2016年09月16日

◆山科だより・日本初の産業用水力発電所

渡邊 好造



山科区にある京都市最大の施設は、”琵琶湖疎水(山科疎水)”である。

明治維新後、首都が東京に移ったことで人口の3分の1が流出し、このままだと京都は沈没するのではないか、そんな危機感もあって産業振興の狙いから手がけられたのが琵琶湖の水をひく疎水建設で、京都のあせりが生み出した産物といえる。

疎水は滋賀県大津市の観音寺、三井寺辺りを基点にして山科区北部の山の斜面に沿って、左京区蹴上までの約11キロメートルにわたる水路である。

明治18年(1885年)に日本人技師のみで着工した最初の大工事で110年前の明治23年(1890年)に完成した。日本初の"産業用"水力発電所建設が最大目的で、これにより蹴上発電所が翌明治24年(1891年)に稼動(現在も無人で運転中)、明治28年(1895年)この電力により国内初の市電が京都市内で運行された。

なお、最初の水力発電所は明治21年(1888年)の仙台市三居沢(さんきょざわ)発電所で、国指定有形文化財として今も残されている。

疎水建設の当初予算は60万円だったのが、明治政府の意向もあって、最終的には125万円に倍化され、当時の京都府年間予算の2倍に相当した(資料・京都市上下水道局)。

使用したレンガは1370万個、地下鉄・御陵駅の近くにレンガ工場跡の記念碑がある。現在の水路は、何回もセメントを吹付けて改修されているので、表面にレンガはない。

疎水は、大津・京都間の船による輸送手段としても活用され、昭和23年(1948年)まで利用された。そうした船便の名残りが、”蹴上インクライン(台車を使って船を引張り上げる線路)”の遺跡である。疎水は山科日ノ岡までの傾斜は緩いが、ここから蹴上へは急な下り坂となるので、このインクラインが利用された。

また、疎水の水路北側に沿って、上水用として第2疎水建設工事が明治41年(1908年)に着工され、明治45年(1912年)に完成した。こちらは全て暗渠となっているため山科の住民でも知らない人が多い。

筆者宅から疎水までの距離は約100メートル。ちょうどそこには3つ目の疎水トンネル(トンネルは全部で4つ)の入口があり、明治時代の政治家・井上 馨の揮豪による偏額(門戸等に掲げる横に長い額)が、当時のまま埋めこんである。

偏額には『仁呂山悦智為水歓』(じんはやまをもってよろこび ちはみずのためによろこぶ = 仁者は動かない山によろこび 智者は流れゆく水によろこぶ)の8文字が彫られている。京都あげての力の入れようが、ここにも残る。
 
京都はお寺中心の古都の印象が強いが、明治維新後は産業面でなんとか振興をはかろうと、日本の最先端技術を駆使して走り始めていた。
 
疎水に関しては、平成元年(1989年)8月に完成した左京区「琵琶湖疎水記念館」(地下鉄東西線・蹴上駅下車)に詳しい。
 
ところで、京都市左京区の南禅寺境内には、ヨーロッパ遺跡に似た赤レンガ造りの「水路閣」(疎水の水をひく水道橋)が残されているが、建設当時は京都の景観を損ねるとして大反対運動が展開されたらしい。

そんな反対運動の心意気が在ったのなら、何故あの悪名高い「京都タワー」建設時(昭和39年=1964年)にどうして発揮されなかったのだろうか。当時の京都市の人口131万人にあわせて高さ131メートルの灯台を模したコンクリート・タワーが古都京都にふさわしいと考えた連中がいたとは、とても解せない。

京都市は新景観条例を制定し、建物の高さ(最高31メートル)や看板の色・デザインを規制強化し、将来は市電の復活、電線電柱の地下化を目指す、といった百年河清を待つような方針が今頃になって出始めている。

NHK京都放送局のTVニュース番組の放送終了時、京都市内の夜景の画面中央にライトアップされた不釣合いな京都タワーが突き出しているのをみるたびに腹立たしい思いにさせられる。(完)



2016年09月10日

◆山科だより「"ゴミ虫""オサ虫"、"セミ"」

渡邊 好造 


山科疎水道で採集された昆虫標本として、甲虫目(鞘肢目)オサ虫科の"ゴミ虫"と、"オサ虫"、それにカメ虫目セミ科の"セミ"を紹介したい。

オサ虫科は、別称・歩行虫科といわれるように飛べない種類で、通常4枚ある羽根のうち2枚の内羽根が退化している。その代り6本の脚は発達し歩行スピードは早い。他種の幼虫や腐肉などを食べる肉食系である。

"ゴミ虫"は、日本では1千種近くいるといわれ、以前は住宅地の溝などにもたくさん生息していたが、道路舗装が行届いたこともあり少なくなった(写真では15種類)。

とくによく知られていたのは「ミイデラゴミ虫」で、体長は2センチ位、捕えるとお尻から刺激臭の強いガスを噴射し、体全体が黄色で(ガスも黄色)黒い斑点がある。山科では未だ見かけない。俗には「ヘコキ虫」とか「ヘッピリ虫」ともいった。

"オサ虫"は、夏の活動期、落葉の下などに単独で潜んでいる夜行性で、寒くなると土中で集団越冬する。日本では20種余りと少ない。
 
効率よく採集するには2つの方法がある。肉食なので腐肉などをいれた広口ビンを土中に埋め、匂いにつられて落込み上がれなったのを採る、土が凍結する前の11月頃に鍬で山道の土手の土を掘り越冬場所を探リ当てて採る、などである。

鉄腕アトムの漫画で有名な「手塚治虫」は虫好きが高じて、本名「治(おさむ)」を"オサ虫"にちなんでペンネームを本名と同じ読みで「治虫」とした。

セミ科の"セミ"は、水生昆虫の"タガメ"、"アメンボ"と同類のカメ虫目で口器が細長く硬いのが共通点である。"セミ"は木の幹に産みつけられた卵から成虫になるまで土中生活に3〜17年以上かかる長命で、土中から這い出し成虫で約1ヶ月生存する。地上に出て1週間で死ぬと言われたこともあるが、成虫を人工飼育するのが難しいための誤解らしい。

鳴いているのは雄で行動は素早く、雌は比較的簡単に採れる。よく知られた種類は、「ニイニイゼミ」、「クマゼミ」(もともと本州西に生息する種類だが最近は東京でも増えた)、「アブラゼミ」、さらに「ツクツクボウシ」であろう。真ん中最下段は羽化前の姿(多分「アブラゼミ」)である。

