2015年12月28日

◆戦争終了前後の悪夢 

渡邊 好造



NHKテレビの特別番組で「太平洋戦争時のアメリカ軍B29爆撃機による東京大空襲の惨状」の記録フイルムを放送したのを、ふと思い出した。1944年の11月〜45年3月にわたる100回以上の猛爆。東京は惨たる有様となった。

死者8万人の大半が民間人で、原爆の死者30万人とをあわせ考えると、アメリカ・ニューヨークビルへの飛行機突入で被害者約5千人(一部気の毒な日本人もいたが)を出した9.11事件について、アメリカ人に非難する資格は全くないと改めて指摘したい。

筆者が育った大阪にも1945年3月頃に大空襲にあった。直前まで住んでいた大阪市都島区から市内の南端の東住吉区に移転し被害を免れた。しかしここでも300メートル近くまで空爆を受けたが、幸い被害はなかった。

当時、電気は通じていたものの、明るくするとそれを目当てに爆撃されるとして、裸電球に黒い布を被せて戸外に明かりが漏れないようにしていた。空襲警報のサイレンがなると真夜中でもたたき起こされ、防空壕に避難しなければならない。

自宅に風呂はなく銭湯に行くのだが、日が暮れると街燈がなく真っ暗。各家の壁に20センチ幅の白いペンキが一直線に塗られていて、それを目印に家に帰る。ところどころの壁に”3人の日本兵士が銃剣を構えているポスター”が貼ってあり、「鬼畜米英撃滅」と、大書してあったのが今でも記憶に残っている。

戦局が悪くなり本土爆撃が増えてきたため、小学校(国民学校)3〜6年生の子供は、戦争被害を避けるため、都会から田舎へ”集団”疎開または親戚などに”個人”疎開するかを強制選択させられた。

筆者は1年生だったが、叔父夫婦が住む泉北の信太山(現・大阪府堺市の南、関西空港はさらに南)に預けられた。

信太山地区は、周りの殆んどが田圃か田畑で住宅はひとかたまりだった。住宅周辺の1メートル程の水路にはきれいな水が流れ、水藻の間にドジョウが一杯泳いでいたし、小川にはフナ、モロコが手網があれば捕り放題。しかし、これを食べようという習慣はなかった。

田舎だったから大きな敷地に大量の鶏を飼育し、鶏の卵に不自由はなかったものの、鶏の食べるエサの水草やイナゴやバッタを捕獲するのには苦労させられた。家の中のドアを開けたら、ヘビが目の前にドサツというのも何回か。

叔父は会社員だったから食糧不足で、疎開時の思い出はとにかく空腹であったこと。ジャガイモやサツマイモの掘り起こされたあとに残る小さなカケラを小川の石でこすって皮をむき生でかじったり、鶏のエサ用にとらえたイナゴの長い足だけとって食べたこともある。生きたイナゴは甘い味で美味かった記憶がある。

この頃、世の中にこんな美味い物があるのかと思ったのが実は砂糖だった。今思えば馬鹿みたいな話。

天皇陛下の終戦の詔勅は1945年 8月15日。叔父の家のラジオで近所の人たち15名程が集まって聞き入っていた。何もわからない筆者が、周りをウロウロして厳しく叱られた。

戦後間もなく大阪市東住吉区の小学校に戻った。教科書は半分以上が黒く塗りつぶされ何が書いてあるか意味が全く解らない。

当時のおやつは「サツマイモの飴」や「干しバナナ」。甘い飴や本物のバナナがどんなに食べたかったか。今や4本のバナナがたった100円。信じられない。

東住吉区の小学校の運動場には木製の飛行機が残されていた。大阪市都島に近い淀川の河川敷・城北公園にあったのと同じカムフラージュ用ニセモノである。

講堂の屋上には2メートル四方、高さ1メートルの鉄柵があり入れないようにしてあったが、その真下には天皇陛下の写真(御影)が格納され、その上を踏みつけないように してあったのである。卒業までこの柵は残ったままだった。

食糧難はその後何年か続き、親父のお供でサツマイモや米を買いに信太山や岸和田あたりまで行ったりもした。現金は通用せず着物や骨とう品の品物との交換が原則。農家では「こんなもので米はわたせんな〜」といわれる。

せっかく手に入れたヤミ米(戦後もしばらく米は配給制度)を食糧管理法違反で臨検の警察官に没収されたこともあった。親父の情けない顔を思い出す。警察官は取上げた米を仲間内で食べていたと聞いたことがある。真偽は不明。

2015年11月15日

◆“カチンと来る言い方をする奴”

渡邊 好造



約40年間のサラリーマン時代を振り返ると、研修や会議などの顧問やアドバイザ-として招請した大学の先生、コンサルタント会社の講師、そして上司や同僚で上から目線の”カチンとくる言い方をする奴”がいて,
腹立たしい思いをしたことが何回もあった

この執筆にあたって、"新 将命(あたらしまさみ/現・国際ビジネスブレイン社長)"氏が、25余年前に雑誌「ボイス」に掲載した「イヤミなタイプ」の痛快な文章を思い出した。

そこで同氏が挙げた4つの(?)「イヤミなタイプ」に付加え、表題のように言換えて羅列すると、、、。
(*印は、原文がなく、筆者の記憶にある新氏の指摘)。

1)「質問の意味が不明だ。もう一度分かるように説明してくれ」(質問に質問で返し、その間に答えを考える奴)

2)「いい質問です。今の質問はこれまでのなかで一番素晴らしい」(何様の積もりか、一番偉いと思っている奴*)

3)「それは、こう言換えたらよく分るんじゃないかな」(勝手に言換える奴)

4)「どっかで聞いたような話だな。まあいいや進めてくれ」(話の腰を折る奴)

