2010年12月07日

◆指導者としての資質を考える(続)

眞鍋 峰松

前回の、決断力についての記述(11月26日掲載)、その続き。 

以前に私が読んだ本の中に、「決断」について、一方では、如何にもアメリカ人的な合理的な考え方と、他方、如何にも日本人的な思考方式を記述した文章があったので、ご紹介しておきたい。 

この二つの「決断」に関する記述の内容は、「政治家の任務は決断にある」という一点では同じようであり、また、「政治家の責任のあり様」という点では多少違っているようにも、私には思えるのだが。

その一つが、コリン・ルーサー・パウエル(Colin Luther Powell)の自伝。 ご承知の通り、コリン・ルーサー・パウエルはジャマイカからの移民の両親を持ち、共和党員であり、統合参謀本部議長(アメリカ陸軍大将)、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ大統領(息子の ブッシュ)の1期目政権の国務長官の経歴の持ち主。

その著書、マイ・アメリカン・ジャーニー「コリン・パウエル自伝」(鈴木主税訳 角川書店)の中の次の言葉である。

『いまでは意思決定の哲学を作り上げていた。簡単に言えば、できる限りの情報を掘り起こして、後は本能のおもむくままにまかせる。我々はみなある種の直感を備えている。そして、年をとるにつれて、次第にそれを信じ、それに頼るようになる。

私が決定を迫られた時、つまりある地位に誰かを選ぶとか、作戦の方針を選択するかしなければならない時、私はあらゆる知識をきれっぱしも残らずさらって集める。人に助けを求める。彼らに電話する。手当たり次第に何でも読む。つまり、私は知性を使って本能を教育するのだ。 

その後、本能を使って、このデータの全てをテストする。「さあ本能、これは聞いて正しく聞こえるか。嗅いで臭くないか。手ざわりはいいか。違和感はないか」。しかし、我々はいつまでも情報収集ばかりしているわけにはいかない。入手可能なすべての情報がまだ集まっていなくても、あるところで決定を下さなければならない。 

大事なことはあわてて決めないで、適切な時期に決断を下すことである。私には決定の公式、p=40〜70というものがある。pは成功の確率を、数字は得られた情報のパーセンテージを示す。 手持ちの情報だけでは正しいという見込みが40%以下しか得られないなら、私は行動しない。 

また、100%正しいと確信するだけの情報・事実が集まるまで待つことはしない。 なぜなら、その時には必ずと言っていいほど遅すぎるからである。 私は40から70%の範囲の情報が得られたと感じたとき、本能にしたがって動く』。
 

もう一つが、小室 直樹氏の「歴史に観る日本の行く末」の中の次の文章である。

『「何となく、何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて」これこそ、日本人のエトス(民族精神、気風、社会思潮)を一言であらわした表現であろう。その後の句は、「戦争に突入した」とも、「大不況を招来した」とも、いろんな表現が代入されうる。 

このエトスは、どこから出てきたのか。 日本人独特の現実認識からくる。「現実」とは何か。「“現実”というものは、作り出されてしまったこと、いま、さらにはっきりといえば、どこからか起こってきたものと考えられている」(丸山 真男)。このエトスこそ、政治的無責任体制を理解するための急所である。

政治家の任務は決断にある。官僚と根本的に違う点である。このことの重大さは何回繰り返しても、繰り返し過ぎることはない。政治家の任務は、現実を自分の判断によって作り変えることにある。ここに、政治家の責任が生じる。 

現実を、自分の決断によって作り変える時、より良くなるか、より悪くなるか、その結果は、事前には分からない。分からないことを決断するところから、政治家の責任が発生する。(繰り返して強調するが、ここが官僚と違う点なのである。) 

もし、現実を、「作り出されてしまったこと」「どこからか起こってしまったこと」と考える時、そこに、「現実は政治家の決断によって作り変えることができる」と考える余地はない。 政治家の存在意義は無いのである』。

以上の二つの文章で明らかなことは、決断への道筋について、アメリカにおいては数理的、合理的規準の下に対処すべきものと観念されており、こと、パウエル氏に限らず、古くはベトナム戦争におけるマクナマル戦略(戦争=軍事に「費用対効果」の考えを持ち込んだ)においても同様である。

一方、日本においては小室直樹氏が指摘のとおり、「何となく、何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて」決断に追い込まれてきたということが、これまでの近代史、現代史の示すところではなかったか、と考える次第である。

私は、むしろ前者が政治判断の前提として官僚のなすべき責務であり、後者つまり「現実は政治家の決断によって作り変えることができる」と考え、「分からないことを決断するところから、政治家の責任が発生する」という複合的な考え方が正鵠を得ていると思うのだが、どうだろうか。 

この考えを当てはめると、鳩山前首相の行った政治判断、とりわけ沖縄基地問題についての決断などは成功確率が果たして何%と判断した上で、決断に及んだのであろうか。官僚からの成功確率を聴取しての外交戦略だったのか。あまりにも粗雑な外交戦略であったと思わざるを得ない。(完)

2010年11月26日

◆指導者としての資質を考える

眞鍋 峰松

最近の中国やロシア、さらに北朝鮮などのニュースに接する度に思うことがある。

どうも日本の優秀と言われる人物とりわけ政権中枢にいる方々の、不測事態へ対応する能力が本当に大丈夫なのか、不足しているのではないか、という危惧である。また、幾ら事前の準備に怠りがなくても、肝心の決断力がなくてはどうにもならない。
 
これに関連し、思い出すのが昔、昔の話。 阪神・淡路大震災の経験から、毎年恒例として行われる地震災害へ備えた、防災訓練について、である。 
地方自治体や国の出先機関などの行政を始め地元自治会など幅広い方面を巻き込んで大々的に実施されてきた。
 
だが、毎年恒例の行事として行われる故もあってか、災害発生時の住民への避難誘導や救急医療体制の初動活動などが中心で、その当時からマンネリ化の懸念を感じていた。

仄聞するところでは、アメリカでのこの種の訓練では、対策本部における非常事態へのギリギリの判断。例えば、A地点とB地点とに危機が迫っている場合に、如何に防災力を適正分散するべきか、最悪の場合にはどちらか一方に優先して防災力を振り向け、どちらか一方を犠牲にするかなど、指揮を執る人物の決断力が試されるようなケースまで想定し訓練しているとのことだった。
 
最近ようやく我が国においても、この実例として、負傷者多数の場合における負傷程度による治療優先順位の決定問題が、ギリギリの決断訓練の一つとして採り上げられている。

ところが、である。過去に一度、ある都道府県で、このアメリカの方式を採り入れて、水防訓練の中で破壊的水量を抑制するために人為的に堤防決壊させ、水量分散を計るというギリギリの決断を想定したことがある。
 
