2018年04月07日

◆古寺旧跡巡礼 「当麻寺」 @

石田 岳彦



<私は大阪で弁護士をしています。大学生時代からの趣味で、社寺、名勝、旧跡から、明治以降のいわゆる近大遺産まで、九州から東北まで(そのうち北海道にも行きたいです)、「歴史的なもの」を見て回っています。今回「私の古寺旧跡巡礼」と題して綴ってみました>。
 
さて本題―。奈良県葛城市(旧当麻町)にある「当麻寺」というのは、不思議なお寺です。

国宝の仏像、曼荼羅、厨子、本堂、2基の三重塔、梵鐘、重要文化財多数を持っているという文化財の宝庫で、「古寺巡礼」、「日本の寺院100選」といった書籍、雑誌の特集があれば、必ず名前のあがるという古寺巡りや古文化財のファンの間では常識というか、知らない人はもぐり扱いされるという有名なお寺ですが、世間一般の知名度は高くないようです。

 おそらく、奈良、飛鳥、斑鳩という奈良県内のメジャーな観光地から離れたところにあるので、観光客が少ないことが原因でしょう。観光ガイドの扱いも微々たるものです。

もし、奈良市内にあれば、東大寺や興福寺は無理でも、薬師寺や唐招提寺なみにはメジャーになれたであろうという、ある意味とても不運なお寺といえます。

もっとも、奈良市内にあったならば、上記の文化財の少なからずが、戦火に巻き込まれて灰になった可能性もありますが。

ところで、当麻寺の最大の売り物(?)は、中将姫伝説です。

中将姫は、奈良時代の貴族のお姫様で、継母に度々、命を狙われるという苦難を乗り越え、阿弥陀如来の導きによって極楽浄土の光景を描いた曼荼羅を織り上げ、極楽浄土へ旅立ったとされる伝説上の人物です。

これが、「本当は怖いグリム童話」なら、シンデレラのように、継母の目を鳩がほじくったり、或いは、白雪姫のように、継母に焼けた鉄の靴を履かせたりといった感じのハッピーエンドになるところですが、そういう物騒な展開はありません。仏教説話ですから。

 継母がその後、地獄に落ちて、閻魔様に舌を抜かれるという因果応報的な後日談はあるかも知れません。仏教説話ですから。

近鉄南大阪線の当麻寺駅を出て、まっすぐ西を目指します。駅から出発してまも無く、右側路傍に当麻蹴速(たいまのけはや)の墓、とされる五輪塔があります。

 この蹴速は、垂仁天皇の時代の人で、天下最強を宣言して挑戦者を募っていたところ、垂仁天皇の命で、出雲からやってきた野見宿禰(のみのすくね)と相撲をとることになり、宿禰に蹴り殺された(当時の相撲は今よりもかなりバイオレンスなルールだったようですね。)という、色々な意味で「痛い」人です。

 もっとも、垂仁天皇(日本書紀等の記述によると紀元前1世紀から1世紀にかけて在位。卑弥呼よりも前です。)自体、実在が危ぶまれている状況ですので、この話も歴史というより、伝説の部類です。

 この蹴速と宿禰の対戦が、わが国の相撲の始まりとされているそうです。すぐ近くに相撲館という、相撲資料館まで建てられています。中将姫と当麻蹴速とおぼしき男女のかわいらしいキャラクターのイラストがポスターに載っていました。今、はやりのユルキャラというやつでしょうか。余計なお世話だと思いますが、かなり幸の薄そうなカップルです。

駅から歩いて15分ほどで大門に着きます。境内の東端に建っている楼門で、古寺にふさわしい風格です。大門を入ってすぐ、正面には鐘楼があります。国宝の梵鐘を「吊ってある」お堂です。

 「吊ってある」というのは、一見、梵鐘が吊られているように見えますが、実は下に台が設けられていて、梵鐘はその上に置かれているからです。以前にお寺の方から聞いた話では、十数年前まで当麻寺には鐘楼は存在せず、梵鐘もいずれかのお堂に置かれていたそうです。

 その後、鐘楼が再興され、それに合わせて梵鐘を鐘楼に吊るすことになったものの、いざ、吊るそうという段になって、龍頭(梵鐘を吊るすための上部にある輪状の突起)にひびがあるのが発見され、吊るすことができなくなってしまいました。

 にもかかわらず、「せっかく再建したのだから鐘楼に梵鐘を飾りたい」ということで、こうなったようです。観光ガイドにも載っていない、思いっきりどうでもよいトリビアといえます。(つづく)

<福岡県福岡市出身、福岡県立修猷館高等学校、京都大学法学部卒業
大阪弁護士会・弁護士>

2018年03月25日

◆名所旧跡だより 高松塚古墳壁画

石田岳彦


今回は少し古い話をさせていただきます。

高松塚古墳の石室壁画といえば、飛鳥美人の群像や四神(正確には朱雀が失われて、青龍、白虎、玄武の「三神」になってしまっていますが)等、日本史の教科書にも載っている有名なものですが、明日香村内の専用修理施設で修復されました。

平成16年に壁画の劣化が公になって以降、文化庁が早い段階で壁画の劣化を知りながら、長期間にわたり秘匿していた事実が判明し、同庁の隠蔽体質が問題となりました。

その反省の態度をアピールするためか、平成17年に古墳石室の解体修理が決まった直後、修理作業の一般公開が表明され、古文化財ファンを騒然とさせたのです。

というのも、「最も見るのが難しい国宝」ランキングNo1といわれていた高松塚古墳壁画が、修理中とはいえ見ることができる訳ですから、ファンとしては騒ぐなというのが無理です。

見学の申し込み方法は改めて公開されるということで、私も申し込み方法の発表の日を待ちかねていました。

平成20年春のある朝、私が新聞を見ると、一面に大きく高松塚古墳壁画の修理作業見学会の記事がありました。

申し込み方法は、往復はがきに希望の日時(細かな時間指定はできず、午前、午後のみの指定できることになっていました)を2つまで書いて、大阪市の西天満郵便局の受付まで郵送とのこと。

応募者が多数の場合は先着順・・・。早い者勝ち?!抽選ではなく(事前の報道では、応募者多数の場合、抽選になると言われていました。)、早い者勝ち?
つまり、早く出せば出すほど確実に見られる!遅くなればなるほど、確率はどんどん下がる!

何故、我が家に往復はがきが常備されていなかったのか!!!と、冗談抜きに頭を抱えつつ、偶々(そしてまことに好都合なことに)、福岡の実家から遊びに来ていた父に、郵便局が開き次第、可及的速やかに往復はがきを買い、申し込んでもらうよう頼んで(強要して)、後ろ髪を引かれつつ、事務所に向かいました(仕事をさぼって郵便局に行かない程度の分別は残っていました。)。

インターネットで拾った話によると、私の(父の)ように郵便局の開くのを待って、朝一で往復はがきを購入し、速達で出した者もいれば、西天満郵便局に葉書を持参した剛の者までいたようで、古文化財ファンによるある種の「祭り」が日本各地で繰り広げられていたようでした。

幸いにして、私は、希望していた見学会初日の午後に見学ができることになりましたが(正確には、見学会初日を含め、日時を変えて3通出したら、3通とも当選してしまいました。)、インターネットで見かけた話では、新聞報道がなされた当日に申し込みの葉書を出したにもかかわらず、落選した人もいたようです(余程遠方から出したのでしょうか)。

結局、応募が定員を早々と大幅に超過してしまい(私のように「念のため」に複数応募して、全部当選してしまった人間もいるでしょう。「早い者勝ち」制に加え、1通の葉書で1つの日時しか申し込めないようにした文化庁の責任です。)、第1回見学会の募集は、当初の予定よりも5日も早く打ち切られることになったのです。

そういうわけで見学当日。遅刻だけは絶対にするまいということで、早めに大阪の家を出たところ、目的地に1時間半前についてしまいました。さすがに自分がハイになっていることは自覚せざるを得ません。

時間指定がなされているので、早めに来るメリットはゼロですが、現地に来て、独特の雰囲気を味わいながら、待つというのも悪くない気分です。イベントとはそういうものでしょう。

修理施設は、飛鳥歴史公園館の裏側にあります。とはいえ、ほとんどの方が飛鳥歴史公園館自体を知らないと思いますが(飛鳥観光の際、施設の名前を知らないまま、トイレを利用された方はそれなりにいるかも知れません。)。

近鉄飛鳥駅の東側約1km、高松塚古墳の北西数百mにある施設で、飛鳥地方にある石造建造物や古墳等についての地図、パネル等を展示しています。

普段は閑散としていますが(パネルを見る暇があったら、周辺の本物を回った方がいいですからね。)、この日は多くの時間待ち客でにぎわっていました。

現場付近では朝日新聞が特別版を配布中。キトラ古墳壁画の公開の際も、毎年のように会場の飛鳥資料館の館内で特別版を配っていますが、朝日新聞は文化庁と仲がよいのでしょうか。

テレビカメラも来ていました。古文化財ファンに限らず、世間一般の関心も高かったようです。

指定時間になり、まずは十数名のグループで公園館横のプレハブ小屋の中に通され、10分ほどの間、スライドを見ながらの説明会。

内容は高松塚古墳壁画の発見から、劣化の判明、修理方法の検討、解体修理の実行といった経緯を紹介するもので、一言でいうと「情報公開やってます」との文化庁の懸命のアピールでした。

