2020年10月04日

◆京都「山科ゆかりの歌人」

渡邊 好造


”百人一首”など古来の和歌には、「山科」が数多く登場する。

”百人一首”は、鎌倉時代の歌人・藤原定家が100首を選んだ歌集のことで、京都小倉山で編纂されたので通称”小倉百人一首”ともいう。

主に古今集(平安時代)、新古今集(鎌倉時代)から選んでいる。"小倉"があるなら他にもあるのかとなるが、確かに"源氏""女房""後撰""武家"が頭につく”百人一首”もあるにはある。

その何れもが、制作年や編者が明確でなく、小倉で洩れた歌人を補っただけのものもあり、”百人一首”といえば"小倉"を指すとみてよい。今回の"山科だより"は、この”百人一首”に登場する「山科ゆかりの歌人」を紹介する。

山科の地名、駅名にも名前が残る有名歌人といえば「小野小町」である。"小野御霊町"にある”随心院(真言宗)”は、小野一族の邸宅跡に正暦2(991)年=平安時代=「僧・仁海」が創建した。「小野小町」は仁寿2(852)年=平安時代=に宮廷を辞した後、40年間当院内の遺跡”小町の井戸”辺りに住んでいたという。

「小野小町」が詠んだ和歌のうち、”百人一首”(原典・古今集=以下同じ)にとりあげられ、とくによく知られているのはこの一首で、境内に歌碑がある。

『花の色は移りにけりないたずらに 我が身世にふるながめせしまに』(桜の花の色はスッカリ褪せた。私の美しかった姿も衰えた。むなしく世を過ごし物思いにふけっている間に)。

"北花山河原町"の”元慶寺(天台宗)”は、「僧・遍昭」が貞観11(869)年=平安時代=に創建し、”百人一首”(古今集)に詠まれた彼の和歌の碑がある。

碑には『天津風雲の通ひ路吹きとぢよ をとめの姿しばしとどめむ』(空に吹く風よ、天への雲の通り道をふさいでしまってくれ。美しい舞姫の姿をもうしばらくの間ひきとめておきたいのだ)とある。


"四ノ宮泉水町"に天文19(1556)年=室町時代=に開創された”山科地蔵徳林庵(臨済宗)”には、町名の語源となる「四之宮人康」(さねやす=第54代仁明天皇第4皇子)と、歌人「蝉丸」(せみまる=正式呼称はせみまろ)の2人の供養塔がある。

両人とも平安時代(9世紀)に生きた歌人だが、「蝉丸」は"四ノ宮"から約2キロほど東の滋賀県大津市に入った峠"逢坂の関"に庵を構え、近くには”蝉丸神社”もある。なぜ山科に「蝉丸」の供養塔があるのか、「人康」との関係は、交流は、など明確ではない。その共通点は両人とも琵琶の名手であったことのようである。
 
 ”百人一首”(後撰集)にある「蝉丸」の歌、『これやこの行くも帰るも分かれては 知るも知らぬも逢坂の関』(ここから行く人帰る人、それを見送る人、知合いの人とそうでない人も、ここで出逢いを繰返す。これがこの逢坂の関なのだ)がよく知られている。

 ”百人一首”に登場する地名でもっとも多いのが"逢坂(の関)"("難波"と同数)で、行政エリアは滋賀県大津市だが京都市山科区との境界線上の峠である。

ついでながら、全国46都道府県のうち県庁所在都市がピッタリ接しているのは、この京都府京都市(山科区)と滋賀県大津市の他は、東北の山形県山形市と宮城県仙台市しかない。

「清少納言」(枕草子で知られる平安時代女流作家)は、”百人一首”(後拾遺集)で『夜をこめて鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ』(夜の明けないうちに鶏の鳴き真似をして、夜が明けたように見せかけた中国・函国関の故事まがいの騙しの手をつかっても、私とあなたの間にある関所は開けませんよ)と詠んでいる。

「三条右大臣藤原定方」(平安時代公家・歌人)は、”百人一首”(後撰和歌集)で悩ましく、意味深な歌を披露している。

『名にしおはば 逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな』(「逢坂山」だから"逢える"、「さ寝」だから"一緒に寝られる(さは接頭語)"、名前通りの「かづら=葛・つるくさ」ならそのツタを手繰り寄せると、人に知られずあなたの家で逢いそして一緒に寝る、そんなことが出来ればいいのに)。

”百人一首”に登場する「山科ゆかりの歌人」が詠む和歌には、平安・鎌倉貴族のなんとも優雅で、他に心配事はないのかと言いたくなるお気楽な宮廷生活が滲みでている。そんな宮廷生活を歴史書以上に現代に語り継いでいるのが、和歌なのだろう。(完)

2020年09月22日

◆時代と共に変わる職業イメージ

渡邊 好造


約50年余前の学生にとって、超エリートの花形職業は銀行であった。

同時期に筆者が就職したのは広告代理店業。ある洋酒メーカーの社員を対象にした意識調査の結果を卒業論文にしたこともあって、広告代理店業としては時代に先駆けて創部された調査部に配属となる。

一日中調査票や調査報告書の作成に取組み、徹夜作業も度々で、大阪のメイン道路・御堂筋からの市電の音で目覚めさせられた。

仕事内容には大満足だったが、当時の広告代理店業のイメージは良いとはいえず、明治生れの父親は、「大学まで出て"広告屋"か」と不満気だった。

銀行か商社を期待していたのだろう。入社した会社のビル1階エレベーター押ボタン横には『押売り"広告屋"お断り』のプレートが貼付されていたのでも分かるように、広告代理店業は押売りと同等のイメージを引きずっていたのである。

ところが、社員の方は"広告屋"とはチラシ広告などを扱う小さな会社のことで、自分達の会社のことではないと考えていたらしく、貼られたプレートを気にしている様子はなかった。

その後、テレビ広告費の急増にともなって目覚しい発展をみせ、5年も経たないうちに"アドバタイジング・エ-ジェンシ-"と言換えられ花形職業に変貌した。

筆者は広告代理店業で調査、営業、企画を17年余り経験し、昭和53年(1978年)消費者金融業に転職した。

この業界も高利や不当取立などで非難のマトになっていて、当時のイメージは最低だった。しかし、人材不足の新興職業ということもあって、これまでの経験を活かせる仕事はいくらでもあったし、実入りも悪くなかった。