決壊した場所では、当然なにがしかの被害が発生するのだが、その時、当時の知事は激怒し、そのシュミレーションの場を立ち去ってしまったというのである。要は、彼は逃げたのである。だが、このような決断力こそが、本来のトップ・リーダーに求められる能力、不測事態への対応能力である。              
以前読んだ書物の中に「孤独は全ての優れた人物に課せられた運命」との表題で、
@トップには同僚がいない 
A最終意思決定には誰の助力を求められない 
B自由に意思の伝達がし難い 
C正しい情報を得ることが稀である 
Dしかも、なお、最終的な責任を負っている、
と記述されていたのを思い出す。
 
まさに、これがトップ・リーダーに課せられた運命なのだろう。また、これは、塩野七生氏の著書「日本へ 〜国家と歴史篇」からの引用だが、人間の優秀さについての記述で、その一つが、色々な事態に対し、原則を変えずに、如何に例外を設け、さらにその例外事項を他に類を及ぼさないようにするか。
 
さらにもう一つ。日本的秀才は、予期していた事態への対処は上手いが、予期していなかった事態への対処は、下手なのが特質であるらしい。

しかし、予め分かっている質問に答えるのに、人並み優れた頭脳は必要ない。真正面から答えるか、それともすり抜けるかの違いはあっても、予期していなかった質問に対処して初めて、頭脳の良し悪しが計れるのである、というである。

私が思うに、前半の部分は、むしろ上級公務員の優劣の判断基準に向いおり、後半の部分は政治家を始めとする、組織のトップの資質の判断基準に向いているように思われる。
 
要は、決断するのは難しい作業である。決断に際して、十分に情報を集め、徹底して分析したから万全だ、ということは絶対にない。考える材料が全部そろい、やるべきことが自ずと分るのなら、リーダーは何もしなくてよい。つまり、決断するための情報収集と分析は程度問題である。
 
信頼を繋ぎ止めたるためなら、「ここまでは考えたけれど、これ以上は運を天に任せる」と踏み切るのがリーダーの役割だ。
 
それを検討会議や関係閣僚会議の設置ばかりで逃げてばかりではどうにもなるまい、と思う。日本語で上手い表現があるではないか。“腹をくくる”と。
 
少々穏当でない言い方だが、それこそ、判断を過てば腹を切ればよい、ではないか。 塩野 七生氏は言う。「たとえ自分は地獄に落ちようと国民は天国に行かせる、と考えるような人でなくてはならない。その覚悟のない指導者は、リーダーの名にも値しないし、エリートでもない」と。これができないなら潔く職を辞するしかあるまい。
                

2010年11月03日

◆日中関係も異常気象?

真鍋 峰松

もう11月。 例年なら秋も深まる絶好の行楽シーズンだが、一向にその感じがしない。 わずか二週間ほど前まで、暑い暑いと言い暮らしていたのに、一転、この寒さ。 

一体、秋はどこへ吹っ飛んで行ったのか、と思う昨今。 それもこれも、最近、地球の各大陸・各地域で災害をもたらしている世界規模の異常気象のせいだろうか。

そして、中国・上海では、今春から開催された上海万博もどうやら無事終了。過去最大の入場者数だった1970年大阪万博の6400万人を凌駕する7300万人を記録したとのこと。別にケチをつける気持はないが、それも日本の10倍以上もの国内人口を有する中国にしては、という気もするのだが。 

前月末のテレビ報道によると、温家宝首相は閉幕挨拶で、わざわざ70歳前後の大阪の日本人女性が148回も入場したとの話題を披露した、とのことである。

その温家宝首相。つい先日のテレビ報道では、日・中・韓三国首脳の会見の場で管総理大臣と気の無い嫌々とも見える握手をするなど、終始一貫すげない態度でいたのと対照的。

それも全てが中国国内の反日運動への配慮からというのだから、外交に関して温室育ち・平和ボケの現在の日本人にとって、その無礼無作法は世界的異常気象なみの驚きだ。如何にも老獪極まりない中国としては下手な遣り口としか思えない。
 
ところで、現在、書店の売れ筋第7位かにランクされている石 平氏の著書「私はなぜ「中国」を捨てたのか」を読んでみた。同氏は四川省成都市出身で天安門事件前の民主化運動が最も盛んな1980年前後に北京大学に学び、事件当時には神戸大学へ留学中だったそうだ。

最終的には中国民主化への絶望の末、2007年に故国中国を捨て日本国籍を取得するに至るのだが、詳しくは同書をお読み頂くとして、最も印象的だったのは、80年代に中国に存在した温かい対日感情が、90年代には日本に対する中国人の姿勢と感情が急速に悪化し、しかも、その原因は決して日本にあるのではなく、むしろ中国自身にあるのは明々白々だとの断定。
 
中国においては、真っ赤な大ウソと悪意の捏造を内容とした国家規模の反日宣伝と教育(それが江沢民政権下の1994年8月の「愛国主義教育実施綱要」)が、一つの統一した主題と台本に基づいて、学界やマスメディアを総動員する形で組織的に行われてきたのである、との記述である。

同氏は、2000年8月帰国の折の大学1年生の甥との会話を交えながら、その実情を自身の体験として記述する。

過去何度も訪中経験を持つ私には、果たして一体、かくも短期間に中国人の対日感情が根底から激変するものなのか、容易には理解し難い。北朝鮮の実例を引くまでもなく、また、身近な所でも日本の明治維新後の皇民教育を考えても、数十年単位の教育による結果だと思うのだが。 

つくづく人間の弱さと共に、共産主義中国の徹底した手法には驚愕させられる今日である。

2010年10月06日

◆最近の対中国外交に思う

真鍋峰松

まず、この文章をお読み頂きたい。

「正道を歩み、正義のためなら国家と共に倒れる精神がなければ、外国と満足できる交際は期待できない。その強大を恐れ、和平を乞い、みじめにもその意に従うならば、ただちに外国の侮蔑を招く。

その結果、友好的な関係は終わりを告げ、最後には外国につかえることになる。とにかく国家の名誉が損なわれるならば、たとえ国家の存在が危うくなろうとも、政府は正義と大義の道にしたがうのが明らかな本務である。・・・・戦争という言葉におびえ、安易な平和を買うことのみに汲々するのは、商法支配所と呼ばれるべきであり、もはや政府と呼ぶべきでない」。 

キリスト教信者として名高い内村 鑑三氏の著書「代表的日本人」中の西郷隆盛の言葉である(1908年原著 岩波文庫 鈴木範久訳)。この言葉の真髄は“ただ相手国の強大さに萎縮して、うまくやろうというような処世術的外交は避けるべきである。 そうすると、かえって侮られ、それまでの友好関係もくずれてしまう”という一点にある。
 
読めば、この文章、これまでの我が国の対中国外交への痛烈な皮肉と解釈できるような気がする。 戦後数十年かかってここまできた日中の外交関係。この偉大な先人の言葉を無視・軽視するような事態を招くことによりその成果まで灰燼に帰すことのないよう願いたい。

また、過去の日本外交においてややもすれば多々見受けられた“商法支配所”、即ち、経済的利益を重視するあまり、我が国外交を誤らせたという事態も同様である。 幸い、今回の尖閣列島を巡る二国間の衝突に関しては、経済界や財界からの、紛争の早期解決だけを願う声も少ないように思う。それにはそれなりの理由があるのだろう。

