって、こういうタイプの先生に教えられることには「百害あって一利なし」である。
   
教育の本質はむしろ逆で、もっと「真正面からの言葉・教えほど尊い」と 私の体験からも、そう思える。
<後編へ> 

2017年03月31日

◆春の花、鳥〜鶯のこと

眞鍋 峰松
 


朝夕の犬の散歩に通る道筋の隣家の庭に、一本の辛夷(こぶし)の木がある。ほぼ毎日、二回は通る道なのだが、20日ほど前に白いつぼみが膨らむまで何の木やら一向に気付かず、10日前から次々と開花しだした。

「あぁ、満開だ!」と思う間も無く、白い花びらの先端から黄ばみかけ、一輪また一輪と次々に道端に落下。花の命は儚く、真に残念の一語に尽きる。

住んでいるのはニュータウン。同時期の移住者が多い故か、近隣には同年配の高齢者が多く、ほとんどの世帯が65歳以上を主体とする家庭である。それぞれの庭には、丹精込められた四季折々の花々が咲き乱れる。

その庭に共通して多いのが金木犀。私は特にこの花の何とも言えない高雅な甘い香りが好きなのだが、秋の早朝や夕暮れ、玄関から一歩足を踏み出すと、地域全体に金木犀の強烈な甘い香りが漂う。 

これからの春の深まりとともに、梅、椿、桃、辛夷、雪柳、れんぎょう、桜、木蓮などが咲き乱れ、赤・桃・白・黄色と次々に鮮やかな色合いで眼を和ませてくれる。 この辺りは野鳥も多い。 

とりわけ多いのがヒヨドリ、モズ、メジロ。この季節、木々に隠れて姿を容易にはみせないが、鳴き声を楽しめるのが鶯だ。例年なら今の季節には庭の木々の枝にとまり、早朝から鳴き声が聞こえるのだが、何故か今年は未だ聞こえてこない。 

ただ、鳴き声も季節初めの所為か、まだまだ練習不足。特有のホ―・ホヶキョという鳴き声にもならず、ホ―だけでお仕舞か、チィチィという声のみ。もう鶯の季節かと、耳を澄ませて聞く当方としては、この中途半端な鳴き声に何だか肩透かしを食らったような気持がする季節でもある。

ところで、NPO法人近畿フォーラム21主宰の事業の一つに、大阪市内都島の毛馬村で生まれた与謝蕪村の生誕300年を祝う顕彰俳句大学があった。同大学講座は 31日「解散」するが、その大学第2期講座の「修了式兼表彰式」が行われ参列した。

その中、「一般の部講座」(他には「児童・生徒の部」も)で「大阪市長賞」を受けられた方の作品に「笹子くる いつもの薬 飲みをれば」という句があった。

撰者の先生は、“笹子とはまだ整わない鳴き方をしている冬のウグイス、薬を飲みながら庭に来た「笹子」のチィ、チィという可愛げな声を楽しんでいる様子、・・・笹子はいつかは春が訪れることを告げながら、一病息災、一病息災と作者に告げているのかも知れない”、との評。 

笹子といえば、俳人高浜 虚子には「石垣の 上の竹垣 笹子啼く」との句がある。 

日本大歳時記(講談社)によると、古来梅に鶯(うぐいす)といって春のさきがけとされ、鶯の初音は二月はじめごろ、清亮にして円滑な美声で囀る。囀りの整ってくるのは三月ごろで、鳴く時は尾を揺るがす。 四月には山へ帰ると解説している。 

また、基本季語の鶯に対し、一般季語には初鶯、春告鳥、経読鳥、匂鳥、黄粉鳥、花見鳥、歌読鳥、流鶯等々と記されている。まぁ、同じ鶯にも様々な呼び名があるものだと、日本人の感性とボキャブラリーの豊かさを象徴する一例かと、改めて感心するばかり。 

