2017年05月27日

◆「古寺旧跡巡礼」 当麻寺 B

石田 岳彦



さて講堂へと移動します。講堂も瓦葺で、寄棟、平入りですが、本堂に比べると一回りほど小さく感じます。講堂の中には、ずらっと2列で阿弥陀如来×2、千手観音、地蔵菩薩、不動明王、多聞天・・・・。
  
このラインナップを見て、だから何だと思った人はお寺巡りの初心者です。このラインナップを見て、その組み合わせの必然性の無さに疑問を感じた人は中級者です。このラインナップを見て、なるほどと思った人は上級者です。多分。

お寺の方の説明にもありましたが、明治初期の廃仏毀釈で多数のお寺が廃寺になった際、つぶれた寺院の仏像が生き残った寺のお堂にまとめて押し込まれるというケースがしばしばあり(近畿地方の古寺を回っていると、誇張抜きに、しばしば出くわします)、この講堂のやたらと脈絡のない顔触れも、要するにその名残というか、傷痕ということになります。

講堂の南隣には金堂があります。こちらは入母屋屋根(文章での説明はややこしいので、ググってください)です。正面入り口は南側ですが、何故か拝観者には北側の裏口が開放されていて、そこから入って、正面に回り込む形になっています。

金堂の中には、国宝の弥勒仏像と重要文化財の四天王像がまつられていますが、本尊の弥勒仏坐像は頭でっかちで、造形的にはあまり美的感覚を刺激されません。

しかし、この仏様こそが当麻寺の本来のご本尊で、7世紀後半の白鳳時代の作だそうです。ここで「弥勒仏」とは、弥勒菩薩が遠い未来において悟りをひらき、如来になった後の姿を指します。

実は、「弥勒仏」の像は、他に興福寺の北円堂や東大寺などにあるくらいで、作例が少なく、結構、レアものだったりします。

他方、周囲を囲む四天王立像は、説明書によると、現存するものの中では法隆寺金堂のものに次ぐ古い四天王像だそうですが、4人全員が見事なまでのアゴヒゲを生やしていて、やたらと男臭い像になっています。

 私はこれまで様々な四天王像を見てきましたが、ここまで「濃い」アゴヒゲを生やした四天王像というか仏像はこれ以外に見たことがありません。

一見の価値ありです。ただし、やたらとインパクトがあるので、一度見てしまったら、忘れたくても忘れさせてくれないかも知れません。

上でも述べたように2基の三重塔はそれぞれ1段高い斜面上にあります。塔の一層目には仏像が祀られているそうですが、基本的に開扉はなされていません。

もっとも、来年(2010年)は平城京遷都1300年祭関係のイベントとして、特別に東西の塔の開扉が行われるという話です。今から楽しみです。

 本を見ると、古代に建てられた東塔と西塔が揃って現存するのは当麻寺が唯一とありますが、両塔は同時に建てられたものではなく、東塔が奈良時代末、西塔が平安時代初めだそうで、屋根の組み物や、窓の有無など、デザイン的にもかなり違ったものになっています。

他に中之房、奥の院といった塔頭も公開されています。真面目に見て回ると半日がかりです。

当麻寺から少し歩いたところには中将姫の墓とされる石造の十三重塔があります。ちなみにこの塔は鎌倉時代の作らしいですが(中将姫は上記のように奈良時代の方です)、無粋なことはいいっこなしです。(終)
<弁護士> 

2017年05月26日

◆「古寺旧跡巡礼」 当麻寺 A

石田 岳彦



当麻寺は、境内の南側に2つの三重塔があり、その北側に金堂、更にその北側に講堂があるという、薬師寺と同じ伽藍の配置ですが、スペースが足りなかったのか、敷地の南側は丘になっていて、2つの塔は斜面を削り取って造成された高台に建てられています。

しかも、金堂と講堂の西側に本堂が東向きに建っていて(講堂と金堂は南向き)、大門(正門)が南ではなく、東側にあり(金堂ではなく、本堂に合わせているようです。)、更に金堂と東西の塔の間に2つのお坊が割り込み、西塔と東塔の間にもやはりお坊が建てられるなど、平地に整然と建物が並んでいる薬師寺に比べて、かなりのカオス状態です。

そこに見えている2つの三重塔に境内案内図で通路を確認しながらでないと辿り着けないというのですから、何時か、何処かで、何かを間違えてしまったに違いありません。

 金堂とはその寺のご本尊となる仏像がまつられているお堂で、本堂とはその寺の中心的なお堂をいいます。講堂は仏法についての講話を聴くための場所となるお堂です。

 古代からの寺院の場合、法隆寺、東大寺、興福寺、薬師寺、唐招提寺等のように、金堂はあっても、本堂とはされていない(つまり、その寺院に「本堂」と呼ばれる建物がない)ことが多いようです。仏舎利をまつった塔が伽藍の中心という考えが強かったためでしょうか。

 他方、比較的新しい時代のお寺では、金堂=本堂で、単に「本堂」と呼ぶことが多く、いずれにしても、金堂とは別に本堂があるという当麻寺のようなお寺は珍しいです(ざっと調べた範囲では、有名な寺院だと、他に室生寺くらいです)。

 もともと当麻寺は、聖徳太子の異母弟の麻呂古王(日本書紀によると当麻氏の祖とされています)が開いた寺を、当麻国見(たいまのくにみ)が現在の地に移したとされる(あくまでも寺伝で、実際のところはよく分かっていないようです)、金堂を中心とするお寺でした。

 しかし、後世に中将姫伝説が有名になってしまい、もとから存在した金堂とは別に、中将姫お手製の曼荼羅をまつったお堂(曼荼羅堂)が「本堂」に昇格してしまったため、「金堂」と「本堂」が並存するという珍しい状態になったようです。

本堂にある受付にいって、本堂、金堂、講堂の拝観共通券を買います。国宝の本堂は瓦葺で、寄棟造(屋根の形状で、棟から4方向に傾斜する屋根面を持つもの)、平入り(床が長方形の建物で、広い辺の側に入り口があることをいいます)と、仏教寺院の本堂としては、オーソドックスな形をしています。

上記のように中将姫の織った曼荼羅をまつるお堂で、奈良時代末から平安時代初期に建てられたものが、平安時代末期に改造されて現在の姿になったということです。

 本堂の中央に立派な須弥檀(しゅみだん)があり、その上にやたらとでかい厨子が載っています。奈良時代末から平安時代の初期に作られたものといわれているそうです。

 厨子の中に飾られている曼荼羅(約4m×4mというでかさです。厨子がでかくなるのも当然です)は、まさしく中将姫により織られた伝説の曼荼羅・・・ではなく、残念ながら、室町時代に作られた複本ですが、それでもかなりの古さを感じさせます。というか、相当に傷んでいます。

ちなみにオリジナルは更に傷みが激しいらしく、原則として非公開になっていて、私もいまだに実物にお目にかかったことがありません。オリジナルの写真を見ましたが、思わず「傷み」を「悼み」と誤植したくなるくらい、相当に傷んでいます。

 阿弥陀様が中央に座っていて、その周囲を多くの菩薩が囲み、後方に描かれた横長の建物は平等院鳳凰堂のモデルになったということですが、退色に加え、曼荼羅の上に金網が張られているので、細かな部分までは分かりません。

ちなみに厨子の蓋(現在残っているのは鎌倉時代に作られた後補のものですが)は取り外されていて、時々、奈良国立博物館に展示されています。黒漆の地に金蒔絵というシンプルながら豪華な一品です。

 厨子の右側には中将姫の念持仏と言われる十一面観音像がまつられており、弘仁時代(平安前期。810年−823年)の作といわれています。

「奈良時代に亡くなったお姫様が、何故、平安時代に作られた観音様を拝めたのだろう?」という素朴な疑問は忘れて、素直な心でお参りしましょう。歴史考証というものは、少なからずロマンと対立するものす。
(つづく)  <弁護士>               

2017年05月25日

◆「古寺旧跡巡礼」 当麻寺 @

石田 岳彦



<私は大阪で弁護士をしています。大学生時代からの趣味で、社寺、名勝、旧跡から、明治以降のいわゆる近大遺産まで、九州から東北まで(そのうち北海道にも行きたいです)、「歴史的なもの」を見て回っています。今回「私の古寺旧跡巡礼」と題して綴ってみました>。
 

さて本題―。奈良県葛城市(旧当麻町)にある「当麻寺」というのは、不思議なお寺です。

国宝の仏像、曼荼羅、厨子、本堂、2基の三重塔、梵鐘、重要文化財多数を持っているという文化財の宝庫で、「古寺巡礼」、「日本の寺院100選」といった書籍、雑誌の特集があれば、必ず名前のあがるという古寺巡りや古文化財のファンの間では常識というか、知らない人はもぐり扱いされるという有名なお寺ですが、世間一般の知名度は高くないようです。

 おそらく、奈良、飛鳥、斑鳩という奈良県内のメジャーな観光地から離れたところにあるので、観光客が少ないことが原因でしょう。観光ガイドの扱いも微々たるものです。

もし、奈良市内にあれば、東大寺や興福寺は無理でも、薬師寺や唐招提寺なみにはメジャーになれたであろうという、ある意味とても不運なお寺といえます。

もっとも、奈良市内にあったならば、上記の文化財の少なからずが、戦火に巻き込まれて灰になった可能性もありますが。


ところで、当麻寺の最大の売り物(?)は、中将姫伝説です。

中将姫は、奈良時代の貴族のお姫様で、継母に度々、命を狙われるという苦難を乗り越え、阿弥陀如来の導きによって極楽浄土の光景を描いた曼荼羅を織り上げ、極楽浄土へ旅立ったとされる伝説上の人物です。

これが、「本当は怖いグリム童話」なら、シンデレラのように、継母の目を鳩がほじくったり、或いは、白雪姫のように、継母に焼けた鉄の靴を履かせたりといった感じのハッピーエンドになるところですが、そういう物騒な展開はありません。仏教説話ですから。

