2018年04月12日

◆今日一日をプラス思考で生きる

 眞鍋 峰松


最近になって、情報化社会がいよいよここまで進展してきたのか、と強く感じさせられる社会現象が多く見受けられるようになった。  

何よりも情報化の進展は、個人レベルの社会生活の中では、その人のアイデンティティの組織離れということに大いに関係してきているような気がする。
   
かって、サラリーマンが企業戦士として高度成長を支えてきた時代には、個よりも役割を優先する日本的意識はそれなりに機能してきた。だが、こうした肩書き優先社会では、退職や失業などにより組織を失うと、個人のアイデンティティも失われ、ヘタをすると人間としての存在価値そのものが奪われる結果となる。

ここにきて、一挙に増加傾向を示しつつある中高年男性の自殺や熟年離婚のなども、役割と人格を混同し社会や配偶者などと個として向き合うことが少なかったことの裏返しの現象の一つ、ということだろう。
   
情報化の進展とともに、個々人が容易に色々な情報に接し得る機会が多くなり、各人のライフスタイルも多様化しつつある現在では、かっての組織優先の人間観・人生観は個人にも社会へも大きい軋轢と落差をもたらす。 

個人にとって、従来の日本型の自意識のままでは、情報化、多様化している社会を生き抜くのは非常に難しい時代に直面しているのは確かだ。
   
そこで求められる生き方は、ということになると、やはり肩書き抜き、組織とは距離を置いた自己意識を持ち、長寿社会を迎えて多趣味を生かしながら生き抜いていくことだろう。 

そのためには、好奇心をいつまでも強く持ち、新しいものをどんどん受け入れ、それらを積極的に活用していこうという気構えを常に忘れないこと、これはつまり、進取の気性を持つということだ。 

この進取の気性こそ生きがいを見つける最大の武器の一つでもある。 

もう一つは、徒に明日を思い煩うな、ということ。 明日のことは明日のことで、今日思い煩うことはない。いずれにしても、座して待つのでなく、これぞと思った時には、すぐさま行動に移すぐらいの勇気と機敏さをいつまでも忘れないことだろう。 

ここで動いて明日はどうなるだろう、なんて思い悩んでしまったらどうだろう。 要は、明日を思い煩うことなく、今日一日をプラス思考でことに当たることが肝要、ということになろう。
 
もう一度少年のような冒険心と好奇心を持って、一日一日を過ごし、充電してゆくことが、花も実もある生き方につながるのではないか。 

シェークスピア風にいえば、退職後も自分に与えられた「劇場」の中で、しっかりと「主役」を演じることはとても楽しいことである。(完)

2018年03月10日

◆皆が 正義の戦士?

眞鍋 峰松
   


昨年12月中頃に脳梗塞が発症し、原因となった頸動脈の血管内の壁の中に溜まったコレステロールの盛り上り(アテロームと呼ぶそうだ)を除去するための頸動脈内膜剥離手術を受けてからほぼ半年が経った。

幸い、今では日常生活を完全に取り戻し、首筋に残った生々しい傷跡も日々薄らぎ、傷の引き攣れの後遺症である発音・発声不明瞭の状態も徐々に解消。ようやく他人との円滑な会話も可能になった。 また同時に、読書や日誌等の文章の作成といった知的作業に関する意欲を失い完全にこれらの作業からも遠ざかっていたのだが、この間日々の新聞記事を丹念にチェックすることのみが日課だった。

その中で気付いたのが、今年に入ってから政治家、スポーツ選手、芸能人、企業のトップなどによる謝罪事象が相次いでいることである。 女性タレントの不倫騒動、日本を代表する大企業、次々と出てくる国会議員や地方議員の政治資金絡みの不正経理処理、その極め付けが現在マスコミ報道を賑わせて本当に毎日枚挙に暇がない状態である。

ただ、記述するに当って、まず以下を前提として明らかにしておきたい。 即ち、ネット上であろうがなかろうが、何人も道義に反することが行われていると認識した場合には本来、匿名ではなく記名での公表や抗議を唱えるべきであろうし、それ以前に当事者に対し「陳謝しなければならないことなど、するな!」と伝えるべきことだろうことである。

 ある日の新聞紙上で見かけたSJW=ソーシャル・ジャスティス・ウォリアー(social justice warrior)という単語。直訳すれば、社会正義の戦士。

もともとはフェミニズム(女性の社会・政治・法律上の権利拡張を主張する考え)のために戦う人たちという意味合いからスタートした言葉だったそうだが、今は正義感をかざして社会悪と思えるようなことを一生懸命叩く人たちのことを指す。その本人たちは正義感の下に発言をしていると思っているので、それが悪いこと或いは思い込みや思い違いなどとは露ほども疑わず、むしろ、社会に代わり制裁をしているという優越感や責任感すら感じている人たち。 

しかし、このSJWという言葉は海外では寧ろ侮蔑的な意味で使われ、特にネット上での匿名の発言は遠くの安全地帯から石を投げているような行為として考えられ、馬鹿にされている、とのことである。   
              
