2012年01月17日

◆ボールペンの今昔

渡邊 好造


ボールペンは昭和25年(1950年)頃にアメリカから渡来したと、全国版メルマガ「頂門の一針」主宰の渡部亮次郎氏が書いておられた。そう言えば、私もボールペンについて思い至ることが多い。

今でこそボールペンは筆記具の代名詞といわれるほどの高い地位を占めているが、私が広告代理店調査部に勤務し、調査報告書作成に取り組んでいた昭和40年(1965年)前後は、まだそれほど普及していなかった。

主流は鉛筆、万年筆、カブラペン(ペン先をインク壺にその都度つけるつけペン)で、ボールペンはあまり使われていなかった。ボールペンのインクがボタおちしたり、途中でかすれて書けなくなったりなど、性能が良くなかったこともその理由であった。

あるボールペン・メーカーの依頼で、いまひとつ普及しない「ポイント」を探るよう調査依頼があった。

結果は、性能もさることながら正式な文書、手紙には不向きで、受取った相手に対して失礼にあたるというのが、大半の意見であった。

その後約15年経って、金融会社に転職した頃のこと。多額の融資をしてくれていた生命保険会社・明治生まれの会長(当時85歳位)から、わが社社長宛に筆書き巻紙のクレームが届いた。

「○○社長さん、手紙にボールペンはよくありません、、、」とのこと。

ボールペンの手紙は秘書の代筆であったが、秘書は次の詫び状をワープロでうち、末尾に社長自筆のサインをつけた。ところが、相手の会長からより以上のお叱りの言葉。

「ワープロはボールペンよりもより以上に失礼ですよ」、「筆書きが駄目なら、せめて万年筆にしなさい」であった。

実は、ワープロの原稿が私のつくったものであったため、以後先方の会長宛ペン書きの手紙と署名の仕事が回されてきた。

その後約10年程、社長の手紙は、全部私の癖字が使われた。「○○社長はなかなか味のある字を書かれますね、、」との返書を寄こした人物もいたらしい。とても褒め言葉とはおもえないが、、。

私はある時、件の会長と銀座の料亭でお会いする機会があり大変な歓待を受けた。「今日は若いオネーサンを大勢よんでいます、、」ということで楽しみしていたところ、宴席に侍ったのはみなさん60歳以上のオネーサンばかりだった。90歳以上の会長からすれば若いオネーサンには違いなかった。

もちろんお礼状を会長宛にださなければならない。私の字ではまずいので部下に万年筆を買ってこさせて代筆させた。

私の現在使用中のボールペンは、パーカー、モンブラン、ランセル、テイファニーなどブランドものだが、普段は10本袋入り105円のグリップが透明のいわゆる”見える見える”という代物である。(完)

2011年07月08日

◆山科だより 「近辺の資料館・博物館」

渡邊好造


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山科は京都市内でありながら京都中心部へよりも滋賀県大津市へ向かう方が買い物も交通の便も何かと好都合なのである。

JRでの大阪への通勤はもちろん山科からの方が便利だが、周りの環境がよく住宅事情では滋賀県の方が断然割安で(地価は山科の半分以下)、なかでも草津、栗東、守山3市の人気が高い。大阪に勤務する人たちにとって手早く広いスペースの我が家を手に入れるには、滋賀県が恰好の住宅地だろう。

そんな注目の滋賀県の資料館・博物館のうち、山科に隣接する大津市の目を引く、私営舘を3つ紹介する。

1)「南郷水産センター」 ・運営=滋賀県漁連 ・所在地=大津市黒津 ・入場料400円小人200円 ・9時30分〜17時火休(祝営業) ・JR石山駅から京阪バスのりかえ南郷洗堰停留所徒歩5分

琵琶湖の周りには数多くの河川がある。ところが、全て注ぎ込む河川で放出するのは大津市の瀬田川のみである。瀬田川は大阪市の淀川につながる。この水量を調節するのが”南郷洗堰”でそのほとりに「南郷水産センター」がある。

昭和41(1966)年に”さかなと自然と人間とのかかわり”をテーマにして淡水魚専門に開設された。コイやマスに餌を与えたり、アユの塩焼きを食べたりで親子連れで楽しめる。

2)「近江神宮時計舘、宝物館」 ・運営=近江神宮 ・所在地=大津市神宮町 ・入館料300円、中以上150円 ・ ・9〜16時30分 月休(祝ok) ・JR大津京駅徒歩15分。

昭和38(1963)年の開館。2階は宝物館、1階の時計舘には江戸時代の櫓時計、4千年前に中国で使われた火時計、大化の改新のころの漏刻時計(水時計)など約百点が展示されている。

近江神宮は、昭和15(1940)年の皇紀2千6百年に創建され、正月3が日は初詣客で車と人で一杯になる。

3)「大津絵美術館」 ・運営=圓満院門跡 ・所在地=大津市園城寺町 ・入館料=300円、高200円、小中150円 ・9〜17時 無休 ・京阪電車別所駅徒歩5分。

昭和46(1971)年開館。圓満院門跡宸殿横に併設されている。

大津絵は、江戸初期から縁起物として無名画家の神仏画を販売したのが始まりで、鬼や藤娘の絵をメインにして風刺や教訓をこめ、朱色が印象に残る画風である。山科の民家ではこの絵の掲額をよくみかける。(完)

写真・左=近江神宮、右=大津絵の鬼の木製人形

2011年06月25日

◆山科だより「拙宅周辺の案内―A」  

渡邊好造


拙宅周辺の旧跡には各方面からの観光客が地図を頼りに訪れるが、いずれもハイキングスタイルが多く、京都の中心地、例えば鹿苑寺金閣、京都御所、清水寺の訪問客のような軽装でないのが特色である。

