2012年07月07日

◆「道州制を狙え!」橋下市長

渡邊 好造


「大阪都構想」の特別区実現を目指した橋下徹大阪市長が、喜んでいるという。

民主党、自民党、公明党、みんなの党、国民新党の5つの党が、「大阪都構想」を実現するための法案の一本化に向けて6日、実務者が詰めの協議を行い、最終的に合意したからだ。

この構想実現のための新法案を巡って、民主・自民・公明・みんなの・国民新の5党は、これまで協議の結果では、道府県の名称変更を設けない方針を確認していた。それが、一転して「合意」になったのはなぜか。維新の会の動きに気を配った所為なのか。

だが、よく考えてみると、大阪市と大阪府の二重行政の廃止、財源の一本化を目指して「大阪都」を設置すると大きく打ち出したのに、中味はなぜか大阪市とその隣りの堺市だけだ。これでは単なる市町村合併に過ぎないではないか。少なくとも大阪府全体が含まれると思ったのに、全く当てが外れた。

橋下氏は今も人気絶頂のようだが、知事・市長の成果に期待して投票した人たちの間では、市町村合併、公務員の削減と給与カット、組合への圧力、文楽・交響楽団など文化事業への補助金中止、公営交通の民営化、敬老パスの有料化などには、疑問や批判が出始めている。

しかもこれらでいくらか市財政にゆとりができたにしても、有権者たちはそんなことでは満足しないだろう。
橋下市長の最終的な目標は、「大阪都」構想を基礎にして全国の道州制を完成させることではなかっのたか。

「大阪都」についてさらに言うなら、周辺の兵庫・和歌山・奈良・滋賀、なかでも京都など近畿全体をなぜ巻き込まなかったのか。

京都は”都”を東京にさらわれた恨みを明治以来受け継いできている。東京に対抗する住民気質は今でも大阪以上であり、その証が、天皇が永年住んだ御所、いずれも全国最初となる水力発電所の開設(琵琶湖疏水で水をひいた)、市電の運行、小学校の開校などの例がある。

いずれにしろ、この狭い日本国土に47もの道府県は多すぎる。北海道・東北・関東・中部・北陸・近畿・中国・四国・九州に知事が一人いれば十分である。今の道府県は、明治維新の折に各地の大名の領地をそのままにしてその殿様を知事に抜擢し、無理やり平定した名残でしかない。

沖縄の知事ごときに基地問題・新型ヘリコプター配備のことで、一国の防衛大臣に向かって「反対です。基地を閉鎖します。事故の責任は誰がとるのですか」などと、あんな偉そうな口のきき方をさせてはならない。国防の責任は全て国政がとるのが当たり前で、沖縄に中国・北朝鮮が攻めてきてその被害の責任は、知事がとるのか。

ちなみに、全国に47の道府県の他、市が783、町が811、村が193(平成20年10月版全国市町村要覧)もあり、1千8百超の豪華な庁舎に”長”が君臨している。

道州制にして知事は9人だけ、残りの38知事全員は市長に、市長は区長などに降格させ、8百〜2千前後の少ない得票数で居座る町村長とそこにぶら下がる議員は全員辞めてもらう。国会も参院は廃止、衆院議員数は100程度で十分だと考えられる。

橋下市長が今のような小手先の政策で満足していたら、4年先はないと覚悟するべし。ぜひとも大きな「道州制」を狙うべきだ。

ところがそんな壮大な計画はあまり見えない。期待し過ぎで,所詮は無理なんだろうなあ〜。(完)

2012年06月23日

◆「生きる」よりも「活きる」を選ぶ

渡邊 好造


新聞の有名人の死亡記事をみると、死因とともについ目をひくのはその年齢である。わが身に比べて長生きされたかどうか気になるのは筆者だけだろうか。

最近、死を迎えるのは80%以上が病院だそうである。今では昔のように自宅であらゆる手を尽くした後残念な結果になることはまずないといってよい。それも数年前までは、患者が例え意識を失い眠った状態でも血管から点滴で栄養分を送り、かなりの期間生きながらえることができた。

しかし、これにも限界があり血管が詰まったり、どうしても栄養分が足りなくなりいつまでも生きながらえるという訳にはいかなかった。

そこに今度は「胃ろう(胃瘻)」という新しい治療法が開発された。この治療法は、小説家・渡辺淳一氏の週刊誌連載エッセイでも取上げておられたが、意識のなくなった患者の胃に栄養分タップリの流動食を直接送り込む。したがって、意識はなくとも患者は延々と長生きできることになる。筆者かかりつけの内科医によると、「やってみますか」と勧める病院も増えているという。

点滴だったら精々3〜4年が限界だったのが、それ以上に症状が変らないまま長生きできるらしい。医学上目覚ましい進歩には違いない。患者の家族にとって大喜びのこともあろうが、当然のことだが治療費は計り知れない。

かといって途中で「胃ろう」を打ち切ってくれとは言えない。それを言うと”もう殺してくれ”となり、殺人罪に問われかねない。これではもはや”生き”ているだけで、”活き”ているのでは決してない。筆者は「生きる」よりも「活きる」方を選びたい。

そこでこんな迷惑な結果にならないよう次のような遺言書を残すことにした。もちろん異論があることは覚悟の上だし、本人死後のことだから守られなくともやむを得ない。

1)病気・事故などにより脳死状態、認知症などで通常の判断ができない、その他回復不能の病気にかかった場合、余分な延命処置、治療は一切不要のこと。とくに「胃ろう」だけは絶対ご免である。
2)死体処理は、法律上必要なことのみに限る。
3)寺、僧侶に関わる費用は使わない。葬儀、読経、戒名、祭壇など不要。焼場直行の直葬も可。(戒名がないと「三途の川」を渡れないと真剣にいう人がいた、、)

念のために申し添えるが、金が惜しくて言うのではない。死者も含めて既に死んだも同然の人に金を使うべきではなく、金は”活きている人”にこそ使うべきなのである。(完)