皮肉なことに、この記事を読んで直ちに思い出したのが、作家の田辺 聖子さんの「人を責めることが大好きな人があるね、正義の味方の中には」という言葉。 
               
中国の大儒者朱子(朱熹)は「血気の怒りはあるべからず。理義の怒りはなかるべからず」と説いている。朱子は、怒りを二つの種類に分け、一は非、他は必要なものとしている。血気の怒りとは、感情的な怒り、自己中心から発したそれで、朱子が戒めてきたのは全て、この種のものである。

しかし、怒りには、もう一つの種類のものがある。客観的な眼や正義感に根をおいた、公的な怒り、いわゆる公憤といった性質のものだ。自分を超えた立場からの怒り、と言ってもよかろう。この種の怒りは「なかるべからず」、

つまり、なすべきと朱子は言う。確かに、悪や非道に対して人々が怒ることが無かったら、正義は行われず、家も社会も滅茶苦茶になってしまう。司法機関とは、この「理義の怒り」を、社会的に担保し行使する役所であるといえる。翻って、今の世相をみれば、どうだろう。

私には、私的な怒りが充満し、反面、公的な怒りが不足しているように見えて仕方がない。もっと皮肉な言い方をすれば、今の世相には怒りが十二分に充満している。だが、そこに見られる怒りの意見表明は、総論の形をとった各論の怒りとでも言うか、表面は一見正義感に根をおいた公的な怒りだが、その根本的な処においてはそれぞれが各人・各層の権益擁護や地位の保全、場合によっては自己の日頃の鬱憤晴らしのための過剰反応に過ぎない場合が多い、とさえ言えるのではないか。 まして、ネット上での証拠も根拠も不十分な匿名の告発めいた投書などはその典型とでも言えるような気がする。  
                                       
確かに、今の世相、政治面ではとりわけ野党側が相も変わらず日本の直面する危機的現状を余所に政局に踊り続け、経済では企業が企業倫理や安定した雇用継続という社会的責務に鈍感になり、教育は人間育成という大切な目標を見失い、家庭では夫婦・親子間に相互理解を欠き、世間では人間同士、互いに思いやりや規律・厳しさを見失った状態。また、それらに警鐘を鳴らすべきマスコミ界でも、本筋を見誤ることが多くなっている。

それでは、どうするべきなのか。そこは私の如き微力な人間には、到底手に余る。その私としては、各人がそれぞれ“一燈を掲げ一隅を照らす”という心構えで前に進むしかない、と思える。
 古代ローマの哲人・政治家キケロには「彼等は他人に向かって語ることを学んだ。しかし、己に向かって語ることを学ばなかった」という苦味一杯の言葉がある。「他人に向かって語ることを学んだ」というよりは、「語ることを好んだ」「語ることを楽しんだ」と言うべきなのかもしれない。 

まさに スイスの哲学者カール・ヒルティの述べた「人間の真実の正しさは、礼節と同様、小事における行いにあらわれる。そして、小事における正しさは道徳の根底から生じる。これに反して、大袈裟な正義は、単に習慣的であるか、或いは功智に過ぎぬことがあり、人の性格について、未だ判明を与えぬことがある」ということなのだろう。

特に最近のマスコミや学者、評論家たちには、すぐに他人に対して陳謝を求める傾向にあるように思うのだが、一体、誰に対する陳謝なのか、どのような理由で陳謝を求めているのだろうか。その中には摩訶不思議な現象である場合も多々見受けられる。 

そこには、過ちを犯した事実が露見したことで取り敢えず世間に「陳謝」し、具体的には一体誰に対して謝るべきかも判らないままにひたすら頭を下げ続ける図柄しか私には眼に浮かばないのだが・・・。

2018年02月24日

◆「何でも民間」に疑問

眞邊 峰松


私の年来のマスコミに対する不信感・大衆迎合体質への嫌悪感が一層増大してきた。 


果たして、将来を考えるべき時期に、本筋の議論と離れ、質的には枝葉末節の問題に国民を巻き込んで彼らの主張が、“社会の木鐸”、“オピニオンリーダー”の役割というのは、どこに存在するのだろうか。


私も、必ずしもマスコミ人の全てが、課題を単にワイドショー的に取り上げてばかりいるとまでは言わないが、もう少し冷静・客観的に問題を整理し報道するべきだと考える。


ところで、「行為する者にとって、行為せざる者は最も苛酷な批判者である」とは、ある書物の言葉。 同書でこんな話が続く。


「ナポレオンの脱出記」を扱った当時の新聞記事である。幽閉されていたナポレオンがエルバ島を脱出した。兵を集めて、パリへ進撃する。


パリの新聞がこれを報道する。その記事の中で、ナポレオンに対する形容詞が、時々刻々に変化していく。 最初は“皇位簒奪者”。 次いで“反乱軍”〜“叛将”〜“ナポレオン”、 やがて“祖国の英雄”。 

そして、ナポレオンがパリに入城した時には、一斉に“皇帝万歳”の記事で埋められた。オポチュ二ズムとセンセーショナリズムのマスコミの実態が浮き彫りにされている」。 まさに、その通りだという感がする。


少々議論が飛躍するが、私は基本的に今の“何でも民間”の風潮に反対だ。
私自身の体験から言っても、国の役人の省益あって国益なし、自分たちの徹底的な権益擁護には、実は本当に癖々した。 まさに国を誤る輩だ、何とかならんのか、という気分にもなった。


