2017年05月04日

◆京都「山科ゆかりの歌人」

渡邊 好造



”百人一首”など古来の和歌には、「山科」が数多く登場する。

”百人一首”は、鎌倉時代の歌人・藤原定家が100首を選んだ歌集のことで、京都小倉山で編纂されたので通称”小倉百人一首”ともいう。主に古今集(平安時代)、新古今集(鎌倉時代)から選んでいる。"小倉"があるなら他にもあるのかとなるが、確かに"源氏"" 女房"" 後撰"" 武家" が頭につく”百人一首”もあるにはある。

その何れもが、制作年や編者が明確でなく、小倉で洩れた歌人を補っただけのものもあり、”百人一首”といえば"小倉"を指すとみてよい。今回の"山科だより"は、この”百人一首”に登場する「山科ゆかりの歌人」を紹介する。

山科の地名、駅名にも名前が残る有名歌人といえば「小野小町」である。"小野御霊町"にある”随心院(真言宗)”は、小野一族の邸宅跡に正暦2(991)年=平安時代=「僧・仁海」が創建した。「小野小町」は仁寿2(852)年=平安時代=に宮廷を辞した後、40年間当院内の遺跡”小町の井戸”辺りに住んでいたという。

「小野小町」が詠んだ和歌のうち、”百人一首”(原典・古今集=以下同じ)にとりあげられ、とくによく知られているのはこの一首で、境内に歌碑がある。

『花の色は移りにけりないたずらに 我が身世にふるながめせしまに』(桜の花の色はスッカリ褪せた。私の美しかった姿も衰えた。むなしく世を過ごし物思いにふけっている間に)。

"北花山河原町"の”元慶寺(天台宗)”は、「僧・遍昭」が貞観11(869)年=平安時代=に創建し、”百人一首”(古今集)に詠まれた彼の和歌の碑がある。

碑には『天津風雲の通ひ路吹きとぢよ をとめの姿しばしとどめむ』(空に吹く風よ、天への雲の通り道をふさいでしまってくれ。美しい舞姫の姿をもうしばらくの間ひきとめておきたいのだ)とある。


"四ノ宮泉水町"に天文19(1556)年=室町時代=に開創された”山科地蔵徳林庵(臨済宗)”には、町名の語源となる「四之宮人康」(さねやす=第54代仁明天皇第4皇子)と、歌人「蝉丸」(せみまる=正式呼称はせみまろ)の2人の供養塔がある。

両人とも平安時代(9世紀)に生きた歌人だが、「蝉丸」は"四ノ宮"から約2キロほど東の滋賀県大津市に入った峠"逢坂の関"に庵を構え、近くには”蝉丸神社”もある。なぜ山科に「蝉丸」の供養塔があるのか、「人康」との関係は、交流は、など明確ではない。その共通点は両人とも琵琶の名手であったことのようである。
 
 ”百人一首”(後撰集)にある「蝉丸」の歌、『これやこの行くも帰るも分かれては 知るも知らぬも逢坂の関』(ここから行く人帰る人、それを見送る人、知合いの人とそうでない人も、ここで出逢いを繰返す。これがこの逢坂の関なのだ)がよく知られている。

 ”百人一首”に登場する地名でもっとも多いのが"逢坂(の関)"("難波"と同数)で、行政エリアは滋賀県大津市だが京都市山科区との境界線上の峠である。

ついでながら、全国46都道府県のうち県庁所在都市がピッタリ接しているのは、この京都府京都市(山科区)と滋賀県大津市の他は、東北の山形県山形市と宮城県仙台市しかない。

「清少納言」(枕草子で知られる平安時代女流作家)は、”百人一首”(後拾遺集)で『夜をこめて鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ』(夜の明けないうちに鶏の鳴き真似をして、夜が明けたように見せかけた中国・函国関の故事まがいの騙しの手をつかっても、私とあなたの間にある関所は開けませんよ)と詠んでいる。

「三条右大臣藤原定方」(平安時代公家・歌人)は、”百人一首”(後撰和歌集)で悩ましく、意味深な歌を披露している。

『名にしおはば 逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな』(「逢坂山」だから"逢える"、「さ寝」だから"一緒に寝られる(さは接頭語)"、名前通りの「かづら=葛・つるくさ」ならそのツタを手繰り寄せると、人に知られずあなたの家で逢いそして一緒に寝る、そんなことが出来ればいいのに)。

”百人一首”に登場する「山科ゆかりの歌人」が詠む和歌には、平安・鎌倉貴族のなんとも優雅で、他に心配事はないのかと言いたくなるお気楽な宮廷生活が滲みでている。そんな宮廷生活を歴史書以上に現代に語り継いでいるのが、和歌なのだろう。(完)

2017年04月21日

◆日本語をなぜ“片仮名文字”にする

渡邊 好造



わが国には漢字という折角の表意文字があるのに、いつのまにか聞いたこともない英語、仏語などをもとにした片仮名文字に変えてしまう。

それで、意味不明にしたり、都合のよい解釈をする。いかにも目新しく、恰好よく見せかけているだけではないか。ちょっと拾ってみるだけでも腹がたつ。

 [片仮名文字=日本語なら⇒本当の裏の意味]

1)カジノ=博打場、とばく場⇒堂々とてら銭をとる公共の超法規的賭場施設。もうすぐ日本にも。
2) シェフ=優秀調理士⇒板前、板長、料理人、包丁頭なら目の前で調理してくれる。シェフは命令するだけ。
3)タレント=芸人⇒ただのお笑い芸人なのになんでも完全にこなす能力がありそうで、照れず厚かましい。
4)コンシェルジェ=ホテルの接客責任者⇒客がどんな悪辣なことを言ったり、したりしても我慢できる接客係。
5)ファイナンス=金貸し⇒利息も安く、簡単に貸してくれ、取立ても厳しくない善意の金融業者。

6)コンプライアンス=規定・法律を遵守した行動⇒規定・法律の抜け道をどこに見つけるかが秘訣。
7) マニフェスト=公約⇒公に約束はするが、後で訂正自由。最近の貼り薬”膏薬”は剥れないのに。
8)アジェンダ=政策課題⇒期限がなく実行希望の政策。後で間違いなく"唖然とする"。
9)タトウ-=刺青⇒やくざのいれる全身のモンモンとは違い、体の一部に化粧するような軽い感覚。
10)エッセイ=随筆⇒タレントが「エッセイ書きました」は、起承転結のない日記、手紙、メモなどの駄文が多い。