2012年06月02日

◆納得できない

渡邊 好造


1)原発事故に派生して節電が騒がれている。この夏昼間の家庭用エアコンストップ、交通機関のダイヤ間引き運転、エスカレーター・エレベーターのストップ、パチンコ屋の禁止、等々いろいろな施策が提案されている。

しかし、忘れていることはないか。日本国中にあるテレビ局の節電はどうなっている。局の廊下は照明が落とされ暗くなっているらしいが、そんなことではない。

いわゆる以前のアナログ・テレビ局は約110局あり、それがそのまま地上デジタル局として、どの局も同じ出来事、芸能ニュース、お笑い番組、韓国ドラマ、金環日食などを報じ、目新しさはほとんどない。

局数を半分以下にする、放送時間を3分の1にするなどテレビ局は自らの身を切る提唱をなぜしないのか。BSデジタル放送だけで十分ではないか。オイルショックの頃、NHKテレビは午前0時に日章旗をバックに君が代を流し、放送をストップしていた。今回、民放局にそんな様子は全くみられない。

2)東北大震災の後始末で数多くのボランテイアの滅私奉公が報じられ涙が出る思いだったし、全国国民にしっかりした絆があると確信した。

ところが、ガレキ処理となると引き受けた県や地区はごく僅かである。ガレキを引き受けるかどうかの全国どこの説明会の場も、放射能が国基準のはるか下でも語気鋭く声をはり上げて反対していた。

全国から数多くのボランテイアが応援していると錯覚させたマスメデイアの過剰報道でしかなく、大多数はあの災害を他人事だと思っているのではないか。

3)死刑囚ばかりがなぜ増える。現在120人以上の死刑が確定し収監され、執行を待っているらしい。冤罪が心配で執行を法務大臣がためらって命じないためもあるという。一人の死刑囚にかかる費用は年2千万円、もったいない話である。

かといって死刑廃止論は、国民の80%が反対だそうな。この種のことは国民の意見で決めることではなく、施政者の信念で推し進めるものである。世界の死刑廃止国は、国民の総意できめたところはまずないという。

米軍基地の設置、原発の継続、他国が日本に戦争を仕掛けてきてこれに応戦するかどうか、これらは全て政権政府の独断と偏見の最終判断が決め手で、国民の意見をのんびり聞いて決めることではないし、そんな余裕はない。

その意味では、日本国中の反対運動に直面しながら、結果の良し悪しはともかく日米安保条約を締結した元首相・岸信介の信念は今思えば”すごい”の一言につきる。

4)年収5千万円もあるお笑い芸人が母親に生活保護費を受取らせていた。週刊誌で報じられ大事になったらしく、けしからん話だと思う。生活保護費受給者約209万、支給額12〜13万円で医療費は無料とのこと。こんなインチキは他にもあふれているらしい。公金横領罪で告訴するべきではないか。袋叩きあったこの芸人はしばらく仕事が無くなり、その母親とともにまた生活保護者におちぶれるだろう。

とはいえ、国会でわざわざ追求する事象ではない。小沢一郎の隠し金4億円の出所を明らかにすることの方が先ではないか。証拠の有無に関係なく実に不愉快だ。小沢が有罪になるなら増税大賛成、、。 

3)伊丹空港を関西空港に吸収し、廃港にする案が出てきた。地元は廃港に大反対らしい。しかし、伊丹の代わりに関空を造ったのではなかったか。

伊丹の住民は、空港の騒音などその弊害をやり玉にあげ移転ができないならと、いろんな要求をした。道路の拡充、二重窓、エアコンの取り付け、免税などなどである。ところが、いざ伊丹廃港となると反対とはどういうことか。これまで受けた恩典は今まで通り継続とは言わないだろうな。
(完) 

2012年05月07日

◆定年後の生活をどう過ごす

渡邊 好造


週刊新潮4月26日号で作家・渡辺淳一氏の連載エッセイ”あとの祭り”で、「定年まで勤めあげてから」を読んだ。

日本が高齢者社会となり、当の高齢者たちはどんな生活をしているのか、東京世田谷区が「65歳以上の高齢者10万人について平成22年に調査」した結果を取り上げている。

それによると、「ほとんど家で過ごす」が42、5%、「自分の部屋の中」が3、6%などなど、一日中自宅の敷地内で過ごし一歩も家を離れない人が72、4%に達した。これは特に男性により高率で、男ははっきりとした目的がないと外に出かけないせいだとかだとなっている。

そこで思い出したのは筆者が60歳前、現役で仕事に精を出していた頃だから、17〜18年位前の同じ週刊新潮”ビジネス・TEMPO”の記事だった。

「定年後に妻から言われてドキッと胸刺す一言」というもので、今井総合研究所が定年後2年、57〜65歳、大手から中堅会社で部課長クラス、年収は800〜1400万円の人たちを対象とした結果である。

1位から順に10位までを紹介すると下記の通り。
1)これから仕事どうするの
2)何か趣味はないの
3)どうして三度も食事するの
4)誰かと旅行にいったら
5)子供たちの結婚相手身近にいないの
6)義母(義父)の面倒どうするの
7)ゴロゴロ寝てテレビばかり見ないで
8)残っているローンの返済どうするの
9)退職金の一部何に使ったの
10)散歩でもしたら

1〜4位までは家に亭主がいない方がいいということ。定年まで仕事一筋できて急に趣味を持てとか、食事を三度もするなと言われても、、、。誰かと旅行しろという前に何故一緒にと言わない、、などなど。亭主にすればつい逆らいたくなるまさに「ドキッと胸刺す一言」ばかりである。

しかし当時の筆者は、健康そのものでどんなに遅く帰宅しても翌日は定刻出社、子会社の社長だったから定年後もしばらくは保障されている、趣味はゴルフ・小型船舶免許でエンジン付きボートによる釣り・投網による河川漁・昆虫採集など、ローンはなし、子供は既に独立といった具合で妻に嫌味を言われることはなかった。だから、この記事は全く他人事だった。

