2010年07月23日

◆京都「山科ゆかりの歌人」

           渡邊好造

”百人一首”など古来の和歌には、「山科」が数多く登場する。

”百人一首”は、鎌倉時代の歌人・藤原定家が100首を選んだ歌集のことで、京都小倉山で編纂されたので通称”小倉百人一首”ともいう。主に古今集(平安時代)、新古今集(鎌倉時代)から選んでいる。"小倉"があるなら他にもあるのかとなるが、確かに"源氏""女房""後撰""武家"が頭につく”百人一首”もあるにはある。

その何れもが、制作年や編者が明確でなく、小倉で洩れた歌人を補っただけのものもあり、”百人一首”といえば"小倉"を指すとみてよい。今回の"山科だより"は、この”百人一首”に登場する「山科ゆかりの歌人」を紹介する。

山科の地名、駅名にも名前が残る有名歌人といえば「小野小町」である。"小野御霊町"にある”随心院(真言宗)”は、小野一族の邸宅跡に正暦2(991)年=平安時代=「僧・仁海」が創建した。「小野小町」は仁寿2(852)年=平安時代=に宮廷を辞した後、40年間当院内の遺跡”小町の井戸”辺りに住んでいたという。

「小野小町」が詠んだ和歌のうち、”百人一首”(原典・古今集=以下同じ)にとりあげられ、とくによく知られているのはこの一首で、境内に歌碑がある。

『花の色は移りにけりないたずらに 我が身世にふるながめせしまに』(桜の花の色はスッカリ褪せた。私の美しかった姿も衰えた。むなしく世を過ごし物思いにふけっている間に)。

"北花山河原町"の”元慶寺(天台宗)”は、「僧・遍昭」が貞観11(869)年=平安時代=に創建し、”百人一首”(古今集)に詠まれた彼の和歌の碑がある。

碑には『天津風雲の通ひ路吹きとぢよ をとめの姿しばしとどめむ』(空に吹く風よ、天への雲の通り道をふさいでしまってくれ。美しい舞姫の姿をもうしばらくの間ひきとめておきたいのだ)とある。
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(写真は「僧・遍昭」の歌碑)

"四ノ宮泉水町"に天文19(1556)年=室町時代=に開創された”山科地蔵徳林庵(臨済宗)”には、町名の語源となる「四之宮人康」(さねやす=第54代仁明天皇第4皇子)と、歌人「蝉丸」(せみまる=正式呼称はせみまろ)の2人の供養塔がある。

両人とも平安時代(9世紀)に生きた歌人だが、「蝉丸」は"四ノ宮"から約2キロほど東の滋賀県大津市に入った峠"逢坂の関"に庵を構え、近くには”蝉丸神社”もある。なぜ山科に「蝉丸」の供養塔があるのか、「人康」との関係は、交流は、など明確ではない。その共通点は両人とも琵琶の名手であったことのようである。
 
 ”百人一首”(後撰集)にある「蝉丸」の歌、『これやこの行くも帰るも分かれては 知るも知らぬも逢坂の関』(ここから行く人帰る人、それを見送る人、知合いの人とそうでない人も、ここで出逢いを繰返す。これがこの逢坂の関なのだ)がよく知られている。

 ”百人一首”に登場する地名でもっとも多いのが"逢坂(の関)"("難波"と同数)で、行政エリアは滋賀県大津市だが京都市山科区との境界線上の峠である。

ついでながら、全国46都道府県のうち県庁所在都市がピッタリ接しているのは、この京都府京都市(山科区)と滋賀県大津市の他は、東北の山形県山形市と宮城県仙台市しかない。

「清少納言」(枕草子で知られる平安時代女流作家)は、”百人一首”(後拾遺集)で『夜をこめて鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ』(夜の明けないうちに鶏の鳴き真似をして、夜が明けたように見せかけた中国・函国関の故事まがいの騙しの手をつかっても、私とあなたの間にある関所は開けませんよ)と詠んでいる。

「三条右大臣藤原定方」(平安時代公家・歌人)は、”百人一首”(後撰和歌集)で悩ましく、意味深な歌を披露している。

『名にしおはば 逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな』(「逢坂山」だから"逢える"、「さ寝」だから"一緒に寝られる(さは接頭語)"、名前通りの「かづら=葛・つるくさ」ならそのツタを手繰り寄せると、人に知られずあなたの家で逢いそして一緒に寝る、そんなことが出来ればいいのに)。

”百人一首”に登場する「山科ゆかりの歌人」が詠む和歌には、平安・鎌倉貴族のなんとも優雅で、他に心配事はないのかと言いたくなるお気楽な宮廷生活が滲みでている。そんな宮廷生活を歴史書以上に現代に語り継いでいるのが、和歌なのだろう。(完)

2010年07月11日

◆山科だより 「昆虫標本」の余談

渡邊好造

山科だよりの「昆虫標本@〜D」について、読者諸氏から非難と質問を頂戴した。

非難は、『虫嫌いにとってこんな気持ちの悪い記事はない。書き手も採用した編集者も悪い』というのだったが、勿論本誌の編集者にまったく責任はない。

蚊が飛んでいても寒気がする人。蛇は写真を見ただけで気持ちが悪くなる人。反対に蛇が大好きで青大将をポケットにいれて可愛がるくらいなのに、蜘蛛をみると体長5ミリの小さな"イエグモ"でも「わ〜!」と叫び逃げ回る人。石やガラスを擦り合せる音に寒気を覚える人。昆虫標本作成を趣味としながら蝶と蛾の鱗粉(翅の粉)が苦手な人。

”鍋物”の食事は高級料亭は別にして普通の店では絶対に食べない人--高級料亭だと仲居さんが個別に椀によそってくれるからいいが、自分以外の他人の箸が入る鍋、それが気持ち悪いというのである。その同じ人が美人ホステスの侍る高級クラブでは周りの女性とやたらキスをしまくるのだから理解に苦しむ。
 
まさに人それぞれである。昆虫標本シリーズのスタート時に「虫嫌いの人ごめんなさい」と一応断りをいれたものの、日本中に昆虫館があるくらいだから、非難されるとは思いもしなかった。まあこんな趣味もあることを知ってほしかっただけのこと。

さて質問の方だが、高校時代以来の友人からのメールに『"バカの壁"の著書で有名な養老孟司氏は、幼少時に微細に描かれた昆虫の本(ファーブルらしい)を教材にして丁寧に説明してくれた先生がいて、それが解剖学の今の仕事に繋がった、とNHKのテレビ番組でいっておられた。君の場合、昆虫標本作成にのめりこんだキッカケはなんだったのか、、?』とあった。

