2016年08月04日

◆指導者としての資質を考える

眞鍋 峰松



最近の中国やロシア、さらに北朝鮮などのニュースに接する度に思うことがある。

どうも日本の優秀と言われる人物とりわけ政権中枢にいる方々の、不測事態へ対応する能力が本当に大丈夫なのか、不足しているのではないか、という危惧である。また、幾ら事前の準備に怠りがなくても、肝心の決断力がなくてはどうにもならない。
 
これに関連し、思い出すのが昔、昔の話。 阪神・淡路大震災の経験から、毎年恒例として行われる地震災害へ備えた、防災訓練について、である。 
地方自治体や国の出先機関などの行政を始め地元自治会など幅広い方面を巻き込んで大々的に実施されてきた。
 
だが、毎年恒例の行事として行われる故もあってか、災害発生時の住民への避難誘導や救急医療体制の初動活動などが中心で、その当時からマンネリ化の懸念を感じていた。

仄聞するところでは、アメリカでのこの種の訓練では、対策本部における非常事態へのギリギリの判断。例えば、A地点とB地点とに危機が迫っている場合に、如何に防災力を適正分散するべきか、最悪の場合にはどちらか一方に優先して防災力を振り向け、どちらか一方を犠牲にするかなど、指揮を執る人物の決断力が試されるようなケースまで想定し訓練しているとのことだった。
 
最近ようやく我が国においても、この実例として、負傷者多数の場合における負傷程度による治療優先順位の決定問題が、ギリギリの決断訓練の一つとして採り上げられている。

ところが、である。過去に一度、ある都道府県で、このアメリカの方式を採り入れて、水防訓練の中で破壊的水量を抑制するために人為的に堤防決壊させ、水量分散を計るというギリギリの決断を想定したことがある。
 
決壊した場所では、当然なにがしかの被害が発生するのだが、その時、当時の知事は激怒し、そのシュミレーションの場を立ち去ってしまったというのである。要は、彼は逃げたのである。だが、このような決断力こそが、本来のトップ・リーダーに求められる能力、不測事態への対応能力である。 
             
以前読んだ書物の中に「孤独は全ての優れた人物に課せられた運命」との表題で、
@トップには同僚がいない 
A最終意思決定には誰の助力を求められない 
B自由に意思の伝達がし難い 
C正しい情報を得ることが稀である 
Dしかも、なお、最終的な責任を負っている、
と記述されていたのを思い出す。
 
まさに、これがトップ・リーダーに課せられた運命なのだろう。また、これは、塩野七生氏の著書「日本へ 〜国家と歴史篇」からの引用だが、人間の優秀さについての記述で、その一つが、色々な事態に対し、原則を変えずに、如何に例外を設け、さらにその例外事項を他に類を及ぼさないようにするか。
 
さらにもう一つ。日本的秀才は、予期していた事態への対処は上手いが、予期していなかった事態への対処は、下手なのが特質であるらしい。

しかし、予め分かっている質問に答えるのに、人並み優れた頭脳は必要ない。真正面から答えるか、それともすり抜けるかの違いはあっても、予期していなかった質問に対処して初めて、頭脳の良し悪しが計れるのである、というである。

私が思うに、前半の部分は、むしろ上級公務員の優劣の判断基準に向いおり、後半の部分は政治家を始めとする、組織のトップの資質の判断基準に向いているように思われる。
 
要は、決断するのは難しい作業である。決断に際して、十分に情報を集め、徹底して分析したから万全だ、ということは絶対にない。考える材料が全部そろい、やるべきことが自ずと分るのなら、リーダーは何もしなくてよい。つまり、決断するための情報収集と分析は程度問題である。
 
信頼を繋ぎ止めたるためなら、「ここまでは考えたけれど、これ以上は運を天に任せる」と踏み切るのがリーダーの役割だ。
 
それを検討会議や関係閣僚会議の設置ばかりで逃げてばかりではどうにもなるまい、と思う。日本語で上手い表現があるではないか。“腹をくくる”と。
 
少々穏当でない言い方だが、それこそ、判断を過てば腹を切ればよい、ではないか。 塩野 七生氏は言う。「たとえ自分は地獄に落ちようと国民は天国に行かせる、と考えるような人でなくてはならない。その覚悟のない指導者は、リーダーの名にも値しないし、エリートでもない」と。これができないなら潔く職を辞するしかあるまい。
                

2016年07月14日

◆今日一日をプラス思考で生きる

眞鍋 峰松



最近になって、情報化社会がいよいよここまで進展してきたのか、と強く感じさせられる社会現象が多く見受けられるようになった。  

何よりも情報化の進展は、個人レベルの社会生活の中では、その人のアイデンティティの組織離れということに大いに関係してきているような気がする。
   
かって、サラリーマンが企業戦士として高度成長を支えてきた時代には、個よりも役割を優先する日本的意識はそれなりに機能してきた。だが、こうした肩書き優先社会では、退職や失業などにより組織を失うと、個人のアイデンティティも失われ、ヘタをすると人間としての存在価値そのものが奪われる結果となる。

ここにきて、一挙に増加傾向を示しつつある中高年男性の自殺や熟年離婚のなども、役割と人格を混同し社会や配偶者などと個として向き合うことが少なかったことの裏返しの現象の一つ、ということだろう。
   