しかし、国家公務員というに相応しい立派な人士をも身近に知る私としては、少々誤弊のある言い方かも知れないが、敢えて言えば、こと“志”という点においては、真に心ある役人に比し得る民間人は、そう多くなかろうとも思う。
 

これも個人資質・能力というよりは、やはり、退職までの30年を超える永年の職務経験、職責の持つ私自身に染み込んだ体質的なもの、職業の匂いのようなものかも知れない。
  

私には、特にかっての余裕ある民間経営の時代ならともかく、現下の利潤一点張り、効率一点張りの時代に、現役の企業人で、常日頃から“公益とはなんぞや”の視点から物事を考察したことがある人物が、そう数多いとはとても思えない。


とりわけ、企業利益の増加のみに邁進し、その過程で中高年の自殺者の激増など、社会不安を増幅してきたリストラを闇雲に推進してきた企業経営者を見るにつけ、その観を否めない。 


このような中で、果たして、現在のマスコミの論調のように“何でも民間人登用”“何でも民間感覚“ということが果たして正しいのだろうか。                                   (了)

2018年02月05日

◆いま時の男の子、女の子

眞鍋 峰松

最近、こんな話を耳にした。ある小学校の4年生のクラスの保護者授業参観での出来事。 担任の先生が選んだ参観授業の内容が、小学4年生はちょうど10歳ということで、20歳の半分〜「二分の一成人式」に因んだ作文の発表会。
 
学年全体の授業テーマだったそうだが、単なるありふれた授業内容や風景の参観に比べ、それにしてもなかなか面白い着想。先生方も色々と知恵を絞られたのだろう。

生徒たちはそれぞれ、生れてから10年間聞き取ってきた家庭内出来事を作文に纏め、参観日に保護者(平日だったので、保護者欠席2名を除き全員が母親ばかる)の前で対面して読み上げる、という方式だったそうだ。 

私どもの年代は、学級名簿はまず男子生徒、続いて女子生徒という順番だったが、いま時はアイウエオ順の名簿。従って、生徒の読む順番も男子が終わって、次いで女子ということでもなく、アイウエオ名簿の順番で発表する。

ところが、その場に居合わせた母親達が一様に驚いた出来事が発生した。生徒達が読んだ作文は、家族旅行の思い出や家庭内での出来事、中には生徒が風邪で寝込んだ時に母親が徹夜で看病に当たってくれた思い出などに、予め担任の先生が生徒の原文に色々とサジェッションし、完成させたものらしい。

何しろ、まだ10歳という年齢のこと、その発表内容によっては、途中で感極まって泣いたり、涙声になることも当然予想されたのだろう。ところが実際にその場で見られた光景とは、男子生徒全員が号泣、女子生徒は割合と淡々と発表し終えたというのである。

この話を耳にした私、へ〜ぇという驚きの一言。     

私は、その出来事を聞き、改めて興味を抱き、この話を私の耳に入れてくれた話し手に、それでその場の母親たちの感想は如何だったのかと確認してみた。

4年生の子供を持つ母親といえば、まず30歳台。65歳を超えた私のような年代からみれば、母親自体が我が娘と同じ年代。そこでの年令ギャップに興味も惹かれた次第。

発表会での男女生徒の感性に差があつたことへの母親たちの感想は、「男の子の方が女の子より感受性が強いからとか、本質的に優しいから」というのが多数意見だったようだ。なるほど、なるほど。

母親は、どうやら女性としてのご自分自身の経験・体験に当てはめたご意見の模様だ。昔々から、男の子は男らしく気性がさっぱりして力持ち、女の子は気が優しくて神経が細やか、という、私たち時代の世間常識はもはや通用しないことが窺える。

街角を闊歩する現代の若者達を見ての感想も、男性が女性化し、女性が男性化しているというのが典型的な今時の男女観。そのことからしても、10歳にして既にその傾向が現れているのが今の世相かも。

この話、お読みの皆さんの感想は如何でしょうか。

2018年01月27日

◆公財政を揺るがす「抗し難い圧力」

眞邊 峰松

私は、本欄で、<特に大阪のように本来豊かな税源を持つ地域でも、現行税配分方式ではその多くが中央に吸い上げられ、辛うじて地方交付税の配分で息を繋いでいる情けない実態>と書いた

更に、<大阪の地盤沈下が叫ばれて久しいが、この主原因は在阪企業の利潤中心の東京移転ではなかったのか、果たして府なり大阪市の力でこれら企業の東京移転を阻止できたのか、これら民間企業経営者の本音の意見を聞きたいところだ>とも指摘した。

その上で、<今後日本経済の復元に成功したとしても、結果的には国と東京の一人勝ちとなり、大阪の地盤沈下が一層明白になり、府下の公財政の改善を求められたとしても、制度の抜本的改革なしには、一歩も進まない実態が明らかになると思われる>と警鐘を鳴らした。

そこで、改めて私の考えを述べてみたい。私も、かっての府下公財政のあり方を決して是認するものではない。例えば、平成17年秋以降の大阪市の職員厚遇や第三セクターの相次ぐ破綻処理問題、平成18年春から次々と明らかになってきた同和行政を巡る乱脈経理。あらゆるところに蔓延する談合体質。

