2011年03月31日

◆春の花、鳥〜鶯のこと

眞鍋 峰松
 
朝夕の犬の散歩に通る道筋の隣家の庭に、一本の辛夷(こぶし)の木がある。ほぼ毎日、二回は通る道なのだが、20日ほど前に白いつぼみが膨らむまで何の木やら一向に気付かず、10日前から次々と開花しだした。

「あぁ、満開だ!」と思う間も無く、白い花びらの先端から黄ばみかけ、一輪また一輪と次々に道端に落下。花の命は儚く、真に残念の一語に尽きる。

住んでいるのはニュータウン。同時期の移住者が多い故か、近隣には同年配の高齢者が多く、ほとんどの世帯が65歳以上を主体とする家庭である。それぞれの庭には、丹精込められた四季折々の花々が咲き乱れる。

その庭に共通して多いのが金木犀。私は特にこの花の何とも言えない高雅な甘い香りが好きなのだが、秋の早朝や夕暮れ、玄関から一歩足を踏み出すと、地域全体に金木犀の強烈な甘い香りが漂う。 

これからの春の深まりとともに、梅、椿、桃、辛夷、雪柳、れんぎょう、桜、木蓮などが咲き乱れ、赤・桃・白・黄色と次々に鮮やかな色合いで眼を和ませてくれる。 この辺りは野鳥も多い。 

とりわけ多いのがヒヨドリ、モズ、メジロ。この季節、木々に隠れて姿を容易にはみせないが、鳴き声を楽しめるのが鶯だ。例年なら今の季節には庭の木々の枝にとまり、早朝から鳴き声が聞こえるのだが、何故か今年は未だ聞こえてこない。 

ただ、鳴き声も季節初めの所為か、まだまだ練習不足。特有のホ―・ホヶキョという鳴き声にもならず、ホ―だけでお仕舞か、チィチィという声のみ。もう鶯の季節かと、耳を澄ませて聞く当方としては、この中途半端な鳴き声に何だか肩透かしを食らったような気持がする季節でもある。

ところで、NPO法人近畿フォーラム21主宰の事業の一つに、大阪市内都島の毛馬村で生まれた与謝蕪村の生誕300年を祝う顕彰俳句大学がある。先日、その大学第2期講座の「修了式兼表彰式」が行われ参列した。

その中、「一般の部講座」(他には「児童・生徒の部」も)で「大阪市長賞」を受けられた方の作品に「笹子くる いつもの薬 飲みをれば」という句があった。

撰者の先生は、“笹子とはまだ整わない鳴き方をしている冬のウグイス、薬を飲みながら庭に来た「笹子」のチィ、チィという可愛げな声を楽しんでいる様子、・・・笹子はいつかは春が訪れることを告げながら、一病息災、一病息災と作者に告げているのかも知れない”、との評。 

笹子といえば、俳人高浜 虚子には「石垣の 上の竹垣 笹子啼く」との句がある。 

日本大歳時記(講談社)によると、古来梅に鶯(うぐいす)といって春のさきがけとされ、鶯の初音は二月はじめごろ、清亮にして円滑な美声で囀る。囀りの整ってくるのは三月ごろで、鳴く時は尾を揺るがす。 四月には山へ帰ると解説している。 

また、基本季語の鶯に対し、一般季語には初鶯、春告鳥、経読鳥、匂鳥、黄粉鳥、花見鳥、歌読鳥、流鶯等々と記されている。まぁ、同じ鶯にも様々な呼び名があるものだと、日本人の感性とボキャブラリーの豊かさを象徴する一例かと、改めて感心するばかり。 

中でも面白いのが経読鳥。なるほど、ホ―・ホヶキョと言えば誰しも法華経を想像する。 真に日本の春はありがたいお経の声に満たされた時季である。また、流鶯とは、春たけなわの頃、木から木へ枝移りしながら鳴き立てる有様からの名付け。 これまた、十分に納得させられる。

この式典では大阪市立大学文学部長の村田 正博先生の「蕪村俳句の面白味」と題する興味深い講演が行なわれた。

その中で蕪村秀句として紹介された鶯の句。「 うぐいすの 啼くやちひさき くち明(あけ)て」と「 鶯の 枝ふみはづす はつね(初音)かな」の二句。

この二句から見ても、芭蕉や一茶と並び称される俳人蕪村の、出生時からの数奇な人生にも拘らず、暖かい人情味を失なわなかったという人柄が偲ばれる。どうやら花や鳥というものは、老年になって、ようやくその味わいが深まってくるもののような気がする。

花を見れば、自ずと花を見るのも今年限りかも知れぬの思いが浮かび、それで花の味わいが一層深くなるのだろう。花は老年のためにこそあるもののようである。若い時分には自分が生きることに精一杯で、そんなふうに思って花を見ることはなかったのに、近頃はどういう訳か、そんな思いを抱かずには花を見ることができなくなった。 

やはり人間というものは、加齢とともに自然に回帰する習性を持つ生き物のようだ。

西行法師の歌 「願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月(もちづき)の頃 」。「散る花も 根にかへりてぞ または咲く 老こそ果ては 行方しられね」。 

詠むほどに、何ともなしに、この歌に心ひかれる昨今である。

2011年03月08日

◆50年後の“高校 卒業式”

眞鍋 峰松

これは、何もこの年齢で2度目の卒業証書が授与されたという訳ではない。毎年、母校府立I高校では、その年、今回の場合は63期生の卒業式に50年前の卒業生、つまり我々13期生が、「来賓」として招かれたと言うだけのことだ。 

他の高校でもこのような習慣があるのかどうかは知らないが、I高校では約20数年前から始まったらしい。 

我ら13期生は昭和17〜18年生まれの、68、67歳の前期高齢者。それが、18歳の青春真っ只中という己の孫のような卒業生達の記念式典に臨席して、一瞬、50年前にタイムスリップしたかのような錯覚に陥った。

往時を思い出し、懐かしかった。担任の先生から一人一人の名前が呼ばれ、次々と起立していく若者達の姿に、かっての自分達の姿を重ね合わせ、感無量。これは列席した13期生約70名の異口同音の想いだったようだ。

その感激の最中でも、やはり50年の歳月の落差というか、些細な事柄ではあるが、やはり長い歳月の流れと、世代相互の意識の違いを感じさせられた点も多々見受けられた。
 
全体としては、一時期よく報道されたような生徒間の私語なども聞かれず、国歌や校歌の斉唱など静粛・厳粛な雰囲気の内に進んだのだが、我々の時代と違い、名前を呼ばれ次々起立していく卒業生の順序は男女別なく、アイウエオの順番。