情報化の進展とともに、個々人が容易に色々な情報に接し得る機会が多くなり、各人のライフスタイルも多様化しつつある現在では、かっての組織優先の人間観・人生観は個人にも社会へも大きい軋轢と落差をもたらす。 

個人にとって、従来の日本型の自意識のままでは、情報化、多様化している社会を生き抜くのは非常に難しい時代に直面しているのは確かだ。
   
そこで求められる生き方は、ということになると、やはり肩書き抜き、組織とは距離を置いた自己意識を持ち、長寿社会を迎えて多趣味を生かしながら生き抜いていくことだろう。 

そのためには、好奇心をいつまでも強く持ち、新しいものをどんどん受け入れ、それらを積極的に活用していこうという気構えを常に忘れないこと、これはつまり、進取の気性を持つということだ。 

この進取の気性こそ生きがいを見つける最大の武器の一つでもある。 

もう一つは、徒に明日を思い煩うな、ということ。 明日のことは明日のことで、今日思い煩うことはない。いずれにしても、座して待つのでなく、これぞと思った時には、すぐさま行動に移すぐらいの勇気と機敏さをいつまでも忘れないことだろう。 

ここで動いて明日はどうなるだろう、なんて思い悩んでしまったらどうだろう。要は、明日を思い煩うことなく、今日一日をプラス思考でことに当たることが肝要、ということになろう。
 
もう一度少年のような冒険心と好奇心を持って、一日一日を過ごし、充電してゆくことが、花も実もある生き方につながるのではないか。 

シェークスピア風にいえば、退職後も自分に与えられた「劇場」の中で、しっかりと「主役」を演じることはとても楽しいことである。(再掲)

評論家「眞鍋峰松

2016年07月10日

◆愚劣極まりない発言と考えるが・・・ 

眞鍋 峰松   
    


自ら政治家と称する人種の中には、信じられないほどに愚劣な人が存在するものだ。この7月4日の朝日新聞デジタルで伝えられた報道内容を読んで、つくづくそう感じさせられた。 


河村たかし名古屋市長(地域政党・減税日本代表)が愛知県清須市での演説会で行った発言だ。「日本で2番目に給料の安い市長が大阪市長で、1番がわし。本当は総理にならなきゃいけないんだけど。今の世の中のいかんとこは税金を払う方が苦しんで、税金で食っとる方が楽をしているところ。それを何とかしようと思ってますけど、孤独な戦いですわ。減税日本とおおさか維新、名前は違うけどやっていることは一緒。公務員の給料1割減らす。


でも、市長からやらなきゃいけないですよ。若干、我慢すればいいんだわ。税金払う人は立派、公務員・議員が死んでも悲しくない、でもラーメン屋のおやじが死んだ方が悲しいというふうに転換しなきゃ。でもわしは、おおさか維新に入るのは難しいんだわ。明治維新の時も薩長土肥とあったでしょ。おおさか維新の方が薩摩、あとから来た名古屋が長州だとすると、(「明治政府」のように)ちょっとええ名前考えてちょ、と。そういうグループを作って革命を起こそうと、今やっているわけ」というのである。                      
 

この短い演説の中で、到底賛同も、笑って見過ごしもできない表現が多い。これほどまで品位を欠いた人格と置かれている立場・役割に無自覚な人間が、我が国有数の大都市の首長の座に坐っていること自体が、私には信じられない。ご本人の「本当は総理にならなきゃいけないんだけど」との厚かましい言い草には開いた口が塞がらない思いがする。


また、「今の世の中のいかんとこは税金を払う方が苦しんで、税金で食っとる方が楽をしているところ」「税金払う人は立派、公務員・議員が死んでも悲しくない、でもラーメン屋のおやじが死んだ方が悲しいというふうに転換しなきゃ」とまで言うのである。


どの程度の根拠と確証の下での発言か分からないが、聴衆者に対し、人間が抱く一番醜い心象である嫉妬心を下品な表現で煽り、選挙民から支持を取り込もうという算段がミエミエ。この様な人物が本当に総理大臣にでもなれば、果たして我が国はどうだろうか。


現在世界中で話題沸騰の米国大統領共和党候補のトランプ氏顔負けの粗暴なリーダーの出現ということになるではないか。しかし、この類の首長は何も名古屋だけではない。わが大阪でも、つい最近まで存在していた。
 

紀野 一義老師はその著書「法華経の風光」中で、「今日の日本人は、わざわざ自分を下品に見せ、卑しく見せようとする傾向がある。髪にしても、服装にしても、言葉遣いにしてもそうである。それを大多数の人間が腹の中で嫌悪し、軽蔑しているにも拘らず、表向きは迎合して見せるのは、諂誑(てんのう)・邪偽というべきである。昔の武士の子が教えられたのは節度であった。


「節度」とは、「きまり」であり、「規則」であり、「法度」である。「節」とは竹の内室が貫通することなく、一ふし、一ふし断たれていることを言うのであり、法度のひとつひとつを身に体して生きるべきことを教えられたのである。」と説いておられる。                                            

行政と呼ばれる官の業務は、共同社会の利益のために行うサービス業務である。この複雑化し、かつ分化した社会において、私企業に任せられない仕事、私企業ではできないが、社会の共同の利益のためにやらなければならない仕事というものはたくさんある。それが、公が行わなければならぬ仕事、つまり行政である。官が封建時代のように身分的に権限を持っているのでもなければ、官公庁に固有な権限があるわけでもない。