5)「そんなところで結論となりそうだが、私の視点はまったく違うな」(まとまりかけているのに振出しに戻す奴*)

6)「だからさっきから言ってるだろ。同じことを何回も言わすなよ」(説明の仕方が悪いことに気付かない奴)

7)「こんな言い方したら怒るかもしれないけど、、」(と言いながらわざと怒らせる言い方をする奴)

8)「言い分はよく分った。要するにこういうことか。」(勝手に要約する奴)

9)「これまで出た意見を整理してみると、こういうことになるな、、」(自分の意見を言わずまとめ役だけをする奴)

10)「うっかり寝てしまいそうになったが、こんなふうに考えたらどうだ、、。」(寝たふりしていていきなり喋りだす奴)

11)「どうしてそんなに国際感覚に乏しいんだ。それに語学力もない」(自分だけが別格の選民と思っている奴*)

12)「この意見には最近お会いした著名な○○さんも賛成してくれたが、、」(著名人の威光にすがる奴*)

13)「議論するならあらかじめもっと勉強してこいよ」(知ったかぶりをする奴)

14)「自分が何を言おうとしているのか分っているのか」(見解の違いを押さえつける奴)

15)「よくそんないい加減なことばかり言ってられるな」(いい加減と勝手に決めつける奴)

16)「真面目に議論したらそんな結論になる筈がない」(初めから結論を用意し押付ける奴)

17)「それで相手が納得すると思うか、よく考えろ」(自分の意見と違えば納得しない奴)

18)「またその話か、何回も同じ話を繰り返すなよ」(初めて聞く人もいると思わない奴)

19)「活発に議論しているようにみえるが、的外れもいいとこだ。」(何か文句をつけようと待っている奴)

20)「意見はいろいろだったな。よくわかった。今日はこれまで」(なにも発言せずあとで自説として引用する奴)

補足すると、「”カチンとくる言い方をする奴”は、あんた自身じゃなかったのか?」。(「反省してま〜す」、「チツ、うるせ〜な」)
                                   <完>

2015年10月17日

◆京都に30余しかない門跡寺院

渡邊 好造



日本全国の寺院数は約18万3千、「日本寺院総監」に掲載されているのは7万6千というが、皇族や摂家などのいわゆる高格式者の出家の対象となる『門跡(もんぜき)寺院』は、京都を中心に全部で30余りしかない。

第59代宇多天皇が、寛平10年(平安時代・898年)法皇となり、京都(右京区)の”仁和寺(にんなじ=真言宗)”にこもり、「御室(おむろ)門跡」と称したのが”門跡寺院”の始まりである。

鎌倉時代に入って、皇族や摂家が特定の寺院に出家することが定着し、室町時代には寺格としての門跡が確立され、これらの政務を担当する門跡奉行も設けられた。

その後、 江戸幕府は出家者の位階により @宮(みや)門跡、A摂家(せっけ)門跡、B清華(せいが)門跡、C公方(くぼう)門跡、D准(じゅん)門跡の5つの門跡寺院を制度化した。

最上位の「宮門跡」は、親王(皇族)、法親王(親王の宣下をえた僧)の出家者を対象としたもので、13寺院あるうち”輪王寺(りんのうじ=天台宗=茨城県日光市)”、”園満院(えんまんいん=天台宗=滋賀県大津市)”以外は全て宮家の中心であった京都市内にある。

ついでながら、”園満院”については、平成21年(2009年)5月に重要文化財の建物9棟、庭園・土地1万4千平米が寺院の借金返済のために競売となり、約10億円余りで滋賀県甲賀市の宗教法人に落札され、同年8月所有権移転が成立するという所管の文化庁もビックリの異例の事態となった。

ただし、建物以外の文化財は第2次大戦後に京都、奈良、九州などの国立博物館所蔵となっていたため無事である。

「摂家門跡」は、近衛、九条、二条、一条、鷹司の五摂家とその子弟が、「清華門跡」は、久我、三条、西園寺、徳大寺、花山院(かさんのいん)、大炊御門(おおいのみかど)、今出川、醍醐、広幡(ひろはた)などの公家、「公方門跡」は武家、「准門跡」は"脇門跡"ともいわれ、特別に認められたその他の高格式者がそれぞれ対象となる。

さて注目したいのは、京都市内11の「宮門跡寺院」のうち3つがここ「山科」にあることで、”勧修寺(かじゅうじ)=真言宗”、”毘沙門堂(びしゃもんどう)=天台宗”、そして”青蓮院・大日堂(だいにちどう)=天台宗=東山区の青蓮院の飛び地庭園”がそれである。

その他の門跡寺院も含めると、”安祥寺(あんしょうじ)=真言宗”、”随心院(ずいしんいん)=真言宗”が加わり、改めて概略にふれておく。

”勧修寺”は、「山科門跡」ともいい、水戸光圀寄進の勧修寺型燈篭、境内の"氷池園"という名の平安時代・池泉園で知られる。”毘沙門堂”は、狩野益信筆の書院の襖絵116面が有名。”青蓮院・大日堂”は、将軍塚といわれる展望台からの京都中心部と山科の眺望が素晴らしい。

”安祥寺”は、広大な領地を誇り上寺と下寺をもつ寺院であるが、現在院内への入場は残念ながらできない。”随心院”は、平安時代36歌仙の一人"小野小町"一族所縁の邸宅跡に創建された寺院で、境内は国史跡である。

「山科」は、『門跡寺院』の存在でみても、歴史と伝統を引き継ぐ由緒ある京都の一角なのである。(再掲)

2015年10月05日

◆昆虫標本ー”カミキリ虫”