周辺はれっきとした住宅地なのに、とこれまでは不思議に思っていた。一つには京都市の観光案内の記述が目的地までアップダウンがあり、交通機関を降りてすぐでない個所が多いと書かれている所為もある。それと、私が現住地に移転した頃は足腰に自信があったので、駅からの上り坂が気にならなかっただけのこと。最近はハイキングコースも納得である。

そんな拙宅周辺半径1キロの見所を写真を添付しての紹介2回目で、前回「山科だより・琵琶湖疏水」の続編。

1) 山科第1疏水の第2、第3トンネル入口と出口の扁額(写真左・第2トンネル出口)
約11キロの琵琶湖疏水とそれに付帯する12か所の施設は、その全てが平成8(1996)年に国の重要文化財に指定された。うち5か所は山科近辺を流れる通称・山科疏水にある。これが第1疏水で明治23(1890)年に完成した。第2疏水は、依然にも触れたように第1疏水のすぐ北に明治45(1912)年暗渠として造られた。

第1疏水は発電と灌漑用、第2疏水は上水道用である。琵琶湖から京都へ灌漑用の水を引くいてはとのアイデアは、豊臣時代からあったらしい。主目的は多少違うものの、約3百年後に実現したわけである。

第1疏水には3つのトンネルがあり、それぞれの出入口に明治政府要人の筆による扁額(石額)が残されている。扁額は、中国古来の扁書体(字体から雫が垂れているような特殊文字)で書かれている。政府要人を動員してわざわざ書かせた扁書体文字、ここにも東京には負けられないとの京都の意気込みが窺える 。

第2と第3トンネルは、拙宅から200メートル以内にある。
第2トンネルの入口には、明治時代の初代総裁・伊藤博文のもとで外相、蔵相を歴任した井上 馨・筆の「仁以山悦智為水歡(じんはやまをもってよろこび、ちはみずをもってなるをよろこぶ)=仁者は動かない山をもってよろこび、智者は流れゆく水によろこぶ」とある。

同トンネルの出口には、明治の軍人で西郷隆盛の弟・西郷従道・筆の「随山到水源(やまにしたがいすいげんにいたる)=山に沿っていくと水源にたどりつく」。

第3トンネルの入口には、明治政府の財政を担当し日本銀行を創立した松方正義・筆の 「過雨看松色(かうしょうしょくをみる)=時雨が過ぎると鮮やかな松の緑がみられる」。

詳細は省略するが、第3トンネル出口には三条実美(内大臣)、第2トンネルから3キロほど上流の第1トンネル入出口には伊藤博文 と山県有朋(内大臣)らが、扁額に揮豪している。

2) 日本最初の鉄筋コンクリート製の橋(写真右)
山科第1疏水の第3トンネルの東出口をでたところに、中央が少しふくらむアーチ型の幅1メートルほどの橋がある。これが日本最初の鉄筋コンクリート製の橋で、琵琶湖疏水建設工事の中心技師・田辺朔郎が外国の技術援助なしに建造した。

田辺は東京工部大学(現・東京大学工学部)卒の技師で疏水完成時は29歳、京都帝国大学(現・京都大学)の教授を務めた。

西洋文明の工業技術を鵜吞みにすることなく、独自の新たな方向性を見出し、咀嚼し完成させていったのが明治維新後の日本であり、わずか百年余りで先進国西洋にあらゆる面で追いついた秘訣がここにある。その後建造された山の谷橋、トンネル出入口の扁額はすべて国の重要文化財に指定されている。

山科は日本の近代工業技術の発祥の地であるといっても過言ではない。

橋は今も利用されていて建造当時は欄干がなかったが、現在は転落防止用の柵が設置されている。安全上無理もないとはいえ柵の色(茶)、形状(直線)は、周囲との調和をもう少し考慮すべきではなかったか。(完)

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2011年06月03日

◆山科だより「拙宅半径1`の案内」@

渡邊好造


一連の山科だよりで京都市山科区とその周辺のあらましを歴史、由来を交えて紹介してきたが、振り返ってみるとそれぞれで説明しきれなかった点が多々あることに気づく。

それを補足する意味もこめて、拙宅近辺1キロ周辺から順に、旧跡や特色のある所を写真を添付してご案内したい。これまでと多少の重複は覚悟で今回はその1回目。

山科は風光明媚な観光地だとは決していえないが、周囲は山に囲まれ、まだまだ自然が一杯の地域である。

ところが、市当局からは格下別格扱いの田舎家の奥座敷のような扱いをうけている。京都市街地中心部の整備上、広大な面積を有していて持て余し気味だった建物(神社仏閣、刑務所など)を排除し移転させるのに、山科は恰好の土地として利用されてきた。

おまけに、スペースの余裕がないこともあろうが、移転させた神社仏閣を京都案内パンフから除外してしまうので、いずれも知名度は低い。

1)  旧・鶴巻鶴一邸
拙宅から約200メートル、山科区御陵大岩にコンクリート製2階建ての珍しい洋館がある。

建築家・本野精吾が明治時代を彷彿とさせるモダンな建築物を10余り造ったうちの1つである 。京都の染色学者・鶴巻鶴一が居住していたので、旧・鶴巻鶴一邸といわれる。

鶴巻は、明治35(1902)年創立の現・京都工芸繊維大学の2代目校長を大正時代に務めたことで、京都では有名人。この旧・鶴巻邸は昭和初期のモダニズム建築の先駆けとして保護されている。見学可能なのは外観のみで、文化財としての登録もない。住人はいないが、邸前に駐車しょうものなら管理人が飛び出してくる。

2) 山科第1疎水
山科疏水は、正式名を琵琶湖疏水といい、第1と第2がある。山科近辺に流れる辺りを山科疏水と呼び、第2は暗渠になっていて見ることはできない。旧・鶴巻鶴一邸の北側のすぐそばを流れる。