いわんや公務員が自分の利益のために行使し得る権限でもさらさらない。もし官にある者が、本来の任務を忘れて特定の個人や企業・団体のためにサービスをするとしたら、それは公務員たるに値しない破廉恥行為である。


私は例外がないとはいわないが、我が国の公務員のモラルがそこまで低下しているとは思わない。むしろ、世界に冠たる節度ある清廉な仕事振りではないか、とさえ思っている。 


公務員のモラルは一国の道徳水準のバロメーターとよく言われるが、最近しきりに喧伝されるお隣の大国“中国”の、国・地方の公務員や党役員に蔓延る汚職と特権意識丸出しの腐敗ぶり、国民・市民の公徳心の喪失振りと照らし合わせみれば、これらも容易に理解できるのではないか。 


そこで上記の河村たかし名古屋市長の発言内容。いくら政治は選挙民の理性ではなく感性に訴えるものいえども、このような品性と節度を欠いた大衆迎合主義的ポピュリズムによる扇動的言動は極力慎むべきではないか。

2016年07月06日

◆英国の国民投票からの連想

眞鍋 峰松    
  
   

6月23日、英国で欧州連合(EU)に残留するか離脱するかの是非を問う国民投票が行われた。72.2%という高投票率の下、離脱派は約1740万票(51.9%)、残留派は約1600万票(48.1%)を獲得し、離脱派が勝利した。残留派が僅差で勝つという直前の予想を裏切り、英国はEU離脱への道を歩み始めた。

この結果を受け、英国国内のみならず、世界各国の政治・経済に大きな波紋を呼んでいる。英国国内では、残留と離脱で国民が大きく真っ二つに割れるとともに、離脱の結論への反省と後悔の念からの国民投票のやり直し意見の噴出と、懸念されていたスコットランド等での独立運動への波及などのマスコミ報道が伝えられた。
   
以下は本欄での杉浦氏のコラム「離脱ショックはトランプを不利にする」からの抜粋。                                    
『 歴史の審判などを悠長に待つ必要はない。すぐに分かる。鳥瞰図で見れば、まずすべての元凶は議会制民主主義の国イギリスの首相・キャメロンの大誤算にある。議会制民主主義つまり間接民主主義を否定して国民投票という直接民主主義の愚かな選択をしてしまった。 EU離脱などという国家の命運を左右する問題は、官僚が積み上げ、政治が判断を下すという議会主義の鉄則に委ねるべきであった。

それを大衆の判断に委ねた結果、判断は大英帝国の復活などと言うとてつもない空想的感情論まで生じて僅差で勝利をおさめてしまったのだ。その感情論の衆愚が後悔し始めたと聞くが、後悔は先に立たず。』

同氏のこの文章を読むと即座に、私は、2年前の大阪都構想を巡る大阪市民投票の時の騒ぎを想起させられた。幸い、都構想の方は橋下氏の扇動的言動にも拘らず否決されたのだが、最終的には都構想の中身の無さを見抜いた市民の良識が勝ったという結果の表れだろう。 

これに反し、欧州連合(EU)の離脱を決めた英国の国民投票の方は、深刻になるばかりの国内外の状況に、英下院のインターネットの請願サイトには投票の再実施を求める署名が400万人を超えるなど、混乱が続いている。直接、民意を問う国民投票が残した“傷”は深い。独立問題が今もくすぶるスコットランドはもちろん、若者と高齢者、都市部と郡部…。多様な対立軸が露わになり、亀裂をどう修復するのか、先行きは不透明だ。

国民投票の結果判明直後のツイッターでは「うそを信じてしまった」「離脱への投票を後悔している」と離脱への投票を悔やむ書き込みが増加。しかも、離脱決定から数時間後には、イギリスに住む人々は疑問を抱いた、というのである。それも、“そもそもEUとは何なのか?”なのだ。       

イギリスの人々は、この極めて根本的な疑問に対する答えをGoogleで探した。最も検索数が多かったのは、専門家の多くが答えに戸惑っている「EU離脱の意味は?」だった。2番目に検索件数が多いのが「EUって何?」だ。 3位以下は「EUに参加しているのはどこの国?」「EUを離脱したら何が起こる?」「EUには何カ国参加しているの?」

そこで私が思い出すのは、平成27年4月23日の“大阪都構想”論争に考えたこと(その一)及び(その二)の中で記述した次の数点である。 即ち、『 @「現実をあしざまに罵り、過去をたたえたり、未来に憧れたりするのは、あぶない欲求不満の人々である」 これはマキャヴェリ(1469−1527。イタリア・ルネサンス時代の政治家、歴史家。「君主論」の著者)の言葉。 

ここでマキャヴェリが指摘したかったことは、人間の欲望には際限がない、従って、当然のこととして誰もが現状に不満である。現状不満そのものが必ずしもいけないというのではない。しかし、自分の、そして人々の現状不満が本当の進歩と建設を齎すものなら良いが、単なる妨害者、破壊者で終わるものなのか、それが問題なのだ、ということ。

この両者を区別することこそが重要だということなのであろう。現状不満は発展へのエネルギー源だが、被害妄想的な現状敵視は物ごとの破壊にしか役立たない』、『 A当時の橋下市長は、恰も大阪衰退の原因の全てを府と大阪市の二重行政に求める誤った論法を駆使し全てを単純化し、“大英帝国”ならぬ、“大・大阪”の復活を目指す市民の扇動に使った』、

