2016年12月11日

◆平原遺跡巡り(福岡県糸島市)

石田 岳彦



私の故郷である福岡市の周辺では、「桧原(ひばる)」、「屋形原(やかたばる)」、「前原(まえばる)」と、「原」を「はら」ではなく、「ばる」と呼ぶ地名が散在しており、上記の「平原」も「ひらはら」ではなく、「ひらばる」と読みます。

本日は福岡県糸島(いとしま)市にある平原遺跡について述べさせていただきます。

魏志倭人伝には邪馬台国を初め、多くの国名が記載されていますが、伊都(いと)国もその中の1つです。

現在の福岡市西区から糸島市にかけては、もともとは糸島郡であった地域ですが(平成の大合併で、前原市と志摩町、二丈町がまとまって糸島市が誕生し、糸島郡は最終的に消滅しました。)、この糸島郡自体、明治時代に怡土(いと)郡と志摩(しま)郡が合併して成立しました。

この怡土が伊都と通じること、佐賀県の旧松浦郡(現在の伊万里から唐津あたりにかけての地域)にあったとされる末廬国(まつら)国の南東に伊都国があったとの魏志倭人伝の記載から、伊都国は旧糸島郡にあったとされているそうです。

平原遺跡はこの伊都国の女王の墓とされています。 平原遺跡は糸島市の平原地区(遺跡の大半は発見された場所の地名で呼ばれます)にあり、周辺はのどかな農村地帯です。

そもそもこの遺跡が発見されたのも、昭和40年に地元の農家が蜜柑の木を植えようとして、銅鏡の欠片を発見したことがきっかけでした。

報告を受けた福岡県は、郷土史家の原田大六(大正6年の生まれということで、こう名付けられたそうです。)に発掘の指揮を依頼しました。

この原田大六は、糸島中学校(今の福岡県立糸島高校)を出たものの、大学では学ばず(歴史しか勉強しようとしなかったので、進学が無理だったとか)、太平洋戦争から復員した後、公職追放にあったのを契機に(軍隊において憲兵隊に入っていたのが祟ったといわれています)、中山平次郎博士に弟子入りし、博士から9年以上にわたり、1日6時間以上のマンツーマン指導を受け、考古学者になったという歴史小説の主人公にもなれそうなユニークな経歴と個性の持ち主です。


ちなみに中山博士は、現在でいうところの九州大学医学部の教授でありながら、寧ろ考古学者としての業績が有名という(九州考古学会の設立者だそうです)、これまた変わった経歴の持ち主で、この師匠にして、この弟子ありというところでしょうか。

この原田大六が、途中からは自費で発掘を継続し、遺跡からは墳墓の副葬品と見られる多くの出土品が発掘されました。

発掘品の中でも特に目立つのは39面又は40面(何分、破片で見つかったので、枚数について争いがあるようです。)発見された銅鏡で、うち4枚は直径46.5cmと、日本で発見された銅鏡として最大のものです。

他方で、剣等の武器はほとんど見つかっておらず、被葬者が女性であったことをうかがわせます。 副葬品の内容と豪華さから見て、時代は弥生時代。被葬者は王クラスの女性、つまり女王。遺跡(墳墓)のあった場所は伊都国があったとされるエリアということで、現在では、上記のように伊都国の女王の墓と推定されています。

弥生時代の女王といえば、邪馬台国の卑弥呼が有名ですが(実際には「日巫女」という太陽神を祀る神官女王の役職名だったのではないかとの説もあるそうですが)、それ以外にも女王がいたのですね。

ちなみに原田大六は玉依姫(たまよりひめ。神武天皇の母親とされる神話上の女神です。)の墓と主張していました。

平原遺跡の女王の墓は四角形(現在では少なからず形が崩れていますが)で、写真を見ればお分かりのように、その周囲には溝が掘られています。学問的には方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)と呼ばれるタイプの墓だそうで、上記の発掘品も近年になって「福岡県平原方形周溝墓出土品」という名称で一括して国宝に指定されています。

現在の平原遺跡は、墳墓の周りが低い柵で囲まれ、その周囲は横長のレリーフが建っているのを除けば何もない広場になっており、少し離れたところに古民家(遺跡とは全く関係ありませんが、保存のため移築されたようです)が1軒ぽつんという、よく言えば開放的、率直にいえばスペースが広々と余った歴史公園となっています。
個人的にはこういう長閑な雰囲気は好きですが。