なお、"セミ"の属するカメ虫科の主流"カメ虫"(形が亀の甲羅に似ている)は、触ると強烈に嫌な臭いを発し、手、体はもちろん家の中だと部屋中に臭いが付着してしばらく消えない。色が毒々しいだけで臭くないのもいるが、筆者のような虫好きでも採る気はしない。

"セミ"を食べるのは日本では沖縄だけ、中国、東南アジア、アメリカでは煮付け、から揚げ、炒め物にする。筆者は"イナゴ"や"トンボ"を食べたことがあり、同じような味なら美味いに違いない。

アメリカには13年、17年かけて成虫になる"13年セミ"と"17年セミ"がいる。13と17の数字から"素数セミ"というのが総称で、"13年セミ"(南部中心)には4種類、"17年セミ"(北部中心)には3種類がいてその7種類はそれぞれ発生エリア、発生年度が異なるらしい。

したがって、13年と17年の間に"セミ"のまったく発生しない年があるわけではない。

ところが他の種も含めて大量発生する年があり、多い年は全米で合計60〜70億匹の"セミ"がウヨウヨ、百メートル四方に40万匹という。これだけ周りにいて鳴き出したらうるさくて堪らないが、いっそ食べてやれという気になるか、気持ち悪くなるかのどちらだろうか。一度ぜひ見てみたい。

日本の"セミ"は20種ほど確認されていて、写真の標本箱には7種収められている。"セミ"の生存種数からみても山科疎水道の自然は一杯である。(完)

2016年07月20日

◆「犬について理解出来ないこと」

渡邊 好造



京都山科の疎水にそって造られているのは幅2メートルの3,3キロにわたるウオ-キングとジョギング用の歩道である。そして犬の散歩道としても最適のコ-スで、犬好きの人にとっては恰好の社交場でもあり、犬連れ同士の会話はじつに楽しげである。

しかし、犬を飼ったことがない者にとっては、犬好きの人の犬に対する気持ち、態度、習慣で理解出来ないことが数多い。本誌では、犬に対する愛情あふれた文章を見てきたが、今回敢えて逆らわせていただく。

1)犬にシャネルの服を着せている。本物なら犬とどちらが高価。
2)車の後部窓に貼付されたシール「dog in car」。後続車はどうする。
3)犬に手綱を強く引っ張られている。飼い始め時になぜ躾ない。
4)手綱を犬の動きにあわせて巻尺のように伸びるようにしている。手綱を考えた人 、利用する人のどちらも悪い。

5)「うちの子は、、、」と、犬のことを自分の子供のようにいう。
6)犬とベッドで添い寝する。
7)「銀のさら」なるブランドの”回転寿司屋”と”犬のえさ”がともに競争でテレビ広告。寿司に違和感あり、、。

8)犬と一緒に食べる”おせち料理”の販売。どちらの好みに合わせる。
9)犬の散歩中に喋り続ける飼い主。
10)「犬は人間の子のように不良少年にならない」と自慢する。
11)吠え続ける犬。「いつも可愛い声で鳴いてますでしょ」。

12)「うちの犬は怖い顔して吠えますが、外には出ませんし噛み付いたりもしません」。
13)我が家の道路前を通過する車、人、動物に対して24時間吠え続ける大型犬。
14)犬のエサがおいしいかどうか試食して、一食代浮かせるアルバイト。食べる気がしない。
15)介護、介助犬は、法律で去勢または避妊の義務あり。可愛そうに、、。

16)腕にモンモンをいれたいかにもその筋の若い兄ちゃんが、犬の墓の前でオイオイと泣いていた。
17)犬の寿命のギネス記録は21年、平均10〜15年。飼い主は生涯数回泣くことになる。
18)犬の葬儀屋がある。墓より高価なのもあるらしい。

19)犬の販売店で売れ残って成長したのはどうするのだろう。
20)犬を可愛がる人がいる一方で捨てる人があとを絶たないらしい。年に犬10数万匹が保健所経由で殺処分とか。

補)"犬好きの人はこんな事考えないのかな〜"と言ったら、「君は犬を番犬にしかみていない」と友人に怒られた。犬好きの人ごめんなさい。(完)

2016年07月16日

◆「生きる」よりも「活きる」を選ぶ

渡邊 好造



新聞の有名人の死亡記事をみると、死因とともについ目をひくのはその年齢である。わが身に比べて長生きされたかどうか気になるのは筆者だけだろうか。

最近、死を迎えるのは80%以上が病院だそうである。今では昔のように自宅であらゆる手を尽くした後残念な結果になることはまずないといってよい。それも数年前までは、患者が例え意識を失い眠った状態でも血管から点滴で栄養分を送り、かなりの期間生きながらえることができた。

しかし、これにも限界があり血管が詰まったり、どうしても栄養分が足りなくなりいつまでも生きながらえるという訳にはいかなかった。

そこに今度は「胃ろう(胃瘻)」という新しい治療法が開発された。この治療法は、小説家・渡辺淳一氏の週刊誌連載エッセイでも取上げておられたが、意識のなくなった患者の胃に栄養分タップリの流動食を直接送り込む。したがって、意識はなくとも患者は延々と長生きできることになる。筆者かかりつけの内科医によると、「やってみますか」と勧める病院も増えているという。

点滴だったら精々3〜4年が限界だったのが、それ以上に症状が変らないまま長生きできるらしい。医学上目覚ましい進歩には違いない。患者の家族にとって大喜びのこともあろうが、当然のことだが治療費は計り知れない。

かといって途中で「胃ろう」を打ち切ってくれとは言えない。それを言うと”もう殺してくれ”となり、殺人罪に問われかねない。これではもはや”生き”ているだけで、”活き”ているのでは決してない。筆者は「生きる」よりも「活きる」方を選びたい。

そこでこんな迷惑な結果にならないよう次のような遺言書を残すことにした。もちろん異論があることは覚悟の上だし、本人死後のことだから守られなくともやむを得ない。

1)病気・事故などにより脳死状態、認知症などで通常の判断ができない、その他回復不能の病気にかかった場合、余分な延命処置、治療は一切不要のこと。とくに「胃ろう」だけは絶対ご免である。
2)死体処理は、法律上必要なことのみに限る。
3)寺、僧侶に関わる費用は使わない。葬儀、読経、戒名、祭壇など不要。焼場直行の直葬も可。(戒名がないと「三途の川」を渡れないと真剣にいう人がいた、、)

