2010年06月06日

◆貸金業界に激震

渡邊好造

貸金業界が大揺れに揺れている。

消費者金融業者を傘下に入れたがためグループ全体が赤字になった都市銀行、資金もなし将来性もないとして廃業する業者、苦境におちいっているのは消費者金融などの直接金融で(住宅や車のローンは間接金融)、大手の株式上場会社も例外ではない。

貸金業界に激震が襲った最大のキッカケは「過払い金の返還請求」である。 こうした貸金業界の現状を理解するには金利に関する法律をおさらいしておく必要がある。

民法の特別法として、昭和29年(1954年)5月に『利息制限法』が制定され、借金の上限金利が定められた。@10万円未満・年20% A10万円以上100万円未満・年18% B100万円以上・年15%、とある。

その付則として「この金利超過分を借り手が任意で支払えば返還請求できない」。つまり借手が納得ずくで支払った利息はそのまま有効で、違反しても罰則はなく、民法だから訴訟を起さない限りどうにもならない。

これに対し、違反すると公権力によって処罰される金利の取締法として昭和29年(1954年)6月に制定されたのが、『出資法』である。

上限109、5%(日歩30銭=1日0、3%=100円に付1日30銭)を超える金利を受取ると、3年以下の懲役もしくは300万円以下の罰金、又はこれの併科となる。
 
貸金業者は、利息制限法の抜穴である借手と、納得ずくであれば出資法の上限金利までOKとされる、いわゆる”グレーゾーン金利”(完全な法律違反の真っ黒でない灰色の金利)で営業し、利益を得ていた。

ただ、上限金利109、5%(日歩30銭)はいくらなんでも高すぎるとなり、その後54、75%、40、004%、39、931%の段階を経て、平成12年(2000年)6月に29、2%にまで引下げられた。

その上、平成18年(2006年)1月、借手と書面を交わして納得ずくであっても”グレーゾーン金利”は無効であり、これまでに利息制限法の15〜20%以上で支払った金利分は遡って返還請求できる、いわゆる「過払い金の返還請求」を認めるとの最高裁判決が出た。
この判決により、貸金業者はいったん利益計上した分を取崩してまで、莫大な金額の返還請求に対応することになり、黒字経営がたちまち赤字経営に転落。これが貸金業界を襲った「激震の始まり」である。

さらに貸金業界に追討ちをかけることが必至なのが、来る平成22年(2010年)6月18日から完全施行される『改正貸金業法』だ。

概要は次の通り。
1)上限金利20%への引下げ。グレーゾーン金利の廃止。(金利の低下、罰則強化)
2)業者からの総借入残高が年収の3分の1を超える貸付は原則禁止。(間接金融を除く。各業者は貸付時に借手の年収証明書をチェックし、指定信用情報機関に照会と登録を義務化=総量規制)
3)貸金業務取扱主任者の資格者を営業所毎に配置。(資格者試験制度の実施)
4)貸金業営業のために必要な純資産額5000万円以上。(保有資産の限定)

こうした情勢を受けて、業界の現状を示す象徴的な現象が、昭和44年(1969年)に創立された消費者金融業の任意団体「日本消費者金融協会」―(JAPAN  CONSUMER  FINANCE  ASSOCIATION = JCFA) の、加盟社数の減少を如実に表している。

つまり最盛期に150社あった加盟社の数が、JCFAのPR誌(平成20年6月号)によれば、なんとか中堅以上の業績順調な業者ばかりの40社となる。しかも2年後の今年になる、何と27社と激減しているのだ(22年5月号)。

2年間の減少は"わずか"13社ではないかといわれそうだが、実は驚きの数字なのである。

勿論、前記の『改正貸金業法』は、消費者保護のためであることは、いうまでもない。

ただ、これだけ厳しい規制があると、業者は減る一方で、借先が少なくなる上、貸倒れをこれまで以上に極力抑える必要から、間違いなく良客選びで、"貸渋り"が発生することになる。

となると、借手が我慢できればいいが、どうしても金が必要となれば、金利が高く取立ても厳しい、いわゆる"法律無視のヤミ金"に頼らざるをえなくなる。近畿財務局の調査によると、近畿地区の貸金業利用者は、2人に1人が新たな借金ができないという。

「過払い金の返還請求」で思わぬ金を手にした利用者も、業者間では要注意客(業界用語・コード71)となり、金を借りたければ"ヤミ金"直行ということになる。

約束の金利で貸したのに、「払いすぎた金利を返せ」と申出た利用者相手に2度と貸す気にならないのは、業者として当り前のこと。ここが重大な落とし穴だろう。すでに"ヤミ金"直行が増えつつあるという。

厳しすぎる法規制は、まさに両刃の剣で、今後の成行きが大きな社会問題になることは必至だ。

映画「難波金融伝」のヤミ金業者・萬田銀次郎の台詞を真似るなら、「ほな、融資さしてもらいまひょ。そやけど念のため言うときまっけど、うちの利息は"といち"(10日で1割の略称=年利365%)でっせ。そこんとこ、よ〜覚えといとくれやっしゃ」。(完)

 参考:平成12年(2000年)JCFA発行「消費者金融素朴な質問77」筆者(山科封児)他の共著。

2010年05月28日

◆山科だより "タマムシ"、"ゾウムシ"

〜「昆虫標本B」〜
             渡邊好造
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山科疎水道で採集した昆虫標本の第3回は、"タマムシ"、"ゾウムシ"、"オトシブミ"、"ハンミョウ"などなど、多種多様の雑居である。
 