11)コラボレ-シヨン=協同競演作業⇒過去の栄光をひきずる者同士の再生競演策。
12)レシピ=調理法⇒美味そうに感じさせる秘密の調理法。美味くない時の表現”この味は玄人好みですね”
13)パフォ-マンス=表現、才能、処理能力⇒派手な言動、ごまかし、でたらめ演技。
14)リベンジ=雪辱する⇒仇討ち、復讐、返り討ち、闇討ち、暗殺。
15)ホ-ムレス=住む家のない哀れな人⇒道路や公園を不法に占拠する同情の余地のない浮浪者、乞食。

16)バッシング=たたく、攻撃⇒高収入、好待遇に見合う行動、成果をあげないとやっかみで眼の敵にされる。
17)パテシエ=製菓技術者⇒砂糖とクリ-ムをたっぷり使い、高血圧や糖尿病を忘れさせてくれる菓子職人。
18)ボランテイア=時間と能力の無償提供奉仕⇒作業量に見合った経費のいらない、善意に期待した労働。
19)アドバイサ-=助言者⇒野球賭博や脱税など楽して儲かることを教えてくれる人。
20)バックパッカ-=リュックサックを背負う旅人⇒金のない貧乏のふりをして、安上がりの旅行をする人。

21)リーズナブル=価格が手ごろなさま⇒品質が良く、より安いのを手ごろというが、、。つい騙されやすい価格。
22)キャンペーン=企業・団体の目的をもった宣伝活動⇒消費者のためとみせかけて、自社の販売拡大が狙い。
23)アウトソ-シング=外部発注⇒下請け会社に無理やり安く発注し、資金が少なくてすむ経営方法。
24)アシスタント=助手⇒安い給料で便利にこき使える我慢強い見習い人で、「今にみておれ」と歯噛みしている。
25)エコカ-=燃料節約車⇒燃費が安いといわれる高級車で、税金で補填してくれるのでよく売れる車。

26)コメンテ-タ-=解説者⇒聞かれたことの3倍以上にしゃべりまくることの出来る人。「、、そうすね」は失格。
27)カリスマ=教祖⇒一見すると能力ある風で、他人と違うことをする目立ちたがりの超変人。
28)コンテンツ=内容物、中味⇒内容のない、中味のないものでもなんとなく見たくさせる。
29)セレブリテイ=話題の人 、有名人⇒親の莫大な遺産を相続しただけで、実力があるとは限らない。
30)モラトリアム=(融資金返済)一時停止⇒単なる一時停止なのに、「もう取らぬ」と全額返済不要と錯覚させる。

ハングル文字に統一した韓国では、漢字の自分の名前が読めない人が現れたという。中国の物まね商品、商標権侵害を非難したら「日本は漢字を盗んだ」と開き直った。その大事な漢字を略字にしてしまう中国は変な国だ。

片仮名文字はこれからも増え続ける。以上、日本語で”ボヤキ”。(完)

2017年04月15日

◆“カチンと来る言い方をする奴”

渡邊 好造



約40年間のサラリーマン時代を振り返ると、研修や会議などの顧問やアドバイザ-として招請した大学の先生、コンサルタント会社の講師、そして上司や同僚で上から目線の”カチンとくる言い方をする奴”がいて腹立たしい思いをしたことが何回もあった。

この稿執筆にあたっては、"新 将命(あたらしまさみ/国際ビジネスブレイン社長)"氏が20数年前に雑誌「ボイス」に掲載した「イヤミなタイプ」の痛快な文章を思い出した。

そこで同氏が挙げた4つの(?)「イヤミなタイプ」に付加え、表題のように言換えて羅列すると、、、。(*印は、原文がなく、筆者の記憶にある新氏の指摘)。

1)「質問の意味が不明だ。もう一度分かるように説明してくれ」(質問に質問で返し、その間に答えを考える奴)

2)「いい質問です。今の質問はこれまでのなかで一番素晴らしい」(何様の積もりか、一番偉いと思っている奴*)

3)「それは、こう言換えたらよく分るんじゃないかな」(勝手に言換える奴)

4)「どっかで聞いたような話だな。まあいいや進めてくれ」(話の腰を折る奴)

5)「そんなところで結論となりそうだが、私の視点はまったく違うな」(まとまりかけているのに振出しに戻す奴*)

6)「だからさっきから言ってるだろ。同じことを何回も言わすなよ」(説明の仕方が悪いことに気付かない奴)

7)「こんな言い方したら怒るかもしれないけど、、」(と言いながらわざと怒らせる言い方をする奴)

8)「言い分はよく分った。要するにこういうことか。」(勝手に要約する奴)

9)「これまで出た意見を整理してみると、こういうことになるな、、」(自分の意見を言わずまとめ役だけをする奴)

10)「うっかり寝てしまいそうになったが、こんなふうに考えたらどうだ、、。」(寝たふりしていていきなり喋りだす奴)

11)「どうしてそんなに国際感覚に乏しいんだ。それに語学力もない」(自分だけが別格の選民と思っている奴*)

12)「この意見には最近お会いした著名な○○さんも賛成してくれたが、、」(著名人の威光にすがる奴*)

13)「議論するならあらかじめもっと勉強してこいよ」(知ったかぶりをする奴)

14)「自分が何を言おうとしているのか分っているのか」(見解の違いを押さえつける奴)

15)「よくそんないい加減なことばかり言ってられるな」(いい加減と勝手に決めつける奴)

16)「真面目に議論したらそんな結論になる筈がない」(初めから結論を用意し押付ける奴)

17)「それで相手が納得すると思うか、よく考えろ」(自分の意見と違えば納得しない奴)

18)「またその話か、何回も同じ話を繰り返すなよ」(初めて聞く人もいると思わない奴)

19)「活発に議論しているようにみえるが、的外れもいいとこだ。」(何か文句をつけようと待っている奴)