渡邊 好造



筆者の趣味の一つに「昆虫標本の作成」がある。リタイヤ後の10年間に京都山科疎水道で採集した昆虫を通じて、自然の残る山科を紹介したい。

山科だより「昆虫標本」の話題は”カミキリ虫”である。”カミキリ虫”は専門用語でいうと甲虫目(鞘肢目)カミキリ虫科に属し、顎が発達していて髪の毛も切断するということからこの名がついた。

昭和30年(1955年)頃、日本の”カミキリ虫”は約650種類いたらしい。そのうち120種類の標本を作成し、高校卒業時に”コガネ虫”など他の種類の昆虫とともにそっくり寄贈した。

ギブアップしたのは大学受験だった。8歳から18歳まで10年かかって作成したその標本が今も母校に保管されているとはとても思えないが、もし残っていたらすでに絶滅種になったものもあるのではないか。

 山科疎水道での採集は捕虫網を持たずに簡単に採れるもの、死んでいたものを拾ったり、踏みつけられ潰れてはいるが修復可能だったものなどで、昔のように本気で取組んでいればもっと多くの種類が集められたに違いない。採集シーズンは毎年5〜9月。

 標本箱には28種の”カミキリ虫”が収められている。「シロスジカミキリ」は、胴長が5センチあり日本の”カミキリ虫”最大型種である。南アメリカや東南アジアの熱帯・亜熱帯地区では、胴長10〜15センチでもっとカラフルなものがいる。

”カミキリ虫”は害虫とは限らないが、左上から3列目までの14頭、黒地に白点の「ゴマダラカミキリ」などは生木をかじる厄介者で、3年ほど前(?)にフランスへ輸出した盆栽に卵が発見され大問題になったことがある。

 樹木の表皮をかじる(フトカミキリ)、花の蜜に集まる(ハナカミキリ)、朽木に巣くう(サビカミキリ)、羽根の文様が虎に似ているトラカミキリ)、触角が胴体の3倍半もある(ヒゲナガカミキリ)、4枚羽根の外羽根が半分しかない(コバネカミキリ)、などなど”カミキリ虫”の種類は実に多彩である。

動作は鈍いがいずれの種類も空中を飛ぶ。真ん中のゴキブリに似た7頭は、触角がノコギリの刃に似ているので「ノコギリカミキリ」といい、ゴキブリのように体がフニャフニャでない。

 標本のカミキリは、1頭残らず採集日、採集場所(もちろん山科)、採集者のイニシアル(筆者・KW))の手書きのラベルがつけてある。整肢作業をし(脱脂綿の上で形を整え4〜6日乾燥させる。小型種は台紙の上でピンセットや針で整肢し糊付け)、そしてこのラベル作成も面倒な作業であるが、標本箱におさまった姿をみると感慨ひとしおなのである。余人にはわからんでしょうな〜。

 家内をはじめ周辺に虫嫌いが多く、これまで他人への披露を控え一人眺めてほくそえんでいたが、「そうだ、"百家争鳴"の読者にみてもらおう!」と思いついた次第。虫嫌いの人、ごめんなさい。(完)

2015年09月08日

◆日本初の産業用水力発電所

渡邊 好造



京都府山科区にある京都市最大の施設は」”琵琶湖疎水(山科疎水)”である。

明治維新後、首都が東京に移ったことで人口の3分の1が流出し、このままだと京都は沈没するのではないか、そんな危機感もあって産業振興の狙いから手がけられたのが琵琶湖の水をひく疎水建設で、京都のあせりが生み出した産物といえる。

疎水は滋賀県大津市の観音寺、三井寺辺りを基点にして山科区北部の山の斜面に沿って、左京区蹴上までの約11キロメートルにわたる水路である。

明治18年(1885年)に日本人技師のみで着工した最初の大工事で110年前の明治23年(1890年)に完成した。日本初の"産業用"水力発電所建設が最大目的で、これにより蹴上発電所が翌明治24年(1891年)に稼動(現在も無人で運転中)、明治28年(1895年)この電力により国内初の市電が京都市内で運行された。

なお、最初の水力発電所は明治21年(1888年)の仙台市三居沢(さんきょざわ)発電所で、国指定有形文化財として今も残されている。

疎水建設の当初予算は60万円だったのが、明治政府の意向もあって、最終的には125万円に倍化され、当時の京都府年間予算の2倍に相当した(資料・京都市上下水道局)。

使用したレンガは1370万個、地下鉄・御陵駅の近くにレンガ工場跡の記念碑がある。現在の水路は、何回もセメントを吹付けて改修されているので、表面にレンガはない。

疎水は、大津・京都間の船による輸送手段としても活用され、昭和23年(1948年)まで利用された。そうした船便の名残りが、”蹴上インクライン(台車を使って船を引張り上げる線路)”の遺跡である。疎水は山科日ノ岡までの傾斜は緩いが、ここから蹴上へは急な下り坂となるので、このインクラインが利用された。

また、疎水の水路北側に沿って、上水用として第2疎水建設工事が明治41年(1908年)に着工され、明治45年(1912年)に完成した。こちらは全て暗渠となっているため山科の住民でも知らない人が多い。

筆者宅から疎水までの距離は約100メートル。ちょうどそこには3つ目の疎水トンネル(トンネルは全部で4つ)の入口があり、明治時代の政治家・井上 馨の揮豪による偏額(門戸等に掲げる横に長い額)が、当時のまま埋めこんである。

偏額には『仁呂山悦智為水歓』(じんはやまをもってよろこび ちはみずのためによろこぶ = 仁者は動かない山によろこび 智者は流れゆく水によろこぶ)の8文字が彫られている。京都あげての力の入れようが、ここにも残る。
 