念のために申し添えるが、金が惜しくて言うのではない。死者も含めて既に死んだも同然の人に金を使うべきではなく、金は”活きている人”にこそ使うべきなのである。(再掲)

2016年06月29日

◆山科だより 「山科区民誇りの木」

渡邊 好造
 


"文化財保護法"に守られ国指定の特別天然記念物の樹木は全国で29件(植物としては阿寒湖マリモを含め30件)、羽黒山のスギ並木、奈良春日山の原生林、鹿児島屋久島スギ原生林などなどである。


京都には国指定はなく京都市指定の天然記念物樹木としては、一休さんで有名な大徳寺の樹齢350年の"イブキ"、金閣寺で知られる鹿苑寺の同330年の"イチイガシ"など26種がある。山科に京都市指定天然記念物の樹木はない。


京都市では平成7(1995)年に"京都市緑化の推進及び緑の保全に関する条例"を制定し、良好な都市環境を目指して京都市建設局緑政課の所管で”保存樹”を指定した。そのうち4種4本は山科区にある。
 

・崋山寺<北花山河原町33>=ケヤキ。
 ・音羽前出町=ソメイヨシノ。
 ・若宮八幡宮<音羽森廻り町36>=カツラ。
 ・小野葛篭尻町=カヤ。


さらに京都市は、平成6〜7(1994〜95)年に"市立学校・幼稚園名木百選"を指定した。そのうち山 科区には8種9本がある。いずれも見応えのある立派な木である。
 

 ・山階小学校<西野大手先町21>=クスノキ、イチョウ、ソメイヨシノ、プラタナス、シダレヤナギ。
 ・音羽小学校<音羽森廻り町32>=エノキ、ソメイヨシノ。
 ・山科中学校<東野八反畑町50−1>=ムクノキ。
 ・勧修小学校<勧修寺東栗栖野町42>=クスノキ。

山科区としてはヨリ以上立派な木がある、とばかりに平成13(2001)年山科区民が推薦し、専門家ともども選んだのが”区民誇りの木”70本である。この中には”保存樹”と”名木”の11種13本も含まれ、それに24種57本を付加えた。それぞれ立札が立てられている。(参考・山科区役所資料)


 “区民誇りの木”のうち筆者にとって耳慣れない名前の木、4種4本を拾ってみた。
 ・安祥寺川=モミジバフウ(マンサク科、別名アメリカフウ、落葉高木、成長が早い)。
 ・厨子奥尾上町=センペルセコイヤ(スギ科高木、アメリカ大陸西海岸海抜1千メ-トルで自生する)。
 ・西野山階町=ナナミノキ(モチノキ科高木、別名ナナメノキ、赤い実がなる)。
 ・山科総合庁舎<椥辻池尻町14−2>=ナギ(マキ科高木、実からとった油を石灯篭の灯に使った)。


ナギの木の所在を山科総合庁舎の職員に尋ねると、「現在は数メ-トルの高さだが昔は四方から見える20メ-トル位の巨木だった。常緑マキ科で原産地は台湾。椥辻(なぎつじ)の地名の由来でもある」などの解説つきで案内してもらった。


山科“区民誇りの木”を全部見ることはとてもできなかったが、この木が選ばれるならアレもコレもという気になった。筆者宅に近い所で保存樹に値するのは"イチョウ"(一燈園)や"シダレザクラ"(本圀寺)など、山科にはまだまだ見事な木が一杯ある。ただ、一本立ちの木では鳥や昆虫は集まらない。自然のままの雑木林もエリアとして保護の対象とするべきではないか。


一番多く選ばれたのは"ソメイヨシノ"の12本であるが、今この種は山科に限らず危機にあるといわれる。"ソメイヨシノ"は"ヤマザクラ"と違って花の見栄えを重視して接木などで改良を加えた人工種である。


樹齢40〜50年の接木の部分が弱点となり、強風で折れたり、倒れたりすることが頻発している。倒木被害を防ぐために役所の担当官が街路樹の"ソメイヨシノ"をカットしたら、事情を理解しない住民が自然破壊だとして非難していた。


こうした樹木の診断、治療、保護育成、保護に関する知識の普及、指導の専門家として”樹木医制度”がある。財団法人日本緑化センタ-が審査し、農水大臣が樹木医と認可するもので、平成3(1991)年にスタ-トし「日本樹木医会」のメンバ-は約2千名に達している。


樹木を文化財として認定するのもそれらを保護するのもこうした人達が陰で努力しているわけで、なにも知識のない役所の係官が勝手な判断で樹木を間引いているのではない。


 保護されている樹木に狙いを定めて山科を訪問するのも一興である。国指定の特別天然記念物の樹木は知っていても、その他数多くの保護されている樹木について知らない人は多い。(完)
 

2016年06月10日

◆京都「山科ゆかりの歌人」

渡邊 好造




”百人一首”など古来の和歌には、「山科」が数多く登場する。

”百人一首”は、鎌倉時代の歌人・藤原定家が100首を選んだ歌集のことで、京都小倉山で編纂されたので通称”小倉百人一首”ともいう。

主に古今集(平安時代)、新古今集(鎌倉時代)から選んでいる。"小倉"があるなら他にもあるのかとなるが、確かに"源氏""女房""後撰""武家"が頭につく”百人一首”もあるにはある。

その何れもが、制作年や編者が明確でなく、小倉で洩れた歌人を補っただけのものもあり、”百人一首”といえば"小倉"を指すとみてよい。今回の"山科だより"は、この”百人一首”に登場する「山科ゆかりの歌人」を紹介する。

山科の地名、駅名にも名前が残る有名歌人といえば「小野小町」である。"小野御霊町"にある”随心院(真言宗)”は、小野一族の邸宅跡に正暦2(991)年=平安時代=「僧・仁海」が創建した。「小野小町」は仁寿2(852)年=平安時代=に宮廷を辞した後、40年間当院内の遺跡”小町の井戸”辺りに住んでいたという。

「小野小町」が詠んだ和歌のうち、”百人一首”(原典・古今集=以下同じ)にとりあげられ、とくによく知られているのはこの一首で、境内に歌碑がある。

『花の色は移りにけりないたずらに 我が身世にふるながめせしまに』(桜の花の色はスッカリ褪せた。私の美しかった姿も衰えた。むなしく世を過ごし物思いにふけっている間に)。