それに、広告代理店業と同様に業界のリーダーや経営者の考え方次第で好イメージに転換するはず、とアドバイスしてくれた年齢一まわり先輩の後押しも大きい。

その折にイメージ好変の典型例として話してくれたのが、現代の花形エリ-ト職業"弁護士"の明治時代からの経緯である。

『弁護士は、明治維新の西洋式裁判制度導入当初"代言人"といわれ、”三百代言”という蔑みの異名まで生み出している。刑事・民事事件のもめごとを3百文で引受け飯の種にする卑しい輩、それが"代言人"というわけである。

保守的な京都では「家貸すな」「娘を嫁にやるな」といわれたくらいで、口が達者だから何のかのとイチャモンをつけられて苦労させられる、として嫌われた。

こうした風潮をなげいた良心的な"代言人"の中から免許制にすべしとの意見もでて、明治9年(1976年)"代言人"規則の制定により公式に認知され、昭和に入って法律も成立した。

 しかし、高額の免許料や低収入の依頼人ばかりで儲からない。あげくは無免許の"代言人"が横行し取締りも十分ではなかった。今のように国家権力から完全に独立できたのは、新弁護士法ができた昭和24年(1949年)だという。』

"代言人"については、昭和56年(1981年)週刊新潮に連載された和久俊三の小説「代言人 落合源太郎」に詳しいが、筆者はその3年前の転職時に概要を聞かされた。

その後、消費者金融業界は数社が株式上場し、業績もイメージも飛躍的に向上した。"代言人"の例をみるまでもなく、どんな職業も好イメージ確立までには先人達の普段の弛まぬ努力があってこそであり、そう簡単に達成されないことは言うまでもない。

現在、紆余曲折があって銀行は超エリート業とは言えないし、広告代理店業は広告メデイア事情の変革で楽ではない、消費者金融業は法律の改定で廃業に追込まれかねないほどの苦戦を強いられている。

いずれもこれまで積上げた折角の好イメージも下降気味である。当り前のことだが”時代とともに職業イメージは変る”。職業選びは将来を見据えて慎重であるべしだが、20年も30年も先のことは予測しにくい。まあ今思えば筆者の場合「丁か半か、えいや〜!」だった。(完 再掲)

2020年09月03日

◆赤穂浪士や龍馬の人気

渡邊 好造


以前のNHKテレビの大河ドラマ”坂本龍馬”が大好評であったことを、ふと想い出した。

龍馬がなぜこんなに人気があるのか。そこには赤穂浪士の人気と共通するものがあるように思う。大衆芸能で人気を博し、「英雄」となる人物には およそ下記の4つの共通の条件が備わっているのではないだろうか。
                                            
1)逆境に陥る。
2)人から侮られる。
3)努力して大成功を収める。
4)悲劇的最後をとげる。

赤穂藩主の浅野内匠頭が江戸城中で吉良上野介に切りかかり、即日切腹させられ、藩は取り潰し。大石内蔵助を初めとする藩士47人が吉良への仇討を果たす物語が”赤穂義士伝”である。

周知のように、製塩で裕福であった藩の家老大石は、主君の不始末で、生活はたちまち暗転。仇討をするのかしないのかグズグズと日時が経過し、昼行灯とまで揶揄され侮られたが、その後仇討を無事達成し一躍英雄となった。

しかし全員死罪の悲劇的最後を遂げる。まさにこの4条件にピッタリである。

もし、義挙だから救済するべしとの世評通り47人が赦免になって生きながらえていたら、彼らを称える毎年の赤穂、山科での「義士祭」は行われていないに違いない。

坂本龍馬は、土佐藩の下級武士の出で、脱藩して薩長同盟に尽力、海援隊の隊長として活躍したのち大政奉還に寄与するも、慶応3(1867)年刺客に襲われ明治政府の実現直前で死去。

同じように、この4つの条件に合致する大衆受けのする「英雄」を拾うと、

源義経は平家に預かりの身で苦労を重ねた後、不運な境遇から抜け出し平家壊滅の端緒をつくる大功績をあげた。しかし、兄頼朝の不興をかって奥州平泉で滅ぼされる。

豊臣秀吉は、織田信長の家来としてサルと馬鹿にされながらも人一倍の努力を重ねて這い上がり天下を取るに至るが、わが子秀頼は母淀君とともに徳川家康にしてやられる。

織田信長も英雄の一人にあげることができる。”ウツケモノ”として侮られ、その後天下統一の一歩手前で明智光秀の謀反で挫折し、自害する。ただ織田家を継ぐまでにこれといった逆境に陥ってはいないのでやや条件に欠ける。

新撰組の近藤勇、土方歳三は剣の腕前はすごいものを持っていたがもともとの身分が低く、中心人物になって組織をつくりあげるまでにはかなりの苦労を重ねたらしい。最後はともに若くして打ち首と戦死の運命をたどる。

いずれの人物もNHK大河ドラマに登場する「大英雄」である。

反対に、源頼朝、徳川家康らは天下を取ったものの、頼朝は非情な兄であり、家康は腹に一物のタヌキ親父、桂小五郎(木戸考允)も功績はあるが殺されもせず、3人とも最後は大往生をとげているから、英雄の資格に欠ける。その意味では秀吉は病死であり条件にそぐわない面もあるが、次代での悲劇が待っていた。

もちろん、これらの筋立てはいずれも江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃作家が客うけするストーリーにしたり、あるいは明治政府を正当化するために創りあげられたものであったりで、史実とは異なる部分が多いことは言うまでもない。

坂本龍馬に至っては、一説によると梅毒に侵され、斬殺されていなくてもそんなに長くは生きられなかったともいわれている。梅毒で死んだ坂本龍馬だと大衆芸能で人気を得るはずがない。(完)


2020年07月01日

◆赤穂浪士や龍馬の人気

渡邊 好造


以前のNHKテレビの大河ドラマ”坂本龍馬”が大好評であったことを、ふと想い出した。

龍馬がなぜこんなに人気があるのか。そこには赤穂浪士の人気と共通するものがあるように思う。大衆芸能で人気を博し、「英雄」となる人物には およそ下記の4つの共通の条件が備わっているのではないだろうか。
                                            
1)逆境に陥る。
2)人から侮られる。
3)努力して大成功を収める。
4)悲劇的最後をとげる。

赤穂藩主の浅野内匠頭が江戸城中で吉良上野介に切りかかり、即日切腹させられ、藩は取り潰し。大石内蔵助を初めとする藩士47人が吉良への仇討を果たす物語が”赤穂義士伝”である。