養老先生も、江戸東京博物館「大昆虫博」の開催(本年6〜9月)に尽力されておられることからみて、大の昆虫贔屓らしい。
 
筆者の場合以下のような経緯があり、その後の仕事にも活きている。

昆虫標本の作成を始めたのは終戦の翌昭和21(1946)年のこと。大阪市東住吉区の小学生だった頃、8歳年長の先輩に見事に整理された数箱の昆虫標本を見せられて以来である。この時、昆虫てこんなに美しいものか、と感動を覚えた。

最初に作った標本は道路に落ちていた「アシナガバチ」で、縫い針を刺して手製の標本箱に入れて眺めていると益々本格的にやってみたいと思い、先輩に教えを請うことにした。

捕虫網は母親にステテコを細工してもらって針金を通し竹の棒にとりつけた。殺虫瓶にナフタリンや樟脳を使うも効き目は遅い。効き目が遅いと採った虫同士の食合いでバラバラになる。現在はベンジンを脱脂綿に染みこませているが、当時はベンジンも高価だったしすぐ蒸発し効率が悪かった。

メッキ工場で使う猛毒薬"青酸カリ"が安価で効果的だとわかり知人から譲りうけた。"青酸カリ"は、発生ガスで虫を殺す。日がたつと殺虫瓶の中でドロドロになるので石灰を混ぜて固める。今思えば乱暴な話だが、素手で触っていても舐めなければいい位に軽く考えていた。

大量に保管していた"青酸カリ"はその後燃やして"塩"に変化させ処分した。

その折、昆虫標本作成にとりつかれたのは筆者の他に1歳下の2人。しかし、昆虫を飯の種にしたのは指導してくれた先輩だけ。大学農学部で樹木の害虫「アメリカシロヒトリ」、稲の害虫「ニカメイチュウ」の研究を続けて農薬会社に入社し、最後は大学農学部教授まで勤められた。

教えられた方、ひとりは大学農学部卒業後キリスト教の牧師、もうひとりは工学部から関西大手電気メーカーの役員。筆者も昆虫は高校でストップ、社会学を専攻し社会調査が本業となった。昆虫転じて社会調査が本業とはなんの脈絡もないようだが、昆虫採集時の統計学が人間行動の統計学に転化したのである。

筆者が最初に勤務した広告代理店調査部で統計数字の読み方、社会調査結果の文章をチェックしてくれたのは2回り年長で新聞記者から転じた上司であった。その時の経験が今日に活きている。

そして、今から10年程前の定年リタイヤ後、山科疎水道をウオーキング中に見かける甲虫類の名前は図鑑なしでも全部覚えていたこともあって、幼少時に取付かれた魅惑にまたもや火がついた次第である。

振り返ってみると、人生とは不思議なものだとつくづく感じる。昆虫標本の作成にのめりこんだがために、物書きを仕事にすることになった。本誌の読者の皆さんとの接触が始まったのはそんなわけである。(完)

2010年06月28日

◆山科だより「"クワガタ虫"、"糞虫"」D

                 渡邊好造
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山科疎水道で採集された昆虫標本については5回目。この稿に対し気持ちが悪いとの悪評もあったが、山科にまだこれだけ自然が残っていることに驚きの声も多かった。

 写真の標本箱左側は"クワガタ虫"。甲虫目クワガタ虫科に属し、日本では約40種。雄の大きな顎が戦国時代の兜についている鍬形に似ていることからこの名前がついた。山科で採れたうち立派な顎をもつのは写真左端上の「ミヤマクワガタ」1頭のみで、顎をもつ雄は2段目の3頭と最下段2頭目のわずか5頭。どういうわけか採れるのは「コクワガタ」(胴長2、5センチ)の雌が大半である。

 "クワガタ虫"は樹の枝にいるのと樹の穴に潜むのとの2種類がいる。枝にいるのは樹を蹴飛ばせばすぐに落下するが、白布などを敷いておかないとどこに落ちたかわからなくなる。穴に潜んでいるのは煙草を水に浸けて作ったニコチン液を注入すると這い出す。写真にあるのは全て疎水道を歩いていたもの。

 写真真ん中は蜻蛉(せいれい)目の"トンボ"で、日本では約200種、かっては都会でも数多くみられた。山科疎水道では最下段の「オニヤンマ」を時折見かけるものの、よく知られた「ギンヤンマ」の姿はない。"トンボ"の採集には捕虫網を必要とするが、写真の標本は蟻に食われる寸前の死んでいたものばかり。

 右下の2頭は、甲虫目コガネ虫科の「カブト虫」の雌(胴長4、5センチ)で、立派な角をもつ雄は未だ採れない。「カブト虫」は、昭和60(1985)年天然記念物・絶滅危惧種に指定された沖縄の「ヤンバルテナガコガネ(山原手長黄金)」(同6センチ)につぎコガネ虫科で日本2番目の大型種である。「カブト虫」は養殖が盛んで雌雄ペアで飼育用に売出され、子供に大人気である。樹液にたかるが、写真の2頭は夜間の街灯に激突し落下していた。
なお、新種「ヤンバルテナガコガネ」の発見が昭和58(1983)年と遅れたのは、生息地の毒蛇ハブの危険と米軍基地周辺の立入禁止のせいだったらしい。

写真右側7段目まではコガネ虫科の3種類の糞虫で、日本には百種類以上いるらしい。上から3段目までが「センチコガネ」、その下3段分は「オオセンチコガネ」、ついでその下は山科周辺固有種の「ミドリセンチコガネ」である。
 この種は糞虫の名前の通り動物の糞(人糞も含む)を食べ、そこに卵を産みつける。さらに糞の下に穴を堀り巣をつくっている。”センチ”の名前は、便所のことを"雪隠(せっちん)"と称したのが訛ったらしい。山科疎水道では糞をひっくり返してまで採集したわけではなく、歩行していたのを拾った。しかし、この種の虫を本格的に採集するには動物の糞を見つけるのが先決で、糞が見つかると30センチ程の長いピンセットで辺りを掘って掴み出す。

 糞虫の採集は、奈良県の若草山の奥「奈良奥山ドライブウエイ」周辺がまさに宝庫で、特に「ルリセンチコガネ」はここでしか見かけなかった。そして"カミキリ虫"、"オサ虫"など数多くの甲虫類も採れた。奈良固有種として昭和7(1932)年天然記念物に指定された小型の蝶「ルーミスシジミ(2、5センチ位)」保護のために常駐監視員が周辺を巡回していて捕虫網の使用は絶対禁止。奈良の「ルーミスシジミ」はその後の薬剤散布で絶滅した。