"タマムシ"類は、玉虫色の語源にもなっている虹のようにきれいな翅をもつ種類が代表的である。

奈良の法隆寺が所蔵する国宝”玉虫厨子”は、寺院建築を模した高さ2メートル半、7世紀飛鳥時代の仏教工芸品で、写真中央に見られる虹色の「タマムシ」の翅が貼付してあることで知られる逸品である(現在はほとんど剥がれているらしい)。

日本の"タマムシ"類は2百種程が確認されている。

写真の標本箱には8種類、中央の「タマムシ」で胴長3センチ。全種が美しい色をしているわけではない。真ん中下から2段目右端の1頭は、全体が茶色で高年齢女性の顔の皺のような模様があり、”姥”(姥捨て山のうば)を冠して「ウバタマムシ」という有難くない名が付けられている。

"ゾウムシ"類は、その名の通り口先が象の鼻に似ている。日本では1千種位いる。写真の左側上半分にみられるように、箱には8種類、そのうち3列目以下32頭は筆者宅庭の「エゴの木」で採集した1種。

米びつの米にいつのまにか発生し、選り分けて排除するのに苦労させられたのは同種の「コクゾウムシ(穀象虫)」である。標本に加えたかったが、市販の今の米は卵を完全除去していて発生しない。

写真左中央は"オトシブミ"類で、口先は"ゾウムシ"に似ているが種類が異なる。

日本には約30種。"オトシブミ"の語源は、江戸時代他人に気づかれないように見初めた相手にそっと落として渡す、丸めた恋文のこと。
この小さな虫は木の葉を”落とし文”のように丸めてその中に卵を1個産む。これも庭の「エゴの木」で採れた。約8ミリの大きさは「タマムシ」の胴長3センチと比べて約4分の1、台紙上の整肢が大変。

左下段は"ハムシ"類で、日本では8百種。農作物を食荒らす害虫が多い。

"ハンミョウ"類は、"タマムシ"の左上5頭である。日本では22種。この種は捕虫網がないと絶対に採れないほど素早い。

筆者は、蝶、蛾、蜂、虻など飛翔する昆虫は採らないが、この「ナミハンミョウ」だけは緑・赤・青の金属光沢の見事な色遣いに魅せられて捕虫網を使った。

昆虫写真家の伊藤年一氏は『怖いくらい美しい』と表現していた(読売新聞・平成22年4月8日)。歩いて行く先々へ飛んでは止まるので別名「みちしるべ」、「みちおしえ」と呼ばれる。写真の「ナミハンミョウ」は確かに美しいが、「タマムシ」と同様に”姥”と呼ばれてもしかたのない種類もいる。

その下の1頭、"カミキリ虫"類と形も飛び方もよくにているが"ジョウカイボン"類の全くの別種で、体は軟らかい。日本には70種位。
 
右端上4段は、"コメツキ虫"類で日本では600種、箱には12種。仰向けにすると跳ね上がって元に戻るのが米をつく動作に似ていることからこの名がついた。

その下6頭は"シデムシ"類。動物の死体をエサにして、死体があると出てくる"死出"という意味がある。日本では20種位。

右側最下段は、"ナナフシ"で、日本で20種ほど確認されている。節が多いという意味で"七節"。草食性、木の枝や葉にそっくりの擬態で鳥などから身を守る。"竹節虫"ともいう。

ところで、筆者の昆虫標本作成の始まりは大阪市東住吉区の長居公園(JR阪和線・長居駅近く)である。

生れは大阪都島だが、昭和18年(1943年)から20年間この地に住んだ。当初この辺りは雑木林か畑地で昆虫の宝庫だった。その後10年位の間に競馬場、オートレース場、競輪場が造られたが、現存する"臨南寺(曹洞宗)" の周囲だけはクヌギ林など 昆虫が集まる環境はまだ十分に残されていた。

ところが今では公園とはいえ、大阪女子マラソンの発着誘導路、長居競技場、臨南寺、どこを見ても昔の自然の様相はない。道路が舗装され周りにいくら街路樹を植えても雑木林でないと昆虫は減り、そしてそれをエサとする鳥も少なくなる。

自然環境のなくなった長居公園に当時の昆虫が生き残っているとはとても思えない。山科疎水道だけは絶対にそうなってほしくない。(完)

追記--去る5月8日、山科区民部・まちづくり推進課発行「京都山科・東西南北」と題した60ページ程のB4版PRパンフが配布された。2年間の労作である。

これに比べて本誌で1年半かけて連載した筆者の”山科だより”に遜色はなく、大いに自信を深めた次第。昆虫についても触れてはいるがゲンジホタル”が山科に復活したことと、山科の固有種”ミドリセンチコガネ”の2種のみ、ほんの半ページである。(完)

2010年05月17日

◆時代と共に変わる職業イメージ

渡邊好造

約50年前の学生にとって、超エリートの花形職業は銀行であった。

同時期に筆者が就職したのは広告代理店業。ある洋酒メーカーの社員を対象にした意識調査の結果を卒業論文にしたこともあって、広告代理店業としては時代に先駆けて創部された調査部に配属となる。

一日中調査票や調査報告書の作成に取組み、徹夜作業も度々で、大阪のメイン道路・御堂筋からの市電の音で目覚めさせられた。

仕事内容には大満足だったが、当時の広告代理店業のイメージは良いとはいえず、明治生れの父親は、「大学まで出て"広告屋"か」と不満気だった。

銀行か商社を期待していたのだろう。入社した会社のビル1階エレベーター押ボタン横には『押売り"広告屋"お断り』のプレートが貼付されていたのでも分かるように、広告代理店業は押売りと同等のイメージを引きずっていたのである。

ところが、社員の方は"広告屋"とはチラシ広告などを扱う小さな会社のことで、自分達の会社のことではないと考えていたらしく、貼られたプレートを気にしている様子はなかった。

