2013年09月21日

◆メディア自体の信頼性 如何?

眞邉 峰松


残念ながら、我々一般人の知る情報は、マス・メディヤが一方的に流すものにしか接する機会意外に無い。 

確かに、現在の日本社会は全体として改革・革新を進めなければ、日本の進路も袋小路に陥る時期にあると思うが、注意しなければならないのは、マス・メディアの世界もまた例外ではないということである。 

逆に、第四の権力とも呼ばれるその影響力から言えば、改革すべきと思われる中で最も大事な部分は、このマス・メディアであろう。

ここで、私はマス・メディアという用語を使い、ジャーナリズムという言葉を使用していない。 

私が敢えて“マス・メディア”というのは、むしろ“マス”つまり大量の・大衆向けの、という意味を込め、社会の警鐘者たることを期待する“ジャーナリズム・リスト”とを区別したい、が為である。 その故、“ジャーナリズム・リスト”には、ある書物にあった次の言葉を呈したい。

「ジャーナリズムが大衆の中におらねばならぬことはいうまでもない。だが、そのことはジャーナリズムが大衆の中に埋没してよい、ということではない。権力に媚びざることはもちろん大切だが、大衆に媚びざることはもっと重大である。

ジャーナリズムが見識を失って大衆に媚びはじめると、活字はたちまち凶器に変ずる。富者、強者、貧者、弱者に媚びざることがジャーナリズムの第一義だが、その原則が影をひそめて、オポチュニズムとセンセーショーナリズムだけになってくる。 」

一方、情報をマス・メディアに頼らざるを得ないわれわれ一般の庶民は、いかにマス・メディアの一方的情報伝達に対処すべきか。残念ながら、我々には個々の情報の信憑性を確かめる術を持たないので、当該メディア自体の信頼性如何に頼らざるをえないだろう。

現在の情報過多の世相の中では、次の文章の示唆する意味を十分踏まえていく必要があると思う。
    
「 音楽の情報量は、s/nと表す。Nはノイズ、Sはシグナル、つまり、音楽の発するシグナルを大きく聴き取るためには、シグナルが大きく聞こえることも大事だけれども、ノイズが少ないことが大事だというわけです。

だから、情報量をたくさん取るということは、Sを大きくすることも大事だけれども、Nを小さくすることが大事、余計な情報がどんどん入ってくると、肝心な情報のウエィトが小さくなってしまう。 

情報についても、“省く”ということを考えなければならないということだと思う。 何でも知っていたり、何でも早く読む必要はない。そうすると、Nがいたずらに大きくなることになるでしょう。日本には「耳を澄ます」という言葉がそういうことでしょう」。 (完)
                                (評論家) 


2013年08月28日

◆チープ・ガバメント

眞邊 峰松

  
国民・住民の役に立つ行政機構とは、能率のいい必要にして最小限度の組織・人員―。この考え方を否定する人はいないと思う。 ただ、機構は仕事に対応するものである。 


だから、機構を廃絶したり、簡素化したりするには、仕事を亡くすか、仕事のやり方を変えるか以外に、簡素にして効率的な機構への改革はないはずである。 


意外と、この簡単な事実を理解し納得する人は少ない。とりわけ、最近の風潮のようにも思える公務員叩きの大合唱の中では、とくにそうである。 それはよく風刺的に“お役所仕事”と揶揄される公務員労働への批判と同列視される。
 

だが、そもそも、日本の公務員数から見て、既に群を抜く小さい政府だという事実が議論から抜け落ちてしまっている。 


それでいて、日本の行政サービスがこれらの国々に比し劣悪だという話も聞かない。 これからすると、私には、現下の風潮はかっての官尊民卑の裏返しのような感情的な議論が先行し、冷静さ・客観性を欠いているような気がしてならない。
 

とは言っても、このような公務員への厳しい批判も、現在ではいざ知らず、かっての公務員の勤務態度には休まず・遅れず・仕事せずと揶揄される実態が一部にあったことからすれば、当たらずとも遠からずの非難ではあるだろう。
   

しかし、この非難は公務員の数量(人数)と質の話。 これを逆に、機構の方から考えていこうとするのは本末転倒であり、やはり実効はあがらない。

これをやはり実効あらしめるためには、やはり「民でできることは、できるだけ公から民へ」という程度に止まらず、「どうしても公でやらねばならないことのみを、公で」という、現在までの行政サービスを根底から見直すと言う極限的な対応の検討が必要ということになろう。 


同時に、国民・住民側としても行政サービスの低下をも受け入れるという覚悟が必要となろう。 


その場合、勿論、かく主張するマスコミ・論者が純粋に公益を主体にした考えに立っているかどうか、自身がサービスの受益者なのかどうか、または受益者の立場をも踏まえた議論を行っているのかどうか、という点を十分吟味してかかることが必要なることは、論を待たないであろう。