校長式辞の後は、往時のような次々と際限もなく続く来賓挨拶は、保護者会の代表からの挨拶のみ。これには、正直、足元が異常に寒さを感じた体育館内の式典だけに、大助かり。 

式そのものは、儀式中心の第一部と、第二部の卒業生達が作成した3年間の思い出が詰まったビデオ及び担任の先生達からのメッ―セージの「はなむけのビデオ」の放影など。 

中でも、時代の変化を感じたのは、先生達のビデオの内容。我々世代の感覚では、こういった折のビデオと言えば、まぁ、例の説教調の内容だろうという予想を大きく裏切り、先生方はなかなかの役者揃い。

とりわけ、女性教師3人が今風の踊り歌いながらのメッ―セージ。このシーンに、開式直後の卒業生入場で、担当の各学級を引率して先頭に入場されてきた女性教師の女子大生卒業時ばりの袴姿の凛々しさとは打って変わった様子に、大笑いしながらも、内心ではその落差の大きさに驚いた。 

また、極めつきの代物は学年主任。さすがに学年主任。初めは将来の夢や希望への激励の話等やや堅苦しい内容だったのが、一番最後は“さぁ、少女時代に恋しよう”の迷セリフ。 これには、静かに聞き入っていた卒業生や在学生が突如一斉に大爆笑した。 

しかし、傍聴側の、特に我々前期高齢者の面々はと言えば、何が面白いのか、さっぱりその意味が解らない。その時、私がハタと思いついたのが、以前に何かの折に我が娘からレクチャーを受けた韓国の人気少女歌手グループの名前。多分、学年主任の先生は少女時代の大のファンなのだろう。

慌てて、この情報を共有しようと13期生全員に伝達し終えた時は、時すでに遅し。その大爆笑の意味を理解できた時点では、ビデオの画面は他に切り替わり、後の祭り。

何やかや、驚きと感心の2時間半だったが、極め付きは最後の最後のお決まりの卒業生代表からの学校や保護者達への、「謝辞の言葉」だった。

演壇中央に立たれた校長先生の前に進み出た代表の女子生徒。何を喋るのかと固唾を飲んでシーンと静まりかえる中、女子生徒は、“それでは”と一言。 

続いて起立していた卒業生が一斉に“ありがとうございました”と深ぶかと一礼。これだけ。これには、一瞬我々のみならず、列席の来賓、保護者達もさぞ驚いただろう。 

が同時に、私は、これでよかった、卒業生全員一斉の深ぶかと下げる頭と“ありがとうございました”という一言が、彼ら彼女達の万感の想いの全て、と全身で感じとれた。
 
お読みの皆さんには反論もあろうかと思う。だが、その場に臨席し、名前を呼ばれテキパキと応答し、更には自分達の門出を自分達自らで作り上げようと懸命に事前準備に努めてきた卒業生達の気負いと気持を全身で感じた私としては、これで十分に満足した。

ただ、蛇足話で、ややお恥ずかしいことだが、終始静粛・厳粛さを待ってきた式場全体の中で、我々後期高齢者の面々はと言えば、この雰囲気とは裏腹に、私も含め、終始お隣の同期生同士、眼前に進展するドラマと往時の回顧とを重ね合わしながらの、ヒソヒソ話。 

極々の小声とは言え、若干非難されても仕方が無い状態。しかし、これも考えれば、我々はもはや人生の檜舞台から下りようとする、或いはもはや既に下り切った世代。眼の前の風景は、これから人生の大舞台の上で長い長いドラマを演じようとする若者達の世界なのだ。 

所詮、彼らのドラマの門出をお祝いする観客にしか過ぎない我が身だったが、その様な哀感の想いなどを自分自身で無意識に感じながらの2時間半だった。どうか失礼の段、平に平にご容赦のほどを。

2011年03月01日

◆蔓延するのか、“維新の会”ブーム

眞鍋 峰松

先日あるテレビ番組で、民主党の原口一博衆議院議員が番組のゲストとして出演していた。 彼は現在の混迷する政治の中にあって、台風の目の一つになるかと注目の人物。以前に総務大臣を務めた経歴を持ち民主党若手に属する清新さを感じられる論客の政治家として、私も期待をしていた。 

ところが、番組の中で、共に出演していた政治評論家や政治学者からの、現在の大阪の維新の会や名古屋の減税日本の活動に対する批判意見に対し、彼は、橋下知事や河村市長の主張を多数の住民が支持した結果なのだから、両団体の主張に賛同・支持する旨の発言があった。 

この発言に対し、各人からはこの考えこそが大衆迎合・ポピュリズム、衆愚政治などに繋がるとの厳しい指摘・反論が次々に発せられた。 

私は、この反論に大いに賛同する。彼も、これらの反論に即座に反応し、やや慌てた様子で前言を翻したように見受けられたのだが・・・。 

前々回の本誌でも「どうにも理解できない、一部自治体の動き」の中でも記述したが、それにしても、ここ最近の一部地方自治体の長の動きを見ていると、これらの民主主義の弊害を取り除くには、現在のようなタレント紛いの長を直接に選ぶ選挙ではなく、間接の選挙制度に変更する方が弊害も少なくなるのでは、という極端な考えさえ頭に浮かんでくる。 

しかし、本問題は本稿の主題ではない。私が言いたいのは、原口氏が呼びかけ人となっている「日本維新の会」の話だ。 

率直に言って、会の趣旨・主張も詳しく承知していないのだが、その番組の中でも、彼が述べた現在の大阪の維新の会や名古屋の減税日本との連携構想。もちろん、彼はこのような番組で、構想について詳細に説明するはずもない。だが、その意図ありあり、とも受け取れる発言。 そこで、以下が主題である。
     
今や、○○維新の会と名乗る政治団体は、全国津々浦々と言えば大仰だが、それ程の勢いを以て増加しつつある。 私の結論を端的に言えば、「維新」と云う言葉をそうそう安易に使用して欲しくないということ。 果たして彼らに「維新」という言葉を自ら名乗るほどの潔さと気概があるのか、ただただ選挙に当選したいがためではないのか、と言いたいのである。

手元の「大辞泉」を引いてみると、「維新」とはすべてが改まって新しくなること、特に政治や社会の革新と解説されていた。 

この語源は、孟子の滕文公篇上篇の次の言葉。『 詩に「周は旧い邦なりと雖も、其の命は維(こ)れ新たなり」と云えるは、文王の謂なり。子、力(つと)めてこれを行なわば、亦た以って子の國を新たせん 』。

