眞鍋 峰松
この12月初めには、恒例の今年の流行語大賞が発表される。そこにはノミネートされていないだろうが、近頃、新聞紙上等で頻繁に“大義”や“愚直”という言葉を見かける。
私ひとりの感想なのかも知れないが、これらの言葉は、いずれも現在の日本という国が置かれた状況を反映した、恰も時代風潮を想起させる言葉のようにも思われる。
だが、“大義、大義”などと連発されると、戦中戦前当時の時代感覚が連想されられる。だからどうだ、という仰々しさもないのだが、私にはどうも気になって仕方が無い。往々にして大仰な言葉やスローガンの蔭に、思いも寄らぬ意図や悪謀が潜む場合も多い。
辞典によると、大義という言葉は「人が踏み行うべき道」、の意。 また、大義名分という熟語で使われることも多いのだが、名分は名義(表だった名前)に伴って必ず守るべき道徳上の分際・限度、犯してはならない人倫上の範囲、の意だそうだ。
この度の衆議院議員選挙、“大義なき解散”などと聞かされると、一体如何なる一大事件なのかと驚く。だがよくよく聞くと、その意味するところ、単に衆議院の解散理由・事由が明らかでないだけのこと。
“だけのこと”と言えば世間のお叱りを受けるかも知れないが、如何にも情緒的発言であり、結局はアベノミックス効果の成否が問われる選挙などと言うのなら、やはり政策・施策選択の範疇。むしろ私の感覚では名分の有無の問題だと考えるのだが、それが何故“大義”の有無となるのか。 やはり、言葉にはそれ相応の使用方法があるだろうに、と思う。
ところで、愚という語。賢愚と並列され、賢の反対語の、愚かなこと・馬鹿、馬鹿々々しくて取るに足らないことを意味するのだから、他人に対し濫りに使用せられるべき語ではない。
だが、己の自称となると、自分に関する謙遜、謙称と化する。直は正しい、真っすぐなことを意味するから、“愚直”と愚と直を重ねると、馬鹿正直の意味になる。そうなると、謙遜のはずが一転、自分が正直であることの押付け・自画自賛ともなりかねない。
最近、この言葉を発した人達から判断すると、その真意・底意がミエミエだと思わざるを得ない。
孔子は、論語の公冶長第五の中で「寗武子(春秋時代初期、衛の国の大夫)は、国家が治まっていれば知者としての技量を十分に発揮し、国家が乱れてくれば愚者になり、知者として鋭敏な見通しが早くつく性質を押さえて愚直な誠実を働かせたと評し、(孔子ですら)その知恵者ぶりはまだ真似られるが、その愚か者ぶりにはとても真似られない」と言われる(参考:吉川幸次郎訳 世界古典全集4など)。
つまり、道理の通る世では立ち働いて知者となるのは難しいことではないが、無道の世に才知を隠して愚人のように振る舞い世に尽くすことは考えつかない、というのである。愚もここまで達すれば、人知を窮めたということになるのだろう。
また、小説家の故 城山三郎氏は、ある本の中で次のような文章をお書きになっている。
「男にとって大切なことは愚直さですよね。もう明らかにそういうことをしたら損だということが分かっていても、そういうことをしなくちゃいけないという使命感なり理想があって、愚直に生きていく。その愚直さということを、もう少し言い換えると、けじめの問題ですね。つまり、男らしい男は、けじめをつけるっていうことです」というのである。
では、自分自らが“愚直にことを行った”と仰ったと聞き及ぶ面々、例えば鳩山・菅元総理の両氏が果たしてこの域に達しておられたのか、どのようなけじめを付けられたのか、甚だ疑問だ。
要は、私が言いたいのは“大義”とか、“愚直”などの言葉をあまり安易・安直に使って欲しくない、ということ。
蛇足だが、この意味は本誌に以前(平成23年3月1日)に掲載した“蔓延するのか、維新の会ブーム”の中の「維新と云う言葉をそうそう安易に使用して欲しくないということ。果たして彼らに維新という言葉を自ら名乗るほどの潔さと気概があるのか、ただただ選挙に当選したいがためではないのか」という記述と同趣旨である。