平原遺跡から車で10分ほど走ると農村風景の中に4階建の立派な建物がそびえているのが見えてきます。伊都国歴史博物館です。もともとは伊都歴史資料館といったようですが、平成16年に新館が建てられて博物館に昇格したとのこと。

「福岡県平原方形周溝墓出土品」の一部は九州国立博物館の平常展示室で公開中ですが、大半の発掘品はこちらの新館に保管・展示されています。館内撮影禁止のために写真はありませんが、鈍く緑色に輝く大型の銅鏡がケースの中にずらっと並ぶ姿はさすがに壮観です。
 
展示ケースの前に、立てられた状態の銅鏡が1枚、機械仕掛けでゆっくりと回転しながら展示されていましたが、見学者が私と妻の他におらず(施設と所蔵品の豪華さを考えれば、もったいない限りです。)、静けさの中で、微妙なモーター音をあげながら回転する銅鏡の姿は率直にいって不気味でした。

この博物館の前身たる伊都歴史資料館の初代館長には、上でも述べた原田大六が予定されていたそうですが、大六が開館を待たずに死去したため、名誉館長の称号が追贈され、資料館の前に銅像が立てられました(銅像は現在も立っていますが、新館の入り口からだと目立たない場所になっています)。

自分の主導で遺跡を発掘し、国宝級の副葬品を発見して、それを納めた郷里の資料館の前に銅像を建ててもらう。郷土史家としては頂点を極めたという感じですね。大学の考古学の教授でもここまでの成功を得られる人は滅多にいないでしょう。
 
福岡市やその近郊にお住まいの方は休日にでもドライブがてらにでも、平原古墳と伊都国歴史博物館を訪れてみてください。晴れた日には本当に気持ちの良い場所ですので。  <弁護士>

2016年11月26日

◆懐かしい園城寺(通称三井寺) 後編

石田 岳彦



金堂の西側、一段高くなったところに霊鐘堂という小さなお堂があり、横には「弁慶の引き摺り鐘」との案内板が立っていました。中には梵鐘が1つ安置されていて、その側面の一部に擦った痕が残っています。

青銅製の鐘が擦れるわけですから、かなりの力が加わったということでしょう。この鐘については、かの武蔵坊弁慶に関わる伝説があります。

すなわち、源義経の家来になる前、弁慶は比叡山延暦寺で僧兵をしていましたが、ある時、三井寺に攻め込んで、この梵鐘を奪い、延暦寺まで引き摺って帰った際にこの痕が付いたとのこと。

なお、何故、延暦寺に持って行かれた鐘が三井寺に戻っているかというと、延暦寺に連れて行かれた梵鐘が、三井寺に帰りたがって、まともな音を出さなかったので、怒った弁慶が山下まで投げ下ろしたとか・・・。

ちなみに「弁慶の引き摺り鐘まんじゅう」という鐘型の饅頭(名前は違いますが、和歌山の道成寺でも売っていましたね。)が、境内の茶屋や付近の土産物屋で売っていて、甘党の私は来る度に買っています。

霊鐘堂の隣は一切経蔵という、その名のとおり一切経を納めた建物で、回転式の経庫が見た目に面白いです。これを回すとお経を読んだのと同様の功徳があるとかないとか。

南に向かうと唐院と呼ばれるエリアで、三重塔の他に円珍を祀る大師堂、伝法潅頂という儀式を行う潅頂堂があり、大師堂には2体の円珍像と1体の不動明王像が並んでいて、円珍像2体は国宝指定です。

3体の像の中央に祀られている円珍像は「中尊大師」と呼ばれ、上記のように国宝に指定されていて、普段は非公開ですが、毎年10月29日の円珍の命日の法要の後、一般公開されます。

大津地方裁判所での修習生時代、10月29日の昼休みにタクシーを使って、拝みに来たことも、今となっては、よい思い出です。

もう1体の円珍像(国宝)は円珍の遺骨が納められており、「お骨大師」と呼ばれています。この像と不動明王立像(重要文化財。三井寺にあり、「黄不動」の名で有名な国宝の画像を立体化したものです。)は残念ながら、原則として公開の機会はありません(それをいうと中尊大師も原則非公開なのですが、年に1回、定期的に見る機会があるというだけ、ましなのですね)。