周知のように、製塩で裕福であった藩の家老大石は、主君の不始末で、生活はたちまち暗転。仇討をするのかしないのかグズグズと日時が経過し、昼行灯とまで揶揄され侮られたが、その後仇討を無事達成し一躍英雄となった。

しかし全員死罪の悲劇的最後を遂げる。まさにこの4条件にピッタリである。

もし、義挙だから救済するべしとの世評通り47人が赦免になって生きながらえていたら、彼らを称える毎年の赤穂、山科での「義士祭」は行われていないに違いない。

坂本龍馬は、土佐藩の下級武士の出で、脱藩して薩長同盟に尽力、海援隊の隊長として活躍したのち大政奉還に寄与するも、慶応3(1867)年刺客に襲われ明治政府の実現直前で死去。

同じように、この4つの条件に合致する大衆受けのする「英雄」を拾うと、

源義経は平家に預かりの身で苦労を重ねた後、不運な境遇から抜け出し平家壊滅の端緒をつくる大功績をあげた。しかし、兄頼朝の不興をかって奥州平泉で滅ぼされる。

豊臣秀吉は、織田信長の家来としてサルと馬鹿にされながらも人一倍の努力を重ねて這い上がり天下を取るに至るが、わが子秀頼は母淀君とともに徳川家康にしてやられる。

織田信長も英雄の一人にあげることができる。”ウツケモノ”として侮られ、その後天下統一の一歩手前で明智光秀の謀反で挫折し、自害する。ただ織田家を継ぐまでにこれといった逆境に陥ってはいないのでやや条件に欠ける。

新撰組の近藤勇、土方歳三は剣の腕前はすごいものを持っていたがもともとの身分が低く、中心人物になって組織をつくりあげるまでにはかなりの苦労を重ねたらしい。最後はともに若くして打ち首と戦死の運命をたどる。

いずれの人物もNHK大河ドラマに登場する「大英雄」である。

反対に、源頼朝、徳川家康らは天下を取ったものの、頼朝は非情な兄であり、家康は腹に一物のタヌキ親父、桂小五郎(木戸考允)も功績はあるが殺されもせず、3人とも最後は大往生をとげているから、英雄の資格に欠ける。その意味では秀吉は病死であり条件にそぐわない面もあるが、次代での悲劇が待っていた。

もちろん、これらの筋立てはいずれも江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃作家が客うけするストーリーにしたり、あるいは明治政府を正当化するために創りあげられたものであったりで、史実とは異なる部分が多いことは言うまでもない。

坂本龍馬に至っては、一説によると梅毒に侵され、斬殺されていなくてもそんなに長くは生きられなかったともいわれている。梅毒で死んだ坂本龍馬だと大衆芸能で人気を得るはずがない。(完)

2020年03月30日

◆京都に30余しかない門跡寺院

渡邊 好造


日本全国の寺院数は約18万3千、「日本寺院総監」に掲載されているのは7万6千というが、皇族や摂家などのいわゆる高格式者の出家の対象となる『門跡(もんぜき)寺院』は、京都を中心に全部で30余りしかない。

第59代宇多天皇が、寛平10年(平安時代・898年)法皇となり、京都(右京区)の”仁和寺(にんなじ=真言宗)”にこもり、「御室(おむろ)門跡」と称したのが”門跡寺院”の始まりである。

鎌倉時代に入って、皇族や摂家が特定の寺院に出家することが定着し、室町時代には寺格としての門跡が確立され、これらの政務を担当する門跡奉行も設けられた。

その後、 江戸幕府は出家者の位階により @宮(みや)門跡、A摂家(せっけ)門跡、B清華(せいが)門跡、C公方(くぼう)門跡、D准(じゅん)門跡の5つの門跡寺院を制度化した。

最上位の「宮門跡」は、親王(皇族)、法親王(親王の宣下をえた僧)の出家者を対象としたもので、13寺院あるうち”輪王寺(りんのうじ=天台宗=茨城県日光市)”、”園満院(えんまんいん=天台宗=滋賀県大津市)”以外は全て宮家の中心であった京都市内にある。

ついでながら、”園満院”については、平成21年(2009年)5月に重要文化財の建物9棟、庭園・土地1万4千平米が寺院の借金返済のために競売となり、約10億円余りで滋賀県甲賀市の宗教法人に落札され、同年8月所有権移転が成立するという所管の文化庁もビックリの異例の事態となった。

ただし、建物以外の文化財は第2次大戦後に京都、奈良、九州などの国立博物館所蔵となっていたため無事である。

「摂家門跡」は、近衛、九条、二条、一条、鷹司の五摂家とその子弟が、「清華門跡」は、久我、三条、西園寺、徳大寺、花山院(かさんのいん)、大炊御門(おおいのみかど)、今出川、醍醐、広幡(ひろはた)などの公家、「公方門跡」は武家、「准門跡」は"脇門跡"ともいわれ、特別に認められたその他の高格式者がそれぞれ対象となる。

さて注目したいのは、京都市内11の「宮門跡寺院」のうち3つがここ「山科」にあることで、”勧修寺(かじゅうじ)=真言宗”、”毘沙門堂(びしゃもんどう)=天台宗”、そして”青蓮院・大日堂(だいにちどう)=天台宗=東山区の青蓮院の飛び地庭園”がそれである。

その他の門跡寺院も含めると、”安祥寺(あんしょうじ)=真言宗”、”随心院(ずいしんいん)=真言宗”が加わり、改めて概略にふれておく。

”勧修寺”は、「山科門跡」ともいい、水戸光圀寄進の勧修寺型燈篭、境内の"氷池園"という名の平安時代・池泉園で知られる。”毘沙門堂”は、狩野益信筆の書院の襖絵116面が有名。”青蓮院・大日堂”は、将軍塚といわれる展望台からの京都中心部と山科の眺望が素晴らしい。

”安祥寺”は、広大な領地を誇り上寺と下寺をもつ寺院であるが、現在院内への入場は残念ながらできない。”随心院”は、平安時代36歌仙の一人"小野小町"一族所縁の邸宅跡に創建された寺院で、境内は国史跡である。

「山科」は、『門跡寺院』の存在でみても、歴史と伝統を引き継ぐ由緒ある京都の一角なのである。

2020年03月25日

◆戦争終了前後の悪夢

渡邊 好造


NHKテレビの特別番組で「太平洋戦争時のアメリカ軍B29爆撃機による東京大空襲の惨状」の記録フイルムを放送したのを、ふと思い出した。1944年の11月〜45年3月にわたる100回以上の猛爆。東京は惨たる有様となった。

