眞鍋 峰松
「白い巨塔」「大地の子」などスケールの大きな社会派小説を数多く著した人気作家の山崎豊子(やまさき・とよこ、本名・杉本豊子=すぎもと・とよこ)さんが、9月29日午前、心不全のため死去された。88歳。大阪市出身。葬儀・告別式は親族で行う。喪主はおい、山崎定樹(やまさき・さだき)氏。
山崎豊子さんは、大正13年、大阪市生まれ。昭和19年に京都女専(現・京都女子大)国文科を卒業後、毎日新聞大阪本社に入社。学芸部時代のデスクで小説家としても活躍していた井上靖氏に刺激を受け、32年、昆布商(小倉屋山本)だった生家をモデルにした長編小説「暖簾(のれん)」で作家デビュー。
33年発表の「花のれん」で直木賞を受賞、同年退社して作家活動に専念した。
初期には「ぼんち」など大阪の商家を舞台にした作品を発表したが、40年、大学病院の腐敗を描いた「白い巨塔」から社会派になった。
都市銀行の深層に迫った「華麗なる一族」、シベリア抑留体験をもつ商社マンが主人公の「不毛地帯」など企業ものから、第二次大戦下の日系アメリカ人を描いた「二つの祖国」、中国残留孤児の半生を描いた「大地の子」など、国家的な視野へと展開していった。
また60年の日航機墜落事故を題材に「沈まぬ太陽」を著した。
今年8月から、週刊新潮で新連載「約束の海」を始めたばかりだった。旧海軍士官の父と海上自衛官の息子を主人公に戦争と平和を問う大河小説で、20回分を書き上げていた。
(10月1日付け産経新聞記事から引用)
私にとって、山崎 豊子さんとの思い出と言えば、世に社会派の小説家というのは本当に変わった人種、と言うか、あの様な小説の創作活動は、物凄い粘着質的な息の長い地道な取材の下で行われ、あの種の小説が何冊も描き続けれるんだな〜、という驚きが一番。
その山崎豊子さん(以下、女史と称する)とは、もう20年以上も前になるが、知遇の縁を得た。女史と初めてお会いして以来、私の何処の何がお気に召されたのか解らないが、それ以後の約1年間というもの、ほぼ毎晩夜9、10時頃には、多分女史が執筆活動に疲れた頭の休みがてらということか、電話を頂く会話が暫く続いた。
私が感じたことは、人生の大先輩・目上の女史に対して失礼ながら、ご本人は非常に変わった性格だが、意外に真っ当な常識の持ち主なんだな〜、ということだった。
元々、私が山崎女史に初めてお会いしたのは、私が役人として文化行政を担当していた、確か平成4年春の終わりか、夏の初め頃だった。
当時の上司から、「文化人を中心にした組織を立ち上げるのに、どうしても堺市内にお住まいの高名な山崎女史にも参加して頂きたいのだが、手掛かりは無いか」、との問いがあったのがキッカケだった。そこで、幅広い人脈をお持ちのある人物を介在役に、私から女子に面会を求めたのが出始めだった。
当初、女史は役人である私の訪問を嫌がられていたのだが、初めて浜寺のお宅を訪問した際には、20分の約束が1時間半以上の長話に及んだ。今では、女史と何の話題でそこまで話が弾んだのか、全く定かではない。多分、ご主人の入院先である府立病院での出来事ではなかつたかと思い出す。
そして、その年の11月初旬の大阪府主催の私学功労者表彰式の際の、「大地の子」執筆活動を巡るエピソードなどを中心に1時間程度のご講演の依頼にご自宅を伺った。
だがそれも、最初の内は、女史は、“講演は嫌い”を理由に遠慮する、こんな形の講演なんて一度もしていないのよ、の一点張り。 そこを何とかお願いを、と押し続けると、最後には、“根負けしたわ、まぁ貴方が来られたら仕方が無いね”と不承不精ながらお引き受け頂いた、という、望外な喜びがあった。
更にある時、女史から急電話が掛かり、相談事があるとの連絡があった。伺うと、話の内容は、“今、大地の子の原稿料を中心にその他の私財を併せ、中国在留孤児の帰国後の教育育英奨学金の基金設立を文部省に働き掛けているが、一向にラチが開かない、どうにかしてよ”との相談だった。
そこで色々と問合せを、各方面に働き掛けたが、同様の有様。
そこで、府教育委員会と相談。それ程にお急ぎなら府内の中国在留孤児ための教育育英奨学基金設立なら、府教委の方で対応させて頂くとの回答を貰った。
この財団だが、最終的には、戦争三部作〜「不毛地帯」「二つの祖国」「大地の子」〜の著作権料約3億円を原資に、その果実を教育育英奨学金として授与する制度の設立に漕ぎ着けることができ、当の女史に大変喜んで貰ったのは勿論のこと、関係者も事の成就に喜んだ。
こんな中、女史とのお付き合いでは、色々なエピソードも生じた。
中秋のある夜、いつものように夜10時頃に女史から拙宅に電話が来た。生憎私はこの夜遠くへ出かけていて不在。電話に出た家内は、外出しており連絡先も不明ですと応えると、“そんな。ご主人の行き先も聞いていいないなんて、駄目でしょう”とのお叱りを受けた。
家内が苦労をして私を探し当て、私が慌てて女史に電話すると、用件そのものはいつもの雑談程度だったが、女史からは“貴方も、何が起こるか分からないのだから、ちゃんと奥さんには行き先を言っておかなければ駄目よ”とお叱りを受ける羽目に。これも、今になれば、懐かしい思い出だ。
もう一つのエピソード。私が不在の時には、女史は電話で家内相手に色々と世間話をしておられた。ある夜、やはり私の不在の時、家内が応対したのだが、その話の内容が、当時話題沸騰の貴乃花と宮沢りえの婚約話についてだった。ハナから、女史は家内へボなこと、ボヤクことばかり。
家内相手に、“あるマスコミから、貴乃花と宮沢りえとの婚約話をどう思われますか?と私に訊いてくるのよ。私がそんなことを知る訳ないでしょう。 一体、何を考えているのよ”とのお怒りの言葉。
そのあまりの剣幕に、家内も思わず、“申し訳ございません。そうですよね。可笑しいですよね”と、ただ相槌を打つしかなかっただけのことだった。
兎に角、山崎豊子さんは人付合いが嫌いで有名。 文壇人とも殆ど付き合いが無かったようだが、何故か私は最初から可愛がって頂いた。
こんなことを書くと故山崎豊子女史からまたキツイお叱りを受けそうだが、お顔を拝見すると、一見、取っ付き難く、気難しい感じなのだが、その内実は寂しがり屋の、やはりお嬢さん育ち、だった。
私には優しく、署名入りの著書や、高血圧に良いからと自社(生家の小倉屋山本)特製の減塩醤油も、送って頂いたりした
その他、当時を思い出すと、面白可笑しいことが尽きぬほどの会話が色々とあった。
その後、私の出先機関への出向など人事異動に紛れ、双方からの連絡も途絶え勝ちとなり、数年後には暑中見舞いや年賀の交換程度のお付き合いになってしまった。
頻繁に電話でお話をさせて頂いた当時は、丁度、女史は沈まぬ太陽の執筆のため、取材活動でアフリカへも度々出向かれるなど、まだまだ旺盛な活動力・体力をお持ちだったのに、と、往時が偲ばれる。
ご逝去のニュースを聴いて、改めて、私のような人間をあれ程面倒みて頂き、何かとご心配もお掛けしたのにと悔やまれ、その後のご無沙汰をお詫びするとともに、深く深くご冥福をお祈りする次第である。(完)