中でも面白いのが経読鳥。なるほど、ホ―・ホヶキョと言えば誰しも法華経を想像する。 真に日本の春はありがたいお経の声に満たされた時季である。また、流鶯とは、春たけなわの頃、木から木へ枝移りしながら鳴き立てる有様からの名付け。 これまた、十分に納得させられる。

この式典では大阪市立大学文学部長の村田 正博先生の「蕪村俳句の面白味」と題する興味深い講演が行なわれた。

その中で蕪村秀句として紹介された鶯の句。「 うぐいすの 啼くやちひさき くち明(あけ)て」と「 鶯の 枝ふみはづす はつね(初音)かな」の二句。

この二句から見ても、芭蕉や一茶と並び称される俳人蕪村の、出生時からの数奇な人生にも拘らず、暖かい人情味を失なわなかったという人柄が偲ばれる。どうやら花や鳥というものは、老年になって、ようやくその味わいが深まってくるもののような気がする。

花を見れば、自ずと花を見るのも今年限りかも知れぬの思いが浮かび、それで花の味わいが一層深くなるのだろう。花は老年のためにこそあるもののようである。若い時分には自分が生きることに精一杯で、そんなふうに思って花を見ることはなかったのに、近頃はどういう訳か、そんな思いを抱かずには花を見ることができなくなった。 

やはり人間というものは、加齢とともに自然に回帰する習性を持つ生き物のようだ。

西行法師の歌 「願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月(もちづき)の頃 」。「散る花も 根にかへりてぞ または咲く 老こそ果ては 行方しられね」。 

詠むほどに、何ともなしに、この歌に心ひかれる昨今である。

2017年03月17日

◆チープ・ガバメント

眞邊 峰松



国民・住民の役に立つ行政機構とは、能率のいい必要にして最小限度の組織・人員―。この考え方を否定する人はいないと思う。 ただ、機構は仕事に対応するものである。 


だから、機構を廃絶したり、簡素化したりするには、仕事を亡くすか、仕事のやり方を変えるか以外に、簡素にして効率的な機構への改革はないはずである。 


意外と、この簡単な事実を理解し納得する人は少ない。とりわけ、最近の風潮のようにも思える公務員叩きの大合唱の中では、とくにそうである。 それはよく風刺的に“お役所仕事”と揶揄される公務員労働への批判と同列視される。
 

だが、そもそも、日本の公務員数から見て、既に群を抜く小さい政府だという事実が議論から抜け落ちてしまっている。 


それでいて、日本の行政サービスがこれらの国々に比し劣悪だという話も聞かない。 これからすると、私には、現下の風潮はかっての官尊民卑の裏返しのような感情的な議論が先行し、冷静さ・客観性を欠いているような気がしてならない。
 

とは言っても、このような公務員への厳しい批判も、現在ではいざ知らず、かっての公務員の勤務態度には休まず・遅れず・仕事せずと揶揄される実態が一部にあったことからすれば、当たらずとも遠からずの非難ではあるだろう。
   

しかし、この非難は公務員の数量(人数)と質の話。 これを逆に、機構の方から考えていこうとするのは本末転倒であり、やはり実効はあがらない。

これをやはり実効あらしめるためには、やはり「民でできることは、できるだけ公から民へ」という程度に止まらず、「どうしても公でやらねばならないことのみを、公で」という、現在までの行政サービスを根底から見直すと言う極限的な対応の検討が必要ということになろう。 


同時に、国民・住民側としても行政サービスの低下をも受け入れるという覚悟が必要となろう。 


その場合、勿論、かく主張するマスコミ・論者が純粋に公益を主体にした考えに立っているかどうか、自身がサービスの受益者なのかどうか、または受益者の立場をも踏まえた議論を行っているのかどうか、という点を十分吟味してかかることが必要なることは、論を待たないであろう。


これらを踏まえず、公務員叩きに闇雲に突き進む現在のマスコミなどの論調は、「どうしても公でやらねばならないことのみを、公で」という真剣な議論抜きの感情論を煽り、それこそ、「行為する者にとって、行為せざる者は最も苛酷な批判者」という言葉を裏書する事態に立ち至っているのではないかと思われる。