三井寺にはこの他にも数多くの質の高い寺宝がありますが、宗教的理由に加え、三井寺に自前の宝物館が無いこともあり、残念ながら、それらの寺宝を見る機会は限られています(同様のことは、同じ大津市内の石山寺にもいえますね。)。

そういう意味では、平成20年から21年に大阪、福岡、東京を回った三井寺展は千載一遇・・・というのはさすがに大げさですが、10年から15年に一度くらいの好機でした。

この展覧会の最大の売りは、国宝に指定された4体の秘仏(「中尊大師」、「お骨大師」、「黄不動(画像)」、「新羅善神像」)の特別公開で、うち中尊大師像を除く3体は十数年ぶりの公開です(他に上記の大師堂の不動明王像等も展示されました)。

展覧会の開催が発表されるや、インターネット上の仏像関係の掲示板が狂騒状態に陥ったのも無理からぬことでした。十数年から20年くらいの周期でこの手の特別展が行われているようなので(保証はできかねますが)見損なった方は気長にお待ちください。

唐院を出て、高台にある観音堂に向かうと途中に勧学院という塔頭があります(三井寺にはこの他にも光浄院等、幾つかの塔頭が存在します。)。

三井寺は桜の季節には夜間に境内を無料開放することがあり、私も2回ほど出かけましたが、その際、この勧学院の書院(国宝)が特別公開されていました(こっちは有料でした)。

昼間公開している寺院が、期間を限定して、夜間も特別に公開するというケースは京都市の清水寺、青蓮院等、けっこうありますが、昼間でさえ基本的に公開していない寺院が、夜間だけ特別公開するというのはかなり珍しいケースでしょう(もっとも、普段でも3名以上で予約すれば、拝観可能なようですが)。

日本庭園の中に鮮やかな絵の書かれた紙製の灯篭(中身は電灯です。火事が怖いですので。)がなかなかに幻想的だったと憶えています。

境内の南西のはずれの高台に観音堂と幾つかの建物があり、観音堂は西国三十三番観音霊場の1つです。

西国三十三番観音霊場はその名のとおり観音菩薩様を祀る霊場33箇所を集めたものですが、中にはこの三井寺観音堂のように本堂(金堂)以外の脇役(?)のお堂が入っていることもあります(他に興福寺南円堂、醍醐寺准胝堂)。

この観音堂のある高台からは昔は琵琶湖がよく見えたようですが、近年、大津港の周辺に大型ビルが建てられ、景観が損なわれました。

もっとも、そうまでして建てたビルがテナントの撤退等で上手くいっていないようで、お役所主導の開発の失敗例になっています。

やはり、「この事業が上手くいかなかったら、会社がつぶれるかもしれない。潰れなくても、俺は会社に居辛くなるかもしれない。」という緊張感がないと事業とは上手くいかないのでしょうか。

余談はさておき、三井寺の境内は狭すぎず、広すぎず、通常であれば、のんびり歩いても1時間半あれば、一周できるはずです(少し離れたところに国宝の新羅善神堂がありますが)。

拝観が終わったら、ついでに琵琶湖を観光するのはどうでしょうか。

ミシガンやビアンカといった観光船に乗り込む手もありますが(私は長いこと色物扱いしていましたが、友人たちとガヤガヤと話しながら乗る分には案外楽しいです)、湖風に吹かれながら、湖畔の散策路(大津港の東側は特によく整備されています)を歩くのもよい感じです。      (終)

2016年11月25日

◆懐かしい園城寺(通称三井寺) 前編

石田 岳彦



私は現在、大阪で弁護士をやっていますが、司法修習生のときは大津で1年4月にわたり実務修習を受けていました(司法修習が2年間の時代の話です。今は修習期間が1年ですので色々とスケジュールがタイトのようですね。)。

その間、三井寺(通称です)こと長等山園城寺(ながらさん・おんじょうじ)には何回も行く機会があり、弁護士になってからも2年に1回くらいの頻度で訪れています。

三井寺は、壬申の乱で破れ自殺した大友皇子の霊を慰めるためにその息子の大友与多王が建立したという寺院・・・が、すっかり荒れ果てていたのを、平安時代前期に円珍が再興したというお寺です。