ただし、かびたムカデの死体の写真(石室の中で生態系のサイクルが成立してしまっていることの証拠なのだとか)をアップで映すのは止めていただきたい。
 
いよいよ修復施設に入ります。

入り口の暗幕をくぐると、そこは見学者用通路で、大きなガラス窓の設けられた壁で作業室と区切られていました。作業室の中には高松塚古墳の石室を構成していた石材がずらっと並んで寝かせられています。

事前の説明にもありましたが、石材の大半は通路から離れた場所に置かれており、最も手前に置かれた3片を除けば、どのような絵が描かれているかは分かりません。壁画の公開ではなく、修理作業の公開ということを考えれば仕方がないのでしょう。

それでもギャラリーへのサービスということでしょうか。比較的保存状態がよく、また、描かれている絵が有名なものを3つ選んで手前に並べたようです。

一番左は四聖獣の玄武。(発見時において既に)絵の中心部分が剥落により欠けてしまっているので、遠めには黒い楕円にしか見えません。

真ん中は西壁女子群像。有名な飛鳥美人ですね。見学者もついつい中央に集まります。

一番右は東壁男子群像。石室の中に流れ込んだ泥により汚れている部分が多いですが、帯の赤色は鮮やかでした。 ただ、キャンバスである石材が寝かされている状態なので角度が悪く、ガラス窓から石材までの距離(最も手前のものとでも、やはり1m以上は離れています)の問題もあって、やはり見辛いです。
 修理施設での修理作業の公開に対し、博物館での展覧会のような(見る上での)快適さを求めるのがそもそも無理なのでしょうが・・・。

もっとも、面の凹凸は斜めから見る方がよく分かります。

事前の説明でも聞いていたのですが、キトラ古墳壁画(壁画の描かれている漆喰層が石室の壁から剥がれかけていた)とは異なり、高松塚古墳の壁画では、壁画の描かれた漆喰層が溶け出して、石材に染み付いてしまっているのです(そのため、キトラ古墳のように壁画=漆喰層のはぎとりができず、石室の解体を余儀なくされました)。

新聞、雑誌等の出版物に載っている高松塚壁画の写真は、壁画を正面から撮影しているので、それほど目立たなかったのだと思いますが、こうして斜めから見ると飛鳥美人の絵も石材の壁に沿ってかなり凸凹になっているのが一目瞭然で、痛々しさを感じます。

突然、電子音が鳴り始め、こんな時に誰がと思いつつ、周囲を見ると、係員の方がタイマーを持ち、すまなそうな顔をしているのが見え、10分間の見学時間の経過を知りました。あっという間です。

壁画の劣化をこの目で確認することともなりましたが、それを差し引いても、やはり「あの高松塚古墳壁画」を見ることができたのは印象深い経験でした。

外に出たところで朝日新聞と文化庁がそれぞれアンケートをとっていました。壁画の保存方法についてとの問いがあり、私としては、「空調の効いた施設できちんと保管した方がよい」と回答したのですが、翌日の新聞を見ると、もとの古墳に戻すという回答が最も多かったとのこと。

もっとも、現在の技術では自然下の条件で壁画の劣化を防止するのは困難ですので、古墳に戻される日が来るとしても、かなり先のことになりそうです。夕刊の一面や社会欄に見学会開始の記事が大きく載っており、世間の関心の高さを改めて感じさせられました。

もっとも、熱心なファンのほとんどが初回で見てしまったためか(展示内容は2回目以降も1回目と変わらないようです)、或いは、マスコミの扱いが格段に小さくなったためか(おそらく、こちらの影響が大でしょう。)、第2回以降の見学会の応募は定員割れの状態が続いているそうです。

                        終 

2018年03月19日

◆私の古寺旧跡巡礼 当麻寺B

石田 岳彦



さて講堂へと移動します。講堂も瓦葺で、寄棟、平入りですが、本堂に比べると一回りほど小さく感じます。講堂の中には、ずらっと2列で阿弥陀如来×2、千手観音、地蔵菩薩、不動明王、多聞天・・・・。
  
このラインナップを見て、だから何だと思った人はお寺巡りの初心者です。このラインナップを見て、その組み合わせの必然性の無さに疑問を感じた人は中級者です。このラインナップを見て、なるほどと思った人は上級者です。多分。

お寺の方の説明にもありましたが、明治初期の廃仏毀釈で多数のお寺が廃寺になった際、つぶれた寺院の仏像が生き残った寺のお堂にまとめて押し込まれるというケースがしばしばあり(近畿地方の古寺を回っていると、誇張抜きに、しばしば出くわします)、この講堂のやたらと脈絡のない顔触れも、要するにその名残というか、傷痕ということになります。

講堂の南隣には金堂があります。こちらは入母屋屋根(文章での説明はややこしいので、ググってください)です。正面入り口は南側ですが、何故か拝観者には北側の裏口が開放されていて、そこから入って、正面に回り込む形になっています。


金堂の中には、国宝の弥勒仏像と重要文化財の四天王像がまつられていますが、本尊の弥勒仏坐像は頭でっかちで、造形的にはあまり美的感覚を刺激されません。

しかし、この仏様こそが当麻寺の本来のご本尊で、7世紀後半の白鳳時代の作だそうです。ここで「弥勒仏」とは、弥勒菩薩が遠い未来において悟りをひらき、如来になった後の姿を指します。

実は、「弥勒仏」の像は、他に興福寺の北円堂や東大寺などにあるくらいで、作例が少なく、結構、レアものだったりします。

他方、周囲を囲む四天王立像は、説明書によると、現存するものの中では法隆寺金堂のものに次ぐ古い四天王像だそうですが、4人全員が見事なまでのアゴヒゲを生やしていて、やたらと男臭い像になっています。

 私はこれまで様々な四天王像を見てきましたが、ここまで「濃い」アゴヒゲを生やした四天王像というか仏像はこれ以外に見たことがありません。

一見の価値ありです。ただし、やたらとインパクトがあるので、一度見てしまったら、忘れたくても忘れさせてくれないかも知れません。

上でも述べたように2基の三重塔はそれぞれ1段高い斜面上にあります。塔の一層目には仏像が祀られているそうですが、基本的に開扉はなされていません。

もっとも、来年(2010年)は平城京遷都1300年祭関係のイベントとして、特別に東西の塔の開扉が行われるという話です。今から楽しみです。

 本を見ると、古代に建てられた東塔と西塔が揃って現存するのは当麻寺が唯一とありますが、両塔は同時に建てられたものではなく、東塔が奈良時代末、西塔が平安時代初めだそうで、屋根の組み物や、窓の有無など、デザイン的にもかなり違ったものになっています。

他に中之房、奥の院といった塔頭も公開されています。真面目に見て回ると半日がかりです。

当麻寺から少し歩いたところには中将姫の墓とされる石造の十三重塔があります。ちなみにこの塔は鎌倉時代の作らしいですが(中将姫は上記のように奈良時代の方です)、無粋なことはいいっこなしです。
(当麻寺編・終)
<弁護士>                  

2018年03月18日

◆私の「古寺旧跡巡礼」 当麻寺A

石田 岳彦



当麻寺は、境内の南側に2つの三重塔があり、その北側に金堂、更にその北側に講堂があるという、薬師寺と同じ伽藍の配置ですが、スペースが足りなかったのか、敷地の南側は丘になっていて、2つの塔は斜面を削り取って造成された高台に建てられています。

しかも、金堂と講堂の西側に本堂が東向きに建っていて(講堂と金堂は南向き)、大門(正門)が南ではなく、東側にあり(金堂ではなく、本堂に合わせているようです。)、更に金堂と東西の塔の間に2つのお坊が割り込み、西塔と東塔の間にもやはりお坊が建てられるなど、平地に整然と建物が並んでいる薬師寺に比べて、かなりのカオス状態です。

そこに見えている2つの三重塔に境内案内図で通路を確認しながらでないと辿り着けないというのですから、何時か、何処かで、何かを間違えてしまったに違いありません。

 金堂とはその寺のご本尊となる仏像がまつられているお堂で、本堂とはその寺の中心的なお堂をいいます。講堂は仏法についての講話を聴くための場所となるお堂です。

 古代からの寺院の場合、法隆寺、東大寺、興福寺、薬師寺、唐招提寺等のように、金堂はあっても、本堂とはされていない(つまり、その寺院に「本堂」と呼ばれる建物がない)ことが多いようです。仏舎利をまつった塔が伽藍の中心という考えが強かったためでしょうか。

 他方、比較的新しい時代のお寺では、金堂=本堂で、単に「本堂」と呼ぶことが多く、いずれにしても、金堂とは別に本堂があるという当麻寺のようなお寺は珍しいです(ざっと調べた範囲では、有名な寺院だと、他に室生寺くらいです)。

 もともと当麻寺は、聖徳太子の異母弟の麻呂古王(日本書紀によると当麻氏の祖とされています)が開いた寺を、当麻国見(たいまのくにみ)が現在の地に移したとされる(あくまでも寺伝で、実際のところはよく分かっていないようです)、金堂を中心とするお寺でした。

 しかし、後世に中将姫伝説が有名になってしまい、もとから存在した金堂とは別に、中将姫お手製の曼荼羅をまつったお堂(曼荼羅堂)が「本堂」に昇格してしまったため、「金堂」と「本堂」が並存するという珍しい状態になったようです。

本堂にある受付にいって、本堂、金堂、講堂の拝観共通券を買います。国宝の本堂は瓦葺で、寄棟造(屋根の形状で、棟から4方向に傾斜する屋根面を持つもの)、平入り(床が長方形の建物で、広い辺の側に入り口があることをいいます)と、仏教寺院の本堂としては、オーソドックスな形をしています。