"北花山河原町"の”元慶寺(天台宗)”は、「僧・遍昭」が貞観11(869)年=平安時代=に創建し、”百人一首”(古今集)に詠まれた彼の和歌の碑がある。

碑には『天津風雲の通ひ路吹きとぢよ をとめの姿しばしとどめむ』(空に吹く風よ、天への雲の通り道をふさいでしまってくれ。美しい舞姫の姿をもうしばらくの間ひきとめておきたいのだ)とある。


"四ノ宮泉水町"に天文19(1556)年=室町時代=に開創された”山科地蔵徳林庵(臨済宗)”には、町名の語源となる「四之宮人康」(さねやす=第54代仁明天皇第4皇子)と、歌人「蝉丸」(せみまる=正式呼称はせみまろ)の2人の供養塔がある。

両人とも平安時代(9世紀)に生きた歌人だが、「蝉丸」は"四ノ宮"から約2キロほど東の滋賀県大津市に入った峠"逢坂の関"に庵を構え、近くには”蝉丸神社”もある。なぜ山科に「蝉丸」の供養塔があるのか、「人康」との関係は、交流は、など明確ではない。その共通点は両人とも琵琶の名手であったことのようである。
 
 ”百人一首”(後撰集)にある「蝉丸」の歌、『これやこの行くも帰るも分かれては 知るも知らぬも逢坂の関』(ここから行く人帰る人、それを見送る人、知合いの人とそうでない人も、ここで出逢いを繰返す。これがこの逢坂の関なのだ)がよく知られている。

 ”百人一首”に登場する地名でもっとも多いのが"逢坂(の関)"("難波"と同数)で、行政エリアは滋賀県大津市だが京都市山科区との境界線上の峠である。

ついでながら、全国46都道府県のうち県庁所在都市がピッタリ接しているのは、この京都府京都市(山科区)と滋賀県大津市の他は、東北の山形県山形市と宮城県仙台市しかない。

「清少納言」(枕草子で知られる平安時代女流作家)は、”百人一首”(後拾遺集)で『夜をこめて鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ』(夜の明けないうちに鶏の鳴き真似をして、夜が明けたように見せかけた中国・函国関の故事まがいの騙しの手をつかっても、私とあなたの間にある関所は開けませんよ)と詠んでいる。

「三条右大臣藤原定方」(平安時代公家・歌人)は、”百人一首”(後撰和歌集)で悩ましく、意味深な歌を披露している。

『名にしおはば 逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな』(「逢坂山」だから"逢える"、「さ寝」だから"一緒に寝られる(さは接頭語)"、名前通りの「かづら=葛・つるくさ」ならそのツタを手繰り寄せると、人に知られずあなたの家で逢いそして一緒に寝る、そんなことが出来ればいいのに)。

”百人一首”に登場する「山科ゆかりの歌人」が詠む和歌には、平安・鎌倉貴族のなんとも優雅で、他に心配事はないのかと言いたくなるお気楽な宮廷生活が滲みでている。そんな宮廷生活を歴史書以上に現代に語り継いでいるのが、和歌なのだろう。(完)

2016年04月19日

◆昆虫マニアの到達点-"蛇の祟り"

渡邊 好造



サッカ-が日本中で大いに沸いている。古い話、筆者の高校時代のサッカ-は、野球、水泳、柔道、体操の人気には及ばなかった。

しかし、当時サッカ-が得意で6年前に亡くなった高校同級生Y.T君は、頭脳明晰、スポ-ツ万能、女子生徒からも憧れの的だった。大阪府大会で我が高校がサッカ-で準優勝したのは彼の功績で、コ-ナ-キックからの見事なヘデイングシュ-ト、鮮やかなドリブルをする姿は今も眼に焼きついている。

今回の稿は、何かと相談相手となってくれた亡きY.T君を偲ぶ気持ちと、シリ-ズ「昆虫標本」を読んだ友人からのこんな冷やかしメ-ルがあったことによる。「病気に縁のなかった君が最近絶好調でないのは、高校生物研究部時代の"蛇の祟り"ではないか。蛇は執念深いというからな。

昆虫マニアの筆者が、高校で所属していた生物研究部はいわゆる文化系クラブである。ところが、動植物採集のための駆け足登山、小川を10メ-トルほどせき止めて水を抜き、全身泥だらけになりながら魚、亀、蛇、水棲昆虫、水草などの生物をまる一日かけて研究用に根こそぎ確保し持帰るなど、こんなことで特に1年生の新入クラブ員はしごきまくられた。

筆者もそうした一連の洗礼を受け、運動系クラブのような体質を引継いだ。

サッカ-部の知名度、人気には追いつけないにせよ、せめて文化系クラブの中で存在価値を示すにはどうすればいいか。「君の得意とする昆虫がテ-マではまったく魅力がない。なにかもっと目立つことを考えないとのY.T君からの助言もあり、動物の解剖公開を不定期だが土曜日の放課後に実施することにした。

とりあげた動物は鳩、鶏、鼠、兎、モルモットなどで、結果は解剖後の骨格標本が残っただけで、今ひとつ人気はなかった。ただ、「生物実習授業での蛙の解剖ではよく理解できなかった内臓の仕組みが一発で憶えられた」と評価してくれた者もいた。

何回目だったか蛇の解剖をテ-マにしたところ、前評判は上々。1週間前に蛇を捕え準備万端整えた。

そこで事件発生。蛇がいなくなったのである。2日後、授業中の女子生徒ばかりのクラスから校舎中に響きわたる悲鳴があがった。逃げた蛇が教室内をウロウロしていたのである。おかげで部長の筆者は大目玉をくらった。"蛇の祟り"とはこのことである。

動物の解剖はしばらく途絶えたが、ある日部員の飼っていた愛犬が死になんとか形として残してやりたい、ついては剥製にできないかとの申し出があった。剥製は無理だが骨格標本ならできるとして直ちに作業にとりかかる。

苛性ソーダで煮込んだ肉と骨を丁寧に分離し、針金と糸で1ヶ月ほどかけて骨格を組立て、ペンキ、エナメルを塗布して標本は完成。骨格の組立ては軟骨の処理が難しく、知恵の輪やパズルを解くような面倒で根気のいる作業であった。困ったのは後々まで体に染付いた肉の腐った臭いである。