素直に円珍が建てた時点をスタートにすればよいような気がしますが。大友与多王なんて、ほとんど誰も知りません。

ちなみに、私が大津地方裁判所で実務修習していた際に聞いた話では、以前、三井寺が民事訴訟の当事者になった際、境内の土地所有権を主張するにあたり、壬申の乱後の大友与多王のくだりから説き起こしたそうです。

民事訴訟法の原則上、極めて正しい態度なのですが、スケールが大き過ぎるせいか、思わず笑えてきます。

智証大師・円珍は、唐に留学し、天台宗の座主(トップ)になった僧侶です。後年、延暦寺内の派閥争いが激化して、円珍の流れを汲む僧侶たちが山を降り、三井寺に移って天台宗寺門派を築くにあたり、その祖として仰がれるようになりました。

この派閥争いは、端的にいうと、日本天台宗の開祖である最澄亡き後の延暦寺の座主を巡る派閥争いで、一般的には円仁(第3代座主。円珍に先立ち唐に留学。慈惠大師。)派と円珍派との争いと言われることが多いようです。

もっとも、派閥抗争自体は最澄の死後早々、円仁や円珍が座主になる以前に既に生じており、しかも、円仁、円珍とも派閥抗争には批判的だったそうですので、「円仁派」、「円珍派」という呼称は両大師にとって極めて心外なものに違いありません。なお、円仁派を山門派、円珍派を寺門派と呼ぶこともあります。

その後、三井寺は比叡山延暦寺から何度も焼き討ちにあっていて、安土桃山時代には何故か(いまだに理由がよく分からないそうです)豊臣秀吉の逆鱗に触れ、いったん廃寺になるという苦難の歴史をたどっています。

これまた、理由がよく分かっていませんが、死の直前の秀吉から再興許可をもらい、現在の建物の大半は、その後の安土桃山時代末期から江戸時代にかけて建てられたものです(一部、伏見城や御所から移築したものもあるとのこと)。

京阪電鉄の石山坂本線(大津市内の石山と坂本を結ぶ線という意味です。どうでもよい話ですが、しばしば、観光客から「いしやまざか・ほんせん」と誤読されます。)に三井寺駅がありますが、三井寺までは駅から10分近く歩きます。途中の道が平らなのが救いです。

同じ石山坂本線の石山寺駅からも石山寺へは10分以上歩きますので、京阪電鉄はネーミングを反省して欲しいところです。「三井寺口」、「石山寺口」あたりが相当でしょう。

JR大津駅からは更に離れているので、足の弱い方はJR大津駅又は京阪の浜大津駅(三井寺駅は小さな駅ですので、タクシー乗り場はありません。)からタクシーを使うことをお勧めします。

三井寺の境内へは幾つか入り口がありますが、私はできるだけ、正門である大門(重要文化財)から入ることにしています(駐車場、土産物屋もこちらにあります)。

別の寺にあった室町時代に建てられた楼門を家康が寄進したものだそうで、大寺にふさわしい立派なものです。

大門をくぐり、拝観料を払って、まっすぐに進んで階段を登ると金堂(国宝)と鐘楼が見えてきます。

大門が東向きなのに対し、金堂は南側を向いているため、大門から歩いてくると、金堂は横向きになっていて、正面の入り口へは左側に回りこむ必要があります。

金堂は南向きに建てるのが普通なので、本来、正門も南向きに立てるべきなのですが、三井寺の場合、南側が丘陵になっているため、東側(琵琶湖側)に正門(大門)を建てることになったのでしょう。

金堂の中は、本尊の祀られている内陣の四方を外陣が取り囲む構造となっており、参拝者は外陣に並ぶ様々な仏像を拝みながら一周することになります。個人的には円空の彫った数体の善女竜王像がお気に入りです。

なお、内陣にいらっしゃるご本尊は弥勒菩薩ですが、秘仏になっていて、見ることができません。こちらは絶対秘仏といわれ、一般人が見る機会はありません。

善光寺(長野市)のご本尊のようなインパクトのある縁起も無く、文化財にも指定されていないので(文化庁のお役人も見せてもらえないですので)、失礼ながら、参拝客にとって存在感が限りなく薄いです。三井寺のご本尊がどの仏様かと聞かれて、参拝経験のある人でもおそらく9割は答えられないでしょう。

金堂を出て、鐘楼へと向かいます。いわゆる「近江八景」の「三井の晩鐘」です。「近江八景」は、その名のとおり近江国(現在の滋賀県)の代表的な風景を8つ集めたもので、中国湖南省の瀟湘八景に因んで江戸初期のころに、とある貴族に選ばれたとか。