 継母がその後、地獄に落ちて、閻魔様に舌を抜かれるという因果応報的な後日談はあるかも知れません。仏教説話ですから。

近鉄南大阪線の当麻寺駅を出て、まっすぐ西を目指します。駅から出発してまも無く、右側路傍に当麻蹴速(たいまのけはや)の墓、とされる五輪塔があります。

 この蹴速は、垂仁天皇の時代の人で、天下最強を宣言して挑戦者を募っていたところ、垂仁天皇の命で、出雲からやってきた野見宿禰(のみのすくね)と相撲をとることになり、宿禰に蹴り殺された(当時の相撲は今よりもかなりバイオレンスなルールだったようですね。)という、色々な意味で「痛い」人です。

もっとも、垂仁天皇(日本書紀等の記述によると紀元前1世紀から1世紀にかけて在位。卑弥呼よりも前です。)自体、実在が危ぶまれている状況ですので、この話も歴史というより、伝説の部類です。

この蹴速と宿禰の対戦が、わが国の相撲の始まりとされているそうです。すぐ近くに相撲館という、相撲資料館まで建てられています。中将姫と当麻蹴速とおぼしき男女のかわいらしいキャラクターのイラストがポスターに載っていました。今、はやりのユルキャラというやつでしょうか。余計なお世話だと思いますが、かなり幸の薄そうなカップルです。

駅から歩いて15分ほどで大門に着きます。境内の東端に建っている楼門で、古寺にふさわしい風格です。大門を入ってすぐ、正面には鐘楼があります。国宝の梵鐘を「吊ってある」お堂です。

「吊ってある」というのは、一見、梵鐘が吊られているように見えますが、実は下に台が設けられていて、梵鐘はその上に置かれているからです。以前にお寺の方から聞いた話では、十数年前まで当麻寺には鐘楼は存在せず、梵鐘もいずれかのお堂に置かれていたそうです。

その後、鐘楼が再興され、それに合わせて梵鐘を鐘楼に吊るすことになったものの、いざ、吊るそうという段になって、龍頭(梵鐘を吊るすための上部にある輪状の突起)にひびがあるのが発見され、吊るすことができなくなってしまいました。

にもかかわらず、「せっかく再建したのだから鐘楼に梵鐘を飾りたい」ということで、こうなったようです。観光ガイドにも載っていない、思いっきりどうでもよいトリビアといえます。(つづく)

<福岡県福岡市出身、大阪弁護士会・弁護士>

2017年04月28日

◆名所旧跡だより 葛井寺(藤井寺市)

石田 岳彦



関西に住んでいる方、若しくは古株のプロ野球ファンの方、特に旧・近鉄バファローズファンであれば、大阪府の南部に藤井寺市という街があることはご存知でしょう。

もっとも、この街に葛井寺(ふじいでら)という寺があり、そもそも街の名前がこの寺から来ているということは案外知られていないかも知れません。
 
とはいえ、葛井寺は決して無名のお寺ではありません。少なくとも、社寺巡りを趣味とする者の間では。かの西国三十三番観音霊場の五番霊場ですし、ご本尊として(少なくとも、仏像ファンの間では)有名な国宝の千手観音菩薩像がいらっしゃいますので。

近鉄南大阪線を藤井寺駅で降りて、商店街を抜け、5分足らずで葛井寺の境内に辿り着きます。

寺伝によれば、葛井寺は、聖武天皇の命を受けた行基が建立したとされているそうですが、この手の話はほとんどの場合、眉唾で、実際には渡来人系の豪族の葛井(ふじい)氏が建てたという学説が有力なのだそうです。

もっとも、度々、戦火や天災の被害にあっているため、現在、境内に建ち並んでいるのは安土桃山時代に建てられた西門(重要文化財)を除けば、江戸時代の建物となります。

境内は広くなく、西門をくぐれば、すぐに本堂です(なお、正門は南側にある楼門の南大門で、なかなか立派なものです。)。

千手観音菩薩とは、観音菩薩の姿の1つで、広く衆生を救いたいという観音菩薩の慈悲の心を千本の腕で象徴しているわけですが、流石に千本も腕をこさえて、かつ、取り付けるのは至難の技であり、彫刻にするときは、普通、42本の腕で「千手」ということにしています。普通は。
 
そう。葛井寺のご本尊は「普通」に飽き足らず、敢えて至難の技に挑み、実際に千本の腕(実際には1000本を若干越えているようです。)を取り付けるという偉業(誤変換で「異形」と出てきましたが、ある意味正解です)を達成した「本物の千手観音菩薩」像なのです。

実際に千本以上の腕を取り付けた千手観音菩薩像の他の作例としては、唐招提寺金堂のもの(国宝)や、壽宝寺(京都府京田辺市)のもの(重要文化財)がありますが、これらは後年幾らかの腕が失われ、現存する腕は千本を切ってしまっており、そういう意味では、葛井寺のご本尊は現存唯一の「本当の千手観音菩薩像」ということになります(どこかのお寺なり、新興宗教団体が近年になって作成しているかも知れませんけど、ここでは無視します。)。

このご本尊は毎月18日のみ拝観が可能で、いわゆる秘仏です。

余談ですが、一概に「秘仏」といっても、毎月特定の日に公開されるというライトなものから、毎年特定の数日間のみ公開されるもの、数年から数十年に一度のみ公開されるもの、一般どころか文化庁のお役人にさえ絶対に公開されないもの(いわゆる「絶対秘仏」。

文化庁による審査を受けていないので、国宝や重要文化財にも指定されていません。)、果ては、ご本尊は絶対秘仏、その代わりを務める前立ち本尊(その名のとおり、ご本尊を納めた厨子の前に立つ、ご本尊の代行です)でさえ7年に1度しか公開されない善光寺(長野市)と、「秘され具合」のギャップには激しいものがあります。

葛井寺の本堂では参拝客が入ることができるのは外陣までで、そこから内陣奥のご本尊までは少し離れており、残念ながら、細部まではよく見えません。

観音様は坐像で(なお、上記の唐招提寺と壽宝寺の千手観音菩薩像は立像です。)、千本の腕のうちメインの2本は普通に両肩から伸びていて体の正面で合掌しています。

残りの腕は背中から左右に胴体を包み込むように放射線状に伸びていて(うち40本は比較的大きく、千手観音御用達の各種法具類を持っています)、少し離れた外陣から見ると、半分に分かれた巨大なボウルが、観音様の胴体を左右から挟みこんでいるようにも見えます。

写真撮影禁止のため(一般的に、名のある仏像の大半は撮影禁止です。国宝の仏様で撮影禁止でないのは、奈良と鎌倉の大仏様と東大寺南大門の仁王様、臼杵の石仏群くらいでしょうか。)、画像はありませんが、藤井寺市のホームページに写真が載っていますので、ご覧になってください。

写真を見て感じるところがあったら、18日に葛井寺に行ってください。仏像にそれほど関心のない方でも、話の種として一見の価値ありです。

同じ藤井寺市内、近鉄南大阪線の道明寺駅から徒歩5分足らずのところに道明寺と道明寺天満宮が隣り合わせで建っています。もとは1つだったのが、明治初期の神仏分離の折に強引に分離させられたようです。

天満宮といえば、当然、菅原道真公を祀っているわけですが、この道明寺のあたりは、菅原氏の先祖にあたる土師(はじ)氏の根拠地だったところで、太宰府に流される途中の道真公が、道明寺にいた叔母を訪ね、形見の品を遺したという伝説があります。

なお、この近辺は大阪夏の陣の激戦地の1つでもあり、豊臣方の勇将・後藤又兵衛が壮絶な戦死を遂げたその合戦は、その名も「道明寺の戦い」です。

道明寺のご本尊は国宝の十一面観音菩薩立像で(当然のことながら写真はなしです)、小さいながらも表情もプロポーションも端正です。葛井寺と異なり、かなり近くまで寄ってお姿を拝見できるのは嬉しいですね。

こちらも一応は秘仏で、毎月18日と25日に限り公開されます。葛井寺の千手観音様もそうですが、曜日さえ問わなければ毎月お目にかかれるので、秘仏の「秘され具合」としてはかなりライトな方といえます。

なお、お隣の道明寺天満宮には菅原道真公の遺品(上で述べた叔母さんに道真公が託したものですね)と伝えられる硯、櫛、銅鏡、石帯等が伝わっていて、一括して、やはり国宝に指定されています。毎年、梅の開花シーズンに合わせて宝物館で特別公開されていて、今年は2月11日から3月10日までの土日祝だそうです。

藤井寺市という一般観光客的にはノーマークな町に、国宝の仏様が2件いらっしゃるというのは驚くべきことで(国宝の仏像が2件以上存在する市町村は奈良市、京都市、斑鳩町、大津市(三井寺)、宇治市(平等院)、宇陀市(室生寺)等と数えるほどです。)、この地が古代から拓けていたということを実感させられます。

関西にお住まいの方は、休みの日にでも足をのばしてはいかがでしょうか(仏像ファンならば、たとえ九州・沖縄、北海道からでも来る価値はあります)。

18日なら葛井寺と道明寺を一緒に拝観できるので、お勧めです。
                                 終

2017年04月07日

◆名所旧跡めぐり 那須国造碑(栃木県大田原市)

石田 岳彦

 

さて、以前にもお話しましたが、日本人は「三大○○」というのが好きでして、「日本三景」、「日本三大がっかり名所」のようなメジャーなものから、「石の宝殿」の回で取り上げた「日本三奇」のようなマイナーなものまで、枚挙に暇がありません。

今回は、その中でもかなりマイナーかつマニアックな「日本三碑」の1つ那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)のお話をさせていただきます。
 
なお、今回の話は、私が司法修習を終えるころという、今から十年以上前の話であり、現状とはかなり異なっているところもあろうかと思いますので、現地に向かわれる際にはくれぐれも最新の情報をご確認ください。