死者8万人の大半が民間人で、原爆の死者30万人とをあわせ考えると、アメリカ・ニューヨークビルへの飛行機突入で被害者約5千人(一部気の毒な日本人もいたが)を出した9.11事件について、アメリカ人に非難する資格は全くないと改めて指摘したい。

筆者が育った大阪にも1945年3月頃に大空襲にあった。直前まで住んでいた大阪市都島区から市内の南端の東住吉区に移転し被害を免れた。しかしここでも300メートル近くまで空爆を受けたが、幸い被害はなかった。

当時、電気は通じていたものの、明るくするとそれを目当てに爆撃されるとして、裸電球に黒い布を被せて戸外に明かりが漏れないようにしていた。空襲警報のサイレンがなると真夜中でもたたき起こされ、防空壕に避難しなければならない。

自宅に風呂はなく銭湯に行くのだが、日が暮れると街燈がなく真っ暗。各家の壁に20センチ幅の白いペンキが一直線に塗られていて、それを目印に家に帰る。ところどころの壁に”3人の日本兵士が銃剣を構えているポスター”が貼ってあり、「鬼畜米英撃滅」と、大書してあったのが今でも記憶に残っている。

戦局が悪くなり本土爆撃が増えてきたため、小学校(国民学校)3〜6年生の子供は、戦争被害を避けるため、都会から田舎へ”集団”疎開または親戚などに”個人”疎開するかを強制選択させられた。

筆者は1年生だったが、叔父夫婦が住む泉北の信太山(現・大阪府堺市の南、関西空港はさらに南)に預けられた。

信太山地区は、周りの殆んどが田圃か田畑で住宅はひとかたまりだった。住宅周辺の1メートル程の水路にはきれいな水が流れ、水藻の間にドジョウが一杯泳いでいたし、小川にはフナ、モロコが手網があれば捕り放題。しかし、これを食べようという習慣はなかった。

田舎だったから大きな敷地に大量の鶏を飼育し、鶏の卵に不自由はなかったものの、鶏の食べるエサの水草やイナゴやバッタを捕獲するのには苦労させられた。家の中のドアを開けたら、ヘビが目の前にドサツというのも何回か。

叔父は会社員だったから食糧不足で、疎開時の思い出はとにかく空腹であったこと。ジャガイモやサツマイモの掘り起こされたあとに残る小さなカケラを小川の石でこすって皮をむき生でかじったり、鶏のエサ用にとらえたイナゴの長い足だけとって食べたこともある。生きたイナゴは甘い味で美味かった記憶がある。

この頃、世の中にこんな美味い物があるのかと思ったのが実は砂糖だった。今思えば馬鹿みたいな話。

天皇陛下の終戦の詔勅は1945年 8月15日。叔父の家のラジオで近所の人たち15名程が集まって聞き入っていた。何もわからない筆者が、周りをウロウロして厳しく叱られた。

戦後間もなく大阪市東住吉区の小学校に戻った。教科書は半分以上が黒く塗りつぶされ何が書いてあるか意味が全く解らない。

当時のおやつは「サツマイモの飴」や「干しバナナ」。甘い飴や本物のバナナがどんなに食べたかったか。今や4本のバナナがたった100円。信じられない。

東住吉区の小学校の運動場には木製の飛行機が残されていた。大阪市都島に近い淀川の河川敷・城北公園にあったのと同じカムフラージュ用ニセモノである。

講堂の屋上には2メートル四方、高さ1メートルの鉄柵があり入れないようにしてあったが、その真下には天皇陛下の写真(御影)が格納され、その上を踏みつけないように してあったのである。卒業までこの柵は残ったままだった。

食糧難はその後何年か続き、親父のお供でサツマイモや米を買いに信太山や岸和田あたりまで行ったりもした。現金は通用せず着物や骨とう品の品物との交換が原則。農家では「こんなもので米はわたせんな〜」といわれる。

せっかく手に入れたヤミ米(戦後もしばらく米は配給制度)を食糧管理法違反で臨検の警察官に没収されたこともあった。親父の情けない顔を思い出す。警察官は取上げた米を仲間内で食べていたと聞いたことがある。真偽は不明。

2020年03月03日

◆世界遺産になれない京都

渡邊 好造

住いが京都だと言うと、『いいですね〜。観光名所で世界遺産ですよね』と羨ましがられることがある。京都は確かにいい町だし、風情の良く似た「小京都」に指定された都市が日本全国に52もある。しかし、京都が世界遺産というのは間違いである。

京都の世界遺産は17か所あるが、京都の府内・市内はそこらの雑然とした当たり前の都市と変わることはない。

世界遺産は、”古都京都の文化財”の名称で平成6(1994)年に認定された古来の個々の建築物なのである。( )内は所在地。

1・上加茂神社(北区) 2・鹿苑寺=金閣(北区) 3・下鴨神社(左京区) 4・慈照寺=銀閣(左京区) 5・竜安寺(左京区) 6・延暦寺(左京区、大津市) 7・二条城(中京区) 8・清水寺(東山区) 9・西本願寺(下京区) 10・東寺(南区) 11・天龍寺(右京区) 12・仁和寺(右京区) 13・高山寺(右京区) 14・西芳寺=苔寺(西京区)
 15・醍醐寺(宇治市) 16・平等院(宇治市) 17・宇治上神社(宇治市)

このように、京都の世界遺産はいずれも建築物であって京都全体のいわゆる都市が対象なのではない。

世界都市遺産に指定されているヨーロッパの例などをみると、町全体の建物の形、高さ、色などが全て統一され、電柱・電線・広告看板など全くなく、見渡す限り見事に整然としている。そこに人が住んでいるのに見た目は生活臭もない。

それに比べて、京都には歴史的に由緒があり見ごたえのある建物はいくつもあるが、その周りは電柱が林立し、電線が張り巡らされ、建物は高さも色も見事に不揃いである。おまけに、大小色とりどりの広告看板が所狭しと並んでいる。これでは世界都市遺産に指定されることはありえ
ない。