 筆者が中学生の頃、虫仲間3人で糞虫採集の糞を探す手間を省こうということになり、近所で貰った牛と馬の糞(牛馬を飼っている家がまだあった)を3杯のバケツに詰め込み新聞紙を被せただけで奈良行の近鉄電車に乗った。途中の生駒駅辺りで車掌室に連れていかれ「乗客から臭いという苦情がある。そのバケツの中は、、?」、説明しても理解されない。あげくがすぐに下車しろとのこと。「もう二度としません。今回だけは、、」と謝っているうちになんとか奈良駅に到着し無罪放免。
 その日、一周10キロ位のループ状となった「奈良奥山ドライブウエイ」のここぞと思う所に牛馬糞を設置し、もう1周して再び同じ場所に戻るまでの全行程休憩なしで約6時間の強行軍。糞虫の大収穫はあったがくたびれ果てて二度とやらなかった。(完)

2010年06月18日

◆山科だより「昆虫標本Cーコガネ虫」

               渡邊好造
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私がが約60年前に熱中した昆虫採集対象種は、"カミキリ虫"と"コガネ虫"などの甲虫類だった。

このうち甲虫目コガネ虫科"コガネ虫"は種類も多く、習性が分れば比較的簡単に採集できた。写真の標本箱には山科疎水道で採れた28種類の"コガネ虫"が収められている。いずれも当時ならごく普通種で珍しいものは一つもない。

日本の"コガネ虫"は約4百種位が確認されていて、木や草の葉を齧る「マメコガネ」類、花の蜜を吸う「ハナムグリ」類、樹液を吸う「カナブン」類、糞虫の「センチコガネ」類など多彩である。このうち糞を食べ、そこに卵を産み付ける、通称掃除屋の"糞虫"類が"コガネ虫"の約3分の1を占めてもっとも多い。"糞虫"は”フアーブル昆虫記”に記された糞転がし「スカラベ」が有名である。

今回は、個々の種類については詳述せず、筆者の昆虫採集のスタート場所、大阪市東住吉区の「長居公園(JR阪和線長居駅)」を初め約60年前の関西の昆虫採集のメッカであった所を紹介する。当時の自然一杯の姿を想像してほしい。

1) 「長居公園」⇒この一帯は昆虫が一杯の畑地と雑木林であったが、競馬場、オートレース場が出来て公園としての周辺の整備が始まった。ここで用心しなければならなかったのはあちこちにあった肥溜めと野井戸であった。どちらもウッカリはまるとえらいことになる。肥溜めは農業用に人糞を溜めて発酵させる所、はまるとどうなるか、、、。

2) 野井戸は自然に陥没してできた井戸のことで入口は直径1メートル位、周りに雑草が被さっているからさらにその半分位しか入口が見えない。内部は大きく広がって直径3〜4メートル、深さ3メートルはあり、子供がはまって溺れ死んだこともあったし、競走馬が落ち入口を広げて救い出す作業を約3時間見物したこともある。今なら野井戸を放置した管理責任が追求され大問題になったでだろう。野井戸は危険が一杯であったが、そこに落込んだ昆虫を手網で掬い取る秘密の穴でもあった。
 
2) 「箕面公園(みのうこうえん・大阪府箕面市)」⇒箕面の滝の上辺りから「勝尾寺(真言宗)」までの約3キロ程の雑木林は、"コガネ虫"を中心に甲虫類が数多く採れた。今では車で簡単に行けるが、当時は地道で車どころか人影もほとんど見かけなかった。

3) 「能勢妙見(のせみょうけん・大阪府豊能郡)」⇒能勢電鉄の「一の鳥居駅(兵庫県川西市)」から「妙見口駅」までの農道の雑木林、とくにクヌギの木には「ミヤマクワガタ」(昆虫標本Dで紹介予定)をはじめ甲虫類の宝庫だった。能勢電鉄は高架となり、沿線に住宅が立並び現在の様相はすっかり変っている。

 4) 「高野山(こうやさん・和歌山県伊都郡)」⇒南海電車高野線終着駅「極楽橋駅」からケーブルカー(高野山駅行き)には乗らず、虫目当てにひたすら急な山道を登り「大門」に至る。その途中の山道と寺院の並ぶ標高1千メートルの台地には、平地にはいない"カミキリ虫"、"コガネ虫"の珍しい種類が群がっていた。目当ての花は「シシウド」である。

 高野山では「蓮華浄院(真言宗)」という寺院に宿泊し大量に採れた昆虫を整理していたところを住職に見つかった。”寺で殺生をするとは何事か!”と大音声で一喝があり、お布施を出し正座して"虫供養"のお祈り、、。その後何回かこのお寺にお世話になったが虫供養はこれ1回だけで許された。

 この他、関西では「奈良奥山ドライブウエイ」の周辺も忘れられない。この地は、"糞虫"採集のエピソードを中心に「昆虫標本D」でとりあげる。なお今回の写真の中に1頭の小さな"糞虫"が含まれている。右側3分の1中央の台紙上の「マグソコガネ(体長6ミリ)」で、もし指摘できたら筆者以上の超虫マニアといえる。

 いずれの地区とも宅地化が進み、道路舗装が行届き昆虫の住む環境は失われたが、山科疎水道で採れた昆虫標本をみていると、自然が一杯だった約60年前の各地の情景が浮かんでくる。(完)

2010年06月06日

◆貸金業界に激震

渡邊好造

貸金業界が大揺れに揺れている。

消費者金融業者を傘下に入れたがためグループ全体が赤字になった都市銀行、資金もなし将来性もないとして廃業する業者、苦境におちいっているのは消費者金融などの直接金融で(住宅や車のローンは間接金融)、大手の株式上場会社も例外ではない。

貸金業界に激震が襲った最大のキッカケは「過払い金の返還請求」である。 こうした貸金業界の現状を理解するには金利に関する法律をおさらいしておく必要がある。

民法の特別法として、昭和29年(1954年)5月に『利息制限法』が制定され、借金の上限金利が定められた。@10万円未満・年20% A10万円以上100万円未満・年18% B100万円以上・年15%、とある。

その付則として「この金利超過分を借り手が任意で支払えば返還請求できない」。つまり借手が納得ずくで支払った利息はそのまま有効で、違反しても罰則はなく、民法だから訴訟を起さない限りどうにもならない。

これに対し、違反すると公権力によって処罰される金利の取締法として昭和29年(1954年)6月に制定されたのが、『出資法』である。

上限109、5%(日歩30銭=1日0、3%=100円に付1日30銭)を超える金利を受取ると、3年以下の懲役もしくは300万円以下の罰金、又はこれの併科となる。
 
貸金業者は、利息制限法の抜穴である借手と、納得ずくであれば出資法の上限金利までOKとされる、いわゆる”グレーゾーン金利”(完全な法律違反の真っ黒でない灰色の金利)で営業し、利益を得ていた。