日本三碑というのは、日本に古代から残る3つの代表的な石碑のことで、一般的には、宮城県多賀城跡の多賀城碑(重要文化財)、群馬県高崎市の多胡碑(特別史跡)、そして栃木県大田原市の那須国造碑(国宝)を指します。

ちなみに考古学や歴史学ではなく、書道史上の概念だそうです。書道的に見て、素晴らしい字ということなのでしょうか。

なお、どうでもよいことですが、多賀城碑は重要文化財、那須国造碑は国宝という「物」扱いなのに、多胡碑だけ特別史跡という「場所」扱いなのは何故でしょうか。石碑が突っ立っていて、その周囲が覆い屋で覆われているという構造まで一緒なわけですが。

司法試験に合格した後の司法修習の期間が1年間になった今では考え難いことですが、修習期間が2年間だった我々52期修習生までは、二回試験(司法修習の最後、法律家としての資格を得るために受ける最終試験のことです。)の後、結果発表までの間、2週間近い「春休み」が存在し、その間を利用して長期の海外旅行に行く修習生も少なくありませんでした。

金の無い私は、大阪に就職が決まっていたこともあり、「司法研修所を宿代わりに関東地方の各地を安く見て廻る最後のチャンス」と考え、この期間を利用し、関東の方々を廻ることにしました。

その目的地の1つが那須国造碑でした。
 
那須塩原駅で東北新幹線を降り(同駅にとまる列車自体が結構少なかったと記憶しています。)、バス停に行ったところ、次のバスは2時間後。泣く泣くタクシーに乗り込み(5000円以上かかりました。)、那須国造碑のある笠石神社へ。

那須国造碑は笠石神社のご神体なのです。

笠石神社では、那須国造碑を予約制で公開しており、当然、私も予約したうえで赴いたわけですが、私は不安を感じていました。

というのも、ご神体というものは基本的に非公開であり(山がご神体といった場合はまた話が別ですが、ご神像、剣、鏡等のような、本殿の中に収まるようなサイズのものの場合には、非公開がほとんどのようです。)、ご神体が国宝に指定されているからといって、それを見せて欲しいという見学希望者の存在は、神社側にとって、実のところ迷惑なのではないだろうか、招かれざる客ではなかろうかと、小心者の私は、考えても仕方のないことをあれこれと考えてしまうのです。

それでも「あちらにとって迷惑でも、やはり見たいものを見せてくれるなら見たい」という結論になるのが、文化財マニアの業というものでしょうか。

タクシーを降り、社務所に向かいました。笠石神社は、道路に沿った畑の中、そこだけ林になった狭い境内の中に、いかにも「村の鎮守の神様」という雰囲気で鎮座されていました。
社務所の前には、何故かパイプ椅子が2列ほど並べられており、簡易な屋根までついています。

出てこられた神主さんから渡されたのは那須国造碑と笠石神社に関する詳細な資料一式。もしかして「見学者大歓迎」ですか。早速、神主さんからのレクチャーが始まります。参拝客は私だけです。

神主さんのお話によると、那須国造碑は西暦700年ころ、那須の国造(大和朝廷の支配下に入った地方豪族に与えられた称号)で那須郡の高位の役人になった人物を、その亡き後、息子らが顕彰するために建てた石碑だったそうです。石碑の上に笠状の石が乗せられており、そのため「笠石」さまと呼ばれたとのこと。

もっとも、土台となった石が小さく、バランスが悪かったためか、建立されて、それほど経たないうちに倒れてしまいましたが、その際、碑面が下になったため、碑文が保存されたそうです。

その後、何故か「祟り石」という評判が立ってしまい、数百年間にわたり、放置されていたところ、江戸時代になって円順という旅の僧侶(物好きだったのでしょう)が笠石様を調べて碑文の存在に気付き、それを在郷の学者(郷土史家の走りというものでしょうか。)が本にしました。

そこに現れたのが、徳川光圀公、いわゆる水戸黄門様ですね。自ら大日本史という大歴史書の編纂作業に着手するほどの歴史好きだった黄門様は、笠石様について書かれた書物を献上され(言い忘れましたが、那須国造碑の所在地は水戸藩領でした。)、那須国造碑に強い興味を持ちます。

早速、水戸藩の学者に碑文の解読を命じるとともに、倒れていた碑を建て直し(土台の石をより大きなものにし、元の土台石をその中に収めたそうです。)、これをご神体とした笠石神社を建立しました。

神社のご神体という形をとったのは、「文化財の保護」という概念のない当時において、那須国造碑を永続的に保管するという目的を達成するためには、それが一番簡便であったということでしょう。都合のよいことに、笠石様として既に一定の宗教的権威をもっていましたし。

また、このような笠石神社の由来を知れば、同神社が、ご神体であるはずの那須国造碑の公開に積極的なのも理解できます。

この神社は単なる神社ではなく、貴重な歴史的遺産の保存、研究者への公開をも使命とする文化的施設でもあったわけですから。

そして、黄門様は笠石神社の創建にとどまらず、近くにあった古墳を那須国造碑に顕彰された国造とその息子(建立者)のものではないかと考え、古墳を発掘させ、発掘品をその姿を絵画として記録したうえで、箱に入れて埋め戻させ、更に樹木を植えて古墳が崩れないように指示を出したそうです。

感動しました。江戸時代初期の人間が、文化財・遺跡の保護、遺跡の学術的発掘といった現在に通じる考えを既に持っていたということですね。
何と先進的な。さすがに黄門様です。全国を漫遊しているのがテレビ時代劇の作り話に過ぎないとしても、やはり偉大な人物でした。

感動を胸に抱きながら、神主さんに連れられて本殿へ。耐火性の、祠というよりも大き目の金庫という印象の本殿の扉を開くと、中に笠石様が鎮座していらっしゃいました。

碑面は説明で聞いたとおり、保存状態が良く、文字もはっきりと残っています。綺麗な整った形の字という印象です。

書道に詳しい人ならば、もう少し気の利いた表現で、「那須国造碑の味わい方」を説明することが可能なのでしょうが、当時の(おそらく現在も)私としては、この程度の感想がせいぜいでした。高校の書道の時間にもう少し真面目に授業を受けておくべきだったでしょうか。

とはいえ、1300年も昔の石碑がほぼ完全に近い形で現在に残っており、今、自分の前に立っているという事実はそれ自体、感慨を抱かせるものです。

この石碑を巡る黄門様の逸話を聞いた後となれば、尚更のこと。私と同じように、かつて黄門様もこの石碑に向かい、その碑文を一文字、一文字眺めたことでしょう。

(おそらく今も)公共交通機関が不便なので、自動車免許のある方ならば、駅からはレンタカーの利用が望ましいと思います。付近(というにはかなり離れていますが)には、九尾の狐伝説で有名な殺生石もありますので、時間があれば、そちらも御覧になられてください。

                     (弁護士)

2017年03月20日

◆名所旧跡だより犬山城・愛知県犬山市

石田 岳彦



「現存12天守」なる言葉をご存知でしょうか。
 
昭和以降、鉄筋コンクリートで再現された天守閣のレプリカ(?)は全国各地に数あれど(天守閣が建てられた歴史的事実がない城跡にまで建てるのはさすがにいかがなものかと思います。)、江戸時代以前の本物の天守閣が残っている城は全国に12しかありません。

これを総称して「現存12天守」と呼ぶことがあります。

12の城は、弘前城(青森県・弘前市)、松本城(長野県松本市)、犬山城(愛知県犬山市)、丸岡城(福井県丸岡町)、彦根城(滋賀県彦根市)、姫路城(兵庫県姫路市)、備中松山城(岡山県高梁市)、松江城(島根県松江市)、丸亀城(愛媛県丸亀市)、松山城(愛媛県松山市)、宇和島城(愛媛県宇和島市)、高知城(高知県高知市)です。

このうち、松本城、犬山城、彦根城、姫路城の4城の天守閣が国宝に指定され、残り8城では重要文化財に指定されています。

今回はその国宝4天守の1つ、犬山城のお話です。

愛知県犬山市の木曽川の河畔の丘の上に聳え立つ犬山城は、その立地から、「白帝城」(オリジナル白帝城は長江流域の丘上にある城で、三国志の主人公である劉備玄徳が諸葛孔明に後事を託して亡くなった城として有名です)とも呼ばれているそうです。

荻生徂徠(江戸時代、徳川綱吉の時代の学者。赤穂浪士の処分について切腹にすべきとの意見を述べ、採用されたことで有名ですね。)の命名ということなので、年季が入っています。

なお、横を流れている木曽川がライン川と似ているとのことで、木曽川の川下りは「日本ライン下り」という名称で興業されています。つまり、日本のライン川の河畔に、日本の白帝城が建っているということですね。少しは統一を図るべきだと思いますが。

犬山の地は尾張と美濃の国境にあるという戦略上の要衝であり、古くから城が築かれていたようですが、支配者もまた頻繁に変わり、最終的には、江戸時代に入って、御三家の筆頭である尾張徳川家の付家老成瀬家が城主になり、明治に至りました。

付家老というのは、御三家等に対し、将軍の直々の命により付けられた家老で、幕府からのお目付け役的な側面もあり、藩内での立場はかなり複雑だったようです。

明治以降も長く成瀬家が個人で所有していて、「個人所有のお城」ということでも有名でしたが、近年になり、さすがに維持が困難になったようで(相続税が恐ろしいことになりそうです)、現在、城は財団法人の所有となっています。

天守閣が建てられた時期については幾つか説があるようですが、増築によって今の形になったのは1620年ころということでした。
 
名古屋鉄道・犬山遊園駅を出て、正面に犬山城を見ながら、木曽川沿いの道を行きます。後述する有楽苑の横を通り、城の建つ丘に登ります。丘の下方は神社の境内になっていて、参道の階段を登って上へと進むと間も無く天守閣です。