京都はお寺中心の古都の印象が強いが、明治維新後は産業面でなんとか振興をはかろうと、日本の最先端技術を駆使して走り始めていた。
 
疎水に関しては、平成元年(1989年)8月に完成した左京区「琵琶湖疎水記念館」(地下鉄東西線・蹴上駅下車)に詳しい。
 
ところで、京都市左京区の南禅寺境内には、ヨーロッパ遺跡に似た赤レンガ造りの「水路閣」(疎水の水をひく水道橋)が残されているが、建設当時は京都の景観を損ねるとして大反対運動が展開されたらしい。

そんな反対運動の心意気が在ったのなら、何故あの悪名高い「京都タワー」建設時(昭和39年=1964年)にどうして発揮されなかったのだろうか。当時の京都市の人口131万人にあわせて高さ131メートルの灯台を模したコンクリート・タワーが古都京都にふさわしいと考えた連中がいたとは、とても解せない。

京都市は新景観条例を制定し、建物の高さ(最高31メートル)や看板の色・デザインを規制強化し、将来は市電の復活、電線電柱の地下化を目指す、といった百年河清を待つような方針が今頃になって出始めている。

NHK京都放送局のTVニュース番組の放送終了時、京都市内の夜景の画面中央にライトアップされた不釣合いな京都タワーが突き出しているのをみるたびに腹立たしい思いにさせられる。(完)



2015年08月12日

◆世界遺産になれない京都

渡邊 好造


住いが京都だと言うと、『いいですね〜。観光名所で世界遺産ですよね』と羨ましがられることがある。京都は確かにいい町だし、風情の良く似た「小京都」に指定された都市が日本全国に52もある。しかし、京都が世界遺産というのは間違いである。

京都の世界遺産は17か所あるが、京都の府内・市内はそこらの雑然とした当たり前の都市と変わることはない。

世界遺産は、”古都京都の文化財”の名称で平成6(1994)年に認定された古来の個々の建築物なのである。( )内は所在地。

1・上加茂神社(北区) 2・鹿苑寺=金閣(北区) 3・下鴨神社(左京区) 4・慈照寺=銀閣(左京区) 5・竜安寺(左京区) 6・延暦寺(左京区、大津市) 7・二条城(中京区) 8・清水寺(東山区) 9・西本願寺(下京区) 10・東寺(南区) 11・天龍寺(右京区) 12・仁和寺(右京区) 13・高山寺(右京区)14・西芳寺=苔寺(西京区)15・醍醐寺(宇治市) 16・平等院(宇治市) 17・宇治上神社(宇治市)

このように、京都の世界遺産はいずれも建築物であって京都全体のいわゆる都市が対象なのではない。

世界都市遺産に指定されているヨーロッパの例などをみると、町全体の建物の形、高さ、色などが全て統一され、電柱・電線・広告看板など全くなく、見渡す限り見事に整然としている。そこに人が住んでいるのに見た目は生活臭もない。

それに比べて、京都には歴史的に由緒があり見ごたえのある建物はいくつもあるが、その周りは電柱が林立し、電線が張り巡らされ、建物は高さも色も見事に不揃いである。おまけに、大小色とりどりの広告看板が所狭しと並んでいる。これでは世界都市遺産に指定されることはありえない。

それでも東山連峰など山の上から京都を俯瞰すればほっとさせられる景観だし、世界遺産に指定された17の建築物は一見の価値は十分である。

許せないのは昭和34(1959)年に建設された”京都タワー”である。それまでは、「東寺の五重塔」の54.8メートルを高さ制限とするのが不文律であった。

当時の京都市の人口131万人にあわせ、京都を照らす灯台をイメージした、高さ131メートルのタワー建設の計画が持ち上がる。当然のことながら景観を損ねるとする反対派と、近代建築で新たな観光客を呼び寄せようとの魂胆に利権もからんだ賛成派とが対立した。

しかし、土台の9階建てビルは31メートルの建築物だが、その上のコンクリート製100メートルのタワーは工作物だとの詭弁を弄して完成させてしまった。

JR京都駅北側に降り立った人は目の前の古都京都には相応しくない白い異様なタワーに驚かされる。

フランス・パリには”エッフェル塔”があるじゃないかという人もいるが、1889(明治22)年のパリ万博にあわせて高くて堅牢な鉄鋼のPRを目的にしたものである。

昭和30年以降になって目新しくもないコンクリートを自慢しても価値はない。日本最初のコンクリート製の橋が明治時代に造られ、京都・山科疏水に現存している。

平成19(2007)年に新たな厳しい京都市新景観条例を制定し、建物の高さ31メートル、世界遺産周辺は10メートルに制限し、建物のデザイン、広告看板の規制も厳しくした。

将来は電柱・電線を地下に埋める計画もある、とのこと。そんな夢のようなことは誰も信じない。”京都タワー”を今更倒すはずもない。

時すでに遅しで、京都が世界都市遺産に推挙されることはありえない。NHKテレビ「京都ニュース」のエンデイングの夜景のバックに、ライトアップされた不気味に聳える”京都タワー”を視る度に腹立たしい思いがする。 (完)

2015年07月11日

◆日本初の産業用水力発電所

渡邊 好造


山科区にある京都市最大の施設は、”琵琶湖疎水(山科疎水)”である。

明治維新後、首都が東京に移ったことで人口の3分の1が流出し、このままだと京都は沈没するのではないか、そんな危機感もあって産業振興の狙いから手がけられたのが琵琶湖の水をひく疎水建設で、京都のあせりが生み出した産物といえる。

疎水は滋賀県大津市の観音寺、三井寺辺りを基点にして山科区北部の山の斜面に沿って、左京区蹴上までの約11キロメートルにわたる水路である。

明治18年(1885年)に日本人技師のみで着工した最初の大工事で110年前の明治23年(1890年)に完成した。日本初の"産業用"水力発電所建設が最大目的で、これにより蹴上発電所が翌明治24年(1891年)に稼動(現在も無人で運転中)、明治28年(1895年)この電力により国内初の市電が京都市内で運行された。