20)「意見はいろいろだったな。よくわかった。今日はこれまで」(なにも発言せずあとで自説として引用する奴)

補足すると、「”カチンとくる言い方をする奴”は、あんた自身じゃなかったのか?」。(「反省してま〜す」、「チツ、うるせ〜な」)
                                   <完>

2017年04月01日

◆日本初の産業用水力発電所

渡邊 好造



山科区にある京都市最大の施設は”琵琶湖疎水(山科疎水)”である。

明治維新後、首都が東京に移ったことで人口の3分の1が流出し、このままだと京都は沈没するのではないか、そんな危機感もあって産業振興の狙いから手がけられたのが琵琶湖の水をひく疎水建設で、京都のあせりが生み出した産物といえる。

疎水は滋賀県大津市の観音寺、三井寺辺りを基点にして山科区北部の山の斜面に沿って、左京区蹴上までの約11キロメートルにわたる水路である。

明治18年(1885年)に日本人技師のみで着工した最初の大工事で110年前の明治23年(1890年)に完成した。日本初の"産業用"水力発電所建設が最大目的で、これにより蹴上発電所が翌明治24年(1891年)に稼動(現在も無人で運転中)、明治28年(1895年)この電力により国内初の市電が京都市内で運行された。

なお、最初の水力発電所は明治21年(1888年)の仙台市三居沢(さんきょざわ)発電所で、国指定有形文化財として今も残されている。

疎水建設の当初予算は60万円だったのが、明治政府の意向もあって、最終的には125万円に倍化され、当時の京都府年間予算の2倍に相当した(資料・京都市上下水道局)。

使用したレンガは1370万個、地下鉄・御陵駅の近くにレンガ工場跡の記念碑がある。現在の水路は、何回もセメントを吹付けて改修されているので、表面にレンガはない。

疎水は、大津・京都間の船による輸送手段としても活用され、昭和23年(1948年)まで利用された。そうした船便の名残りが、”蹴上インクライン(台車を使って船を引張り上げる線路)”の遺跡である。疎水は山科日ノ岡までの傾斜は緩いが、ここから蹴上へは急な下り坂となるので、このインクラインが利用された。

また、疎水の水路北側に沿って、上水用として第2疎水建設工事が明治41年(1908年)に着工され、明治45年(1912年)に完成した。こちらは全て暗渠となっているため山科の住民でも知らない人が多い。

筆者宅から疎水までの距離は約100メートル。ちょうどそこには3つ目の疎水トンネル(トンネルは全部で4つ)の入口があり、明治時代の政治家・井上 馨の揮豪による偏額(門戸等に掲げる横に長い額)が、当時のまま埋めこんである。

偏額には『仁呂山悦智為水歓』(じんはやまをもってよろこび ちはみずのためによろこぶ = 仁者は動かない山によろこび 智者は流れゆく水によろこぶ)の8文字が彫られている。京都あげての力の入れようが、ここにも残る。
 
京都はお寺中心の古都の印象が強いが、明治維新後は産業面でなんとか振興をはかろうと、日本の最先端技術を駆使して走り始めていた。
 
疎水に関しては、平成元年(1989年)8月に完成した左京区「琵琶湖疎水記念館」(地下鉄東西線・蹴上駅下車)に詳しい。
 
ところで、京都市左京区の南禅寺境内には、ヨーロッパ遺跡に似た赤レンガ造りの「水路閣」(疎水の水をひく水道橋)が残されているが、建設当時は京都の景観を損ねるとして大反対運動が展開されたらしい。

そんな反対運動の心意気が在ったのなら、何故あの悪名高い「京都タワー」建設時(昭和39年=1964年)にどうして発揮されなかったのだろうか。当時の京都市の人口131万人にあわせて高さ131メートルの灯台を模したコンクリート・タワーが古都京都にふさわしいと考えた連中がいたとは、とても解せない。

京都市は新景観条例を制定し、建物の高さ(最高31メートル)や看板の色・デザインを規制強化し、将来は市電の復活、電線電柱の地下化を目指す、といった百年河清を待つような方針が今頃になって出始めている。

NHK京都放送局のTVニュース番組の放送終了時、京都市内の夜景の画面中央にライトアップされた不釣合いな京都タワーが突き出しているのをみるたびに腹立たしい思いにさせられる。(完)



2017年03月18日

◆時代と共に変わる職業イメージ

渡邊 好造



約57年前の学生にとって、超エリートの花形職業は銀行であった。

同時期に筆者が就職したのは広告代理店業。ある洋酒メーカーの社員を対象にした意識調査の結果を卒業論文にしたこともあって、広告代理店業としては時代に先駆けて創部された調査部に配属となる。

一日中調査票や調査報告書の作成に取組み、徹夜作業も度々で、大阪のメイン道路・御堂筋からの市電の音で目覚めさせられた。

仕事内容には大満足だったが、当時の広告代理店業のイメージは良いとはいえず、明治生れの父親は、「大学まで出て"広告屋"か」と不満気だった。

銀行か商社を期待していたのだろう。入社した会社のビル1階エレベーター押ボタン横には『押売り"広告屋"お断り』のプレートが貼付されていたのでも分かるように、広告代理店業は押売りと同等のイメージを引きずっていたのである。

ところが、社員の方は"広告屋"とはチラシ広告などを扱う小さな会社のことで、自分達の会社のことではないと考えていたらしく、貼られたプレートを気にしている様子はなかった。

その後、テレビ広告費の急増にともなって目覚しい発展をみせ、5年も経たないうちに"アドバタイジング・エ-ジェンシ-"と言換えられ花形職業に変貌した。

筆者は広告代理店業で調査、営業、企画を17年余り経験し、昭和53年(1978年)消費者金融業に転職した。

この業界も高利や不当取立などで非難のマトになっていて、当時のイメージは最低だった。しかし、人材不足の新興職業ということもあって、これまでの経験を活かせる仕事はいくらでもあったし、実入りも悪くなかった。

それに、広告代理店業と同様に業界のリーダーや経営者の考え方次第で好イメージに転換するはず、とアドバイスしてくれた年齢一まわり先輩の後押しも大きい。

その折にイメージ好変の典型例として話してくれたのが、現代の花形エリ-ト職業"弁護士"の明治時代からの経緯である。

『弁護士は、明治維新の西洋式裁判制度導入当初"代言人"といわれ、”三百代言”という蔑みの異名まで生み出している。刑事・民事事件のもめごとを3百文で引受け飯の種にする卑しい輩、それが"代言人"というわけである。