犬山城にとって惜しむべきは、廃藩置県の際、多くの建物が破棄されてしまい、また、堀も大部分が埋められていることです。

城跡の歩き方といえば、堀に沿って歩き、橋を渡って城内に入って、幾つもの門をくぐり、所々で折れ曲がる道を登るという過程を経て、徐々に気分が盛り上がってきたところに本丸の天守に到着というのが理想ですが、犬山城の場合、近年になって天守付近の門や櫓の復元が行われているようですが、駅から天守閣に到達するまでの間には、城らしさを味あわせてくれるお堀、石垣、土塁といった構造物は残っていません。

お堀や石垣どころか、主要な建造物の大半が健在の姫路城は勿論、天守閣の他に幾つかの櫓と2重の堀が残っている彦根城に比べると寂しさは否めません。

それはさておき、入り口で靴を脱いで天守閣に登ります。犬山城に限らず、初めて「本物」の天守閣に登った方(なお、現存12天守は修復工事中の場合を除き、基本的に常時公開しています。)は、少なからず、愕然とするかと思いますが、天守閣の中は基本的に空っぽで、飾り気の欠片もありません。

犬山城の場合、一応、内部の壁も漆喰で塗られていて、畳敷きの部屋も一部ありますが(現存12天守の中には全層が板壁・板床というところもありました。)、豪華な装飾画などというものは皆無です。

織田信長の安土城や豊臣秀吉の大阪城の天守閣は、城主の住居として使われていて、狩野永徳に襖絵を描かせる等、内装にもかなり凝っていたようですが、安土桃山時代末期から江戸時代初期に立てられた城の天守(現存12天守はこの時期の建造です。)は、城主の権威を示すシンボルではあるものの、実際の用途という面では、主に倉庫として使われていたといわれています(城主は城内の御殿に住んでいました。

二条城の二の丸御殿を思い浮かべていただくと分かり易いかと。確かに4、5階建ての天守閣を毎日上り下りしながら暮らすのは大変でしょうからね。)。

さすがに「空っぽの倉庫」状態では物足りないので、天守の中に、鎧兜、刀、城の柱組みの模型等の資料を飾ったケースを並べたり、城の歴史や日本各地の城に関するパネルを設置したりといった努力もなされていますが、外観の華やかさに比して、味気ない内部です。

壁際に設けられている石落し等が、天守が(実際の運用は兎も角として)単なる倉庫ではなく、あくまで軍事施設であることを示しています。

最上階からの眺めは、月並みですが絶景です。平野の中の小高い丘の上、すぐ隣が木曽川というロケーションの勝利ですね。今のように高層建造物の少なかった昔において、高楼から遠方の眺めを楽しむというのは権力者の特権だったのでしょう。

さて、犬山城の麓には有楽園という庭園があります。名鉄犬山ホテルの施設の1つという扱いのようですが、一般にも公開されています(有料)。この庭園は、織田信長の弟である織田有楽が建てた茶室如庵(国宝)を中心に設計された日本庭園です。  

織田有楽は、本能寺の変で二条城に篭城した際には信忠(信長の長男で跡継ぎ)に切腹を勧めつつ、自分はちゃっかり脱出したり、大阪の陣の際も、淀殿の叔父(淀殿の母は、信長の妹のお市の方です)として豊臣方に世話になっていながら、直前になって城を脱出し、徳川方に転がり込んだりと(淀殿の妹のお江の方が2代将軍秀忠の正室でしたので、こういう芸当も可能でした。)、波乱に富んではいるものの、美しいとは言い難い人生を歩んだ人物ですが、茶人としては高名です。

国宝に指定されている茶室は、千利休の建てた待庵(京都府大山崎町の妙喜庵という寺院の中にあります)、大徳寺龍光院の密庵(京都市)の他はこの如庵だけなので極めて貴重な茶室といえます。

この茶室は、当初、京都にあったのを三井財閥に買い取られて、神奈川県大磯に移され(写真で見ましたが、大型トラックに茶室が丸ごと載せられて移動する姿は異様で、思わず、笑えてきました。)、更に名鉄に買われて、現在地に移築されました。

年に数回程度、特別公開で茶室の中にも入れますので、興味のある方は有楽苑のホームページを小まめにチェックしてください。

犬山には、他にもかの明治村があり(汽車、市電、乗り合い馬車が走っていて乗ることができたり、明治時代のレシピの洋食屋や牛鍋屋で食事ができたりと、単に古い建造物を集めた資料館ではなく、明治時代を体験できるテーマパークという性格になってきました。)、お猿専門の動物園である日本モンキーセンターがあります(ニッチな商売です)。

1泊2日くらいでゆっくりと見てみたい町です(ゆっくり見て回るなら、明治村で丸1日、犬山城と有楽苑で半日というところでしょうか)。終
                             (弁護士)

2017年02月12日

◆名所旧跡だより  犬山城・愛知県犬山市

 
石田 岳彦



「現存12天守」なる言葉をご存知でしょうか。
 
昭和以降、鉄筋コンクリートで再現された天守閣のレプリカ(?)は全国各地に数あれど(天守閣が建てられた歴史的事実がない城跡にまで建てるのはさすがにいかがなものかと思います。)、江戸時代以前の本物の天守閣が残っている城は全国に12しかありません。

これを総称して「現存12天守」と呼ぶことがあります。

12の城は、弘前城(青森県・弘前市)、松本城(長野県松本市)、犬山城(愛知県犬山市)、丸岡城(福井県丸岡町)、彦根城(滋賀県彦根市)、姫路城(兵庫県姫路市)、備中松山城(岡山県高梁市)、松江城(島根県松江市)、丸亀城(愛媛県丸亀市)、松山城(愛媛県松山市)、宇和島城(愛媛県宇和島市)、高知城(高知県高知市)です。

このうち、松本城、犬山城、彦根城、姫路城の4城の天守閣が国宝に指定され、残り8城では重要文化財に指定されています。

今回はその国宝4天守の1つ、犬山城のお話です。


愛知県犬山市の木曽川の河畔の丘の上に聳え立つ犬山城は、その立地から、「白帝城」(オリジナル白帝城は長江流域の丘上にある城で、三国志の主人公である劉備玄徳が諸葛孔明に後事を託して亡くなった城として有名です)とも呼ばれているそうです。

荻生徂徠(江戸時代、徳川綱吉の時代の学者。赤穂浪士の処分について切腹にすべきとの意見を述べ、採用されたことで有名ですね。)の命名ということなので、年季が入っています。

なお、横を流れている木曽川がライン川と似ているとのことで、木曽川の川下りは「日本ライン下り」という名称で興業されています。つまり、日本のライン川の河畔に、日本の白帝城が建っているということですね。少しは統一を図るべきだと思いますが。

犬山の地は尾張と美濃の国境にあるという戦略上の要衝であり、古くから城が築かれていたようですが、支配者もまた頻繁に変わり、最終的には、江戸時代に入って、御三家の筆頭である尾張徳川家の付家老成瀬家が城主になり、明治に至りました。

付家老というのは、御三家等に対し、将軍の直々の命により付けられた家老で、幕府からのお目付け役的な側面もあり、藩内での立場はかなり複雑だったようです。

明治以降も長く成瀬家が個人で所有していて、「個人所有のお城」ということでも有名でしたが、近年になり、さすがに維持が困難になったようで(相続税が恐ろしいことになりそうです)、現在、城は財団法人の所有となっています。

天守閣が建てられた時期については幾つか説があるようですが、増築によって今の形になったのは1620年ころということでした。
 
名古屋鉄道・犬山遊園駅を出て、正面に犬山城を見ながら、木曽川沿いの道を行きます。後述する有楽苑の横を通り、城の建つ丘に登ります。丘の下方は神社の境内になっていて、参道の階段を登って上へと進むと間も無く天守閣です。


犬山城にとって惜しむべきは、廃藩置県の際、多くの建物が破棄されてしまい、また、堀も大部分が埋められていることです。

城跡の歩き方といえば、堀に沿って歩き、橋を渡って城内に入って、幾つもの門をくぐり、所々で折れ曲がる道を登るという過程を経て、徐々に気分が盛り上がってきたところに本丸の天守に到着というのが理想ですが、犬山城の場合、近年になって天守付近の門や櫓の復元が行われているようですが、駅から天守閣に到達するまでの間には、城らしさを味あわせてくれるお堀、石垣、土塁といった構造物は残っていません。

お堀や石垣どころか、主要な建造物の大半が健在の姫路城は勿論、天守閣の他に幾つかの櫓と2重の堀が残っている彦根城に比べると寂しさは否めません。

それはさておき、入り口で靴を脱いで天守閣に登ります。犬山城に限らず、初めて「本物」の天守閣に登った方(なお、現存12天守は修復工事中の場合を除き、基本的に常時公開しています。)は、少なからず、愕然とするかと思いますが、天守閣の中は基本的に空っぽで、飾り気の欠片もありません。

犬山城の場合、一応、内部の壁も漆喰で塗られていて、畳敷きの部屋も一部ありますが(現存12天守の中には全層が板壁・板床というところもありました。)、豪華な装飾画などというものは皆無です。

織田信長の安土城や豊臣秀吉の大阪城の天守閣は、城主の住居として使われていて、狩野永徳に襖絵を描かせる等、内装にもかなり凝っていたようですが、安土桃山時代末期から江戸時代初期に立てられた城の天守(現存12天守はこの時期の建造です。)は、城主の権威を示すシンボルではあるものの、実際の用途という面では、主に倉庫として使われていたといわれています(城主は城内の御殿に住んでいました。

二条城の二の丸御殿を思い浮かべていただくと分かり易いかと。確かに4、5階建ての天守閣を毎日上り下りしながら暮らすのは大変でしょうからね。)。

さすがに「空っぽの倉庫」状態では物足りないので、天守の中に、鎧兜、刀、城の柱組みの模型等の資料を飾ったケースを並べたり、城の歴史や日本各地の城に関するパネルを設置したりといった努力もなされていますが、外観の華やかさに比して、味気ない内部です。