京都市が産業用水力発電所建設を目指して111年前の明治23(1890)年に完成した約11キロの水路で、琵琶湖の滋賀県大津市観音寺、三井寺付近を起点に山科を経由して、京都市左京区蹴上に至る。

明治維新後、首都が東京に移つりこのままだと京都は沈没するとのあせりが生み出した蹴上発電所は明治24年に稼働し、28年には国内初の市電が走った。市電は昭和53(1978)年廃線となったが、また復活させようとの壮大な計画がある。

疏水に沿って約1、5メートル幅、3キロ強の散歩道があり、春には桜、秋には紅葉を目当てに人が集まる。疏水は山の中腹の高台にありここから山科市街が一望できる。

この第1疏水の北側に上水用の第2疏水が明治45(1912)年に完成し、左京区蹴上浄水場に注がれている。

琵琶湖疏水全体が国指定の重要文化財であり、写真の桜に囲まれた山の谷橋も同様である。
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(完)

2011年05月23日

◆東日本大震災の報道で思うこと

渡邊好造

東日本大震災の津波の惨状はすざましかった。まるで波に命が吹き込まれて人間に襲いかかってきたかのような錯覚を起させた。恐ろしい魔物が大口を開けて東日本の海岸地帯の町と人々を飲み込んでいった。

住民の受けた衝撃と恐怖はいかばかりだったか。そのあとの原発事故はまさに人災というべき余分なものといえる。

かろうじて癒された気分になったのは、世界各国を初め多くの人の自発的な善意である。いち早い復興支援のボランテイア活動、多額の義捐金など日本中が東日本の応援に立ち上がったのは驚きであった。

海外メデイアは、すさまじい被害にあいながらの日本人の秩序正しい行動を絶賛していたらしい。

一方で、この機に乗じて悪事を働く奴もいたのは残念である。

流された車からETCカードを抜き取る、金庫やATMから現金を盗むものが続出したらしい。これをやったのは日本人でなく外国人ばかりだという被災地の人もいたが証拠もなしにこれは言い過ぎである。

さて、テレビ報道をみていて気になったこと。

天皇皇后両陛下が膝をおって慰問されているのに対して胡坐をかいたまま、、、。足が痛くて正座できないなら椅子ぐらい用意するべし。

福島県知事が東京電力社長に対して「福島原発は再稼働しないとここでハッキリ約束してください」と大声で怒鳴っていた。東電原発のお蔭で約7千億円もの交付金・税金が福島の街を潤していたというではないか。そんな恩恵を受けていたならもう少し丁寧な言い方をするべきではないのか。このでかい態度は背後の選挙民を意識してのパフォーマンスとみた。

避難所のオバサンの「菅総理お願いがあります」に対して、菅総理は「何でしょうか」。オバサン曰く「今すぐ総理を辞めてください」。このオバサン、そんな偉そうな口をきいて自分を何様だと思っている。

同じく避難所で菅総理に対して「もう帰るのですか」と大声を出したオッサンがいた。「お帰りになる前に聞いて頂きたいことがあるのですが、、」と丁寧になぜ言えない。いくら頼りない、人気がないとはいえ、一国の総理に対して失礼ではないか。

これもオバサン、「原発は止めてください。しかし交付金はそのまま続けてください」。町財政の4割を原発に依存している所もあり無理もないとはいえ、それはムシが良すぎる。東電社長に土下座させ謝らせていた人もいた 。こんなことまでさせて何の得がある。憂さ晴らしにしかならない。

どれもこれも理屈の通らないことや、立場をわきまえない、相手に対して失礼な態度であり、口のきき様である。東北人はズーズー弁を捨てて標準語を覚えたが礼儀を覚えることを忘れているのではないか。

善意に解釈すればいずれも数少ない事例なのかもしれない。だとすればテレビはこんなみっともない、図に乗った、礼儀知らずの東北人の姿を映し出すべきではあるまい。

今一つ何を意味するのかよく分らないのは”がんばれ”、”がんばろう”である。「がんばろう日本」、「東日本がんばれ」などのキャッチフレーズがやたら登場する。

広辞苑によると、”がんばる”とは「どこまでも忍耐して努力する」「我意を張り通す」とのこと。被災した人にとっては、辛いことだが辛抱するしかないということになるが、被災者でないその他の人は何をどうすればいいのだろう。

ある人が週刊誌で書いていた。「人との別れ際や励ますのに”がんばれよ”、”元気でな”、”体に気を付けてな”などは普通に使う言葉だが、こうした言葉を絶対に言えなかった時があった」。

その人の仕事は刑務所の刑務官で、担当していた死刑囚が早朝に死刑の執行を言い渡され、刑場へ行く途中で別れの挨拶に来た。もうすぐ吊るされて死ぬ人にどう言えばいいのか、ただ黙って相手の顔をみつめ続けた、とのこと。

日本での死刑執行は何人かの人間を残酷に殺害した報いだろうが、この刑務官の話の場面だけ想像すると哀れを催す。

ことほど左様に相手への態度、言葉の使い方は複雑で難しそうにも思える。要は相手がどういう立場の人か、今どんな心境にあるのかを配慮しさえすればいいことではないのか。(完)



2011年05月15日

◆山科だより「近辺の資料館・博物館F」

渡邊好造


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京都市山科区の東隣りは滋賀県大津市。大津市は京都市に比べてロ-カル色が強い。しかし、日本一の水がめ琵琶湖の余禄と都会を逃れた多くの企業群に支えられ、大津市はもちろん滋賀県全体は京都よりはるかに裕福なのである。

住民税、水道代など公共料金は京都より安いし、道路は縦横に巡らされ完璧、大津市にはオペラハウス(滋賀県立芸術劇場びわこホール)、長浜市にはド-ム球場もある。

ちなみに、大津市のオペラハウスは、国内有数の設備を誇り、オペラ、クラシック音楽、バレー、演劇などが催される。

3〜4面の舞台のある本格的なオペラハウスは、日本には東京の新国立劇場を初めとして8つしかなく、そのうち関西には2つ、兵庫県立芸術文化センター(西宮市)とここ大津市のオペラハウスである。

