眞鍋 峰松
これは、一時期テレビに長い間にわたり流された育毛剤のCMの言葉。 最近ではテレビを見ていてもあまり耳にすることもなくなった。
なるほど「髪」という語を分析すれば、“長〜い友達”ということになる。 そう言えば、この漢字を解読し使用する方法は、昔の小林旭の歌にもあった。
その演歌の題名も忘れたが、“戀という字は、ヤッコラヤのヤ。いと(糸)し、いとしと言う心、言う心”という歌詞である。 ある程度の年代以上の方なら、多少とも耳に残っている歌詞だろう。
そこで、“長〜い友達”の話。
私も現役第一線を退き勤めを辞めた途端に、左程身だしなみに気を使うことも無くなった。 一旦このように自己自制の歯止めを失ってしまうと、人間はずるずるとだらしなくなるようだ。近頃では、家族の者から叱られ通しである。
そうこうしている内に、髪の毛がどんどん薄くなる一方。一番、愕然としたのは、ある時の地下鉄車中でのこと。地下を走る加減で、外は真っ暗闇で、自ずと自分の顔・頭が映る。そこに映る頭を見た時、後頭部位は分からないものの、正面からは頭上にまさに地平線さながらに細く映る自分の髪の毛。
遂に“長〜い友達”を失ってしまうのかという焦りにも似た感じ。若い内は、かねがね、女性なら兎も角、なぜ男性が頭の毛が薄くなるのをあんなにまで気にするのだろう、禿げ頭は禿げ頭でけっこう貫録もあるのに、と思っていた。
ところが、自分の髪の毛が次第に薄くなるに従い、初めてそういうものではなかったことに気付いた。いつの間にか、道を歩いていたりしている時、前方から髪の薄い人が歩いて来たり、電車の中で前の座席に座っている人がいると、秘かに自分のそれと比べたりする癖がついていた。情けないことに、その人が自分より薄ければ、ひとまず、ホッとするのである。
これはある書物に書かれていたことだが、『 若さを捨てる 〜 若さに対する未練を捨てて、老いを明るく楽しむ。 中阿含経という経典に見える話。 釈迦前生の話として、ミテイラー王が理髪師から初めての白髪が生えたと聞かされての王の偈。
我頭生白髪 わが頭に白髪生ず
寿命転衰滅 寿命 うたた衰滅せり
天使己来至 天の使い すでに来至せば
我今学道時 われ いま道を学ぶべき時なり
「引退」するということは、私は「老いを楽しむ生き方」をすることだと考えている。逆説的に言えば、若さを捨てることだと思う。
実をいえば、仏教が教えていることは「あきらめ」である。 しかし、「あきらめ」といえば、「思い切り、断念」の意味に解されやすいが、仏教が言っているのは「明らめ」であって、ものごとの真実を明らかにすることである。
これは何も老いに限ったことではなしに、仏教のすべてのことにおいて「明らめよ」と教えているのであるが、まぁ、年を取った私には「老いの明らめ」が肝心であろう。そしてそれは、若さを捨てることである。』
最近、私が実感していることは、年を取るとどうも人間はかえって若さに執着するようだ、ということ。
「髪の毛が多いですね」と言われたり、年齢よりも若く見られたりするとうれしくなる。その結果、ついつい「なあに、若い者に負けるものか」と息巻いたりする。おかしな話である。
だが、自然の流れに逆らうには、無理がある。結局、我われは、若さをプラスに、老いをマイナスに価値づけているということなのであろうか。 もしも、老いをマイナス価値に見るならば、人間の生きる価値は毎年毎年、いや毎日毎日、減少する。
生きる価値が減少するということは、取りも直さず、存在価値が減少することである。そうすると、年寄りなんていない方がいいという極端な考え方になってしまう。実際、今の日本にはそんな考えが横行しているのでは、と考えること自体が老人の僻みなのだろうか。
けれども、本来、人間の価値は年齢によって減少するものではない。 人間の価値は年齢と無関係である。
若さは若さ、老いは老いである。だから、人間は年を取れば、しっかりと老いを自覚し(明らめて)、きれいさっぱり若さを捨ててしまおう、それが、仏教でいえば「禅」の行き方、いくら心配しても変えることができないものを心配するな、そんな無駄をするな!と教えるのが禅だ、そうである。
要は、若者には若者にふさわしい生き方がある。 それに対して、老人は、老人としての生き方があるということなのだろう。こう考え、生きていくのも、それもまた老年の楽しみだ、と悔しさ半分で思う昨今である。