保守的な京都では「家貸すな」「娘を嫁にやるな」といわれたくらいで、口が達者だから何のかのとイチャモンをつけられて苦労させられる、として嫌われた。

こうした風潮をなげいた良心的な"代言人"の中から免許制にすべしとの意見もでて、明治9年(1976年)"代言人"規則の制定により公式に認知され、昭和に入って法律も成立した。

 しかし、高額の免許料や低収入の依頼人ばかりで儲からない。あげくは無免許の"代言人"が横行し取締りも十分ではなかった。今のように国家権力から完全に独立できたのは、新弁護士法ができた昭和24年(1949年)だという。』

"代言人"については、昭和56年(1981年)週刊新潮に連載された和久俊三の小説「代言人 落合源太郎」に詳しいが、筆者はその3年前の転職時に概要を聞かされた。

その後、消費者金融業界は数社が株式上場し、業績もイメージも飛躍的に向上した。"代言人"の例をみるまでもなく、どんな職業も好イメージ確立までには先人達の普段の弛まぬ努力があってこそであり、そう簡単に達成されないことは言うまでもない。

現在、紆余曲折があって銀行は超エリート業とは言えないし、広告代理店業は広告メデイア事情の変革で楽ではない、消費者金融業は法律の改定で廃業に追込まれかねないほどの苦戦を強いられている。

いずれもこれまで積上げた折角の好イメージも下降気味である。当り前のことだが”時代とともに職業イメージは変る”。職業選びは将来を見据えて慎重であるべしだが、20年も30年も先のことは予測しにくい。まあ今思えば筆者の場合「丁か半か、えいや〜!」だった。(完)

2017年03月06日

◆山科だより 「門跡寺院」

渡邊 好造



日本全国の寺院数は約18万3千、「日本寺院総監」に掲載されているのは7万6千というが、皇族や摂家などのいわゆる高格式者の出家の対象となる『門跡(もんぜき)寺院』は、京都を中心に全部で30余りしかない。

第59代宇多天皇が、寛平10年(平安時代・898年)法皇となり、京都(右京区)の”仁和寺(にんなじ=真言宗)”にこもり、「御室(おむろ)門跡」と称したのが”門跡寺院”の始まりである。

鎌倉時代に入って、皇族や摂家が特定の寺院に出家することが定着し、室町時代には寺格としての門跡が確立され、これらの政務を担当する門跡奉行も設けられた。

その後、 江戸幕府は出家者の位階により @宮(みや)門跡、A摂家(せっけ)門跡、B清華(せいが)門跡、C公方(くぼう)門跡、D准(じゅん)門跡の5つの門跡寺院を制度化した。

最上位の「宮門跡」は、親王(皇族)、法親王(親王の宣下をえた僧)の出家者を対象としたもので、13寺院あるうち”輪王寺(りんのうじ=天台宗=茨城県日光市)”、”園満院(えんまんいん=天台宗=滋賀県大津市)”以外は全て宮家の中心であった京都市内にある。

ついでながら、”園満院”については、平成21年(2009年)5月に重要文化財の建物9棟、庭園・土地1万4千平米が寺院の借金返済のために競売となり、約10億円余りで滋賀県甲賀市の宗教法人に落札され、同年8月所有権移転が成立するという所管の文化庁もビックリの異例の事態となった。

ただし、建物以外の文化財は第2次大戦後に京都、奈良、九州などの国立博物館所蔵となっていたため無事である。

「摂家門跡」は、近衛、九条、二条、一条、鷹司の五摂家とその子弟が、「清華門跡」は、久我、三条、西園寺、徳大寺、花山院(かさんのいん)、大炊御門(おおいのみかど)、今出川、醍醐、広幡(ひろはた)などの公家、「公方門跡」は武家、「准門跡」は"脇門跡"ともいわれ、特別に認められたその他の高格式者がそれぞれ対象となる。

さて注目したいのは、京都市内11の「宮門跡寺院」のうち3つがここ「山科」にあることで、”勧修寺(かじゅうじ)=真言宗”、”毘沙門堂(びしゃもんどう)=天台宗”、そして”青蓮院・大日堂(だいにちどう)=天台宗=東山区の青蓮院の飛び地庭園”がそれである。

その他の門跡寺院も含めると、”安祥寺(あんしょうじ)=真言宗”、”随心院(ずいしんいん)=真言宗”が加わり、この5寺院については「山科だより」で詳しく紹介してきたが、改めて概略にふれておく。

”勧修寺”は、「山科門跡」ともいい、水戸光圀寄進の勧修寺型燈篭、境内の"氷池園"という名の平安時代・池泉園で知られる。”毘沙門堂”は、狩野益信筆の書院の襖絵116面が有名。”青蓮院・大日堂”は、将軍塚といわれる展望台からの京都中心部と山科の眺望が素晴らしい。

”安祥寺”は、広大な領地を誇り上寺と下寺をもつ寺院であるが、現在院内への入場は残念ながらできない。”随心院”は、平安時代36歌仙の一人"小野小町"一族所縁の邸宅跡に創建された寺院で、境内は国史跡である。

「山科」は、『門跡寺院』の存在でみても、歴史と伝統を引き継ぐ由緒ある京都の一角なのである。 (完)

2017年01月29日

◆世界遺産になれない京都

渡邊 好造



住いが京都だと言うと、『いいですね〜。観光名所で世界遺産ですよね』と羨ましがられることがある。京都は確かにいい町だし、風情の良く似た「小京都」に指定された都市が日本全国に52もある。しかし、京都が世界遺産というのは間違いである。