これらは明らかに公財政のあり方を根底から揺るがすものだ。 ただ、私の経験から言えるのは、その背景には、自己の利権と集票のみに関心を持つ低劣な議員、政治分野にのみ存在感を誇示し、真の公正妥当な職員福利の増進を無視してきた労働組合、人権擁護を表看板に有形無形の、抗し難い圧力の下に進められてきた諸団体の活動があったことも事実だ。 


当然担当部署は、それらの圧力に屈することなく公務員本来の全体の奉仕者として踏ん張るべきであったろうと思う。そこが社会の指弾の的になっているのだろう。  
しかし、その彼らを支えるべき議会・マスコミ・警察権力はどこにあったのか、眼を向けていたか。否、全く無かった。

逆に、寧ろ問題の糊塗を進める要因の一つだった、いうのが実態だったであろう。 梯子を登って後ろを振り返れば、誰も続く者とてなく、猪武者扱いされるのが関の山。 全体として、決して褒められた実態ではなかったと確信している。

果たして行政と公財政を取り巻くこのような複雑怪奇な実態を知らず、地方行政に対する見識・胆識をもお持ちとは些かも思えない特定人物を重宝がること自体が、果たして良いのだろうか、正しいのだろうか、と疑問を持たざるを得ない。 単なるパフォーマンス・綺麗事で終わるなら、長期的・最終的に被害を蒙るのは住民・国民ではないか。

まぁ、そうは言っても、民間でもOBとなられた人物で、企業経営から相当期間離れられ、その後色々な経験を重ねられた上で、大所高所から言われることなら、とは思う。 とりわけ行政の弱点である最小コスト・最大効果という点で民間知識を生かしていくのが効果的だとは考えないことではない。

しかし、正直、それでも長い期間に養われた視野、当該問題に対する現実や関わる裾野まで見渡せる経験・知識という点では、一般的には自治体職員OBの中の優れた人材と比べて、果たしてどうだろうか。

卑近な例でも、大阪府のりんくうタウンや大阪市の大阪湾埋立地の事業への批判。世の非難はその見通しの悪さを批判の的にしている。 これらは明らかに土地神話やバブルの崩壊によるものだ。 

現時点に立てば、これらを第三者の目で批判・非難することは簡単だが、私の目から見れば、これらの埋め立て事業自体は海面から新しい国土を生み出したという意味で、土地投資に対する安易な融資による金融危機と、同列に扱われることに抵抗を感じる。 

もっと長期的に考えれば、無から有を生み出したという評価だって有り得るのではないだろうか。 過去の責任を追及するばかりというのもどうか、と思う。 

大阪市、大阪府に新しい首長があいつで誕生している。今後、将来の大阪のために、思い切った施策や投資を立案し、実行するかどうか疑問が湧いてきて、背筋が寒くなる。

2018年01月22日

◆童話に教えられること

真鍋 峰松

まず、この話をお読み頂きたい。
 
「オオカミが羊の群れを襲う機会をうかがっていたが、犬が見張っていて手を出すことができないので、目的を達するために策略を用いることにした。オオカミは羊に使者を遣って犬を引き離すように求めた。
 
自分と羊とのあいだの反目の原因は犬であり、犬を引き渡しさえすれば、羊とのあいだに平和が永遠に続くだろうとオオカミは言った。何が起こるのかを予見できない羊は犬を引き渡した。

いまや絶対的優位に立ったオオカミは、もはや守る者のいなくなった群れをほしいままに食い荒らした。」(「新訳イソップの寓話集」塚崎幹夫訳 中公文庫)。

以前、読んだ童話の中の話である。日本の昔話や童話の中では、子ども向けに最後の下りがメデタシ、メデタシ、そして二人で幸せに暮らしました風、或いは勧善懲悪の教訓話が多い。
 
だが、西洋の有名なイソップやグリム兄弟の童話集にはハッピー・エンドばかりではなく、相当にアンハッピー・エンド、残酷な結末で終わる話が多いという。
 
これは、欧米系人と日本人との民族性の違い、とりわけ日本人の現世肯定の現実主義と、子供には夢と希望をという一種の理想主義とが合体したところから生じたのであろうか。

童話の専門家でもない私が、このことを詳しく述べるのは本題ではない。

私がこの話から直ちに連想したのは、昨今の米軍基地の移転問題。いつしか日本近海でキナ臭い話が充満する昨今、基地をどこか国外に移転しろと言うのは、果たして如何なる外国の、或いは宇宙人の策略なのかどうか、私には専門外の話。

だが、この童話、如何にも当て擦り的な寓話のように思えてならない。明らかに分かるのは、昨今の米軍基地問題を巡る議論では、どこか基本的な問題が抜け落ちているのではないのか、ということ。
 
つまり、この寓話での犬の果たす役割〜国の安全保障体制の問題である。 

最近の鳩山首相の発言の中にあった、色々と勉強している中で、仰止力のためには米軍基地の分散化には一定の限界があるとの発言に、びっくり仰天するしかなかった。
 
一体、この人物は何年の間、国会議員を勤めて来たのだろうか。それなのに一番大事な国の安全保障について、首相になってから勉強とは。 しかも、この後に及んで仰止力について初めて理解したというのか。惟、唖然とするしかない。
 