金谷 治氏(朝日新聞社発行 新訂中国古典選)の訳では、詩とは詩経の大雅 文王篇。その中で『詩に、周の国は古い国であった、聖人文王の出現によって新たに天命を受けることとなった。古い国はここに若がったのである、と云っている。子(滕の文公)もまたここに述べたことを力行するなら、きっとその国を新興することができよう』と言うのである。 

つまり、ここで力行されるべきは王道政治であり、仁政であって、その中心は民を安んじることで、それにはまず経済生活を安固にすること、そして教育によって人倫道徳を明らかにすることが必要だ、と言うのである。

私の知る日本史の知識では、「維新」と呼ばれる事件は二つ。 

一つは明治維新、もう一つが昭和維新。 両者への歴史上の評価や是非はともかく、これを唱えこれを実行に移した人物群像は、全て己の命を賭し邁進したことは間違いない。 

東洋学の碩学 安岡正篤師は、その著「人間学のすすめ」の中で、昭和維新の人物像について、次のように述べておられる。

「なるほど主張するところは各々一理あるが、こういう人々によって維新や革命をやったところで、果たして世の中はよくなるのだろうかということでありました。

このことは、今日もなお、そのまま私の心に潜んでおる感慨であります。皆さんも同様であろうと思います。それで、昭和の初めの維新だの、革命だのの騒ぎの時も、敢然として、もっと世の中を良くしょうというのには、理論や手段によるよりは、そのことにあたろうという志士・国士・革命家というような人たちが、もっと人間を作り、同志を養い、それにふさわしい人物となり、それにふさわしい実力をつけなければ、そんな運動は何にもならぬ、と主張しました」と。

同師の言葉を私なりに咀嚼すれば、如何なる主義・主張も全て、その人物の内容次第。
 
これを踏み間違えると、単なる群衆心理に支配され、個人的な信念だとか思想とかいうものが失なわれ、人間も無内容になっていく。 

そこで極めて簡単なスローガンであるとか、あるいは指導者の指令であるとかというもので、容易に没理性的に盲目的に動かされるようになってゆく。その結果は恐ろしいことになる、ということだろう。

激動する現在の世界、日本の諸情勢の下、厳しい変革が求められることは周知の事実。だが同時に、闇雲に変革を求めるだけでは何の進展もない、ということは昨今の民主党の混乱振りが差し示すとおりということなのだろうか。




2011年02月20日

◆今時の男の子、女の子

眞鍋 峰松

最近、こんな話を耳にした。ある小学校の4年生のクラスの保護者授業参観での出来事。 2月10日のことだったそうだが、担任の先生が選んだ参観授業の内容が、小学4年生はちょうど10歳ということで、20歳の半分〜「二分の一成人式」に因んだ作文の発表会。
 
学年全体の授業テーマだったそうだが、単なるありふれた授業内容や風景の参観に比べ、それにしてもなかなか面白い着想。先生方も色々と知恵を絞られたのだろう。

生徒たちはそれぞれ、生れてから10年間聞き取ってきた家庭内出来事を作文に纏め、参観日に保護者(平日だったので、保護者欠席2名を除き全員が母親ばかる)の前で対面して読み上げる、という方式だったそうだ。 

私どもの年代は、学級名簿はまず男子生徒、続いて女子生徒という順番だったが、いま時はアイウエオ順の名簿。従って、生徒の読む順番も男子が終わって、次いで女子ということでもなく、アイウエオ名簿の順番で発表する。

ところが、その場に居合わせた母親達が一様に驚いた出来事が発生した。生徒達が読んだ作文は、家族旅行の思い出や家庭内での出来事、中には生徒が風邪で寝込んだ時に母親が徹夜で看病に当たってくれた思い出などに、予め担任の先生が生徒の原文に色々とサジェッションし、完成させたものらしい。

何しろ、まだ10歳という年齢のこと、その発表内容によっては、途中で感極まって泣いたり、涙声になることも当然予想されたのだろう。ところが実際にその場で見られた光景とは、男子生徒全員が号泣、女子生徒は割合と淡々と発表し終えたというのである。

この話を耳にした私、へ〜ぇという驚きの一言。     

私は、その出来事を聞き、改めて興味を抱き、この話を私の耳に入れてくれた話し手に、それでその場の母親たちの感想は如何だったのかと確認してみた。

4年生の子供を持つ母親といえば、まず30歳台。65歳を超えた私のような年代からみれば、母親自体が我が娘と同じ年代。そこでの年令ギャップに興味も惹かれた次第。

発表会での男女生徒の感性に差があつたことへの母親たちの感想は、「男の子の方が女の子より感受性が強いからとか、本質的に優しいから」というのが多数意見だったようだ。なるほど、なるほど。

母親は、どうやら女性としてのご自分自身の経験・体験に当てはめたご意見の模様だ。昔々から、男の子は男らしく気性がさっぱりして力持ち、女の子は気が優しくて神経が細やか、という、私たち時代の世間常識はもはや通用しないことが窺える。

街角を闊歩する現代の若者達を見ての感想も、男性が女性化し、女性が男性化しているというのが典型的な今時の男女観。そのことからしても、10歳にして既にその傾向が現れているのが今の世相かも。

この話、お読みの皆さんの感想は如何でしょうか。

2011年02月02日

◆どうにも理解できない一部自治体の動き

眞鍋 峰松
 
最近、報道されている一部の地方自治体の首長の行動には、理解できないことが多い。

例えば、この16日に行われた鹿児島県阿久根市の出直し市長選挙。議会を開かず専決処分を繰り返した竹原前市長が敗れた、との報道である。二度にわたる議会の不信任決議と出直し選挙、さらには住民投票によるリコールの末の、失職を受けての今回の選挙。

首長と議会との確執はどうにも止まらず、この間の市政の混乱と、選挙、選挙の繰り返しに伴う多額の公費の費消の悪影響も甚大だろう。その挙句の果て、敗れた竹原前市長の敗者の弁が、市職員組合と報道に負けた、とのこと。 

その発言からは、独善的な行動に対する市民からの批判の結果と受け止める気配は、全く見られない。 

名古屋市でも市長と議会との確執からことが発生し、始まった選挙戦の中で有権者の関心を集めている。だが、このような自治体運営の車の両輪とも言われる両者の対立による混乱は、この2市だけに止まらず、近年、全国的にも多数散見されるとのことである。