京都の世界遺産は17か所あるが、京都の府内・市内はそこらの雑然とした当たり前の都市と変わることはない。

世界遺産は、”古都京都の文化財”の名称で平成6(1994)年に認定された古来の個々の建築物なのである。( )内は所在地。

1・上加茂神社(北区) 2・鹿苑寺=金閣(北区) 3・下鴨神社(左京区) 4・慈照寺=銀閣(左京区) 5・竜安寺(左京区) 6・延暦寺(左京区、大津市) 7・二条城(中京区) 
8・清水寺(東山区) 9・西本願寺(下京区) 10・東寺(南区) 11・天龍寺(右京区) 12・仁和寺(右京区) 13・高山寺(右京区) 14・西芳寺=苔寺(西京区)
 15・醍醐寺(宇治市) 16・平等院(宇治市) 17・宇治上神社(宇治市)

このように、京都の世界遺産はいずれも建築物であって京都全体のいわゆる都市が対象なのではない。

世界都市遺産に指定されているヨーロッパの例などをみると、町全体の建物の形、高さ、色などが全て統一され、電柱・電線・広告看板など全くなく、見渡す限り見事に整然としている。そこに人が住んでいるのに見た目は生活臭もない。

それに比べて、京都には歴史的に由緒があり見ごたえのある建物はいくつもあるが、その周りは電柱が林立し、電線が張り巡らされ、建物は高さも色も見事に不揃いである。おまけに、大小色とりどりの広告看板が所狭しと並んでいる。これでは世界都市遺産に指定されることはありえ
ない。

それでも東山連峰など山の上から京都を俯瞰すればほっとさせられる景観だし、世界遺産に指定された17の建築物は一見の価値は十分である。

許せないのは昭和34(1959)年に建設された”京都タワー”である。それまでは、「東寺の五重塔」の54.8メートルを高さ制限とするのが不文律であった。

当時の京都市の人口131万人にあわせ、京都を照らす灯台をイメージした、高さ131メートルのタワー建設の計画が持ち上がる。当然のことながら景観を損ねるとする反対派と、近代建築で新たな観光客を呼び寄せようとの魂胆に利権もからんだ賛成派とが対立した。

しかし、土台の9階建てビルは31メートルの建築物だが、その上のコンクリート製100メートルのタワーは工作物だとの詭弁を弄して完成させてしまった。

JR京都駅北側に降り立った人は目の前の古都京都には相応しくない白い異様なタワーに驚かされる。

フランス・パリには”エッフェル塔”があるじゃないかという人もいるが、1889(明治22)年のパリ万博にあわせて高くて堅牢な鉄鋼のPRを目的にしたものである。

昭和30年以降になって目新しくもないコンクリートを自慢しても価値はない。日本最初のコンクリート製の橋が明治時代に造られ、京都・山科疏水に現存している。

平成19(2007)年に新たな厳しい京都市新景観条例を制定し、建物の高さ31メートル、世界遺産周辺は10メートルに制限し、建物のデザイン、広告看板の規制も厳しくした。

将来は電柱・電線を地下に埋める計画もある、とのこと。そんな夢のようなことは誰も信じない。”京都タワー”を今更倒すはずもない。

時すでに遅しで、京都が世界都市遺産に推挙されることはありえない。ライトアップされた不気味に聳える”京都タワー”を視る度に腹立たしい思いがする。(完)

2017年01月21日

◆高齢者の運転講習 

渡邊 好造



運転免許更新のため高齢者講習を受けた。”講習予備検査・認知機能検査”という。70歳を超えると無事故無違反ゴールド免許でも、3年毎に更新しなければならない。

受講は最寄りの自動車教習所に電話で申し込み予約する。所定の日午前9時集合の15分前には受講者6名が全員集合し控室で待っていた。隣合わせの人から「何処からいらっしゃいました、普段何をしておられますか、講習料6千円は高いですね」などと話しかけられ、「この教習所に近い接骨医に毎日通い、腰の治療を受けています」といったたわいのない話をしているうちに講習が始まった。話し相手の人は別グループとなりその後顔を合わせることはなかった。

記憶力・反応力のテスト、運転実習まできっちり3時間を要し、改めて何かにつけて衰えているのを実感させられた。老人事故は最近増えているという。アクセルとブレーキの踏み間違いでコンビニに突っ込んだり、屋上の駐車場から落ちたり、高速道路の逆走など。

現にこの講習中でも同乗した受講者の一人は、試験場とはいえ信号が赤でもお構いなし、脱輪、車庫のポールに当たる、指示器は出さない、終わってもサイドブレーキは掛けないなど無茶苦茶な人もいた。

それでも合格、わが身もこのまま運転を続けるかどうか、どこかでケジメが必要だと感じた次第。

その3日後、常診の接骨医に行き診察カードを提出すると、受付の女性が「最近、自動車教習所に行かれましたか」と聞いてきた。「やはりあなたでしたか。隣合わせだったのは私の父なんです」と言うではないか。名乗ったわけでもないし、接骨医なら周辺にいくらでもある。私の話の受け答えや態度、特徴のある杖とカバンを持っていたのが印象的だったようで、その人は何気なくその日の様子を家族に話したらしい。

それを聞いた彼女はすぐに気付いという。なにしろ昨年12月からこの7月までほぼ毎日通院していたのだから、印象的だったのだろう。偶然とはいえ出会いとは面白いものだと思った。

ところで、18〜30歳前後の若い人の交通事故も目立つ。未成年の無免許・居眠り運転による死傷事故、30歳男の暴走死傷事故、定員5人なのに7人も乗った若者の転落死傷事故など、、。なかでも京都祇園の事故は、私の隣家のご主人が経営する老舗・京小物専門店(創業慶応元年=1865年)の店先であっただけに特に印象深い。

高齢者の特別講習もさりながら、彼らのように車の危険さを分っていない25歳までの連中にも2年周期、さらに30歳までは高齢者と同じ3年周期で、講習を受けさせる必要があるのではないか。

暴論覚悟でいうのだが、20歳前後の若者だけの男女4〜5人の死亡事故がよくある(深夜に多い)。よくぞ誰も巻き添えにせず死んでくれたと思う。こんな連中がもしこのまま生きていたら、関係のない多くの他人を死に追いやるもっと大きな事故を起こすに違いない、とそんな想像をしてしまうからである(完)

2017年01月11日

◆こんな事、考えてみたら?