蛇と犬で生物研究部の存在は知られたが気持ちの悪い部として定着し、サッカ-部の人気に追いつくどころの話ではなかった。

昭和29(1954)年11月23日、場所は産経会館内アメリカ文化センタ-、発表者は各校代表23名、持ち時間7分のタイトルは”燈火に飛来する甲虫類について”。筆者も発表者の1人だった。

結果はなんと! 優勝である。

これが昆虫マニアとしての到達点。部員みんなとY.T君も喜んでくれた。翌日の全校生徒が集まった朝礼で校長先生から研究内容、成績紹介とお褒めの言葉があったものの、「なんだ? それがどうした、、」という軽い反応しかなかったように記憶している。

この発表会は毎年続けられ本年で68回目を迎えるというが、まず知る人はいない。亡きY.T君大活躍のサッカ-部大阪府大会準優勝については、ここ数年のサッカ-Jリ-グ人気もあって未だに同級生が集まると話題にのぼるし、学校史にも掲載されているが、、。

体力に自信はあったものの運動神経は鈍くスポ-ツはまるで駄目、昆虫にのめりこんでいたから学業成績もいまひとつで、後にも先にも一等賞を貰ったのはこれしかない。

                            (完)

2016年03月27日

◆戦争終了前後の悪夢

渡邊 好造


NHKテレビの特別番組で「太平洋戦争時のアメリカ軍B29爆撃機による東京大空襲の惨状」の記録フイルムを放送していた。1944年の11月〜45年3月にわたる100回以上の猛爆で、東京は惨たる有様となった。

死者8万人の大半が民間人で、原爆の死者30万人とをあわせ考えると、アメリカ・ニューヨークビルへの飛行機突入で被害者約5千人(一部気の毒な日本人もいたが)を出した9.11事件について、アメリカ人に非難する資格は全くないと改めて指摘したい。

筆者が育った大阪にも1945年3月頃に大空襲にあったが、直前まで住んでいた大阪市都島区から市内の南端の東住吉区に移転し被害を免れた。しかしここでも300メートル近くまで空爆を受けたが、幸い被害はなかった。

当時、電気は通じていたものの、明るくするとそれを目当てに爆撃されるとして、裸電球に黒い布を被せて戸外に明かりが漏れないようにしていた。空襲警報のサイレンがなると真夜中でもたたき起こされ、防空壕に避難しなければならない。

自宅に風呂はなく銭湯に行くのだが、日が暮れると街燈がなく真っ暗。各家の壁に20センチ幅の白いペンキが一直線に塗られていて、それを目印に家に帰る。ところどころの壁に”3人の日本兵士が銃剣を構えているポスター”が貼ってあり、「鬼畜米英撃滅」と、大書してあったのが今でも記憶に残っている。

戦局が悪くなり本土爆撃が増えてきたため、小学校(国民学校)3〜6年生の子供は、戦争被害を避けるため、都会から田舎へ”集団”疎開または親戚などに”個人”疎開するかを強制選択させられた。

筆者は1年生だったが、叔父夫婦が住む泉北の信太山(現・大阪府堺市の南、関西空港はさらに南)に預けられた。

信太山地区は、周りの殆んどが田圃か田畑で住宅はひとかたまりだった。住宅周辺の1メートル程の水路にはきれいな水が流れ、水藻の間にドジョウが一杯泳いでいたし、小川にはフナ、モロコが手網があれば捕り放題。しかし、これを食べようという習慣はなかった。

田舎だったから大きな敷地に大量の鶏を飼育し、鶏の卵に不自由はなかったものの、鶏の食べるエサの水草やイナゴやバッタを捕獲するのには苦労させられた。家の中のドアを開けたら、ヘビが目の前にドサツというのも何回か。

叔父は会社員だったから食糧不足で、疎開時の思い出はとにかく空腹であったこと。ジャガイモやサツマイモの掘り起こされたあとに残る小さなカケラを小川の石でこすって皮をむき生でかじったり、鶏のエサ用にとらえたイナゴの長い足だけとって食べたこともある。生きたイナゴは甘い味で美味かった記憶がある。

この頃、世の中にこんな美味い物があるのかと思ったのが、実は砂糖だった。今思えば馬鹿みたいな話。

天皇陛下の終戦の詔勅は1945年 8月15日。叔父の家のラジオで近所の人たち15名程が集まって聞き入っていた。何もわからない筆者が、周りをウロウロして厳しく叱られた。

戦後間もなく大阪市東住吉区の小学校に戻った。教科書は半分以上が黒く塗りつぶされ何が書いてあるか意味が全く解らない。

当時のおやつは「サツマイモの飴」や「干しバナナ」。甘い飴や本物のバナナがどんなに食べたかったか。

東住吉区の小学校の運動場には木製の飛行機が残されていた。大阪市都島に近い淀川の河川敷・城北公園にあったのと同じカムフラージュ用ニセモノである。

講堂の屋上には2メートル四方、高さ1メートルの鉄柵があり入れないようにしてあったが、その真下には天皇陛下の写真(御影)が格納され、その上を踏みつけないように してあったのである。卒業までこの柵は残ったままだった。

食糧難はその後何年か続き、親父のお供でサツマイモや米を買いに信太山や岸和田あたりまで行ったりもした。現金は通用せず着物や骨とう品の品物との交換が原則。農家では「こんなもので米はわたせんな〜」といわれる。

せっかく手に入れたヤミ米(戦後もしばらく米は配給制度)を食糧管理法違反で臨検の警察官に没収されたこともあった。親父の情けない顔を思い出す。警察官は取上げた米を仲間内で食べていたと聞いたことがある。真偽は不明。

ところで、電気に関して、云々。

戦後の一時期、我が家の電気使用料金は”定額契約”で計量器は付いてなかった(他軒のことはわからない)。各部屋で使用する電灯などのワット数が決められ、それ以上に勝手に使ってはいけない。

そのため違反を摘発する電力会社の検査員が不意にやってきて、有無を言わせず家の中に上り込み、”違反があるに違いない”といった態度でくまなく調べて回る。もし電熱器などを内緒で使っていたりすれば高額の罰金を取られる。今なら大問題になるに違いないプライバシーもへったくれもない、強引な行為であった。
                                  (完)再掲

2016年03月18日

◆京都「山科ゆかりの歌人」

渡邊 好造



”百人一首”など古来の和歌には、「山科」が数多く登場する。

”百人一首”は、鎌倉時代の歌人・藤原定家が100首を選んだ歌集のことで、京都小倉山で編纂されたので通称”小倉百人一首”ともいう。

主に古今集(平安時代)、新古今集(鎌倉時代)から選んでいる。"小倉"があるなら他にもあるのかとなるが、確かに"源氏""女房""後撰""武家"が頭につく”百人一首”もあるにはある。