ただ、上限金利109、5%(日歩30銭)はいくらなんでも高すぎるとなり、その後54、75%、40、004%、39、931%の段階を経て、平成12年(2000年)6月に29、2%にまで引下げられた。

その上、平成18年(2006年)1月、借手と書面を交わして納得ずくであっても”グレーゾーン金利”は無効であり、これまでに利息制限法の15〜20%以上で支払った金利分は遡って返還請求できる、いわゆる「過払い金の返還請求」を認めるとの最高裁判決が出た。
この判決により、貸金業者はいったん利益計上した分を取崩してまで、莫大な金額の返還請求に対応することになり、黒字経営がたちまち赤字経営に転落。これが貸金業界を襲った「激震の始まり」である。

さらに貸金業界に追討ちをかけることが必至なのが、来る平成22年(2010年)6月18日から完全施行される『改正貸金業法』だ。

概要は次の通り。
1)上限金利20%への引下げ。グレーゾーン金利の廃止。(金利の低下、罰則強化)
2)業者からの総借入残高が年収の3分の1を超える貸付は原則禁止。(間接金融を除く。各業者は貸付時に借手の年収証明書をチェックし、指定信用情報機関に照会と登録を義務化=総量規制)
3)貸金業務取扱主任者の資格者を営業所毎に配置。(資格者試験制度の実施)
4)貸金業営業のために必要な純資産額5000万円以上。(保有資産の限定)

こうした情勢を受けて、業界の現状を示す象徴的な現象が、昭和44年(1969年)に創立された消費者金融業の任意団体「日本消費者金融協会」―(JAPAN  CONSUMER  FINANCE  ASSOCIATION = JCFA) の、加盟社数の減少を如実に表している。

つまり最盛期に150社あった加盟社の数が、JCFAのPR誌(平成20年6月号)によれば、なんとか中堅以上の業績順調な業者ばかりの40社となる。しかも2年後の今年になる、何と27社と激減しているのだ(22年5月号)。

2年間の減少は"わずか"13社ではないかといわれそうだが、実は驚きの数字なのである。

勿論、前記の『改正貸金業法』は、消費者保護のためであることは、いうまでもない。

ただ、これだけ厳しい規制があると、業者は減る一方で、借先が少なくなる上、貸倒れをこれまで以上に極力抑える必要から、間違いなく良客選びで、"貸渋り"が発生することになる。

となると、借手が我慢できればいいが、どうしても金が必要となれば、金利が高く取立ても厳しい、いわゆる"法律無視のヤミ金"に頼らざるをえなくなる。近畿財務局の調査によると、近畿地区の貸金業利用者は、2人に1人が新たな借金ができないという。

「過払い金の返還請求」で思わぬ金を手にした利用者も、業者間では要注意客(業界用語・コード71)となり、金を借りたければ"ヤミ金"直行ということになる。

約束の金利で貸したのに、「払いすぎた金利を返せ」と申出た利用者相手に2度と貸す気にならないのは、業者として当り前のこと。ここが重大な落とし穴だろう。すでに"ヤミ金"直行が増えつつあるという。

厳しすぎる法規制は、まさに両刃の剣で、今後の成行きが大きな社会問題になることは必至だ。

映画「難波金融伝」のヤミ金業者・萬田銀次郎の台詞を真似るなら、「ほな、融資さしてもらいまひょ。そやけど念のため言うときまっけど、うちの利息は"といち"(10日で1割の略称=年利365%)でっせ。そこんとこ、よ〜覚えといとくれやっしゃ」。(完)

 参考:平成12年(2000年)JCFA発行「消費者金融素朴な質問77」筆者(山科封児)他の共著。

2010年05月28日

◆山科だより "タマムシ"、"ゾウムシ"

〜「昆虫標本B」〜
             渡邊好造
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山科疎水道で採集した昆虫標本の第3回は、"タマムシ"、"ゾウムシ"、"オトシブミ"、"ハンミョウ"などなど、多種多様の雑居である。
 
"タマムシ"類は、玉虫色の語源にもなっている虹のようにきれいな翅をもつ種類が代表的である。

奈良の法隆寺が所蔵する国宝”玉虫厨子”は、寺院建築を模した高さ2メートル半、7世紀飛鳥時代の仏教工芸品で、写真中央に見られる虹色の「タマムシ」の翅が貼付してあることで知られる逸品である(現在はほとんど剥がれているらしい)。

日本の"タマムシ"類は2百種程が確認されている。

写真の標本箱には8種類、中央の「タマムシ」で胴長3センチ。全種が美しい色をしているわけではない。真ん中下から2段目右端の1頭は、全体が茶色で高年齢女性の顔の皺のような模様があり、”姥”(姥捨て山のうば)を冠して「ウバタマムシ」という有難くない名が付けられている。

"ゾウムシ"類は、その名の通り口先が象の鼻に似ている。日本では1千種位いる。写真の左側上半分にみられるように、箱には8種類、そのうち3列目以下32頭は筆者宅庭の「エゴの木」で採集した1種。

米びつの米にいつのまにか発生し、選り分けて排除するのに苦労させられたのは同種の「コクゾウムシ(穀象虫)」である。標本に加えたかったが、市販の今の米は卵を完全除去していて発生しない。

写真左中央は"オトシブミ"類で、口先は"ゾウムシ"に似ているが種類が異なる。

日本には約30種。"オトシブミ"の語源は、江戸時代他人に気づかれないように見初めた相手にそっと落として渡す、丸めた恋文のこと。
この小さな虫は木の葉を”落とし文”のように丸めてその中に卵を1個産む。これも庭の「エゴの木」で採れた。約8ミリの大きさは「タマムシ」の胴長3センチと比べて約4分の1、台紙上の整肢が大変。

左下段は"ハムシ"類で、日本では8百種。農作物を食荒らす害虫が多い。

"ハンミョウ"類は、"タマムシ"の左上5頭である。日本では22種。この種は捕虫網がないと絶対に採れないほど素早い。

筆者は、蝶、蛾、蜂、虻など飛翔する昆虫は採らないが、この「ナミハンミョウ」だけは緑・赤・青の金属光沢の見事な色遣いに魅せられて捕虫網を使った。

昆虫写真家の伊藤年一氏は『怖いくらい美しい』と表現していた(読売新聞・平成22年4月8日)。歩いて行く先々へ飛んでは止まるので別名「みちしるべ」、「みちおしえ」と呼ばれる。写真の「ナミハンミョウ」は確かに美しいが、「タマムシ」と同様に”姥”と呼ばれてもしかたのない種類もいる。