上記のように中将姫の織った曼荼羅をまつるお堂で、奈良時代末から平安時代初期に建てられたものが、平安時代末期に改造されて現在の姿になったということです。

 本堂の中央に立派な須弥檀(しゅみだん)があり、その上にやたらとでかい厨子が載っています。奈良時代末から平安時代の初期に作られたものといわれているそうです。

 厨子の中に飾られている曼荼羅(約4m×4mというでかさです。厨子がでかくなるのも当然です)は、まさしく中将姫により織られた伝説の曼荼羅・・・ではなく、残念ながら、室町時代に作られた複本ですが、それでもかなりの古さを感じさせます。というか、相当に傷んでいます。

ちなみにオリジナルは更に傷みが激しいらしく、原則として非公開になっていて、私もいまだに実物にお目にかかったことがありません。オリジナルの写真を見ましたが、思わず「傷み」を「悼み」と誤植したくなるくらい、相当に傷んでいます。

 阿弥陀様が中央に座っていて、その周囲を多くの菩薩が囲み、後方に描かれた横長の建物は平等院鳳凰堂のモデルになったということですが、退色に加え、曼荼羅の上に金網が張られているので、細かな部分までは分かりません。

ちなみに厨子の蓋(現在残っているのは鎌倉時代に作られた後補のものですが)は取り外されていて、時々、奈良国立博物館に展示されています。黒漆の地に金蒔絵というシンプルながら豪華な一品です。

 厨子の右側には中将姫の念持仏と言われる十一面観音像がまつられており、弘仁時代(平安前期。810年−823年)の作といわれています。

「奈良時代に亡くなったお姫様が、何故、平安時代に作られた観音様を拝めたのだろう?」という素朴な疑問は忘れて、素直な心でお参りしましょう。歴史考証というものは、少なからずロマンと対立するものです。(つづく)  <弁護士>                    

2018年03月17日

◆私の「古寺旧跡巡礼」 当麻寺@

石田 岳彦



<私は大阪で弁護士をしています。大学生時代からの趣味で、社寺、名勝、旧跡から、明治以降のいわゆる近大遺産まで、九州から東北まで(そのうち北海道にも行きたいです)、「歴史的なもの」を見て回っています。今回「私の古寺旧跡巡礼」と題して綴ってみました>。
 
さて本題―。奈良県葛城市(旧当麻町)にある「当麻寺」というのは、不思議なお寺です。

国宝の仏像、曼荼羅、厨子、本堂、2基の三重塔、梵鐘、重要文化財多数を持っているという文化財の宝庫で、「古寺巡礼」、「日本の寺院100選」といった書籍、雑誌の特集があれば、必ず名前のあがるという古寺巡りや古文化財のファンの間では常識というか、知らない人はもぐり扱いされるという有名なお寺ですが、世間一般の知名度は高くないようです。

 おそらく、奈良、飛鳥、斑鳩という奈良県内のメジャーな観光地から離れたところにあるので、観光客が少ないことが原因でしょう。観光ガイドの扱いも微々たるものです。

もし、奈良市内にあれば、東大寺や興福寺は無理でも、薬師寺や唐招提寺なみにはメジャーになれたであろうという、ある意味とても不運なお寺といえます。

もっとも、奈良市内にあったならば、上記の文化財の少なからずが、戦火に巻き込まれて灰になった可能性もありますが。

ところで、当麻寺の最大の売り物(?)は、中将姫伝説です。

中将姫は、奈良時代の貴族のお姫様で、継母に度々、命を狙われるという苦難を乗り越え、阿弥陀如来の導きによって極楽浄土の光景を描いた曼荼羅を織り上げ、極楽浄土へ旅立ったとされる伝説上の人物です。

これが、「本当は怖いグリム童話」なら、シンデレラのように、継母の目を鳩がほじくったり、或いは、白雪姫のように、継母に焼けた鉄の靴を履かせたりといった感じのハッピーエンドになるところですが、そういう物騒な展開はありません。仏教説話ですから。

 継母がその後、地獄に落ちて、閻魔様に舌を抜かれるという因果応報的な後日談はあるかも知れません。仏教説話ですから。


近鉄南大阪線の当麻寺駅を出て、まっすぐ西を目指します。駅から出発してまも無く、右側路傍に当麻蹴速(たいまのけはや)の墓、とされる五輪塔があります。

 この蹴速は、垂仁天皇の時代の人で、天下最強を宣言して挑戦者を募っていたところ、垂仁天皇の命で、出雲からやってきた野見宿禰(のみのすくね)と相撲をとることになり、宿禰に蹴り殺された(当時の相撲は今よりもかなりバイオレンスなルールだったようですね。)という、色々な意味で「痛い」人です。

もっとも、垂仁天皇(日本書紀等の記述によると紀元前1世紀から1世紀にかけて在位。卑弥呼よりも前です。)自体、実在が危ぶまれている状況ですので、この話も歴史というより、伝説の部類です。

この蹴速と宿禰の対戦が、わが国の相撲の始まりとされているそうです。すぐ近くに相撲館という、相撲資料館まで建てられています。中将姫と当麻蹴速とおぼしき男女のかわいらしいキャラクターのイラストがポスターに載っていました。今、はやりのユルキャラというやつでしょうか。余計なお世話だと思いますが、かなり幸の薄そうなカップルです。


駅から歩いて15分ほどで大門に着きます。境内の東端に建っている楼門で、古寺にふさわしい風格です。大門を入ってすぐ、正面には鐘楼があります。国宝の梵鐘を「吊ってある」お堂です。

「吊ってある」というのは、一見、梵鐘が吊られているように見えますが、実は下に台が設けられていて、梵鐘はその上に置かれているからです。以前にお寺の方から聞いた話では、十数年前まで当麻寺には鐘楼は存在せず、梵鐘もいずれかのお堂に置かれていたそうです。

その後、鐘楼が再興され、それに合わせて梵鐘を鐘楼に吊るすことになったものの、いざ、吊るそうという段になって、龍頭(梵鐘を吊るすための上部にある輪状の突起)にひびがあるのが発見され、吊るすことができなくなってしまいました。

にもかかわらず、「せっかく再建したのだから鐘楼に梵鐘を飾りたい」ということで、こうなったようです。観光ガイドにも載っていない、思いっきりどうでもよいトリビアといえます。(つづく)

<福岡県福岡市出身、福岡県立修猷館高等学校、京都大学法学部卒業 大阪弁護士会・弁護士>

2018年03月11日

◆名所旧跡だより 住友活機園(滋賀県大津市)

石田 岳彦



滋賀県大津市石山に「住友活機園」という施設があります。重要文化財に指定されたお屋敷とその庭園で、毎年5月ころに2日ほど一般に特別公開されている他は、住友グループの社員しか見学できません。

しかも、この特別公開も事前に往復はがきで申し込む必要があり、かつ定員を超過すれば、抽選となります。実際には毎年定員を超過するので、毎年抽選です。

私の場合、最初の申し込みは抽選で外れ、翌年は当選したものの、妻の体調不良で行けず(号泣。冗談抜きに妻と一緒に寝込みました。)、3度目の正直で見学の機会を得ました。今回はその際の話です。

京阪電鉄石山坂本線の東側の終点である石山寺駅から、来し方に向かって5分ほど歩き、新幹線の高架をくぐって、すぐ左側に高い塀で囲まれた森が見えてきます。

苔生した石段を登り、門で見学証(当選を伝える往復はがき)を示して中へ。
入って早々、鬱蒼と葉の茂った木の枝が歩道に垂れかかって、緑の幕のようになっています。

このような演出なのでしょうか。それとも雨で濡れて重くなり、垂れてきたのでしょうか(そう、せっかくの3年越しだというのに見事な雨です。)。坂道を蛇行し、左側に池を見下ろしつつ進んでいくとやがて2階建ての洋館が見えてきます。

洋館の外壁の下半分は鱗のような板で飾られています。鱗といえば、神戸市北野の異人館街にも「鱗の館」というのがありますが、石製のスレートで葺かれた「鱗の館」と異なり、こちらの洋館の鱗は木製なので、「鱗の館」に比べて、見た目にも柔らかな雰囲気です。

洋館の左隣には和館も見えます。明治のころのお屋敷には洋館と和館を併設したものが少なくありません。

洋館で公務或いはビジネス関係の客と会い、プライベートな時間は和館で過ごすという使い分けになります。まだまだ、西洋風の生活様式になじめない人が多く、和館の方がくつろげたということでしょう。明治天皇もプライベートな時間は服装その他で和風を好んだという話です。

この屋敷自体は基本的に隠居所なのですが、住友財閥の元・総理事(住友財閥の筆頭番頭。住友家が王家で、総理事が首相というイメージでよいでしょうか。)ともなると、隠居先にもそれなりにグループ各社の幹部がやってきたのでしょう。

遅くなりましたが、この屋敷の本来の主は、伊庭貞剛(いば・ていごう)といい、上記のように住友財閥で総理事を務めたという超大物財界人です。

貞剛が晩年、故郷、滋賀の地(もっとも、大津市ではなく、現在の近江八幡市の出身のようですが)に建てた隠居所がこの屋敷であり、現在は住友グループの研修施設となっています。

見学者は我々の他、30人弱のようです。このグループで屋敷を見学して回ることになります。(やや記憶が曖昧になっていますが)一日3グループほどで、2日間ですから、特別公開に参加できるのは1年で180人くらいでしょうか(30人×3回×2日)。