地方自治体の政治は、民主主義の実験場、草の根の民主主義の実例という表現がよく使われる。

元々、地方自治体の首長は、国の行政トップである総理大臣とは違い、講学上の大統領制つまり直接に住民によって選ばれる制度。 衆議院議員の中から総理大臣が選ばれる国の議院内閣制とは異なるが故に、国に比べても制度的にはなおさら議会との関係がギクシャクすることは仕方がないことだろう。 

これも民主主義政治志向のための避けがたい時間と費用の浪費と言えば、言い過ぎだろうか。
 
ところが、現在の大阪の橋下知事の維新の会や、名古屋の河村市長の減税日本の活動。両方ともに、首長自身が己の政策を一挙に押し進めるための、もっとはっきりと言えば、自己の唯一の政治的主張を独断的に推進していこうとするための、議会多数派工作とも言うべきもので、私には何やら戦前の政府と大政翼賛会の関係に類似した考えのような気もする。 

果たして、このようなチェック・アンド・バランスの考えを欠いた独裁的・独善的な政治活動の行き着く先は、どうなるのだろうか。

本来の地方政治と行政のあり方からみれば奇怪至極な出来事、と思う私は、一時流行りの守旧派とレッテルを張られるような存在なのだろうか。


2011年01月28日

◆何処へ向かうか大阪府

眞鍋 峰松

少し旧聞に属するが、昨年の10月のある日のサンケイ朝刊の「大手前ダイアリー」欄に書かれていた記事。“知事の奏でる笛 府民をどこへ”との見出しで、伐栗恵子記者の署名入りの記事が掲載されていた。 

内容は、「府庁担当として約1年にわたり橋下徹知事を身近で取材してきましたが、交代することになりました。・・・、そこで最後のごあいさつを」との切り出しで、「最も印象に残っているのは・・・大阪維新の会の初陣式のワンシーン」とのこと。 

擁立候補の応援で数百メートルほど支持を訴えながら練り歩いた時、知事が道行く人々に“一緒に歩きましょう”と声をかけると、「老若男女のカップルや夫婦、家族連れらがまるで吸い込
まれるように行列に加わっていきました。・・・・アイドル並みの人気を誇る知事ならではの光景ですが、私は少し怖くなりました。子供のころに読んだある童話を思い出したからです。・・・

この有名な童話「ハーメルヘンの笛吹き男」・・・・当時の幼い私は・・・どこに連れていかれるかわからない恐怖を想像して、その夜は、布団の中で震え続けました。なぜそんな記憶が呼び覚まされたのか、自分でも謎です。 

でも、こう考えることにしました。知事の奏でる笛の音が、府民をどこへ導こうとしているのかに非常に関心があるからだと。」との記述である。 

この伐栗記者の感想こそ、私も共感するところである。この記者の感覚、府庁詰め1年で交代とは惜しい、と評価したい。

例えば、府市の合併論(大阪都構想)からして、以前に本欄に書いたように、『人気者の知事が最近言い出し、俄かにマスコミも平松大阪市長との確執と併せ、毎日面白可笑しく書きたてているようだ。

だが、この「都構想」も、古く昭和40年以前から議論の的になった問題。 その当時から、東京・大阪二眼レフ論の幻想の下、府市の二重行政と阪奈和合併論や道州制導入問題とが輻輳し、毎回関係団体・関係者の思惑や利害の相克の中でポシャってきた、古くて新しい難題。 

府民・市民にとって、利便性や総合性確保等がどうなのか、誰も確信を持てない難題である。それだけに、「維新の会」といった得体の知れない政党を強引に結成するよりは、もっと足が地に着いた地道な検証と冷静な論議が望まれる。 

朝に言い出し、夕べに引っ込める性癖の橋下知事に果たして己の過信以外に、どのような客観的な確信があるのだろうか。 

それにしても、府職員が言ったという、「思いつき」が「思い込み」になり、今や「思い上がり」になっているとの表現には、私も橋下知事への妙に的を得た批判だと感心するばかり』というのが私の結論。  

また、行政のトップとしての知事の面からみても問題が多いと思う。

その理由は、橋下知事登場以来、府庁内部の組織には問題山積。職員の知事への信頼は、施策についての出し入れ自由の思い付き発言などによる混乱によって極度に低下。巨大組織を動かす知事としての発言の重みを全く理解していないことが多過ぎる。 

また、行政組織として一番大切な職員のモラールといえば、今回同様に体制の急激な変化に直面した黒田府政やノック府政等とは比べようもないほどの落ち込み、と言われる。 

行政に直接責任を担う各層幹部職員からの意見についても、知事は自分の意向に反する内容であると当該幹部職員に対し、「すぐに職を辞めなさい」と言うなどなど、その独善的なやり方に悲鳴のような声が内部からと聞こえてくるばかり。 

また、人事方針への不満・不信感も増大する一方。2年前、鳴り物入りで演出した、出先機関の幹部クラスからの環境農林部長への乱暴な大抜擢も、1年で破綻したではないのか。昨年秋の商工労働部課長級職員の自死事件に関しても、庁内では知事の感情的言動が引き金になったのでないか、というのが専らの噂と聞き及ぶ。 

この先、府政はどうなるのだろうか、これらの組織としての体をなさない混乱振りはいずれ府民生活へも悪影響が及ぶのではないか、と心配する。

以上の私の診立ての結論は、単純化すれば、橋下知事の考えの根本には、世の中には自分の味方か敵の二種類の人間しかいない、そして敵の敵は味方、味方の敵は敵といったことではないだろうか。 

須らく世の中の出来事の評価は是々非々、何事も柔軟に思考するといった類の、或る意味で人間の器の大きさを推し測るような考え方には、およそ無縁のお方とお見受けする。

最近のマスコミ関係者は日頃から橋下知事の派手なパフォーマンスばかりを報道する。しかし、本当に行政の実態や職員の置かれた状況を知っているのだろうか、

果たして足で稼ぐ地道な取材活動をしているのか、と不安・不信を募らせている昨今、このような新鮮な感覚を持つ記者がまた一人府庁を離れることは、非常に残念なことである。

2011年01月09日

◆わが家の七福神

眞鍋 峰松


我が家の玄関ドアー上の内側の棚には、本当に小さい木彫りの七福神が一枚の木の板に仲良く並んで鎮座しておられる。

どちらの家庭もご同様でしょうが、大晦日には我が家も恒例行事である家中の掃除と整頓。 生来の無精者・怠け者の私は、毎年その作業から逃げの一手。
 
昨年も、その殆どを家人に任せ、私に課せられた惟一の作業である神棚の磨きとお飾りを終了し、やれやれと玄関で腰を伸ばしつつ、ふと見上げた眼前に1年の埃が積ったこの七福神様。これは真に申し訳ない始末、と慌てて埃を払い清めさせて頂いた。