『 B都制問題は古く昭和40年以前から議論の的になった問題。その当時から、東京・大阪二眼レフ論の幻想の下、府市の二重行政と阪奈和合併論や道州制導入問題とが輻輳し、毎回関係団体・関係者の思惑や利害の相克の中でポシャってきた、府民・市民にとって、利便性や行政の総合性確保等がどうなのか、誰も確信を持てない難題である。それだけに、維新の会といった得体の知れない政党を強引に結成するよりは、もっと足が地に着いた地道な検証と冷静な論議が望まれる』、

『 Cもし都制となった事後に誤解と偏見に基づいたものであったと気付いても、今回のような巨大な体制・組織の本格的変更はそうそう簡単に修正の効くものではない。本当に将来の大阪を真剣に考えるならば、マスコミの行った各種の世論調査の結果が“都構想の内容がもう一つ分からない”という回答が絶対多数を占める状態での住民投票の強行が果たして正しいのだろうか』。                                        

思えば、今回の英国の国民投票と同様、昨年5月には大阪も都構想を巡る住民投票で街は二分された。このときも政界では賛成派と反対派に分かれ、冷静な議論より感情的なやりとりが目立ったように思う。 その様な情勢下での民意の問い方はなお一層難しい。あらためてそう思う。

2016年06月22日

◆「何でも民間」に疑問

眞邊 峰松


私の年来のマスコミに対する不信感・大衆迎合体質への嫌悪感が一層増大してきた。 果たして、国家百年の将来を考えるべき時期に、本筋の議論と離れ、質的には枝葉末節の問題に国民を巻き込んで彼らの主張が、“社会の木鐸”、“オピニオンリーダー”の役割というのは、どこに存在するのだろうか。


私も、必ずしもマスコミ人の全てが、課題を単にワイドショー的に取り上げてばかりいるとまでは言わないが、もう少し冷静・客観的に問題を整理し報道するべきだと考える。


ところで、「行為する者にとって、行為せざる者は最も苛酷な批判者である」とは、ある書物の言葉。 同書でこんな話が続く。


「ナポレオンの脱出記を扱った当時の新聞記事である。幽閉されていたナポレオンがエルバ島を脱出した。兵を集めて、パリへ進撃する。

パリの新聞がこれを報道する。その記事の中で、ナポレオンに対する形容詞が、時々刻々に変化していく。 最初は“皇位簒奪者”。 次いで“反乱軍”〜“叛将”〜“ナポレオン”、 やがて“祖国の英雄”。 

そして、ナポレオンがパリに入城した時には、一斉に“皇帝万歳”の記事で埋められた。オポチュ二ズムとセンセーショナリズムのマスコミの実態が浮き彫りにされている」。 まさに、その通りだという感がする。


少々議論が飛躍するが、私は基本的に今の“何でも民間”の風潮に反対だ。私自身の体験から言っても、国の役人の省益あって国益なし、自分たちの徹底的な権益擁護には、実は本当に癖々した。 まさに国を誤る輩だ、何とかならんのか、という気分にもなった。


しかし、国家公務員というに相応しい立派な人士をも身近に知る私としては、少々誤弊のある言い方かも知れないが、敢えて言えば、こと“志”という点においては、真に心ある役人に比し得る民間人は、そう多くなかろうとも思う。
 

これも個人資質・能力というよりは、やはり、退職までの30年を超える永年の職務経験、職責の持つ私自身に染み込んだ体質的なもの、職業の匂いのようなものかも知れない。
  

私には、特にかっての余裕ある民間経営の時代ならともかく、現下の利潤一点張り、効率一点張りの時代に、現役の企業人で、常日頃から“公益とはなんぞや”の視点から物事を考察したことがある人物が、そう数多いとはとても思えない。


とりわけ、最近の風潮となっている企業利益の増加のみに邁進し、その過程で中高年の自殺者の激増など、社会不安を増幅してきたリストラを闇雲に推進してきた企業経営者を見るにつけ、その観を否めない。 


このような中で、果たして、現在のマスコミの論調のように“何でも民間人登用”“何でも民間感覚“ということが果たして正しいのだろうか。                                   (了)

2016年06月14日

◆今日一日をプラス思考で生きる

眞鍋 峰松


最近になって、情報化社会がいよいよここまで進展してきたのか、と強く感じさせられる社会現象が多く見受けられるようになった。  

何よりも情報化の進展は、個人レベルの社会生活の中では、その人のアイデンティティの組織離れということに大いに関係してきているような気がする。
   
かって、サラリーマンが企業戦士として高度成長を支えてきた時代には、個よりも役割を優先する日本的意識はそれなりに機能してきた。だが、こうした肩書き優先社会では、退職や失業などにより組織を失うと、個人のアイデンティティも失われ、ヘタをすると人間としての存在価値そのものが奪われる結果となる。

ここにきて、一挙に増加傾向を示しつつある中高年男性の自殺や熟年離婚のなども、役割と人格を混同し社会や配偶者などと個として向き合うことが少なかったことの裏返しの現象の一つ、ということだろう。
   
情報化の進展とともに、個々人が容易に色々な情報に接し得る機会が多くなり、各人のライフスタイルも多様化しつつある現在では、かっての組織優先の人間観・人生観は個人にも社会へも大きい軋轢と落差をもたらす。 

個人にとって、従来の日本型の自意識のままでは、情報化、多様化している社会を生き抜くのは非常に難しい時代に直面しているのは確かだ。
   
そこで求められる生き方は、ということになると、やはり肩書き抜き、組織とは距離を置いた自己意識を持ち、長寿社会を迎えて多趣味を生かしながら生き抜いていくことだろう。 