これらを踏まえず、公務員叩きに闇雲に突き進む現在のマスコミなどの論調は、「どうしても公でやらねばならないことのみを、公で」という真剣な議論抜きの感情論を煽り、それこそ、「行為する者にとって、行為せざる者は最も苛酷な批判者」という言葉を裏書する事態に立ち至っているのではないかと思われる。


大事なことは、現代生活における公平・公正・安全といった面が行政の果す役割を抜きにして維持し得ない以上、いかにして最小のコストで最大の効果を発揮せしめるかであろう。 


そして、その基礎をなすものが公務員労働であるとせば、一に懸かって質の向上が眼目ということになる。だが、現在の公務員叩きが続いている中で、果たして国及び地方の公務員のモラール(士気)はどういう状態なのか、危惧される。


日産自動車の名経営者として名高いカルロス・ゴーン氏の言葉に「経営者がやるべきことの中で最も重要なことは、従業員のやる気を起させること」「彼らのやる気こそが価値創造の源泉となる」とあった。


現在のような公務員叩きの風潮のみが席巻する中で、果たして公務員のやる気を引き出し、労働の再生がなし得るのだろうか。

こう考えれば、やはり、簡素にして効率的な行政改革を進めていくための現実的な方法の一つとしては、官僚自らがその線に沿い協力するよう誘導し、また、人員削減に成功したら、その浮いた経費の一部を徹底的に見直しされた後の残存人員の労働強化に対応し、プラス化しうるようなインセンチブに充ちた方策をも合わせ考えれば、より効果をあげうるのではなかろうかと、と思料する次第である。(評論家):再掲


2012年11月02日

◆ チープ・ガバメント 

眞邊 峰松
  
   
国民・住民の役に立つ行政機構とは、能率のいい必要にして最小限度の組織・人員―。この考え方を否定する人はいないと思う。 ただ、機構は仕事に対応するものである。 

だから、機構を廃絶したり、簡素化したりするには、仕事を亡くすか、仕事のやり方を変えるか以外に、簡素にして効率的な機構への改革はないはずである。 

意外と、この簡単な事実を理解し納得する人は少ない。とりわけ、最近の風潮のようにも思える公務員叩きの大合唱の中では、とくにそうである。 それはよく風刺的に“お役所仕事”と揶揄される公務員労働への批判と同列視される。
 
だが、そもそも、日本の公務員数から見て、既に群を抜く小さい政府だという事実が議論から抜け落ちてしまっている。 

それでいて、日本の行政サービスがこれらの国々に比し劣悪だという話も聞かない。 これからすると、私には、現下の風潮はかっての官尊民卑の裏返しのような感情的な議論が先行し、冷静さ・客観性を欠いているような気がしてならない。
 
とは言っても、このような公務員への厳しい批判も、現在ではいざ知らず、かっての公務員の勤務態度には休まず・遅れず・仕事せずと揶揄される実態が一部にあったことからすれば、当たらずとも遠からずの非難ではあるだろう。
   
しかし、この非難は公務員の数量(人数)と質の話。 これを逆に、機構の方から考えていこうとするのは本末転倒であり、やはり実効はあがらない。

これをやはり実効あらしめるためには、やはり「民でできることは、できるだけ公から民へ」という程度に止まらず、「どうしても公でやらねばならないことのみを、公で」という、現在までの行政サービスを根底から見直すと言う極限的な対応の検討が必要ということになろう。 同時に、国民・住民側としても行政サービスの低下をも受け入れるという覚悟が必要となろう。 

その場合、勿論、かく主張するマスコミ・論者が純粋に公益を主体にした考えに立っているかどうか、自身がサービスの受益者なのかどうか、または受益者の立場をも踏まえた議論を行っているのかどうか、という点を十分吟味してかかることが必要なることは、論を待たないであろう。

これらを踏まえず、公務員叩きに闇雲に突き進む現在のマスコミなどの論調は、「どうしても公でやらねばならないことのみを、公で」という真剣な議論抜きの感情論を煽り、それこそ、「行為する者にとって、行為せざる者は最も苛酷な批判者」という言葉を裏書する事態に立ち至っているのではないかと思われる。

大事なことは、現代生活における公平・公正・安全といった面が行政の果す役割を抜きにして維持し得ない以上、いかにして最小のコストで最大の効果を発揮せしめるかであろう。 

そして、その基礎をなすものが公務員労働であるとせば、一に懸かって質の向上が眼目ということになる。だが、現在の公務員叩きが続いている中で、果たして国及び地方の公務員のモラール(士気)はどういう状態なのか、危惧される。