その後、テレビ広告費の急増にともなって目覚しい発展をみせ、5年も経たないうちに"アドバタイジング・エ-ジェンシ-"と言換えられ花形職業に変貌した。

筆者は広告代理店業で調査、営業、企画を17年余り経験し、昭和53年(1978年)消費者金融業に転職した。

この業界も高利や不当取立などで非難のマトになっていて、当時のイメージは最低だった。しかし、人材不足の新興職業ということもあって、これまでの経験を活かせる仕事はいくらでもあったし、実入りも悪くなかった。

それに、広告代理店業と同様に業界のリーダーや経営者の考え方次第で好イメージに転換するはず、とアドバイスしてくれた年齢一まわり先輩の後押しも大きい。

その折にイメージ好変の典型例として話してくれたのが、現代の花形エリ-ト職業"弁護士"の明治時代からの経緯である。

『弁護士は、明治維新の西洋式裁判制度導入当初"代言人"といわれ、”三百代言”という蔑みの異名まで生み出している。刑事・民事事件のもめごとを3百文で引受け飯の種にする卑しい輩、それが"代言人"というわけである。

保守的な京都では「家貸すな」「娘を嫁にやるな」といわれたくらいで、口が達者だから何のかのとイチャモンをつけられて苦労させられる、として嫌われた。

こうした風潮をなげいた良心的な"代言人"の中から免許制にすべしとの意見もでて、明治9年(1976年)"代言人"規則の制定により公式に認知され、昭和に入って法律も成立した。

 しかし、高額の免許料や低収入の依頼人ばかりで儲からない。あげくは無免許の"代言人"が横行し取締りも十分ではなかった。今のように国家権力から完全に独立できたのは、新弁護士法ができた昭和24年(1949年)だという。』

"代言人"については、昭和56年(1981年)週刊新潮に連載された和久俊三の小説「代言人 落合源太郎」に詳しいが、筆者はその3年前の転職時に概要を聞かされた。

その後、消費者金融業界は数社が株式上場し、業績もイメージも飛躍的に向上した。"代言人"の例をみるまでもなく、どんな職業も好イメージ確立までには先人達の普段の弛まぬ努力があってこそであり、そう簡単に達成されないことは言うまでもない。

現在、紆余曲折があって銀行は超エリート業とは言えないし、広告代理店業は広告メデイア事情の変革で楽ではない、消費者金融業は法律の改定で廃業に追込まれかねないほどの苦戦を強いられている。

いずれもこれまで積上げた折角の好イメージも下降気味である。当り前のことだが”時代とともに職業イメージは変る”。職業選びは将来を見据えて慎重であるべしだが、20年も30年も先のことは予測しにくい。まあ今思えば筆者の場合「丁か半か、えいや〜!」だった。(完)


2010年05月05日

◆山科だより「"ゴミ虫""オサ虫"、"セミ"」

 〜昆虫標本A〜  渡邊好造 

山科疎水道で採集された昆虫標本の第2回として、甲虫目(鞘肢目)オサ虫科の"ゴミ虫"(写真左半分上)と"オサ虫"(同下)、それにカメ虫目(半肢目)セミ科の"セミ"(同右半分)を紹介する。

オサ虫科は、別称・歩行虫科といわれるように飛べない種類で、通常4枚ある羽根のうち2枚の内羽根が退化している。その代り6本の脚は発達し歩行スピードは早い。他種の幼虫や腐肉などを食べる肉食系である。

"ゴミ虫"は、日本では1千種近くいるといわれ、以前は住宅地の溝などにもたくさん生息していたが、道路舗装が行届いたこともあり少なくなった(写真では15種類)。
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とくによく知られていたのは「ミイデラゴミ虫」で(写真にはない)、体長は2センチ位、捕えるとお尻から刺激臭の強いガスを噴射し、体全体が黄色で(ガスも黄色)黒い斑点がある。山科では未だ見かけない。俗には「ヘコキ虫」とか「ヘッピリ虫」ともいった。

"オサ虫"(写真では5種類)は、夏の活動期、落葉の下などに単独で潜んでいる夜行性で、寒くなると土中で集団越冬する。日本では20種余りと少ない。
 
効率よく採集するには2つの方法がある。肉食なので腐肉などをいれた広口ビンを土中に埋め、匂いにつられて落込み上がれなったのを採る、土が凍結する前の11月頃に鍬で山道の土手の土を掘り越冬場所を探リ当てて採る、などである。

 (写真左下から2段目の首の長い"オサ虫"は「<コ>マイマイカブリ」(胴長4センチ位)で、"かたつむり(別称・まいまい)"の殻の中に頭を入れて食べるのに便利な造りになっていてこの名がついた。)

鉄腕アトムの漫画で有名な「手塚治虫」は虫好きが高じて、本名「治(おさむ)」を"オサ虫"にちなんでペンネームを本名と同じ読みで「治虫」とした。

セミ科の"セミ"は、水生昆虫の"タガメ"、"アメンボ"と同類のカメ虫目で口器が細長く硬いのが共通点である。"セミ"は木の幹に産みつけられた卵から成虫になるまで土中生活に3〜17年以上かかる長命で、土中から這い出し成虫で約1ヶ月生存する。地上に出て1週間で死ぬと言われたこともあるが、成虫を人工飼育するのが難しいための誤解らしい。

鳴いているのは雄で行動は素早く、雌は比較的簡単に採れる。よく知られた種類は、写真右端上4頭の「ニイニイゼミ」、その左側2頭の「クマゼミ」(もともと本州西に生息する種類だが最近は東京でも増えた)、さらにその下2頭の「アブラゼミ」、さらにその下8頭の「ツクツクボウシ」であろう。真ん中最下段は羽化前の姿(多分「アブラゼミ」)である。