周知のように、近年の中国の居丈高な過剰反応は尖閣列島周辺海域の石油等の資源開発に絡んでのことであり、日本においてもこの側面が熟知されている。 これが今回の場合、経済界・財界からの横槍や雑音がない理由であろう。
近年著しく経済力を増した中国にとって経済カードは強力な武器になる。我が国経済にとってレアアースの輸入停止は甚大な影響を及ぶすとしても、中国経済にとっても多少影響があろう。

だが、全てにおいて政治が優先する社会ではそれは問題にならない。そこで参考になるのは、米国のグーグル社の態度であろう。自由主義社会の柱とも言うべき情報の自由を求めて中国当局と真正面からぶつかったのだが、これも最悪の場合には撤退もやむを得ないという同社の覚悟があってのこと。

果たして、口を開けば自由主義経済・市場経済の効用を説く日本の財界・経済界の人達にこの覚悟が有りや無きや。 史上初の財界人から登用された日本の中国大使、これにどう対処していくのか、注目したい。

また、今回の事件に関する新聞テレビ等の報道やコメンテーターの解説を見聞きしていると、相変わらず、中国側の国内事情、つまり国家指導者間の主導権争いや貧富の過大な所得格差問題などを取り上げ、訳知り顔で背景説明をしているように見受けられる。

このこと自体は事実なのであろうが、だからどうだと言いたいのだろうか。日本の主張を手控えよ、とでもいうのだろうか。

それより、国際紛争対処の常識として、これら外交紛争に関する政治上の議論は国内だけで止めるべきであり、交渉相手国の国内諸事情を参酌し過ぎる人間や最終的な解決策を持たずして相手国に乗り込む愚を犯す政治家等が多過ぎるのも困ったことではないだろうか。

こういった国内の無責任な議論や対応で、対外折衝の任にある者の足を引っ張って何になると言うのか。 老獪な中国外交のこと、日本国内の議論の誘発・分断が計られ、結局は日本の国益が損なわれるだけだろう、と思う。

皮肉なことに、中国古典である孟子の離婁篇第四に「夫れ、人は必ず自から侮りて 然る後によそ人もこれを侮り、家は必ず自から毀(こぼ)ちて 然る後によそ人もこれを毀ち、国は必ず自から伐(やぶ)りて 然る後によそ人もこれを伐う。」とある。

つまり、人間というものは、自尊心を失って、自身を軽蔑するようになると、その気持が言動に現れて卑屈、投げやりになり、それが他人の軽侮を招く、他人に軽蔑される原因は、自分が作っているのだ。

自らを持することが厳でなくなると、家を治めることもできなくなって、家は崩壊する。内輪がしっかりしてさえおれば、外圧だけでは決して壊れるものではない。

国家とても同じことで、内に姦邪の臣がはびこり、君主に統御の才なく、国民に不平不満が高まるという末期症状が現れて、他国に攻め滅ぼされるわけであり、明主賢臣がいて善政を布いている限り、自壊作用が起こらず、従って他国の攻め込む隙はない、というのである。

この紀元前4世紀の孟子の言葉は、ひとり我が国のみならず、現代中国の為政者への痛烈な皮肉となり得ると受け止めるのは、私だけではあるまい。

2010年09月26日

◆“人生 いろいろ”とは言うけれど

真鍋 峰松

この世の中、人間はいつ、如何なる事が我が身に降り掛かって来るか分からない。 この21日の新聞、テレビで報道された厚生労働省の村木元局長と大阪地検特捜部の前田主任検事の両人の上に起こった出来事を見ての感想である。

ほぼ同時期に起こった、前者は無罪確定、後者は前者の取調べに関連する証拠の改竄容疑による逮捕ということ。
 
幾ら“人生いろいろ”とは言え、これほど対照的な出来事は滅多に起こることではない。小説やドラマ底抜けの人間模様。斯く書けば、何処からか、特に両当事者及びその関係者からきついお叱りを受けるかも知れないが、決して面白がって言っている訳ではない。

この出来事そのもの自体の中に、事の善悪とは違った、この人の世の無情さ・無残さ、人生の悲哀を感じたのである。 

国の省庁の局長といえば、いわば役人としての頂点間近という超エリート。それも過去の職務に対する本人の刻苦精励の結果として勝ち取った栄光の地位だが、それが或る日を境に、世の指弾を一身に浴びる身に置かれ、1年以上の戦いの結果としての無罪潔白。 

一口に災難と言ってしまえばそれまでだが、無罪確定までの村木元局長本人の苦悩と憤怒のほどは如何ばかりだったろうか。

一方の大阪地検特捜部の前田主任検事。 東大・京大というエリート校出身でなく、地方国立大法学部出身で司法試験も現役合格でなく、26歳での合格とのこと。 検事への道を進み、検事中のエリート、東京・大阪の特捜部で活躍したそうだから、これまた、相当な努力・職務精励振りだったに違いない。 

周囲からもその力量への評価は高いが、反面、その強引なやり方への批判もあったようだ。 それがここに来て、一転、容疑者の身に。
 
両者に共通するのは、仕事に邁進して克ち得た栄光の座に、突如襲った思わぬ落とし穴。
人間世界におけるこのような無情・無残な結果を避けるための警句、「転ばぬ先の杖」とはよく世間で使われる言葉だが、両人にとっては余りにも唐突な激しい浮き沈みであっただろう。

「世の中は 地獄の上の 花見かな 」。 この句は俳人・小林一茶の作と教えられたのだが、
まさに、この句そのものの人間世界であることの証。 また、良寛さんの「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」そのものの人生行路ということでもある。

また、「禍福は糾(あざな)える縄のごとし 人間(じんかん)万事、寒翁が馬」。 

これは、中国古典の淮南子(西漢帝国の王族 淮南王劉安を中心に作成された)に取り上げられた故事からの成句だが、果たして前田主任検事の方では如何なる形で禍が転じて福となるのだろうか。 その日がくるのだろうか。

こう言えば、前田主任検事の場合、禍ではない、故意又は過失?による重大犯罪だという反論の向きもあるだろうと思う。なるほど、検事という職責にあるまじき行為で、社会へ与えた衝撃の大きさは計り知れないというのは事実である。

だが私は、過去における彼の職務に懸けた情熱と努力はこれを何人も否定できないだろうという、ただその一点から、その暗転の無情さ・残酷さに一片の憐憫の情を感じざるを得ないのである。
 
道元禅師の言葉「或は是 或は非 人識(し)らず 逆行順行 天も測ること莫(な)し」。 つまり、善いの、悪いのと言ったとて、善いが悪いのか、悪いが善いのかわからない。 どんなのが悪行で、どんなのが順行か、どんなのが身のためになって、どんなのが身のためにならないのか、ちょっと目で見ただけでわからない。 薬が毒で、毒が薬ということもある。 