その何れもが、制作年や編者が明確でなく、小倉で洩れた歌人を補っただけのものもあり、”百人一首”といえば"小倉"を指すとみてよい。今回の"山科だより"は、この”百人一首”に登場する「山科ゆかりの歌人」を紹介する。

山科の地名、駅名にも名前が残る有名歌人といえば「小野小町」である。"小野御霊町"にある”随心院(真言宗)”は、小野一族の邸宅跡に正暦2(991)年=平安時代=「僧・仁海」が創建した。「小野小町」は仁寿2(852)年=平安時代=に宮廷を辞した後、40年間当院内の遺跡”小町の井戸”辺りに住んでいたという。

「小野小町」が詠んだ和歌のうち、”百人一首”(原典・古今集=以下同じ)にとりあげられ、とくによく知られているのはこの一首で、境内に歌碑がある。

『花の色は移りにけりないたずらに 我が身世にふるながめせしまに』(桜の花の色はスッカリ褪せた。私の美しかった姿も衰えた。むなしく世を過ごし物思いにふけっている間に)。

"北花山河原町"の”元慶寺(天台宗)”は、「僧・遍昭」が貞観11(869)年=平安時代=に創建し、”百人一首”(古今集)に詠まれた彼の和歌の碑がある。

碑には『天津風雲の通ひ路吹きとぢよ をとめの姿しばしとどめむ』(空に吹く風よ、天への雲の通り道をふさいでしまってくれ。美しい舞姫の姿をもうしばらくの間ひきとめておきたいのだ)とある。


"四ノ宮泉水町"に天文19(1556)年=室町時代=に開創された”山科地蔵徳林庵(臨済宗)”には、町名の語源となる「四之宮人康」(さねやす=第54代仁明天皇第4皇子)と、歌人「蝉丸」(せみまる=正式呼称はせみまろ)の2人の供養塔がある。

両人とも平安時代(9世紀)に生きた歌人だが、「蝉丸」は"四ノ宮"から約2キロほど東の滋賀県大津市に入った峠"逢坂の関"に庵を構え、近くには”蝉丸神社”もある。なぜ山科に「蝉丸」の供養塔があるのか、「人康」との関係は、交流は、など明確ではない。その共通点は両人とも琵琶の名手であったことのようである。
 
 ”百人一首”(後撰集)にある「蝉丸」の歌、『これやこの行くも帰るも分かれては 知るも知らぬも逢坂の関』(ここから行く人帰る人、それを見送る人、知合いの人とそうでない人も、ここで出逢いを繰返す。これがこの逢坂の関なのだ)がよく知られている。

 ”百人一首”に登場する地名でもっとも多いのが"逢坂(の関)"("難波"と同数)で、行政エリアは滋賀県大津市だが京都市山科区との境界線上の峠である。

ついでながら、全国46都道府県のうち県庁所在都市がピッタリ接しているのは、この京都府京都市(山科区)と滋賀県大津市の他は、東北の山形県山形市と宮城県仙台市しかない。

「清少納言」(枕草子で知られる平安時代女流作家)は、”百人一首”(後拾遺集)で『夜をこめて鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ』(夜の明けないうちに鶏の鳴き真似をして、夜が明けたように見せかけた中国・函国関の故事まがいの騙しの手をつかっても、私とあなたの間にある関所は開けませんよ)と詠んでいる。

「三条右大臣藤原定方」(平安時代公家・歌人)は、”百人一首”(後撰和歌集)で悩ましく、意味深な歌を披露している。

『名にしおはば 逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな』(「逢坂山」だから"逢える"、「さ寝」だから"一緒に寝られる(さは接頭語)"、名前通りの「かづら=葛・つるくさ」ならそのツタを手繰り寄せると、人に知られずあなたの家で逢いそして一緒に寝る、そんなことが出来ればいいのに)。

”百人一首”に登場する「山科ゆかりの歌人」が詠む和歌には、平安・鎌倉貴族のなんとも優雅で、他に心配事はないのかと言いたくなるお気楽な宮廷生活が滲みでている。そんな宮廷生活を歴史書以上に現代に語り継いでいるのが、和歌なのだろう。(完)

2016年03月05日

◆その日本語、文字は変だ

渡邊 好造



何気なく使われているおかしな日本語、文字のいくつか、、。

1) 『やるしかない』 = 元社会党党首土井たか子氏風に言うと「やるっきゃない」。「え〜、こまったな〜。いったい私にどうしろと言うの、どうやっていいか手段方法はサッパリ判らない、けど何かやるしかない」が本音。回答になってない。

2) 『、、、してみたいと”思います”』 = 「さあそれでは行ってみたいと”思います”」、「それについて考えてみたいと”思います”」。放送評論家・島野功緒氏も言う(週刊新潮)、”思います”は余分である。NHKのアナウンサ-にも多い。「さあそれでは行ってみましょう」、「それについて考えてみましょう」となぜ簡潔に言わない。

3 ) 『、、じゃないですか』= 「私って神経質じゃないですか」、「私って一人っ子じゃないですか」という喋り方がうるさい、と作家・猪瀬直樹氏(読売新聞)。この言い方をするのは若い女性に多いが、朝8時テレビワイド番組の司会者・小倉智昭も連発する。、、じゃないですか、と勝手に同意を求められても困る。

4) 『まだ訴状を”見ていない”のでコメントできません』 = 当事者に訴状が届くのはそんなに遅いのか。見ていないのなら職務怠慢、”精査検討していない”だけのことではないか。これで逃切りそのあと正式のコメントは発表されないし、発表されても報道されない。

5) 『耳障り”がいい”』=耳に障るのをいいという表現はおかしい。” 耳障り”はそれだけで一つの単語である。うるさい雑音を聞いて、いい音だと言っているようなもの。目障りを「目障りがいい」と言わない。

6 ) 『 ごみ捨てる”べからず”』= 文章は口語体と文語体を混合しないのが原則。口語なら「ごみ捨”てるな”」、文語なら「ごみ捨”つべからず”」。

7) 『あの人との関係は”精”算しました』 = 別れ話など人間関係の解消、この場合は”清”算。”精”算は費用の最終的計算のことである。企業の倒産・解散で取引相手との貸借関係など残務整理が済むまでは「”清”算会社」。