長引く業績不振と巨額の負債にあえいだ日産自動車のV字回復させた現代の名経営者として名高いカルロス・ゴーン氏の言葉に「経営者がやるべきことの中で最も重要なことは、従業員のやる気を起させること」「彼らのやる気こそが価値創造の源泉となる」とあったが、現在のような公務員叩きの風潮のみが席巻する中で、果たして公務員のやる気を引き出し、労働の再生がなし得るのだろうか。

こう考えれば、やはり、簡素にして効率的な行政改革を進めていくための現実的な方法の一つとしては、官僚自らがその線に沿い協力するよう誘導し、また、人員削減に成功したら、その浮いた経費の一部を徹底的に見直しされた後の残存人員の労働強化に対応し、プラス化しうるようなインセンチブに充ちた方策をも合わせ考えれば、より効果をあげうるのではなかろうかと、と思料する次第である。(了)(評論家)



2012年10月24日

◆最近の対中国外交に思うこと

眞鍋 峰松
    

まず、この文章をお読み頂きたい。「正道を歩み、正義のためなら国家と共に倒れる精神がなければ、外国と満足できる交際は期待できない。その強大を恐れ、和平を乞い、みじめにもその意に従うならば、ただちに外国の侮蔑を招く。その結果、友好的な関係は終わりを告げ、最後には外国につかえることになる。

とにかく国家の名誉が損なわれるならば、たとえ国家の存在が危うくなろうとも、政府は正義と大義の道にしたがうのが明らかな本務である。・・・・戦争という言葉におびえ、安易な平和を買うことのみに汲々するのは、商法支配所と呼ばれるべきであり、もはや政府と呼ぶべきでない」。 キリスト教信者として名高い内村 鑑三氏の著書「代表的日本人」中の西郷隆盛の言葉である(1908年原著 岩波文庫 鈴木範久訳)。

この言葉の真髄は“ただ相手国の強大さに萎縮して、うまくやろうというような処世術的外交は避けるべきである。 そうすると、かえって侮られ、それまでの友好関係もくずれてしまう”という一点にある。                             
読めば、この文章、これまでの我が国の対中国外交への痛烈な皮肉と解釈できるような気がする。 戦後数十年かかってここまできた日中の外交関係。 この偉大な先人の言葉を無視・軽視するような事態を招くことによりその成果まで灰燼に帰すことのないよう願いたい。 

また、過去の日本外交においてややもすれば多々見受けられた“商法支配所”、即ち、経済的利益を重視するあまり、我が国外交を誤らせたという事態も同様である。          

幸い、今回の尖閣列島を巡る二国間の衝突に関しては、経済界や財界からの、紛争の早期解決だけを願う声も少ないように思う。 それにはそれなりの理由があるのだろう。 

周知のように、近年の中国の居丈高な過剰反応は尖閣列島周辺海域の石油等の資源開発に絡んでのことであり、日本においてもこの側面が熟知されている。 これが今回の場合、経済界・財界からの横槍や雑音がない理由であろう。

近年著しく経済力を増した中国にとって経済カードは強力な武器になる。 我が国経済にとってレアアースの輸入停止は甚大な影響を及ぶすとしても、中国経済にとっても多少影響があろう。 だが、全てにおいて政治が優先する社会ではそれは問題にならない。 

そこで参考になるのは、米国のグーグル社の態度であろう。 自由主義社会の柱とも言うべき情報の自由を求めて中国当局と真正面からぶつかったのだが、これも最悪の場合には撤退もやむを得ないという同社の覚悟があってのこと。 

果たして、口を開けば自由主義経済・市場経済の効用を説く日本の財界・経済界の人達にこの覚悟が有りや無きや。 史上初の財界人から登用された日本の中国大使、これにどう対処していくのか、注目したい。

また、今回の事件に関する新聞テレビ等の報道やコメンテーターの解説を見聞きしていると、相変わらず、中国側の国内事情、つまり国家指導者間の主導権争いや貧富の過大な所得格差問題などを取り上げ、訳知り顔で背景説明をしているように見受けられる。 

このこと自体は事実なのであろうが、だからどうだと言いたいのだろうか。 日本の主張を手控えよ、とでもいうのだろうか。 それより、国際紛争対処の常識として、これら外交紛争に関する政治上の議論は国内だけで止めるべきであり、交渉相手国の国内諸事情を参酌し過ぎる人間や最終的な解決策を持たずして相手国に乗り込む愚を犯す政治家等が多過ぎるのも困ったことではないだろうか。 

こういった国内の無責任な議論や対応で、対外折衝の任にある者の足を引っ張って何になると言うのか。 老獪な中国外交のこと、日本国内の議論の誘発・分断が計られ、結局は日本の国益が損なわれるだけだろう、と思う。

皮肉なことに、中国古典である孟子の離婁篇第四に「夫れ、人は必ず自から侮りて 然る後によそ人もこれを侮り、家は必ず自から毀(こぼ)ちて 然る後によそ人もこれを毀ち、国は必ず自から伐(やぶ)りて 然る後によそ人もこれを伐う。」とある。          