そうすると、世の中というものは見た通りではないということもあるのだろう、と説かれる。 世の中、このような見方もあるのではないか、と思うが故である。

2010年09月02日

◆これまた、異なることを承る

真鍋 峰松

つい最近の新聞に、妙な記事が載っていた。
 
大阪府の橋下知事がサッカー・ワールドカップの日本代表選手 遠藤保仁選手に「感動大阪大賞」を送った際、府庁の知事室で自分の子供3人を同選手に引き合わせ、一緒に記念写真に納まったり、サインをもらったりした、というのである。
 
この記事を掲載した、朝日、読売、産経の三紙を読み較べてみたが、朝日はその後の会見で「僕は家族を自由にどっか連れて行ける状況じゃない。政治家のファミリーは制限がかかるし、危機にさらされているし、義務も負う」と述べた、との内容。
 
朝日の記事内容はここまで。 

ところが、読売、産経では、この内容に続き、「サインがほしいほかの子供と比べて不公平では」との記者からの指摘に対して、「その子の子供のお父さんに知事になってもらい、(制限を受ける)苦しい親子関係に耐えてもらうしかない」と反論した、と続いている。
 
それでは、この三紙の紙面の見出しはどうかと見比べると、朝日は小さくニ段組みで“サイン 知事家族もらう”とだけ。 読売、産経はいずれも四段組みのゴチックの大見出しで“橋下知事 公私混同”」との扱い振り。

この三紙の取り扱いの差を観て感じたのは、この一連の言葉のやり取りに対する記者の感覚の差異である。 
本来、知事としての資質云々する程の話題ではない。いかにも些細な小事と見過す新聞の感覚と、どうも可笑しいと感じた新聞の感覚との違いである。
 
確かに、知事としての職務遂行中の行為とはいえ、ついでに自分の子供の為にサインをねだること自体は、見ようによってはむしろ微笑ましい事柄と思う向きも否定しないし、あっても良い。また、公人である知事にとって、ある程度耐え忍ばなければならない家族の窮屈さ故の不満も、時には愚痴をこぼしたい気持も良く理解できる。

だが、問題は、その後の記者会見の反論にある。この知事の反論への記者の認識こそが三紙の差異として紙面に現れたのだろう。

橋下知事の言いたい放題が多過ぎる、という批判的な立場を持つ眼から見ると、この反論も、サインがほしいならお父さんに知事になってもらえば良い、としか聞こえない。
 
橋下氏の一個人の本音を吐露したのではあろうが、知事としての重責を担う立場の人間が言うべき事柄ではあるまい。それこそ、それを言っちゃあお仕舞だ!、の類の発言。
 
斯く言えば世のあらゆることが正当化されそうな論理だし、第一、子供染みている。 世のお父さんが全て知事の職を望むことができる程のチャンスや運・才能に恵まれているものでもないこと、だし。

2010年08月22日

◆残暑、お見舞い申し上げます。

真鍋 峰松

加齢のせいか、今年の暑さにはほとほと参る。例年以上に身体に応える。

総務省消防庁の発表によると、今年7月の熱中症による救急搬送対象者数は全国で1万7750人、うち95人が病院到着直後に死亡と確認された。いずれも平成20年の集計開始以来、最悪の数字。

搬送者も昨年同月比3.4倍、一昨年比1.4倍。うち65歳以上の高齢者が48.6%を占めた、とのこと。 

私も、8月初めに旧知同士の気楽なゴルフ・コンペへ参加、危うく熱中症かと思われる症状を経験した。この日は朝からカンカン照りの強い日差し。1.8リットル入りのスポーツドリンクの大型ペット・ボトルを冷凍させ、最後的には飲み干す程度の用心をしつつのプレーをしたつもり。 

だが、最終18番ホールでは少し太股の裏側に引き攣れを感じ、口の内はからから。極め付けは言葉を発するも、舌が口腔内で引っかかり巧く喋れないという状況に立ち至った。今から思うと、少々危険水域に達していたのかな、と思い出してもゾ〜ッとする経験をしたばかり。
 
お陰で、それ以前のホールまでそれなりのスコアーで回って来たのに、最終ホールで12の大叩き。何とも情けなく、体力の衰えを嫌でも肌で感じさせられた。  

この熱中症。冒頭の消防庁の発表を見ても分かるように、名称が急激に世に普及したようだ。 現に、同発表にあるように、過去平成20年からの統計数字だけで、それ以前の数字は存在していないとのこと。

では、以前はこの症状は無かったのか。そんな筈はあるまい。考えるに、以前は日射病と呼ばれてきたのではないのか。遠い昔の小・中学校時代、朝の朝礼時に生徒が突然気分が悪くなる、突然に倒れた、という症状、これを日射病と呼んでいたはず。 

果たして、二つの症状はどこがどう違うのか。医療に疎い私としてはどうもこの辺りが判然としない。多分、日射病も熱中症の一つ、つまり定義の範疇の狭い・広いの問題なのか、と思われるのだが。

別に眼の色を変えて論及することもない些事かも知れないが、ここら辺りに日本人の新しいもの好き、目新しいものに飛び付き単なるネーミングを代えれば良いという愚かな癖のせいなのかと考えると同時に、こんな些事を暑い最中に考える己自身が変わり者の臍曲がりなのか、と自省する昨今である。 

要は、こんなネーミングのことを色々と挙げつらうことより、何よりも熱中症なり日射病への自衛策を講じ、無事今夏を乗り切るべく用心が大切ということなのでしょう。

2010年07月31日

◆“鬱”なる時代(最終・大阪)

真鍋 峰松

今の勤務場所は大阪梅田の界隈、御堂筋沿いのオフィス街と北新地の近く。

昼も夜も、四六時中、大阪で最も人の賑わう場所の一つ。この界隈で勤め出して5年近くになるが、この間の街の様相は相当な変貌振りである。 勤務場所がビルの高層階なので、窓越しに見える風景の視野は広く、良く見える。

その変化の第一は、この界隈での巨大ビルの増加。目に映るだけでも大阪駅ビルの大改造・増築、阪急百貨店の全面建替えと事務所部分の増築、富国生命ビルの全面建替え等々、この5年間に数えるだけで7〜8棟。その多くが事務所ビル。 

だが、遠目で観る限り、既に完成されたビルでも使用されているフロアーはあまり多くなく、むしろ見た限りでは空室の方が目立つ。

7月1日のサンケイ夕刊に「大阪目立つ無人ビル〜ミニバブルで供給過剰」の見出しの下、新築オフィスビルの空室率は5割を超え、一等地に建ちながら借り手がまったくない状態のビルも、との記事。その現実が目の前にある。 

そして、大阪ビルディング協会の事務局長談として「在阪企業は自社ビルにこだわるところが多く、オフィスを借りるのは大阪に支店を持つ企業が多い。東京一極集中で支店機能が小さくなり、大阪で必要なオフィス面積も小さくなっている。ミニバブルによる供給過剰だけが問題ではない」と嘆いているとのこと。