なお、"セミ"の属するカメ虫科の主流"カメ虫"(形が亀の甲羅に似ている)は、触ると強烈に嫌な臭いを発し、手、体はもちろん家の中だと部屋中に臭いが付着してしばらく消えない。色が毒々しいだけで臭くないのもいるが、筆者のような虫好きでも採る気はしない。

"セミ"を食べるのは日本では沖縄だけ、中国、東南アジア、アメリカでは煮付け、から揚げ、炒め物にする。筆者は"イナゴ"や"トンボ"を食べたことがあり、同じような味なら美味いに違いない。

アメリカには13年、17年かけて成虫になる"13年セミ"と"17年セミ"がいる。13と17の数字から"素数セミ"というのが総称で、"13年セミ"(南部中心)には4種類、"17年セミ"(北部中心)には3種類がいてその7種類はそれぞれ発生エリア、発生年度が異なるらしい。

したがって、13年と17年の間に"セミ"のまったく発生しない年があるわけではない。

ところが他の種も含めて大量発生する年があり、多い年は全米で合計60〜70億匹の"セミ"がウヨウヨ、百メートル四方に40万匹という。これだけ周りにいて鳴き出したらうるさくて堪らないが、いっそ食べてやれという気になるか、気持ち悪くなるかのどちらだろうか。一度ぜひ見てみたい。

日本の"セミ"は20種ほど確認されていて、写真の標本箱には7種収められている。"セミ"の生存種数からみても山科疎水道の自然は一杯である。(完)

タグ:昆虫標本

2010年04月27日

◆「利息の過払い金返還請求」業務

渡邊好造

最近、弁護士・司法書士が金融会社に対する「利息の過払い金返還請求」を業務にして、テレビ広告、新聞広告、交通広告で盛んに勧誘をしている。

この業務について、4月21日付の読売新聞・朝刊に『弁護士の安直面談横行』のタイトルで日本弁護士連合会(日弁連)が、依頼者とのトラブルを防ぐための指針を強化する、とあった。

貸金業者は、利息制限法(上限金利15〜20%)と出資法(同29,2%)の間のいわゆるグレーゾーン金利で融資するのが通例であったが、平成18年(2006年)1月の最高裁でグレーゾーン金利を認めないとの判決が下った。

そのため、多重債務者らは弁護士や司法書士を代理人にして、これまでに払い過ぎた15〜20%以上の金利分(過払い金)の返還請求をし始めた。これが「利息の過払い金返還請求」である。貸金業者にとってはいったん利益計上した分をはきだす破目となり、その引当金がなく、廃業が続出している。
 
一方、代理人を引受けた一部の弁護士や司法書士の中には、報酬の上限規定のない丸儲け商売のチャンスとばかりに飛びつき、事務的に処理をして債務者の味方のフリをするだけの者が出てきた。返還分2百万円のうち6割の手数料を徴収した例もあるらしい。こうまで大量で派手な広告展開をするのは、そんな悪質な魂胆があるからだと、筆者は考える。

多重債務者は、返還可能な利息額、必要な経費などについて代理人からきちんと説明を受けているのだろうか。説明を受けたとしても、理解できたのだろうか。金融に疎いことから多重債務者になった面もあり、「トイチの利息(10日に1割の利息=年360%)」、「日歩5銭(100円につき1日5銭の利息=年18、25%)」、「実質年利20%」などなど、簡単な金利表示の意味も分らないのではないか。

金利に無関心なのは一般にもある。

銀行から自分の金を引出すのに営業時間外や他行からだと手数料として1回105円徴収されるのを文句も言わず、不当な手数料だと思わないこともその一例である。

今仮に3万円(一回の平均必要額はこの程度)を時間外に引出し105円負担したとすると、利息制限法の上限金利20%では1日16、5円(日歩5、5銭)、つまり105円は自分の預金なのに6、36日分(105/16、5)の利息を払っていることになる(引出す金額が3万円以上だと利率は低くなるが、、)。

さらにいえば、3万円を6日以内に返せるなら、自分の預金を引出さずに貸金業者から借りた方が安上がりということになる。

こうした理屈をすぐに理解できる人は少ない。まして金銭感覚の乏しい多重債務者となれば尚更だし、彼らは返還金で身が軽くなったと錯覚してまた借金を重ねる可能性大である。

借金は、盗撮、オサワリ、万引き、バクチ、パチンコなどにのめりこむのと同じく、常人には理解しがたい病気のような面がある、と筆者は考える。そして「利息の過払い返還金」を受取ると、業界用語”コード71”という貸付禁止者に登録されるし(決定ではないらしいが貸すはずがない)、6月からの総量規制(無担保借入金合計は年収の3分の1以下)と重なり、不足分は高利のヤミ金に頼らざるをえない。

こんな安直で有害な業務がまかり通らないためにも、「利息の過払い金返還請求」業務に対して早急に法の網をかける必要がある。さらに、アメリカで実施されているという”多重債務病”を治療する「病院」(クレジットカードを切り刻むことから始めるカウンセリング)の設立も急務ではないか。

日弁連会長・宇都宮健児先生はこうした「利息の過払い金返還請求」業務の行き過ぎについてあるテレビ番組内で批判しておられた。ところが、宇都宮先生の出演された番組スポンサーの中に批判対象社が入っていたのだから、何をかいわんやである。(完)
 

2010年04月14日

◆山科だより「昆虫標本@ー”カミキリ虫”」 

渡邊好造

筆者の趣味の一つに「昆虫標本の作成」がある。リタイヤ後の10年間に山科疎水道で採集した昆虫を通じて、自然の残る山科を紹介したい。

山科だより「昆虫標本」1回目は”カミキリ虫”である。”カミキリ虫”は専門用語でいうと甲虫目(鞘肢目)カミキリ虫科に属し、顎が発達していて髪の毛も切断するということからこの名がついた。