つまり、人間というものは、自尊心を失って、自身を軽蔑するようになると、その気持が言動に現れて卑屈、投げやりになり、それが他人の軽侮を招く、他人に軽蔑される原因は、自分が作っているのだ。 自らを持することが厳でなくなると、家を治めることもできなくなって、家は崩壊する。 内輪がしっかりしてさえおれば、外圧だけでは決して壊れるものではない。 

国家とても同じことで、内に姦邪の臣がはびこり、君主に統御の才なく、国民に不平不満が高まるという末期症状が現れて、他国に攻め滅ぼされるわけであり、明主賢臣がいて善政を布いている限り、自壊作用が起こらず、従って他国の攻め込む隙はない、というのである。

この紀元前4世紀の孟子の言葉は、ひとり我が国のみならず、現代中国の為政者への痛烈な皮肉となり得ると受け止めるのは、私だけではあるまい。(評論家)

2012年06月27日

◆微妙な関係?日中韓

眞鍋 峰松
 
  
<再掲>近年になって、日本と中国・韓国の間で一大外交戦争が起こっている。
 
重要なのは、それが外交という昔ながらの国家と国家との間の政治問題というより、国民と国民との間・国民の感情間の紛争の観・匂いがすることである。
 
この紛争も、特に平成17年の戦後60年という節目に起こった国連改革問題、とりわけ日本の安保理常任国入り問題が両国国民の反発を呼び、靖国参拝、領土問題等、戦後処理を巡る微妙な取り違いが一層顕在化してきた故であろう。 

何よりも世代交代が進む日本人側の、両国はいつまで謝罪と賠償を要求し続けるのかという嫌悪感と、過ぎ去ったと思い込んでいた戦争と戦後処理に関する意識を巡る感覚の変化が、一層明確化してきたということなのだろう。

考えると、我々60歳代超の世代の人間はどこかに、少なくても今次大戦を引き起こした国としての責任と、両国に対し一方的に多大な迷惑をかけたという歴史感覚を有していることは間違いなかろう。

しかし、現在の社会の中核をなす50歳代以下の世代の人達はそうではない。 日本が世界の経済大国化し、世界からの驚異と羨望の下におかれてきた状況下で成長し、この両国に対しても世界に誇る経済力を利用した経済援助を続けてきたではないか、という免罪意識の方が強い世代だと言えるのではないか。 

このことが、戦争被害を歴史的事実として継承し続けてきた両国中核世代の感情とのぶつかり合いとなって、剥き出しの国民感情の衝突となった、と思う。

「文化の交流こそが大事だ」と、よく言われる。だが、それは、常に一方通行ではなく、相互的なものである。日本・中国・韓国の間でも同じこと。

例えば、漢字が中国・韓国から日本へ伝わったことや、儒教・仏教など多面的に文化が両国から日本へ伝わり、日本文化の成立に大いなる影響をもたらしたことは歴史的事実である。 

だが、漢字一つを考えても、これはある書物からの受け売りだが、近代以降、逆に日本が作った「新造語」が、日本から中国に相当数逆輸入されたことも事実だ。 

例えば、経済、宗教、信用、手続、目的、代表、現金、譲渡、学校、検査官、法人、支配、哲学、理想、新聞、図書館、計画、金融、交通、会話、反対、義務、損害賠償、・・。 
  
「化」という字をつけて、形や性格、変更を表す言葉・言い方も日本語からだ。また、形式的、科学的という「的」も日本からの逆輸入である。
 

かつて清の末に膨大な新名詞(新造語)が日本から流入したので、「新名詞」を使用しないようにと命令しようとしたところ、「名詞」そのものが立派な新名詞だという笑い話があるほどだと聞く。

また、孫文の革命運動も初めは「造反」と称していたのが、日本からの「革命」の単語の方が新鮮で良いと言って、以降「革命」と名付けた、とのことだ。
   
何も私は、だから日本文化が上であるとか、優れているとか、主張しているのではない。このようにお互いの文化が相互に影響しあい、世の中が変っていくのが文化の交流であり、グローバル化なのだということ、両国がよく日本批判・排斥の決まり文句として言う文化侵略といったものでもない、と言いたいだけである。
   
お互いの文化の違いを認識し、相手の文化への理解の上に立って、初めて「友好」が成り立つ。本来の日・中・韓の文化・習慣の違いや戦後日本の変化を無視し、この無視の上に立ってまた大きな誤解、歪曲を量産して、悪循環を繰り返すようでは、到底真の友好など夢のまた夢となってしまう。