今になれば、どのようにして入手したものやら、その由来も分からなくなったのだが、いつの間にやら、30年以上も前から我が家の外部からの災厄除けの大事なお役を務めて頂いてきている。

ある書物によると、元々この七福神信仰は室町時代からあったと言われ、人間の七福である寿命、有福、人望、清廉、愛敬、威光、大量を七人の神に結びつけ、前から寿老人、大黒天、福禄寿、恵比寿、弁財天、毘沙門天、布袋の順になる、とのこと。
 
しかも、この七福神の選び方はまことにバラエティに富んでいて、恵比寿だけが日本土着の神で、あとはインド産が大黒と毘沙門、中国産が福禄寿と寿老人、唯一女神としての弁天さん、そして布袋に至っては中国の唐の時代の実在の和尚であり、神道・仏教・道教を全て総合。
 
外来文化と土着文化とが習合して独自のものを形成したのである、とのことである。

現在でも七福神詣で(参り)と言って、正月元旦から七日までの間に七福神を祭った社寺を巡拝して開運を祈る風習も残されている。

興味を抱いてネットで調べてみると、大阪市内では、寿老人が三光神社(天王寺区)、大黒天が大国主神社(浪速区)、福禄寿が長久寺(中央区)、恵比寿が今宮戎神社(浪速区)、弁財天が法案寺(中央区)、毘沙門天が大乗坊(浪速区)、布袋が四天王寺(天王寺区)というのが一つの参拝コース(所要3時間)とのこと。
                  
正月の松飾りを立てておく期間(1日〜7日又は15日)を松の内といって、まだまだお正月気分が残っている頃合い。一度、七福神詣に出かけ、この1年の無病息災を祈るのも昔懐かしい日本情緒に浸る良い機会かも知れない。

2011年01月02日

◆今年は どんな年?!

眞鍋 峰松
 
例年、この年始の時期には、その年の干支が話題に取り上げられる。私など、毎度思うことなのだが、世の中には、本当に物知りな御方がおられるものだな、一体このような知識をどのように入手されるのかな、と思いつつ今日まで過ごしてきた。 

現在でも依然この疑問は解けない。もっとも、私は、当該年の動静・人の運勢が全て干支で決るというような考えを持たない人間であることを先ず明らかにしつつ、次の文章を紹介したい。

これは、奈良薬師寺管主の山田法胤老師が昨年12月号の「喜光寺だより」にお書きになっているもの。 

<今年は「辛卯(かのとう)」の年に当たり、「辛(かのと)」は字の意味からすると、「からい、つらい、きびしい、酷い、むごい、苦しい」などの意味。 

「卯」は動物では兎、音読みは「ボウ」で「芒」に通じ、「広い」または「しげる」などの意味で、象形でいうと門の戸が左右に開いた形。方位は正東。時刻では午前6時。 

この二つの字を組み合わせると、各家の門扉が左右に開いて、午前6時に朝一番の太陽の光が差し込むという風となるとのこと。ここまで読んで、慌て者の私は、そうか門内に朝一番の太陽の光!こりゃ、今年は良い年になりそうだ、と喜んだのも束の間。 

続いて、「辛」の字が開いた門に入り込むとなると、辛くて厳しい、ひどいことが朝一番に入る意味になる。そうなると今年は、苦しい年が否応なしにどの家にも入りこんでくるということになる。 

かって中国では、1911年に「辛 卯(かのとう)」の年に清朝が滅び、中華民国が生まれ、孫文が大総統に就任した革命の年でありました>、と記述されていた。

だが、そこは法相宗別格本山の大学僧。ちゃんと我々凡人のために、こう説示されている。

<厳しさや苦しさが高ずると、人間はとんでもないことを考えて逃げたくなります。逃げても逃げる所がないと、新しいものが生まれるということになります、>と。
 
年末以来、新年にかけ報道される如き確執のさなかの、菅総理や小沢先生などにはよくよくお読み頂きたいような・・・。 

どうか、コップの中の政争など取り止め、国民全部が待望しているような国の新しい将来展望をお示しを、と言いたくなる。
 
さらに、<説示は、そこを明るく豊かな社会にするには、佛の教える「豊かな広いこころ」しかありません。 短気を起こさず「かたよらない心 こだわらない心 ひろくひろくもっとひろく」 こういった心が必要な一年ではないでしょうか、>と結ばれる。
 
そうか、なるほど、なるほど。要は、やはり頼るは己の心次第か、しかしそれは何の干支の年であっても同じでは、と改めてこの文章の表題を視ると、そこには「克己(こっき)」と力強い筆跡で書かれてある。もとろん、よくご存知の通り、「克己 自制 鍛錬 陶冶」とよく扁額などに書かれてある、あの克己。

どうか、山田法胤老師の説法を頂き、皆さんと共に、今年こそは、消え去った高齢者や理由なき無差別殺人など毎日報道される如き殺伐たる世界が変革されるよう頑張りましょう。

2010年12月07日

◆指導者としての資質を考える(続)

眞鍋 峰松

前回の、決断力についての記述(11月26日掲載)、その続き。 

以前に私が読んだ本の中に、「決断」について、一方では、如何にもアメリカ人的な合理的な考え方と、他方、如何にも日本人的な思考方式を記述した文章があったので、ご紹介しておきたい。 

この二つの「決断」に関する記述の内容は、「政治家の任務は決断にある」という一点では同じようであり、また、「政治家の責任のあり様」という点では多少違っているようにも、私には思えるのだが。

その一つが、コリン・ルーサー・パウエル(Colin Luther Powell)の自伝。 ご承知の通り、コリン・ルーサー・パウエルはジャマイカからの移民の両親を持ち、共和党員であり、統合参謀本部議長(アメリカ陸軍大将)、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ大統領(息子の ブッシュ)の1期目政権の国務長官の経歴の持ち主。

その著書、マイ・アメリカン・ジャーニー「コリン・パウエル自伝」(鈴木主税訳 角川書店)の中の次の言葉である。

『いまでは意思決定の哲学を作り上げていた。簡単に言えば、できる限りの情報を掘り起こして、後は本能のおもむくままにまかせる。我々はみなある種の直感を備えている。そして、年をとるにつれて、次第にそれを信じ、それに頼るようになる。