国の果たすべき役割の最たるものの代表例は防衛・外交、司法。 戦後の防衛・外交の中心的役割を担ってきたのが日米安全保障条約。それ位は誰でも簡単に解ること。

片務的契約だの、何だのという議論はさて置き、明白なのは、現在の日本自身の防衛力だけでは、近代戦闘では非常に心もとない。
 
米国の軍事力を背景にしなければ、とてもじゃないが周辺の好戦的・反日的な国に太刀打ちできるものではない、ということ。

この件に限らず、今後一体、この国はどこを向いて動いて行くのだろうか。確たる方向性があり、操舵手はいるのだろうか。
        
政治と童話と言えば、イソップ童話の北風と太陽の話。言うまでも無く、これは隣国韓国の対北朝鮮政策の話。
 
三代前の大統領 金大中氏及び後継者盧武鉉氏と、現在の李明博氏の対照的な政策を表現することは、夙に有名である。
 
現時点でも最終判断は保留状態のようだが、これらの政策の行き着いた先が、最近の北朝鮮軍による韓国艦艇への攻撃と数十人の戦死と多数の負傷兵員の発生とすれば、私には自ずと優劣の差も判明したようにも思える。

が、これも鶏が先か卵が先か、どちらが原因で結果なのか、素人眼には結論を出し難い面もある。

最後に、もう一つ。

「兎が獣の会議に出かけてゆき、これからどうしても万獣平等の世にならなければならぬと、むきになって論じ立てた。獅子の大王はこれを聞いてニコニコ笑いながら、兎どん、お前の言うのは尤もだの。だがそれには、まず儂どもと同じに、立派な爪と歯を揃えてからやって来るがいい、と言った。」 ( 同 前出 )

2018年01月01日

◆今日一日をプラス思考で生きる

眞鍋 峰松


最近になって、情報化社会がいよいよここまで進展してきたのか、と強く感じさせられる社会現象が多く見受けられるようになった。  

何よりも情報化の進展は、個人レベルの社会生活の中では、その人のアイデンティティの組織離れということに大いに関係してきているような気がする。
   
かって、サラリーマンが企業戦士として高度成長を支えてきた時代には、個よりも役割を優先する日本的意識はそれなりに機能してきた。だが、こうした肩書き優先社会では、退職や失業などにより組織を失うと、個人のアイデンティティも失われ、ヘタをすると人間としての存在価値そのものが奪われる結果となる。

ここにきて、一挙に増加傾向を示しつつある中高年男性の自殺や熟年離婚のなども、役割と人格を混同し社会や配偶者などと個として向き合うことが少なかったことの裏返しの現象の一つ、ということだろう。
   
情報化の進展とともに、個々人が容易に色々な情報に接し得る機会が多くなり、各人のライフスタイルも多様化しつつある現在では、かっての組織優先の人間観・人生観は個人にも社会へも大きい軋轢と落差をもたらす。 

個人にとって、従来の日本型の自意識のままでは、情報化、多様化している社会を生き抜くのは非常に難しい時代に直面しているのは確かだ。
   
そこで求められる生き方は、ということになると、やはり肩書き抜き、組織とは距離を置いた自己意識を持ち、長寿社会を迎えて多趣味を生かしながら生き抜いていくことだろう。 

そのためには、好奇心をいつまでも強く持ち、新しいものをどんどん受け入れ、それらを積極的に活用していこうという気構えを常に忘れないこと、これはつまり、進取の気性を持つということだ。 

この進取の気性こそ生きがいを見つける最大の武器の一つでもある。 

もう一つは、徒に明日を思い煩うな、ということ。 明日のことは明日のことで、今日思い煩うことはない。いずれにしても、座して待つのでなく、これぞと思った時には、すぐさま行動に移すぐらいの勇気と機敏さをいつまでも忘れないことだろう。 

ここで動いて明日はどうなるだろう、なんて思い悩んでしまったらどうだろう。 要は、明日を思い煩うことなく、今日一日をプラス思考でことに当たることが肝要、ということになろう。
 
もう一度少年のような冒険心と好奇心を持って、一日一日を過ごし、充電してゆくことが、花も実もある生き方につながるのではないか。 

シェークスピア風にいえば、退職後も自分に与えられた「劇場」の中で、しっかりと「主役」を演じることはとても楽しいことである。(完)

2017年12月16日

◆年の瀬に思うこと(その二)

                               眞鍋 峰松


今年も、残す所あと幾日か。長いようで短い1年という歳月。全てこれ一日一日を重ねる歳月である。例年のことでもあるが、この時期になると、この1年間何をして過して来たのだろう、必ずしも空しく過してきたとは思わないのだが、と回想する。

しかし、取り返しのつかぬ歳月というものが、近年ほど重く心にかかるものはない。残りの時間が、はっきりしてきたからであろう。

この歳になると、人生を登山に例えると、確実に下山の時期である。
 
山を登る時には、先へ先へと急ぎ、路を踏みしめ一歩一歩と足元のみを見詰めきたものを、山を下りる時には、視野が広がり眼下の景色を楽しめる。
 

こう考えれば、下山は決して寂しく惨めなことではないし、穏やかで豊穣で、それまでの知識・情報では及びもつかないような智恵にふれる、そう言う時期でもあるはずだ。                          

徳川家康が子孫のため残した言葉の中に、「人の一生は重き荷物を背負いて 遠き道を行くがごとし」とある。そこには、人の一生は苦であるという仏教の「苦諦」の匂いが窺われる。
  