その一例が、靖国参拝問題に対する単なる政治駆け引きだけではない、根本的感覚差として現れたのであろう。
   
今後、中国の民主化が進み、西洋式の民主主義・市民文化を理解・経験しない限り、真の友好は難しいのではないか。

また、韓国についても、その極端な自民族優位主義(エスノセントリズム)意識を払拭しなければ、難しいのではないだろうか。誠に残念なことである。 (完) (評論家)


2012年06月21日

◆最近の風潮に思うこと (その五)

真鍋 峰松


以前の事だが、朝のテレビ番組の中で、大いに気になることがあった。それは、低額宿泊施設(生活保護法に基づく宿舎提供施設)の運営を巡る訴訟事件に関する報道だった。

内容は、1人の施設退所者が設置運営主体であるNPO法人を相手取り、法外な利用料金を自分名義の口座から勝手に引き落としたので返還を求める、とのこと。 

口座に入金されるのは当人の生活保護費支給額月12万円。そこから、施設利用料金9万円を差し引き、結局本人の手元には3万円しか残らないというのである。 

テレビ取材に応じている本人は健康で実直そうな63、4歳の男性で、現在電気修理業を営みアパートで一人住まい。 その談では、月12万円あれば十分一人暮らしも可能、在所時に3万円の手元金しか残らないのはおかしい、施設の利用料金が不当と言うのである。 

一方、施設側は9万円の利用金の内訳は、毎日3食の食費で4.5万円(内食材費1.5万円)、施設管理・設備費等で4.5万円と弁明。

何故、ここで事件内容を詳細に伝えるのか。それは、この報道内容に腑に落ちない点を感じたのである。何より、報道の趣旨・着眼点が不明であった。

施設側が勝手に口座から引き落とすこと自体に関する問題意識なのか、それとも、元入所者の主張するように不当に高い利用料金を問題にしているのか、或は、当該NPO法人自体に対する本質的な疑惑を伝えたいのか、判然としなかった故である。 

口座引き落としなら所管行政の考えを追及すべきだろうし、不当料金と言うなら、例えば食費4.5万円のうち食材以外の3万円の内訳なり管理・設備費の詳細を追及し、他の施設との比較考量や所管行政の見解を糺すべきだと思われた。 

法人に対する本質的な疑惑なら如何にも中途半端で、当該法人の他の施設も取材すべきである。 前提の運営実態や費用負担の仕組みも伝えずして。(つづく)

2012年06月16日

◆最近の風潮に思うこと (その四)

真鍋 峰松


今の世の中、あらゆる分野で、善く言えば社会をリードしている、悪く言えば掻き回しているのは、テレビ報道であろう。 

活字による報道媒体である新聞・雑誌などとは違い、テレビのような電波媒体は即時性・臨場性などに優れ、時間に追われじっくりと落ち着いて物事を考察することの少ない現代人にとって、一番相性の良い媒体であろう。 

だが、電波媒体の危険性を指摘する人も多い。 報道を急ぐあまり消化不良気味になることは避けられないし、視聴者にとっても弾丸並みのスピードで流れる言葉は凡人にとり言葉の持つ意味の反芻も効かず、聞き流すことが多々ある。

さらに、番組に登場するコメンテーターと称する種々雑多な人たち。視聴者受けを狙ったような知名人を並べ立て、あらゆるジャンルの事件報道に種々コメントを発するので、如何にも素人感覚で現場から遊離したケースも多い。この番組に居合わした人たちも福祉現場・行政に精通しているとは到底思えなかった。

その故か、番組上では弱者の立場のみを強調したようなコメントだけが多かった気がする。

このような問題意識の判然としない報道よりも、番組に登場した原告となった健康で実直そうな弁も立つ63・4歳の男性が何故この種の施設を利用せねばならない環境に立ち至ったのかを追及する方が、今の厳しい世相を現場の目から取り上げる視点からの、一つの題材になり得たのではないかという気がするのだが。 

本来のあるべきジャーナリズムの姿としては、もう少し冷徹で深みのある、責任ある報道を期待したいのだが、無理なのであろうか。

とりわけ目立つのは、深い考察力もなく、現実や実状も詳しく知らずして、ややもすれば、一方的に強者を責め、弱者を擁護する側面の克ち過ぎた報道である。
これが、逆説的に、モンスター・ペアレンツ(保護者)やぺイシェント(患者)の問題として、一時揶揄的に取り上げられた由縁でもあろう。

望ましい報道として、その客観性・中立性を強調したある書物の言葉を挙げておきたい。

「ジャーナリズムが大衆の中におらねばならぬことはいうまでもない。だが、そのことはジャーナリズムが大衆の中に埋没してよい、ということではない。権力に媚びざることはもちろん大切だが、大衆に媚びざることはもっと重大である。

ジャーナリズムが見識を失って大衆に媚びはじめると、活字はたちまち凶器に変ずる。富者、強者、貧者、弱者に媚びざることがジャーナリズムの第一義だが、その原則が影をひそめて、オポチュニズムとセンセーショーナリズムだけになってくる」。