一般的な旅行ガイドにはまず記載がないし、滋賀県内でも一般的な知名度が高いとは言い難いのですが、(人のことは言えませんが)世の中には結構マニアックな人が多いです。

案内の方の話によると、例年10倍近い抽選になるところ、今年は東日本大震災後の自粛ムードもあってか、応募数がかなり低く、競争率は2倍程度にとどまったとのこと。

「皆さん運が良いです。」というのが締めくくりの言葉でしたが、「空気の読めない野郎共(の中で相対的にくじ運のよい者)が集まった」と聞こえてしまうのは被害妄想でしょうか。

それはさておき、屋敷の中に入りましょう。

洋館と和館の間は廊下で繋がっていて、中央に玄関があり、そこでスリッパに履き替えて、まず、洋館に進みます。残念ながら室内撮影禁止のため、画像はありません。

壁紙は真っ白、階段も(彫刻はされているものの)白木のままで飾り金具も無い、シャンデリアもシンプル。実に装飾控え目の上品な雰囲気です。

貞剛が設計者に「清楚に」との注文を出していたとのこと。私のような小市民からすれば、洋館のお屋敷という時点で「豪華」と思えてしまうのですが、確かに、少なくとも派手ではありません。

窓ガラスに微妙に歪みがあり、外の光景が若干屈折して見えます。昔の製法で作成されているため、現在のガラスのように均一にはなっていないのです。

現代では再現が難しいとのことで、慣れてしまえば、この歪みも味があるように感じます。古い洋館に入る際には注意して見てください。

2階に登ると貞剛の事績に関するパネルが置かれています。案内の方が特に触れなかったので(奥ゆかしさというところでしょうか。)、自分で読むことにします。

貞剛は別子銅山(愛媛県)の経営の任にあたって成功を収めた人物であり、しかも、精錬場からの煙害を解決するため、これを四国本土から島に移し、或いは銅山開発によって荒れ果てた山に植林を実施した云々。

開発と環境保全の両立を目指す、この時代の人物としてはかなり先見的だったようです(足尾鉱毒事件の解決に尽力した田中正造が、別子銅山については賞賛していたとのこと。)。

大財閥のトップに立つ程の人物となれば、やはり、単に事業家として優秀なだけではなく、自分の哲学を持ち、社会に対して利益を還元できるようでなくてはいけないということでしょうか。なるほど。

廊下を渡って、和館に回ります。こちらは平屋です。


 素人の私には、それなりに広いものの一般的な和室に見えますが、案内の方によると、かなり珍奇で高価な木材を所々に使っているとのことで、幾つか、解説してくださいました。

説明されても素人の私には「そうなんだ。」としか思えませんが。
「分かる人だけ、分かってくれればよい」という、成金趣味とは対極的な趣向です。
 
奥の座敷の襖を開けたところ、暖炉が出てきたのは少々びっくりしました。

庭をのんびりと眺めていると、時々、轟音が響きます。実は、活機園の敷地に入る前から何度と無く響いているのですが。

上でも書きましたが、新幹線の高架橋が活機園の敷地のすぐ傍を通っている(というよりも、本来、新幹線の線路を含め、その向こう側まで活機園の敷地だったのが、新幹線を通す際に分断されてしまい、敷地面積が大幅に減少してしまったそうです。)ので、新幹線が通過する度、耳を劈く騒音が活機園の敷地全域に響き渡ります。

史跡の中にわざわざ新幹線を通さずともよかろうと思わなくもありませんが、「一般人の住宅を何棟も立ち退かせるより、本来の主を既に失った屋敷の広い敷地の一部を割く方がよい」という発想は民主国家としては、おそらく健全なものでしょうね。多分。(終)
                          <弁護士>

2018年03月06日

◆平原遺跡(福岡県糸島市)

石田 岳彦


私の故郷である福岡市の周辺では、「桧原(ひばる)」、「屋形原(やかたばる)」、「前原(まえばる)」と、「原」を「はら」ではなく、「ばる」と呼ぶ地名が散在しており、上記の「平原」も「ひらはら」ではなく、「ひらばる」と読みます。

本日は福岡県糸島(いとしま)市にある平原遺跡について述べさせていただきます。

魏志倭人伝には邪馬台国を初め、多くの国名が記載されていますが、伊都(いと)国もその中の1つです。

現在の福岡市西区から糸島市にかけては、もともとは糸島郡であった地域ですが(平成の大合併で、前原市と志摩町、二丈町がまとまって糸島市が誕生し、糸島郡は最終的に消滅しました。)、この糸島郡自体、明治時代に怡土(いと)郡と志摩(しま)郡が合併して成立しました。

この怡土が伊都と通じること、佐賀県の旧松浦郡(現在の伊万里から唐津あたりにかけての地域)にあったとされる末廬国(まつら)国の南東に伊都国があったとの魏志倭人伝の記載から、伊都国は旧糸島郡にあったとされているそうです。

平原遺跡はこの伊都国の女王の墓とされています。 平原遺跡は糸島市の平原地区(遺跡の大半は発見された場所の地名で呼ばれます)にあり、周辺はのどかな農村地帯です。

そもそもこの遺跡が発見されたのも、昭和40年に地元の農家が蜜柑の木を植えようとして、銅鏡の欠片を発見したことがきっかけでした。

報告を受けた福岡県は、郷土史家の原田大六(大正6年の生まれということで、こう名付けられたそうです。)に発掘の指揮を依頼しました。

この原田大六は、糸島中学校(今の福岡県立糸島高校)を出たものの、大学では学ばず(歴史しか勉強しようとしなかったので、進学が無理だったとか)、太平洋戦争から復員した後、公職追放にあったのを契機に(軍隊において憲兵隊に入っていたのが祟ったといわれています)、中山平次郎博士に弟子入りし、博士から9年以上にわたり、1日6時間以上のマンツーマン指導を受け、考古学者になったという歴史小説の主人公にもなれそうなユニークな経歴と個性の持ち主です。


ちなみに中山博士は、現在でいうところの九州大学医学部の教授でありながら、寧ろ考古学者としての業績が有名という(九州考古学会の設立者だそうです)、これまた変わった経歴の持ち主で、この師匠にして、この弟子ありというところでしょうか。

この原田大六が、途中からは自費で発掘を継続し、遺跡からは墳墓の副葬品と見られる多くの出土品が発掘されました。

発掘品の中でも特に目立つのは39面又は40面(何分、破片で見つかったので、枚数について争いがあるようです。)発見された銅鏡で、うち4枚は直径46.5cmと、日本で発見された銅鏡として最大のものです。

他方で、剣等の武器はほとんど見つかっておらず、被葬者が女性であったことをうかがわせます。 副葬品の内容と豪華さから見て、時代は弥生時代。被葬者は王クラスの女性、つまり女王。遺跡(墳墓)のあった場所は伊都国があったとされるエリアということで、現在では、上記のように伊都国の女王の墓と推定されています。

弥生時代の女王といえば、邪馬台国の卑弥呼が有名ですが(実際には「日巫女」という太陽神を祀る神官女王の役職名だったのではないかとの説もあるそうですが)、それ以外にも女王がいたのですね。

ちなみに原田大六は玉依姫(たまよりひめ。神武天皇の母親とされる神話上の女神です。)の墓と主張していました。

平原遺跡の女王の墓は四角形(現在では少なからず形が崩れていますが)で、写真を見ればお分かりのように、その周囲には溝が掘られています。学問的には方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)と呼ばれるタイプの墓だそうで、上記の発掘品も近年になって「福岡県平原方形周溝墓出土品」という名称で一括して国宝に指定されています。

現在の平原遺跡は、墳墓の周りが低い柵で囲まれ、その周囲は横長のレリーフが建っているのを除けば何もない広場になっており、少し離れたところに古民家(遺跡とは全く関係ありませんが、保存のため移築されたようです)が1軒ぽつんという、よく言えば開放的、率直にいえばスペースが広々と余った歴史公園となっています。
個人的にはこういう長閑な雰囲気は好きですが。

平原遺跡から車で10分ほど走ると農村風景の中に4階建の立派な建物がそびえているのが見えてきます。伊都国歴史博物館です。もともとは伊都歴史資料館といったようですが、平成16年に新館が建てられて博物館に昇格したとのこと。

「福岡県平原方形周溝墓出土品」の一部は九州国立博物館の平常展示室で公開中ですが、大半の発掘品はこちらの新館に保管・展示されています。館内撮影禁止のために写真はありませんが、鈍く緑色に輝く大型の銅鏡がケースの中にずらっと並ぶ姿はさすがに壮観です。
 
展示ケースの前に、立てられた状態の銅鏡が1枚、機械仕掛けでゆっくりと回転しながら展示されていましたが、見学者が私と妻の他におらず(施設と所蔵品の豪華さを考えれば、もったいない限りです。)、静けさの中で、微妙なモーター音をあげながら回転する銅鏡の姿は率直にいって不気味でした。

この博物館の前身たる伊都歴史資料館の初代館長には、上でも述べた原田大六が予定されていたそうですが、大六が開館を待たずに死去したため、名誉館長の称号が追贈され、資料館の前に銅像が立てられました(銅像は現在も立っていますが、新館の入り口からだと目立たない場所になっています)。

自分の主導で遺跡を発掘し、国宝級の副葬品を発見して、それを納めた郷里の資料館の前に銅像を建ててもらう。郷土史家としては頂点を極めたという感じですね。大学の考古学の教授でもここまでの成功を得られる人は滅多にいないでしょう。
 