私が決定を迫られた時、つまりある地位に誰かを選ぶとか、作戦の方針を選択するかしなければならない時、私はあらゆる知識をきれっぱしも残らずさらって集める。人に助けを求める。彼らに電話する。手当たり次第に何でも読む。つまり、私は知性を使って本能を教育するのだ。 

その後、本能を使って、このデータの全てをテストする。「さあ本能、これは聞いて正しく聞こえるか。嗅いで臭くないか。手ざわりはいいか。違和感はないか」。しかし、我々はいつまでも情報収集ばかりしているわけにはいかない。入手可能なすべての情報がまだ集まっていなくても、あるところで決定を下さなければならない。 

大事なことはあわてて決めないで、適切な時期に決断を下すことである。私には決定の公式、p=40〜70というものがある。pは成功の確率を、数字は得られた情報のパーセンテージを示す。 手持ちの情報だけでは正しいという見込みが40%以下しか得られないなら、私は行動しない。 

また、100%正しいと確信するだけの情報・事実が集まるまで待つことはしない。 なぜなら、その時には必ずと言っていいほど遅すぎるからである。 私は40から70%の範囲の情報が得られたと感じたとき、本能にしたがって動く』。
 

もう一つが、小室 直樹氏の「歴史に観る日本の行く末」の中の次の文章である。

『「何となく、何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて」これこそ、日本人のエトス(民族精神、気風、社会思潮)を一言であらわした表現であろう。その後の句は、「戦争に突入した」とも、「大不況を招来した」とも、いろんな表現が代入されうる。 

このエトスは、どこから出てきたのか。 日本人独特の現実認識からくる。「現実」とは何か。「“現実”というものは、作り出されてしまったこと、いま、さらにはっきりといえば、どこからか起こってきたものと考えられている」(丸山 真男)。このエトスこそ、政治的無責任体制を理解するための急所である。

政治家の任務は決断にある。官僚と根本的に違う点である。このことの重大さは何回繰り返しても、繰り返し過ぎることはない。政治家の任務は、現実を自分の判断によって作り変えることにある。ここに、政治家の責任が生じる。 

現実を、自分の決断によって作り変える時、より良くなるか、より悪くなるか、その結果は、事前には分からない。分からないことを決断するところから、政治家の責任が発生する。(繰り返して強調するが、ここが官僚と違う点なのである。) 

もし、現実を、「作り出されてしまったこと」「どこからか起こってしまったこと」と考える時、そこに、「現実は政治家の決断によって作り変えることができる」と考える余地はない。 政治家の存在意義は無いのである』。

以上の二つの文章で明らかなことは、決断への道筋について、アメリカにおいては数理的、合理的規準の下に対処すべきものと観念されており、こと、パウエル氏に限らず、古くはベトナム戦争におけるマクナマル戦略(戦争=軍事に「費用対効果」の考えを持ち込んだ)においても同様である。

一方、日本においては小室直樹氏が指摘のとおり、「何となく、何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて」決断に追い込まれてきたということが、これまでの近代史、現代史の示すところではなかったか、と考える次第である。

私は、むしろ前者が政治判断の前提として官僚のなすべき責務であり、後者つまり「現実は政治家の決断によって作り変えることができる」と考え、「分からないことを決断するところから、政治家の責任が発生する」という複合的な考え方が正鵠を得ていると思うのだが、どうだろうか。 

この考えを当てはめると、鳩山前首相の行った政治判断、とりわけ沖縄基地問題についての決断などは成功確率が果たして何%と判断した上で、決断に及んだのであろうか。官僚からの成功確率を聴取しての外交戦略だったのか。あまりにも粗雑な外交戦略であったと思わざるを得ない。(完)

2010年11月26日

◆指導者としての資質を考える

眞鍋 峰松

最近の中国やロシア、さらに北朝鮮などのニュースに接する度に思うことがある。

どうも日本の優秀と言われる人物とりわけ政権中枢にいる方々の、不測事態へ対応する能力が本当に大丈夫なのか、不足しているのではないか、という危惧である。また、幾ら事前の準備に怠りがなくても、肝心の決断力がなくてはどうにもならない。
 
これに関連し、思い出すのが昔、昔の話。 阪神・淡路大震災の経験から、毎年恒例として行われる地震災害へ備えた、防災訓練について、である。 
地方自治体や国の出先機関などの行政を始め地元自治会など幅広い方面を巻き込んで大々的に実施されてきた。
 
だが、毎年恒例の行事として行われる故もあってか、災害発生時の住民への避難誘導や救急医療体制の初動活動などが中心で、その当時からマンネリ化の懸念を感じていた。

仄聞するところでは、アメリカでのこの種の訓練では、対策本部における非常事態へのギリギリの判断。例えば、A地点とB地点とに危機が迫っている場合に、如何に防災力を適正分散するべきか、最悪の場合にはどちらか一方に優先して防災力を振り向け、どちらか一方を犠牲にするかなど、指揮を執る人物の決断力が試されるようなケースまで想定し訓練しているとのことだった。
 
最近ようやく我が国においても、この実例として、負傷者多数の場合における負傷程度による治療優先順位の決定問題が、ギリギリの決断訓練の一つとして採り上げられている。

ところが、である。過去に一度、ある都道府県で、このアメリカの方式を採り入れて、水防訓練の中で破壊的水量を抑制するために人為的に堤防決壊させ、水量分散を計るというギリギリの決断を想定したことがある。
 
決壊した場所では、当然なにがしかの被害が発生するのだが、その時、当時の知事は激怒し、そのシュミレーションの場を立ち去ってしまったというのである。要は、彼は逃げたのである。だが、このような決断力こそが、本来のトップ・リーダーに求められる能力、不測事態への対応能力である。              
以前読んだ書物の中に「孤独は全ての優れた人物に課せられた運命」との表題で、
@トップには同僚がいない 
A最終意思決定には誰の助力を求められない 
B自由に意思の伝達がし難い 
C正しい情報を得ることが稀である 
Dしかも、なお、最終的な責任を負っている、
と記述されていたのを思い出す。
 
まさに、これがトップ・リーダーに課せられた運命なのだろう。また、これは、塩野七生氏の著書「日本へ 〜国家と歴史篇」からの引用だが、人間の優秀さについての記述で、その一つが、色々な事態に対し、原則を変えずに、如何に例外を設け、さらにその例外事項を他に類を及ぼさないようにするか。
 
さらにもう一つ。日本的秀才は、予期していた事態への対処は上手いが、予期していなかった事態への対処は、下手なのが特質であるらしい。

しかし、予め分かっている質問に答えるのに、人並み優れた頭脳は必要ない。真正面から答えるか、それともすり抜けるかの違いはあっても、予期していなかった質問に対処して初めて、頭脳の良し悪しが計れるのである、というである。