そんな注目の滋賀県には公私営あわせて数多くの資料館・博物館がある。今回はそのうち山科に隣接する大津市の公営舘4舘を紹介する。

1)「大津市歴史博物館」 ・運営=大津市 ・所在地=大津市御陵町
・入館料400円、高大生300円、小中生200円 ・9〜17時、月休(祝翌日)  ・JR湖西線大津京駅徒歩15分

平成2(1990)年に開館。安藤広重の近江八景画、350年前(江戸時代)の大津の復元模型、大津に関する各種の映像などがみられる。

関西ではローカル都市としてしかみられていない大津市だが、天智天皇が都をおいた由緒ある地区で、歴史の1ページを大きく占めていることがよくわかる舘である。なお、天智天皇は西隣の山科がお気に入りで、度々訪れているうちに最後は山科で行方不明になり、後に山科陵(天智天皇陵)が造られ今日に至る。

2)「大津市科学館」 ・運営=大津市 ・所在地=大津市本丸町 ・展示ホ-ルのみの入館料100円。プラネタリュ-ム400円、小中高生200円 ・9〜16時30分  ・プラネタリュ-ムは土曜2回、日曜3回   ・JRびわこ線膳所駅徒歩20分、または京阪電車浜大津駅のりかえ石坂線膳所本町駅徒歩5分

昭和43(1968)年に開催されたびわこ大博覧会のテ-マ館を活用して同45年に開館した。
琵琶湖の成立ち、生態系、自然環境に関する展示があり、最大の目玉は宇宙の神秘をさぐるプラネタリュ-ムである。開館同年に開催された大阪万国博とともに話題になった舘である。

3)「滋賀県立近代美術館」 ・運営=滋賀県 ・所在地=大津市瀬田南大萱町
・入館料350円、高大生250円、小中生120円 ・9〜17時、月休(祝翌日) ・JRびわこ線瀬田駅のりかえ帝産バス文化ゾ-ン前停留所徒歩5分

近代日本画や昭和20(1945)年以降のアメリカの現代美術が展示されている。横山大観、速水御舟、大津市出身の女流画家・小倉遊亀らの作品が目玉。

4)「水のめぐみ舘アクア琵琶」 ・運営=国交省琵琶湖河川事務所、資源機構琵琶湖総合開発事務所 ・所在地=大津市黒津 ・入館料無料 ・9〜17時、火休(祝翌日) ・JR石山駅から京阪バス のりかえ南郷洗堰停留所徒歩5分。

平成4(1992)年開館。琵琶湖の治水、利水、水環境を学べる。(完)

写真は、大津市のオペラハウス。 

2011年05月04日

◆新聞の責任

渡邊好造

大学在学中の約50年前のことだが、M新聞記者を永年経験された方の週1回1時間半の4回集中講義「新聞学」を受講したことがある。

その講義の評価は、論文提出であった。

テーマは「新聞の責任」で、中味は自由。後で分ったことだが自分の意見が述べられていれば、たった一行だけでも優良可の最高合格点”優”が与えられた。

この時筆者が提出したのは、「記事は客観的に記述するのが新聞の責任」であった。

記事の書き方に、記者個人の考えへ誘導しようとするかのような書き方は気に入らない、といった内容である。

例えば記事のこんな結びの書き方―。

 1) 、、、今後各方面の批判を呼びそうだ。
 2) 、、、この件論議を巻き起こすに違いない。
 3) 、、、といった狙いがある、との見方がある。
 4) 、、、今後を占う意味で注目される事態だ。
 5) 、、、といった点は当事者にとって最大の難問になる。
 6) 、、、この結果は今後の行方にも影響しそうだ。
 7) 、、、より一層の責任が問われる。
 8) 、、、といった声が多く、このままだと一波乱ありそうだ。
 9) 、、、など事態の悪化は避けられそうにない。
10) 、、、予想以上に厳しい状況に追い込まれている。

といった表現の仕方だ。

客観性がなく、なんの根拠も示さずにまるで、世論がその方向に向かっているかのような記事の結び方はケシカラン、という他はない。

改めて50年前のことを思い出しながら最近の新聞を読んでみると、今もこうした表現の仕方は変っていないことに気づかされる。

1)〜10)のような見解には根拠が必要なのに、どう読んでも記者個人の意見なのではないかと思わせる場合がある。

社会面や経済面でも散見するが、納得のいかないケースは政治面に多い。

こうした気になる記事の書き方は未だに残っていて、上から目線で読者を馬鹿にしているように感じる。

新聞は週刊誌の視点と同じであってはならない。

当り前のことだが、記事内容は客観的な論拠を示すことが肝要で、もし記者個人の意見を述べ、世論を誘導したいなら氏名を明記したそれなりのコーナーを設けるか、”社説”として掲載すべきではないか。(完)

2011年04月24日

◆山科だより「近辺の資料館・博物館E」

渡邊好造

今回は、京都に関する文化と歴史の膨大な資料を誇る館、公文書を管理する館、教育資料専門舘など山科に近い京都の3館と左京区比叡山頂の2館を紹介しましょう。

1) 「京都府京都文化博物館」 ・運営=財団法人京都府文化財団 ・所在地=京都市中京区三条高倉
・平成22(2010)年12月〜23(2011)年7月まで 改装工事で休館中。7月9日(土)リニューアルオープンの予定。
・入館料500円、大生400円 ・開館10〜14時30分 ・月曜休館(祝翌日) ・地下鉄東西線烏丸御池駅徒歩3分