福岡市やその近郊にお住まいの方は休日にでもドライブがてらにでも、平原古墳と伊都国歴史博物館を訪れてみてください。晴れた日には本当に気持ちの良い場所ですので。  <弁護士>

2018年02月20日

◆平原遺跡(福岡県糸島市)

石田 岳彦


私の故郷である福岡市の周辺では、「桧原(ひばる)」、「屋形原(やかたばる)」、「前原(まえばる)」と、「原」を「はら」ではなく、「ばる」と呼ぶ地名が散在しており、上記の「平原」も「ひらはら」ではなく、「ひらばる」と読みます。

本日は福岡県糸島(いとしま)市にある平原遺跡について述べさせていただきます。

魏志倭人伝には邪馬台国を初め、多くの国名が記載されていますが、伊都(いと)国もその中の1つです。

現在の福岡市西区から糸島市にかけては、もともとは糸島郡であった地域ですが(平成の大合併で、前原市と志摩町、二丈町がまとまって糸島市が誕生し、糸島郡は最終的に消滅しました。)、この糸島郡自体、明治時代に怡土(いと)郡と志摩(しま)郡が合併して成立しました。

この怡土が伊都と通じること、佐賀県の旧松浦郡(現在の伊万里から唐津あたりにかけての地域)にあったとされる末廬国(まつら)国の南東に伊都国があったとの魏志倭人伝の記載から、伊都国は旧糸島郡にあったとされているそうです。

平原遺跡はこの伊都国の女王の墓とされています。 平原遺跡は糸島市の平原地区(遺跡の大半は発見された場所の地名で呼ばれます)にあり、周辺はのどかな農村地帯です。

そもそもこの遺跡が発見されたのも、昭和40年に地元の農家が蜜柑の木を植えようとして、銅鏡の欠片を発見したことがきっかけでした。

報告を受けた福岡県は、郷土史家の原田大六(大正6年の生まれということで、こう名付けられたそうです。)に発掘の指揮を依頼しました。

この原田大六は、糸島中学校(今の福岡県立糸島高校)を出たものの、大学では学ばず(歴史しか勉強しようとしなかったので、進学が無理だったとか)、太平洋戦争から復員した後、公職追放にあったのを契機に(軍隊において憲兵隊に入っていたのが祟ったといわれています)、中山平次郎博士に弟子入りし、博士から9年以上にわたり、1日6時間以上のマンツーマン指導を受け、考古学者になったという歴史小説の主人公にもなれそうなユニークな経歴と個性の持ち主です。


ちなみに中山博士は、現在でいうところの九州大学医学部の教授でありながら、寧ろ考古学者としての業績が有名という(九州考古学会の設立者だそうです)、これまた変わった経歴の持ち主で、この師匠にして、この弟子ありというところでしょうか。

この原田大六が、途中からは自費で発掘を継続し、遺跡からは墳墓の副葬品と見られる多くの出土品が発掘されました。

発掘品の中でも特に目立つのは39面又は40面(何分、破片で見つかったので、枚数について争いがあるようです。)発見された銅鏡で、うち4枚は直径46.5cmと、日本で発見された銅鏡として最大のものです。

他方で、剣等の武器はほとんど見つかっておらず、被葬者が女性であったことをうかがわせます。 副葬品の内容と豪華さから見て、時代は弥生時代。被葬者は王クラスの女性、つまり女王。遺跡(墳墓)のあった場所は伊都国があったとされるエリアということで、現在では、上記のように伊都国の女王の墓と推定されています。

弥生時代の女王といえば、邪馬台国の卑弥呼が有名ですが(実際には「日巫女」という太陽神を祀る神官女王の役職名だったのではないかとの説もあるそうですが)、それ以外にも女王がいたのですね。

ちなみに原田大六は玉依姫(たまよりひめ。神武天皇の母親とされる神話上の女神です。)の墓と主張していました。

平原遺跡の女王の墓は四角形(現在では少なからず形が崩れていますが)で、写真を見ればお分かりのように、その周囲には溝が掘られています。学問的には方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)と呼ばれるタイプの墓だそうで、上記の発掘品も近年になって「福岡県平原方形周溝墓出土品」という名称で一括して国宝に指定されています。

現在の平原遺跡は、墳墓の周りが低い柵で囲まれ、その周囲は横長のレリーフが建っているのを除けば何もない広場になっており、少し離れたところに古民家(遺跡とは全く関係ありませんが、保存のため移築されたようです)が1軒ぽつんという、よく言えば開放的、率直にいえばスペースが広々と余った歴史公園となっています。
個人的にはこういう長閑な雰囲気は好きですが。

平原遺跡から車で10分ほど走ると農村風景の中に4階建の立派な建物がそびえているのが見えてきます。伊都国歴史博物館です。もともとは伊都歴史資料館といったようですが、平成16年に新館が建てられて博物館に昇格したとのこと。

「福岡県平原方形周溝墓出土品」の一部は九州国立博物館の平常展示室で公開中ですが、大半の発掘品はこちらの新館に保管・展示されています。館内撮影禁止のために写真はありませんが、鈍く緑色に輝く大型の銅鏡がケースの中にずらっと並ぶ姿はさすがに壮観です。
 
展示ケースの前に、立てられた状態の銅鏡が1枚、機械仕掛けでゆっくりと回転しながら展示されていましたが、見学者が私と妻の他におらず(施設と所蔵品の豪華さを考えれば、もったいない限りです。)、静けさの中で、微妙なモーター音をあげながら回転する銅鏡の姿は率直にいって不気味でした。

この博物館の前身たる伊都歴史資料館の初代館長には、上でも述べた原田大六が予定されていたそうですが、大六が開館を待たずに死去したため、名誉館長の称号が追贈され、資料館の前に銅像が立てられました(銅像は現在も立っていますが、新館の入り口からだと目立たない場所になっています)。

自分の主導で遺跡を発掘し、国宝級の副葬品を発見して、それを納めた郷里の資料館の前に銅像を建ててもらう。郷土史家としては頂点を極めたという感じですね。大学の考古学の教授でもここまでの成功を得られる人は滅多にいないでしょう。
 
福岡市やその近郊にお住まいの方は休日にでもドライブがてらにでも、平原古墳と伊都国歴史博物館を訪れてみてください。晴れた日には本当に気持ちの良い場所ですので。  <弁護士>

2018年02月12日

◆蕪村公園横の「毛馬の閘門」

石田 岳彦


阪急千里線の柴島駅(本筋から思い切り離れますが「柴島」を初見で「くにじま」と読める人がどれだけいるでしょうか。)から天神橋筋六丁目駅へ向かい、淀川にかかる鉄橋を渡る際、左側奥、淀川大堰の向こう側に大きな「水門」が見えますが、その水門には「毛馬こうもん」と白抜きで大きく書かれています。

「こうもん」を漢字で書くと「閘門」です(ちなみに「毛馬」は地名で「けま」と呼びます)。

最近は警察署にも建物の壁に「けいさつ」と平仮名で大きく書いているところがありますが、「閘門」と書いても読めない人が多いので、「こうもん」と平仮名で書いているのでしょうか。

もっとも、警察署と違い、読みだけ知ったところで何をやっている施設かは分からないと思いますが。

それはさておき、阪急千里線を通勤経路にしている私にとって、毛馬の閘門は見慣れた存在でしたが、近くにまで行く機会はありませんでした。

平成20年春、毛馬の閘門が国の重要文化財に指定されることになったというニュースを聞いた私は、これをよい機会と毛馬の閘門に行ってみました。我ながらミーハーです。

毛馬の閘門に行くには、天神橋筋六丁目駅(阪急千里線、地下鉄堺筋線・谷町線)から北上し、淀川にかかる長柄橋の南詰めから河川敷に出て、更に5分ほど東へ歩きます。

河川敷は公園になっていて、堤防上には歩道も整備されていて、歩いていて楽しい道ですが、天神橋筋六丁目駅からは20分以上の歩きになり、大阪市内ということを考えると交通の便の悪い場所といえるでしょう(私がなかなか行く気になれなかった理由もこれです。)。
 
現地に設けられていた説明板によると、閘門というのは、水位の異なる川、運河等の間で船を行き来させるため、両側に水門を設けた水路で、毛馬の閘門の場合、大川(低)と淀川(高)との間の高低差を調整して船を通すために建造されたものです。

淀川から大川に入る場合、まず、水路内の水位を淀川に合わせたうえ、淀川側の水門のみを開けて船を水路に入れたうえで閉じ、水路内の水を抜いて、水面の高さを大川と同水位に下げた後、大川側の水門を開けて船を通過させるという仕組みになっています。

逆に大川から淀川に行く場合には、大川側から水路に船を入れたうえ、水を補充して水路面を淀川と同水位にまで上げてから、淀川側の水門を開放することになります。

なお、そもそも隣り合っている2つの川の水面に何故、極端な高低差があるかといえば、本来の淀川の流れは大川の方で、現在の淀川のうち毛馬よりも河口側の部分(新淀川)は明治時代に治水上の必要で人工的に作られたためだそうです。

ちなみに現在の毛馬の閘門は3代目で、私が毎朝見かけている「毛馬こうもん」もこの3代目にあたります。今回、重要文化財に指定されたのは、初代と2代目(今は船溜になっているそうです)で、このうち初代の閘門は、3代目のすぐ近くに見学用として整備されていました。