渡邊 好造



世間で常識になっていることで、ちょっと視点を変え、こんな事は考えられないか。

1)毎年2回開催される全国高校野球大会だが、常連校がズラリと並びそれも、私立校ばかり。入学エリアの規制された公立高校は出場しても騒がれるだけで終り。本年夏出場し3戦目に敗れた滋賀県立北大津高校は例外。

 そこで、私立と公立の高校で別々の大会を開催し(公立は両方出場可)、最後は私公立の各大会優勝校でプロ野球の日本シリーズのように7試合で戦う。私公立上位各3チーム、6チームのクライマックスシリーズ式混戦対戦もいい。これなら間違って公立校が優勝することもあるし、ひょっとして公立同士の決勝戦ということも、、。
 
2)公営カジノ開設論が盛んである。東京と大阪の両知事がとくに熱心でそのための法改正の準備が進められているとか。すでに競馬、競輪、競艇など公営バクチがあり、そこにカジノが付け加わる。おかげで国は儲かり税金は多少安くなる。

しかし、これまでバクチで身を持ち崩した人間がどれだけいるか、それを考えるとカジノ開設は素直に賛成できない。

 そこで、日本人の参加できない外人専用(そんな国もある)のカジノにしてはどうか。日本人は儲かっている振りをして客を刺激する訓練されたサクラ、または接待員として起用し、販売促進と職にあぶれた人の雇用開発につなげる。

3)海外旅行、山登りなどでの事故が多発し、その遭難者は老齢者が多い。過日、救助活動のヘリコプタ-が墜落して救助隊員5名が亡くなった。その度に多額の税金が使われる。
 
海外旅行や山登りは免許制にして、年齢制限を設けたらどうか。

例えば、海外旅行には65歳以下、1千メ-トルを超える山登りには50歳以下の制限を設け、年齢制限オ-バ-の人にはそれぞれ供託金百万円位を出させ、5年毎更新の免許証を発行する。発行時や更新時には簡単な運動能力テストを行う。ル-ル違反があれば供託金没収、経費実費徴収。
 
事故なしで免許証返上なら返金すればいい。もし無免許で事故をおこすと、本人に経費全額負担と罰金(5百万円位)や懲役を科す。本人死亡の場合は家族に払わせる。

4)改正貸金業法の完全施行が行われている。金利20%以下、融資は年収の3分の1以下(要証明書、収入のない主婦は夫の要了解)などの規制を課し、違反した業者には罰則がある。
 
ということで借金できなくなった難民が増えつつある。もちろん多重債務者保護が目的でそれなりの効果は期待されるが、こんなことでは焼け石に水である。
 
多重債務は博打、パチンコ、おさわり、盗撮、万引きなどと同じく、通常の人間からすれば「何故あの人があんな事を、、」と考えたくなる一種の病気なのである。

これまで本誌で何度も言ったが、多重債務病は収入に関係なく借金してしまう、自己破産して債務ゼロになってもダメ、まして金利を下げたくらいでは効果はない。ヤミ金業者を喜ばすだけのこと。
 
電話相談受付なんて暢気なことでなく、「多重債務者教育病院」を設立し収容するべし」である。アメリカで設立されているという多重債務者専門病院の根性たたきなおし治療プログラムを早急に研究する必要がある。

5)111歳の最高齢と思われていた男性が30年前に亡くなっていたということを想い出した。役所の人が訪問しても「本人が会いたくないと言っている」ということで確認できなない理由が多いようだ。

百歳を超えれば失礼ながら年齢など同じに見えるから、別人が名乗り出ても判別不能である。全国に百歳以上の行方不明者が続出し、年金の不正受給も増えている。
 
そこで百歳を超えた人、いや年金受給開始時から指紋押捺を義務づけてはどうか。本人または代理人に指定の書類に毎年指紋押捺させ、登録された本人のものかどうか照合する。指紋押捺しない人、指紋が一致しない人、個人情報保護なんてゴチャゴチャ言う人には年金ストップ、死亡宣告、住民登録抹消を通知する。
どうだろうか。       (完)

2017年01月02日

◆山科だより 豊川稲荷社へ初詣

渡邊 好造



毎年1月1日は”豊川稲荷社”への初詣が恒例である。

家族の健康と幸せを祈願し、鈴のついた守り札を購入し、無料の甘酒を頂戴する。筆者自宅の「京都市山科区からはるか距離の離れた愛知県豊川市まで出かけるのか」と勘違いして驚かれる人がいるかもしれない。

この豊川稲荷社は、歩いて3分、2百メ-トルの近さの山科疎水沿いにある。国指定の重要文化財、幅1メ-トルほど、ア-チ型コンクリ-ト製の山の谷橋(黒岩橋)を渡ればすぐ、”無量山・曹洞宗・永興寺(むりょうざん・そうとうしゅう・ようこうじ)”と同居している。

正式名は”山科豊川稲荷社”で、正月3ヶ日を過ぎるとヒッソリとしてひと気はない。奥まったところに墓地があるのでお盆や彼岸の日には墓参りの人は来るものの、それでも寺や稲荷の関係者はまず見かけない。

住所は"永興寺内"とあり間借りの形になってはいるが、稲荷の方が鮮やかな朱色の鳥居や何本もの赤いのぼりのせいもありより目立っている。

守り札に添付された略縁起によると、「愛知県豊川稲荷社の分霊で、”豊川ダキ尼真天(トヨカワダキニシンテン)”をおまつりしています。この善神は女神様で妙相端麗にて稲穂を荷い宝珠を掲げられて白狐にまたがる御姿をしておられます。

この女神様は、福徳の神・開運隆盛の神・興産の神、すなわち生産の神様として古来より人々に広くあがめられ、信仰されてまいりました」。そして、「ダキ尼真天は、サンスクリット語(古代インド語)の魔女を意味するダ-キニ-が仏のおかげで改心した善神」とあり、まさに神社・神道の位置付けである。

ところが、愛知県豊川市にある本体の豊川稲荷社は、”円福山・豊川閣・妙厳寺(えんぷくざん・ほうせんかく・みょうごんじ)”なる曹洞宗の仏教寺院で、嘉吉元(1441)年に開創されている。その分霊だから山科豊川稲荷社も当然ながら神様でなく永興寺と同じ曹洞宗の仏様だったのである。