京都の歴史、文化を紹介する博物館で、歴史展示室、美術工芸展示室、映像ホ-ル、映像ギャラリ-などがある。

映像ホールでは京都が所蔵する京都の映画文化をメインに紹介している。前身は昭和43(1968)年に設立された財団法人古代学協会の「平安博物館」であったが、昭和63(1988)年平安遷都1200年記念事業として、京都府が建設し京都府立総合資料館の資料とともに京都府文化財団に移管された。

赤レンガに白帯の別館は旧日本銀行京都支店で、明治39(1906)年に建設され国指定有形重要文化財に指定されている。
 
2)「京都市歴史資料館」 ・運営=京都市行財政局総務部 ・所在地=京都市上京区寺町通り丸田町
・入館料無料 ・開館9〜17時 ・月曜祝休館 ・地下鉄東西線京都市役所前駅徒歩10分

1千2百年の歴史を誇る京都の経験と知恵を末永く後世に受け継ぐことを役割とする。昭和57(1982)年の開館。平成19(2007)年4月に公布された「公文書管理要綱」により全ての公文書が管理されている。 古文書約7万5千点を中心に、絵画、民俗資料が展示され、映像・写真の展示室もある。年に3〜4回の展示変えをしている。

3)「京都市学校歴史博物館」 ・運営=財団法人京都市生涯学習振興財団 ・所在地=京都市下京区御幸通仏光寺下る橘町
・入館料200円、小中高生100円 ・開館9〜17時 ・水曜休館(祝翌日) ・地下鉄烏丸線四条駅徒歩10分

明治維新で首都が東京に移り、京都はこれまでの繁栄を維持するために、各種の産業振興策にあわせて教育にも力を注いだ。町衆の協力で明治2(1869)年に学区制の64の「番組小学校」をわが国で初めて開校した。番組とは、当時の住民自治体組織のことで、現在でいう町内会のことである。

明治政府が学制公布したのはこれより遅れること3年後の明治5(1869)年。ここにも東京に首都を取り上げられた京都の”負けてたまるか、今に見ていろ”の強い意気込みがうかがえる。

博物館は、当時の教科書、教材、教具などの教育資料約1万1千点が収集保存され、幕末の学校、明治の教育、大正・昭和初期の教育、戦中戦後の教育、学校給食の歩みなどが解る。なかでも注目は教科書コレクシヨンで、今や縁のない”論語”の教科書には驚かされた。

昭和63(1988)年の開館、昭和57(1982)年に廃校となった校舎(開智小学校)を活用していて、博物館の入り口は古い門構えがそのまま残されている。

*京都山科に近く、最も高い山といえば"比叡山"(京都市左京区修学院尺羅ケ谷四明ケ嶽)である。ここは延暦寺で有名だが、この高さ8百メートル強の山頂に2つの資料館、博物館がある。山頂遊園展望台の回転展望台で京都や琵琶湖を一望したあとに立ち寄るとよい。山科からだと車で30分もあれば山頂に到着する。

4)「ガーデンミュージアム比叡」
約1500種、10万株の草花が植えられている。画家モネの描いた「睡蓮の庭」や、ルノワール、セザンヌ 、ゴッホらが夢見た自然の風景を再現させている。ハーブの香る「香りの庭」、薔薇が一杯の「ローズガーデン」も見ものである。

開館は4月17日〜12月4日で冬季は休館。10〜17時30分(土日祝夏季は21時)。入館料1000円、中高生500円、小生250円。

5)「比叡山自然科学館」
鳥類、小動物、昆虫、植物、資源鉱物などの標本を中心に展示している。なかでも昆虫はよく整理されている。年中無休。9〜17時(7〜8月は21時)。入館料500円、小生250円 。(完)
 

2011年04月13日

◆山科だより 「赤穂浪士、龍馬の人気」

渡邊好造


NHKテレビの大河ドラマ”坂本龍馬”は大好評であった。主演した福山雅治は、本職の歌手そっちのけで、その後も大活躍である。

龍馬がなぜこんなに人気があるのか。そこには赤穂浪士の人気と共通するものがあるように思う。大衆芸能で人気を博し、「英雄」となる人物には およそ次の4つの共通の条件が備わっているのではないだろうか。
                                            
1)逆境に陥る。
2)人から侮られる。
3)努力して大成功を収める。
4)悲劇的最後をとげる。

赤穂藩主の浅野内匠頭が江戸城中で吉良上野介に切りかかり、即日切腹させられ、藩は取り潰し。大石内蔵助を初めとする藩士47人が吉良への仇討を果たす物語が”赤穂義士伝”である。

周知のように、製塩で裕福であった藩の家老大石は、主君の不始末で生活はたちまち暗転。仇討をするのかしないのかグズグズと日時が経過し、昼行灯とまで揶揄され侮られたが、その後仇討を無事達成し一躍英雄となった。

しかし全員死罪の悲劇的最後を遂げる。まさにこの4条件にピッタリである。

もし、義挙だから救済するべしとの世評通り47人が赦免になって生きながらえていたら、彼らを称える毎年の赤穂、山科での「義士祭」は行われていないに違いない。

坂本龍馬は、土佐藩の下級武士の出で、脱藩して薩長同盟に尽力、海援隊の隊長として活躍したのち大政奉還に寄与するも、慶応3(1867)年刺客に襲われ明治政府の実現直前で死去。

同じように、この4つの条件に合致する大衆受けのする「英雄」を拾うと、

源義経は平家に預かりの身で苦労を重ねた後、不運な境遇から抜け出し平家壊滅の端緒をつくる大功績をあげた。しかし、兄頼朝の不興をかい奥州平泉で滅ぼされる。

豊臣秀吉は、織田信長の家来としてサルと馬鹿にされながらも人一倍の努力を重ねて這い上がり天下を取るに至るが、わが子秀頼は母淀君とともに徳川家康にしてやられる。

織田信長も英雄の一人にあげることができる。”ウツケモノ”として侮られ、その後天下統一の一歩手前で明智光秀の謀反で挫折し、自害する。ただ織田家を継ぐまでにこれといった逆境に陥ってはいないのでやや条件に欠ける。