初代閘門の水門は2つの扉が観音開きになる方式で(なお、現役の3代目の閘門は門扉が上下して開閉するシャッター方式だそうです。)、現在は半開きの状態で固定されています。最近になって塗りなおされているようで、水色の大きな扉が鮮やかです。

北側の淀川側の水門は、近くにある堤防から一段低いところにあり、階段で下まで降りることもできますが、降りたところに柵が設けられていて、その先の水門をくぐることはできません。

もっとも、南側にある大川側の水門(淀川側に比べてかなり小型です)は開放されていて、そちら側から(旧)水路(当然のことながら現在では水路に水は流されていません。)の中に入ることができ、更に進んで淀川側の水門をくぐることもできます。北側の柵はいったい何のためでしょうか。

水路の中央に見学用の通路が設けられていて、その両側は何故か芝生になっていました。先ほどの柵といい、「こうもん」のペイントといい、この芝生といい、大阪市はよく分からないことに、金と手間を使います。

水路といっても船が通り抜けることができるだけのスペースですから、幅もそれなりにあり、スペース自体はちょっとした広場並みです。両側の側壁はレンガ造りになっていて、ところどころに鎖が取り付けられています。係船環と呼ばれる船を繋ぐためのものだそうです。水路に水を注入または排出するときに船が動かないようにするためでしょうか。

近くには初代閘門の付属施設として建設された洗堰(水が堰の上を越えて流れるタイプの堰)も残っています。淀川(新淀川)から大川に流れ込む水の量を調節するためのものだそうです。なかなかシックなデザインですね。

大阪市やその近郊にお住まいの方であれば、天気のよい休日にでも、広々とした淀川の河川敷や与謝蕪村公園の横をを歩きつつ、ちょっと「毛馬の閘門」に寄ってみられるのも悪くないでしょう。(終)

2018年01月30日

◆名所旧跡だより 住友活機園(滋賀県大津市)

石田岳彦

お久しぶりです。
滋賀県大津市石山に「住友活機園」という施設があります。重要文化財に指定されたお屋敷とその庭園で、毎年5月ころに2日ほど一般に特別公開されている他は、住友グループの社員しか見学できません。

しかも、この特別公開も事前に往復はがきで申し込む必要があり、かつ定員を超過すれば、抽選となります。実際には毎年定員を超過するので、毎年抽選です。

私の場合、最初の申し込みは抽選で外れ、翌年は当選したものの、妻の体調不良で行けず(号泣。冗談抜きに妻と一緒に寝込みました。)、数年の前の春、3度目の正直で見学の機会を得ました。今回はその際の話です。

京阪電鉄石山坂本線の東側の終点である石山寺駅から、来し方に向かって5分ほど歩き、新幹線の高架をくぐって、すぐ左側に高い塀で囲まれた森が見えてきます。

苔生した石段を登り、門で見学証(当選を伝える往復はがき)を示して中へ。
入って早々、鬱蒼と葉の茂った木の枝が歩道に垂れかかって、緑の幕のようになっています。

このような演出なのでしょうか。それとも雨で濡れて重くなり、垂れてきたのでしょうか(そう、せっかくの3年越しだというのに見事な雨です。)。坂道を蛇行し、左側に池を見下ろしつつ進んでいくとやがて2階建ての洋館が見えてきます。


洋館の外壁の下半分は鱗のような板で飾られています。
鱗といえば、神戸市北野の異人館街にも「鱗の館」というのがありますが、石製のスレートで葺かれた「鱗の館」と異なり、こちらの洋館の鱗は木製なので、「鱗の館」に比べて、見た目にも柔らかな雰囲気です。

洋館の左隣には和館も見えます。明治のころのお屋敷には洋館と和館を併設したものが少なくありません。

洋館で公務或いはビジネス関係の客と会い、プライベートな時間は和館で過ごすという使い分けになります。まだまだ、西洋風の生活様式になじめない人が多く、和館の方がくつろげたということでしょう。明治天皇もプライベートな時間は服装その他で和風を好んだという話です。

この屋敷自体は基本的に隠居所なのですが、住友財閥の元・総理事(住友財閥の筆頭番頭。住友家が王家で、総理事が首相というイメージでよいでしょうか。)ともなると、隠居先にもそれなりにグループ各社の幹部がやってきたのでしょう。

遅くなりましたが、この屋敷の本来の主は、伊庭貞剛(いば・ていごう)といい、上記のように住友財閥で総理事を務めたという超大物財界人です。

貞剛が晩年、故郷、滋賀の地(もっとも、大津市ではなく、現在の近江八幡市の出身のようですが)に建てた隠居所がこの屋敷であり、現在は住友グループの研修施設となっています。

見学者は我々の他、30人弱のようです。このグループで屋敷を見学して回ることになります。(やや記憶が曖昧になっていますが)一日3グループほどで、2日間ですから、特別公開に参加できるのは1年で180人くらいでしょうか(30人×3回×2日)。

一般的な旅行ガイドにはまず記載がないし、滋賀県内でも一般的な知名度が高いとは言い難いのですが、(人のことは言えませんが)世の中には結構マニアックな人が多いです。

案内の方の話によると、例年10倍近い抽選になるところ、今年は東日本大震災後の自粛ムードもあってか、応募数がかなり低く、競争率は2倍程度にとどまったとのこと。

「皆さん運が良いです。」というのが締めくくりの言葉でしたが、「空気の読めない野郎共(の中で相対的にくじ運のよい者)が集まった」と聞こえてしまうのは被害妄想でしょうか。

それはさておき、屋敷の中に入りましょう。
洋館と和館の間は廊下で繋がっていて、中央に玄関があり、そこでスリッパに履き替えて、まず、洋館に進みます。残念ながら室内撮影禁止のため、画像はありません。

壁紙は真っ白、階段も(彫刻はされているものの)白木のままで飾り金具も無い、シャンデリアもシンプル。実に装飾控え目の上品な雰囲気です。

貞剛が設計者に「清楚に」との注文を出していたとのこと。私のような小市民からすれば、洋館のお屋敷という時点で「豪華」と思えてしまうのですが、確かに、少なくとも派手ではありません。

窓ガラスに微妙に歪みがあり、外の光景が若干屈折して見えます。昔の製法で作成されているため、現在のガラスのように均一にはなっていないのです。

現代では再現が難しいとのことで、慣れてしまえば、この歪みも味があるように感じます。古い洋館に入る際には注意して見てください。

2階に登ると貞剛の事績に関するパネルが置かれています。案内の方が特に触れなかったので(奥ゆかしさというところでしょうか。)、自分で読むことにします。

貞剛は別子銅山(愛媛県)の経営の任にあたって成功を収めた人物であり、しかも、精錬場からの煙害を解決するため、これを四国本土から島に移し、或いは銅山開発によって荒れ果てた山に植林を実施した云々。

開発と環境保全の両立を目指す、この時代の人物としてはかなり先見的だったようです(足尾鉱毒事件の解決に尽力した田中正造が、別子銅山については賞賛していたとのこと。)。

大財閥のトップに立つ程の人物となれば、やはり、単に事業家として優秀なだけではなく、自分の哲学を持ち、社会に対して利益を還元できるようでなくてはいけないということでしょうか。なるほど。

廊下を渡って、和館に回ります。こちらは平屋です。



 素人の私には、それなりに広いものの一般的な和室に見えますが、案内の方によると、かなり珍奇で高価な木材を所々に使っているとのことで、幾つか、解説してくださいました。

説明されても素人の私には「そうなんだ。」としか思えませんが。
「分かる人だけ、分かってくれればよい」という、成金趣味とは対極的な趣向です。
 
奥の座敷の襖を開けたところ、暖炉が出てきたのは少々びっくりしました。

庭をのんびりと眺めていると、時々、轟音が響きます。実は、活機園の敷地に入る前から何度と無く響いているのですが。

上でも書きましたが、新幹線の高架橋が活機園の敷地のすぐ傍を通っている(というよりも、本来、新幹線の線路を含め、その向こう側まで活機園の敷地だったのが、新幹線を通す際に分断されてしまい、敷地面積が大幅に減少してしまったそうです。)ので、新幹線が通過する度、耳を劈く騒音が活機園の敷地全域に響き渡ります。

史跡の中にわざわざ新幹線を通さずともよかろうと思わなくもありませんが、「一般人の住宅を何棟も立ち退かせるより、本来の主を既に失った屋敷の広い敷地の一部を割く方がよい」という発想は民主国家としては、おそらく健全なものでしょうね。多分。

来年以降はおそらく競争率もいつもどおり高くなると思いますが、今回の記事を読んで興味を持たれた方は、今年4月ころに往復はがきを用意のうえ、住友活機園のホームページを覗いてみてください。(終)
                          <弁護士>

2017年12月31日

◆「名所・旧跡だより」葛井寺(藤井寺市)

                           石田岳彦(弁護士)

関西に住んでいる方、若しくは古株のプロ野球ファンの方、特に旧・近鉄バファローズファンであれば、大阪府の南部に藤井寺市という街があることはご存知でしょう。

もっとも、この街に葛井寺(ふじいでら)という寺があり、そもそも街の名前がこの寺から来ているということは案外知られていないかも知れません。
 
とはいえ、葛井寺は決して無名のお寺ではありません。少なくとも、社寺巡りを趣味とする者の間では。かの西国三十三番観音霊場の五番霊場ですし、ご本尊として(少なくとも、仏像ファンの間では)有名な国宝の千手観音菩薩像がいらっしゃいますので。