その下の1頭、"カミキリ虫"類と形も飛び方もよくにているが"ジョウカイボン"類の全くの別種で、体は軟らかい。日本には70種位。
 
右端上4段は、"コメツキ虫"類で日本では600種、箱には12種。仰向けにすると跳ね上がって元に戻るのが米をつく動作に似ていることからこの名がついた。

その下6頭は"シデムシ"類。動物の死体をエサにして、死体があると出てくる"死出"という意味がある。日本では20種位。

右側最下段は、"ナナフシ"で、日本で20種ほど確認されている。節が多いという意味で"七節"。草食性、木の枝や葉にそっくりの擬態で鳥などから身を守る。"竹節虫"ともいう。

ところで、筆者の昆虫標本作成の始まりは大阪市東住吉区の長居公園(JR阪和線・長居駅近く)である。

生れは大阪都島だが、昭和18年(1943年)から20年間この地に住んだ。当初この辺りは雑木林か畑地で昆虫の宝庫だった。その後10年位の間に競馬場、オートレース場、競輪場が造られたが、現存する"臨南寺(曹洞宗)" の周囲だけはクヌギ林など 昆虫が集まる環境はまだ十分に残されていた。

ところが今では公園とはいえ、大阪女子マラソンの発着誘導路、長居競技場、臨南寺、どこを見ても昔の自然の様相はない。道路が舗装され周りにいくら街路樹を植えても雑木林でないと昆虫は減り、そしてそれをエサとする鳥も少なくなる。

自然環境のなくなった長居公園に当時の昆虫が生き残っているとはとても思えない。山科疎水道だけは絶対にそうなってほしくない。(完)

追記--去る5月8日、山科区民部・まちづくり推進課発行「京都山科・東西南北」と題した60ページ程のB4版PRパンフが配布された。2年間の労作である。

これに比べて本誌で1年半かけて連載した筆者の”山科だより”に遜色はなく、大いに自信を深めた次第。昆虫についても触れてはいるがゲンジホタル”が山科に復活したことと、山科の固有種”ミドリセンチコガネ”の2種のみ、ほんの半ページである。(完)

2010年05月17日

◆時代と共に変わる職業イメージ

渡邊好造

約50年前の学生にとって、超エリートの花形職業は銀行であった。

同時期に筆者が就職したのは広告代理店業。ある洋酒メーカーの社員を対象にした意識調査の結果を卒業論文にしたこともあって、広告代理店業としては時代に先駆けて創部された調査部に配属となる。

一日中調査票や調査報告書の作成に取組み、徹夜作業も度々で、大阪のメイン道路・御堂筋からの市電の音で目覚めさせられた。

仕事内容には大満足だったが、当時の広告代理店業のイメージは良いとはいえず、明治生れの父親は、「大学まで出て"広告屋"か」と不満気だった。

銀行か商社を期待していたのだろう。入社した会社のビル1階エレベーター押ボタン横には『押売り"広告屋"お断り』のプレートが貼付されていたのでも分かるように、広告代理店業は押売りと同等のイメージを引きずっていたのである。

ところが、社員の方は"広告屋"とはチラシ広告などを扱う小さな会社のことで、自分達の会社のことではないと考えていたらしく、貼られたプレートを気にしている様子はなかった。

その後、テレビ広告費の急増にともなって目覚しい発展をみせ、5年も経たないうちに"アドバタイジング・エ-ジェンシ-"と言換えられ花形職業に変貌した。

筆者は広告代理店業で調査、営業、企画を17年余り経験し、昭和53年(1978年)消費者金融業に転職した。

この業界も高利や不当取立などで非難のマトになっていて、当時のイメージは最低だった。しかし、人材不足の新興職業ということもあって、これまでの経験を活かせる仕事はいくらでもあったし、実入りも悪くなかった。

それに、広告代理店業と同様に業界のリーダーや経営者の考え方次第で好イメージに転換するはず、とアドバイスしてくれた年齢一まわり先輩の後押しも大きい。

その折にイメージ好変の典型例として話してくれたのが、現代の花形エリ-ト職業"弁護士"の明治時代からの経緯である。

『弁護士は、明治維新の西洋式裁判制度導入当初"代言人"といわれ、”三百代言”という蔑みの異名まで生み出している。刑事・民事事件のもめごとを3百文で引受け飯の種にする卑しい輩、それが"代言人"というわけである。

保守的な京都では「家貸すな」「娘を嫁にやるな」といわれたくらいで、口が達者だから何のかのとイチャモンをつけられて苦労させられる、として嫌われた。

こうした風潮をなげいた良心的な"代言人"の中から免許制にすべしとの意見もでて、明治9年(1976年)"代言人"規則の制定により公式に認知され、昭和に入って法律も成立した。

 しかし、高額の免許料や低収入の依頼人ばかりで儲からない。あげくは無免許の"代言人"が横行し取締りも十分ではなかった。今のように国家権力から完全に独立できたのは、新弁護士法ができた昭和24年(1949年)だという。』

"代言人"については、昭和56年(1981年)週刊新潮に連載された和久俊三の小説「代言人 落合源太郎」に詳しいが、筆者はその3年前の転職時に概要を聞かされた。

その後、消費者金融業界は数社が株式上場し、業績もイメージも飛躍的に向上した。"代言人"の例をみるまでもなく、どんな職業も好イメージ確立までには先人達の普段の弛まぬ努力があってこそであり、そう簡単に達成されないことは言うまでもない。

現在、紆余曲折があって銀行は超エリート業とは言えないし、広告代理店業は広告メデイア事情の変革で楽ではない、消費者金融業は法律の改定で廃業に追込まれかねないほどの苦戦を強いられている。

いずれもこれまで積上げた折角の好イメージも下降気味である。当り前のことだが”時代とともに職業イメージは変る”。職業選びは将来を見据えて慎重であるべしだが、20年も30年も先のことは予測しにくい。まあ今思えば筆者の場合「丁か半か、えいや〜!」だった。(完)


2010年05月05日

◆山科だより「"ゴミ虫""オサ虫"、"セミ"」

 〜昆虫標本A〜  渡邊好造 

山科疎水道で採集された昆虫標本の第2回として、甲虫目(鞘肢目)オサ虫科の"ゴミ虫"(写真左半分上)と"オサ虫"(同下)、それにカメ虫目(半肢目)セミ科の"セミ"(同右半分)を紹介する。

オサ虫科は、別称・歩行虫科といわれるように飛べない種類で、通常4枚ある羽根のうち2枚の内羽根が退化している。その代り6本の脚は発達し歩行スピードは早い。他種の幼虫や腐肉などを食べる肉食系である。