変化の第二は、この数年間で、大阪駅前地下街地下1,2階の店舗地区の空室が急速に増加してきたこと。それも、長期間も空きのままの箇所が多い。偶に入所する箇所の多くはパチンコ・ゲームセンター、それにチケット売り場。 通常の物品販売店や飲食店の新規入居は極めて稀だ。

この二つの変化は相互に関連している。つまり、サラリーマンなどの利用サイドの減少と、これを反映した事務所・店舗などの提供サイドの減少だ。昨年5月のサンケイのコラムでも、大阪の企業とサラリーマンの減少について触れられ、とりわけ堺筋、松屋町筋沿いの企業のオフィス数の減少が目立つとの記述もあった。  

最も象徴的なのが、昨年2月の朝日朝刊に載っていた「さらば 大阪の名門 〜商船三井、本店を東京へ」との見出しの下、前身の大阪商船が1925(大正14)年にこの地(大阪中之島 ダイビル)に本店を構えて以来の84年の歴史に幕を下ろし、登記簿上の本店所在地を東京虎ノ門の東京本社に移すことを発表した、との報道。

東京への企業の移転傾向は、全国的にもかっての高度経済成長期を通じ首都圏への集中という形で加速的に増加したのだが、ここ大阪でも、今では名実ともに大阪企業と呼ばれる大企業は数えるほども残っていない。 大阪の沈滞の主要原因はまさにこの一点にあることを、誰しも知らぬことでもあるまい。

実際、東京・大阪間を頻繁に行き来する多くの友人・知人も、最近の大阪の状態に触れて、「東京は人の集まる繁華街がどんどん増え、どの場所も物凄い賑わい振りだが、反対に大阪へ戻って来ると、見るたびに元気が無くなっているな〜と感じる」と言う。

この大阪の衰退に歯止めをかけようと、橋下知事が最近声高に言い出したのが、起爆剤としての府庁の移転と大阪都制への改革。 

その府庁WTCへの移転問題。 

立地場所の風格欠如や交通不便等もさることながら、一番の問題は危機管理体制。WTC自体の埋立地ゆえの軟弱地盤や塩害対策も問題だが、イザと言う時の警察本部やNHK放送局との連携はどうするのか。最初はやや否定的であった関西経済三団体も、一転、移転支持を表明した。察するに橋下知事への応援に回ったのだろう。 

その理由が、湾沿岸部の活性化による大阪の起爆剤への期待ということなら、構想に具体性を齎せるために、府庁移転に引き続き在阪大企業の中で移転を表明する企業が一社でもあって可笑しくないのではないか。 

同時に、それこそ三団体の代表者は団体事務所ビルや、自社の本社事務所ビルを湾沿岸部へ一斉に移転するという意見表明でもしたらどうなのか。今でも用途不明の用地を確保したままの大企業も多いのだから。それでなければ、単に橋下知事へ尻尾を振っただけということにならないのか。 

橋下知事も、府庁移転後何年でこの地域がどう変わるという具体的な数値で青写真を明らかにするべきだろう。

それでなければ、湾沿岸部の活性化による大阪の起爆剤への期待も絵に描いた餅に終わり、何ら意味無く府庁を移転させたという無責任が後々明らかになるという結果だけが残るのではないだろうか。現在の大阪府財政の病理体質の根源となった過去の開発行政と、それこそどこが違うのかということにならないか。

  さらに、大阪の都制制度の問題。人気者の知事が最近言い出し、俄かにマスコミも平松大阪市長との確執と併せ、毎日面白可笑しく書きたてているようだ。

だが、この都制問題も私が社会人になる以前から議論の的になった古くからの問題。その当時から、東京・大阪二眼レフ論の幻想の下、府市の二重行政と阪奈和合併論や道州制導入問題とが輻輳し、毎回関係団体・関係者の思惑や利害の相克でポシャってきた、古くて新しい難題。

 しかも、府民・市民にとって、利便性や総合性確保等がどうなのか、誰も確信を持てない難題である。 それだけに、維新の会といった得体の知れない政党を結成するよりは、もっと足が地に着いた地道な検証と論議が望まれる。

一体、朝に言い出し、夕べに引っ込める性癖の橋下知事に果たして己の過信以外に、どのような客観的な確信があるのだろうか。それにしても、府職員が言ったという、「思いつき」が「思い込み」になり、今や「思い上がり」になっているとの表現には、私も橋下知事への的を得た批判だと感心するばかり。
  さらに、大阪復興の観点から気懸りで、今の方策で完全に抜け落ちていると思うのが、学術・文化の発信機能の復権である。元気なのは吉本興業系列ばかりという状況からの脱却である。 
  
考えれば、この問題もマスコミや印刷・出版界等のいつしか行われた首都圏とりわけ東京への一極集中に起因する事柄である。橋下知事はこの問題にどの程度の危機意識を抱いているのだろうか。
  外目には、知事自身のパフォーマンスばかりの発信のようにも思えるのだが。
 
考えれば考えるほど、大阪の将来への憂欝がますます強くなるばかりである。(終)

2010年07月26日

◆我が畏友の死

真鍋 峰松

今月18日日曜日、高校時代の旧友が東京の自宅で亡くなった。長年勤務した大手都市銀行を経て、関連会社の常勤監査役を勤めていた。享年68歳。

高校入学15歳の時以来、50年以上の歳月を経ての永遠の別れである。愛煙家の私と違って、喫煙もしないのに肺ガンによる死であった。大阪市内の中学から入学したのが、当時は学区のトップ校と言われていた府立I高校。旧制中学校以来、来年には創立110年を迎える伝統校である。
 
高校時代の彼は、一本筋の通ったなかなかの硬骨漢。少々運動を苦手としたが、勉学の方はいつも学年上位の成績であった。親しくなったのは、1年生の時に同じクラスだった故と記憶しているが、それよりも同じ新聞部に所属したことの方が大きい。

我々の学年は、昭和17年〜18年の生まれ。 終戦直後の混乱振りを記憶しているはずも無いのだが、多少なりともその匂いを嗅いだことのある世代ということになる。
 
高校時代は昭和33年4月〜36年3月。ちょうど、昭和35年(1960年)の日米安全保障条約改定時の大騒動の真っ只中に、最も多感な高校時代を過ごした世代である。 この安保反対闘争の余波は、当時の高校生たちにも及んでいた。

当時のI高校は教職員組合の拠点校の一つと目される程の激しい活動に巻き込まれていた。組合員である教員の中には、安保反対を唱えて、学校内で座り込みハンガー・ストライキを敢行する者も現れる始末。
 
今から考えると、幾ら自分の主義・信条と異なる政策が採択されたからと言っても、教育現場である学校での斯かる行動は到底許されることではなく、多分、現在の世の中の大半の人達には受け入れられもしまい。
 
だが、当時の校内の雰囲気は凡そ現在の社会常識からかけ離れたものであった。しかも、組合員の教員の影響の下、生徒会活動も先鋭化し、遠い記憶では、I高校でも一日、最も激しかった同じ府立の某高校に至っては、一週間以上も校門を閉鎖しロックアウトに至る異常な状態であったように思う。
 