壁際に設けられている石落し等が、天守が(実際の運用は兎も角として)単なる倉庫ではなく、あくまで軍事施設であることを示しています。


最上階からの眺めは、月並みですが絶景です。平野の中の小高い丘の上、すぐ隣が木曽川というロケーションの勝利ですね。今のように高層建造物の少なかった昔において、高楼から遠方の眺めを楽しむというのは権力者の特権だったのでしょう。


さて、犬山城の麓には有楽園という庭園があります。名鉄犬山ホテルの施設の1つという扱いのようですが、一般にも公開されています(有料)。この庭園は、織田信長の弟である織田有楽が建てた茶室如庵(国宝)を中心に設計された日本庭園です。  

織田有楽は、本能寺の変で二条城に篭城した際には信忠(信長の長男で跡継ぎ)に切腹を勧めつつ、自分はちゃっかり脱出したり、大阪の陣の際も、淀殿の叔父(淀殿の母は、信長の妹のお市の方です)として豊臣方に世話になっていながら、直前になって城を脱出し、徳川方に転がり込んだりと(淀殿の妹のお江の方が2代将軍秀忠の正室でしたので、こういう芸当も可能でした。)、波乱に富んではいるものの、美しいとは言い難い人生を歩んだ人物ですが、茶人としては高名です。
国宝に指定されている茶室は、千利休の建てた待庵(京都府大山崎町の妙喜庵という寺院の中にあります)、大徳寺龍光院の密庵(京都市)の他はこの如庵だけなので極めて貴重な茶室といえます。

この茶室は、当初、京都にあったのを三井財閥に買い取られて、神奈川県大磯に移され(写真で見ましたが、大型トラックに茶室が丸ごと載せられて移動する姿は異様で、思わず、笑えてきました。)、更に名鉄に買われて、現在地に移築されました。

年に数回程度、特別公開で茶室の中にも入れますので、興味のある方は有楽苑のホームページを小まめにチェックしてください。


犬山には、他にもかの明治村があり(汽車、市電、乗り合い馬車が走っていて乗ることができたり、明治時代のレシピの洋食屋や牛鍋屋で食事ができたりと、単に古い建造物を集めた資料館ではなく、明治時代を体験できるテーマパークという性格になってきました。)、お猿専門の動物園である日本モンキーセンターがあります(ニッチな商売です)。

1泊2日くらいでゆっくりと見てみたい町です(ゆっくり見て回るなら、明治村で丸1日、犬山城と有楽苑で半日というところでしょうか)。終
                             (弁護士)

2017年01月31日

◆平原遺跡巡り  福岡県糸島市

石田 岳彦



私の故郷である福岡市の周辺では、「桧原(ひばる)」、「屋形原(やかたばる)」、「前原(まえばる)」と、「原」を「はら」ではなく、「ばる」と呼ぶ地名が散在しており、上記の「平原」も「ひらはら」ではなく、「ひらばる」と読みます。

本日は福岡県糸島(いとしま)市にある平原遺跡について述べさせていただきます。

魏志倭人伝には邪馬台国を初め、多くの国名が記載されていますが、伊都(いと)国もその中の1つです。

現在の福岡市西区から糸島市にかけては、もともとは糸島郡であった地域ですが(平成の大合併で、前原市と志摩町、二丈町がまとまって糸島市が誕生し、糸島郡は最終的に消滅しました。)、この糸島郡自体、明治時代に怡土(いと)郡と志摩(しま)郡が合併して成立しました。

この怡土が伊都と通じること、佐賀県の旧松浦郡(現在の伊万里から唐津あたりにかけての地域)にあったとされる末廬国(まつら)国の南東に伊都国があったとの魏志倭人伝の記載から、伊都国は旧糸島郡にあったとされているそうです。

平原遺跡はこの伊都国の女王の墓とされています。 平原遺跡は糸島市の平原地区(遺跡の大半は発見された場所の地名で呼ばれます)にあり、周辺はのどかな農村地帯です。

そもそもこの遺跡が発見されたのも、昭和40年に地元の農家が蜜柑の木を植えようとして、銅鏡の欠片を発見したことがきっかけでした。

報告を受けた福岡県は、郷土史家の原田大六(大正6年の生まれということで、こう名付けられたそうです。)に発掘の指揮を依頼しました。

この原田大六は、糸島中学校(今の福岡県立糸島高校)を出たものの、大学では学ばず(歴史しか勉強しようとしなかったので、進学が無理だったとか)、太平洋戦争から復員した後、公職追放にあったのを契機に(軍隊において憲兵隊に入っていたのが祟ったといわれています)、中山平次郎博士に弟子入りし、博士から9年以上にわたり、1日6時間以上のマンツーマン指導を受け、考古学者になったという歴史小説の主人公にもなれそうなユニークな経歴と個性の持ち主です。


ちなみに中山博士は、現在でいうところの九州大学医学部の教授でありながら、寧ろ考古学者としての業績が有名という(九州考古学会の設立者だそうです)、これまた変わった経歴の持ち主で、この師匠にして、この弟子ありというところでしょうか。

この原田大六が、途中からは自費で発掘を継続し、遺跡からは墳墓の副葬品と見られる多くの出土品が発掘されました。

発掘品の中でも特に目立つのは39面又は40面(何分、破片で見つかったので、枚数について争いがあるようです。)発見された銅鏡で、うち4枚は直径46.5cmと、日本で発見された銅鏡として最大のものです。

他方で、剣等の武器はほとんど見つかっておらず、被葬者が女性であったことをうかがわせます。 副葬品の内容と豪華さから見て、時代は弥生時代。被葬者は王クラスの女性、つまり女王。遺跡(墳墓)のあった場所は伊都国があったとされるエリアということで、現在では、上記のように伊都国の女王の墓と推定されています。

弥生時代の女王といえば、邪馬台国の卑弥呼が有名ですが(実際には「日巫女」という太陽神を祀る神官女王の役職名だったのではないかとの説もあるそうですが)、それ以外にも女王がいたのですね。

ちなみに原田大六は玉依姫(たまよりひめ。神武天皇の母親とされる神話上の女神です。)の墓と主張していました。

平原遺跡の女王の墓は四角形(現在では少なからず形が崩れていますが)で、写真を見ればお分かりのように、その周囲には溝が掘られています。学問的には方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)と呼ばれるタイプの墓だそうで、上記の発掘品も近年になって「福岡県平原方形周溝墓出土品」という名称で一括して国宝に指定されています。

現在の平原遺跡は、墳墓の周りが低い柵で囲まれ、その周囲は横長のレリーフが建っているのを除けば何もない広場になっており、少し離れたところに古民家(遺跡とは全く関係ありませんが、保存のため移築されたようです)が1軒ぽつんという、よく言えば開放的、率直にいえばスペースが広々と余った歴史公園となっています。
個人的にはこういう長閑な雰囲気は好きですが。

平原遺跡から車で10分ほど走ると農村風景の中に4階建の立派な建物がそびえているのが見えてきます。伊都国歴史博物館です。もともとは伊都歴史資料館といったようですが、平成16年に新館が建てられて博物館に昇格したとのこと。

「福岡県平原方形周溝墓出土品」の一部は九州国立博物館の平常展示室で公開中ですが、大半の発掘品はこちらの新館に保管・展示されています。館内撮影禁止のために写真はありませんが、鈍く緑色に輝く大型の銅鏡がケースの中にずらっと並ぶ姿はさすがに壮観です。
 
展示ケースの前に、立てられた状態の銅鏡が1枚、機械仕掛けでゆっくりと回転しながら展示されていましたが、見学者が私と妻の他におらず(施設と所蔵品の豪華さを考えれば、もったいない限りです。)、静けさの中で、微妙なモーター音をあげながら回転する銅鏡の姿は率直にいって不気味でした。

この博物館の前身たる伊都歴史資料館の初代館長には、上でも述べた原田大六が予定されていたそうですが、大六が開館を待たずに死去したため、名誉館長の称号が追贈され、資料館の前に銅像が立てられました(銅像は現在も立っていますが、新館の入り口からだと目立たない場所になっています)。

自分の主導で遺跡を発掘し、国宝級の副葬品を発見して、それを納めた郷里の資料館の前に銅像を建ててもらう。郷土史家としては頂点を極めたという感じですね。大学の考古学の教授でもここまでの成功を得られる人は滅多にいないでしょう。
 
福岡市やその近郊にお住まいの方は、休日にでもドライブがてらにでも、平原古墳と伊都国歴史博物館を訪れてみてください。晴れた日には本当に気持ちの良い場所ですので。                  
<弁護士>

2017年01月15日

◆名所旧跡だより  石の宝殿(高砂市)

石田 岳彦



1 今となっては正確な時期は忘れましたが、おそらく10年ほど昔のことでしょうか。  朝日新聞の日曜版に「石の宝殿」なるものの紹介記事が載っていました。
  
岩山を背景に横たわる巨大な岩の立方体。如何にも古代史の謎という印象です。
 
 紹介記事を見てから3ヶ月ほど後、休日を利用して現地を訪れることにしました(今回は割りと以前のお話なので、現在とは現地の状況が若干変化しているかも知れません。ご注意ください)。

2 大阪駅からJRの新快速で加古川まで行き、そこで普通電車に乗り換えて一駅。最寄り駅の名前はそのまんま「宝殿駅」。直球です。

 駅前の広場から、「石の宝殿」のある、というより、「石の宝殿」をご神体にしている生石神社(読みは、「おうしこじんじゃ」です。)へと向かいます。

 駅からは直線状の道路をまっすぐに行ったところにあるため、歩くのを開始してすぐに彼方の山の中腹に神社の建物が見え、「あそこまで歩くのか」とげんなりしました。歩いてみたら20分ほどですが。
 
途中にも「石の宝殿」に関する案内板がちらほら。「日本三奇の1つ、石の宝殿へ徒歩○分」。後の2つは何でしょうか?
 