近鉄南大阪線を藤井寺駅で降りて、商店街を抜け、5分足らずで葛井寺の境内に辿り着きます。

寺伝によれば、葛井寺は、聖武天皇の命を受けた行基が建立したとされているそうですが、この手の話はほとんどの場合、眉唾で、実際には渡来人系の豪族の葛井(ふじい)氏が建てたという学説が有力なのだそうです。

もっとも、度々、戦火や天災の被害にあっているため、現在、境内に建ち並んでいるのは安土桃山時代に建てられた西門(重要文化財)を除けば、江戸時代の建物となります。



境内は広くなく、西門をくぐれば、すぐに本堂です(なお、正門は南側にある楼門の南大門で、なかなか立派なものです。)。

千手観音菩薩とは、観音菩薩の姿の1つで、広く衆生を救いたいという観音菩薩の慈悲の心を千本の腕で象徴しているわけですが、流石に千本も腕をこさえて、かつ、取り付けるのは至難の技であり、彫刻にするときは、普通、42本の腕で「千手」ということにしています。普通は。
 
そう。葛井寺のご本尊は「普通」に飽き足らず、敢えて至難の技に挑み、実際に千本の腕(実際には1000本を若干越えているようです。)を取り付けるという偉業(誤変換で「異形」と出てきましたが、ある意味正解です)を達成した「本物の千手観音菩薩」像なのです。

実際に千本以上の腕を取り付けた千手観音菩薩像の他の作例としては、唐招提寺金堂のもの(国宝)や、壽宝寺(京都府京田辺市)のもの(重要文化財)がありますが、これらは後年幾らかの腕が失われ、現存する腕は千本を切ってしまっており、そういう意味では、葛井寺のご本尊は現存唯一の「本当の千手観音菩薩像」ということになります(どこかのお寺なり、新興宗教団体が近年になって作成しているかも知れませんけど、ここでは無視します。)。

このご本尊は毎月18日のみ拝観が可能で、いわゆる秘仏です。

余談ですが、一概に「秘仏」といっても、毎月特定の日に公開されるというライトなものから、毎年特定の数日間のみ公開されるもの、数年から数十年に一度のみ公開されるもの、一般どころか文化庁のお役人にさえ絶対に公開されないもの(いわゆる「絶対秘仏」。

文化庁による審査を受けていないので、国宝や重要文化財にも指定されていません。)、果ては、ご本尊は絶対秘仏、その代わりを務める前立ち本尊(その名のとおり、ご本尊を納めた厨子の前に立つ、ご本尊の代行です)でさえ7年に1度しか公開されない善光寺(長野市)と、「秘され具合」のギャップには激しいものがあります。

葛井寺の本堂では参拝客が入ることができるのは外陣までで、そこから内陣奥のご本尊までは少し離れており、残念ながら、細部まではよく見えません。

観音様は坐像で(なお、上記の唐招提寺と壽宝寺の千手観音菩薩像は立像です。)、千本の腕のうちメインの2本は普通に両肩から伸びていて体の正面で合掌しています。

残りの腕は背中から左右に胴体を包み込むように放射線状に伸びていて(うち40本は比較的大きく、千手観音御用達の各種法具類を持っています)、少し離れた外陣から見ると、半分に分かれた巨大なボウルが、観音様の胴体を左右から挟みこんでいるようにも見えます。

写真撮影禁止のため(一般的に、名のある仏像の大半は撮影禁止です。国宝の仏様で撮影禁止でないのは、奈良と鎌倉の大仏様と東大寺南大門の仁王様、臼杵の石仏群くらいでしょうか。)、画像はありませんが、藤井寺市のホームページに写真が載っていますので、ご覧になってください。

写真を見て感じるところがあったら、18日に葛井寺に行ってください。仏像にそれほど関心のない方でも、話の種として一見の価値ありです。

同じ藤井寺市内、近鉄南大阪線の道明寺駅から徒歩5分足らずのところに道明寺と道明寺天満宮が隣り合わせで建っています。もとは1つだったのが、明治初期の神仏分離の折に強引に分離させられたようです。

天満宮といえば、当然、菅原道真公を祀っているわけですが、この道明寺のあたりは、菅原氏の先祖にあたる土師(はじ)氏の根拠地だったところで、太宰府に流される途中の道真公が、道明寺にいた叔母を訪ね、形見の品を遺したという伝説があります。

なお、この近辺は大阪夏の陣の激戦地の1つでもあり、豊臣方の勇将・後藤又兵衛が壮絶な戦死を遂げたその合戦は、その名も「道明寺の戦い」です。

道明寺のご本尊は国宝の十一面観音菩薩立像で(当然のことながら写真はなしです)、小さいながらも表情もプロポーションも端正です。葛井寺と異なり、かなり近くまで寄ってお姿を拝見できるのは嬉しいですね。

こちらも一応は秘仏で、毎月18日と25日に限り公開されます。葛井寺の千手観音様もそうですが、曜日さえ問わなければ毎月お目にかかれるので、秘仏の「秘され具合」としてはかなりライトな方といえます。

なお、お隣の道明寺天満宮には菅原道真公の遺品(上で述べた叔母さんに道真公が託したものですね)と伝えられる硯、櫛、銅鏡、石帯等が伝わっていて、一括して、やはり国宝に指定されています。毎年、梅の開花シーズンに合わせて宝物館で特別公開されていて、今年は2月11日から3月10日までの土日祝だそうです。

藤井寺市という一般観光客的にはノーマークな町に、国宝の仏様が2件いらっしゃるというのは驚くべきことで(国宝の仏像が2件以上存在する市町村は奈良市、京都市、斑鳩町、大津市(三井寺)、宇治市(平等院)、宇陀市(室生寺)等と数えるほどです。)、この地が古代から拓けていたということを実感させられます。

関西にお住まいの方は、休みの日にでも足をのばしてはいかがでしょうか(仏像ファンならば、たとえ九州・沖縄、北海道からでも来る価値はあります)。

2017年12月02日

◆名所旧跡だより 平原遺跡(福岡県糸島市)

石田 岳彦

私の故郷である福岡市の周辺では、「桧原(ひばる)」、「屋形原(やかたばる)」、「前原(まえばる)」と、「原」を「はら」ではなく、「ばる」と呼ぶ地名が散在しており、上記の「平原」も「ひらはら」ではなく、「ひらばる」と読みます。

本日は福岡県糸島(いとしま)市にある平原遺跡について述べさせていただきます。

魏志倭人伝には邪馬台国を初め、多くの国名が記載されていますが、伊都(いと)国もその中の1つです。

現在の福岡市西区から糸島市にかけては、もともとは糸島郡であった地域ですが(平成の大合併で、前原市と志摩町、二丈町がまとまって糸島市が誕生し、糸島郡は最終的に消滅しました。)、この糸島郡自体、明治時代に怡土(いと)郡と志摩(しま)郡が合併して成立しました。

この怡土が伊都と通じること、佐賀県の旧松浦郡(現在の伊万里から唐津あたりにかけての地域)にあったとされる末廬国(まつら)国の南東に伊都国があったとの魏志倭人伝の記載から、伊都国は旧糸島郡にあったとされているそうです。

平原遺跡はこの伊都国の女王の墓とされています。 平原遺跡は糸島市の平原地区(遺跡の大半は発見された場所の地名で呼ばれます)にあり、周辺はのどかな農村地帯です。

そもそもこの遺跡が発見されたのも、昭和40年に地元の農家が蜜柑の木を植えようとして、銅鏡の欠片を発見したことがきっかけでした。



報告を受けた福岡県は、郷土史家の原田大六(大正6年の生まれということで、こう名付けられたそうです。)に発掘の指揮を依頼しました。

この原田大六は、糸島中学校(今の福岡県立糸島高校)を出たものの、大学では学ばず(歴史しか勉強しようとしなかったので、進学が無理だったとか)、太平洋戦争から復員した後、公職追放にあったのを契機に(軍隊において憲兵隊に入っていたのが祟ったといわれています)、中山平次郎博士に弟子入りし、博士から9年以上にわたり、1日6時間以上のマンツーマン指導を受け、考古学者になったという歴史小説の主人公にもなれそうなユニークな経歴と個性の持ち主です。

ちなみに中山博士は、現在でいうところの九州大学医学部の教授でありながら、寧ろ考古学者としての業績が有名という(九州考古学会の設立者だそうです)、これまた変わった経歴の持ち主で、この師匠にして、この弟子ありというところでしょうか。

この原田大六が、途中からは自費で発掘を継続し、遺跡からは墳墓の副葬品と見られる多くの出土品が発掘されました。

発掘品の中でも特に目立つのは39面又は40面(何分、破片で見つかったので、枚数について争いがあるようです。)発見された銅鏡で、うち4枚は直径46.5cmと、日本で発見された銅鏡として最大のものです。

他方で、剣等の武器はほとんど見つかっておらず、被葬者が女性であったことをうかがわせます。 副葬品の内容と豪華さから見て、時代は弥生時代。被葬者は王クラスの女性、つまり女王。遺跡(墳墓)のあった場所は伊都国があったとされるエリアということで、現在では、上記のように伊都国の女王の墓と推定されています。

弥生時代の女王といえば、邪馬台国の卑弥呼が有名ですが(実際には「日巫女」という太陽神を祀る神官女王の役職名だったのではないかとの説もあるそうですが)、それ以外にも女王がいたのですね。

ちなみに原田大六は玉依姫(たまよりひめ。神武天皇の母親とされる神話上の女神です。)の墓と主張していました。

平原遺跡の女王の墓は四角形(現在では少なからず形が崩れていますが)で、写真を見ればお分かりのように、その周囲には溝が掘られています。学問的には方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)と呼ばれるタイプの墓だそうで、上記の発掘品も近年になって「福岡県平原方形周溝墓出土品」という名称で一括して国宝に指定されています。