ところが、親会社はバブルの崩壊もあって経営が行き詰り、子会社の社長業務も終了、それでもしばらくは原稿作成の仕事が続いたものの、健康自慢の体は年齢とともに無理が効かない。医者からのお達しもあり、体力のいる趣味は程々にすることにした。

今では時折の医者通い、メルマガの投稿、京都市老人優待パスを利用した近辺のウィンドウ・ショッピングが中心で、納屋にはゴルフ道具、釣り道具、エンジン付きボートなどの不用品が山積みである。
「週刊新潮の嫌味な記事」が全身にのしかかっている。(完)


2012年04月12日

◆戦争終了前後の悪夢 

渡邊 好造


先日、NHKテレビの特別番組で「太平洋戦争時のアメリカ軍B29爆撃機による東京大空襲の惨状」の記録フイルムを放送していた。1944年の11月〜45年3月にわたる100回以上の猛爆で東京は惨たる有様となった。

死者8万人の大半が民間人で、原爆の死者30万人とをあわせ考えると、アメリカ・ニューヨークビルへの飛行機突入で被害者約5千人(一部気の毒な日本人もいたが)を出した9.11事件について、アメリカ人に非難する資格は全くないと改めて指摘したい。

筆者が育った大阪にも1945年3月頃に大空襲にあったが、直前まで住んでいた大阪市都島区から市内の南端の東住吉区に移転し被害を免れた。しかしここでも300メートル近くまで空爆を受けたが、幸い被害はなかった。

当時、電気は通じていたものの、明るくするとそれを目当てに爆撃されるとして、裸電球に黒い布を被せて戸外に明かりが漏れないようにしていた。空襲警報のサイレンがなると真夜中でもたたき起こされ、防空壕に避難しなければならない。

自宅に風呂はなく銭湯に行くのだが、日が暮れると街燈がなく真っ暗。各家の壁に20センチ幅の白いペンキが一直線に塗られていて、それを目印に家に帰る。ところどころの壁に”3人の日本兵士が銃剣を構えているポスター”が貼ってあり、「鬼畜米英撃滅」と、大書してあったのが今でも記憶に残っている。

戦局が悪くなり本土爆撃が増えてきたため、小学校(国民学校)3〜6年生の子供は、戦争被害を避けるため、都会から田舎へ”集団”疎開または親戚などに”個人”疎開するかを強制選択させられた。

筆者は1年生だったが、叔父夫婦が住む泉北の信太山(現・大阪府堺市の南、関西空港はさらに南)に預けられた。

信太山地区は、周りの殆んどが田圃か田畑で住宅はひとかたまりだった。住宅周辺の1メートル程の水路にはきれいな水が流れ、水藻の間にドジョウが一杯泳いでいたし、小川にはフナ、モロコが手網があれば捕り放題。しかし、これを食べようという習慣はなかった。

田舎だったから大きな敷地に大量の鶏を飼育し、鶏の卵に不自由はなかったものの、鶏の食べるエサの水草やイナゴやバッタを捕獲するのには苦労させられた。家の中のドアを開けたら、ヘビが目の前にドサツというのも何回か。

叔父は会社員だったから食糧不足で、疎開時の思い出はとにかく空腹であったこと。ジャガイモやサツマイモの掘り起こされたあとに残る小さなカケラを小川の石でこすって皮をむき生でかじったり、鶏のエサ用にとらえたイナゴの長い足だけとって食べたこともある。生きたイナゴは甘い味で美味かった記憶がある。

この頃、世の中にこんな美味い物があるのかと思ったのが実は砂糖だった。今思えば馬鹿みたいな話。

天皇陛下の終戦の詔勅は1945年 8月15日。叔父の家のラジオで近所の人たち15名程が集まって聞き入っていた。何もわからない筆者が、周りをウロウロして厳しく叱られた。

戦後間もなく大阪市東住吉区の小学校に戻った。教科書は半分以上が黒く塗りつぶされ何が書いてあるか意味が全く解らない。

当時のおやつは「サツマイモの飴」や「干しバナナ」。甘い飴や本物のバナナがどんなに食べたかったか。今や4本のバナナがたった100円。信じられない。

東住吉区の小学校の運動場には木製の飛行機が残されていた。大阪市都島に近い淀川の河川敷・城北公園にあったのと同じカムフラージュ用ニセモノである。

講堂の屋上には2メートル四方、高さ1メートルの鉄柵があり入れないようにしてあったが、その真下には天皇陛下の写真(御影)が格納され、その上を踏みつけないように してあったのである。卒業までこの柵は残ったままだった。

食糧難はその後何年か続き、親父のお供でサツマイモや米を買いに信太山や岸和田あたりまで行ったりもした。現金は通用せず着物や骨とう品の品物との交換が原則。農家では「こんなもので米はわたせんな〜」といわれる。

せっかく手に入れたヤミ米(戦後もしばらく米は配給制度)を食糧管理法違反で臨検の警察官に没収されたこともあった。親父の情けない顔を思い出す。警察官は取上げた米を仲間内で食べていたと聞いたことがある。真偽は不明。

ところで、今、福島原発の事故で電力事情が大いに問題視されているが、その電気に関して、云々。

戦後の一時期、我が家の電気使用料金は”定額契約”で計量器は付いてなかった(他軒のことはわからない)。各部屋で使用する電灯などのワット数が決められ、それ以上に勝手に使ってはいけない。

そのため違反を摘発する電力会社の検査員が不意にやってきて、有無を言わせず家の中に上り込み、”違反があるに違いない”といった態度でくまなく調べて回る。もし電熱器などを内緒で使っていたりすれば高額の罰金を取られる。今なら大問題になるに違いないプライバシーもへったくれもない、強引な行為であった。

先ごろ東京電力が「この4月の料金値上げに応じないと電気を止める」と発表していたが、この時の東電会長の傍若無人で傲慢な態度は、古い昔の電力会社検査員に共通したものを感じた。(完)