新撰組の近藤勇、土方歳三は剣の腕前はすごいものを持っていたがもともとの身分が低く、中心人物になって組織をつくりあげるまでにはかなりの苦労を重ねたらしい。最後はともに若くして打ち首と戦死の運命をたどる。

いずれの人物もNHK大河ドラマに登場する「大英雄」である。

反対に、源頼朝、徳川家康らは天下を取ったものの、頼朝は非情な兄であり、家康は腹に一物のタヌキ親父、桂小五郎(木戸考允)も功績はあるが殺されもせず、3人とも最後は大往生をとげているから英雄の資格に欠ける。その意味では秀吉は病死であり条件にそぐわない面もあるが、次代での悲劇が待っていた。

もちろん、これらの筋立てはいずれも江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃作家が客うけするストーリーにしたり、あるいは明治政府を正当化するために創りあげられたものであったりで、史実とは異なる部分が多いことは言うまでもない。

坂本龍馬に至っては、一説によると梅毒に侵され、斬殺されていなくてもそんなに長くは生きられなかったともいわれている。梅毒で死んだ坂本龍馬だと大衆芸能で人気を得るはずがない。もちろん、NHK大河ドラマに登場することも、銅像が建てられることもなかったに違いない。(完)

◆<本日の原稿は、一昨年、「山科だより・義士祭」でとりあげたことがあるテーマを膨らませたものです。    渡邊好造>





2011年04月02日

◆山科だより「近辺の資料館・博物館D」

渡邊好造

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今回は100年の歴史を誇る館、マンガ館など、山科に近い京都異色の3館を紹介する。京都市内に住み17年になるが、すでに紹介したものも含めてこれだけの資料館・博物館があるのを知り、いまさらながら驚きの感を禁じえない。
 
1)「京都市考古資料館」 ・運営=財団法人京都市埋蔵文化財研究所 ・所在地=京都市上京区今出川大宮

・入館無料 ・開館9〜17時 ・月曜休館(祝翌日) ・地下鉄烏丸線今出川駅のりかえ市バス堀川今出川停留所

平安京以来の遺跡の調査研究が主な業務で、館内には土器など発掘物が展示されている。昭和54(1979)年開設。

2)「京都大学総合博物舘」 ・運営=京都大学 ・所在地=京都市左京区吉田本町
・ 入館料400円、高大生300円、小中生200円 ・開館9時30分〜16時30分 ・月火曜休館 ・京阪電車出町柳駅徒歩10分。

明治30(1897)年に創設された京都大学の付属機関で、大正3年(1914)年に陳列館、昭和30(1955)年に文学部博物館、平成9(1997)年に総合博物館としてスタ-トした。100年間にわたって収集、研究されてきた学術標本・教育資料は2百60万点に達し、国宝、重要文化財も数多く含まれる。

3)「京都国際マンガミュ-ジアム」 ・運営=京都市・京都精華大学 ・所在地=京都市中京区烏丸通御池

・入館料500円(特別展1千円)、中高生300円(同500円)、小生100円(同200円) ・開館10〜18時 ・水曜休館 ・地下鉄東西線烏丸御池駅徒歩2分。
京都精華大学にはマンガ学部があり、マンガ、アニメの実作者や原作者、編集者を育てるのを目的としている。

この大学が京都市から土地を借りて共同でミュ-ジアムが造られた。平成18(2006)年11月の開館。館長は”バカの壁”の著作で有名な解剖学者・養老猛司氏(非常勤)である。国内マンガ本を中心に明治以降、世界の資料など30万点以上が収蔵されている。日本と世界のマンガ文化の宝物館といえる。

テレビ全盛時以前に幼少時を過ごした人にとってこのマンガミュ-ジアムは必見で、開館後4年にしてすでに入場者百万人を超え、うち1割が外人という。

平成20(2008)年に国の有形文化財に指定された。マンガというジャンルでの珍しい指定だけあってその充実した中身は想像以上である。

奇しくも京都精華大学マンガ学部について、週刊新潮の3月17日号は、”大学マンガ学部から「赤塚不二夫」は生まれるか”の見出しで紹介している。

この学部の昨年度の入試問題の一つとして<「朝目覚めると僕は○○になっていた」というシチュエーシヨンで始まる3〜5ページのマンガを描きなさい>をとりあげ、”これならカンニングで解答できまい。この学部の卒業生の多くは定職につかず、マンガを描いては出版社に持ち込んでいるという。いずれ第2の赤塚不二夫、手塚治虫がでてくるかも、、”との期待をこめた記事になっている。(完)
 



 

  


2011年03月19日

◆東日本大地震とマスコミ

渡邊好造

1)菅直人首相が被災した原子力発電所を視察に行ったのが現地の邪魔だった、との新聞記事があった。現地視察に行くべきでなかったのか、ヘリコプターで行ったのが間違いだったか。もし首相が現地に行かなかったら「なぜすぐ行かなかった」としてもっと悪口雑言を浴びたに違いない。

地震発生時国会でボコボコに叩かれていた菅首相はこの災害で国会休会となり大助かり。もし、この災害を利用して挽回してやろうなんて考えているとすればケシカラン話だが、今回のような大地震も原発事故も日本にとって初めてのこと。マスコミはもっと前向きの提案をするか、せめて少しは贔屓目にみてやってもいいようにも思う。

2) 菅首相は官邸で東京電力担当者を怒鳴り散らしていたらしい。首相は会社でいえば社長である。社長は外に対してはニコニコしていても社内では怒鳴るのは当たり前。まして非常時となれば、怒鳴り具合や内容で社長の危機意識 、本気度を社員が察知して、社長が間違っていれば代案を出し討論の末、素早く行動する。