私が思うに、前半の部分は、むしろ上級公務員の優劣の判断基準に向いおり、後半の部分は政治家を始めとする、組織のトップの資質の判断基準に向いているように思われる。
 
要は、決断するのは難しい作業である。決断に際して、十分に情報を集め、徹底して分析したから万全だ、ということは絶対にない。考える材料が全部そろい、やるべきことが自ずと分るのなら、リーダーは何もしなくてよい。つまり、決断するための情報収集と分析は程度問題である。
 
信頼を繋ぎ止めたるためなら、「ここまでは考えたけれど、これ以上は運を天に任せる」と踏み切るのがリーダーの役割だ。
 
それを検討会議や関係閣僚会議の設置ばかりで逃げてばかりではどうにもなるまい、と思う。日本語で上手い表現があるではないか。“腹をくくる”と。
 
少々穏当でない言い方だが、それこそ、判断を過てば腹を切ればよい、ではないか。 塩野 七生氏は言う。「たとえ自分は地獄に落ちようと国民は天国に行かせる、と考えるような人でなくてはならない。その覚悟のない指導者は、リーダーの名にも値しないし、エリートでもない」と。これができないなら潔く職を辞するしかあるまい。
                

2010年11月03日

◆日中関係も異常気象?

真鍋 峰松

もう11月。 例年なら秋も深まる絶好の行楽シーズンだが、一向にその感じがしない。 わずか二週間ほど前まで、暑い暑いと言い暮らしていたのに、一転、この寒さ。 

一体、秋はどこへ吹っ飛んで行ったのか、と思う昨今。 それもこれも、最近、地球の各大陸・各地域で災害をもたらしている世界規模の異常気象のせいだろうか。

そして、中国・上海では、今春から開催された上海万博もどうやら無事終了。過去最大の入場者数だった1970年大阪万博の6400万人を凌駕する7300万人を記録したとのこと。別にケチをつける気持はないが、それも日本の10倍以上もの国内人口を有する中国にしては、という気もするのだが。 

前月末のテレビ報道によると、温家宝首相は閉幕挨拶で、わざわざ70歳前後の大阪の日本人女性が148回も入場したとの話題を披露した、とのことである。

その温家宝首相。つい先日のテレビ報道では、日・中・韓三国首脳の会見の場で管総理大臣と気の無い嫌々とも見える握手をするなど、終始一貫すげない態度でいたのと対照的。

それも全てが中国国内の反日運動への配慮からというのだから、外交に関して温室育ち・平和ボケの現在の日本人にとって、その無礼無作法は世界的異常気象なみの驚きだ。如何にも老獪極まりない中国としては下手な遣り口としか思えない。
 
ところで、現在、書店の売れ筋第7位かにランクされている石 平氏の著書「私はなぜ「中国」を捨てたのか」を読んでみた。同氏は四川省成都市出身で天安門事件前の民主化運動が最も盛んな1980年前後に北京大学に学び、事件当時には神戸大学へ留学中だったそうだ。

最終的には中国民主化への絶望の末、2007年に故国中国を捨て日本国籍を取得するに至るのだが、詳しくは同書をお読み頂くとして、最も印象的だったのは、80年代に中国に存在した温かい対日感情が、90年代には日本に対する中国人の姿勢と感情が急速に悪化し、しかも、その原因は決して日本にあるのではなく、むしろ中国自身にあるのは明々白々だとの断定。
 
中国においては、真っ赤な大ウソと悪意の捏造を内容とした国家規模の反日宣伝と教育(それが江沢民政権下の1994年8月の「愛国主義教育実施綱要」)が、一つの統一した主題と台本に基づいて、学界やマスメディアを総動員する形で組織的に行われてきたのである、との記述である。

同氏は、2000年8月帰国の折の大学1年生の甥との会話を交えながら、その実情を自身の体験として記述する。

過去何度も訪中経験を持つ私には、果たして一体、かくも短期間に中国人の対日感情が根底から激変するものなのか、容易には理解し難い。北朝鮮の実例を引くまでもなく、また、身近な所でも日本の明治維新後の皇民教育を考えても、数十年単位の教育による結果だと思うのだが。 

つくづく人間の弱さと共に、共産主義中国の徹底した手法には驚愕させられる今日である。

2010年10月06日

◆最近の対中国外交に思う

真鍋峰松

まず、この文章をお読み頂きたい。

「正道を歩み、正義のためなら国家と共に倒れる精神がなければ、外国と満足できる交際は期待できない。その強大を恐れ、和平を乞い、みじめにもその意に従うならば、ただちに外国の侮蔑を招く。

その結果、友好的な関係は終わりを告げ、最後には外国につかえることになる。とにかく国家の名誉が損なわれるならば、たとえ国家の存在が危うくなろうとも、政府は正義と大義の道にしたがうのが明らかな本務である。・・・・戦争という言葉におびえ、安易な平和を買うことのみに汲々するのは、商法支配所と呼ばれるべきであり、もはや政府と呼ぶべきでない」。 

キリスト教信者として名高い内村 鑑三氏の著書「代表的日本人」中の西郷隆盛の言葉である(1908年原著 岩波文庫 鈴木範久訳)。この言葉の真髄は“ただ相手国の強大さに萎縮して、うまくやろうというような処世術的外交は避けるべきである。 そうすると、かえって侮られ、それまでの友好関係もくずれてしまう”という一点にある。
 
読めば、この文章、これまでの我が国の対中国外交への痛烈な皮肉と解釈できるような気がする。 戦後数十年かかってここまできた日中の外交関係。この偉大な先人の言葉を無視・軽視するような事態を招くことによりその成果まで灰燼に帰すことのないよう願いたい。

また、過去の日本外交においてややもすれば多々見受けられた“商法支配所”、即ち、経済的利益を重視するあまり、我が国外交を誤らせたという事態も同様である。 幸い、今回の尖閣列島を巡る二国間の衝突に関しては、経済界や財界からの、紛争の早期解決だけを願う声も少ないように思う。それにはそれなりの理由があるのだろう。

周知のように、近年の中国の居丈高な過剰反応は尖閣列島周辺海域の石油等の資源開発に絡んでのことであり、日本においてもこの側面が熟知されている。 これが今回の場合、経済界・財界からの横槍や雑音がない理由であろう。
近年著しく経済力を増した中国にとって経済カードは強力な武器になる。我が国経済にとってレアアースの輸入停止は甚大な影響を及ぶすとしても、中国経済にとっても多少影響があろう。