そのためには、好奇心をいつまでも強く持ち、新しいものをどんどん受け入れ、それらを積極的に活用していこうという気構えを常に忘れないこと、これはつまり、進取の気性を持つということだ。 

この進取の気性こそ生きがいを見つける最大の武器の一つでもある。 

もう一つは、徒に明日を思い煩うな、ということ。 明日のことは明日のことで、今日思い煩うことはない。いずれにしても、座して待つのでなく、これぞと思った時には、すぐさま行動に移すぐらいの勇気と機敏さをいつまでも忘れないことだろう。 

ここで動いて明日はどうなるだろう、なんて思い悩んでしまったらどうだろう。 要は、明日を思い煩うことなく、今日一日をプラス思考でことに当たることが肝要、ということになろう。
 
もう一度少年のような冒険心と好奇心を持って、一日一日を過ごし、充電してゆくことが、花も実もある生き方につながるのではないか。 

シェークスピア風にいえば、退職後も自分に与えられた「劇場」の中で、しっかりと「主役」を演じることはとても楽しいことである。(完)

2016年06月09日

◆最近の風潮に思うこと

真鍋  峰松

最近の日本の風潮は、国会論議やマスコミ論調を見聞きするにつれ、政治の面でも、社会面でも、“いい””悪い“という単純な両極端に焦点をしぼって対決を迫るというか、結論を押し付けようとする空気が強く感じられ、国民も風になびく葦のごとく右往左往する。 
目下の焦点となっている日米外交における沖縄基地移転問題、明石海岸での人身事故やJR西日本の列車脱線事故に関する責任問題・・・の如く。 私の独断かも知れないが、どれをとっても理性的でない、感情的な二者択一的な議論ばかりのように思われて仕方がない。 

何でも寄せて二で割る式の曖昧主義・中道主義が良いというのではないが、問題を両極端に絞って対立させ、その良し悪しを定めるやり方は決して現実的ではない、と言いたいのである。

あえて言えば、“いい””悪い“をはっきりさせ過ぎるような世の中は、窮屈でもあり、不健全だということになるのだろう。 実際には、“いい””悪い“を極めつけられないグレーゾーンの部分があることが現実でもあり、もともとその幅の中をゆるやかに往還するのが生活であり、政治でしょう、と。 

古来より、日本人は、思想や宗教に縛られることのきわめて少ない体質で、そういう人々が豊かさと苛烈さをともに齎す風土の中で融通無碍に生きてきた、と言われる。それが“日本民族は農耕民族”論の教えるところではなかったか。

それに反し、どうも今の風潮は、全般的にあまりにも自分自身を省みず、他人を責めることに急に過ぎるのではなかろうか。   <評論家>


2016年05月28日

◆皆が 正義の戦士?

眞鍋 峰松

   

昨年12月中頃に脳梗塞が発症し、原因となった頸動脈の血管内の壁の中に溜まったコレステロールの盛り上り(アテロームと呼ぶそうだ)を除去するための頸動脈内膜剥離手術を受けてからほぼ半年が経った。

幸い、今では日常生活を完全に取り戻し、首筋に残った生々しい傷跡も日々薄らぎ、傷の引き攣れの後遺症である発音・発声不明瞭の状態も徐々に解消。ようやく他人との円滑な会話も可能になった。 

また同時に、読書や日誌等の文章の作成といった知的作業に関する意欲を失い完全にこれらの作業からも遠ざかっていたのだが、この間日々の新聞記事を丹念にチェックすることのみが日課だった。


その中で気付いたのが、今年に入ってから政治家、スポーツ選手、芸能人、企業のトップなどによる謝罪事象が相次いでいることである。 女性タレントの不倫騒動、元巨人軍の清原選手の麻薬常習発覚、日本を代表する大企業・東芝の経理と決算の不法操作や旧財閥系企業である三菱自動車のエンジン機能検査数値の改竄、次々と出てくる国会議員や地方議員の政治資金絡みの不正経理処理、その極め付けが現在マスコミ報道を賑わせている舛添東京都知事の政治資金や公費絡みの公私混同疑惑の続発、等々と本当に毎日枚挙に暇がない状態である。                                      


ただ、記述するに当って、まず以下を前提として明らかにしておきたい。 即ち、ネット上であろうがなかろうが、何人も道義に反することが行われていると認識した場合には本来、匿名ではなく記名での公表や抗議を唱えるべきであろうし、それ以前に当事者に対し「陳謝しなければならないことなど、するな!」と伝えるべきことだろうことである。
 

ある日の新聞紙上で見かけたSJW=ソーシャル・ジャスティス・ウォリアー(social justice warrior)という単語。直訳すれば、社会正義の戦士。もともとはフェミニズム(女性の社会・政治・法律上の権利拡張を主張する考え)のために戦う人たちという意味合いからスタートした言葉だったそうだが、今は正義感をかざして社会悪と思えるようなことを一生懸命叩く人たちのことを指す。


その本人たちは正義感の下に発言をしていると思っているので、それが悪いこと或いは思い込みや思い違いなどとは露ほども疑わず、むしろ、社会に代わり制裁をしているという優越感や責任感すら感じている人たち。