大事なことは、現代生活における公平・公正・安全といった面が行政の果す役割を抜きにして維持し得ない以上、いかにして最小のコストで最大の効果を発揮せしめるかであろう。 


そして、その基礎をなすものが公務員労働であるとせば、一に懸かって質の向上が眼目ということになる。だが、現在の公務員叩きが続いている中で、果たして国及び地方の公務員のモラール(士気)はどういう状態なのか、危惧される。


日産自動車の名経営者として名高いカルロス・ゴーン氏の言葉に「経営者がやるべきことの中で最も重要なことは、従業員のやる気を起させること」「彼らのやる気こそが価値創造の源泉となる」とあった。


現在のような公務員叩きの風潮のみが席巻する中で、果たして公務員のやる気を引き出し、労働の再生がなし得るのだろうか。

こう考えれば、やはり、簡素にして効率的な行政改革を進めていくための現実的な方法の一つとしては、官僚自らがその線に沿い協力するよう誘導し、また、人員削減に成功したら、その浮いた経費の一部を徹底的に見直しされた後の残存人員の労働強化に対応し、プラス化しうるようなインセンチブに充ちた方策をも合わせ考えれば、より効果をあげうるのではなかろうかと、と思料する次第である。(評論家):再掲

2017年03月04日

◆人事の季節 悲あり喜あり

真鍋 峰松
  


この季節、いずれの組織・団体においても定期の人事異動が行なわれる。 様々な噂・憶測が飛び交い、当事者はそれに一喜一憂するというのは毎年のことである。

だが、人の噂話ほど当てにならないものはない。 人事異動は悲喜こもごも。 何千、何万という人間を抱える大きな組織に限らず、例えもっと小規模な組織でも、皆が満足し幸せを感じる異動など100%あり得ない。
 
当人にとって、特に昇格を控えた時期であれば、より「そわそわ度」は高くなる。 異動先によっては家族ともども引っ越しという事態ともなるので大変だ。 だが、その結果は最後まで判らない。

その人事異動。 問題は、大抵の場合、自己評価と、他人とりわけ上司の評価とのギャップが大きいことである。 自己評価の高い人間ほど客観的評価との落差を思い知ることになる。 ただ、この客観的評価自体にも問題が潜む場合が多い。
 
昨今、どこの組織においても幾つかの評価項目を定め評点化している場合が殆どであるが、そもそも人間の適性・才能を評価する側の人間にしっかりした能力があれば良いのだが。 それより自分の部下の能力・成績も指導次第でどうにかなるのだ、という自信を持った上司こそが望ましい。
 
正直、私のような者にとっては、この人事評価一つでこの人間の一生を左右するのだと思うだけでもそら恐ろしく、到底確信を抱くには至らなかった。

ある書物の中で、人事担当責任者の言葉として「各部署から部下を評価した報告書が回ってくるのですが、“部下のここが気に入らないから、異動させてくれ”みたいなことが書いてある。

上司というのは、部下のいいところを引き出すのも仕事のうちだと思っていますから、どこの部署で働けば、部下の能力が生かせるか、そこまで書いてくるように書き直しを要請したこともあります。

それぞれの上司が部下の適材適所を真剣に考えれば、会社全体が活性化されると信じていたので、好き嫌いで評価を下すのは許せませんでした」と記述されていたことを思い出す。 私の経験からしても、至極当然の言葉であろうと思う。

そこで、現職当時に常に心に留め置いた、現代でも十分通用する上司の心得として江戸中期の儒者 荻生 徂徠の言葉に徂徠訓というのがあったので、ここで紹介させて頂く。

1) 人の長所を始めより知らんと求めべからず。 人を用いて始めて長所の現れるるものなり。
2) 人はその長所のみ取らば即ち可なり。 短所を知るを要せず。
3) 己が好みに合う者のみを用いる勿れ。  
4) 小過を咎むる要なし。 ただ事を大切になさば可なり。    
5) 用うる上は、その事を十分に委ぬべし。  
6) 上にある者、下の者と才知を争うべからず。
7) 人材は必ず一癖あるものなり。 器材なるが故なり。 癖を捨てるべからず。      
8) かくして、良く用うれば事に適し、時に応ずるほどの人物は必ずこれあり。