なお、最初の水力発電所は明治21年(1888年)の仙台市三居沢(さんきょざわ)発電所で、国指定有形文化財として今も残されている。

疎水建設の当初予算は60万円だったのが、明治政府の意向もあって、最終的には125万円に倍化され、当時の京都府年間予算の2倍に相当した(資料・京都市上下水道局)。

使用したレンガは1370万個、地下鉄・御陵駅の近くにレンガ工場跡の記念碑がある。現在の水路は、何回もセメントを吹付けて改修されているので、表面にレンガはない。

疎水は、大津・京都間の船による輸送手段としても活用され、昭和23年(1948年)まで利用された。そうした船便の名残りが、”蹴上インクライン(台車を使って船を引張り上げる線路)”の遺跡である。疎水は山科日ノ岡までの傾斜は緩いが、ここから蹴上へは急な下り坂となるので、このインクラインが利用された。

また、疎水の水路北側に沿って、上水用として第2疎水建設工事が明治41年(1908年)に着工され、明治45年(1912年)に完成した。こちらは全て暗渠となっているため山科の住民でも知らない人が多い。

筆者宅から疎水までの距離は約100メートル。ちょうどそこには3つ目の疎水トンネル(トンネルは全部で4つ)の入口があり、明治時代の政治家・井上 馨の揮豪による偏額(門戸等に掲げる横に長い額)が、当時のまま埋めこんである。

偏額には『仁呂山悦智為水歓』(じんはやまをもってよろこび ちはみずのためによろこぶ = 仁者は動かない山によろこび 智者は流れゆく水によろこぶ)の8文字が彫られている。京都あげての力の入れようが、ここにも残る。
 
京都はお寺中心の古都の印象が強いが、明治維新後は産業面でなんとか振興をはかろうと、日本の最先端技術を駆使して走り始めていた。
 
疎水に関しては、平成元年(1989年)8月に完成した左京区「琵琶湖疎水記念館」(地下鉄東西線・蹴上駅下車)に詳しい。
 
ところで、京都市左京区の南禅寺境内には、ヨーロッパ遺跡に似た赤レンガ造りの「水路閣」(疎水の水をひく水道橋)が残されているが、建設当時は京都の景観を損ねるとして大反対運動が展開されたらしい。

そんな反対運動の心意気が在ったのなら、何故あの悪名高い「京都タワー」建設時(昭和39年=1964年)にどうして発揮されなかったのだろうか。当時の京都市の人口131万人にあわせて高さ131メートルの灯台を模したコンクリート・タワーが古都京都にふさわしいと考えた連中がいたとは、とても解せない。

京都市は新景観条例を制定し、建物の高さ(最高31メートル)や看板の色・デザインを規制強化し、将来は市電の復活、電線電柱の地下化を目指す、といった百年河清を待つような方針が今頃になって出始めている。
(完)

2015年06月24日

◆山科だより「近辺の資料館・博物館」

渡邊 好造


山科は京都市内でありながら京都中心部へよりも滋賀県大津市へ向かう方が買い物も交通の便も何かと好都合なのである。

JRでの大阪への通勤はもちろん山科からの方が便利だが、周りの環境がよく住宅事情では滋賀県の方が断然割安で(地価は山科の半分以下)、なかでも草津、栗東、守山3市の人気が高い。大阪に勤務する人たちにとって手早く広いスペースの我が家を手に入れるには、滋賀県が恰好の住宅地だろう。

そんな注目の滋賀県の資料館・博物館のうち、山科に隣接する大津市の目を引く、私営舘を3つ紹介する。

1)「南郷水産センター」 ・運営=滋賀県漁連 ・所在地=大津市黒津 ・入場料400円小人200円 ・9時30分〜17時火休(祝営業) ・JR石山駅から京阪バスのりかえ南郷洗堰停留所徒歩5分

琵琶湖の周りには数多くの河川がある。ところが、全て注ぎ込む河川で放出するのは大津市の瀬田川のみである。瀬田川は大阪市の淀川につながる。この水量を調節するのが”南郷洗堰”でそのほとりに「南郷水産センター」がある。

昭和41(1966)年に”さかなと自然と人間とのかかわり”をテーマにして淡水魚専門に開設された。コイやマスに餌を与えたり、アユの塩焼きを食べたりで親子連れで楽しめる。

2)「近江神宮時計舘、宝物館」 ・運営=近江神宮 ・所在地=大津市神宮町 ・入館料300円、中以上150円 ・ ・9〜16時30分 月休(祝ok) ・JR大津京駅徒歩15分。

昭和38(1963)年の開館。2階は宝物館、1階の時計舘には江戸時代の櫓時計、4千年前に中国で使われた火時計、大化の改新のころの漏刻時計(水時計)など約百点が展示されている。

近江神宮は、昭和15(1940)年の皇紀2千6百年に創建され、正月3が日は初詣客で車と人で一杯になる。

3)「大津絵美術館」 ・運営=圓満院門跡 ・所在地=大津市園城寺町 ・入館料=300円、高200円、小中150円 ・9〜17時 無休 ・京阪電車別所駅徒歩5分。

昭和46(1971)年開館。圓満院門跡宸殿横に併設されている。

大津絵は、江戸初期から縁起物として無名画家の神仏画を販売したのが始まりで、鬼や藤娘の絵をメインにして風刺や教訓をこめ、朱色が印象に残る画風である。山科の民家ではこの絵の掲額をよくみかける。
(完・再掲)

 

2015年06月21日

◆“カチンと来る言い方をする奴”

渡邊 好造



約40年間のサラリーマン時代を振り返ると、研修や会議などの顧問やアドバイザ-として招請した大学の先生、コンサルタント会社の講師、そして上司や同僚で上から目線の”カチンとくる言い方をする奴”がいて、腹立たしい思いをしたことが何回もあった