報道の受け手としての我々も、十分に心しておかねばならぬ言葉だ、と思う。
(つづく)
                             <評論家>

2012年06月06日

◆最近の風潮に思うこと(その三)

真鍋 峰松


昔、学校で国会を「言論の府」、特に参議院は「良識の府」と呼ばれると教わった遠い記憶がある。だが最近では、私には、その言い回しが如何にも虚しいものに聞えてくる。 

そこで見られるのは、出し入れ自由自在のご都合主義で、論戦にはほど遠いお互いの尊厳を損じ合う罵詈雑言に近いものまで見受けられる。いつの時代からこんな風になったのだろうか。 

言葉一つで相手を殺すことだってできる。本来、それほどの力を持ったものが、言葉である。そんな言葉であるから、無責任なものであって良い筈がない。まして国会という、これ以上ない公開・公式の場ではないか。
 
国会(帝国議会)の第一回開会は明治23年(1890年)のことだから、国会論議も約110年の歴史を刻んできた。 その歴史の中では、それこそ生死を賭けた言葉のやり取りは、多々ある。 

昭和12年第70回帝国議会での浜田国松衆議院議員(政友会)が行った軍部の政治干渉を攻撃する演説を巡る、時の寺内寿一陸軍大臣との有名な「腹切り問答」、昭和15年第75回帝国議会での斎藤隆夫衆議院議員(民政党)の軍部批判演説など、当時の世相の下では生死を掛けた発言であったろう。
             
道元禅師の正法眼蔵には「愛語 回天の力あり」という言葉がある。 

分かりやすく言うと「思いやりのある言葉は、人を変えていく力がある」ということのようだ。 

また、中国古典の漢書(劉向伝)には有名な「綸言 汗の如し」つまり、出た汗が再び体内に戻り入ることがないように、君主の言は一度発せられたら取り消し難いことを意味する言葉もある。 斯様に、古くから言葉の重みを強調する警句は数多い。

さらには、老子には「多言なれば、しばしば窮す」、荘子には「大弁は言わず」と多弁の愚を戒める警句すらある。
 
それに較べて、最近の・・・、と一々並べ立てるのも野暮というものだろう。 だが、こと、国会や閣僚に限らず、今やマスコミの寵児と化した橋下徹大阪市長(前府知事)にも言葉を重要視しない言動が多々見受けられるのも、如何にも真に遺憾なことである。(つづく)

2012年05月28日

◆最近の風潮に思うこと(その二)

真鍋 峰松


肺炎のため101歳でお亡くなりになった松原泰道師は、私が心から敬愛し、私叔する仏教家のお一人である。

 同 師の説かれるところには、我われ凡人の機微に触れること多く、限りない人間への愛情に満ちた言葉が多い。

それこそ数多ある著書の一つである「迷いを超える法句経」は、真に平明にして、教えられるところの多い本であるが、その中で「こころこそ こころ迷わす こころなれ こころにこころ こころ許すな」との詩句が引用され、愛と憎しみの意(こころ)が理性に勝ち過ぎ、感情が狂うと眼まで曇るものです、と説かれている。
 
そのことを故亀井勝一郎氏は、「言葉は、心の脈拍である」、松原師は「言葉は、心の足跡である」と表現されている。 

真に人間の健康状態は其の人の脈をみれば判るように、其の人の心が病んでいるかどうかは其の人の言葉を聞けばたちどころに判断できる、其の人の言葉を聞いているうちに、次第に其の人の心の足どりが微妙に感じられてくるものだ、との教えである。 

また、同師は、寒山詩からの引用として「心直ければ出づる語も直し、直心に背面なし」と。 

世間は直心からでる直語に反感を持ちやすい。世渡りに賢明な現代人はもちろん直心から出る直言を避ける。しかし、現代最も大切なのは、背面無き直心から発せられる直言の叱責であろう。それが実るには他者に成り切る愛情の涵養である、と説かれる。

私は、これらいずれも、ギスギスした人間の心と感情的な二者択一的な議論ばかりの現在の政治や社会への、惜しくも逝去された恩師からの遺言・直言と受け止めたい。合掌。
(つづく)
                        <評論家>

2012年05月16日

◆最近の風潮に思うこと(その二)

真鍋 峰松


肺炎のため101歳でお亡くなりになった松原泰道師は、私が心から敬愛し、私叔する仏教家のお一人である。

 同 師の説かれるところには、我われ凡人の機微に触れること多く、限りない人間への愛情に満ちた言葉が多い。

それこそ数多ある著書の一つである「迷いを超える法句経」は、真に平明にして、教えられるところの多い本であるが、その中で「こころこそ こころ迷わす こころなれ こころにこころ こころ許すな」との詩句が引用され、愛と憎しみの意(こころ)が理性に勝ち過ぎ、感情が狂うと眼まで曇るものです、と説かれている。
 