もっとも、この徂徠訓も江戸中期という封建制度下のもの。 現代の上司たるもの、とりわけ中間管理層は想像以上に大変なのかも知れない。
 
上からと下からの重圧の下、指導が厳し過ぎるとパワハラと疑われ、異動先が当人の意に沿わないと冷酷と言われるそうなのだから。
 
だが、人材以外に頼るべき資源を持たないのが、我われの日本。 その人材を活かすも殺すも適切・妥当な人物評価。 確たる信念を持ったリーダー・管理職達の奮闘を心から望みたい。

2017年02月14日

◆今日一日をプラス思考で生きる

眞鍋 峰松



最近になって、情報化社会がいよいよここまで進展してきたのか、と強く感じさせられる社会現象が多く見受けられるようになった。  

何よりも情報化の進展は、個人レベルの社会生活の中では、その人のアイデンティティの組織離れということに大いに関係してきているような気がする。
   
かって、サラリーマンが企業戦士として高度成長を支えてきた時代には、個よりも役割を優先する日本的意識はそれなりに機能してきた。だが、こうした肩書き優先社会では、退職や失業などにより組織を失うと、個人のアイデンティティも失われ、ヘタをすると人間としての存在価値そのものが奪われる結果となる。

ここにきて、一挙に増加傾向を示しつつある中高年男性の自殺や熟年離婚のなども、役割と人格を混同し社会や配偶者などと個として向き合うことが少なかったことの裏返しの現象の一つ、ということだろう。
   
情報化の進展とともに、個々人が容易に色々な情報に接し得る機会が多くなり、各人のライフスタイルも多様化しつつある現在では、かっての組織優先の人間観・人生観は個人にも社会へも大きい軋轢と落差をもたらす。 

個人にとって、従来の日本型の自意識のままでは、情報化、多様化している社会を生き抜くのは非常に難しい時代に直面しているのは確かだ。
   
そこで求められる生き方は、ということになると、やはり肩書き抜き、組織とは距離を置いた自己意識を持ち、長寿社会を迎えて多趣味を生かしながら生き抜いていくことだろう。 

そのためには、好奇心をいつまでも強く持ち、新しいものをどんどん受け入れ、それらを積極的に活用していこうという気構えを常に忘れないこと、これはつまり、進取の気性を持つということだ。 

この進取の気性こそ生きがいを見つける最大の武器の一つでもある。 

もう一つは、徒に明日を思い煩うな、ということ。 明日のことは明日のことで、今日思い煩うことはない。いずれにしても、座して待つのでなく、これぞと思った時には、すぐさま行動に移すぐらいの勇気と機敏さをいつまでも忘れないことだろう。 

ここで動いて明日はどうなるだろう、なんて思い悩んでしまったらどうだろう。要は、明日を思い煩うことなく、今日一日をプラス思考でことに当たることが肝要、ということになろう。
 
もう一度少年のような冒険心と好奇心を持って、一日一日を過ごし、充電してゆくことが、花も実もある生き方につながるのではないか。 

シェークスピア風にいえば、退職後も自分に与えられた「劇場」の中で、しっかりと「主役」を演じることはとても楽しいことである。(完)

2017年02月02日

◆皆が 正義の戦士?