新聞で読む限り、どのような討論がなされたのか、菅首相と東電のどちらの判断ミスなのかよくわからない。政治主導の表看板を目の敵にするマスコミは、首相を悪者にするが実際のところどうなのか、中身を正確に知りたいものだ。

3)閣僚の着ている作業服に糊がきいてパリパリだった、危機意識が感じられない、とのこれも新聞記事。ひっぱり出したばかりの作業服なら当たり前のこと。ヨレヨレならいいのか。つまらない揚げ足取りはするべきではあるまい。

4)放送局内から地震の解説をするのに恰好つけてピカピカのヘルメットを被っている。後ろに見える人物は誰も被っていない。糊のきいた作業服より、こちらの方がふさわしくない。

5)計画停電について、「もっと全国規模で取り組むべきだ、関西電力や中部電力など西の電力会社は黙ってみているのか」と評論家がテレビニュース番組で叫んでいた。節電意識は大事だが関東と関西でサイクルの違いがあり、すぐに対応できないのを承知の上だろうか。

6)節電を叫ぶなら、地震に関するテレビ放送はNHK1局、民法1局にしぼるべし。放送中断かせめて避難所、給水所、食糧配給所、行方不明者一覧といったふうに各局情報別にするなりして、同じような内容で競い合うような無駄な放送をやめるべし。その方がよほど節電になる。

NHK教育放送は3月19日にいち早く放送ストップとなった。民放局も「○○社提供により節電のため2時間の放送中断を行います」というのがあってもいい。ACのコマーシヤルも見飽きた。

7)日頃から節電して電気を貯めて置くことはできるはず。オイルショックの時だったか午前0時で国旗国歌とともにNHKテレビは放送ストップ、屋外看板は消して節電した。ところが今では一晩中テレビ放送はやっているし、神戸ルミナリエなど電気は使い放題ではないか。喉元すぎて熱さ忘れる、なんでもライトアップする最近の風潮をかねてから苦々しく思っていた。

8)今回の地震でテレビ出演が減り一番の収入減になるのは”お笑いタレント”らしい。笑ってる場合ではない。地震報道を見ていると彼らのやっていたテレビ番組、それをみて喜んでいたのがなんとも陳腐であると知る。某局は地震後いち早くお笑い番組を夜9時台に復活させたところ、新たな地震が発生し30分で中断していた。

9)これを機に2時間におよぶテレビの安上がりお笑い番組をストップし、放送時間を短縮したらどうか。出演タレントは垂れ流しの外国のフイルムを見ながら、立ち上がって、大口開けて、手を叩いて、指さして、ただ一言「すご〜い!」というだけ。

10)常日頃の「津波情報」は結果的に50〜60センチの低いものばかりだった。誰もがまさかと思う今回の大津波はまさに”オオカミ少年”による被害拡大であろう。もちろんマスコミの責任ではない。(完)


2011年03月10日

◆あ〜あ、何がどうなっている?

渡邊好造

1) 小沢一郎 曰く「一点のやましいこともありません」。土地購入代金の隠し金4億円は親の遺産だという。「政倫審への出席は拒否していない」というがその気もないのによく言うよ。無罪かもしれないが、無実に思えない。もうひとつ、国会の座席についたら目をつぶるな。

2)鳩山由紀夫は東大卒だから優秀な首相になると期待した。政治家にむかないバカな東大卒もいる。目立ちたがりのただのオッサンだった。
3)民主党が政権とったら世の中は一挙によくなる、とみんな期待した。幻想だったのか。

4)菅直人をボロクソに言うが自民党政治や民主党の鳩山、小沢の方がよかったと思うか、、。 
5)民主党のマニフェストとやら、これまで自民党 がやれなかったことをならべただけ。やろうとしたら難しかった。
6)大村愛知県知事と河村名古屋市長の両名、小沢一郎を表敬訪問していた。なんだそれは、、。小沢と同じ穴の貉だったのか。裏になにかある。

7 )大相撲放駒理事長、「メールに出てきた以外の八百長はありません」。若貴時代に2人の優勝決定戦で若乃花が初優勝、大関から横綱への昇進がかかった白鵬が横綱朝青龍に勝って優勝(さすがにインチキ臭かったので白鵬の横綱昇進は見送り)、魁皇、千代大海が7勝7敗から千秋楽に勝ち越して何回も大関の地位を確保、などなど八百長くさい取組はいっぱいあった。相撲ファンはみんな知っている。

8)NHKのテレビ番組「鶴瓶の家族に乾杯」はヤラセ・八百長の見本。突然訪問したはずが豪華な食事、出迎えたバーサンが真っ赤な口紅で厚化粧している。
9)テレビで”デカウンコ”とあるから、便秘が治る健康番組だと思ったら、ドラマ「デカワンコ」の読み間違えだった。

10)テレビニュース番組は政治、経済、社会がメインテーマだと思っていた。ところが、そのトップニュースが”海老蔵”、”沢尻”、”斉藤”、そのあとがなんで”パンダ ”になる。そして、ニュージーランド地震、携帯電話による入学テストカンニング事件が起きるとどの局もまた同じ。

11)テレビCMは相変わらず”ハゲ(カツラ、ヘアピース、植毛)”、”保険”、”パチンコ機メーカー”がやたら多い。どれも儲かる業種ばかり。
12)「タウンページ」なる電話帳のテレビCMが盛んに放送されている。携帯電話、パソコンが普及しているのにあんな分厚い印刷物を利用する人がいるのか。こ
んな金があるならどこかに寄付したらどうか。

13)男だと思ってたら女、女だと思っていたら男、最近のテレビタレントはややこしくて、気持ち悪い。
14)”AKB48”は「アカンベー48」と読むのだと思っていた。
15)最近の新聞、雑誌広告の隅っこにある小さい四角のモジャモジャマーク、新たな迷路クイズだと思って懸命にたどっていた。QRコード(クイックレスポンスコード)という高速情報読取コードのことだそうな。