2012年03月22日

◆日本のテレビ局 

渡邊 好造


日本には数多くのテレビ局がある。47都道府県全てにNHK以外に2〜3局あり、筆者の住む関西地区ではBS放送以外に地上デジタル局だけでも10局が放送している。

ところが、その放送内容たるや実にお粗末極まりない。果してこんなに多くのテレビ局が必要なのか。
特に昼間の番組は酷い。とっくの昔に亡くなった俳優が主人公のドラマの再放送、韓国から安く輸入したドラマなどが多い。

2時間にわたる報道番組だと思って期待してスイッチを入れると、そのうちの約半分以上を占めるのが「自称靈脳師に騙され、持ち金の殆んどを巻き上げられた女漫才師の話」、「芸能人同士の男女がやることをやった結果、腹に子供ができたので仕方なく結婚する話」、「60歳の爺が40歳も年下の女性と結婚した話」、あとは「東日本大震災のガレキがいっこうに片付かない話」ばかり。

どこか1局が代表して放送すればいいことで、いっそ交代で放送をやめれば電気代の節約にもなるのに、、、。

さらに夜のゴールデンアワーの番組はこれまた酷い。吉本興業や松竹芸能のギャラの安いお笑いタレント総動員である。東日本大震災の直後しばらくは目障りな善意の押しつけのような”AC(公共広告機構)”に乗っ取られて、お笑い番組を自粛していた時期もあった。

元のおちゃらけ番組全盛に戻るのに1クール(3か月)もかからなかった。ひな壇に並んだお笑いタレントが、司会者に誘導されたテーマに対して、”眼をむいて大口開けて立ち上がり、指さしながらスゴーイの一言”、無理やり笑いと驚きを強制する。ただそれだけの内容でしかない。

東日本大震災の前後でテレビコマーシヤルスポンサーに少し変化がみられた。以前は、小口金融会社(消費者金融)、パチンコ機器メーカー、育毛・かつらなどの薄毛対策、化粧品、生命保険、通信販売などが中心であった。

ところが、最近ほとんど消えたのが”小口金融会社”の広告で、貸出金利の上限規制(20%)により、これまでに払った過払い金利の返還請求が続発し、経営が成り立たなくなったのである。テレビコマーシヤルや交通広告などを大々的に展開し返還請求の可能な客集めをしているのが司法書士事務所(一部の弁護士事務所)である。過払い利息請求業務の手数料は上限いくらと決められていないから一説によるとボロ儲けだそうな。


利息の過払い請求で思わぬ金を受取った消費者は、貸金業界の不良債務者リストに載るからまともな借金は今後当分できないことに気づいていない。

いったん客が納得して払った貸金の利息(従来は29、2%)が高すぎたとして、代理人(司法書士など)が客に代わって払いすぎた利息分を業者から法律(最高裁判決)をたてに遡って無理やり取り立てる。かろうじて倒産を免れた貸金業者はそんな客に2度と金を貸すわけがない。

その他、最近目立つテレビスポンサーは、男性よりも女性対象の薄毛対策、老人向け保険、安い自動車保険、化粧品、通信販売といったところであろうか。

テレビ局にとっての通信販売は、大幅に割引しないと通常では販売できない腐った時間帯で割増料金をとれるというから、大変おいしい対象業種なのである。

ところで、近頃ACのコマーシヤルにとんとお目にかからなくなった。震災直後は「お互いに助け合おう」、「困った人を助けよう」、「絆を大切にしよう」とあれほど言っていたのに、、。ガレキ処理の進まない今こそ多少の放射能などは大丈夫だからとして、全国の善意をあおる時期ではないか。

ついでながら、ACは善意の多くの企業から年会費を徴収して運営している。筆者がある会社の経営を担当していたとき年会費は8万円、無駄の排除で直ちに脱会した記憶がある。現在の年会費は12万円と聞く。

日本全国の会社は160万社(?)、そのうち1%がACに加盟したとしても、約20億円の金がうなっているはず。ACは全国に向けてガレキ撤去キャンペーンに今こそ一役買うべしである。ここにも多くの天下りがはびこっているのだろうか、、。(完)
 

2012年02月27日

◆違和感を感じさせる15章

渡邊 好造

                                                                                                〜テレビ・新聞報道や身近に発生することで違和感を感じさせる15章〜

1)大震災などに遭遇した際にすぐにでも逃げ込める頑丈な4人家族用のカプセルがあるらしい。津波、地震、火災にもビクともせず、約10日間の食糧、日常必需品も完備され、購入価格は2千万円位。突発時に素早くそのカプセルに中に逃げ込んだとして、10日目に無事出てきたあと、周りに何にもない下界で生活できるのだろうか。

2)最近あまり聞かなくなったが、体に良い効果があるとして”ラジュウム温泉”という銭湯が日本のあちこちにあった。肩こり解消のためのゲルマニュウムというのもある。ラジュウム、ゲルマニュームは放射能の一種で有害ではないのか。セシュウムとどう違うのか。

3)福島の原発事故についてテレビのインタビューを受けている避難男性。この男性、放射能の今後の不安を滔々と述べながら、タバコをプカプカふかしていた。放射能よりニコチンの有害性を強調する学者も多い。

4)東日本大震災や福島原発事故で発生した大量のガレキの処理が行き詰っている。東京都はいち早く受け入れたが、その他の地域は拒否しているようだ。震災発生当時は日本国全体で支援するはずではなかったか。いざ我が身に降りかかってくるとこんな結果になる。京都でも大文字焼きに福島の木材を使うとなって反対運動が起きていた。

5)我が家の近くのコンビニが売り上げ不振で閉店し、跡地に葬儀場が開設されるとして大反対運動が起っている。駐車スペースは10台位、茶色一色の平屋建。今流行の家族葬や友人知人のお別れ会に使われる会場で、遺体を焼くわけではないから煙も臭いも発生しない。反対理由は住宅地にそぐわない、地価が下落するというもの。みんないずれはお世話になるところなのに、、。

6)1945年(昭和20年)アメリカは広島と長崎に原子爆弾を投下した。まさに放射能の塊といえる。あれから67年、放射能など何処かに置き忘れ、記念碑だけの大都市に発展している。この時の原爆放射能と今回の福島原発事故での放射能との違いはあるのだろうか。どこがどう違うのだろうか。