眞鍋 峰松
   


昨年12月中頃に脳梗塞が発症し、原因となった頸動脈の血管内の壁の中に溜まったコレステロールの盛り上り(アテロームと呼ぶそうだ)を除去するための頸動脈内膜剥離手術を受けてからほぼ半年が経った。

幸い、今では日常生活を完全に取り戻し、首筋に残った生々しい傷跡も日々薄らぎ、傷の引き攣れの後遺症である発音・発声不明瞭の状態も徐々に解消。ようやく他人との円滑な会話も可能になった。 また同時に、読書や日誌等の文章の作成といった知的作業に関する意欲を失い完全にこれらの作業からも遠ざかっていたのだが、この間日々の新聞記事を丹念にチェックすることのみが日課だった。

その中で気付いたのが、今年に入ってから政治家、スポーツ選手、芸能人、企業のトップなどによる謝罪事象が相次いでいることである。 女性タレントの不倫騒動、日本を代表する大企業、次々と出てくる国会議員や地方議員の政治資金絡みの不正経理処理、その極め付けが現在マスコミ報道を賑わせて本当に毎日枚挙に暇がない状態である。

ただ、記述するに当って、まず以下を前提として明らかにしておきたい。 即ち、ネット上であろうがなかろうが、何人も道義に反することが行われていると認識した場合には本来、匿名ではなく記名での公表や抗議を唱えるべきであろうし、それ以前に当事者に対し「陳謝しなければならないことなど、するな!」と伝えるべきことだろうことである。

 ある日の新聞紙上で見かけたSJW=ソーシャル・ジャスティス・ウォリアー(social justice warrior)という単語。直訳すれば、社会正義の戦士。

もともとはフェミニズム(女性の社会・政治・法律上の権利拡張を主張する考え)のために戦う人たちという意味合いからスタートした言葉だったそうだが、今は正義感をかざして社会悪と思えるようなことを一生懸命叩く人たちのことを指す。その本人たちは正義感の下に発言をしていると思っているので、それが悪いこと或いは思い込みや思い違いなどとは露ほども疑わず、むしろ、社会に代わり制裁をしているという優越感や責任感すら感じている人たち。 

しかし、このSJWという言葉は海外では寧ろ侮蔑的な意味で使われ、特にネット上での匿名の発言は遠くの安全地帯から石を投げているような行為として考えられ、馬鹿にされている、とのことである。                 
皮肉なことに、この記事を読んで直ちに思い出したのが、作家の田辺 聖子さんの「人を責めることが大好きな人があるね、正義の味方の中には」という言葉。 
               
中国の大儒者朱子(朱熹)は「血気の怒りはあるべからず。理義の怒りはなかるべからず」と説いている。朱子は、怒りを二つの種類に分け、一は非、他は必要なものとしている。血気の怒りとは、感情的な怒り、自己中心から発したそれで、朱子が戒めてきたのは全て、この種のものである。

しかし、怒りには、もう一つの種類のものがある。客観的な眼や正義感に根をおいた、公的な怒り、いわゆる公憤といった性質のものだ。自分を超えた立場からの怒り、と言ってもよかろう。この種の怒りは「なかるべからず」、
つまり、なすべきと朱子は言う。確かに、悪や非道に対して人々が怒ることが無かったら、正義は行われず、家も社会も滅茶苦茶になってしまう。司法機関とは、この「理義の怒り」を、社会的に担保し行使する役所であるといえる。翻って、今の世相をみれば、どうだろう。

私には、私的な怒りが充満し、反面、公的な怒りが不足しているように見えて仕方がない。もっと皮肉な言い方をすれば、今の世相には怒りが十二分に充満している。だが、そこに見られる怒りの意見表明は、総論の形をとった各論の怒りとでも言うか、表面は一見正義感に根をおいた公的な怒りだが、その根本的な処においてはそれぞれが各人・各層の権益擁護や地位の保全、場合によっては自己の日頃の鬱憤晴らしのための過剰反応に過ぎない場合が多い、とさえ言えるのではないか。 まして、ネット上での証拠も根拠も不十分な匿名の告発めいた投書などはその典型とでも言えるような気がする。                                         
確かに、今の世相、政治面ではとりわけ野党側が相も変わらず日本の直面する危機的現状を余所に政局に踊り続け、経済では企業が企業倫理や安定した雇用継続という社会的責務に鈍感になり、教育は人間育成という大切な目標を見失い、家庭では夫婦・親子間に相互理解を欠き、世間では人間同士、互いに思いやりや規律・厳しさを見失った状態。また、それらに警鐘を鳴らすべきマスコミ界でも、本筋を見誤ることが多くなっている。