昭和30年(1955年)頃、日本の”カミキリ虫”は約650種類いたらしい。そのうち120種類の標本を作成し、高校卒業時に”コガネ虫”など他の種類の昆虫とともにそっくり寄贈した。

ギブアップしたのは大学受験だった。8歳から18歳まで10年かかって作成したその標本が今も母校に保管されているとはとても思えないが、もし残っていたらすでに絶滅種になったものもあるのではないか。

 山科疎水道での採集は捕虫網を持たずに簡単に採れるもの、死んでいたものを拾ったり、踏みつけられ潰れてはいるが修復可能だったものなどで、昔のように本気で取組んでいればもっと多くの種類が集められたに違いない。採集シーズンは毎年5〜9月。

 写真の標本箱には28種の”カミキリ虫”が収められている。右下の右から2番目「シロスジカミキリ」は、胴長が5センチあり日本の”カミキリ虫”最大型種である。南アメリカや東南アジアの熱帯・亜熱帯地区では、胴長10〜15センチでもっとカラフルなものがいる。

”カミキリ虫”は害虫とは限らないが、左上から3列目までの14頭、黒地に白点の「ゴマダラカミキリ」などは生木をかじる厄介者で、3年ほど前(?)にフランスへ輸出した盆栽に卵が発見され大問題になったことがある。

 樹木の表皮をかじる(フトカミキリ)、花の蜜に集まる(ハナカミキリ)、朽木に巣くう(サビカミキリ)、羽根の文様が虎に似ているトラカミキリ)、触角が胴体の3倍半もある(ヒゲナガカミキリ)、4枚羽根の外羽根が半分しかない(コバネカミキリ)、などなど”カミキリ虫”の種類は実に多彩である。

動作は鈍いがいずれの種類も空中を飛ぶ。真ん中のゴキブリに似た7頭は、触角がノコギリの刃に似ているので「ノコギリカミキリ」といい、ゴキブリのように体がフニャフニャでない。

左下隅の台紙に貼付した小型種(写真では識別困難だが、、)ももちろん”カミキリ虫”である。

 標本は1頭残らず採集日、採集場所(もちろん山科)、採集者のイニシアル(筆者・KW))の手書きのラベルがつけてある。整肢作業をし(脱脂綿の上で形を整え4〜6日乾燥させる。小型種は台紙の上でピンセットや針で整肢し糊付け)、そしてこのラベル作成も面倒な作業であるが、標本箱におさまった姿をみると感慨ひとしおなのである。余人にはわからんでしょうな〜。

 家内をはじめ周辺に虫嫌いが多く、これまで他人への披露を控え一人眺めてほくそえんでいたが、「そうだ、"百家争鳴"の読者にみてもらおう!」と思いついた次第。虫嫌いの人、ごめんなさい。(完)

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タグ:昆虫標本

2010年04月09日

◆山科だより 疎水の桜

渡邊好造  

山科疎水道の桜が満開になりました。筆者宅から東へ疎水上流2キロ、安朱橋付近です。

以前、百家争鳴のニュース欄で紹介されていた、菜の花が引抜かれたとの写真は、この逆方向から撮られたものです。
ここから北(写真の右方向)へ行くと、浅野内匠頭の供養塔がある「瑞光院」、狩野益信の描いた襖絵116面で知られる
「毘沙門堂門跡」に至ります。桜は12日(月)の降雨で散るとのこと。 
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2010年03月29日

◆相撲が面白くなくなった

渡邊好造

大相撲大阪場所は”白鵬”の優勝で終ったが、50数年前からの相撲ファンとして何か物足りない思いにかられた。”朝青龍”の型破りな"陽"の存在がなくなったからで、”白鵬”の礼儀正しい"陰"だけでは物足りないのが第一の理由である。

ニコッと笑った時の愛らしさ、憎たらしいほどの強さ、新しい技を次々繰り出す器用さ、行司の引退時にまで気配りをする優しさ、感情が顔や態度、言葉に出る単純さなど、”朝青龍”は実に魅力あふれる力士だった。

横綱としての品位に欠けるなどと集中砲火を浴びて引退せざるをえなくなったのは、女人禁制であるはずの横綱審議委員の一員に、あのギョロ眼のオバチャンがいたせいである。

土俵場でガッツポーズをした、ケンカして相手をケガさせたとかいうが、優勝した時のガッツポーズ位は許してやれば、、、。

ケンカについても本人は否定しているし、ケガをした相手も訴えていない、警察も調べていない(?)。要は”朝青龍”を徹底して嫌うあのオバチャンがいなけりゃ、裏でなんとかまるめこんで、ウヤムヤになっていた話ではないか。

噂によれば、あのギョロメ眼のオバチャンは相撲界はもちろん横綱審議委員の中でも融通のきかない鼻つまみの存在だったという。強ければなんでも許されるというわけではないが、ボクシングの”亀〇〇○”のようにルールを無視したわけではない。

暗黙の伝統様式美にそぐわなかっただけのことである。”朝青龍”に問題があるというならば、”栃東(元・関脇、現・玉の井親方)”が優勝時にやったガッツポーズ、手の平一杯に鷲掴みにした塩を土俵に撒き散らした”水戸泉(元・関脇、現・錦戸親方)”らにも「やるな」と言うべきだったし、”高見盛”の目に余るオーバーなパフォーマンス、”白鵬”が負けた時の舌出しなども、今のうちに注意すべきである。