 しかし、このSJWという言葉は海外では寧ろ侮蔑的な意味で使われ、特にネット上での匿名の発言は遠くの安全地帯から石を投げているような行為として考えられ、馬鹿にされている、とのことである。                 


皮肉なことに、この記事を読んで直ちに思い出したのが、作家の田辺 聖子さんの「人を責めることが大好きな人があるね、正義の味方の中には」という言葉。                

中国の大儒者朱子(朱熹)は「血気の怒りはあるべからず。理義の怒りはなかるべからず」と説いている。朱子は、怒りを二つの種類に分け、一は非、他は必要なものとしている。血気の怒りとは、感情的な怒り、自己中心から発したそれで、朱子が戒めてきたのは全て、この種のものである。

しかし、怒りには、もう一つの種類のものがある。客観的な眼や正義感に根をおいた、公的な怒り、いわゆる公憤といった性質のものだ。自分を超えた立場からの怒り、と言ってもよかろう。この種の怒りは「なかるべからず」、つまり、なすべきと朱子は言う。

確かに、悪や非道に対して人々が怒ることが無かったら、正義は行われず、家も社会も滅茶苦茶になってしまう。司法機関とは、この「理義の怒り」を、社会的に担保し行使する役所であるといえる。

翻って、今の世相をみれば、どうだろう。私には、私的な怒りが充満し、反面、公的な怒りが不足しているように見えて仕方がない。もっと皮肉な言い方をすれば、今の世相には怒りが十二分に充満している。

だが、そこに見られる怒りの意見表明は、総論の形をとった各論の怒りとでも言うか、表面は一見正義感に根をおいた公的な怒りだが、その根本的な処においてはそれぞれが各人・各層の権益擁護や地位の保全、場合によっては自己の日頃の鬱憤晴らしのための過剰反応に過ぎない場合が多い、とさえ言えるのではないか。 まして、ネット上での証拠も根拠も不十分な匿名の告発めいた投書などはその典型とでも言えるような気がする。                                         

確かに、今の世相、政治面ではとりわけ野党側が相も変わらず日本の直面する危機的現状を余所に政局に踊り続け、経済では企業が企業倫理や安定した雇用継続という社会的責務に鈍感になり、教育は人間育成という大切な目標を見失い、家庭では夫婦・親子間に相互理解を欠き、世間では人間同士、互いに思いやりや規律・厳しさを見失った状態。また、それらに警鐘を鳴らすべきマスコミ界でも、本筋を見誤ることが多くなっている。                 

それでは、どうするべきなのか。そこは私の如き微力な人間には、到底手に余る。その私としては、各人がそれぞれ“一燈を掲げ一隅を照らす”という心構えで前に進むしかない、と思える。
 
古代ローマの哲人・政治家キケロには「彼等は他人に向かって語ることを学んだ。しかし、己に向かって語ることを学ばなかった」という苦味一杯の言葉がある。「他人に向かって語ることを学んだ」というよりは、「語ることを好んだ」「語ることを楽しんだ」と言うべきなのかもしれない。 まさに スイスの哲学者カール・ヒルティの述べた「人間の真実の正しさは、礼節と同様、小事における行いにあらわれる。


そして、小事における正しさは道徳の根底から生じる。これに反して、大袈裟な正義は、単に習慣的であるか、或いは功智に過ぎぬことがあり、人の性格について、未だ判明を与えぬことがある」ということなのだろう。


特に最近のマスコミや学者、評論家たちには、すぐに他人に対して陳謝を求める傾向にあるように思うのだが、一体、誰に対する陳謝なのか、どのような理由で陳謝を求めているのだろうか。その中には摩訶不思議な現象である場合も多々見受けられる。 

そこには、過ちを犯した事実が露見したことで取り敢えず世間に「陳謝」し、具体的には一体誰に対して謝るべきかも判らないままにひたすら頭を下げ続ける図柄しか私には眼に浮かばないのだが・・・。

2016年05月26日

◆大阪北新地 異聞

眞鍋 峰松

 

世間には不況の風が強烈に吹きまくっているらしい。 

職場も、第一線を離れて10年数年、続く非常勤職も半年前に終え、今では暇を持て余す。 それでも、世の多くの人に比べ長年職場には恵まれたものだと感謝する日々だ。

所が、数日前のある新聞の記事に改めて世の不況風に驚いた。 

ご覧になった方も多いかも知れないが、見出しの「不況キタ風 進む二極化」の下に、忘年会シーズンを迎えたが、長引く不況に東日本大震災の自粛ムードも加わり、今年は例年以上に各地のネオン街が活気を失っており、大阪を代表する北新地も同様だ、というのである。 
 

確かに、ごく最近まで徘徊してきた大阪代表格の歓楽街、北新地の最近の変貌ぶりを肌で感じてはいた。居酒屋チェーン店の急増やカラオケ店の出現、道行く若者の増加など、10年以上も前の中高年サラリーマンなど社用族めいた人達だけが闊歩する街とは様変り。

記事によると、<店舗の淘汰が進み街の様相が一変。中堅のクラブやラウンジが相次いで閉店する一方、安い居酒屋などが進出し、高級店と大衆店の二極化が顕著になっている。 昔から続く格式のあるクラブは今や数十軒。安い店と高級店の二極化が進み、その割を食う形で中間店の閉店が相次いでいる>とのこと。 