他の7つは「石山の秋月」、「瀬田の夕照」、「矢橋の帰帆」、「粟津の晴嵐」、「比良の暮雪」、「唐松の夜雨」、「堅田の落雁」とされています。滋賀県に住んでいたころはしばしば耳にしました。

もっとも、瀟湘八景に合わせて8つ揃えたものですし、現在では都市化による環境の変化もありますので(「比良の暮雪」以外は現在、それなりに市街地です。)、現地に行ってがっかりという場所も少なくありません。

「三井の晩鐘」はまだ往時の姿をよく残している方です。

本堂の正面に向かって左側に回りこむと小さなお堂を見つけることができます。閼伽井屋(あかいや)といって、井戸というより、泉を囲むお堂です。この湧き水が3代の天皇の産湯に使われたのが「三井寺(御井寺)」の名前の由来になったとのこと。静かにしていると、ゴポゴポという水の湧く音も聞こえます。

閼伽井屋の正面には龍の彫刻が取り付けられていて、江戸初期の名工・左甚五郎の作といわれているそうです(この手の話は言った者の勝ちです。)。日光東照宮の眠り猫を作った人ですね。

竜が度々、琵琶湖に遊びに行くので、眼に釘を打って、動けなくしたとのこと。確かに釘が打たれています。 (続く)

2016年11月09日

◆私の「古寺旧跡巡礼」 伝香寺(奈良市)

石田 岳彦



特別公開リストが奈良県から発表されて以来、どこの寺に何時行くかの予定を立てていますが、今回はそのうち、奈良市内にある伝香寺のお話です。

近鉄奈良駅から南西に8分ほど歩いたところに伝香寺というお寺があります。このお寺は本堂と地蔵菩薩立像が重要文化財に指定されていますが、奈良市内では特に目立つ存在でもなく、また、境内で幼稚園を経営しているという防犯上の理由もあってか、普段は、立ち入り禁止です。


戦国時代末から安土桃山時代にかけて、織田信長、豊臣秀吉に仕えて活躍した筒井順慶という武将がいます。この伝香寺は、順慶が若くして病死した後、その母が息子の菩提を弔うために建立したお寺です。

筒井順慶といえば、一般には本能寺の変の後、山崎の合戦の際の「洞ヶ峠の日和見」の話で有名になっています。

これは、山崎の合戦を前に豊臣秀吉と明智光秀からそれぞれ味方につくよう誘われた順慶が、どちらに味方をするか決心がつかず、山崎の地からほど近い洞ヶ峠(京都府八幡市と大阪府枚方市との境界にある峠)で日和見を決め込んでいたというものです。

しかし、近年の研究では、実際に洞ヶ峠に向かい、順慶に出兵を促したのは光秀であり、順慶は一部の兵を光秀側に送ろうとしたものの、途中で止め、自身は大和から動いていないという説が有力になっています・・・と拝観券と一緒に受け付けでもらったパンフレットには載っていました。

拝観券売り場の横に積まれていた「洞ヶ峠の真実」という本にも多分、同じような内容が載っているのでしょう。

もっとも、光秀と親しかった順慶としては、光秀を見殺しにすることにかなり忸怩たるものがあったようで、結局、秀吉と密かに通じつつも、合戦には参加せず(秀吉としても順慶が光秀側に参戦しないことでよしとしたようです。)、中途半端な態度をとったのは事実です。

とはいえ、光秀の姻族(光秀の娘、いわゆるガラシャ夫人は細川忠興の正妻でした。)でありながら、信長の喪に服して出家するとの理由で、あっさりと局外中立の姿勢をとった細川藤孝、忠興の親子が世間から特に非難を浴びているわけでもないのに、順慶が洞ヶ峠の件で揶揄されるのは確かに不公平な話で、筒井一族が文句をいいたくなるのはよく分かります。

受付のある境内北東角の門をくぐると(というか、くぐる前から)本堂は目の前です。境内が狭いですね。
南側の入り口に回りこむ途中、参道の右側に見事な椿の木があります。この椿は「武士の椿(もののふのつばき)」と呼ばれ、大和三名椿に数えられているそうです(他の2つは白毫寺五色椿、東大寺開山堂糊こぼし椿とのこと。機会があったら見てみたいです。)。
一般に椿は花が散らず、そのままボトリと落ちるため、斬首を連想させ、武士からは不吉として忌まれていますが、この椿は花びらが桜のように潔く散るため、武士たちからも好まれていたとのこと。突然変異でしょうか。