その他の高校でも似たり寄ったりの状態では無かったろうか。 また、学校内では大学生の学生運動家など外部からのオルグ活動も激しかったという記憶もある。
このような混乱の中、我が新聞部は、組合教員の行動や外部からの学生運動家の活動を批判し、高校生らしく自制を求める論説を載せ、賛否両論の激しい渦の中に放り込まれ、挙句の果てには、一時期、反対派の生徒達によって部室に長時間閉じ込められるという苦い経験もあった。                                     
この渦の中、同じ考えを抱く同期生の仲間が集まり、安保反対闘争から距離を置くための校内活動を進めた。

彼は、高校時代から、確かバイク販売事業を営んでいた父親の影響か、どちらかと言えば右よりの堅実な思想の持ち主で、当時の反安保運動体制下にあったI高校の組合活動家やその影響下にあった生徒会や文芸部などの過激な行動に反対するグループの一員。 私もその一員であった。
 
今から思い起こすと、ここら辺りが50年以上も続く我々のグループ結成の端著になったのではなかろうか。 そして、現在に至るも、年一回の総会と大阪と東京それぞれの地区に分れ、勉強会と称する親睦を深めてきた。                      
この総員14人の仲間は、何しろ15〜16才の紅顔(厚顔)の美少年時代(?)から50年以上も経ち、今や前期高齢者の仲間入り。卒業した大学や専門分野が違い社会人としてのその後の身の振り方も様々だが、今ではその殆どが現役を引退。

僅かに、現役組には医者が二人、会社社長が一人、大学教員二人として残るのみ。寂しいことではあるが、いよいよ会員の殆どが“毎日が日曜日”状態になりつつある。
                     
折しも、この7月7日には、外務省は、作成から30年以上経過した外交文書を原則公開するとした同省の新規則を適用し、日米安全保障条約改定と47年の沖縄返還に関する外交文書ファイル計37冊を、東京・麻布台の外交史料館で一般公開したと伝えられた。
               
思えば、我われのグループは、当時の反安保闘争の中で発足し、少々オーバーな表現だが、高校時代はもちろん、戦後の高度経済成長期などの政治・経済の激動の時代を共に闘い、共に生き抜いてきた仲間たちである。

そして、思いがけなくも、彼が仲間の最初の物故者ということになってしまった。当時のいがぐり頭の面影を我われの脳裏に残しながら。

2010年07月13日

◆ありがとう! 愛犬センム君

真鍋 峰松

本誌で、今年1月7日掲載の「これが“私の最後の彼女?”」と題した文章を記憶されておられるでしょうか? その折の登場人物(?)の、一匹の愛犬の話です。 

ついに、我が家の長男犬のセンムが力尽きて亡くなった。誕生が平成9年10月だから、12年9カ月の生涯。小型室内犬の寿命が14年と言われる中で、少々若死だ。

我が家の三匹のミニチュア・シュナウザーの中では最良の血統書付きの犬だったが、よく言われるように純潔質が高いほど体質は弱いということなのだろうか。 僅か3ヶ月前までは毎日、雨の日雪の日を問わず、あれ程元気に朝は6時、夕方5時ちょうど、一日2回“ワン!ワンワン!”と何度も繰り返し鳴き喚き、散歩の催促をしていたのに。
   
7月7日七夕の夜9時30分頃、衰弱のため独力で立てず、娘がいつものように両膝に抱き上げお水を飲ませようとしていたら、その膝へ小水をジャ〜ッと。 呼び声で家内が代わって抱き上げ、娘が風呂場で着替えている最中、私はテレビを見ている途中に、急に家内のセンム!センム!の叫び声。 慌てて駆けつけてみると、既に呼吸が停止、心臓の鼓動も聴こえず。 息を引き取った直後だった。 

体を撫でてみるとまだまだ生温かく、まるで眠っているよう。 だが、もはや、瞳の中の輝きは失われていた。

急に呼吸障害の発作が出てから死亡まで約1カ月半。 本当にあっという間の出来事だった。 その内の約1カ月弱はビニール・ハウス中での酸素吸入生活。死亡直前の10日前頃からは一切の食事を受け付けなくなり、4日前からは庭での排泄にも人間の支えが無ければ自力で立っていられない程に衰弱していた。 

発作後の半月で、従来からの罹り付けの獣医院へ車で通うにも体力的に難しくなり、インター・ネットで調べて往診して頂いた獣医さんの診断では、肺ガンの可能性と咽喉部に何らかの腫瘍状のものができている、回復は難しい、との宣告。 

しかし、この医師のアドバイスで導入した酸素補給器のお陰で、激しい発作による呼吸困難や、これに伴う二度の仮死状態に至るまでの苦しみからも解放され、家内や二人の娘の手厚い介護に加え、元看護婦のお隣の奥さんの手によるリンゲル注射のお陰で、ゆったりとここまで命を長らえ、眠るが如きの安らかな最期を迎えられた。 

その間、残りの二匹の犬はどの程度状況を覚っていたのか判然としないが、居住するビニール・ハウスの周りで昼寝をしたり、ウロウロと徘徊したり。多分、寝たり起きたりのセンムにとって、仲間の姿を絶えず眼にしながらの幸せな終末療養だったろう。 

今時の人間のように、家族と分断された病院での終末治療より随分と幸せだったのでは無かろうか、と思う。

12年以上もの長い間、我が家のために頑張ってくれたセンム君。 鼻にハートマーク型の白い斑点があり、元気な折の散歩途中、普通の小型犬よりやや大きく、足も長くて走る姿が恰も馬のようだったミニチュア・シュナウザーの雄犬のセンム。
 
東京で生まれ、札幌で居住していた長女と市内のペット・ショップで出逢い、当時結婚問題や仕事関係などで深刻に悩んでいた娘の一人暮らしの良き慰め役を果たしてくれた。そして、長女の帰阪とともに、我が家へ来て10年弱。 その頃から4〜5年間、激しいアトピー症状と薬の副作用で一日中寝たきり状態にあった次女の良き癒しとなってくれた。 

夜ともなると一晩中、激しい発汗症状のために櫓炬燵を利用し空間を確保して寝ていた次女の傍らで、それも、炬燵布団の中へ頭の方から上半身だけを入れ、お尻の方の下半身を外に出して一緒に寝ていたセンム。 

その時の印象深い添い寝姿は、親の私どもの眼に焼き付いて忘れられない。現在では無事健康を回復した次女は、当時の自死を考えるほど苦しかった寝たきり生活を思い出しながら、寝ている板の間の周辺で、いつも足の爪音をカチャ・カチャと立てながら歩くセンムの姿とその音にどれだけ慰められたか、計り知れないと言う。

物心ついてからこの方、飼い犬の存在が日常だった私だが、室内犬はセンムが初めての経験。 それだけに、ペットは家族の一員と言う言葉の意味が、視界から消え去った今になってひしひしと実感する。 