永興寺は曹洞宗開祖・道元禅師の弟子が建長6(1254)年に永興庵を開いたことに始まり、豊川稲荷社よりも歴史は古い。2つの寺院は、他宗派を排除しようとする比叡山延暦寺により京都中を追立てられて転々としたという。

山科区御陵大岩の現地に落着いたのは大正8(1919)年で、東山区円山公園音楽堂のある辺りから移転してきた。

「今川義元、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らの武将が豊川稲荷社に武運長久を祈願した」との略縁起の記載にもあり、16〜17世紀の戦国時代から既にかなりの信徒がいたということである。

古来より土着の信仰と仏教信仰を折衷した神仏習合思想があり、神社に付属して"神宮寺"なる寺院が全国に建てられ、その後分離あるいはどちらかに統合されたりした。曹洞宗の寺院に統合されながら、表向きの名称は豊川稲荷社、実体は妙厳寺として残ったきわめて珍しい例である。

曹洞宗・豊川稲荷社は、明治維新の神仏分離、廃仏毀釈をくぐり抜けたものの、神道を国教にして戦意高揚に利用した明治維新以後の天皇制国家の施策もあって、名称と外見上は神道に見せかける方が運用上、経営上も好都合だったらしい。

先祖代々仏教徒でありながら今でも神棚を祀り毎朝かしわ手を打つ人がいるのも明治から大正、昭和、第2次大戦までの名残りであろう。
 
我家の宗派は浄土真宗(東本願寺)で、大津市から十数年前に移転してきた山科区には"本願寺山科別院東御坊・長福寺"がすぐ近くにある。しかし、親の代からの習慣で初詣といえば神社であり、お寺に行こうとは考えもしなかった。

毎年1月1日に神様だと思って初詣してきた山科豊川稲荷社が、実は曹洞宗の仏様だと言われるとさすがに戸惑ってしまう。本誌”山科だより”を手がけていなければ未だに気づかないところだった。(完)
 

 

2016年12月27日

◆新聞の責任

渡邊 好造


大学在学中の約60年ほど前のことだが、M新聞記者を永年経験された方の週1回1時間半の4回集中講義「新聞学」を受講したことがある。

その講義の評価は、論文提出であった。

テーマは「新聞の責任」で、中味は自由。後で分ったことだが自分の意見が述べられていれば、たった一行だけでも優良可の最高合格点”優”が与えられた。

この時筆者が提出したのは、「記事は客観的に記述するのが新聞の責任」であった。

記事の書き方に、記者個人の考えへ誘導しようとするかのような書き方は気に入らない、といった内容である。

例えば記事のこんな結びの書き方―。

 1) 今後各方面の批判を呼びそうだ。
 2) この件論議を巻き起こすに違いない。
 3) といった狙いがある、との見方がある。
 4) 今後を占う意味で注目される事態だ。
 5) といった点は当事者にとって最大の難問になる。
 6) この結果は今後の行方にも影響しそうだ。
 7) より一層の責任が問われる。
 8) といった声が多く、このままだと一波乱ありそうだ。
 9) など事態の悪化は避けられそうにない。
10) 予想以上に厳しい状況に追い込まれている。

といった表現の仕方だ。

客観性がなく、なんの根拠も示さずにまるで、世論がその方向に向かっているかのような記事の結び方はケシカラン、という他はない。

改めて50年前のことを思い出しながら最近の新聞を読んでみると、今もこうした表現の仕方は変っていないことに気づかされる。

1)〜10)のような見解には根拠が必要なのに、どう読んでも記者個人の意見なのではないかと思わせる場合がある。

社会面や経済面でも散見するが、納得のいかないケースは政治面に多い。

こうした気になる記事の書き方は未だに残っていて、上から目線で読者を馬鹿にしているように感じる。

新聞は週刊誌の視点と同じであってはならない。

当り前のことだが、記事内容は客観的な論拠を示すことが肝要で、もし記者個人の意見を述べ、世論を誘導したいなら氏名を明記したそれなりのコーナーを設けるか、”社説”として掲載すべきではないか。(完)

2016年12月20日

◆「赤穂浪士や龍馬の人気」

渡邊 好造


以前のNHKテレビの大河ドラマ”坂本龍馬”が大好評であったことを、ふと想い出した。

龍馬がなぜこんなに人気があるのか。そこには赤穂浪士の人気と共通するものがあるように思う。大衆芸能で人気を博し、「英雄」となる人物には およそ下記の4つの共通の条件が備わっているのではないだろうか。
                                            
1)逆境に陥る。
2)人から侮られる。
3)努力して大成功を収める。
4)悲劇的最後をとげる。

赤穂藩主の浅野内匠頭が江戸城中で吉良上野介に切りかかり、即日切腹させられ、藩は取り潰し。大石内蔵助を初めとする藩士47人が吉良への仇討を果たす物語が”赤穂義士伝”である。

周知のように、製塩で裕福であった藩の家老大石は、主君の不始末で、生活はたちまち暗転。仇討をするのかしないのかグズグズと日時が経過し、昼行灯とまで揶揄され侮られたが、その後仇討を無事達成し一躍英雄となった。

しかし全員死罪の悲劇的最後を遂げる。まさにこの4条件にピッタリである。

もし、義挙だから救済するべしとの世評通り47人が赦免になって生きながらえていたら、彼らを称える毎年の赤穂、山科での「義士祭」は行われていないに違いない。

坂本龍馬は、土佐藩の下級武士の出で、脱藩して薩長同盟に尽力、海援隊の隊長として活躍したのち大政奉還に寄与するも、慶応3(1867)年刺客に襲われ明治政府の実現直前で死去。

同じように、この4つの条件に合致する大衆受けのする「英雄」を拾うと、

源義経は平家に預かりの身で苦労を重ねた後、不運な境遇から抜け出し平家壊滅の端緒をつくる大功績をあげた。しかし、兄頼朝の不興をかって奥州平泉で滅ぼされる。

豊臣秀吉は、織田信長の家来としてサルと馬鹿にされながらも人一倍の努力を重ねて這い上がり天下を取るに至るが、わが子秀頼は母淀君とともに徳川家康にしてやられる。

織田信長も英雄の一人にあげることができる。”ウツケモノ”として侮られ、その後天下統一の一歩手前で明智光秀の謀反で挫折し、自害する。ただ織田家を継ぐまでにこれといった逆境に陥ってはいないのでやや条件に欠ける。