現在の平原遺跡は、墳墓の周りが低い柵で囲まれ、その周囲は横長のレリーフが建っているのを除けば何もない広場になっており、少し離れたところに古民家(遺跡とは全く関係ありませんが、保存のため移築されたようです)が1軒ぽつんという、よく言えば開放的、率直にいえばスペースが広々と余った歴史公園となっています。個人的にはこういう長閑な雰囲気は好きですが。

平原遺跡から車で10分ほど走ると農村風景の中に4階建の立派な建物がそびえているのが見えてきます。伊都国歴史博物館です。もともとは伊都歴史資料館といったようですが、平成16年に新館が建てられて博物館に昇格したとのこと。

「福岡県平原方形周溝墓出土品」の一部は九州国立博物館の平常展示室で公開中ですが、大半の発掘品はこちらの新館に保管・展示されています。館内撮影禁止のために写真はありませんが、鈍く緑色に輝く大型の銅鏡がケースの中にずらっと並ぶ姿はさすがに壮観です。
 
展示ケースの前に、立てられた状態の銅鏡が1枚、機械仕掛けでゆっくりと回転しながら展示されていましたが、見学者が私と妻の他におらず(施設と所蔵品の豪華さを考えれば、もったいない限りです。)、静けさの中で、微妙なモーター音をあげながら回転する銅鏡の姿は率直にいって不気味でした。

この博物館の前身たる伊都歴史資料館の初代館長には、上でも述べた原田大六が予定されていたそうですが、大六が開館を待たずに死去したため、名誉館長の称号が追贈され、資料館の前に銅像が立てられました(銅像は現在も立っていますが、新館の入り口からだと目立たない場所になっています)。

自分の主導で遺跡を発掘し、国宝級の副葬品を発見して、それを納めた郷里の資料館の前に銅像を建ててもらう。郷土史家としては頂点を極めたという感じですね。大学の考古学の教授でもここまでの成功を得られる人は滅多にいないでしょう。
 
福岡市やその近郊にお住まいの方は休日にでもドライブがてらにでも、平原古墳と伊都国歴史博物館を訪れてみてください。晴れた日には本当に気持ちの良い場所ですので。(終)  <弁護士>

2017年11月10日

◆私の「古寺旧跡巡礼」出雲大社

石田 岳彦


神宮といえば伊勢神宮、大社といえば出雲大社といわれるように、出雲大社はわが国でも指折りの格式の高い神社です。

古事記や日本書紀の神代巻によれば、大国主命が、地上の支配権を天照大神の孫のニニギノミコト(つまり今の天皇家のご先祖)に譲るのと引き換えに建ててもらった宮殿が出雲大社の起源とされています。

出雲大社は通常「いずもたいしゃ」と呼ばれ、私も勿論、そう呼んでいたのですが、「いずものおおやしろ」というのが正式な読みだそうです。驚きました。

もっとも、この名称自体、明治時代以降のもので、それ以前には杵築大社(きづきのおおやしろ)と呼ばれていたそうです。更に驚きました。ともあれ、その出雲大社で、平成20年より国宝の本殿の修復が行われています。

御存知の方も多いと思いますが(各地からツアーが組まれていたようなので実際に行かれた方も少なくないかも知れません)、修理に先立つ大遷宮(神が仮の社に移ること)を記念して、平成20年に本殿の60年ぶりの公開が行われました。今回はその際の話をさせていただきます。

お盆を控えた平成20年8月のある週末、私は1泊2日で出雲に出掛けることにしました。朝一番の新幹線と在来線の特急を乗り継いで、JR出雲市駅(ちなみに平成の大合併により、出雲大社のあった大社町は出雲市の一部となりました。)からはタクシーを飛ばしたものの、出雲大社に着いたのは午前11時過ぎでした。

整理券をもらうと午後3時半。4時間半待ちです。事前情報として待ち時間がかなり長くなるのを知っていたので、驚きはありません。寧ろ、今日中に拝観できるのが決まって一安心です。

4月から5月にかけても本殿の公開が行われましたが、その際は境内に長蛇の列ができ、最大で4時間待ちになったとか。その反省もあってか、8月の公開の際には整理券が配られるようになったようです。まあ、8月の炎天下に長蛇の列ともなれば、熱射病で死屍累々となることは分かり切ったことですが。

幸い、日御碕神社、日御碕灯台や旧国鉄大社駅等、周囲に見るべきものは多く、正直4時間半でも短いくらいです(歴史ファンであればという条件付きですけど)。ともあれ、極めて有意義に時間を潰した私は午後3時前に出雲大社に戻ってきました。

本殿の拝観は、案内人に引率されて20人程度のグループ単位で行われます。
ようやく時間になったので、四脚門を潜って玉垣の中に入り、更に楼門をくぐって、靴を脱いだうえ、本殿正面の階段を登りました。本殿への階段は急で、高低差があります。

出雲大社の本殿はこの地方に独特の大社造りと呼ばれる高床式の建物で、正面に屋根付きの階段が設けられています。ただし、本殿の周囲に二重の玉垣が巡らされていることもあり、特に下部の構造は外部から分かりにくいです。

時間に余裕がある方には、出雲大社の前後にでも、松江市内の神魂(かもす)神社(本殿は現存最古の大社造りで国宝に指定)にも寄って、大社造りの建物の全容を見ておくのをお勧めします。現在の本殿は江戸時代に建てられたもので、高さは下から棟までで8丈(24.2m)だそうです。

写真では分かりにくいのですが、実際に本殿の縁側にまで登って周囲を見下ろすと、だいたいビルの3階くらいの感覚で、かなり高く感じます。もっとも、言い伝えによると、中世以前の本殿はこの2倍の16丈、神話の時代においては更に倍の32丈の高さがあったということなので、この程度で驚いてはいけないのかも知れません。

なお、16丈の本殿については、従来、技術的に困難であるとして、単なる伝説であり、史実ではないとする説が強かったようですが、近年、昔の本殿の巨大な柱(丸太3本を束ねたもの)が境内から発掘されたこと等もあり、最近では、歴史的事実として認める説も有力のようです。

もっとも、昔の技術で16丈の高さにするには無理があったためか、文献上、しばしば本殿の転倒事故が起きているのが確認できるとのこと。

神代の32丈(約96m)の本殿については、さすがにこれを信じている人は少ないようですが、土を盛って人工の丘を作り、そのうえに建物を建てることにより、麓からの高さで32丈を確保したとの説もあるそうです。ここまでくるとほとんど頓知話ですね。

本殿のうえは大渋滞で、一旦、縁側を右側に回り、後方を巡って、最後に正面に回り込み、本殿内部を除きこんで、降りるというコースになっていました。正面に回るまで15分ほど縁側で待たされることになりましたが、本殿上にとどまれる時間がその分長くなるわけですから、悪くない話です。

普段は玉垣の外からしか覗けない、本殿の周囲の建物の桧皮葺の屋根も、今は、私の眼下にあります。私がこの光景を見るのもこれが生涯で最後、若しくは、50年以上先の次回の修理のときだろうと思うと、有難味もひとしおです(数年後に修理が完了した際に、もう一度特別公開をやるという落ちになるかもしれませんが)。

写真撮影禁止なのが泣けてきます。ようやく正面に回り、縁側から内部を覗き込みました。さすがに中には入れてもらえません。神様の家ですから。

本殿の中央には文字通りの大黒柱(仏教の守護神であった大黒天と大国主命はもともと別の神様ですが、「大国」が「ダイコク」と読めるということで、次第に混同されるようになりました。袋をかついだ七福神の大黒様は大国主命のイメージから来ています。

また、事前情報として知っていましたが、大国主命の御神像を収める御神座は何故か正面ではなく、右側(拝観者から見て左側)を向いていて、参拝者の方を向いていません。

理由については争いがあり、中には、「出雲大社は大国主命の宮殿ではなく、その霊を封じ込める牢獄である」というおどろおどろしい説まであるようです。
更に天井には極彩色の「八雲」が描かれているのが見えます。もっとも、「八雲」であるにもかかわらず、何故か描かれている雲は7つだけです。

疑問に思って、説明の方に話を聞くと、昔から7つしかないけど「八雲」と呼ばれているとのことでした。残り1つは心眼で見るのでしょうか。そういえば、八岐大蛇(やまたのおろち)も、頭が8つだから七股なのに八岐と呼ばれていますね。

「八雲」は兎も角として、本殿の内部は、外観と同様全体的には簡素で装飾性が少ないという印象でした。

本殿の参拝が終わった後、改めて境内をノンビリと歩きます。特に印象に残ったのは、本殿の東西にあった十九社という細長い建物で、毎年11月に全国から出雲に神様が集まってくる際の宿舎になる社ということのようです。

 また、出雲大社のすぐ近くには県立の歴史博物館もあります。上で述べた発掘された昔の本殿の柱に加え、加茂岩倉遺跡(一箇所の遺跡から最多の銅鐸が発見されたことで有名)から出土した銅鐸、荒神谷遺跡(358本という常識外れの大量の銅剣が発掘されたことで有名。

勿論、国内最多。)から発掘された銅剣もまとめて見る事ができます。巨大なガラスケースの中に300本以上の銅剣が並ぶ様にはあっけにとられます。

 機会があれば、一度、出雲の地に行かれてみてください。    
(終)     弁護士