結局は、”朝青龍”が短期間に出世し、あまりにも強すぎたから暴力事件が話題になるまで苦言を言えなかっただけのこと、、。おそらくこれまでにも何かと問題があったはずで、その後”横綱・白鵬”の台頭でこの際、、、と見切りをつけられたのである。ギョロ眼のオバチャンを初めとして、”朝青龍”の行為をこれまで見逃してきた周りの人が悪い。

かって、日本の伝統スポーツである柔道が国際化し、柔道着をカラーにするかどうかでひと悶着あったりしたが、カラー化どころか今ではガッツポーズは当たり前、審判に猛抗議したり、優勝して試合場で泣き伏す奴もいるではないか。相撲界に外人を入れるなら”朝青龍”のレベルにあわせて横綱の品位の定義を下方修正するべしだった。優勝したら土俵上で宙返りをしてもいいというわけではないが、、。

最近、日本人力士と外人力士との対戦ではつい外人力士を応援してしまう。外人力士のインタビューの際の流暢な日本語、しかも日本人好みの回答を聞くと「ここまで到達するのに苦労しただろうな〜」と想像し、グッと胸にくるものがある。

日本人にも海外で活躍したスポーツマンは多いが、インタビューに対して通訳なしに現地語で流暢に答えていたのは、サッカーの”中田英寿”以外に知らない。しかし、”中田”の場合は下積み生活から外地で叩き上げられたものではない。ほとんどなにも分らず相撲界に飛込んで技、ルール、作法、食事、習慣、言葉を一から覚えたのとは様子が違う。

優勝回数25回という史上3位の相撲界貢献者”朝青龍”に対して無理やり引退させる首切り同然のやり方ではなく、「体調が悪い」、「ケガをした」といったそれなりの理由をみつけて休場扱いにしてやれなかったのか。外人力士に"おんぶに抱っこ"のくせに丁寧に指導しない、なによりもいざという時かばってやらない日本人の方が品位に欠ける、、。 

品位をツベコベいうなら、相撲界に外人を一切いれなければいい。もう一度言う、”朝青龍”を追出したあのギョロ眼のオバチャンのせいで相撲が面白くなくなった。(完)<評論家>


2010年03月20日

◆山科だより・日本初の産業用水力発電所

渡邊好造

山科区にある京都市最大の施設は”琵琶湖疎水(山科疎水)”である。

明治維新後、首都が東京に移ったことで人口の3分の1が流出し、このままだと京都は沈没するのではないか、そんな危機感もあって産業振興の狙いから手がけられたのが琵琶湖の水をひく疎水建設で、京都のあせりが生み出した産物といえる。

疎水は滋賀県大津市の観音寺、三井寺辺りを基点にして山科区北部の山の斜面に沿って、左京区蹴上までの約11キロメートルにわたる水路である。

明治18年(1885年)に日本人技師のみで着工した最初の大工事で110年前の明治23年(1890年)に完成した。日本初の"産業用"水力発電所建設が最大目的で、これにより蹴上発電所が翌明治24年(1891年)に稼動(現在も無人で運転中)、明治28年(1895年)この電力により国内初の市電が京都市内で運行された。

なお、最初の水力発電所は明治21年(1888年)の仙台市三居沢(さんきょざわ)発電所で、国指定有形文化財として今も残されている。

疎水建設の当初予算は60万円だったのが、明治政府の意向もあって、最終的には125万円に倍化され、当時の京都府年間予算の2倍に相当した(資料・京都市上下水道局)。

使用したレンガは1370万個、地下鉄・御陵駅の近くにレンガ工場跡の記念碑がある。現在の水路は、何回もセメントを吹付けて改修されているので、表面にレンガはない。

疎水は、大津・京都間の船による輸送手段としても活用され、昭和23年(1948年)まで利用された。そうした船便の名残りが、”蹴上インクライン(台車を使って船を引張り上げる線路)”の遺跡である。疎水は山科日ノ岡までの傾斜は緩いが、ここから蹴上へは急な下り坂となるので、このインクラインが利用された。

また、疎水の水路北側に沿って、上水用として第2疎水建設工事が明治41年(1908年)に着工され、明治45年(1912年)に完成した。こちらは全て暗渠となっているため山科の住民でも知らない人が多い。

筆者宅から疎水までの距離は約100メートル。ちょうどそこには3つ目の疎水トンネル(トンネルは全部で4つ)の入口があり、明治時代の政治家・井上 馨の揮豪による偏額(門戸等に掲げる横に長い額)が、当時のまま埋めこんである。

偏額には『仁呂山悦智為水歓』(じんはやまをもってよろこび ちはみずのためによろこぶ = 仁者は動かない山によろこび 智者は流れゆく水によろこぶ)の8文字が彫られている。京都あげての力の入れようが、ここにも残る。
 
京都はお寺中心の古都の印象が強いが、明治維新後は産業面でなんとか振興をはかろうと、日本の最先端技術を駆使して走り始めていた。
 
疎水に関しては、平成元年(1989年)8月に完成した左京区「琵琶湖疎水記念館」(地下鉄東西線・蹴上駅下車)に詳しい。
 
ところで、京都市左京区の南禅寺境内には、ヨーロッパ遺跡に似た赤レンガ造りの「水路閣」(疎水の水をひく水道橋)が残されているが、建設当時は京都の景観を損ねるとして大反対運動が展開されたらしい。

そんな反対運動の心意気が在ったのなら、何故あの悪名高い「京都タワー」建設時(昭和39年=1964年)にどうして発揮されなかったのだろうか。当時の京都市の人口131万人にあわせて高さ131メートルの灯台を模したコンクリート・タワーが古都京都にふさわしいと考えた連中がいたとは、とても解せない。

京都市は新景観条例を制定し、建物の高さ(最高31メートル)や看板の色・デザインを規制強化し、将来は市電の復活、電線電柱の地下化を目指す、といった百年河清を待つような方針が今頃になって出始めている。