遠くから見たら山という感じでしたが、近くに寄ってみると、小高い丘というところでしょうか。麓から神社まで急な石段が伸びています。石段を登り切ったところが神社の境内です。なお、車道も通っているので、自動車でも行けます。私が行った際にも境内に何台か停まっていました。
  
丘の上ということもあって、見晴らしはよいですが、右方を見ると隣の山が原型をとどめないほど、切り崩されています。この付近は竜山石と呼ばれる石材の産地だそうで、隣山の惨状も長きにわたる採掘の結果のようです。石の宝殿も勿論、竜山石で出来ています。

3 生石神社の本殿は変わった形をしていて、2つの建物を横に並べて屋根を連結したような感じになっており、2つの建物の間は「石の宝殿」へ向かう通路となっています。
 
ちなみにこの本殿では、大己貴命(「オオナムチノカミノミコト」と読みます。大国様の別名です)と少彦名命(「スクナヒコナノミコト」と読みます。大阪市中央区道修町の「神農さん」ですね。)の二柱の神様を祭っているそうです。協力して、わが国の国土開発を行ったとされる神々ですね。
 
本殿が2つの建物からなっているのも、祭神が二柱いらっしゃる関係でしょう。拝観料を賽銭箱に入れ、備え置きのパンフレットを一部もらって、本殿の建物の間を通り抜けます。
  
抜けた先には、巨大な岩の立方体(側面に溝が掘り込まれているので厳密には違いますが)「石の宝殿」が横たわっていました。
 
生石神社の境内は岩山で(幸い、隣の山のようにぼろぼろにはなっていません。)、「石の宝殿」は左右後方の3方を人工的に切り出された岩壁、正面を上で述べた本殿に塞がれた四角い空間の中に横たわっています。

 「石の宝殿」の下は池(というには狭いですが)で、その中に土台が在り、「石の宝殿」はその上に置かれた状態になっています。水に浮かんでいるかのように見えることから「浮石」との呼称もあるそうです。なるほど。
  
池の周りには細い道が設けられていて、参拝客はこれに従って、「石の宝殿」の周囲を回ることになりますが、「石の宝殿」が巨大な上に、岩壁がそれを囲むように高く、実際以上に圧迫感というか、自分の置かれている空間の「狭さ」を感じます。
  
全体像はとても入りませんね。後方に回ると「石の宝殿」の本体(立方体の部分)から三角柱のでっぱりが飛び出ていました。

 パンフレットによると、このでっぱりが屋根を表しているそうです。つまり、「石の宝殿」は、底を前方(本殿の方向)に向ける形で横たわっていることになります。

 作った後にわざわざ倒す理由も考え難いので、おそらく何らかの理由により未完成に終わったということでしょう。なお、「石の宝殿」を誰が造ったかについては、よく分かっておらず、播磨国風土記には「聖徳太子の時代に弓削の大連(物部守屋?)が作ったと伝えられている」と記載されているとのこと。
 
風土記は古事記や日本書紀と並ぶ「古代の書物」ですが、その風土記が編纂された時点で「石の宝殿」は既に「〜と伝えられている」という伝説上の存在だったわけですから、まさしく「古代史の謎」と言うべきです。
 
なお、聖徳太子は蘇我馬子と組んで、物部守屋を滅ぼし、推古天皇を立てたうえで摂政となっており、上記の記載にはその点で矛盾があって、当然に専門家からも突っ込まれているわけですが、この点については「風土記にはそう書いている」と答える他ないですね。
 
また、「石の宝殿」が横倒しのまま工事が終了した理由もよく分かっていないとのこと。

そもそも誰が造ったのかも、その動機もよく分からないのですから、工事が中断した理由が分からないのも、寧ろ、当然でしょうか。
  
神話によると、上記の大己貴命と少彦名命の2柱の神様が、一夜の予定で「石の宝殿」を造っていたところ、朝廷に対する反乱が起ったため、これを鎮圧しているうちに朝になってしまい、そのまま工事が中断されてしまったということです。
「鎮圧した後で、作業を再開すればよい」とか、「朝になっても工事を続ければいいじゃないか」等という、突っ込みはいけません。神罰が下ります。

また、「最初から、横倒しではなく、立った状態で岩を切り出せばよかったのではないか」等ということも言ってはいけません。神々には、我々、下々の者には分からない事情というものがあったのでしょう。

4 「石の宝殿」の周囲を巡った後、本殿の横から階段(山肌を削って、石段にしたものです。さすが岩山ですね。)を上り、岩壁の上にある山上公園に出て「石の宝殿」を見下ろすことができます。

 「石の宝殿」の上面(現状で上になっている面)には、土がつもり、草どころか小さな木までが生えています。もっとも、造られてから1300年から1400年程度経っている(推定)ことを考えると凄いんだか、凄くないんだか微妙なところです。

土の層のすぐ下が岩の塊となると、深く根をはるのはさすがに難しいので、大樹にはなれないのでしょうね。

5 一息ついたところで、パンフレットを熟読します。行きがけ見た看板にもあるように「石の宝殿」は「日本3奇」の1つとされており、数々の歴史上の有名人が訪れています。
  
有名どころでは、安藤広重、司馬江漢、シーボルト等の名前があり、シーボルトの書いた石の宝殿のスケッチがパンフレットに載っていました。

これを見ると、彼の来たころには本殿は設けられておらず、正面の離れた位置から岩壁の間に横たわる石の宝殿の全体像を見ることができたようです(現在は本殿が正面からの見通しを遮っていますし、本殿よりも内側に入ると、接近し過ぎて、石の宝殿の全体像は捉えにくくなります)。
  
なお、比較的最近の訪問者には、松本清張や司馬遼太郎の名前もあります。確かに小説やエッセイの題材になりそうですね。
 
ちなみに、先ほど疑問に思った「日本3奇」の残り2つは、塩竃神社(宮城県)の塩釜と高千穂(宮崎県)の天の逆鉾なのだとのことです。

6 大阪からだと休日の日帰り旅行には、ちょうど良い距離かと思います。
  
見終えた後は、東隣の加古川市に寄って、鶴林寺(西の法隆寺−少し、誇大広告だと思いますが−とも呼ばれる古寺です。国宝の建物2棟があります。)に参拝に行くなり、かつめし(ご飯にトンカツ又はビーフカツとキャベツを乗せて、ソースをかけた加古川市のご当地グルメです)を食べるなりして帰るのも楽しいかと。
  
自動車があれば、加古川市から更に北上して小野市の浄土寺(国宝に指定されている快慶作の巨大な阿弥陀三尊立像は、一度は見ておきたい名品です)へ足を伸ばすのをお勧めします。(完  弁護士)
                         終

2017年01月04日

◆「古寺旧跡巡礼」 毛馬の閘門 大阪

石田 岳彦



阪急千里線の柴島駅(本筋から思い切り離れますが「柴島」を初見で「くにじま」と読める人がどれだけいるでしょうか。)から天神橋筋六丁目駅へ向かい、淀川にかかる鉄橋を渡る際、左側奥、淀川大堰の向こう側に大きな「水門」が見えますが、その水門には「毛馬こうもん」と白抜きで大きく書かれています。

「こうもん」を漢字で書くと「閘門」です(ちなみに「毛馬」は地名で「けま」と呼びます)。

最近は警察署にも建物の壁に「けいさつ」と平仮名で大きく書いているところがありますが、「閘門」と書いても読めない人が多いので、「こうもん」と平仮名で書いているのでしょうか。

もっとも、警察署と違い、読みだけ知ったところで何をやっている施設かは分からないと思いますが。

それはさておき、阪急千里線を通勤経路にしている私にとって、毛馬の閘門は見慣れた存在でしたが、近くにまで行く機会はありませんでした。

平成20年春、毛馬の閘門が国の重要文化財に指定されることになったというニュースを聞いた私は、これをよい機会と毛馬の閘門に行ってみることにしました。我ながらミーハーです。

毛馬の閘門に行くには、天神橋筋六丁目駅(阪急千里線、地下鉄堺筋線・谷町線)から北上し、淀川にかかる長柄橋の南詰めから河川敷に出て、更に5分ほど東へ歩きます。

河川敷は公園になっていて、堤防上には歩道も整備されていて、歩いていて楽しい道ですが、天神橋筋六丁目駅からは20分以上の歩きになり、大阪市内ということを考えると交通の便の悪い場所といえるでしょう(私がなかなか行く気になれなかった理由もこれです。)。
 
現地に設けられていた説明板によると、閘門というのは、水位の異なる川、運河等の間で船を行き来させるため、両側に水門を設けた水路で、毛馬の閘門の場合、大川(低)と淀川(高)との間の高低差を調整して船を通すために建造されたものです。

淀川から大川に入る場合、まず、水路内の水位を淀川に合わせたうえ、淀川側の水門のみを開けて船を水路に入れたうえで閉じ、水路内の水を抜いて、水面の高さを大川と同水位に下げた後、大川側の水門を開けて船を通過させるという仕組みになっています。

逆に大川から淀川に行く場合には、大川側から水路に船を入れたうえ、水を補充して水路面を淀川と同水位にまで上げてから、淀川側の水門を開放することになります。

なお、そもそも隣り合っている2つの川の水面に何故、極端な高低差があるかといえば、本来の淀川の流れは大川の方で、現在の淀川のうち毛馬よりも河口側の部分(新淀川)は、明治時代に治水上の必要で人工的に作られたためだそうです。

ちなみに現在の毛馬の閘門は3代目で、私が毎朝見かけている「毛馬こうもん」も、この3代目にあたります。今回、重要文化財に指定されたのは初代と2代目(今は船溜になっているそうです)で、このうち初代の閘門は、3代目のすぐ近くに見学用として整備されていました。