7)飲料水自動販売機には、「緊急災害時対応型販売機」と表示されているものが多い。非常時には無料で取り出せるらしい。しかし、一人1個ずつ良心的に取り出してていくだろうか。日本人全員がそんなに秩序正しく、良心的だろうか。

8)内閣支持率、政党支持率、タレントの人気度、あるいはテレビの視聴率などいろいろな統計結果が新聞・テレビで取上げられることが多い。内閣支持と不支持率は明らかに差があり別格として、結果の評価についてわずか1〜2パーセントの差をとやかく云々するのはどうか。

調査対象者はせいぜい2千サンプル。調査誤差があることを忘れてはいないか。仮に、東京都区部人口を対象にしたとして、2千サンプル位では±5%の誤差をみておくのが統計学の常識であろう。

9)車のナンバーは最近希望どおり好みのものが選べるらしい。そのせいか「111」、「222」、「1234」、「1818」(いやいや)、「3939」(さんきゅう、さんきゅう)といった覚えやすいものが目立つ。

珍しいこんなナンバーを選び自慢したい気持ちも分らないではない。しかし、こんなナンバーだとなにか法律違反や悪事をして逃げる時にたちまち覚えられて不利なのではないか。そんなことを考える奴にこそ違和感ありか、、、。

10)車メーカーは次々と燃費がよく新性能を備えた便利で素晴らしい車を発表する。しかし、昔からいっこうに進化しないのが雨天の時に稼働させる”ワイパー”である。車だけではない。新型高性能の飛行機も未だに”ワイパー”は同じのようだ。

11)フィギュアスケートの大会で、選手の演技が終るとたくさんの花束やプレゼントがリンクに投げ入れられる。あの品々にはプレゼント者の名前が記されているのだろうか。そうでないとすれば何のために高額の品を、、、。ファン心理は理解できない。ひょっとして選手自身が金を出して投げ入れるようにしたヤラセなのか。

12)日本の国歌、国旗に敬意を示さない学校教師に罰則を科す、というのが橋下大阪市長。この不可解な教師たちは日本が嫌いなのか、国歌、国旗は不要というのか、自分たちの好みに合わないのか。好みに合わないのなら、好みにあう独自の案を出せばいい。


そういえば、韓国や中国が日本憎しで日本の国旗に火をつけ、踏みつけにしている光景をテレビ・ニュースでよくみるが日本人で腹を立てる人がどれだけいるか。君が代、日章旗が日本人にとって神聖なものだと教育された記憶はない。

13)原発事故のせいで盛んに節電を叫ぶが、それならテレビ局を半分に減らせば一番手っ取り早い。関西地区の地上デジタル放送局だけでも10局以上もある。それも毒にも薬にもならないお笑い番組か、韓国ドラマが満載。

14)インフルエンザが今大流行。帰宅したらウガイ、手洗いの励行を徹底し部屋の温度、湿度にも気配りしないといけない。そこで、温度計と湿度計が左右に備わった計器を買うことにした。

デパートの売り場の一角にはいろんなメーカーのものが並べられていた。ところがどの計器も温度表示は一定だが、湿度はバラバラで一定しない。展示された湿度表示の平均値のものにしたが、湿度計はあまり当てにならないようだ。

15)沖縄・仲井真知事は訪問してきた担当大臣に対して「普天間基地は、都会の真ん中にあるのです、、、」と言っていた。ちょっと待て 。普天間基地ができるまでは周りは雑木林だった。その後従業員が住む住宅が建ち、基地を目当てにしたいろんな人びとが住みついて、基地のあとから都会ができたのだ。

米軍基地を県外 に移転し、騒音も危険もなくなったとして基地を目当てに生活している人に今後どう対処するのだろう。そういえば、沖縄住民の基地賛成派と反対派の割合を見たことがない。本当に反対派が大勢を占めているのか。(完)

<山科だより・寄稿者>  (評論家)

2012年01月17日

◆ボールペンの今昔

渡邊 好造


ボールペンは昭和25年(1950年)頃にアメリカから渡来したと、全国版メルマガ「頂門の一針」主宰の渡部亮次郎氏が書いておられた。そう言えば、私もボールペンについて思い至ることが多い。

今でこそボールペンは筆記具の代名詞といわれるほどの高い地位を占めているが、私が広告代理店調査部に勤務し、調査報告書作成に取り組んでいた昭和40年(1965年)前後は、まだそれほど普及していなかった。

主流は鉛筆、万年筆、カブラペン(ペン先をインク壺にその都度つけるつけペン)で、ボールペンはあまり使われていなかった。ボールペンのインクがボタおちしたり、途中でかすれて書けなくなったりなど、性能が良くなかったこともその理由であった。

あるボールペン・メーカーの依頼で、いまひとつ普及しない「ポイント」を探るよう調査依頼があった。

結果は、性能もさることながら正式な文書、手紙には不向きで、受取った相手に対して失礼にあたるというのが、大半の意見であった。

その後約15年経って、金融会社に転職した頃のこと。多額の融資をしてくれていた生命保険会社・明治生まれの会長(当時85歳位)から、わが社社長宛に筆書き巻紙のクレームが届いた。

「○○社長さん、手紙にボールペンはよくありません、、、」とのこと。

ボールペンの手紙は秘書の代筆であったが、秘書は次の詫び状をワープロでうち、末尾に社長自筆のサインをつけた。ところが、相手の会長からより以上のお叱りの言葉。

「ワープロはボールペンよりもより以上に失礼ですよ」、「筆書きが駄目なら、せめて万年筆にしなさい」であった。

実は、ワープロの原稿が私のつくったものであったため、以後先方の会長宛ペン書きの手紙と署名の仕事が回されてきた。

その後約10年程、社長の手紙は、全部私の癖字が使われた。「○○社長はなかなか味のある字を書かれますね、、」との返書を寄こした人物もいたらしい。とても褒め言葉とはおもえないが、、。