この稿執筆にあたっては、"新 将命(あたらしまさみ)"氏が20数年前に雑誌「ボイス」に掲載した「イヤミなタイプ」の痛快な文章を思い出した。

そこで同氏が挙げた4つの(?)「イヤミなタイプ」に付加え、表題のように言換えて羅列すると、、、。(*印は、原文がなく、筆者の記憶にある新氏の指摘)。

1)「質問の意味が不明だ。もう一度分かるように説明してくれ」(質問に質問で返し、その間に答えを考える奴)

2)「いい質問です。今の質問はこれまでのなかで一番素晴らしい」(何様の積もりか、一番偉いと思っている奴*)

3)「それは、こう言換えたらよく分るんじゃないかな」(勝手に言換える奴)

4)「どっかで聞いたような話だな。まあいいや進めてくれ」(話の腰を折る奴)

5)「そんなところで結論となりそうだが、私の視点はまったく違うな」(まとまりかけているのに振出しに戻す奴*)

6)「だからさっきから言ってるだろ。同じことを何回も言わすなよ」(説明の仕方が悪いことに気付かない奴)

7)「こんな言い方したら怒るかもしれないけど、、」(と言いながらわざと怒らせる言い方をする奴)

8)「言い分はよく分った。要するにこういうことか。」(勝手に要約する奴)

9)「これまで出た意見を整理してみると、こういうことになるな、、」(自分の意見を言わずまとめ役だけをする奴)

10)「うっかり寝てしまいそうになったが、こんなふうに考えたらどうだ、、。」(寝たふりしていていきなり喋りだす奴)

11)「どうしてそんなに国際感覚に乏しいんだ。それに語学力もない」(自分だけが別格の選民と思っている奴*)

12)「この意見には最近お会いした著名な○○さんも賛成してくれたが、、」(著名人の威光にすがる奴*)


13)「議論するならあらかじめもっと勉強してこいよ」(知ったかぶりをする奴)

14)「自分が何を言おうとしているのか分っているのか」(見解の違いを押さえつける奴)

15)「よくそんないい加減なことばかり言ってられるな」(いい加減と勝手に決めつける奴)

16)「真面目に議論したらそんな結論になる筈がない」(初めから結論を用意し押付ける奴)

17)「それで相手が納得すると思うか、よく考えろ」(自分の意見と違えば納得しない奴)

18)「またその話か、何回も同じ話を繰り返すなよ」(初めて聞く人もいると思わない奴)

19)「活発に議論しているようにみえるが、的外れもいいとこだ。」(何か文句をつけようと待っている奴)

20)「意見はいろいろだったな。よくわかった。今日はこれまで」(なにも発言せずあとで自説として引用する奴)

補足すると、「”カチンとくる言い方をする奴”は、あんた自身じゃなかったのか?」。(「反省してま〜す」、「チツ、うるせ〜な」)
<完>


2015年06月17日

◆絶滅危惧種の動物

渡邊 好造



胃の調子が悪く、かかりつけの内科医の紹介で近くの京都・山科区の病院に行った。

まず検査前の問診のため診察室に入り、目の前のパソコンの画面をふと見ると写っているのは、患者のデータではなく数種類の昆虫である。甲虫類が中心で「先生、昆虫採集が趣味ですか?」と、筆者も小学生時代からの虫マニアなので思わず話しかけた。

先生はえらいところを見られたという顔をしながら画面を消そうとするので、「ここに写っている虫の名前はほとんど知っています。山科疏水道にいる種類もいますね。全部見せて下さい、、」といったことから、診察は後回しでひとしきり昆虫談義になった。

最近の医者は患者よりもパソコンの画面ばかり見ているので、初めての先生の顔はまず覚えていないがこの時ばかりは違った。医者にも昆虫マニアは結構多い、とのこと、、。

先生曰く『山科には桜並木が多いからタマムシが一杯いただろう、、、。それにしても昔に比べると虫の種類がどんどん減っていくのは残念なことだ。環境変化は昆虫だけでなくあらゆる動物に悪影響をもたらしている』、などと話はしばらくはずんだ。

肝心の診察結果は軽い胃潰瘍で大したことはなかった。

筆者の専門分野だったカミキリムシは、日本全国に6百種ほどいたらしいが、今では百種も残っていないのではないか。トンボも見なくなった。辺りが薄暗くなると餌の蚊を狙って空に群がっていた。その蚊が少なくなればトンボも減る。

住宅地の周りにいたイタチ、こうもり、ガマ蛙(イボ蛙)なども見なくなった。

日本人大好物の鰻まで絶滅危惧種になりかけている。大阪南部の大和川には鰻の子”シラスウナギ”が砂を掘るとウジャウジャ泳いでいたが、日本一の汚染川になり魚どころではなくなった。

河川の汚染は生活排水の垂れ流しが最大要因だが、なかでも合成洗剤の泡の影響が大きい。河川に溢れかえる泡を見て、いち早くその害に気付いた京都のメーカーが泡なし洗剤を製品化しようとしたが、汚れが落ちない気がするという消費者の調査結果から数年後まで製品化しなかった。

最近は河川の浄化が進んではいるがまだまだ元には戻らない。
ツキノワグマが民家近くへ出没し、人が襲われ殺されたり大けがをさせられるなどの被害も環境変化によるものだ。餌となるドングリが木々の伐採で少なくなり人家に下りてくるらしい。

結果は、山に戻されることなく殆んど射殺されている。最近、熊の被害が無いのは寒くなって冬眠しているだけのこと。同じことがまた繰り返されるに違いない。

人間は勝手なもので、数が減ってくると絶滅危惧種の動物に指定してあわてて保護策をとり始める。ツキノワグマも今のように殺していたら絶滅寸前になるに違いない。歌手・宇多田ひかるは大の熊好きで同じことを言っていたらしい。