8)『懐かし”の”メロデイ』= NHKにこんなタイトルの番組があった。形容詞の後に助詞はつけない。「懐かし”い”メロデイ」であって、”の”はおかしい。

9)『”成仏”しろよ』= 時代劇映画で斬り殺した相手を片手で拝み「”成仏”しろよ」という台詞。”成仏”は僧が仏になることで、我々凡人が死ねばそれは”往生”である。”成仏”するには死んだあと浄土でさらに修行がいるから無理な話。

10)『次の誕生日で”満60歳の還暦”を迎える』 = 長寿の祝い事は満年齢ではなく数え年である。前にも言ったが何度でも言う。還暦は数え年61歳。10干(甲乙、、癸)12支(子丑、、亥)の組合せは10×12=60、61回目の1月1日に元の暦に戻る。

満60歳誕生年の元日に迎える数え年61歳が還暦。古稀(70歳=満68歳誕生年の元日)、喜寿(77歳=満75歳誕生年の元日)、、などはすべて数え年。

これまで筆者も誤字、脱字、表現ミスの連発である。他人のミスを指摘する資格はないが・・・。 (完)

2016年02月16日

◆「生きる」よりも「活きる」を選ぶ

渡邊 好造




新聞の有名人の死亡記事をみると、死因とともについ目をひくのはその年齢である。わが身に比べて長生きされたかどうか気になるのは筆者だけだろうか。

最近、死を迎えるのは80%以上が病院だそうである。今では昔のように自宅であらゆる手を尽くした後残念な結果になることはまずないといってよい。それも数年前までは、患者が例え意識を失い眠った状態でも血管から点滴で栄養分を送り、かなりの期間生きながらえることができた。

しかし、これにも限界があり血管が詰まったり、どうしても栄養分が足りなくなりいつまでも生きながらえるという訳にはいかなかった。

そこに今度は「胃ろう(胃瘻)」という新しい治療法が開発された。この治療法は、小説家・渡辺淳一氏の週刊誌でも取上げていたが、意識のなくなった患者の胃に栄養分タップリの流動食を直接送り込む。したがって、意識はなくとも患者は延々と長生きできることになる。筆者かかりつけの内科医によると、「やってみますか」と勧める病院も増えているという。

点滴だったら精々3〜4年が限界だったのが、それ以上に症状が変らないまま長生きできるらしい。医学上目覚ましい進歩には違いない。患者の家族にとって大喜びのこともあろうが、当然のことだが治療費は計り知れない。

かといって途中で「胃ろう」を打ち切ってくれとは言えない。それを言うと”もう殺してくれ”となり、殺人罪に問われかねない。これではもはや”生き”ているだけで、”活き”ているのでは決してない。筆者は「生きる」よりも「活きる」方を選びたい。

そこでこんな迷惑な結果にならないよう次のような遺言書を残すことにした。もちろん異論があることは覚悟の上だし、本人死後のことだから守られなくともやむを得ない。

1)病気・事故などにより脳死状態、認知症などで通常の判断ができない、その他回復不能の病気にかかった場合、余分な延命処置、治療は一切不要のこと。とくに「胃ろう」だけは絶対ご免である。

2)死体処理は、法律上必要なことのみに限る。

3)寺、僧侶に関わる費用は使わない。葬儀、読経、戒名、祭壇など不要。焼場直行の直葬も可。(戒名がないと「三途の川」を渡れないと真剣にいう人がいた、、)

念のために申し添えるが、金が惜しくて言うのではない。死者も含めて既に死んだも同然の人に金を使うべきではなく、金は”活きている人”にこそ、使うべきなのである。   (完)


渡邊 好造


新聞の有名人の死亡記事をみると、死因とともについ目をひくのはその年齢である。わが身に比べて長生きされたかどうか気になるのは筆者だけだろうか。

最近、死を迎えるのは80%以上が病院だそうである。今では昔のように自宅であらゆる手を尽くした後残念な結果になることはまずないといってよい。それも数年前までは、患者が例え意識を失い眠った状態でも血管から点滴で栄養分を送り、かなりの期間生きながらえることができた。

しかし、これにも限界があり血管が詰まったり、どうしても栄養分が足りなくなりいつまでも生きながらえるという訳にはいかなかった。

そこに今度は「胃ろう(胃瘻)」という新しい治療法が開発された。この治療法は、小説家・渡辺淳一氏の週刊誌でも取上げていたが、意識のなくなった患者の胃に栄養分タップリの流動食を直接送り込む。したがって、意識はなくとも患者は延々と長生きできることになる。筆者かかりつけの内科医によると、「やってみますか」と勧める病院も増えているという。

点滴だったら精々3〜4年が限界だったのが、それ以上に症状が変らないまま長生きできるらしい。医学上目覚ましい進歩には違いない。患者の家族にとって大喜びのこともあろうが、当然のことだが治療費は計り知れない。

かといって途中で「胃ろう」を打ち切ってくれとは言えない。それを言うと”もう殺してくれ”となり、殺人罪に問われかねない。これではもはや”生き”ているだけで、”活き”ているのでは決してない。筆者は「生きる」よりも「活きる」方を選びたい。

そこでこんな迷惑な結果にならないよう次のような遺言書を残すことにした。もちろん異論があることは覚悟の上だし、本人死後のことだから守られなくともやむを得ない。

1)病気・事故などにより脳死状態、認知症などで通常の判断ができない、その他回復不能の病気にかかった場合、余分な延命処置、治療は一切不要のこと。とくに「胃ろう」だけは絶対ご免である。

2)死体処理は、法律上必要なことのみに限る。

3)寺、僧侶に関わる費用は使わない。葬儀、読経、戒名、祭壇など不要。焼場直行の直葬も可。(戒名がないと「三途の川」を渡れないと真剣にいう人がいた、、)

念のために申し添えるが、金が惜しくて言うのではない。死者も含めて既に死んだも同然の人に金を使うべきではなく、金は”活きている人”にこそ、使うべきなのである。   (完)

2016年02月07日

◆「犬について理解出来ないこと」

渡邊 好造



京都山科の疎水にそって造られているのは幅2メートルの3,3キロにわたるウオ-キングとジョギング用の歩道である。そして犬の散歩道としても最適のコ-スで、犬好きの人にとっては恰好の社交場でもあり、犬連れ同士の会話はじつに楽しげである。