今回の二人の娘の懸命の介護ぶりから、センムが果たした二人の心の安らぎへの大きな役割を改めて思い知らされた。  

センム君、本当にありがとう!! 我が家への大きな貢献をいつまでも忘れないよ。(完)

2010年07月05日

◆“鬱”なる時代(その2)

真鍋 峰松

6月11日付けの朝日新聞朝刊に「日本のいまとこれから」をテーマにした全国世論調査の結果の記事が載っていた。
 
この調査は、全国の有権者3000人(層化無作為2段抽出法による)を対象にして4月下旬から5月上旬にかけ行われ、有効回収率78%。その中で、「いまの日本は自信を失っていると思いますか、そうは思いませんか」との設問に、自信を失っているが74%、そうは思わないが22%と言う結果だ。

この自信喪失の原因では、政治の停滞、国財政の悪化、経済の行き詰まりを挙げた人が多い。 また、「これからの日本にどの程度不安を感じてますか」という設問に、大いに不安を感じているが50%、ある程度不安に感じているが45%、あまり不安を感じていないが4%。
 
ここから見ると、現在の日本人の多数が日本という国に関して、現在のみならず、未来においても不安が一杯という結果が読み取れる。
 
だが反面、日本の自信回復への底力の有無については、有るが56%、無いが28%であり、また、日本という国についての見方として、日本への誇りの有無についての設問では、持っているが75%、持っていないが19%という結果。
 
この日本に関する全く違った、一見矛盾とも思える調査結果をどう受け止めたら良いのか。

私には、過ぎ去った繁栄への想いを残しつつ、現在及び未来に対する自信を喪失し不安に脅かされているものの、将来への希望を捨ててはいない現代日本人の迷いと期待の心象をそのままに表しているのではなかろうか、と思えるのだが。
 
また、その他の二者択一の設問のうち、概ね70%以上の回答率を占めたもの、つまり、現在の日本人の多数が抱く共通の感覚だけを拾い出すと、

・「日本人は精神的に豊かな生活を送れていると思わない」73%、
・「勤勉さが報われない社会と思う」69%、
・「目指すべき国の形として、豊かさはそれほどでもないが格差の小
さい国」73%、
・「経済の主役がもの作りから金融やITなどの業種に移ることは好ま しくない」77%、
・「土木・建設業などから福祉産業や農業への転換に期待する」
  78%、
・「いまの日本は国際的議論をリードする力を持つ国と思わない」
 85%となっている。
 
この調査結果を読んで、すぐに思い出したのは、昔に読んだ木村 尚三郎氏(東大教授 西洋史)の著述「男時・女時の文明論」だった。

その中に、<男時、女時とは、世阿弥(室町初期)の風姿花伝にある、舞台の上には、ついている時(男時)とついてない時(女時)があり、舞台の上での芸がスッ、スッと巧くいき、観客の評判もいい時が、男時である。 

反対に一生懸命しているのに巧くいかず客の評判もよくない時が、女時である。 ・・・未来に対する情熱、未来をしっかり見つめ、自分の手に勝ち取ろうとする闘争心、総じて男性的な時間の観念は後退した。
 
代って、どうやっても自分ひとりでは事態は急に好転しそうにもないとの予感から、明日の栄光を考えるよりは今日の幸せと充実に意を用い、現在を調和的・平和的、協調的に生きようとする、女性的な空間感覚が前面に押し出されつつある。
 
その意味で現代は、確かに世阿弥のいう「女時」であるに違いない>との記述がある。
 
同氏は文章の最後に、<しかし、時代がどう動き、急転するにせよ、世の常識を保ち続けつつ、変化に即応しうる柔軟な心、どこにでも住める心と身体、そして自らの力によって時の流れを捉えうる鋭い五感が、これからの時代と社会に不可欠であることは同じである。
 そして、このことこそ、今日の女時が教える、最大の教訓であるのに違いない>

と結論付けておられる。
 
この記述は30年以上も前のものだが、現在こそが同氏の言われる女時に当たるのではあるまいか、と改めて思う。
                                                       現代の日本人が抱えるのは、将来に対する不安感である。それが現実に直面する恐怖なら対象も明確で対策の打ち様もあるだろうが、不安となると、その対象は不明確であり漠然としている。
 
また不安も人間の物欲と同じように際限が無い。それだけに、こと現代の日本人に限らず、人間という弱点だらけの存在にとって、その根差した不安は、未来永劫に完全な払拭というのも困難極まりないことである。
                         
論語の顔淵第十ニ、孔子が言った、門人である子貢からの政冶に関し、兵・食・信のいずれが最も大事かの問への最後の答えが、「信、無くば立たず」である。
 
つまり、民が政治を信じなければ、政治は成り立たないというのである。この人間社会、政治に限らず、経済・個人への不信が極限までいけば、社会そのものが崩壊してしまう。 社会そのものが信無くば立たず、なのである。
      
では一体、「信」とは何なのか。それは同じ規範を持っているという信頼感であり、これを培ってきたのが伝統であり、文化なのであろう。それが崩壊した組織・団体については、現代では少しも珍しくないから、その恐ろしさはすでに多くの人が語っている。             
果たして、今の政治の力でどの程度、「信」の回復が可能なのだろうか。それでは、一部政党が出張するが如く、民に全てを「知らしむ」ことで「信」を獲得できるのか。
 
私には、到底「できない」としか思えない。 こう考えれば、今回の参議院議員選挙に問われる課題は途方もなく重い。

“憂欝”になる由縁である。(完)

2010年07月01日

◆やっと終わったか?! W杯サッカー

真鍋 峰松

やっとこれで、最近のサッカー狂騒劇から解放されると思うとホッとする。 こう書けば、世のサッカーフアンから怒りの声が殺到するであろうことも覚悟の上、承知の上での物言いである。
 
この月30日にサッカー・ワールドカップ(W杯)南アフリカ大会での決勝トーナメント1回戦で、日本がパラグアイに惜敗したということ。まだ大会そのものが終了という訳ではないが、これで少しは落ち着くか?世の中、ということである。
 
勿論、日本が4年に一回開催されるこの一大イベントである国際試合で外国勢に敗北を喫したことに関しては、私も心から残念に思うし、決勝トーナメントにまで勝ち残ってきた日本チームの奮闘に敬意を払うことは吝かではない。
 
ただ、世の中、他に大事なニュースは無いのかと思わせるばかりの連日連夜のテレビや新聞などの過熱した報道振りや、世間の今回の異常な盛り上がりにはついてゆけないということである。                                     
私自身、元来が、オリンピックや世界野球大会等々、国際試合というと直ぐに日本チームへの声援で燃え上がり易い気質に反することなので、何故かくも気持が盛り上がらないのかと、我ながら不思議に思い、つらつら考えてみた。