それでは、どうするべきなのか。そこは私の如き微力な人間には、到底手に余る。その私としては、各人がそれぞれ“一燈を掲げ一隅を照らす”という心構えで前に進むしかない、と思える。
 古代ローマの哲人・政治家キケロには「彼等は他人に向かって語ることを学んだ。しかし、己に向かって語ることを学ばなかった」という苦味一杯の言葉がある。「他人に向かって語ることを学んだ」というよりは、「語ることを好んだ」「語ることを楽しんだ」と言うべきなのかもしれない。 

まさに スイスの哲学者カール・ヒルティの述べた「人間の真実の正しさは、礼節と同様、小事における行いにあらわれる。そして、小事における正しさは道徳の根底から生じる。これに反して、大袈裟な正義は、単に習慣的であるか、或いは功智に過ぎぬことがあり、人の性格について、未だ判明を与えぬことがある」ということなのだろう。

特に最近のマスコミや学者、評論家たちには、すぐに他人に対して陳謝を求める傾向にあるように思うのだが、一体、誰に対する陳謝なのか、どのような理由で陳謝を求めているのだろうか。その中には摩訶不思議な現象である場合も多々見受けられる。 

そこには、過ちを犯した事実が露見したことで取り敢えず世間に「陳謝」し、具体的には一体誰に対して謝るべきかも判らないままにひたすら頭を下げ続ける図柄しか私には眼に浮かばないのだが・・・。

2017年01月30日

◆童話に教えられること

真鍋 峰松

まず、この話をお読み頂きたい。
 
「オオカミが羊の群れを襲う機会をうかがっていたが、犬が見張っていて手を出すことができないので、目的を達するために策略を用いることにした。オオカミは羊に使者を遣って犬を引き離すように求めた。
 
自分と羊とのあいだの反目の原因は犬であり、犬を引き渡しさえすれば、羊とのあいだに平和が永遠に続くだろうとオオカミは言った。何が起こるのかを予見できない羊は犬を引き渡した。

いまや絶対的優位に立ったオオカミは、もはや守る者のいなくなった群れをほしいままに食い荒らした。」(「新訳イソップの寓話集」塚崎幹夫訳 中公文庫)。

以前、読んだ童話の中の話である。日本の昔話や童話の中では、子ども向けに最後の下りがメデタシ、メデタシ、そして二人で幸せに暮らしました風、或いは勧善懲悪の教訓話が多い。
 
だが、西洋の有名なイソップやグリム兄弟の童話集にはハッピー・エンドばかりではなく、相当にアンハッピー・エンド、残酷な結末で終わる話が多いという。
 
これは、欧米系人と日本人との民族性の違い、とりわけ日本人の現世肯定の現実主義と、子供には夢と希望をという一種の理想主義とが合体したところから生じたのであろうか。

童話の専門家でもない私が、このことを詳しく述べるのは本題ではない。

私がこの話から直ちに連想したのは、昨今の米軍基地移転問題。いつしか日本近海でキナ臭い話が充満する昨今、基地をどこか国外に移転しろと言うのは、果たして如何なる外国の、或いは宇宙人の策略なのかどうか、私には専門外の話。

だが、この童話、如何にも当て擦り的な寓話のように思えてならない。明らかに分かるのは、昨今の米軍基地問題を巡る議論では、どこか基本的な問題が抜け落ちているのではないのか、ということ。
 
つまり、この寓話での犬の果たす役割〜国の安全保障体制の問題である。 

鳩山首相の時の発言にあった、仰止力のためには米軍基地の分散化には一定の限界があるとの発言に、びっくり仰天するしかなかった。
 
一体、この人物は何年の間、国会議員を勤めて来たのだろうか。それなのに一番大事な国の安全保障について、首相になってから勉強とは。 しかも、この後に及んで仰止力について初めて理解したというのか。惟、唖然とするしかない。
 