新撰組の近藤勇、土方歳三は剣の腕前はすごいものを持っていたがもともとの身分が低く、中心人物になって組織をつくりあげるまでにはかなりの苦労を重ねたらしい。最後はともに若くして打ち首と戦死の運命をたどる。

いずれの人物もNHK大河ドラマに登場する「大英雄」である。

反対に、源頼朝、徳川家康らは天下を取ったものの、頼朝は非情な兄であり、家康は腹に一物のタヌキ親父、桂小五郎(木戸考允)も功績はあるが殺されもせず、3人とも最後は大往生をとげているから、英雄の資格に欠ける。その意味では秀吉は病死であり条件にそぐわない面もあるが、次代での悲劇が待っていた。

もちろん、これらの筋立てはいずれも江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃作家が客うけするストーリーにしたり、あるいは明治政府を正当化するために創りあげられたものであったりで、史実とは異なる部分が多いことは言うまでもない。

坂本龍馬に至っては、一説によると梅毒に侵され、斬殺されていなくてもそんなに長くは生きられなかったともいわれている。梅毒で死んだ坂本龍馬だと大衆芸能で人気を得るはずがない。もちろん、NHK大河ドラマに登場することも、銅像が建てられることもなかったに違いない。(完)




2016年12月09日

◆日本語をなぜ“片仮名文字”にする

渡邊 好造



わが国には漢字という折角の表意文字があるのに、いつのまにか聞いたこともない英語、仏語などをもとにした片仮名文字に変えてしまう。

それで、意味不明にしたり、都合のよい解釈をする。いかにも目新しく、恰好よく見せかけているだけではないか。ちょっと拾ってみるだけでも腹がたつ。

 [片仮名文字=日本語なら⇒本当の裏の意味]

1)カジノ=博打場、とばく場⇒堂々とてら銭をとる公共の超法規的賭場施   設。もうすぐ日本にも。
2) シェフ=優秀調理士⇒板前、板長、料理人、包丁頭なら目の前で調理して くれる。シェフは命令するだけ。
3)タレント=芸人⇒ただのお笑い芸人なのになんでも完全にこなす能力が ありそうで、照れず厚かましい。
4)コンシェルジェ=ホテルの接客責任者⇒客がどんな悪辣なことを言った  り、したりしても我慢できる接客係。
5)ファイナンス=金貸し⇒利息も安く、簡単に貸してくれ、取立ても厳しく ない善意の金融業者。

6)コンプライアンス=規定・法律を遵守した行動⇒規定・法律の抜け道をど  こに見つけるかが秘訣。
7) マニフェスト=公約⇒公に約束はするが、後で訂正自由。最近の貼り薬”膏薬”は剥れないのに。
8)アジェンダ=政策課題⇒期限がなく実行希望の政策。後で間違いなく"唖  然とする"。
9)タトウ-=刺青⇒やくざのいれる全身のモンモンとは違い、体の一部に化  粧するような軽い感覚。
10)エッセイ=随筆⇒タレントが「エッセイ書きました」は、起承転結のな い日記、手紙、メモなどの駄文が多い。

11)コラボレ-シヨン=協同競演作業⇒過去の栄光をひきずる者同士の再生 競演策。
12)レシピ=調理法⇒美味そうに感じさせる秘密の調理法。美味くない時の  表現”この味は玄人好みですね”
13)パフォ-マンス=表現、才能、処理能力⇒派手な言動、ごまかし、でた らめ演技。
14)リベンジ=雪辱する⇒仇討ち、復讐、返り討ち、闇討ち、暗殺。
15)ホ-ムレス=住む家のない哀れな人⇒道路や公園を不法に占拠する同情   の余地のない浮浪者、乞食。

16)バッシング=たたく、攻撃⇒高収入、好待遇に見合う行動、成果をあげ  ないとやっかみで眼の敵にされる。
17)パテシエ=製菓技術者⇒砂糖とクリ-ムをたっぷり使い、高血圧や糖尿病  を忘れさせてくれる菓子職人。
18)ボランテイア=時間と能力の無償提供奉仕⇒作業量に見合った経費のい  らない、善意に期待した労働。
19)アドバイサ-=助言者⇒野球賭博や脱税など楽して儲かることを教えてく  れる人。
20)バックパッカ-=リュックサックを背負う旅人⇒金のない貧乏のふりを  して、安上がりの旅行をする人。

21)リーズナブル=価格が手ごろなさま⇒品質が良く、より安いのを手ごろ  というが、、。つい騙されやすい価格。
22)キャンペーン=企業・団体の目的をもった宣伝活動⇒消費者のためとみ  せかけて、自社の販売拡大が狙い。
23)アウトソ-シング=外部発注⇒下請け会社に無理やり安く発注し、資金  が少なくてすむ経営方法。
24)アシスタント=助手⇒安い給料で便利にこき使える我慢強い見習い人  で、「今にみておれ」と歯噛みしている。
25)エコカ-=燃料節約車⇒燃費が安いといわれる高級車で、税金で補填して  くれるのでよく売れる車。

26)コメンテ-タ-=解説者⇒聞かれたことの3倍以上にしゃべりまくること  の出来る人。「、、そうすね」は失格。
27)カリスマ=教祖⇒一見すると能力ある風で、他人と違うことをする目立  ちたがりの超変人。
28)コンテンツ=内容物、中味⇒内容のない、中味のないものでもなんとな  く見たくさせる。
29)セレブリテイ=話題の人 、有名人⇒親の莫大な遺産を相続しただけ   で、実力があるとは限らない。
30)モラトリアム=(融資金返済)一時停止⇒単なる一時停止なのに、「も  う取らぬ」と全額返済不要と錯覚させる。

ハングル文字に統一した韓国では、漢字の自分の名前が読めない人が現れたという。中国の物まね商品、商標権侵害を非難したら「日本は漢字を盗んだ」と開き直った。その大事な漢字を略字にしてしまう中国は変な国だ。

片仮名文字はこれからも増え続ける。以上、日本語で”ボヤキ”。(完)