"ゴミ虫"は、日本では1千種近くいるといわれ、以前は住宅地の溝などにもたくさん生息していたが、道路舗装が行届いたこともあり少なくなった(写真では15種類)。
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とくによく知られていたのは「ミイデラゴミ虫」で(写真にはない)、体長は2センチ位、捕えるとお尻から刺激臭の強いガスを噴射し、体全体が黄色で(ガスも黄色)黒い斑点がある。山科では未だ見かけない。俗には「ヘコキ虫」とか「ヘッピリ虫」ともいった。

"オサ虫"(写真では5種類)は、夏の活動期、落葉の下などに単独で潜んでいる夜行性で、寒くなると土中で集団越冬する。日本では20種余りと少ない。
 
効率よく採集するには2つの方法がある。肉食なので腐肉などをいれた広口ビンを土中に埋め、匂いにつられて落込み上がれなったのを採る、土が凍結する前の11月頃に鍬で山道の土手の土を掘り越冬場所を探リ当てて採る、などである。

 (写真左下から2段目の首の長い"オサ虫"は「<コ>マイマイカブリ」(胴長4センチ位)で、"かたつむり(別称・まいまい)"の殻の中に頭を入れて食べるのに便利な造りになっていてこの名がついた。)

鉄腕アトムの漫画で有名な「手塚治虫」は虫好きが高じて、本名「治(おさむ)」を"オサ虫"にちなんでペンネームを本名と同じ読みで「治虫」とした。

セミ科の"セミ"は、水生昆虫の"タガメ"、"アメンボ"と同類のカメ虫目で口器が細長く硬いのが共通点である。"セミ"は木の幹に産みつけられた卵から成虫になるまで土中生活に3〜17年以上かかる長命で、土中から這い出し成虫で約1ヶ月生存する。地上に出て1週間で死ぬと言われたこともあるが、成虫を人工飼育するのが難しいための誤解らしい。

鳴いているのは雄で行動は素早く、雌は比較的簡単に採れる。よく知られた種類は、写真右端上4頭の「ニイニイゼミ」、その左側2頭の「クマゼミ」(もともと本州西に生息する種類だが最近は東京でも増えた)、さらにその下2頭の「アブラゼミ」、さらにその下8頭の「ツクツクボウシ」であろう。真ん中最下段は羽化前の姿(多分「アブラゼミ」)である。

なお、"セミ"の属するカメ虫科の主流"カメ虫"(形が亀の甲羅に似ている)は、触ると強烈に嫌な臭いを発し、手、体はもちろん家の中だと部屋中に臭いが付着してしばらく消えない。色が毒々しいだけで臭くないのもいるが、筆者のような虫好きでも採る気はしない。

"セミ"を食べるのは日本では沖縄だけ、中国、東南アジア、アメリカでは煮付け、から揚げ、炒め物にする。筆者は"イナゴ"や"トンボ"を食べたことがあり、同じような味なら美味いに違いない。

アメリカには13年、17年かけて成虫になる"13年セミ"と"17年セミ"がいる。13と17の数字から"素数セミ"というのが総称で、"13年セミ"(南部中心)には4種類、"17年セミ"(北部中心)には3種類がいてその7種類はそれぞれ発生エリア、発生年度が異なるらしい。

したがって、13年と17年の間に"セミ"のまったく発生しない年があるわけではない。

ところが他の種も含めて大量発生する年があり、多い年は全米で合計60〜70億匹の"セミ"がウヨウヨ、百メートル四方に40万匹という。これだけ周りにいて鳴き出したらうるさくて堪らないが、いっそ食べてやれという気になるか、気持ち悪くなるかのどちらだろうか。一度ぜひ見てみたい。

日本の"セミ"は20種ほど確認されていて、写真の標本箱には7種収められている。"セミ"の生存種数からみても山科疎水道の自然は一杯である。(完)

タグ:昆虫標本

2010年04月27日

◆「利息の過払い金返還請求」業務

渡邊好造

最近、弁護士・司法書士が金融会社に対する「利息の過払い金返還請求」を業務にして、テレビ広告、新聞広告、交通広告で盛んに勧誘をしている。

この業務について、4月21日付の読売新聞・朝刊に『弁護士の安直面談横行』のタイトルで日本弁護士連合会(日弁連)が、依頼者とのトラブルを防ぐための指針を強化する、とあった。

貸金業者は、利息制限法(上限金利15〜20%)と出資法(同29,2%)の間のいわゆるグレーゾーン金利で融資するのが通例であったが、平成18年(2006年)1月の最高裁でグレーゾーン金利を認めないとの判決が下った。

そのため、多重債務者らは弁護士や司法書士を代理人にして、これまでに払い過ぎた15〜20%以上の金利分(過払い金)の返還請求をし始めた。これが「利息の過払い金返還請求」である。貸金業者にとってはいったん利益計上した分をはきだす破目となり、その引当金がなく、廃業が続出している。
 
一方、代理人を引受けた一部の弁護士や司法書士の中には、報酬の上限規定のない丸儲け商売のチャンスとばかりに飛びつき、事務的に処理をして債務者の味方のフリをするだけの者が出てきた。返還分2百万円のうち6割の手数料を徴収した例もあるらしい。こうまで大量で派手な広告展開をするのは、そんな悪質な魂胆があるからだと、筆者は考える。

多重債務者は、返還可能な利息額、必要な経費などについて代理人からきちんと説明を受けているのだろうか。説明を受けたとしても、理解できたのだろうか。金融に疎いことから多重債務者になった面もあり、「トイチの利息(10日に1割の利息=年360%)」、「日歩5銭(100円につき1日5銭の利息=年18、25%)」、「実質年利20%」などなど、簡単な金利表示の意味も分らないのではないか。

金利に無関心なのは一般にもある。

銀行から自分の金を引出すのに営業時間外や他行からだと手数料として1回105円徴収されるのを文句も言わず、不当な手数料だと思わないこともその一例である。

今仮に3万円(一回の平均必要額はこの程度)を時間外に引出し105円負担したとすると、利息制限法の上限金利20%では1日16、5円(日歩5、5銭)、つまり105円は自分の預金なのに6、36日分(105/16、5)の利息を払っていることになる(引出す金額が3万円以上だと利率は低くなるが、、)。

さらにいえば、3万円を6日以内に返せるなら、自分の預金を引出さずに貸金業者から借りた方が安上がりということになる。

こうした理屈をすぐに理解できる人は少ない。まして金銭感覚の乏しい多重債務者となれば尚更だし、彼らは返還金で身が軽くなったと錯覚してまた借金を重ねる可能性大である。