初代閘門の水門は2つの扉が観音開きになる方式で(なお、現役の3代目の閘門は門扉が上下して開閉するシャッター方式だそうです。)、現在は半開きの状態で固定されています。最近になって塗りなおされているようで、水色の大きな扉が鮮やかです。

北側の淀川側の水門は、近くにある堤防から一段低いところにあり、階段で下まで降りることもできますが、降りたところに柵が設けられていて、その先の水門をくぐることはできません。

もっとも、南側にある大川側の水門(淀川側に比べてかなり小型です)は開放されていて、そちら側から(旧)水路(当然のことながら現在では水路に水は流されていません。)の中に入ることができ、更に進んで淀川側の水門をくぐることもできます。北側の柵はいったい何のためでしょうか。

水路の中央に見学用の通路が設けられていて、その両側は何故か芝生になっていました。先ほどの柵といい、「こうもん」のペイントといい、この芝生といい、大阪市はよく分からないことに金と手間を使います。

水路といっても船が通り抜けることができるだけのスペースですから、幅もそれなりにあり、スペース自体はちょっとした広場並みです。両側の側壁はレンガ造りになっていて、ところどころに鎖が取り付けられています。係船環と呼ばれる船を繋ぐためのものだそうです。水路に水を注入または排出するときに船が動かないようにするためでしょうか。

近くには初代閘門の付属施設として建設された洗堰(水が堰の上を越えて流れるタイプの堰)も残っています。淀川(新淀川)から大川に流れ込む水の量を調節するためのものだそうです。なかなかシックなデザインですね。

最近は大きな書店に行けば「近代遺産巡り」のコーナーを見かけることも少なくありません。寺社や城跡に続き、この手の史跡の人気も上昇しているのかも知れません(自分も行っておいてなんですが、世の中にはマニアックな人が多いです。)。

大阪市やその近郊にお住まいの方であれば、天気のよい休日にでも、広々とした淀川の河川敷や堤防の上を歩きつつ、ちょっと寄ってみられるのも悪くないでしょう。(終)
                       

2016年12月26日

◆「古寺旧跡巡礼」 住吉神社(福岡)

石田 岳彦



一)山口県下関市の住吉神社の回で少し触れましたが、福岡市博多区の博多駅の近くにある住吉神社が、住吉神を祀る神社として最古のものだと考えられているそうです。

日本書紀によれば、仲哀天皇が后の神功皇后とともに、熊襲(九州南方の反朝廷勢力)を攻めようと筑前国(現在の福岡県北部)香椎宮(今の福岡市東区香椎にあった仮の宮殿)にあった際、住吉神が神功皇后に乗り移り、熊襲ではなく、朝鮮半島を攻めるようにとの神託を下したことになっています。

記録に残っている限りでは、住吉神が人間とコンタクトをとったのはこれが最初です。

結局、仲哀天皇はこの神託に逆らったために祟り殺され(おっかないですね。)、未亡人となった神功皇后が朝鮮半島に遠征して勝利を収めました。

また、同じく日本書紀によると、それより遡る神代のころ、イザナギノミコトが黄泉国から命からがら逃げ帰ってきた後、「筑紫(現在の福岡県の大半。北部の筑前と南部の筑後に分かれます)の日向の橘の小戸の阿波伎原」で禊をし、その際、他の神々と一緒に住吉神が生まれたことになっています。

これらの話は、勿論、歴史というより、神話、伝説の類ですが、このような伝説が残り、日本書紀にまで記載されていることは、住吉神が古代より筑紫国、特に筑前国と深く関わる神と考えられてきたことの証拠といえるでしょう。

ということで、福岡市博多区の住吉神社が最古です。本家です。本元です。福岡市出身者としてはよい気分です。

もっとも、ご存知のように、現在、住吉神を祀る神社の総本社は大阪市内にある住吉大社とされています。

これは、住吉大社の方が、摂津国にあり、都に近く、天皇や貴族が参拝しやすいので、都を遠く離れた筑前の住吉神社よりも、朝廷から重く扱われるようになったということでしょうか。

とはいえ、同じ九州にある宇佐神宮(大分県宇佐市)が、石清水八幡宮(京都府八幡市にあります。

数多くの八幡宮の中で実質的にNo2です。)が建立された後も八幡宮の総本社の地位を守っていることを思うと、宇佐神宮の持っていた政治力(東大寺の大仏建立に協力したり、道鏡事件でポイントを稼いだり)を筑前の住吉神社が持っていなかったといえるのかも知れません。

二)住吉神社の境内の南端には小さいとも大きいともいい難いサイズの池が1つあります。昔、この池は海と繋がっていたそうで、上でも述べた「筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原」もこの地ではないかと言われているそうです。

もっとも、現在残っているのは上記のように大して広くもなく、水も綺麗とはいい難い池で、しかも、現在(平成22年1月現在)、工事中で水が抜かれていますが、そのあたりは想像力で補うべきでしょう。名所・旧跡マニアには想像力は不可欠のスキルといえます。

ちなみに、イザナギノミコトの禊の際、住吉神と一緒に生まれたのは、天照大神(アマテラスオオミカミ)、スサノオノミコト、月読命(ツクヨミノミコト)等の極めて有名な神々です。

つまり、天照大神も、スサノオノミコトも、月読命も、住吉神もみんな私と同じ福岡市出身です。博多っ子です(無論、神代には福岡市も、博多の町も博多っ子もありませんでしたが。)。福岡市出身者として、すごくよい気分です。

それはさておき、参道を北へと進むと、間も無く、石鳥居の向こうに門と回廊が見えてきます。

門をくぐると、拝殿の後方に重要文化財の本殿が見え・・・といいたいところですが、残念ながら、こちらも現在、工事中です。

住吉神社の由緒書によると、本来、博多の住吉神社には住吉3神(山口の住吉神社の回で触れましたが、住吉神は3柱の神の総称です。)のそれぞれに1棟ずつ、計3棟の本殿があったそうですが(なお、大阪の住吉大社には、+神功皇后で本殿が4棟あります。)、戦国時代に火災で失われ、江戸時代初期の1623年に福岡藩の初代藩主の黒田長政が本殿を再建することになったものの、財政上の理由から1棟だけで終了ということになったようです。

・・黒田52万石が泣きます。

本殿は、住吉造と呼ばれる、住吉神を祀る神社に特有の形式です(ただし、長門の住吉神社が九間流造だったように、住吉神社だからといって、必ずしも住吉造というわけでもありません。)。具体的には、切妻屋根で妻入(平面図が長方形の建物の短い方の辺に入り口があること)。壁は白く、他方、柱、垂木(棟から延びる屋根を支える部材)等が朱塗りで、白と赤のコントラストが綺麗です。

また、本殿の周囲にびっしりと赤い板(上端のみ黒に塗られ、先が丸まっている)を並べた玉垣がめぐらされています。本殿が玉垣に囲まれているのは他の形式の社殿にもありますが、住吉造りの場合、玉垣が本殿に密着して設けられ、本殿の一部のようになっているのが特色です。

実のところ、ここの本殿は、住吉造の建物としても、やはり、現存最古なのですが、住吉大社の本殿が国宝に指定されているのに対して、こちらは重要文化財止まり(?)となっています。

確かに、客観的に見て、住吉大社の本殿の方がはるかに立派で、金のかかっていそうな建物です。

しかし、福岡の方が180年以上も古い(住吉大社の現存の本殿は1810円の建立です)わけですし、田舎の方の小さな神社で「△△形式では現存最古」という理由で本殿が国宝に指定されているところもあるので、愛郷心が旺盛な者としては、総本社の地位も含め、美味しいところを住吉大社に持っていかれているようで複雑な気分になります。

博多駅(駅のどこにいるかにもよりますが)から徒歩10分未満。日本神話に心惹かれるという方にお勧めです。(終)

2016年12月11日

◆平原遺跡巡り(福岡県糸島市)

石田 岳彦



私の故郷である福岡市の周辺では、「桧原(ひばる)」、「屋形原(やかたばる)」、「前原(まえばる)」と、「原」を「はら」ではなく、「ばる」と呼ぶ地名が散在しており、上記の「平原」も「ひらはら」ではなく、「ひらばる」と読みます。

本日は福岡県糸島(いとしま)市にある平原遺跡について述べさせていただきます。

魏志倭人伝には邪馬台国を初め、多くの国名が記載されていますが、伊都(いと)国もその中の1つです。

現在の福岡市西区から糸島市にかけては、もともとは糸島郡であった地域ですが(平成の大合併で、前原市と志摩町、二丈町がまとまって糸島市が誕生し、糸島郡は最終的に消滅しました。)、この糸島郡自体、明治時代に怡土(いと)郡と志摩(しま)郡が合併して成立しました。

この怡土が伊都と通じること、佐賀県の旧松浦郡(現在の伊万里から唐津あたりにかけての地域)にあったとされる末廬国(まつら)国の南東に伊都国があったとの魏志倭人伝の記載から、伊都国は旧糸島郡にあったとされているそうです。

平原遺跡はこの伊都国の女王の墓とされています。 平原遺跡は糸島市の平原地区(遺跡の大半は発見された場所の地名で呼ばれます)にあり、周辺はのどかな農村地帯です。

そもそもこの遺跡が発見されたのも、昭和40年に地元の農家が蜜柑の木を植えようとして、銅鏡の欠片を発見したことがきっかけでした。

報告を受けた福岡県は、郷土史家の原田大六(大正6年の生まれということで、こう名付けられたそうです。)に発掘の指揮を依頼しました。

この原田大六は、糸島中学校(今の福岡県立糸島高校)を出たものの、大学では学ばず(歴史しか勉強しようとしなかったので、進学が無理だったとか)、太平洋戦争から復員した後、公職追放にあったのを契機に(軍隊において憲兵隊に入っていたのが祟ったといわれています)、中山平次郎博士に弟子入りし、博士から9年以上にわたり、1日6時間以上のマンツーマン指導を受け、考古学者になったという歴史小説の主人公にもなれそうなユニークな経歴と個性の持ち主です。