加えて、<客だけでなくホステスも集まらない。時給制のバイトだと、今の若い女の子は北新地以外のキャバクラなどに勤める傾向にあるという。その理由も北新地は年配客相手でマナーもウルサイ。ところがキャバクラだと未明まで勤務でき稼ぎも多い上、若い客相手のため、水商売の経験なしでも気軽に勤められる>、という。

この記事を読んでみて、改めて思った。このような二極化の現象や安易な勤務と稼ぎを求める風潮は、何も身近な風俗世界だけの話ではない。否、むしろ北新地の問題はその延長線上にあるというだけのことだ。

そこで考えてみると、気になるのは今の我が国を取り巻く経済情勢とそれと関連する世界経済のことだ。

所得階層の二極化とこれに伴う中間所得層の減少と貧困階層の拡大。その要因の多くは非正規雇用形態の拡大と正規・非正規雇用者間の待遇格差が根底にある。これらが国民の間に生活不安・不満を齎し、社会全体の安定を乱す要因となっている。 

しかし、この現象はひとり我が国のみならず、世界全体の抱える問題でもある。世界的には失業率の悪化が最大の要因と思われるが、アメリカや西欧世界での変化を求めるデモの続発、中近東での民主化を求める革命騒ぎまで、その根底には全て国民間の経済力・所得格差の問題が横たわる。また、そこに共産主義一枚岩だったお隣の中国までもが揺れ動いている。

世界を席巻している弱肉強食・効率一点張りの社会。即ち、拝金主義の横行・リストラ自由のアメリカ式経営、市場原理万能の諸改革、これら全てが合い待って引き起こした現象だろう、と私は思う。 

では、これらに如何に対処し、社会の安定を図っていけばよいのだろうか。 

それには、こと日本に関しては「国家の品格」の著者 藤原正彦氏の言うように、

<鎌倉時代以降、多くの日本人の行動基準・道徳基準となって来た武士道精神を復活し、慈愛、誠実、忍耐、正義、勇気、惻隠の心を取り戻していくこと。とりわけ他人の不幸への敏感さである惻隠の心、「名誉」と「恥」の意識の回復を図る>ことに尽きる。 

だが、果たしてそのような“情緒”的な形で解決できる問題なのだろうか。これからの社会、一体どのような方向に向かって行くのか、全く予想もつかないな〜、という気分になる。

2016年05月23日

◆真正面からの言葉・教えほど尊い (後編)

眞鍋 峰松(評論家)


中学時代の先生で、今でもその先生のお顔もお名前も鮮明に記憶しているが、確か、復員軍人上がりの、しかも将校経験のある人であった。 

その先生の授業中で、担当教科に何の関係もない一言が今でも忘れられない。

それは、黒板に大書された「男子、青雲の志を抱き、郷関を出れば・・・・」という言葉。今から思い起こしても、少々時代錯誤的な言葉に聞こえるようだが、間違いなくその後の私の人生に影響を及ぼした言葉であることは事実だ。


最近になって、陳 舜臣氏の著書「弥縫録」の中で久し振りにその言葉に出逢えた。
  〜青雲の志を抱いて郷関を出る〜といった表現がある。

この場合の青雲の志とは、功名を立てて立身出世しようという意欲のことなのだ。 辞典には、この外に「徳を修めて聖賢の地位に至る志」といった説明もある。 

だが、実際には功名心の方にウェイトがかかっている。「ボーイズ・ビ・アンビシャス! 青雲の志を抱け」というのだ。  

青といえば、すぐに連想されるのが、春であり、東であり、竜である。

東は日の出る方角であり、人生に日の出の時期を「青春」というのは、これに由来している。青は若く、さわやかである。それに「雲」という言葉をそえると、心はずむような語感がうまれる。雲は天の上にあるのだから。若い日の功名心は、まさに天に昇ろうとするかのようである。

流石に、良い言葉ではないか。 要は、望ましい教師像として私が言いたいことは、19世紀英国の哲学者ウイリアム・アーサー・ワードの次の言葉に簡潔に表現されている気がする。

        ・凡庸な教師は しゃべる。
        ・良い教師は  説明する。
        ・優れた教師は 示す。
        ・偉大な教師は 心に火を付ける。
                               (完)


2016年05月22日

◆ 真正面からの言葉・教えほど尊い (前編

眞鍋 峰松

   

最近、マスコミ上に登場する方々を拝見していると、どうも物事を斜めに見て論じる人が多いように感じられてならない。 多分、論じておられるご本人は、それが正しいと信じ切っておられるのだろう。 

これは何も最近になって起こった現象とは限らない事なのかも知れないが、まさにマスコミ好みの人種ということなのだろう。

 例えば、靖国神社参拝問題についても、国のために尊い命を捧げた旧日本軍将兵の御霊に感謝の念を表すことは大事な筈だが、その方々はこれに対して、「中国・韓国の国民感情に配慮し外交関係・国益を考えるべし」とおっしゃる。 それでは、どうするのか。

 物事を斜めに見ると、その二本の線はそれぞれが独立した線の衝突の側面しか見えない。 

A級戦犯合祀の問題も含め、人により立場により色々な考え方があるのだろうが、私には真正面から考えると、この二つの命題はそもそも両立できないことではないと思える。 

歴史的な経緯があるにせよ、また諸外国から如何に言われようが、日本国にとっては本来一方が他方を排除したり、相容れない事柄ではないはずだ。 

それより戦後60年間以上もこれまで避けられてきた国内論議の決着の方が先決だろう、と思える。 だからこそ、外交面では未来志向型の解決しかないのだろうという気がする。
   