そのことを故亀井勝一郎氏は、「言葉は、心の脈拍である」、松原師は「言葉は、心の足跡である」と表現されている。 

真に人間の健康状態は其の人の脈をみれば判るように、其の人の心が病んでいるかどうかは其の人の言葉を聞けばたちどころに判断できる、其の人の言葉を聞いているうちに、次第に其の人の心の足どりが微妙に感じられてくるものだ、との教えである。 

また、同師は、寒山詩からの引用として「心直ければ出づる語も直し、直心に背面なし」と。 

世間は直心からでる直語に反感を持ちやすい。世渡りに賢明な現代人はもちろん直心から出る直言を避ける。しかし、現代最も大切なのは、背面無き直心から発せられる直言の叱責であろう。それが実るには他者に成り切る愛情の涵養である、と説かれる。

私は、これらいずれも、ギスギスした人間の心と感情的な二者択一的な議論ばかりの現在の政治や社会への、惜しくも逝去された恩師からの遺言・直言と受け止めたい。合掌。
(つづく)
                       

2012年05月03日

◆最近の風潮に思うこと (その一)

真鍋 峰松


最近の日本の風潮は、国会論議やマスコミ論調を見聞きするにつれ、政治の面でも、社会面でも、“いい””悪い“という単純な両極端に焦点をしぼって対決を迫るというか、結論を押し付けようとする空気が強く感じられ、国民も風になびく葦のごとく右往左往する。
 
目下の焦点となっている日米外交における沖縄基地移転問題・・・の如く。私の独断かも知れないが、どれをとっても理性的でない、感情的な二者択一的な議論ばかりのように思われて仕方がない。 

何でも寄せて二で割る式の曖昧主義・中道主義が良いというのではないが、問題を両極端に絞って対立させ、その良し悪しを定めるやり方は決して現実的ではない、と言いたいのである。

あえて言えば、“いい””悪い“をはっきりさせ過ぎるような世の中は、窮屈でもあり、不健全だということになるのだろう。 実際には、“いい””悪い“を極めつけられないグレーゾーンの部分があることが現実でもあり、もともとその幅の中をゆるやかに往還するのが生活であり、政治でしょう、と。 

古来より、日本人は、思想や宗教に縛られることのきわめて少ない体質で、そういう人々が豊かさと苛烈さをともに齎す風土の中で融通無碍に生きてきた、と言われる。それが“日本民族は農耕民族”論の教えるところではなかったか。

それに反し、どうも今の風潮は、全般的にあまりにも自分自身を省みず、他人を責めることに急に過ぎるのではなかろうか。 (つづく) <評論家>

2012年04月20日

◆人事の季節 悲喜こもごも

真鍋 峰松
  

この季節、いずれの組織・団体においても定期の人事異動が行なわれる。 様々な噂・憶測が飛び交い、当事者はそれに一喜一憂するというのは毎年のことである。

だが、人の噂話ほど当てにならないものはない。 人事異動は悲喜こもごも。 何千、何万という人間を抱える大きな組織に限らず、例えもっと小規模な組織でも、皆が満足し幸せを感じる異動など100%あり得ない。
 
当人にとって、特に昇格を控えた時期であれば、より「そわそわ度」は高くなる。 異動先によっては家族ともども引っ越しという事態ともなるので大変だ。 だが、その結果は最後まで判らない。

その人事異動。 問題は、大抵の場合、自己評価と、他人とりわけ上司の評価とのギャップが大きいことである。 自己評価の高い人間ほど客観的評価との落差を思い知ることになる。 ただ、この客観的評価自体にも問題が潜む場合が多い。
 

昨今、どこの組織においても幾つかの評価項目を定め評点化している場合が殆どであるが、そもそも人間の適性・才能を評価する側の人間にしっかりした能力があれば良いのだが。 それより自分の部下の能力・成績も指導次第でどうにかなるのだ、という自信を持った上司こそが望ましい。
 

正直、私のような者にとっては、この人事評価一つでこの人間の一生を左右するのだと思うだけでもそら恐ろしく、到底確信を抱くには至らなかった。

ある書物の中で、人事担当責任者の言葉として「各部署から部下を評価した報告書が回ってくるのですが、“部下のここが気に入らないから、異動させてくれ”みたいなことが書いてある。

上司というのは、部下のいいところを引き出すのも仕事のうちだと思っていますから、どこの部署で働けば、部下の能力が生かせるか、そこまで書いてくるように書き直しを要請したこともあります。

それぞれの上司が部下の適材適所を真剣に考えれば、会社全体が活性化されると信じていたので、好き嫌いで評価を下すのは許せませんでした」と記述されていたことを思い出す。 私の経験からしても、至極当然の言葉であろうと思う。