私はある時、件の会長と銀座の料亭でお会いする機会があり大変な歓待を受けた。「今日は若いオネーサンを大勢よんでいます、、」ということで楽しみしていたところ、宴席に侍ったのはみなさん60歳以上のオネーサンばかりだった。90歳以上の会長からすれば若いオネーサンには違いなかった。

もちろんお礼状を会長宛にださなければならない。私の字ではまずいので部下に万年筆を買ってこさせて代筆させた。

私の現在使用中のボールペンは、パーカー、モンブラン、ランセル、テイファニーなどブランドものだが、普段は10本袋入り105円のグリップが透明のいわゆる”見える見える”という代物である。(完)

2011年07月08日

◆山科だより 「近辺の資料館・博物館」

渡邊好造


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山科は京都市内でありながら京都中心部へよりも滋賀県大津市へ向かう方が買い物も交通の便も何かと好都合なのである。

JRでの大阪への通勤はもちろん山科からの方が便利だが、周りの環境がよく住宅事情では滋賀県の方が断然割安で(地価は山科の半分以下)、なかでも草津、栗東、守山3市の人気が高い。大阪に勤務する人たちにとって手早く広いスペースの我が家を手に入れるには、滋賀県が恰好の住宅地だろう。

そんな注目の滋賀県の資料館・博物館のうち、山科に隣接する大津市の目を引く、私営舘を3つ紹介する。

1)「南郷水産センター」 ・運営=滋賀県漁連 ・所在地=大津市黒津 ・入場料400円小人200円 ・9時30分〜17時火休(祝営業) ・JR石山駅から京阪バスのりかえ南郷洗堰停留所徒歩5分

琵琶湖の周りには数多くの河川がある。ところが、全て注ぎ込む河川で放出するのは大津市の瀬田川のみである。瀬田川は大阪市の淀川につながる。この水量を調節するのが”南郷洗堰”でそのほとりに「南郷水産センター」がある。

昭和41(1966)年に”さかなと自然と人間とのかかわり”をテーマにして淡水魚専門に開設された。コイやマスに餌を与えたり、アユの塩焼きを食べたりで親子連れで楽しめる。

2)「近江神宮時計舘、宝物館」 ・運営=近江神宮 ・所在地=大津市神宮町 ・入館料300円、中以上150円 ・ ・9〜16時30分 月休(祝ok) ・JR大津京駅徒歩15分。

昭和38(1963)年の開館。2階は宝物館、1階の時計舘には江戸時代の櫓時計、4千年前に中国で使われた火時計、大化の改新のころの漏刻時計(水時計)など約百点が展示されている。

近江神宮は、昭和15(1940)年の皇紀2千6百年に創建され、正月3が日は初詣客で車と人で一杯になる。

3)「大津絵美術館」 ・運営=圓満院門跡 ・所在地=大津市園城寺町 ・入館料=300円、高200円、小中150円 ・9〜17時 無休 ・京阪電車別所駅徒歩5分。

昭和46(1971)年開館。圓満院門跡宸殿横に併設されている。

大津絵は、江戸初期から縁起物として無名画家の神仏画を販売したのが始まりで、鬼や藤娘の絵をメインにして風刺や教訓をこめ、朱色が印象に残る画風である。山科の民家ではこの絵の掲額をよくみかける。(完)

写真・左=近江神宮、右=大津絵の鬼の木製人形

2011年06月25日

◆山科だより「拙宅周辺の案内―A」  

渡邊好造


拙宅周辺の旧跡には各方面からの観光客が地図を頼りに訪れるが、いずれもハイキングスタイルが多く、京都の中心地、例えば鹿苑寺金閣、京都御所、清水寺の訪問客のような軽装でないのが特色である。

周辺はれっきとした住宅地なのに、とこれまでは不思議に思っていた。一つには京都市の観光案内の記述が目的地までアップダウンがあり、交通機関を降りてすぐでない個所が多いと書かれている所為もある。それと、私が現住地に移転した頃は足腰に自信があったので、駅からの上り坂が気にならなかっただけのこと。最近はハイキングコースも納得である。

そんな拙宅周辺半径1キロの見所を写真を添付しての紹介2回目で、前回「山科だより・琵琶湖疏水」の続編。

1) 山科第1疏水の第2、第3トンネル入口と出口の扁額(写真左・第2トンネル出口)
約11キロの琵琶湖疏水とそれに付帯する12か所の施設は、その全てが平成8(1996)年に国の重要文化財に指定された。うち5か所は山科近辺を流れる通称・山科疏水にある。これが第1疏水で明治23(1890)年に完成した。第2疏水は、依然にも触れたように第1疏水のすぐ北に明治45(1912)年暗渠として造られた。

第1疏水は発電と灌漑用、第2疏水は上水道用である。琵琶湖から京都へ灌漑用の水を引くいてはとのアイデアは、豊臣時代からあったらしい。主目的は多少違うものの、約3百年後に実現したわけである。

第1疏水には3つのトンネルがあり、それぞれの出入口に明治政府要人の筆による扁額(石額)が残されている。扁額は、中国古来の扁書体(字体から雫が垂れているような特殊文字)で書かれている。政府要人を動員してわざわざ書かせた扁書体文字、ここにも東京には負けられないとの京都の意気込みが窺える 。

第2と第3トンネルは、拙宅から200メートル以内にある。
第2トンネルの入口には、明治時代の初代総裁・伊藤博文のもとで外相、蔵相を歴任した井上 馨・筆の「仁以山悦智為水歡(じんはやまをもってよろこび、ちはみずをもってなるをよろこぶ)=仁者は動かない山をもってよろこび、智者は流れゆく水によろこぶ」とある。

同トンネルの出口には、明治の軍人で西郷隆盛の弟・西郷従道・筆の「随山到水源(やまにしたがいすいげんにいたる)=山に沿っていくと水源にたどりつく」。

第3トンネルの入口には、明治政府の財政を担当し日本銀行を創立した松方正義・筆の 「過雨看松色(かうしょうしょくをみる)=時雨が過ぎると鮮やかな松の緑がみられる」。