ちなみに中山博士は、現在でいうところの九州大学医学部の教授でありながら、寧ろ考古学者としての業績が有名という(九州考古学会の設立者だそうです)、これまた変わった経歴の持ち主で、この師匠にして、この弟子ありというところでしょうか。

この原田大六が、途中からは自費で発掘を継続し、遺跡からは墳墓の副葬品と見られる多くの出土品が発掘されました。

発掘品の中でも特に目立つのは39面又は40面(何分、破片で見つかったので、枚数について争いがあるようです。)発見された銅鏡で、うち4枚は直径46.5cmと、日本で発見された銅鏡として最大のものです。

他方で、剣等の武器はほとんど見つかっておらず、被葬者が女性であったことをうかがわせます。 副葬品の内容と豪華さから見て、時代は弥生時代。被葬者は王クラスの女性、つまり女王。遺跡(墳墓)のあった場所は伊都国があったとされるエリアということで、現在では、上記のように伊都国の女王の墓と推定されています。

弥生時代の女王といえば、邪馬台国の卑弥呼が有名ですが(実際には「日巫女」という太陽神を祀る神官女王の役職名だったのではないかとの説もあるそうですが)、それ以外にも女王がいたのですね。

ちなみに原田大六は玉依姫(たまよりひめ。神武天皇の母親とされる神話上の女神です。)の墓と主張していました。

平原遺跡の女王の墓は四角形(現在では少なからず形が崩れていますが)で、写真を見ればお分かりのように、その周囲には溝が掘られています。学問的には方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)と呼ばれるタイプの墓だそうで、上記の発掘品も近年になって「福岡県平原方形周溝墓出土品」という名称で一括して国宝に指定されています。

現在の平原遺跡は、墳墓の周りが低い柵で囲まれ、その周囲は横長のレリーフが建っているのを除けば何もない広場になっており、少し離れたところに古民家(遺跡とは全く関係ありませんが、保存のため移築されたようです)が1軒ぽつんという、よく言えば開放的、率直にいえばスペースが広々と余った歴史公園となっています。
個人的にはこういう長閑な雰囲気は好きですが。

平原遺跡から車で10分ほど走ると農村風景の中に4階建の立派な建物がそびえているのが見えてきます。伊都国歴史博物館です。もともとは伊都歴史資料館といったようですが、平成16年に新館が建てられて博物館に昇格したとのこと。

「福岡県平原方形周溝墓出土品」の一部は九州国立博物館の平常展示室で公開中ですが、大半の発掘品はこちらの新館に保管・展示されています。館内撮影禁止のために写真はありませんが、鈍く緑色に輝く大型の銅鏡がケースの中にずらっと並ぶ姿はさすがに壮観です。
 
展示ケースの前に、立てられた状態の銅鏡が1枚、機械仕掛けでゆっくりと回転しながら展示されていましたが、見学者が私と妻の他におらず(施設と所蔵品の豪華さを考えれば、もったいない限りです。)、静けさの中で、微妙なモーター音をあげながら回転する銅鏡の姿は率直にいって不気味でした。

この博物館の前身たる伊都歴史資料館の初代館長には、上でも述べた原田大六が予定されていたそうですが、大六が開館を待たずに死去したため、名誉館長の称号が追贈され、資料館の前に銅像が立てられました(銅像は現在も立っていますが、新館の入り口からだと目立たない場所になっています)。

自分の主導で遺跡を発掘し、国宝級の副葬品を発見して、それを納めた郷里の資料館の前に銅像を建ててもらう。郷土史家としては頂点を極めたという感じですね。大学の考古学の教授でもここまでの成功を得られる人は滅多にいないでしょう。
 
福岡市やその近郊にお住まいの方は休日にでもドライブがてらにでも、平原古墳と伊都国歴史博物館を訪れてみてください。晴れた日には本当に気持ちの良い場所ですので。  <弁護士>

2016年11月26日

◆懐かしい園城寺(通称三井寺) 後編

石田 岳彦



金堂の西側、一段高くなったところに霊鐘堂という小さなお堂があり、横には「弁慶の引き摺り鐘」との案内板が立っていました。中には梵鐘が1つ安置されていて、その側面の一部に擦った痕が残っています。

青銅製の鐘が擦れるわけですから、かなりの力が加わったということでしょう。この鐘については、かの武蔵坊弁慶に関わる伝説があります。

すなわち、源義経の家来になる前、弁慶は比叡山延暦寺で僧兵をしていましたが、ある時、三井寺に攻め込んで、この梵鐘を奪い、延暦寺まで引き摺って帰った際にこの痕が付いたとのこと。

なお、何故、延暦寺に持って行かれた鐘が三井寺に戻っているかというと、延暦寺に連れて行かれた梵鐘が、三井寺に帰りたがって、まともな音を出さなかったので、怒った弁慶が山下まで投げ下ろしたとか・・・。

ちなみに「弁慶の引き摺り鐘まんじゅう」という鐘型の饅頭(名前は違いますが、和歌山の道成寺でも売っていましたね。)が、境内の茶屋や付近の土産物屋で売っていて、甘党の私は来る度に買っています。

霊鐘堂の隣は一切経蔵という、その名のとおり一切経を納めた建物で、回転式の経庫が見た目に面白いです。これを回すとお経を読んだのと同様の功徳があるとかないとか。

南に向かうと唐院と呼ばれるエリアで、三重塔の他に円珍を祀る大師堂、伝法潅頂という儀式を行う潅頂堂があり、大師堂には2体の円珍像と1体の不動明王像が並んでいて、円珍像2体は国宝指定です。

3体の像の中央に祀られている円珍像は「中尊大師」と呼ばれ、上記のように国宝に指定されていて、普段は非公開ですが、毎年10月29日の円珍の命日の法要の後、一般公開されます。

大津地方裁判所での修習生時代、10月29日の昼休みにタクシーを使って、拝みに来たことも、今となっては、よい思い出です。

もう1体の円珍像(国宝)は円珍の遺骨が納められており、「お骨大師」と呼ばれています。この像と不動明王立像(重要文化財。三井寺にあり、「黄不動」の名で有名な国宝の画像を立体化したものです。)は残念ながら、原則として公開の機会はありません(それをいうと中尊大師も原則非公開なのですが、年に1回、定期的に見る機会があるというだけ、ましなのですね)。

三井寺にはこの他にも数多くの質の高い寺宝がありますが、宗教的理由に加え、三井寺に自前の宝物館が無いこともあり、残念ながら、それらの寺宝を見る機会は限られています(同様のことは、同じ大津市内の石山寺にもいえますね。)。

そういう意味では、平成20年から21年に大阪、福岡、東京を回った三井寺展は千載一遇・・・というのはさすがに大げさですが、10年から15年に一度くらいの好機でした。

この展覧会の最大の売りは、国宝に指定された4体の秘仏(「中尊大師」、「お骨大師」、「黄不動(画像)」、「新羅善神像」)の特別公開で、うち中尊大師像を除く3体は十数年ぶりの公開です(他に上記の大師堂の不動明王像等も展示されました)。

展覧会の開催が発表されるや、インターネット上の仏像関係の掲示板が狂騒状態に陥ったのも無理からぬことでした。十数年から20年くらいの周期でこの手の特別展が行われているようなので(保証はできかねますが)見損なった方は気長にお待ちください。

唐院を出て、高台にある観音堂に向かうと途中に勧学院という塔頭があります(三井寺にはこの他にも光浄院等、幾つかの塔頭が存在します。)。

三井寺は桜の季節には夜間に境内を無料開放することがあり、私も2回ほど出かけましたが、その際、この勧学院の書院(国宝)が特別公開されていました(こっちは有料でした)。

昼間公開している寺院が、期間を限定して、夜間も特別に公開するというケースは京都市の清水寺、青蓮院等、けっこうありますが、昼間でさえ基本的に公開していない寺院が、夜間だけ特別公開するというのはかなり珍しいケースでしょう(もっとも、普段でも3名以上で予約すれば、拝観可能なようですが)。

日本庭園の中に鮮やかな絵の書かれた紙製の灯篭(中身は電灯です。火事が怖いですので。)がなかなかに幻想的だったと憶えています。

境内の南西のはずれの高台に観音堂と幾つかの建物があり、観音堂は西国三十三番観音霊場の1つです。

西国三十三番観音霊場はその名のとおり観音菩薩様を祀る霊場33箇所を集めたものですが、中にはこの三井寺観音堂のように本堂(金堂)以外の脇役(?)のお堂が入っていることもあります(他に興福寺南円堂、醍醐寺准胝堂)。

この観音堂のある高台からは昔は琵琶湖がよく見えたようですが、近年、大津港の周辺に大型ビルが建てられ、景観が損なわれました。

もっとも、そうまでして建てたビルがテナントの撤退等で上手くいっていないようで、お役所主導の開発の失敗例になっています。

やはり、「この事業が上手くいかなかったら、会社がつぶれるかもしれない。潰れなくても、俺は会社に居辛くなるかもしれない。」という緊張感がないと事業とは上手くいかないのでしょうか。

余談はさておき、三井寺の境内は狭すぎず、広すぎず、通常であれば、のんびり歩いても1時間半あれば、一周できるはずです(少し離れたところに国宝の新羅善神堂がありますが)。

拝観が終わったら、ついでに琵琶湖を観光するのはどうでしょうか。

ミシガンやビアンカといった観光船に乗り込む手もありますが(私は長いこと色物扱いしていましたが、友人たちとガヤガヤと話しながら乗る分には案外楽しいです)、湖風に吹かれながら、湖畔の散策路(大津港の東側は特によく整備されています)を歩くのもよい感じです。      (終)