過去を振り返ると、私の学校時代の教員にも、物事を斜めに見る性癖のある人達が結構多かった。

とりわけ「己を高く持する人物」に多々見られる事柄でもある。それはそれ、その御仁の生き方・信条そのものの問題だから、他人である私が、眼を三角にしてトヤカク言う必要のないことではある。 

ところが、教員という職業に就いている人間がそういう性癖を持ち、日頃児童・生徒に接しているとしたら、そうはいかない。
   
私の経験でも、「物事を斜めに見る性癖のタイプ」の教員が結構多かった。

結論から言えば、そういうタイプの教員は教育現場では有害無益な人間と言わざるを得ないのではないか。
  
実社会においても一番扱いの難しいのが、こういうタイプの人間だろうし、往々にして周辺の人間からも嫌われてもいる。 

多情多感な青少年にとって、こういうタイプの先生に教えられることには「百害あって一利なし」である。
   
教育の本質はむしろ逆で、もっと「真正面からの言葉・教え」ほど尊いと 私の体験からも、そう思える。 <後編へ> 

2016年05月15日

真正面からの言葉・教えほど尊い(後編)

眞鍋 峰松(評論家)


中学時代の先生で、今でもその先生のお顔もお名前も鮮明に記憶しているが、確か、復員軍人上がりの、しかも将校経験のある人であった。 

その先生の授業中で、担当教科に何の関係もない一言が今でも忘れられない。

それは、黒板に大書された「男子、青雲の志を抱き、郷関を出れば・・・・」という言葉。今から思い起こしても、少々時代錯誤的な言葉に聞こえるようだが、間違いなくその後の私の人生に影響を及ぼした言葉であることは事実だ。


最近になって、陳 舜臣氏の著書「弥縫録」の中で久し振りにその言葉に出逢えた。
  〜青雲の志を抱いて郷関を出る〜といった表現がある。

この場合の青雲の志とは、功名を立てて立身出世しようという意欲のことなのだ。 辞典には、この外に「徳を修めて聖賢の地位に至る志」といった説明もある。 

だが、実際には功名心の方にウェイトがかかっている。「ボーイズ・ビ・アンビシャス! 青雲の志を抱け」というのだ。  

青といえば、すぐに連想されるのが、春であり、東であり、竜である。

東は日の出る方角であり、人生に日の出の時期を「青春」というのは、これに由来している。青は若く、さわやかである。それに「雲」という言葉をそえると、心はずむような語感がうまれる。雲は天の上にあるのだから。若い日の功名心は、まさに天に昇ろうとするかのようである。

流石に、良い言葉ではないか。 要は、望ましい教師像として私が言いたいことは、19世紀英国の哲学者ウイリアム・アーサー・ワードの次の言葉に簡潔に表現されている気がする。

        ・凡庸な教師は しゃべる。
        ・良い教師は  説明する。
        ・優れた教師は 示す。
        ・偉大な教師は 心に火を付ける。
                               (完)

2016年05月14日

◆ 真正面からの言葉・教えほど尊い (前編)

 眞鍋 峰松(評論家)
   

最近、マスコミ上に登場する方々を拝見していると、どうも物事を斜めに見て論じる人が多いように感じられてならない。 多分、論じておられるご本人は、それが正しいと信じ切っておられるのだろう。 

これは何も最近になって起こった現象とは限らない事なのかも知れないが、まさにマスコミ好みの人種ということなのだろう。

 例えば、靖国神社参拝問題についても、国のために尊い命を捧げた旧日本軍将兵の御霊に感謝の念を表すことは大事な筈だが、その方々はこれに対して、「中国・韓国の国民感情に配慮し外交関係・国益を考えるべし」とおっしゃる。 それでは、どうするのか。

 物事を斜めに見ると、その二本の線はそれぞれが独立した線の衝突の側面しか見えない。 

A級戦犯合祀の問題も含め、人により立場により色々な考え方があるのだろうが、私には真正面から考えると、この二つの命題はそもそも両立できないことではないと思える。 

歴史的な経緯があるにせよ、また諸外国から如何に言われようが、日本国にとっては本来一方が他方を排除したり、相容れない事柄ではないはずだ。 

それより戦後60年間以上もこれまで避けられてきた国内論議の決着の方が先決だろう、と思える。 だからこそ、外交面では未来志向型の解決しかないのだろうという気がする。
   
過去を振り返ると、私の学校時代の教員にも、物事を斜めに見る性癖のある人達が結構多かった。

とりわけ「己を高く持する人物」に多々見られる事柄でもある。それはそれ、その御仁の生き方・信条そのものの問題だから、他人である私が、眼を三角にしてトヤカク言う必要のないことではある。 

ところが、教員という職業に就いている人間がそういう性癖を持ち、日頃児童・生徒に接しているとしたら、そうはいかない。
   
私の経験でも、「物事を斜めに見る性癖のタイプ」の教員が結構多かった。

結論から言えば、そういうタイプの教員は教育現場では有害無益な人間と言わざるを得ないのではないか。
  
実社会においても一番扱いの難しいのが、こういうタイプの人間だろうし、往々にして周辺の人間からも嫌われてもいる。 

多情多感な青少年にとって、こういうタイプの先生に教えられることには「百害あって一利なし」である。
   
教育の本質はむしろ逆で、もっと「真正面からの言葉・教え」ほど尊いと 私の体験からも、そう思える。<後編へ>