だが、私のような凡人にとっては、家康のように貧しい時代ならそれは已む得ないことだったのかも知れないが、重い荷を背負って汗水たらしながらひたすら生涯を歩み続けねばならないとしたら、そんな風に人生をだらだらと歩むのは何ともやりきれない、と思ってしまう。


山を下りるその時は疲れているが、その疲れは人生の正しい疲れであってひたすら上を目指して競争している間は気がつかなかったことが感じられる、と思う昨今である。
      

今年1年。 国においては3月11日の東日本大震災と福島原発事故の後処理に追われ、これに伴う政治混乱に明け暮れ、ここ大阪では維新旋風が荒れ狂った。
            

ちょうど1年前。この欄で、「今年はどんな年?」と題し、奈良薬師寺管主山田法胤老師の言葉を紹介した。


老師曰く『 今年は「辛卯(かのとう)」の年に当たり、「辛(かのと)」は字の意味からすると、「からい、つらい、きびしい、酷い、むごい、苦しい」などの意味。
 

「卯」は動物では兎、音読みは「ボウ」で「芒」に通じ、「広い」または「しげる」などの意味で、象形でいうと門の戸が左右に開いた形。方位は正東。時刻では午前6時。
 

この二つの字を組み合わせると、各家の門扉が左右に開いて、午前6時に朝一番の太陽の光が差し込むという風となる。』とのこと。
 

ここまで読んで、慌て者の私は、そうか門内に朝一番の太陽の光!こりゃ、今年は良い年になりそうだ、と喜んだのも束の間。
 

続いて、「辛」の字が開いた門に入り込むとなると、辛くて厳しい、ひどいことが朝一番に入る意味になる。そうなると今年は、苦しい年が否応なしにどの家にも入りこんでくるということになる、とのご宣告であった。


斯く書いた私自身は、干支で当該年の動静・人の運勢が全て決る何てあり得ないと思いながらも、今さらながら驚愕の1年であった。
 

さて、来年は? 今年は我が国にとって歴史的大災厄の年であり、記憶に留めるべき年である。だが、来年こそは、どうか諸々の苦難・懸案が一掃される年でありたいものだと念ずる次第。
 

折しもの忘年会シーズン。行く年よりも、来る年を祈って、せめて今年の忘年会だけは、来年に期待を込め希望に満ちた“望年会”といきたいものである。

2017年12月15日

◆年の瀬に思うこと(その一)

眞鍋 峰松


12月も中頃を過ぎると、ほとんどの会社では冬のボーナスの支給が終了する時期。
4,5日前の民放テレビを見ていたら、番組で街行く老若男女のサラリーマン・ウーマンを対象に、今年のボーナスはどうでしたか、とインタービューしていた。

ひと昔前までは、同じサラリーマンとして、夏・冬のボーナスが如何に有難いものであったことか、百も承知のこと。 とりわけ若年の頃には月給が安いぶん、あたかもボーナスは会社による強制的な貯金、給料として月々頂くと淡雪のように溶けて無くなってしまう、有難い制度だ、とまで思っていた。
 

ただ、現役の当時であれば、同じようなテレビの街頭インタービューであっても、その質問内容は、貴方(女)は貰ったボーナスはどのように使いますか、という使い途に関することが多かった。
 

今回のように、お宅の会社のボーナスはどれ位、というような類のボーナスの金額の多寡の質問では無かった気がする。 


つまり、今時のボーナスの話題と言えば、会社によって相当な格差が有ることが当然の前提として在って、その格差実態の方へ視聴者の関心が向いていることの表れなのだろう。
 

さて、そのインタビュー。 10人程度の男女が回答に応じていたが、現在の不況風の下でさぞ厳しいのだろうという想像に反し意外と、昨年に比べ増えましたという答えが多かった。 

それも面白いことに、年配者はパーセント増と答え、若者は1〜3万円増えましたと金額で表現していたこと。年配者のそれは、経済好調時の大らかな時代の名残りだと思うのは考え過ぎだろう、か。 

番組では、調査対象全体では、やはり現下の不況と先行き不安などを反映し、対前年では減少したとの回答の方が若干多かったとの解説であった。
 
また、インタービュー回答者の中で、3,4人がボーナスの増加要因として、前年に比べ会社の財務状況が改善したので、と答えていた。 つまり、収入面の販売促進や売上増加というより、経理内容つまり支出面の諸経費の削減によるもの、という意味なのであろう。

さらに、番組の中、最も印象深く記憶に残ったのは、30才半ばの男性の答え。 昨年より5倍に増えました、というのである。視聴者も驚いただろうが、さすがに、そのテレビのインタービュアーも驚いて、もう一度聞き返すと、件の男性の答えは、昨年が悪過ぎたのでその分増加幅が多くなった、リストラにより会社の財務内容が改善されたので、というのである。

この前二者の回答の中で、共通するのは、“会社の財務状況の改善で増えました”という理由。 財務改善の内容を明快に答えていたのは後者の男性のみだが、多分、いずれの会社の内容も似たり寄ったりの要因 〜リストラなどによる人件費の圧縮が大きいのだろうと推察できる。

何故なら、我が国の最近の給与所得者の平均所得額が、ほぼ横ばい乃至やや減少傾向にあること、依然として企業の被雇用者中に占める非正規労働者比率が増加しつつあること、特に中高年齢者のリストラが依然として高水準で続いていることなど、からも明らかだ。