コウノトリやトキなどを懸命に保護し絶滅を防ごうとしているが、もはや遅すぎて無駄なことに金を使っている気がしてならない。どんな動物でも個体数が2百以下になると絶滅は避けられないという。

近親交配で抵抗力がなくなり病気になりやすく子孫が増えない。保護するならまだ間に合う動物が一杯いるはずだ。

我が国の動物園では、ジャイアントパンダ一頭の年間借用料として中国に8千万円とか1億円を払っているらしいが、その金を日本の動物保護と環境保護にまわせばいいのに、、。パンダならレッサーパンダでも十分可愛いし、世界中にはもっと安くて珍しい動物は一杯いるではないか。

なお、筆者がこの10年ほどで採集した山科疏水道の昆虫は、昔のように捕虫網で追い掛け回したのではなく、鳥や蟻に食い尽くされる寸前の死骸ばかりである。(完)

2015年05月29日

◆戦争終了前後の悪夢 

渡邊 好造


NHKテレビの特別番組で「太平洋戦争時のアメリカ軍B29爆撃機による東京大空襲の惨状」の記録フイルムを放送したのを、ふと思い出した。1944年の11月〜45年3月にわたる100回以上の猛爆で、東京は惨たる有様となった。

死者8万人の大半が民間人で、原爆の死者30万人とをあわせ考えると、アメリカ・ニューヨークビルへの飛行機突入で被害者約5千人(一部気の毒な日本人もいたが)を出した9.11事件について、アメリカ人に非難する資格は全くないと改めて指摘したい。

筆者が育った大阪にも1945年3月頃に大空襲にあった。直前まで住んでいた大阪市都島区から市内の南端の東住吉区に移転し被害を免れた。しかしここでも300メートル近くまで空爆を受けたが、幸い被害はなかった。

当時、電気は通じていたものの、明るくするとそれを目当てに爆撃されるとして、裸電球に黒い布を被せて戸外に明かりが漏れないようにしていた。空襲警報のサイレンがなると真夜中でもたたき起こされ、防空壕に避難しなければならない。

自宅に風呂はなく銭湯に行くのだが、日が暮れると街燈がなく真っ暗。各家の壁に20センチ幅の白いペンキが一直線に塗られていて、それを目印に家に帰る。ところどころの壁に”3人の日本兵士が銃剣を構えているポスター”が貼ってあり、「鬼畜米英撃滅」と、大書してあったのが今でも記憶に残っている。

戦局が悪くなり本土爆撃が増えてきたため、小学校(国民学校)3〜6年生の子供は、戦争被害を避けるため、都会から田舎へ”集団”疎開または親戚などに”個人”疎開するかを強制選択させられた。

筆者は1年生だったが、叔父夫婦が住む泉北の信太山(現・大阪府堺市の南、関西空港はさらに南)に預けられた。

信太山地区は、周りの殆んどが田圃か田畑で住宅はひとかたまりだった。住宅周辺の1メートル程の水路にはきれいな水が流れ、水藻の間にドジョウが一杯泳いでいたし、小川にはフナ、モロコが手網があれば捕り放題。しかし、これを食べようという習慣はなかった。

田舎だったから大きな敷地に大量の鶏を飼育し、鶏の卵に不自由はなかったものの、鶏の食べるエサの水草やイナゴやバッタを捕獲するのには苦労させられた。家の中のドアを開けたら、ヘビが目の前にドサツというのも何回か。

叔父は会社員だったから食糧不足で、疎開時の思い出はとにかく空腹であったこと。ジャガイモやサツマイモの掘り起こされたあとに残る小さなカケラを小川の石でこすって皮をむき生でかじったり、鶏のエサ用にとらえたイナゴの長い足だけとって食べたこともある。生きたイナゴは甘い味で美味かった記憶がある。

この頃、世の中にこんな美味い物があるのかと思ったのが実は砂糖だった。今思えば馬鹿みたいな話。

天皇陛下の終戦の詔勅は1945年 8月15日。叔父の家のラジオで近所の人たち15名程が集まって聞き入っていた。何もわからない筆者が、周りをウロウロして厳しく叱られた。

戦後間もなく大阪市東住吉区の小学校に戻った。教科書は半分以上が黒く塗りつぶされ何が書いてあるか意味が全く解らない。

当時のおやつは「サツマイモの飴」や「干しバナナ」。甘い飴や本物のバナナがどんなに食べたかったか。今や4本のバナナがたった100円。信じられない。

東住吉区の小学校の運動場には木製の飛行機が残されていた。大阪市都島に近い淀川の河川敷・城北公園にあったのと同じカムフラージュ用ニセモノである。

講堂の屋上には2メートル四方、高さ1メートルの鉄柵があり入れないようにしてあったが、その真下には天皇陛下の写真(御影)が格納され、その上を踏みつけないように してあったのである。卒業までこの柵は残ったままだった。

食糧難はその後何年か続き、親父のお供でサツマイモや米を買いに信太山や岸和田あたりまで行ったりもした。現金は通用せず着物や骨とう品の品物との交換が原則。農家では「こんなもので米はわたせんな〜」といわれる。

せっかく手に入れたヤミ米(戦後もしばらく米は配給制度)を食糧管理法違反で臨検の警察官に没収されたこともあった。親父の情けない顔を思い出す。警察官は取上げた米を仲間内で食べていたと聞いたことがある。真偽は不明。(再掲)