そこで、現職当時に常に心に留め置いた、現代でも十分通用する上司の心得として江戸中期の儒者 荻生 徂徠の言葉に徂徠訓というのがあったので、ここで紹介させて頂く。

1) 人の長所を始めより知らんと求めべからず。 人を用いて始めて長所の現れるるものなり。
2) 人はその長所のみ取らば即ち可なり。 短所を知るを要せず。
3) 己が好みに合う者のみを用いる勿れ。  
4) 小過を咎むる要なし。 ただ事を大切になさば可なり。    
5) 用うる上は、その事を十分に委ぬべし。  
6) 上にある者、下の者と才知を争うべからず。
7) 人材は必ず一癖あるものなり。 器材なるが故なり。 癖を捨てるべからず。      
8) かくして、良く用うれば事に適し、時に応ずるほどの人物は必ずこれあり。

もっとも、この徂徠訓も江戸中期という封建制度下のもの。 現代の上司たるもの、とりわけ中間管理層は想像以上に大変なのかも知れない。

 
上からと下からの重圧の下、指導が厳し過ぎるとパワハラと疑われ、異動先が当人の意に沿わないと冷酷と言われるそうなのだから。
 

だが、人材以外に頼るべき資源を持たないのが、我われの日本。 その人材を活かすも殺すも適切・妥当な人物評価。 確たる信念を持ったリーダー・管理職達の奮闘を心から望みたい。

2012年04月10日

◆花に因んだ一つの話題

眞鍋 峰松


桜の花が満開。今年は気候不順のせいか、梅の開花が遅れ、桜の開花時期と少し重複して、例年にも増して我々の眼を楽しませてくれている。 そこで、前回に続き、花に因んだ話題から。
 
これも何かの書物で読んだ話だが、江戸時代後期の儒学者に安積艮斎(あさか ごんさい)という方がおられた。この方、二度結婚して二度とも、嫁さんに逃げられたという。「その容貌醜なるに耐え得ずして」というから、よほど酷いご面相だったのだろう。
 
彼、ここにおいて発憤し、「もはや、女とは縁なきものと決め、今後奮励して大学者となり、この恥をそそぐ」と志を立て、郷里を捨てて江戸に出、佐藤一斎の門に入って猛勉強をした。やがて、幕府の学問所昌平黌の教授にまでなった。
 
その彼は、逃げた嫁さん二人の画像を床の間にかかげて拝んだという。「自分の今日あるは、この二人のお陰である。もし自分が彼女らに愛されていたら、この学者艮斎は生れなかったはずだ。その恩、忘るべからず」として。 この話からしても、艮斎は並み大抵の人物ではない。
 
この大学者 安積 艮斎が、その弟子たち与えた一文が、「梅には梅の愛すべき香色あり。桜には桜の愛すべき香色あり。 桃李海棠の類に至り、おののその善き所あれば、その本色のままを佳しとす。もし梅に桜の花の開き、桜に梅の花開きたらんには、妖というふべし。人もまたかくの如し。」という言葉である。

そりゃ、そうでしょう。 梅が桜を羨んだり、桜が梅の花を咲かせようとしたり、現代の人間は遺伝子操作とて兎角そういうことをしたがるが、もしそれが実現したら、化け物である。 

艮斎がここで言わんとしたのは、人もまた花と同じように、「本色のまま」がいいと言うのである。 人みなそれぞれ、良いところがあるのだから、いたずらに他を羨まず、他の真似をせず、自分の本来の持ち味を生かしきりなさい、ということ。

一時若者たちの多くが、我も彼も、これが自己主張・個性の表現とばかりに頭の毛を真っ黄々に染め上げたり、脱色したりして街角を闊歩した時代があった。また、若い娘の中には、顔をガングロと呼ばれる、何とも形容しようも無い容貌にさえ仕上げていた時代があった。 

これら若い日本の世代を見ながらながら思ったことは、無理やり周囲に合わそうとするあまり、自分自身を消し去ってしまう傾向が見られがちな点である。黄色や茶色の髪、果てにはガングロなどで自己を主張したと錯覚しているのではなかろうか。
 
大事なことは、違うだれかに自分を変身させることではなく、まずは自分が何であるかを知ろうとする姿勢であり、そうした姿勢が身についてこそ、自分は他人と違う、他人も自分と違う、それで当然ではないかという考えにつながっていく。 

ここに、艮斎先生が仰せの、人みなそれぞれ、良いところがあるのだから、いたずらに他を羨まず、他の真似をせず、自分の本来性を生かしきりなさい、という言葉の意味があるのだろう。
考えれば、私も春を盛りに咲き乱れる花を愛でながら、妙なことを考えたものである。