NHK京都放送局のTVニュース番組の放送終了時、京都市内の夜景の画面中央にライトアップされた不釣合いな京都タワーが突き出しているのをみるたびに腹立たしい思いにさせられる。(完)

< 写真は、山科疎水トンネル入口にある扁額です。疎水は現在清掃中のため1月中旬から水抜きされていて、桜の咲き始めまでに満水となります。もうすぐですー渡邊好造 >


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2010年03月04日

◆" 山科疎水”でまもなく満開

渡邊好造

山科疎水では、まもなく写真のように八重桜が満開の頃を
迎えます。この写真は、昨年4月に撮ったものです。

疎水の桜は「ソメイヨシノ」(4月初め満開)が中心で、
八重桜は3.3キロのジョギングコースに20本くらいしかありません。

右側のコンクリート柱は、天智天皇陵の裏側にある塀です。

4月の山科疎水は、見事な桜花に覆われ優雅な気分へと
誘われます。是非、山科疎水の桜をご覧になりに来てください。
                        (完)

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2010年03月01日

◆“カチンと来る言い方をする奴”

渡邊好造

約40年間のサラリーマン時代を振り返ると、研修や会議などの顧問やアドバイザ-として招請した大学の先生、コンサルタント会社の講師、そして上司や同僚で上から目線の”カチンとくる言い方をする奴”がいて腹立たしい思いをしたことが何回もあった

この稿執筆にあたっては、"新 将命(あたらしまさみ/現・国際ビジネスブレイン社長)"氏が20数年前に雑誌「ボイス」に掲載した「イヤミなタイプ」の痛快な文章を思い出した。

そこで同氏が挙げた4つの(?)「イヤミなタイプ」に付加え、表題のように言換えて羅列すると、、、。(*印は、原文がなく、筆者の記憶にある新氏の指摘)。
1)「質問の意味が不明だ。もう一度分かるように説明してくれ」(質問に質問で返し、その間に答えを考える奴)
2)「いい質問です。今の質問はこれまでのなかで一番素晴らしい」(何様の積もりか、一番偉いと思っている奴*)
3)「それは、こう言換えたらよく分るんじゃないかな」(勝手に言換える奴)

4)「どっかで聞いたような話だな。まあいいや進めてくれ」(話の腰を折る奴)
5)「そんなところで結論となりそうだが、私の視点はまったく違うな」(まとまりかけているのに振出しに戻す奴*)
6)「だからさっきから言ってるだろ。同じことを何回も言わすなよ」(説明の仕方が悪いことに気付かない奴)

7)「こんな言い方したら怒るかもしれないけど、、」(と言いながらわざと怒らせる言い方をする奴)
8)「言い分はよく分った。要するにこういうことか。」(勝手に要約する奴)
9)「これまで出た意見を整理してみると、こういうことになるな、、」(自分の意見を言わずまとめ役だけをする奴)

10)「うっかり寝てしまいそうになったが、こんなふうに考えたらどうだ、、。」(寝たふりしていていきなり喋りだす奴)
11)「どうしてそんなに国際感覚に乏しいんだ。それに語学力もない」(自分だけが別格の選民と思っている奴*)
12)「この意見には最近お会いした著名な○○さんも賛成してくれたが、、」(著名人の威光にすがる奴*)

13)「議論するならあらかじめもっと勉強してこいよ」(知ったかぶりをする奴)
14)「自分が何を言おうとしているのか分っているのか」(見解の違いを押さえつける奴)
15)「よくそんないい加減なことばかり言ってられるな」(いい加減と勝手に決めつける奴)

16)「真面目に議論したらそんな結論になる筈がない」(初めから結論を用意し押付ける奴)
17)「それで相手が納得すると思うか、よく考えろ」(自分の意見と違えば納得しない奴)
18)「またその話か、何回も同じ話を繰り返すなよ」(初めて聞く人もいると思わない奴)

19)「活発に議論しているようにみえるが、的外れもいいとこだ。」(何か文句をつけようと待っている奴)
20)「意見はいろいろだったな。よくわかった。今日はこれまで」(なにも発言せずあとで自説として引用する奴)

補足すると、「”カチンとくる言い方をする奴”は、あんた自身じゃなかったのか?」。(「反省してま〜す」、「チツ、うるせ〜な」)
<完>


2010年02月17日

◆山科だより「門跡寺院」

渡邊好造

日本全国の寺院数は約18万3千、「日本寺院総監」に掲載されているのは7万6千というが、皇族や摂家などのいわゆる高格式者の出家の対象となる『門跡(もんぜき)寺院』は、京都を中心に全部で30余りしかない。

第59代宇多天皇が、寛平10年(平安時代・898年)法皇となり、京都(右京区)の”仁和寺(にんなじ=真言宗)”にこもり、「御室(おむろ)門跡」と称したのが”門跡寺院”の始まりである。

鎌倉時代に入って、皇族や摂家が特定の寺院に出家することが定着し、室町時代には寺格としての門跡が確立され、これらの政務を担当する門跡奉行も設けられた。

その後、 江戸幕府は出家者の位階により @宮(みや)門跡、A摂家(せっけ)門跡、B清華(せいが)門跡、C公方(くぼう)門跡、D准(じゅん)門跡の5つの門跡寺院を制度化した。

最上位の「宮門跡」は、親王(皇族)、法親王(親王の宣下をえた僧)の出家者を対象としたもので、13寺院あるうち”輪王寺(りんのうじ=天台宗=茨城県日光市)”、”園満院(えんまんいん=天台宗=滋賀県大津市)”以外は全て宮家の中心であった京都市内にある。