それでも東山連峰など山の上から京都を俯瞰すればほっとさせられる景観だし、世界遺産に指定された17の建築物は一見の価値は十分である。

許せないのは昭和34(1959)年に建設された”京都タワー”である。それまでは、「東寺の五重塔」の54.8メートルを高さ制限とするのが不文律であった。

当時の京都市の人口131万人にあわせ、京都を照らす灯台をイメージした、高さ131メートルのタワー建設の計画が持ち上がる。当然のことながら景観を損ねるとする反対派と、近代建築で新たな観光客を呼び寄せようとの魂胆に利権もからんだ賛成派とが対立した。

しかし、土台の9階建てビルは31メートルの建築物だが、その上のコンクリート製100メートルのタワーは工作物だとの詭弁を弄して完成させてしまった。

JR京都駅北側に降り立った人は目の前の古都京都には相応しくない白い異様なタワーに驚かされる。

フランス・パリには”エッフェル塔”があるじゃないかという人もいるが、1889(明治22)年のパリ万博にあわせて高くて堅牢な鉄鋼のPRを目的にしたものである。

昭和30年以降になって目新しくもないコンクリートを自慢しても価値はない。日本最初のコンクリート製の橋が明治時代に造られ、京都・山科疏水に現存している。

平成19(2007)年に新たな厳しい京都市新景観条例を制定し、建物の高さ31メートル、世界遺産周辺は10メートルに制限し、建物のデザイン、広告看板の規制も厳しくした。

将来は電柱・電線を地下に埋める計画もある、とのこと。そんな夢のようなことは誰も信じない。”京都タワー”を今更倒すはずもない。

時すでに遅しで、京都が世界都市遺産に推挙されることはありえない。NHKテレビ「京都ニュース」のエンデイングの夜景のバックに、ライトアップされた不気味に聳える”京都タワー”を視る度に腹立たしい思いがする。(完)

2019年09月25日

◆京都山科の歌人

渡邊 好造


”百人一首”など古来の和歌には、「山科」が数多く登場する。

”百人一首”は、鎌倉時代の歌人・藤原定家が100首を選んだ歌集のことで、京都小倉山で編纂されたので通称”小倉百人一首”ともいう。主に古今集(平安時代)、新古今集(鎌倉時代)から選んでいる。"小倉"があるなら他にもあるのかとなるが、確かに"源氏"" 女房"" 後撰"" 武家" が頭につく”百人一首”もあるにはある。

その何れもが、制作年や編者が明確でなく、小倉で洩れた歌人を補っただけのものもあり、”百人一首”といえば"小倉"を指すとみてよい。今回の"山科だより"は、この”百人一首”に登場する「山科ゆかりの歌人」を紹介する。

山科の地名、駅名にも名前が残る有名歌人といえば「小野小町」である。"小野御霊町"にある”随心院(真言宗)”は、小野一族の邸宅跡に正暦2(991)年=平安時代=「僧・仁海」が創建した。「小野小町」は仁寿2(852)年=平安時代=に宮廷を辞した後、40年間当院内の遺跡”小町の井戸”辺りに住んでいたという。

「小野小町」が詠んだ和歌のうち、”百人一首”(原典・古今集=以下同じ)にとりあげられ、とくによく知られているのはこの一首で、境内に歌碑がある。

『花の色は移りにけりないたずらに 我が身世にふるながめせしまに』(桜の花の色はスッカリ褪せた。私の美しかった姿も衰えた。むなしく世を過ごし物思いにふけっている間に)。

"北花山河原町"の”元慶寺(天台宗)”は、「僧・遍昭」が貞観11(869)年=平安時代=に創建し、”百人一首”(古今集)に詠まれた彼の和歌の碑がある。

碑には『天津風雲の通ひ路吹きとぢよ をとめの姿しばしとどめむ』(空に吹く風よ、天への雲の通り道をふさいでしまってくれ。美しい舞姫の姿をもうしばらくの間ひきとめておきたいのだ)とある。


"四ノ宮泉水町"に天文19(1556)年=室町時代=に開創された”山科地蔵徳林庵(臨済宗)”には、町名の語源となる「四之宮人康」(さねやす=第54代仁明天皇第4皇子)と、歌人「蝉丸」(せみまる=正式呼称はせみまろ)の2人の供養塔がある。

両人とも平安時代(9世紀)に生きた歌人だが、「蝉丸」は"四ノ宮"から約2キロほど東の滋賀県大津市に入った峠"逢坂の関"に庵を構え、近くには”蝉丸神社”もある。なぜ山科に「蝉丸」の供養塔があるのか、「人康」との関係は、交流は、など明確ではない。その共通点は両人とも琵琶の名手であったことのようである。
 
 ”百人一首”(後撰集)にある「蝉丸」の歌、『これやこの行くも帰るも分かれては 知るも知らぬも逢坂の関』(ここから行く人帰る人、それを見送る人、知合いの人とそうでない人も、ここで出逢いを繰返す。これがこの逢坂の関なのだ)がよく知られている。

 ”百人一首”に登場する地名でもっとも多いのが"逢坂(の関)"("難波"と同数)で、行政エリアは滋賀県大津市だが京都市山科区との境界線上の峠である。

ついでながら、全国46都道府県のうち県庁所在都市がピッタリ接しているのは、この京都府京都市(山科区)と滋賀県大津市の他は、東北の山形県山形市と宮城県仙台市しかない。

「清少納言」(枕草子で知られる平安時代女流作家)は、”百人一首”(後拾遺集)で『夜をこめて鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ』(夜の明けないうちに鶏の鳴き真似をして、夜が明けたように見せかけた中国・函国関の故事まがいの騙しの手をつかっても、私とあなたの間にある関所は開けませんよ)と詠んでいる。

「三条右大臣藤原定方」(平安時代公家・歌人)は、”百人一首”(後撰和歌集)で悩ましく、意味深な歌を披露している。

『名にしおはば 逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな』(「逢坂山」だから"逢える"、「さ寝」だから"一緒に寝られる(さは接頭語)"、名前通りの「かづら=葛・つるくさ」ならそのツタを手繰り寄せると、人に知られずあなたの家で逢いそして一緒に寝る、そんなことが出来ればいいのに)。

”百人一首”に登場する「山科ゆかりの歌人」が詠む和歌には、平安・鎌倉貴族のなんとも優雅で、他に心配事はないのかと言いたくなるお気楽な宮廷生活が滲みでている。そんな宮廷生活を歴史書以上に現代に語り継いでいるのが、和歌なのだろう。(完)