詳細は省略するが、第3トンネル出口には三条実美(内大臣)、第2トンネルから3キロほど上流の第1トンネル入出口には伊藤博文 と山県有朋(内大臣)らが、扁額に揮豪している。

2) 日本最初の鉄筋コンクリート製の橋(写真右)
山科第1疏水の第3トンネルの東出口をでたところに、中央が少しふくらむアーチ型の幅1メートルほどの橋がある。これが日本最初の鉄筋コンクリート製の橋で、琵琶湖疏水建設工事の中心技師・田辺朔郎が外国の技術援助なしに建造した。

田辺は東京工部大学(現・東京大学工学部)卒の技師で疏水完成時は29歳、京都帝国大学(現・京都大学)の教授を務めた。

西洋文明の工業技術を鵜吞みにすることなく、独自の新たな方向性を見出し、咀嚼し完成させていったのが明治維新後の日本であり、わずか百年余りで先進国西洋にあらゆる面で追いついた秘訣がここにある。その後建造された山の谷橋、トンネル出入口の扁額はすべて国の重要文化財に指定されている。

山科は日本の近代工業技術の発祥の地であるといっても過言ではない。

橋は今も利用されていて建造当時は欄干がなかったが、現在は転落防止用の柵が設置されている。安全上無理もないとはいえ柵の色(茶)、形状(直線)は、周囲との調和をもう少し考慮すべきではなかったか。(完)

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2011年06月03日

◆山科だより「拙宅半径1`の案内」@

渡邊好造


一連の山科だよりで京都市山科区とその周辺のあらましを歴史、由来を交えて紹介してきたが、振り返ってみるとそれぞれで説明しきれなかった点が多々あることに気づく。

それを補足する意味もこめて、拙宅近辺1キロ周辺から順に、旧跡や特色のある所を写真を添付してご案内したい。これまでと多少の重複は覚悟で今回はその1回目。

山科は風光明媚な観光地だとは決していえないが、周囲は山に囲まれ、まだまだ自然が一杯の地域である。

ところが、市当局からは格下別格扱いの田舎家の奥座敷のような扱いをうけている。京都市街地中心部の整備上、広大な面積を有していて持て余し気味だった建物(神社仏閣、刑務所など)を排除し移転させるのに、山科は恰好の土地として利用されてきた。

おまけに、スペースの余裕がないこともあろうが、移転させた神社仏閣を京都案内パンフから除外してしまうので、いずれも知名度は低い。

1)  旧・鶴巻鶴一邸
拙宅から約200メートル、山科区御陵大岩にコンクリート製2階建ての珍しい洋館がある。

建築家・本野精吾が明治時代を彷彿とさせるモダンな建築物を10余り造ったうちの1つである 。京都の染色学者・鶴巻鶴一が居住していたので、旧・鶴巻鶴一邸といわれる。

鶴巻は、明治35(1902)年創立の現・京都工芸繊維大学の2代目校長を大正時代に務めたことで、京都では有名人。この旧・鶴巻邸は昭和初期のモダニズム建築の先駆けとして保護されている。見学可能なのは外観のみで、文化財としての登録もない。住人はいないが、邸前に駐車しょうものなら管理人が飛び出してくる。

2) 山科第1疎水
山科疏水は、正式名を琵琶湖疏水といい、第1と第2がある。山科近辺に流れる辺りを山科疏水と呼び、第2は暗渠になっていて見ることはできない。旧・鶴巻鶴一邸の北側のすぐそばを流れる。

京都市が産業用水力発電所建設を目指して111年前の明治23(1890)年に完成した約11キロの水路で、琵琶湖の滋賀県大津市観音寺、三井寺付近を起点に山科を経由して、京都市左京区蹴上に至る。

明治維新後、首都が東京に移つりこのままだと京都は沈没するとのあせりが生み出した蹴上発電所は明治24年に稼働し、28年には国内初の市電が走った。市電は昭和53(1978)年廃線となったが、また復活させようとの壮大な計画がある。

疏水に沿って約1、5メートル幅、3キロ強の散歩道があり、春には桜、秋には紅葉を目当てに人が集まる。疏水は山の中腹の高台にありここから山科市街が一望できる。

この第1疏水の北側に上水用の第2疏水が明治45(1912)年に完成し、左京区蹴上浄水場に注がれている。

琵琶湖疏水全体が国指定の重要文化財であり、写真の桜に囲まれた山の谷橋も同様である。
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(完)

2011年05月23日

◆東日本大震災の報道で思うこと

渡邊好造

東日本大震災の津波の惨状はすざましかった。まるで波に命が吹き込まれて人間に襲いかかってきたかのような錯覚を起させた。恐ろしい魔物が大口を開けて東日本の海岸地帯の町と人々を飲み込んでいった。

住民の受けた衝撃と恐怖はいかばかりだったか。そのあとの原発事故はまさに人災というべき余分なものといえる。

かろうじて癒された気分になったのは、世界各国を初め多くの人の自発的な善意である。いち早い復興支援のボランテイア活動、多額の義捐金など日本中が東日本の応援に立ち上がったのは驚きであった。

海外メデイアは、すさまじい被害にあいながらの日本人の秩序正しい行動を絶賛していたらしい。

一方で、この機に乗じて悪事を働く奴もいたのは残念である。

流された車からETCカードを抜き取る、金庫やATMから現金を盗むものが続出したらしい。これをやったのは日本人でなく外国人ばかりだという被災地の人もいたが証拠もなしにこれは言い過ぎである。

さて、テレビ報道をみていて気になったこと。

天皇皇后両陛下が膝をおって慰問されているのに対して胡坐をかいたまま、、、。足が痛くて正座できないなら椅子ぐらい用意するべし。

福島県知事が東京電力社長に対して「福島原発は再稼働しないとここでハッキリ約束してください」と大声で怒鳴っていた。東電原発のお蔭で約7千億円もの交付金・税金が福島の街を潤していたというではないか。そんな恩恵を受けていたならもう少し丁寧な言い方をするべきではないのか。このでかい態度は背後の選挙民を意識してのパフォーマンスとみた。