借金は、盗撮、オサワリ、万引き、バクチ、パチンコなどにのめりこむのと同じく、常人には理解しがたい病気のような面がある、と筆者は考える。そして「利息の過払い返還金」を受取ると、業界用語”コード71”という貸付禁止者に登録されるし(決定ではないらしいが貸すはずがない)、6月からの総量規制(無担保借入金合計は年収の3分の1以下)と重なり、不足分は高利のヤミ金に頼らざるをえない。

こんな安直で有害な業務がまかり通らないためにも、「利息の過払い金返還請求」業務に対して早急に法の網をかける必要がある。さらに、アメリカで実施されているという”多重債務病”を治療する「病院」(クレジットカードを切り刻むことから始めるカウンセリング)の設立も急務ではないか。

日弁連会長・宇都宮健児先生はこうした「利息の過払い金返還請求」業務の行き過ぎについてあるテレビ番組内で批判しておられた。ところが、宇都宮先生の出演された番組スポンサーの中に批判対象社が入っていたのだから、何をかいわんやである。(完)
 

2010年04月14日

◆山科だより「昆虫標本@ー”カミキリ虫”」 

渡邊好造

筆者の趣味の一つに「昆虫標本の作成」がある。リタイヤ後の10年間に山科疎水道で採集した昆虫を通じて、自然の残る山科を紹介したい。

山科だより「昆虫標本」1回目は”カミキリ虫”である。”カミキリ虫”は専門用語でいうと甲虫目(鞘肢目)カミキリ虫科に属し、顎が発達していて髪の毛も切断するということからこの名がついた。

昭和30年(1955年)頃、日本の”カミキリ虫”は約650種類いたらしい。そのうち120種類の標本を作成し、高校卒業時に”コガネ虫”など他の種類の昆虫とともにそっくり寄贈した。

ギブアップしたのは大学受験だった。8歳から18歳まで10年かかって作成したその標本が今も母校に保管されているとはとても思えないが、もし残っていたらすでに絶滅種になったものもあるのではないか。

 山科疎水道での採集は捕虫網を持たずに簡単に採れるもの、死んでいたものを拾ったり、踏みつけられ潰れてはいるが修復可能だったものなどで、昔のように本気で取組んでいればもっと多くの種類が集められたに違いない。採集シーズンは毎年5〜9月。

 写真の標本箱には28種の”カミキリ虫”が収められている。右下の右から2番目「シロスジカミキリ」は、胴長が5センチあり日本の”カミキリ虫”最大型種である。南アメリカや東南アジアの熱帯・亜熱帯地区では、胴長10〜15センチでもっとカラフルなものがいる。

”カミキリ虫”は害虫とは限らないが、左上から3列目までの14頭、黒地に白点の「ゴマダラカミキリ」などは生木をかじる厄介者で、3年ほど前(?)にフランスへ輸出した盆栽に卵が発見され大問題になったことがある。

 樹木の表皮をかじる(フトカミキリ)、花の蜜に集まる(ハナカミキリ)、朽木に巣くう(サビカミキリ)、羽根の文様が虎に似ているトラカミキリ)、触角が胴体の3倍半もある(ヒゲナガカミキリ)、4枚羽根の外羽根が半分しかない(コバネカミキリ)、などなど”カミキリ虫”の種類は実に多彩である。

動作は鈍いがいずれの種類も空中を飛ぶ。真ん中のゴキブリに似た7頭は、触角がノコギリの刃に似ているので「ノコギリカミキリ」といい、ゴキブリのように体がフニャフニャでない。

左下隅の台紙に貼付した小型種(写真では識別困難だが、、)ももちろん”カミキリ虫”である。

 標本は1頭残らず採集日、採集場所(もちろん山科)、採集者のイニシアル(筆者・KW))の手書きのラベルがつけてある。整肢作業をし(脱脂綿の上で形を整え4〜6日乾燥させる。小型種は台紙の上でピンセットや針で整肢し糊付け)、そしてこのラベル作成も面倒な作業であるが、標本箱におさまった姿をみると感慨ひとしおなのである。余人にはわからんでしょうな〜。

 家内をはじめ周辺に虫嫌いが多く、これまで他人への披露を控え一人眺めてほくそえんでいたが、「そうだ、"百家争鳴"の読者にみてもらおう!」と思いついた次第。虫嫌いの人、ごめんなさい。(完)

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タグ:昆虫標本

2010年04月09日

◆山科だより 疎水の桜

渡邊好造  

山科疎水道の桜が満開になりました。筆者宅から東へ疎水上流2キロ、安朱橋付近です。

以前、百家争鳴のニュース欄で紹介されていた、菜の花が引抜かれたとの写真は、この逆方向から撮られたものです。
ここから北(写真の右方向)へ行くと、浅野内匠頭の供養塔がある「瑞光院」、狩野益信の描いた襖絵116面で知られる
「毘沙門堂門跡」に至ります。桜は12日(月)の降雨で散るとのこと。 
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2010年03月29日

◆相撲が面白くなくなった

渡邊好造

大相撲大阪場所は”白鵬”の優勝で終ったが、50数年前からの相撲ファンとして何か物足りない思いにかられた。”朝青龍”の型破りな"陽"の存在がなくなったからで、”白鵬”の礼儀正しい"陰"だけでは物足りないのが第一の理由である。

ニコッと笑った時の愛らしさ、憎たらしいほどの強さ、新しい技を次々繰り出す器用さ、行司の引退時にまで気配りをする優しさ、感情が顔や態度、言葉に出る単純さなど、”朝青龍”は実に魅力あふれる力士だった。

横綱としての品位に欠けるなどと集中砲火を浴びて引退せざるをえなくなったのは、女人禁制であるはずの横綱審議委員の一員に、あのギョロ眼のオバチャンがいたせいである。

土俵場でガッツポーズをした、ケンカして相手をケガさせたとかいうが、優勝した時のガッツポーズ位は許してやれば、、、。

ケンカについても本人は否定しているし、ケガをした相手も訴えていない、警察も調べていない(?)。要は”朝青龍”を徹底して嫌うあのオバチャンがいなけりゃ、裏でなんとかまるめこんで、ウヤムヤになっていた話ではないか。

噂によれば、あのギョロメ眼のオバチャンは相撲界はもちろん横綱審議委員の中でも融通のきかない鼻つまみの存在だったという。強ければなんでも許されるというわけではないが、ボクシングの”亀〇〇○”のようにルールを無視したわけではない。