2015年05月08日

◆絶滅危惧種の動物

渡邊 好造



胃の調子が悪いので、かかりつけの内科医の紹介で、近くの京都・山科区の病院に行った。

検査前の問診のため診察室に入り、目の前のパソコンの画面をふと見ると写っているのは、患者のデータではなく数種類の昆虫である。

甲虫類が中心で「先生、昆虫採集が趣味ですか?」と、筆者も小学生時代からの虫マニアなので思わず話しかけた。

先生はえらいところを見られたという顔をしながら画面を消そうとするので、「ここに写っている虫の名前はほとんど知っています。山科疏水道にいる種類もいますね。全部見せて下さい、、」といったことから、診察は後回しでひとしきり昆虫談義になった。

最近の医者は患者よりもパソコンの画面ばかり見ているので、初めての先生の顔はまず覚えていないがこの時ばかりは違った。医者にも昆虫マニアは結構多い、とのこと、、。

先生曰く『山科には桜並木が多いからタマムシが一杯いただろう、、、。それにしても昔に比べると虫の種類がどんどん減っていくのは残念なことだ。環境変化は昆虫だけでなくあらゆる動物に悪影響をもたらしている』、などと話はしばらくはずんだ。

肝心の診察結果は軽い胃潰瘍で大したことはなかった。

筆者の専門分野だったカミキリムシは、日本全国に6百種ほどいたらしいが、今では百種も残っていないのではないか。トンボも見なくなった。辺りが薄暗くなると餌の蚊を狙って空に群がっていた。その蚊が少なくなればトンボも減る。

住宅地の周りにいたイタチ、こうもり、ガマ蛙(イボ蛙)なども見なくなった。

日本人大好物の鰻まで絶滅危惧種になりかけている。大阪南部の大和川には鰻の子”シラスウナギ”が砂を掘るとウジャウジャ泳いでいたが、日本一の汚染川になり魚どころではなくなった。

河川の汚染は生活排水の垂れ流しが最大要因だが、なかでも合成洗剤の泡の影響が大きい。河川に溢れかえる泡を見て、いち早くその害に気付いた京都のメーカーが泡なし洗剤を製品化しようとしたが、汚れが落ちない気がするという消費者の調査結果から数年後まで製品化しなかった。

最近は河川の浄化が進んではいるがまだまだ元には戻らない。
ツキノワグマが民家近くへ出没し、人が襲われ殺されたり大けがをさせられるなどの被害も環境変化によるものだ。餌となるドングリが木々の伐採で少なくなり人家に下りてくるらしい。

結果は、山に戻されることなく殆んど射殺されている。最近、熊の被害が無いのは寒くなって冬眠しているだけのこと。同じことがまた繰り返されるに違いない。

人間は勝手なもので、数が減ってくると絶滅危惧種の動物に指定してあわてて保護策をとり始める。ツキノワグマも今のように殺していたら絶滅寸前になるに違いない。歌手・宇多田ひかるは大の熊好きで同じことを言っていたらしい。

コウノトリやトキなどを懸命に保護し絶滅を防ごうとしているが、もはや遅すぎて無駄なことに金を使っている気がしてならない。どんな動物でも個体数が2百以下になると絶滅は避けられないという。

近親交配で抵抗力がなくなり病気になりやすく子孫が増えない。保護するならまだ間に合う動物が一杯いるはずだ。

我が国の動物園では、ジャイアントパンダ一頭の年間借用料として中国に8千万円とか1億円を払っているらしいが、その金を日本の動物保護と環境保護にまわせばいいのに、、。パンダならレッサーパンダでも十分可愛いし、世界中にはもっと安くて珍しい動物は一杯いるではないか。

なお、筆者がこの10年ほどで採集した山科疏水道の昆虫は、昔のように捕虫網で追い掛け回したのではなく、鳥や蟻に食い尽くされる寸前の死骸ばかりである。(再掲)

2015年04月15日

◆新聞の責任

渡邊 好造



大学在学中のことだが、M新聞記者を永年経験された方の、週1回1時間半の4回集中講義「新聞学」を受講したことがある。

その講義の評価は、論文提出であった。

テーマは「新聞の責任」で、中味は自由。後で分ったことだが自分の意見が述べられていれば、たった一行だけでも優良可の最高合格点”優”が与えられた。

この時筆者が提出したのは、「記事は客観的に記述するのが新聞の責任」であった。

記事の書き方に、記者個人の考えへ誘導しようとするかのような書き方は気に入らない、といった内容である。

例えば記事のこんな結びの書き方―。

 1) 、、、今後各方面の批判を呼びそうだ。
 2) 、、、この件論議を巻き起こすに違いない。
 3) 、、、といった狙いがある、との見方がある。
 4) 、、、今後を占う意味で注目される事態だ。
 5) 、、、といった点は当事者にとって最大の難問になる。
 6) 、、、この結果は今後の行方にも影響しそうだ。
 7) 、、、より一層の責任が問われる。
 8) 、、、といった声が多く、このままだと一波乱ありそうだ。
 9) 、、、など事態の悪化は避けられそうにない。
10) 、、、予想以上に厳しい状況に追い込まれている。

といった表現の仕方だ。

客観性がなく、なんの根拠も示さずにまるで、世論がその方向に向かっているかのような記事の結び方はケシカラン、という他はない。

改めて50年前のことを思い出しながら最近の新聞を読んでみると、今もこうした表現の仕方は変っていないことに気づかされる。

1)〜10)のような見解には根拠が必要なのに、どう読んでも記者個人の意見なのではないかと思わせる場合がある。

社会面や経済面でも散見するが、納得のいかないケースは政治面に多い。

こうした気になる記事の書き方は未だに残っていて、上から目線で読者を馬鹿にしているように感じる。

新聞は週刊誌の視点と同じであってはならない。

当り前のことだが、記事内容は客観的な論拠を示すことが肝要で、もし記者個人の意見を述べ、世論を誘導したいなら氏名を明記したそれなりのコーナーを設けるか、”社説”として掲載すべきではないか。(再掲)