しかし、犬を飼ったことがない者にとっては、犬好きの人の犬に対する気持ち、態度、習慣で理解出来ないことが数多い。本誌では、犬に対する愛情あふれた文章を見てきたが、今回敢えて逆らわせていただく。

1)犬にシャネルの服を着せている。本物なら犬とどちらが高価。
2)車の後部窓に貼付されたシール「dog in car」。後続車はどうする。
3)犬に手綱を強く引っ張られている。飼い始め時になぜ躾ない。
4)手綱を犬の動きにあわせて巻尺のように伸びるようにしている。手綱を考えた人 、利用する人のどちらも悪い。

5)「うちの子は、、、」と、犬のことを自分の子供のようにいう。
6)犬とベッドで添い寝する。
7)「銀のさら」なるブランドの”回転寿司屋”と”犬のえさ”がともに競争でテレビ広告。寿司に違和感あり、、。

8)犬と一緒に食べる”おせち料理”の販売。どちらの好みに合わせる。
9)犬の散歩中に喋り続ける飼い主。
10)「犬は人間の子のように不良少年にならない」と自慢する。
11)吠え続ける犬。「いつも可愛い声で鳴いてますでしょ」。

12)「うちの犬は怖い顔して吠えますが、外には出ませんし噛み付いたりもしません」。
13)我が家の道路前を通過する車、人、動物に対して24時間吠え続ける大型犬。
14)犬のエサがおいしいかどうか試食して、一食代浮かせるアルバイト。食べる気がしない。
15)介護、介助犬は、法律で去勢または避妊の義務あり。可愛そうに、、。

16)腕にモンモンをいれたいかにもその筋の若い兄ちゃんが、犬の墓の前でオイオイと泣いていた。
17)犬の寿命のギネス記録は21年、平均10〜15年。飼い主は生涯数回泣くことになる。
18)犬の葬儀屋がある。墓より高価なのもあるらしい。

19)犬の販売店で売れ残って成長したのはどうするのだろう。
20)犬を可愛がる人がいる一方で捨てる人があとを絶たないらしい。年に犬10数万匹が保健所経由で殺処分とか。

補)"犬好きの人はこんな事考えないのかな〜"と言ったら、「君は犬を番犬にしかみていない」と友人に怒られた。犬好きの人ごめんなさい。(完)

2016年01月30日

◆山科だより "タマムシ"、"ゾウムシ"

渡邊 好造



山科疎水道で採集した筆者の昆虫標本は、"タマムシ"、"ゾウムシ"、"オトシブミ"、"ハンミョウ"などなど、多種多様の雑居である。
 
"タマムシ"類は、玉虫色の語源にもなっている虹のようにきれいな翅をもつ種類が代表的である。

奈良の法隆寺が所蔵する国宝”玉虫厨子”は、寺院建築を模した高さ2メートル半、7世紀飛鳥時代の仏教工芸品で、写真中央に見られる虹色の「タマムシ」の翅が貼付してあることで知られる逸品である(現在はほとんど剥がれているらしい)。

日本の"タマムシ"類は2百種程が確認されている。

標本箱には8種類、「タマムシ」で胴長3センチ。全種が美しい色をしているわけではない。真ん中下から2段目右端の1頭は、全体が茶色で高年齢女性の顔の皺のような模様があり、”姥”(姥捨て山のうば)を冠して「ウバタマムシ」という有難くない名が付けられている。

米びつの米にいつのまにか発生し、選り分けて排除するのに苦労させられたのは同種の「コクゾウムシ(穀象虫)」である。標本に加えたかったが、市販の今の米は卵を完全除去していて発生しない。

"オトシブミ"類の口先は"ゾウムシ"に似ているが種類が異なる。

日本には約30種。"オトシブミ"の語源は、江戸時代他人に気づかれないように見初めた相手にそっと落として渡す、丸めた恋文のこと。

この小さな虫は木の葉を”落とし文”のように丸めてその中に卵を1個産む。これも庭の「エゴの木」で採れた。約8ミリの大きさは「タマムシ」の胴長3センチと比べて約4分の1、台紙上の整肢が大変。

"ハムシ"類は、日本では8百種。農作物を食荒らす害虫が多い。

"ハンミョウ"類は、"タマムシ"の左上5頭である。日本では22種。この種は捕虫網がないと絶対に採れないほど素早い。

筆者は、蝶、蛾、蜂、虻など飛翔する昆虫は採らないが、この「ナミハンミョウ」だけは緑・赤・青の金属光沢の見事な色遣いに魅せられて捕虫網を使った。

昆虫写真家の伊藤年一氏は『怖いくらい美しい』と表現していた(読売新聞・平成22年4月8日)。歩いて行く先々へ飛んでは止まるので別名「みちしるべ」、「みちおしえ」と呼ばれる。「ナミハンミョウ」は確かに美しいが、「タマムシ」と同様に”姥”と呼ばれてもしかたのない種類もいる。

1頭、"カミキリ虫"類と形も飛び方もよくにているが"ジョウカイボン"類の全くの別種で、体は軟らかい。日本には70種位。
 
"コメツキ虫"類で日本では600種、箱には12種。仰向けにすると跳ね上がって元に戻るのが米をつく動作に似ていることからこの名がついた。

その下に6頭いる"シデムシ"類。動物の死体をエサにして、死体があると出てくる"死出"という意味がある。日本では20種位。

"ナナフシ"は、日本で20種ほど確認されている。節が多いという意味で"七節"。草食性、木の枝や葉にそっくりの擬態で鳥などから身を守る。"竹節虫"ともいう。

ところで、筆者の昆虫標本作成の始まりは大阪市東住吉区の長居公園(JR阪和線・長居駅近く)である。

生れは大阪都島だが、昭和18年(1943年)から20年間この地に住んだ。当初この辺りは雑木林か畑地で昆虫の宝庫だった。その後10年位の間に競馬場、オートレース場、競輪場が造られたが、現存する"臨南寺(曹洞宗)" の周囲だけはクヌギ林など 昆虫が集まる環境はまだ十分に残されていた。

ところが今では公園とはいえ、大阪女子マラソンの発着誘導路、長居競技場、臨南寺、どこを見ても昔の自然の様相はない。道路が舗装され周りにいくら街路樹を植えても雑木林でないと昆虫は減り、そしてそれをエサとする鳥も少なくなる。

自然環境のなくなった長居公園に当時の昆虫が生き残っているとはとても思えない。山科疎水道だけは絶対にそうなってほしくない。(完)