また、件の男性の回答の中で、リストラという発言をする際、自己のボーナス増加は他者のリストラという犠牲のお陰だと、やや自嘲気味に言ったようにも聞こえたのは、私だけの錯覚だったのだろうか。 

しかし、一緒に視聴していた家人の反応からしても、あながち私の独断だとばかりには思えない。

江戸時代の儒者 伊藤仁斎には「貧しきことを患(うれ)えず、均(ひと)しからざるを患う」という言葉がある。この言葉には件の男性の心根に相通じるものがあると思うのだが、為政者や企業経営者たちにこそよくよく心して頂きたい言葉だと思う。

現在、非正規労働者を中心に、国民の間に蔓延する将来への不安や現在の生活への不満・不平を齎し、社会全体の安定を乱す要因となっている格差社会への警鐘と受け止めるべきではなかろうか。

それにしても、この番組の中で、上記回答の内容の深刻さに一言も触れることが無かったのはどうしたことだろうか。 社会の木鐸たるジャーナリズムを標榜するマスコミとしてはどうなのだろうか、思う次第である。 
     

2017年12月03日

◆今日一日をプラス思考で生きる

 眞鍋 峰松


最近になって、情報化社会がいよいよここまで進展してきたのか、と強く感じさせられる社会現象が多く見受けられるようになった。  

何よりも情報化の進展は、個人レベルの社会生活の中では、その人のアイデンティティの組織離れということに大いに関係してきているような気がする。
   
かって、サラリーマンが企業戦士として高度成長を支えてきた時代には、個よりも役割を優先する日本的意識はそれなりに機能してきた。だが、こうした肩書き優先社会では、退職や失業などにより組織を失うと、個人のアイデンティティも失われ、ヘタをすると人間としての存在価値そのものが奪われる結果となる。

ここにきて、一挙に増加傾向を示しつつある中高年男性の自殺や熟年離婚のなども、役割と人格を混同し社会や配偶者などと個として向き合うことが少なかったことの裏返しの現象の一つ、ということだろう。
   
情報化の進展とともに、個々人が容易に色々な情報に接し得る機会が多くなり、各人のライフスタイルも多様化しつつある現在では、かっての組織優先の人間観・人生観は個人にも社会へも大きい軋轢と落差をもたらす。 

個人にとって、従来の日本型の自意識のままでは、情報化、多様化している社会を生き抜くのは非常に難しい時代に直面しているのは確かだ。
   
そこで求められる生き方は、ということになると、やはり肩書き抜き、組織とは距離を置いた自己意識を持ち、長寿社会を迎えて多趣味を生かしながら生き抜いていくことだろう。 

そのためには、好奇心をいつまでも強く持ち、新しいものをどんどん受け入れ、それらを積極的に活用していこうという気構えを常に忘れないこと、これはつまり、進取の気性を持つということだ。 

この進取の気性こそ生きがいを見つける最大の武器の一つでもある。 

もう一つは、徒に明日を思い煩うな、ということ。 明日のことは明日のことで、今日思い煩うことはない。いずれにしても、座して待つのでなく、これぞと思った時には、すぐさま行動に移すぐらいの勇気と機敏さをいつまでも忘れないことだろう。 

ここで動いて明日はどうなるだろう、なんて思い悩んでしまったらどうだろう。 要は、明日を思い煩うことなく、今日一日をプラス思考でことに当たることが肝要、ということになろう。
 
もう一度少年のような冒険心と好奇心を持って、一日一日を過ごし、充電してゆくことが、花も実もある生き方につながるのではないか。 

シェークスピア風にいえば、退職後も自分に与えられた「劇場」の中で、しっかりと「主役」を演じることはとても楽しいことである。(完)

2017年11月26日

◆情報化と人間の生き方考(後編)

眞鍋 峰松(評論家)

 
情報化の進展とともに、個々人が容易に色々な情報に接し得る機会が多くなり、各人のライフスタイルも多様化しつつある現在では、かっての組織優先の人間観・人生観は個人にも社会へも大きい軋轢と落差をもたらす。

 個人にとって、従来の日本型の自意識のままでは、情報化、多様化している社会を生き抜くのは非常に難しい時代に直面しているのは確かだ。
   
 そこで求められる生き方は、ということになると、やはり肩書き抜き、組織とは距離を置いた自己意識を持ち、長寿社会を迎えて多趣味を生かしながら生き抜いていくことだろう。 

 そのためには、好奇心をいつまでも強く持ち、新しいものをどんどん受け入れ、それらを積極的に活用していこうという気構えを常に忘れないこと、これはつまり、進取の気性を持つということだ。 

 そして、この進取の気性こそ生きがいを見つける最大の武器の一つでもある。 そして、もう一つは、徒に明日を思い煩うな、ということ。 明日のことは明日のことで、今日思い煩うことはない。いずれにしても、座して待つのでなく、これぞと思った時には、すぐさま行動に移すぐらいの勇気と機敏さをいつまでも忘れないことだろう。 

 ここで動いて明日はどうなるだろう、なんて思い悩んでしまったらどうだろう。 要は、明日を思い煩うことなく、今日一日をプラス思考でことに当たることが肝要、ということになろう。
 