ついでながら、”園満院”については、平成21年(2009年)5月に重要文化財の建物9棟、庭園・土地1万4千平米が寺院の借金返済のために競売となり、約10億円余りで滋賀県甲賀市の宗教法人に落札され、同年8月所有権移転が成立するという所管の文化庁もビックリの異例の事態となった。

ただし、建物以外の文化財は第2次大戦後に京都、奈良、九州などの国立博物館所蔵となっていたため無事である。

「摂家門跡」は、近衛、九条、二条、一条、鷹司の五摂家とその子弟が、「清華門跡」は、久我、三条、西園寺、徳大寺、花山院(かさんのいん)、大炊御門(おおいのみかど)、今出川、醍醐、広幡(ひろはた)などの公家、「公方門跡」は武家、「准門跡」は"脇門跡"ともいわれ、特別に認められたその他の高格式者がそれぞれ対象となる。

さて注目したいのは、京都市内11の「宮門跡寺院」のうち3つがここ「山科」にあることで、”勧修寺(かじゅうじ)=真言宗”、”毘沙門堂(びしゃもんどう)=天台宗”、そして”青蓮院・大日堂(だいにちどう)=天台宗=東山区の青蓮院の飛び地庭園”がそれである。

その他の門跡寺院も含めると、”安祥寺(あんしょうじ)=真言宗”、”随心院(ずいしんいん)=真言宗”が加わり、この5寺院については「山科だより」で詳しく紹介してきたが、改めて概略にふれておく。

”勧修寺”は、「山科門跡」ともいい、水戸光圀寄進の勧修寺型燈篭、境内の"氷池園"という名の平安時代・池泉園で知られる。”毘沙門堂”は、狩野益信筆の書院の襖絵116面が有名。”青蓮院・大日堂”は、将軍塚といわれる展望台からの京都中心部と山科の眺望が素晴らしい。

”安祥寺”は、広大な領地を誇り上寺と下寺をもつ寺院であるが、現在院内への入場は残念ながらできない。”随心院”は、平安時代36歌仙の一人"小野小町"一族所縁の邸宅跡に創建された寺院で、境内は国史跡である。

「山科」は、『門跡寺院』の存在でみても、歴史と伝統を引き継ぐ由緒ある京都の一角なのである。 (完)


   

2010年02月02日

◆山科だより 「日清都CC」

渡邊好造

本誌で『古稀でホ-ルインワン』の記事を拝見した。筆者はほぼ同年齢なのに、それとは正反対に、 22年間入会していたゴルフ場に昨年12月退会届けを提出した。一昨年痛めた右足首が思うように完治せず、あと2〜3年はプレ-するつもりが諦めざるをえなくなった。

京都市山科区には、東山連峰中腹・川田梅ヶ谷町に「太閤坦CC(たいこうだいらカントリ-クラブ=東山コ-ス・9ホ-ル)」があり、いずれは、と思いながらプレ-しないままとなった。

このほど退会したのは、JR山科駅そして山科の拙宅、いずれからも車なら20〜30分の京都府宇治市「日清都CC(にっしんみやこカントリ-クラブ=27ホ-ル)」で、親会社はチキンラ-メンで有名な”日清食品”、昭和41年(1966年)に開業した。玄関と食堂からの山科の展望は絶景である。

当クラブは トリッキ-で、広々としたコ-スに慣れた関東のプレ-ヤ-には嫌われる面もあったが、ハンデ6のかっての会社同僚に言わせると、「こんな面白いコ-スは関東にはない。飛ばせばいいだけでなく頭を使わせるという意味では最高のコ-スだ」とのこと。

しかし誰が何と言おうと、筆者にとって近くて便利なだけでなくこんな面白いゴルフ場はないと思ってプレ-してきたし、小学校以来の友人のホ-ルインワンに遭遇し、記念品を頂戴したこともある思い出一杯のコースである。

ここでは、日清食品広告取引関係者(関西のテレビ局、ラジオ局、新聞社、広告代理店などの本社、支社の社員)との親善大コンペが開催され、初期の頃のこの大会で成績の悪かったあるテレビ局の社員が入浴中に「こんな安物のひどいゴルフ場はない!」などと大声で悪口を言った。

そのとき共に浴室にいたのが近年亡くなった親会社の安藤百福・会長で、気付かれないままその場は黙って聞いていたという。そんなことがあった所為ばかりでないだろうが、会長は一念発起、その後クラブ・ハウスは建替えられ、フェアウエ-を広げたりして改修に改修を重ね、今では伸び伸びとプレ-できる関西屈指のゴルフ場となった。

後日談だが、悪口社員のテレビ局には1年間広告発注がストップされ、他社から耳打ちされるまで理由が分らず、うろたえたという。この話は面白おかしく大袈裟に伝えられていて、話半分にするべしは勿論だが、”トイレと風呂場での噂話、とくに悪口ご法度”の見本のような話といえる。

下手なりに永年楽しみ、親しんだ『ゴルフプレ-』をギブアップせざるをえなかったのは残念でならない。

しかし、頭、内臓、指先はなんとか健在だから、これまでどうり「飲酒(種類を問わずコップでグイッ)」、「河川釣り(危険な海釣りは断念、"小型船舶操縦免許2級"は返上予定)」、「昆虫標本の作成(山科疎水道を中心にして採集)」を続けるが、さらにもうひとつの楽しみは本誌『"百家争鳴"への投稿プレ-』である。(完)

<追記>―筆者の退会届け日に茨木高原CCでAクラス入りしたと連絡してきた友人が、1月31日に、なんと『ホールインワンをやってしまった』と言ってきた。

満72歳だ。驚きと羨ましさのいりまじった複雑な心境。おかげでこれをネタに仲間内で一杯飲む機会が増えた。(渡邊)