避難所のオバサンの「菅総理お願いがあります」に対して、菅総理は「何でしょうか」。オバサン曰く「今すぐ総理を辞めてください」。このオバサン、そんな偉そうな口をきいて自分を何様だと思っている。

同じく避難所で菅総理に対して「もう帰るのですか」と大声を出したオッサンがいた。「お帰りになる前に聞いて頂きたいことがあるのですが、、」と丁寧になぜ言えない。いくら頼りない、人気がないとはいえ、一国の総理に対して失礼ではないか。

これもオバサン、「原発は止めてください。しかし交付金はそのまま続けてください」。町財政の4割を原発に依存している所もあり無理もないとはいえ、それはムシが良すぎる。東電社長に土下座させ謝らせていた人もいた 。こんなことまでさせて何の得がある。憂さ晴らしにしかならない。

どれもこれも理屈の通らないことや、立場をわきまえない、相手に対して失礼な態度であり、口のきき様である。東北人はズーズー弁を捨てて標準語を覚えたが礼儀を覚えることを忘れているのではないか。

善意に解釈すればいずれも数少ない事例なのかもしれない。だとすればテレビはこんなみっともない、図に乗った、礼儀知らずの東北人の姿を映し出すべきではあるまい。

今一つ何を意味するのかよく分らないのは”がんばれ”、”がんばろう”である。「がんばろう日本」、「東日本がんばれ」などのキャッチフレーズがやたら登場する。

広辞苑によると、”がんばる”とは「どこまでも忍耐して努力する」「我意を張り通す」とのこと。被災した人にとっては、辛いことだが辛抱するしかないということになるが、被災者でないその他の人は何をどうすればいいのだろう。

ある人が週刊誌で書いていた。「人との別れ際や励ますのに”がんばれよ”、”元気でな”、”体に気を付けてな”などは普通に使う言葉だが、こうした言葉を絶対に言えなかった時があった」。

その人の仕事は刑務所の刑務官で、担当していた死刑囚が早朝に死刑の執行を言い渡され、刑場へ行く途中で別れの挨拶に来た。もうすぐ吊るされて死ぬ人にどう言えばいいのか、ただ黙って相手の顔をみつめ続けた、とのこと。

日本での死刑執行は何人かの人間を残酷に殺害した報いだろうが、この刑務官の話の場面だけ想像すると哀れを催す。

ことほど左様に相手への態度、言葉の使い方は複雑で難しそうにも思える。要は相手がどういう立場の人か、今どんな心境にあるのかを配慮しさえすればいいことではないのか。(完)



2011年05月15日

◆山科だより「近辺の資料館・博物館F」

渡邊好造


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京都市山科区の東隣りは滋賀県大津市。大津市は京都市に比べてロ-カル色が強い。しかし、日本一の水がめ琵琶湖の余禄と都会を逃れた多くの企業群に支えられ、大津市はもちろん滋賀県全体は京都よりはるかに裕福なのである。

住民税、水道代など公共料金は京都より安いし、道路は縦横に巡らされ完璧、大津市にはオペラハウス(滋賀県立芸術劇場びわこホール)、長浜市にはド-ム球場もある。

ちなみに、大津市のオペラハウスは、国内有数の設備を誇り、オペラ、クラシック音楽、バレー、演劇などが催される。

3〜4面の舞台のある本格的なオペラハウスは、日本には東京の新国立劇場を初めとして8つしかなく、そのうち関西には2つ、兵庫県立芸術文化センター(西宮市)とここ大津市のオペラハウスである。

そんな注目の滋賀県には公私営あわせて数多くの資料館・博物館がある。今回はそのうち山科に隣接する大津市の公営舘4舘を紹介する。

1)「大津市歴史博物館」 ・運営=大津市 ・所在地=大津市御陵町
・入館料400円、高大生300円、小中生200円 ・9〜17時、月休(祝翌日)  ・JR湖西線大津京駅徒歩15分

平成2(1990)年に開館。安藤広重の近江八景画、350年前(江戸時代)の大津の復元模型、大津に関する各種の映像などがみられる。

関西ではローカル都市としてしかみられていない大津市だが、天智天皇が都をおいた由緒ある地区で、歴史の1ページを大きく占めていることがよくわかる舘である。なお、天智天皇は西隣の山科がお気に入りで、度々訪れているうちに最後は山科で行方不明になり、後に山科陵(天智天皇陵)が造られ今日に至る。

2)「大津市科学館」 ・運営=大津市 ・所在地=大津市本丸町 ・展示ホ-ルのみの入館料100円。プラネタリュ-ム400円、小中高生200円 ・9〜16時30分  ・プラネタリュ-ムは土曜2回、日曜3回   ・JRびわこ線膳所駅徒歩20分、または京阪電車浜大津駅のりかえ石坂線膳所本町駅徒歩5分

昭和43(1968)年に開催されたびわこ大博覧会のテ-マ館を活用して同45年に開館した。
琵琶湖の成立ち、生態系、自然環境に関する展示があり、最大の目玉は宇宙の神秘をさぐるプラネタリュ-ムである。開館同年に開催された大阪万国博とともに話題になった舘である。

3)「滋賀県立近代美術館」 ・運営=滋賀県 ・所在地=大津市瀬田南大萱町
・入館料350円、高大生250円、小中生120円 ・9〜17時、月休(祝翌日) ・JRびわこ線瀬田駅のりかえ帝産バス文化ゾ-ン前停留所徒歩5分

近代日本画や昭和20(1945)年以降のアメリカの現代美術が展示されている。横山大観、速水御舟、大津市出身の女流画家・小倉遊亀らの作品が目玉。

4)「水のめぐみ舘アクア琵琶」 ・運営=国交省琵琶湖河川事務所、資源機構琵琶湖総合開発事務所 ・所在地=大津市黒津 ・入館料無料 ・9〜17時、火休(祝翌日) ・JR石山駅から京阪バス のりかえ南郷洗堰停留所徒歩5分。

平成4(1992)年開館。琵琶湖の治水、利水、水環境を学べる。(完)

写真は、大津市のオペラハウス。