 もう一度少年のような冒険心と好奇心を持って、一日一日を過ごし、充電してゆくことが、花も実もある生き方につながるのではないか。 シェークスピア風にいえば、退職後も自分に与えられた「劇場」の中で、しっかりと「主役」を演じることはとても楽しいことである。(完)

2017年11月25日

◆真正面からの言葉・教えほど尊い (前編)

眞鍋 峰松
   

最近、マスコミ上に登場する方々を拝見していると、どうも物事を斜めに見て論じる人が多いように感じられてならない。 多分、論じておられるご本人は、それが正しいと信じ切っておられるのだろう。 

これは何も最近になって起こった現象とは限らない事なのかも知れないが、まさにマスコミ好みの人種ということなのだろう。

 例えば、靖国神社参拝問題についても、国のために尊い命を捧げた旧日本軍将兵の御霊に感謝の念を表すことは大事な筈だが、その方々はこれに対して、「中国・韓国の国民感情に配慮し外交関係・国益を考えるべし」とおっしゃる。 それでは、どうするのか。

 物事を斜めに見ると、その二本の線はそれぞれが独立した線の衝突の側面しか見えない。 

A級戦犯合祀の問題も含め、人により立場により色々な考え方があるのだろうが、私には真正面から考えると、この二つの命題はそもそも両立できないことではないと思える。 

歴史的な経緯があるにせよ、また諸外国から如何に言われようが、日本国にとっては本来一方が他方を排除したり、相容れない事柄ではないはずだ。 

それより戦後60年間以上もこれまで避けられてきた国内論議の決着の方が先決だろう、と思える。 だからこそ、外交面では未来志向型の解決しかないのだろうという気がする。
   
過去を振り返ると、私の学校時代の教員にも、物事を斜めに見る性癖のある人達が結構多かった。

とりわけ「己を高く持する人物」に多々見られる事柄でもある。それはそれ、その御仁の生き方・信条そのものの問題だから、他人である私が、眼を三角にしてトヤカク言う必要のないことではある。 

ところが、教員という職業に就いている人間がそういう性癖を持ち、日頃児童・生徒に接しているとしたら、そうはいかない。
   
私の経験でも、「物事を斜めに見る性癖のタイプ」の教員が結構多かった。

結論から言えば、そういうタイプの教員は教育現場では有害無益な人間と言わざるを得ないのではないか。
  
実社会においても一番扱いの難しいのが、こういうタイプの人間だろうし、往々にして周辺の人間からも嫌われてもいる。 

多情多感な青少年にとって、こういうタイプの先生に教えられることには「百害あって一利なし」である。
   
教育の本質はむしろ逆で、もっと「真正面からの言葉・教え」ほど尊いと 私の体験からも、そう思える。<後編へ> 

at 07:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 評論家

2017年11月14日

◆生きるよりも「活きる」を選ぶ

                           渡部 好造

新聞の有名人の死亡記事をみると、死因とともについ目をひくのはその年齢である。わが身に比べて長生きされたかどうか気になるのは筆者だけだろうか。

最近、死を迎えるのは80%以上が病院だそうである。今では昔のように自宅であらゆる手を尽くした後残念な結果になることはまずないといってよい。それも数年前までは、患者が例え意識を失い眠った状態でも血管から点滴で栄養分を送り、かなりの期間生きながらえることができた。

しかし、これにも限界があり血管が詰まったり、どうしても栄養分が足りなくなり、いつまでも生きながらえるという訳にはいかなかった。

そこに今度は「胃ろう(胃瘻)」という新しい治療法が開発された。この治療法は、小説家・渡辺淳一氏の週刊誌連載エッセイでも取上げておられたが、意識のなくなった患者の胃に栄養分タップリの流動食を直接送り込む。したがって、意識はなくとも患者は延々と長生きできることになる。筆者かかりつけの内科医によると、「やってみますか」と勧める病院も増えているという。

点滴だったら精々3〜4年が限界だったのが、それ以上に症状が変らないまま長生きできるらしい。医学上目覚ましい進歩には違いない。患者の家族にとって大喜びのこともあろうが、当然のことだが治療費は計り知れない。

かといって途中で「胃ろう」を打ち切ってくれとは言えない。それを言うと”もう殺してくれ”となり、殺人罪に問われかねない。これではもはや”生き”ているだけで、”活き”ているのでは決してない。筆者は「生きる」よりも「活きる」方を選びたい。

そこでこんな迷惑な結果にならないよう次のような遺言書を残すことにした。もちろん異論があることは覚悟の上だし、本人死後のことだから守られなくともやむを得ない。

1)病気・事故などにより脳死状態、認知症などで通常の判断ができない、その他回復不能の病気にかかった場合、余分な延命処置、治療は一切不要のこと。とくに「胃ろう」だけは絶対ご免である。
2)死体処理は、法律上必要なことのみに限る。
3)寺、僧侶に関わる費用は使わない。葬儀、読経、戒名、祭壇など不要。焼場直行の直葬も可。(戒名がないと「三途の川」を渡れないと真剣にいう人がいた、、)

念のために申し添えるが、金が惜しくて言うのではない。死者も含めて既に死んだも同然の人に金を使うべきではなく、金は”活きている人”にこそ使うべきなのである。        (完)
at 05:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 評論家「渡邊好造」