2019年09月18日

◆赤穂浪士や龍馬の人気

渡邊 好造


以前のNHKテレビの大河ドラマ”坂本龍馬”が大好評であったことを、ふと想い出した。

龍馬がなぜこんなに人気があるのか。そこには赤穂浪士の人気と共通するものがあるように思う。大衆芸能で人気を博し、「英雄」となる人物には およそ下記の4つの共通の条件が備わっているのではないだろうか。
                                            
1)逆境に陥る。
2)人から侮られる。
3)努力して大成功を収める。
4)悲劇的最後をとげる。

赤穂藩主の浅野内匠頭が江戸城中で吉良上野介に切りかかり、即日切腹させられ、藩は取り潰し。大石内蔵助を初めとする藩士47人が吉良への仇討を果たす物語が”赤穂義士伝”である。

周知のように、製塩で裕福であった藩の家老大石は、主君の不始末で、生活はたちまち暗転。仇討をするのかしないのかグズグズと日時が経過し、昼行灯とまで揶揄され侮られたが、その後仇討を無事達成し一躍英雄となった。

しかし全員死罪の悲劇的最後を遂げる。まさにこの4条件にピッタリである。

もし、義挙だから救済するべしとの世評通り47人が赦免になって生きながらえていたら、彼らを称える毎年の赤穂、山科での「義士祭」は行われていないに違いない。

坂本龍馬は、土佐藩の下級武士の出で、脱藩して薩長同盟に尽力、海援隊の隊長として活躍したのち大政奉還に寄与するも、慶応3(1867)年刺客に襲われ明治政府の実現直前で死去。

同じように、この4つの条件に合致する大衆受けのする「英雄」を拾うと、

源義経は平家に預かりの身で苦労を重ねた後、不運な境遇から抜け出し平家壊滅の端緒をつくる大功績をあげた。しかし、兄頼朝の不興をかって奥州平泉で滅ぼされる。

豊臣秀吉は、織田信長の家来としてサルと馬鹿にされながらも人一倍の努力を重ねて這い上がり天下を取るに至るが、わが子秀頼は母淀君とともに徳川家康にしてやられる。

織田信長も英雄の一人にあげることができる。”ウツケモノ”として侮られ、その後天下統一の一歩手前で明智光秀の謀反で挫折し、自害する。ただ織田家を継ぐまでにこれといった逆境に陥ってはいないのでやや条件に欠ける。

新撰組の近藤勇、土方歳三は剣の腕前はすごいものを持っていたがもともとの身分が低く、中心人物になって組織をつくりあげるまでにはかなりの苦労を重ねたらしい。最後はともに若くして打ち首と戦死の運命をたどる。

いずれの人物もNHK大河ドラマに登場する「大英雄」である。

反対に、源頼朝、徳川家康らは天下を取ったものの、頼朝は非情な兄であり、家康は腹に一物のタヌキ親父、桂小五郎(木戸考允)も功績はあるが殺されもせず、3人とも最後は大往生をとげているから、英雄の資格に欠ける。その意味では秀吉は病死であり条件にそぐわない面もあるが、次代での悲劇が待っていた。

もちろん、これらの筋立てはいずれも江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃作家が客うけするストーリーにしたり、あるいは明治政府を正当化するために創りあげられたものであったりで、史実とは異なる部分が多いことは言うまでもない。

坂本龍馬に至っては、一説によると梅毒に侵され、斬殺されていなくてもそんなに長くは生きられなかったともいわれている。梅毒で死んだ坂本龍馬だと大衆芸能で人気を得るはずがない。(完)

2019年07月20日

◆山科だより・日本初の産業用水力発電所

渡邊 好造


山科区にある京都市最大の施設は、”琵琶湖疎水(山科疎水)”である。

明治維新後、首都が東京に移ったことで人口の3分の1が流出し、このままだと京都は沈没するのではないか、そんな危機感もあって産業振興の狙いから手がけられたのが琵琶湖の水をひく疎水建設で、京都のあせりが生み出した産物といえる。

疎水は滋賀県大津市の観音寺、三井寺辺りを基点にして山科区北部の山の斜面に沿って、左京区蹴上までの約11キロメートルにわたる水路である。

明治18年(1885年)に日本人技師のみで着工した最初の大工事で110年前の明治23年(1890年)に完成した。日本初の"産業用"水力発電所建設が最大目的で、これにより蹴上発電所が翌明治24年(1891年)に稼動(現在も無人で運転中)、明治28年(1895年)この電力により国内初の市電が京都市内で運行された。

なお、最初の水力発電所は明治21年(1888年)の仙台市三居沢(さんきょざわ)発電所で、国指定有形文化財として今も残されている。

疎水建設の当初予算は60万円だったのが、明治政府の意向もあって、最終的には125万円に倍化され、当時の京都府年間予算の2倍に相当した(資料・京都市上下水道局)。

使用したレンガは1370万個、地下鉄・御陵駅の近くにレンガ工場跡の記念碑がある。現在の水路は、何回もセメントを吹付けて改修されているので、表面にレンガはない。

疎水は、大津・京都間の船による輸送手段としても活用され、昭和23年(1948年)まで利用された。そうした船便の名残りが、”蹴上インクライン(台車を使って船を引張り上げる線路)”の遺跡である。疎水は山科日ノ岡までの傾斜は緩いが、ここから蹴上へは急な下り坂となるので、このインクラインが利用された。

また、疎水の水路北側に沿って、上水用として第2疎水建設工事が明治41年(1908年)に着工され、明治45年(1912年)に完成した。こちらは全て暗渠となっているため山科の住民でも知らない人が多い。

筆者宅から疎水までの距離は約100メートル。ちょうどそこには3つ目の疎水トンネル(トンネルは全部で4つ)の入口があり、明治時代の政治家・井上 馨の揮豪による偏額(門戸等に掲げる横に長い額)が、当時のまま埋めこんである。

偏額には『仁呂山悦智為水歓』(じんはやまをもってよろこび ちはみずのためによろこぶ = 仁者は動かない山によろこび 智者は流れゆく水によろこぶ)の8文字が彫られている。京都あげての力の入れようが、ここにも残る。
 
京都はお寺中心の古都の印象が強いが、明治維新後は産業面でなんとか振興をはかろうと、日本の最先端技術を駆使して走り始めていた。
 
疎水に関しては、平成元年(1989年)8月に完成した左京区「琵琶湖疎水記念館」(地下鉄東西線・蹴上駅下車)に詳しい。
 
ところで、京都市左京区の南禅寺境内には、ヨーロッパ遺跡に似た赤レンガ造りの「水路閣」(疎水の水をひく水道橋)が残されているが、建設当時は京都の景観を損ねるとして大反対運動が展開されたらしい。