16)これまでに海外旅行でブランドものを買いあさり、パチンコにのめりこみ、贅沢三昧してもちろん貯金は全くゼロの奴が生活保護をうけているらしい。その数はなんと142万人、爪に火をともす思いで今日まで過ごしてきた者にとっては腹立たしい限り。どんな人でも救済していたらいくら金があっても足りない。この連中の選挙権を剥奪すればいい。しかし、どうせ選挙に関心ないか。

17)年金の途中支払ミスのため正規の支給が受けられない人を直近の2年分を収めれば救済するという。ミスなのだろうか、払わなくて済むなら支給なんて先のことだから、、と思った確信犯もいるはず。ウッカリ財布を落とした人、金を使いすぎた人に同じ金額を保障するようなことではないか。2年分でなく未納分全部払わせろ。あるいはこれまで きちんと支払い続けた者に割増金を支給するべし。

18)学校教師をノイローゼや自殺にまで追い込むモンスター・ペアレンツなる父兄が問題になっている。この原因は父兄に問題ありとの見方が多いが、教師の質の低下にもよるのではないか。父兄の方が高い学歴、有名大学を卒業し、教師は聞いたことのない安物の無名の大学を卒業しているからといって、それで頭からバカにしてかかる。昔は大学を卒業し教師になるだけで尊敬された。

19)南極捕鯨調査船が中止となった。シーシェパードの妨害行為によるものだが 、中止とせずにせめて「自衛隊が妨害船を撃沈できる法律ができるまで、、」位の条件付にすればいいのに。思い出せば、学校給食の鯨は固くて臭くて不味かった。しかし、マルハ大洋漁業(株)直営の下関にあった鯨専門店で食べた鯨は本当に美味かった。

20)無縁仏といわれ、死んでも供養してくれる人がいないことを憐れむ。そして無縁社会と言って生きているうちに相談相手や周りとの付き合いのない人が問題 視され、死んで何日かして発見される孤独死がよくとりあげられる。無縁仏、無縁社会、孤独死をあえて望むわけではないが、そういう状況になってしまったら仕方がないではないか。

寿命が来てたった一人になって死んでいくのも運命だ。あえて見とってもらったり、拝んでくれる人はいらない。白骨になって発見されてもいいじゃないか。こんなことをさも問題ありげにことさら取り上げるから、一人で死ぬのが嫌な奴が自殺の道連れを求めて刃物を振り回すのだ。(完)

2011年02月25日

◆山科だより「25年間の昼夜間人口」

渡邊好造

国勢調査は5年に1回実施される。昨・平成22(2010)年の10月、調査票に記入し提出したのをご記憶のことと思う。

筆者が市場調査業務を始めた50年程前は、コンピュ-タ-は機能的にも完全でなく、使いこなされていなかったこともあり、調査結果がまとまり報告書が発行されるのは5年後の次の国勢調査の頃であった。

現在は約1年後にはまとまっているから、この点からみてもコンピューター技術の進歩は目覚しい。 

さて、この国勢調査には現住所と勤務先や通学先の住所も記入するが、住民がどのように移動しているかを調べるもので、昼間と夜間の人口差をみる、いわゆる昼夜間人口動態調査である。

ある地域で昼間の方が、夜間の人口よりも少ない、すなわち<昼間人口/夜間人口>の比率が1以下となれば、昼間は他の地域への流出者が多いわけで、その地域はいわゆるベッドタウン化しているということになる。

反対に1以上なら流入者が多くその分通学も含めてビジネス都市化が進んでいるといえる。

こうした観点から京都市山科区をみるとどうなるか。

山科区は昭和51(1976)年に京都市東山区から分離独立したので、山科区の国勢調査の結果は昭和55(1980)年以降となる。

      <山科区>                       昼間人口              
               昼間人口    夜間人口    /夜間人口
昭和55(1980)年    114(千人)    136(千人)     0.836         
昭和60(1985)年    116       137         0.845          
平成2(1990)年    113       136         0.831          
平成7(1995)年    114       137         0.838
平成12(2000)年    118       138         0.858
平成17(2005)年    118       137         0.863
<平成22(2010)年の結果は未発表>

このように、山科区の昼夜間人口とその比率はこの25年間ほとんど変化していないことが分る。JR山科駅の乗降客の増加をみていると人口動態に変化があると感じたが、実際はそうではなかった。

平成9(1997)年地下鉄東西線の二条駅、醍醐駅間がJR山科駅前を経由して開通、平成16(2004)年六地蔵駅まで延伸された。

その結果、山科区南部と京都府宇治市の住民にとって京都、大阪、滋賀への所要時間は大きく短縮され、それまで利用していた京阪電車や市バスなどの乗降客がJR山科駅に集中したのである。山科駅の客が増えただけで山科区の人口が増えたのではなかった。

ちなみに、京都市全体の夜間人口は、昭和55年から平成17年までの25年間で149万人から146万人と3万人の減少。昼夜間人口比は1.012から1.084と昼間人口の増加がみられる。

京都市でもっともこの昼夜間人口比が高いのは、下京区の1.908(以下、数字は平成17年)ついで中京区の1.567で、官庁や会社の多いいわゆるビジネス地区である。

山科区の昼夜間人口比は西京区の0.778についで後から2番目に低率。

東京都区部平均は1.35だが、千代田区はさすが日本最大のビジネス地区だけあって20.47と昼間人口は20倍になる。

大阪市の平均は1.41、最大の中央区で7.61、北区で4.30。東京にはとても及ばないが、大阪も都心の昼人口は膨れ上がる。

それに比べると山科区の昼間は、流入人口の少ない住宅中心の京都の離れ座敷である。(完)