国の果たすべき役割の最たるものの代表例は防衛・外交、司法。 戦後の防衛・外交の中心的役割を担ってきたのが日米安全保障条約。それ位は誰でも簡単に解ること。

片務的契約だの、何だのという議論はさて置き、明白なのは、現在の日本自身の防衛力だけでは、近代戦闘では非常に心もとない。
 
米国の軍事力を背景にしなければ、とてもじゃないが周辺の好戦的・反日的な国に太刀打ちできるものではない、ということ。だが、トランプ大統領は、そう理解しているだろうか。

この件に限らず、今後一体、この国はどこを向いて動いて行くのだろうか。確たる方向性があり、操舵手はいるのだろうか。
        
政治と童話と言えば、イソップ童話の北風と太陽の話。言うまでも無く、これは隣国・韓国の対北朝鮮政策の話。
 
が、これも鶏が先か卵が先か、どちらが原因で結果なのか、素人眼には結論を出し難い面もある。

最後に、もう一つ。

「兎が獣の会議に出かけてゆき、これからどうしても万獣平等の世にならなければならぬと、むきになって論じ立てた。獅子の大王はこれを聞いてニコニコ笑いながら、兎どん、お前の言うのは尤もだの。だがそれには、まず儂どもと同じに、立派な爪と歯を揃えてからやって来るがいい、と言った。」 ( 同 前出 )。

2017年01月16日

◆メディア自体の信頼性 如何?

眞邉 峰松(行政評論家) 



残念ながら、我々一般人の知る情報は、マス・メディヤが一方的に流すものにしか接する機会意外に無い。 

確かに、現在の日本社会は全体として改革・革新を進めなければ、日本の進路も袋小路に陥る時期にあると思うが、注意しなければならないのは、マス・メディアの世界もまた例外ではないということである。 

逆に、第四の権力とも呼ばれるその影響力から言えば、改革すべきと思われる中で最も大事な部分は、このマス・メディアであろう。

ここで、私はマス・メディアという用語を使い、ジャーナリズムという言葉を使用していない。 

私が敢えて“マス・メディア”というのは、むしろ“マス”つまり大量の・大衆向けの、という意味を込め、社会の警鐘者たることを期待する“ジャーナリズム・リスト”とを区別したい、が為である。 その故、“ジャーナリズム・リスト”には、ある書物にあった次の言葉を呈したい。

   
「ジャーナリズムが大衆の中におらねばならぬことはいうまでもない。だが、そのことはジャーナリズムが大衆の中に埋没してよい、ということではない。権力に媚びざることはもちろん大切だが、大衆に媚びざることはもっと重大である。

ジャーナリズムが見識を失って大衆に媚びはじめると、活字はたちまち凶器に変ずる。富者、強者、貧者、弱者に媚びざることがジャーナリズムの第一義だが、その原則が影をひそめて、オポチュニズムとセンセーショーナリズムだけになってくる。 」

一方、情報をマス・メディアに頼らざるを得ないわれわれ一般の庶民は、いかにマス・メディアの一方的情報伝達に対処すべきか。残念ながら、我々には個々の情報の信憑性を確かめる術を持たないので、当該メディア自体の信頼性如何に頼らざるをえないだろう。

現在の情報過多の世相の中では、次の文章の示唆する意味を十分踏まえていく必要があると思う。
    
「 音楽の情報量は、s/nと表す。Nはノイズ、Sはシグナル、つまり、音楽の発するシグナルを大きく聴き取るためには、シグナルが大きく聞こえることも大事だけれども、ノイズが少ないことが大事だというわけです。

だから、情報量をたくさん取るということは、Sを大きくすることも大事だけれども、Nを小さくすることが大事、余計な情報がどんどん入ってくると、肝心な情報のウエィトが小さくなってしまう。 

情報についても、“省く”ということを考えなければならないということだと思う。 何でも知っていたり、何でも早く読む必要はない。そうすると、Nがいたずらに大きくなることになるでしょう。日本には「耳を澄ます」という言葉がそういうことでしょう」。 (完)