そんな反対運動の心意気が在ったのなら、何故あの悪名高い「京都タワー」建設時(昭和39年=1964年)にどうして発揮されなかったのだろうか。当時の京都市の人口131万人にあわせて高さ131メートルの灯台を模したコンクリート・タワーが古都京都にふさわしいと考えた連中がいたとは、とても解せない。

京都市は新景観条例を制定し、建物の高さ(最高31メートル)や看板の色・デザインを規制強化し、将来は市電の復活、電線電柱の地下化を目指す、といった百年河清を待つような方針が今頃になって出始めている。
                                    (完 再掲)

2019年07月16日

◆京都山科の歌人

渡邊 好造

”百人一首”など古来の和歌には、「山科」が数多く登場する。

”百人一首”は、鎌倉時代の歌人・藤原定家が100首を選んだ歌集のことで、京都小倉山で編纂されたので通称”小倉百人一首”ともいう。主に古今集(平安時代)、新古今集(鎌倉時代)から選んでいる。"小倉"があるなら他にもあるのかとなるが、確かに"源氏"" 女房"" 後撰"" 武家" が頭につく”百人一首”もあるにはある。

その何れもが、制作年や編者が明確でなく、小倉で洩れた歌人を補っただけのものもあり、”百人一首”といえば"小倉"を指すとみてよい。今回の"山科だより"は、この”百人一首”に登場する「山科ゆかりの歌人」を紹介する。

山科の地名、駅名にも名前が残る有名歌人といえば「小野小町」である。"小野御霊町"にある”随心院(真言宗)”は、小野一族の邸宅跡に正暦2(991)年=平安時代=「僧・仁海」が創建した。「小野小町」は仁寿2(852)年=平安時代=に宮廷を辞した後、40年間当院内の遺跡”小町の井戸”辺りに住んでいたという。

「小野小町」が詠んだ和歌のうち、”百人一首”(原典・古今集=以下同じ)にとりあげられ、とくによく知られているのはこの一首で、境内に歌碑がある。

『花の色は移りにけりないたずらに 我が身世にふるながめせしまに』(桜の花の色はスッカリ褪せた。私の美しかった姿も衰えた。むなしく世を過ごし物思いにふけっている間に)。

"北花山河原町"の”元慶寺(天台宗)”は、「僧・遍昭」が貞観11(869)年=平安時代=に創建し、”百人一首”(古今集)に詠まれた彼の和歌の碑がある。

碑には『天津風雲の通ひ路吹きとぢよ をとめの姿しばしとどめむ』(空に吹く風よ、天への雲の通り道をふさいでしまってくれ。美しい舞姫の姿をもうしばらくの間ひきとめておきたいのだ)とある。


"四ノ宮泉水町"に天文19(1556)年=室町時代=に開創された”山科地蔵徳林庵(臨済宗)”には、町名の語源となる「四之宮人康」(さねやす=第54代仁明天皇第4皇子)と、歌人「蝉丸」(せみまる=正式呼称はせみまろ)の2人の供養塔がある。

両人とも平安時代(9世紀)に生きた歌人だが、「蝉丸」は"四ノ宮"から約2キロほど東の滋賀県大津市に入った峠"逢坂の関"に庵を構え、近くには”蝉丸神社”もある。なぜ山科に「蝉丸」の供養塔があるのか、「人康」との関係は、交流は、など明確ではない。その共通点は両人とも琵琶の名手であったことのようである。
 
 ”百人一首”(後撰集)にある「蝉丸」の歌、『これやこの行くも帰るも分かれては 知るも知らぬも逢坂の関』(ここから行く人帰る人、それを見送る人、知合いの人とそうでない人も、ここで出逢いを繰返す。これがこの逢坂の関なのだ)がよく知られている。

 ”百人一首”に登場する地名でもっとも多いのが"逢坂(の関)"("難波"と同数)で、行政エリアは滋賀県大津市だが京都市山科区との境界線上の峠である。

ついでながら、全国46都道府県のうち県庁所在都市がピッタリ接しているのは、この京都府京都市(山科区)と滋賀県大津市の他は、東北の山形県山形市と宮城県仙台市しかない。

「清少納言」(枕草子で知られる平安時代女流作家)は、”百人一首”(後拾遺集)で『夜をこめて鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ』(夜の明けないうちに鶏の鳴き真似をして、夜が明けたように見せかけた中国・函国関の故事まがいの騙しの手をつかっても、私とあなたの間にある関所は開けませんよ)と詠んでいる。

「三条右大臣藤原定方」(平安時代公家・歌人)は、”百人一首”(後撰和歌集)で悩ましく、意味深な歌を披露している。

『名にしおはば 逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな』(「逢坂山」だから"逢える"、「さ寝」だから"一緒に寝られる(さは接頭語)"、名前通りの「かづら=葛・つるくさ」ならそのツタを手繰り寄せると、人に知られずあなたの家で逢いそして一緒に寝る、そんなことが出来ればいいのに)。

”百人一首”に登場する「山科ゆかりの歌人」が詠む和歌には、平安・鎌倉貴族のなんとも優雅で、他に心配事はないのかと言いたくなるお気楽な宮廷生活が滲みでている。そんな宮廷生活を歴史書以上に現代に語り継いでいるのが、和歌なのだろう。
(完 再掲)

2019年07月12日

◆京都「和歌に登場する山科」

渡邊 好造


百人一首など平安、鎌倉時代の和歌集に登場する山科の代表地は、「これやこの行くも帰るも分かれては 知るも知らぬも逢坂の関」と、蝉丸が詠んだ"逢坂の関"である。

清少納言や藤原定方ら有名歌人もこの地を取上げているのは以前に紹介した。行政的には隣の滋賀県大津市になるが、現地に立ちその地形をみれば山科エリアだと十分頷けるはず、、。今回はそのすぐ隣りの"音羽山"など、和歌に詠まれた古都京都の奥座敷、山科の優雅な雰囲気を感じとっていただきたい。
 
音羽山は高さ593メートル、逢坂の関の南西、山科四ノ宮の南東に位置し、山科盆地を囲む山の一角にある。音羽山が登場する和歌として有名なのは次の2首。

紀貫之(平安時代の歌人・土佐日記の作者・原典は古今集)= 「秋風の吹きにし日より音羽山 峰のこずえも色づきにけり」。貫之の従兄弟にあたる紀友則(歌人・古今集)= 「音羽山けさ越えくれば時鳥 梢はるかに今ぞ鳴くなる」。
逢坂の関と音羽山の両方を詠んだ和歌も多い。