暗黙の伝統様式美にそぐわなかっただけのことである。”朝青龍”に問題があるというならば、”栃東(元・関脇、現・玉の井親方)”が優勝時にやったガッツポーズ、手の平一杯に鷲掴みにした塩を土俵に撒き散らした”水戸泉(元・関脇、現・錦戸親方)”らにも「やるな」と言うべきだったし、”高見盛”の目に余るオーバーなパフォーマンス、”白鵬”が負けた時の舌出しなども、今のうちに注意すべきである。

結局は、”朝青龍”が短期間に出世し、あまりにも強すぎたから暴力事件が話題になるまで苦言を言えなかっただけのこと、、。おそらくこれまでにも何かと問題があったはずで、その後”横綱・白鵬”の台頭でこの際、、、と見切りをつけられたのである。ギョロ眼のオバチャンを初めとして、”朝青龍”の行為をこれまで見逃してきた周りの人が悪い。

かって、日本の伝統スポーツである柔道が国際化し、柔道着をカラーにするかどうかでひと悶着あったりしたが、カラー化どころか今ではガッツポーズは当たり前、審判に猛抗議したり、優勝して試合場で泣き伏す奴もいるではないか。相撲界に外人を入れるなら”朝青龍”のレベルにあわせて横綱の品位の定義を下方修正するべしだった。優勝したら土俵上で宙返りをしてもいいというわけではないが、、。

最近、日本人力士と外人力士との対戦ではつい外人力士を応援してしまう。外人力士のインタビューの際の流暢な日本語、しかも日本人好みの回答を聞くと「ここまで到達するのに苦労しただろうな〜」と想像し、グッと胸にくるものがある。

日本人にも海外で活躍したスポーツマンは多いが、インタビューに対して通訳なしに現地語で流暢に答えていたのは、サッカーの”中田英寿”以外に知らない。しかし、”中田”の場合は下積み生活から外地で叩き上げられたものではない。ほとんどなにも分らず相撲界に飛込んで技、ルール、作法、食事、習慣、言葉を一から覚えたのとは様子が違う。

優勝回数25回という史上3位の相撲界貢献者”朝青龍”に対して無理やり引退させる首切り同然のやり方ではなく、「体調が悪い」、「ケガをした」といったそれなりの理由をみつけて休場扱いにしてやれなかったのか。外人力士に"おんぶに抱っこ"のくせに丁寧に指導しない、なによりもいざという時かばってやらない日本人の方が品位に欠ける、、。 

品位をツベコベいうなら、相撲界に外人を一切いれなければいい。もう一度言う、”朝青龍”を追出したあのギョロ眼のオバチャンのせいで相撲が面白くなくなった。(完)<評論家>


2010年03月20日

◆山科だより・日本初の産業用水力発電所

渡邊好造

山科区にある京都市最大の施設は”琵琶湖疎水(山科疎水)”である。

明治維新後、首都が東京に移ったことで人口の3分の1が流出し、このままだと京都は沈没するのではないか、そんな危機感もあって産業振興の狙いから手がけられたのが琵琶湖の水をひく疎水建設で、京都のあせりが生み出した産物といえる。

疎水は滋賀県大津市の観音寺、三井寺辺りを基点にして山科区北部の山の斜面に沿って、左京区蹴上までの約11キロメートルにわたる水路である。

明治18年(1885年)に日本人技師のみで着工した最初の大工事で110年前の明治23年(1890年)に完成した。日本初の"産業用"水力発電所建設が最大目的で、これにより蹴上発電所が翌明治24年(1891年)に稼動(現在も無人で運転中)、明治28年(1895年)この電力により国内初の市電が京都市内で運行された。

なお、最初の水力発電所は明治21年(1888年)の仙台市三居沢(さんきょざわ)発電所で、国指定有形文化財として今も残されている。

疎水建設の当初予算は60万円だったのが、明治政府の意向もあって、最終的には125万円に倍化され、当時の京都府年間予算の2倍に相当した(資料・京都市上下水道局)。

使用したレンガは1370万個、地下鉄・御陵駅の近くにレンガ工場跡の記念碑がある。現在の水路は、何回もセメントを吹付けて改修されているので、表面にレンガはない。

疎水は、大津・京都間の船による輸送手段としても活用され、昭和23年(1948年)まで利用された。そうした船便の名残りが、”蹴上インクライン(台車を使って船を引張り上げる線路)”の遺跡である。疎水は山科日ノ岡までの傾斜は緩いが、ここから蹴上へは急な下り坂となるので、このインクラインが利用された。

また、疎水の水路北側に沿って、上水用として第2疎水建設工事が明治41年(1908年)に着工され、明治45年(1912年)に完成した。こちらは全て暗渠となっているため山科の住民でも知らない人が多い。

筆者宅から疎水までの距離は約100メートル。ちょうどそこには3つ目の疎水トンネル(トンネルは全部で4つ)の入口があり、明治時代の政治家・井上 馨の揮豪による偏額(門戸等に掲げる横に長い額)が、当時のまま埋めこんである。

偏額には『仁呂山悦智為水歓』(じんはやまをもってよろこび ちはみずのためによろこぶ = 仁者は動かない山によろこび 智者は流れゆく水によろこぶ)の8文字が彫られている。京都あげての力の入れようが、ここにも残る。
 
京都はお寺中心の古都の印象が強いが、明治維新後は産業面でなんとか振興をはかろうと、日本の最先端技術を駆使して走り始めていた。
 
疎水に関しては、平成元年(1989年)8月に完成した左京区「琵琶湖疎水記念館」(地下鉄東西線・蹴上駅下車)に詳しい。
 
ところで、京都市左京区の南禅寺境内には、ヨーロッパ遺跡に似た赤レンガ造りの「水路閣」(疎水の水をひく水道橋)が残されているが、建設当時は京都の景観を損ねるとして大反対運動が展開されたらしい。

そんな反対運動の心意気が在ったのなら、何故あの悪名高い「京都タワー」建設時(昭和39年=1964年)にどうして発揮されなかったのだろうか。当時の京都市の人口131万人にあわせて高さ131メートルの灯台を模したコンクリート・タワーが古都京都にふさわしいと考えた連中がいたとは、とても解せない。

京都市は新景観条例を制定し、建物の高さ(最高31メートル)や看板の色・デザインを規制強化し、将来は市電の復活、電線電柱の地下化を目指す、といった百年河清を待つような方針が今頃になって出始めている。

NHK京都放送局のTVニュース番組の放送終了時、京都市内の夜景の画面中央にライトアップされた不釣合いな京都タワーが突き出しているのをみるたびに腹立たしい思いにさせられる。(完)

< 写真は、山科疎水トンネル入口にある扁額です。疎水は現在清掃中のため1月中旬から水抜きされていて、桜の咲き始めまでに満水となります。もうすぐですー渡邊好造 >


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