だが、全てにおいて政治が優先する社会ではそれは問題にならない。そこで参考になるのは、米国のグーグル社の態度であろう。自由主義社会の柱とも言うべき情報の自由を求めて中国当局と真正面からぶつかったのだが、これも最悪の場合には撤退もやむを得ないという同社の覚悟があってのこと。

果たして、口を開けば自由主義経済・市場経済の効用を説く日本の財界・経済界の人達にこの覚悟が有りや無きや。 史上初の財界人から登用された日本の中国大使、これにどう対処していくのか、注目したい。

また、今回の事件に関する新聞テレビ等の報道やコメンテーターの解説を見聞きしていると、相変わらず、中国側の国内事情、つまり国家指導者間の主導権争いや貧富の過大な所得格差問題などを取り上げ、訳知り顔で背景説明をしているように見受けられる。

このこと自体は事実なのであろうが、だからどうだと言いたいのだろうか。日本の主張を手控えよ、とでもいうのだろうか。

それより、国際紛争対処の常識として、これら外交紛争に関する政治上の議論は国内だけで止めるべきであり、交渉相手国の国内諸事情を参酌し過ぎる人間や最終的な解決策を持たずして相手国に乗り込む愚を犯す政治家等が多過ぎるのも困ったことではないだろうか。

こういった国内の無責任な議論や対応で、対外折衝の任にある者の足を引っ張って何になると言うのか。 老獪な中国外交のこと、日本国内の議論の誘発・分断が計られ、結局は日本の国益が損なわれるだけだろう、と思う。

皮肉なことに、中国古典である孟子の離婁篇第四に「夫れ、人は必ず自から侮りて 然る後によそ人もこれを侮り、家は必ず自から毀(こぼ)ちて 然る後によそ人もこれを毀ち、国は必ず自から伐(やぶ)りて 然る後によそ人もこれを伐う。」とある。

つまり、人間というものは、自尊心を失って、自身を軽蔑するようになると、その気持が言動に現れて卑屈、投げやりになり、それが他人の軽侮を招く、他人に軽蔑される原因は、自分が作っているのだ。

自らを持することが厳でなくなると、家を治めることもできなくなって、家は崩壊する。内輪がしっかりしてさえおれば、外圧だけでは決して壊れるものではない。

国家とても同じことで、内に姦邪の臣がはびこり、君主に統御の才なく、国民に不平不満が高まるという末期症状が現れて、他国に攻め滅ぼされるわけであり、明主賢臣がいて善政を布いている限り、自壊作用が起こらず、従って他国の攻め込む隙はない、というのである。

この紀元前4世紀の孟子の言葉は、ひとり我が国のみならず、現代中国の為政者への痛烈な皮肉となり得ると受け止めるのは、私だけではあるまい。

2010年09月26日

◆“人生 いろいろ”とは言うけれど

真鍋 峰松

この世の中、人間はいつ、如何なる事が我が身に降り掛かって来るか分からない。 この21日の新聞、テレビで報道された厚生労働省の村木元局長と大阪地検特捜部の前田主任検事の両人の上に起こった出来事を見ての感想である。

ほぼ同時期に起こった、前者は無罪確定、後者は前者の取調べに関連する証拠の改竄容疑による逮捕ということ。
 
幾ら“人生いろいろ”とは言え、これほど対照的な出来事は滅多に起こることではない。小説やドラマ底抜けの人間模様。斯く書けば、何処からか、特に両当事者及びその関係者からきついお叱りを受けるかも知れないが、決して面白がって言っている訳ではない。

この出来事そのもの自体の中に、事の善悪とは違った、この人の世の無情さ・無残さ、人生の悲哀を感じたのである。 

国の省庁の局長といえば、いわば役人としての頂点間近という超エリート。それも過去の職務に対する本人の刻苦精励の結果として勝ち取った栄光の地位だが、それが或る日を境に、世の指弾を一身に浴びる身に置かれ、1年以上の戦いの結果としての無罪潔白。 

一口に災難と言ってしまえばそれまでだが、無罪確定までの村木元局長本人の苦悩と憤怒のほどは如何ばかりだったろうか。

一方の大阪地検特捜部の前田主任検事。 東大・京大というエリート校出身でなく、地方国立大法学部出身で司法試験も現役合格でなく、26歳での合格とのこと。 検事への道を進み、検事中のエリート、東京・大阪の特捜部で活躍したそうだから、これまた、相当な努力・職務精励振りだったに違いない。 

周囲からもその力量への評価は高いが、反面、その強引なやり方への批判もあったようだ。 それがここに来て、一転、容疑者の身に。
 
両者に共通するのは、仕事に邁進して克ち得た栄光の座に、突如襲った思わぬ落とし穴。
人間世界におけるこのような無情・無残な結果を避けるための警句、「転ばぬ先の杖」とはよく世間で使われる言葉だが、両人にとっては余りにも唐突な激しい浮き沈みであっただろう。

「世の中は 地獄の上の 花見かな 」。 この句は俳人・小林一茶の作と教えられたのだが、
まさに、この句そのものの人間世界であることの証。 また、良寛さんの「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」そのものの人生行路ということでもある。

また、「禍福は糾(あざな)える縄のごとし 人間(じんかん)万事、寒翁が馬」。 

これは、中国古典の淮南子(西漢帝国の王族 淮南王劉安を中心に作成された)に取り上げられた故事からの成句だが、果たして前田主任検事の方では如何なる形で禍が転じて福となるのだろうか。 その日がくるのだろうか。

こう言えば、前田主任検事の場合、禍ではない、故意又は過失?による重大犯罪だという反論の向きもあるだろうと思う。なるほど、検事という職責にあるまじき行為で、社会へ与えた衝撃の大きさは計り知れないというのは事実である。

だが私は、過去における彼の職務に懸けた情熱と努力はこれを何人も否定できないだろうという、ただその一点から、その暗転の無情さ・残酷さに一片の憐憫の情を感じざるを得ないのである。
 
道元禅師の言葉「或は是 或は非 人識(し)らず 逆行順行 天も測ること莫(な)し」。 つまり、善いの、悪いのと言ったとて、善いが悪いのか、悪いが善いのかわからない。 どんなのが悪行で、どんなのが順行か、どんなのが身のためになって、どんなのが身のためにならないのか、ちょっと目で見ただけでわからない。 薬が毒で、毒が薬ということもある。 

そうすると、世の中というものは見た通りではないということもあるのだろう、と説かれる。 世の中、このような見方もあるのではないか、と思うが故である。