代表例をあげると、、
・源実朝(鎌倉幕府3代将軍・金槐集)=「逢坂の関やもいづら山科の 音羽の滝の音にききつつ」。
・後鳥羽院(鎌倉時代第82代天皇・原典不明)=「逢坂の関の行き来に色変わる 音羽の山のもみぢ葉」。
・源俊頼(平安時代歌人・金華和歌集)=「音羽山もみぢ散るらし 逢坂の関の小川に錦織りかく」。
・慈円(慈鎮・鎌倉時代天台宗の僧・原典不明)=「音羽山卯の花垣に遅桜 春を夏とや逢坂の関」。
・在原元方(平安時代歌人・古今集)=「音羽山音にききつつ 逢坂の関のこなたに年をふるかな」。

この他、当時の和歌集には小野、花山(かざん)、栗栖野、日の岡といった山科の地名が、いくつも登場する。

・藤原権中納言長方(平安時代公家、歌人・続古今集)=「見渡せば若菜摘むべくなりにけり 栗栖の小野の萩の焼原」。
・後鳥羽院(平安・鎌倉時代の天皇・夫木和歌抄)=「秋はけふくるすの小野のまくずはら まだ朝つゆの色ぞにほひぬ」。
・藤原定家(鎌倉時代公家、歌人・定家の歌集拾遺愚草)=「花山の跡を尋ぬる雪の いろに年ふる道の光をぞみる」。
・土御門院(鎌倉時代の天皇、後鳥羽天皇の皇子・続古今集)=「はし鷹のすすしの原 狩りくれて 入り日ノ岡にききす鳴なり」。

和歌に登場する1千年程前の山科の眺望は想像し難いが、現在の山科の絶景はと問われたなら筆者は次の3つを挙げる。
@東山ドライブウエー将軍塚辺りから見下ろす京都中心部の眺望(京都タワーは目障りだが、、)。
A山科疎水道からの山科の展望(写真・左にJR琵琶湖線、白い土手の右下は京阪電車京津線、後方は東山連峰)。
B音羽山から眺める東山連峰に沈む夕陽。

夕陽については、朝陽のような眩しさや暑さを感じさせないのでじいっと見つめるうち、両手を合せてつい願い事を呟きたくなる。

平安・鎌倉時代の歌人達が眺めた山科の夕陽は、三方を山に囲まれた盆地にあって、今とはまったく異なる自然が一杯の目を見張らせる光景だったはずだが、各種の資料をひっくり返してもこの夕陽を詠んだ和歌は発見できなかった。

京都古人、宮廷人、天上人の視点は、大地、天空、山脈、天下の情勢、庶民生活などを大きく広く見渡すことよりも、恋人、愛人(不倫)、片想い(失恋)、鳥、植物など目前の夢の世界にのみ向けられているかにみえる。

こうした天上人のお気楽な暮らしぶりに対し不満がくすぶり、やがては積重なって鎌倉時代以降の武家社会へと変革していく、そうした様が和歌には窺える。(完)

2019年06月23日

◆その日本語、文字は変だ

渡邊 好造


何気なく使われているおかしな日本語、文字のいくつか、、。

1) 『やるしかない』 = 元社会党党首土井たか子氏風に言うと「やるっきゃない」。「え〜、こまったな〜。いったい私にどうしろと言うの、どうやっていいか手段方法はサッパリ判らない、けど何かやるしかない」が本音。回答になってない。

2) 『、、、してみたいと”思います”』 = 「さあそれでは行ってみたいと”思います”」、「それについて考えてみたいと”思います”」。放送評論家・島野功緒氏も言う(週刊新潮)、”思います”は余分である。NHKのアナウンサ-にも多い。「さあそれでは行ってみましょう」、「それについて考えてみましょう」となぜ簡潔に言わない。

3 ) 『、、じゃないですか』= 「私って神経質じゃないですか」、「私って一人っ子じゃないですか」という喋り方がうるさい、と作家・猪瀬直樹氏(読売新聞)。この言い方をするのは若い女性に多いが、朝8時テレビワイド番組の司会者・小倉智昭も連発する。、、じゃないですか、と勝手に同意を求められても困る。

4) 『まだ訴状を”見ていない”のでコメントできません』 = 当事者に訴状が届くのはそんなに遅いのか。見ていないのなら職務怠慢、”精査検討していない”だけのことではないか。これで逃切りそのあと正式のコメントは発表されないし、発表されても報道されない。

5) 『耳障り”がいい”』=耳に障るのをいいという表現はおかしい。” 耳障り”はそれだけで一つの単語である。うるさい雑音を聞いて、いい音だと言っているようなもの。目障りを「目障りがいい」と言わない。

6 ) 『 ごみ捨てる”べからず”』= 文章は口語体と文語体を混合しないのが原則。口語なら「ごみ捨”てるな”」、文語なら「ごみ捨”つべからず”」。

7) 『あの人との関係は”精”算しました』 = 別れ話など人間関係の解消、この場合は”清”算。”精”算は費用の最終的計算のことである。企業の倒産・解散で取引相手との貸借関係など残務整理が済むまでは「”清”算会社」。

8)『懐かし”の”メロデイ』= NHKにこんなタイトルの番組があった。形容詞の後に助詞はつけない。「懐かし”い”メロデイ」であって、”の”はおかしい。

9)『”成仏”しろよ』= 時代劇映画で斬り殺した相手を片手で拝み「”成仏”しろよ」という台詞。”成仏”は僧が仏になることで、我々凡人が死ねばそれは”往生”である。”成仏”するには死んだあと浄土でさらに修行がいるから無理な話。

10)『次の誕生日で”満60歳の還暦”を迎える』 = 長寿の祝い事は満年齢ではなく数え年である。前にも言ったが何度でも言う。還暦は数え年61歳。10干(甲乙、、癸)12支(子丑、、亥)の組合せは10×12=60、61回目の1月1日に元の暦に戻る。

満60歳誕生年の元日に迎える数え年61歳が還暦。古稀(70歳=満68歳誕生年の元日)、喜寿(77歳=満75歳誕生年の元日)、、などはすべて数え年。

これまで筆者も誤字、脱字、表現ミスの連発である。他人のミスを指摘する資格はないが。 (完)(再掲)

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