その原因は、1993年5月のJリーグの開幕前後の事情にあった。17年も前の話である。 我々世代にとって、サッカーと言えば、小・中学校時代の冬季における体育授業で僅かにルールや競技方法など教わっただけ。通常なら、そんなに夢中になるほどのスポーツでも無かった。 
むしろ、当時の男の子にとって、草野球やソフトボールの三角ベースなどが一般的なスポーツ。 それがJリーグ結成前後から年齢を問わずサポーターと称する熱烈なサッカーフアンが目立つようになり、我が家の大学生と高校生の二人の娘もどっぷりとこれに漬かり込んだ次第。
 
これに伴い、親爺の好きなテレビのプロ野球ナイター中継を余所に、毎夜Jリーグ中継の観戦。 まさにテレビチャンネルの争奪戦が繰り広げられ、我が家の唯一の男性である私が毎回の敗退。 どうも、原因はこの辺り。他人には大きな顔で言えないほどの情けない理由である。
  
常日頃、私にはこういった公にする文章を書く場合、自重自戒していることが一つある。 それは、個人的な怨みや嫉妬に発している批判・意見は、どんなに素晴らしい文章で書いてあっても、人を感動させることはできない、という先人の言葉である。
 
同時に、頑な、柔軟性を欠いた心で書いた文章も同じだ、と言うこと。ところが、どうも、年齢とともに、靴に足を合わせるような生き方ができなくなってきた気がする。                              
考えてみると、若い時にはとくに苦痛もなく学校や会社の上司・同僚に自分を合わせることができたし、世間や仕事上のお付き合いに能力以上のことは望まず、概ねつつがなく過ごしてくることができた。だが加齢とともに、近年、本来の人嫌いの地が少しずつ表に出てきたのを強く感じる。                                       
論語の子罕(かん)第九に曰く、「子 四を絶つ。 意なく、必なく、固なく、我なし」と。
 
言うまでも無く、ここで「子」とは孔子のこと。その大意は、意=私意をもって事に臨む。必=何でも豫定通りに行おうとする。固=一事に固執して融通が利かない。我=ただ我あるを知って他人を考えない。
 
この四つを慎みなさい、ということ。 自ら反省するに、今回のサッカーの一件に関わっては、とくに「固」と「我」が己の問題。

即ち、「固」。一つの判断に固執すること。分かりやすく言えば、頑固である。情勢は常に変化している。先に正しい判断をしたとしても、情勢が変化すれば、当てはまらなくなる。対応を誤り、時代の変化に取り残されていく。
 
この病は、年をとるにつれて高じて行くので、そういう意味でも、一段の自重自戒が必要である。 「我」。自分の都合しか考えないことである。これもまた社会人としては協調性を欠いている。どんな組織に身を置いても、人間関係の中で孤立していく。
           
いずれにしても、独りよがりの言葉・文章は共感を呼ばない。お読み頂いている諸賢からは、お前の文章などが、その良い例だ、その気配が濃厚だ、と言われてしまいそうだが。(終)

2010年06月14日

◆“鬱”なる時代

真鍋 峰松

この6月7日、文化審議会は文部科学大臣に、一般社会における漢字使用の新たな「目安」となる常用漢字表について、現行の1945字より191増の2136字となる29年ぶりの改定を答申した。 

学習指導要領では、中学卒業までに「大体の常用漢字を読め」、高校卒業までに「主な常用漢字が書けるよう」指導することになっている。 

その中には、意外なことに、府県名に使われる漢字として、埼玉の「埼」、大阪の「阪」、栃木の「栃」、福岡や静岡、岡山の「岡」、茨城の「茨」、奈良の「奈」、愛媛の「媛」、山梨の「梨」、岐阜の「阜」、鹿児島の「鹿」、熊本の「熊」の計11字が追加され、都道府県名はすべて常用漢字で書けるようになった、と報道されている。

我ながら恥ずかしいことだが、日常的に見る府県名の中に、常用漢字に採用されていないものが斯くも多数在るとは全く知らなかった。
                 
それはともかく、常用漢字は、学校現場では高校までにほぼ書けるよう指導されており、その新漢字の一つが、「憂鬱」の「鬱(うつ)」。

読みは可能にしても、老いの眼には拡大鏡でもなければ、画数の勘定もままならず、書くことは到底無理である。

だが、先月下旬の同審議会の分科会では、「読みが可能であれば良い」との付記があったというので、やや胸を撫で下ろした次第である。

そこで、「鬱(うつ)」の一文字。これは確たる根拠も無い個人的感覚で申し上るのだが、現在の世相を一番表現できる漢字の一つではなかろうか。
                    
私の言いたいのは、時代認識としての「“鬱”なる時代」。それは何か。端的・単純に言えば、日々報道される政治の世界一つを見ても、小泉首相以後の歴代総理大臣、安部、福田、麻生、鳩山、現在の管、の諸氏の顔付き。

確かに、これらの方々(とりわけ麻生総理などはネアカと称せられるほど、その典型だと確信するのだが)は、いずれも本来の性格は、政治家らしく明るい自由闊達な性格の持ち主だと思う。だが、総理総裁へ就任して暫くすると、何故か以前に比べ顔付きがどうも、次第、次第に重苦しい雰囲気に包まれていく。

残念ながら“鬱”とまで行かずとも、重圧に押し潰されてしまう気配が濃厚だ。そしてこれが時代の風潮が齎すものだ、とも思える。勿論、総理総裁という立場からくる重圧感がそうさせているとは思う。

だが、ひと昔前までのその任にあった方々の顔付きとまるっきり違っているな、と思うのは、私だけの感覚だけなのだろうか。
      
私はこれを「“鬱”なる時代」と表現している。この時代風潮が今の日本のあらゆる分野で顕著に表れてきているような気がする。

これを一挙に個人レベルの話に戻すと、今、医療の中で一番流行っている・トレンディーな科目は、心療内科だそうだ。つまり、従来型の精神科でなく、身体に何らかの問題が起きた時、それが心因性のものかどうかを追究するのが、心療内科。

人生につきもののストレスだが、それが心因性の問題となって、人間の免疫力、自然治癒力に大きな影響を及ぼすのは当然のこと。その典型が「操鬱」という精神病というのである。

この症状が本当に増加一方の日本社会である。年間の自殺者数が3万人の大台を超えて久しいが、自殺原因の中には、潜在的な要因として「操鬱」というものの存在が推量できる。

その中で、各人がしっかりと生き抜くためには、この世はやはり鬱っとうしいと感じる事が多いのは当たり前で、その現実を自分でしっかり自覚し、覚悟することが肝要ということなのだろう。                 
 
しかし、これも、あくまでも個々人向けの処方箋。 果たして、「“鬱”なる時代」への処方箋、誰が、いかなる時に、どのようにして、描いてもらえるのだろうか。心配になってくる。(完)

■本稿は、全国版メルマガ「頂門の一針」6月14日(月)1948号に
掲載されました。

<1948号の目次>
・「小沢銘柄」候補の戸惑い:古澤 襄
・菅氏は日本人拉致犯の釈放を求めた!!!:古森義久
・“鬱” な る 時 代 :真鍋峰松
・「呆けて昇天」が当たり前:平井修一
・フォークランド紛争その後:渡部亮次郎
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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