参道の左側には筒井順慶の像を祀っている最近になって建てられたお堂があります。筒井一族が浄財を出し合って建てたとのことです。

正面に回り、本堂へ。

本堂奥に釈迦如来が鎮座していますが、その前に立っている地蔵菩薩立像の存在感の前に霞んでしまっています。

この重要文化財の地蔵菩薩立像は裸形であり、その上に布製の僧衣をまとっているのが特色で、くすんだ木肌の仏像と色鮮やかな布製の僧衣とのギャップがインパクト大ですね。

鎌倉時代の作で、もともとは別の寺院にあったのが、廃仏毀釈の際に伝香寺に持ち込まれたそうです。


奈良に出掛けましょう!

2016年10月30日

◆「古寺旧跡巡礼」当麻寺 A

石田 岳彦



当麻寺は、境内の南側に2つの三重塔があり、その北側に金堂、更にその北側に講堂があるという、薬師寺と同じ伽藍の配置ですが、スペースが足りなかったのか、敷地の南側は丘になっていて、2つの塔は斜面を削り取って造成された高台に建てられています。

しかも、金堂と講堂の西側に本堂が東向きに建っていて(講堂と金堂は南向き)、大門(正門)が南ではなく、東側にあり(金堂ではなく、本堂に合わせているようです。)、更に金堂と東西の塔の間に2つのお坊が割り込み、西塔と東塔の間にもやはりお坊が建てられるなど、平地に整然と建物が並んでいる薬師寺に比べて、かなりのカオス状態です。

そこに見えている2つの三重塔に境内案内図で通路を確認しながらでないと辿り着けないというのですから、何時か、何処かで、何かを間違えてしまったに違いありません。

 金堂とはその寺のご本尊となる仏像がまつられているお堂で、本堂とはその寺の中心的なお堂をいいます。講堂は仏法についての講話を聴くための場所となるお堂です。

 古代からの寺院の場合、法隆寺、東大寺、興福寺、薬師寺、唐招提寺等のように、金堂はあっても、本堂とはされていない(つまり、その寺院に「本堂」と呼ばれる建物がない)ことが多いようです。仏舎利をまつった塔が伽藍の中心という考えが強かったためでしょうか。

 他方、比較的新しい時代のお寺では、金堂=本堂で、単に「本堂」と呼ぶことが多く、いずれにしても、金堂とは別に本堂があるという当麻寺のようなお寺は珍しいです(ざっと調べた範囲では、有名な寺院だと、他に室生寺くらいです)。

 もともと当麻寺は、聖徳太子の異母弟の麻呂古王(日本書紀によると当麻氏の祖とされています)が開いた寺を、当麻国見(たいまのくにみ)が現在の地に移したとされる(あくまでも寺伝で、実際のところはよく分かっていないようです)、金堂を中心とするお寺でした。

 しかし、後世に中将姫伝説が有名になってしまい、もとから存在した金堂とは別に、中将姫お手製の曼荼羅をまつったお堂(曼荼羅堂)が「本堂」に昇格してしまったため、「金堂」と「本堂」が並存するという珍しい状態になったようです。

本堂にある受付にいって、本堂、金堂、講堂の拝観共通券を買います。国宝の本堂は瓦葺で、寄棟造(屋根の形状で、棟から4方向に傾斜する屋根面を持つもの)、平入り(床が長方形の建物で、広い辺の側に入り口があることをいいます)と、仏教寺院の本堂としては、オーソドックスな形をしています。

上記のように中将姫の織った曼荼羅をまつるお堂で、奈良時代末から平安時代初期に建てられたものが、平安時代末期に改造されて現在の姿になったということです。

 本堂の中央に立派な須弥檀(しゅみだん)があり、その上にやたらとでかい厨子が載っています。奈良時代末から平安時代の初期に作られたものといわれているそうです。

 厨子の中に飾られている曼荼羅(約4m×4mというでかさです。厨子がでかくなるのも当然です)は、まさしく中将姫により織られた伝説の曼荼羅・・・ではなく、残念ながら、室町時代に作られた複本ですが、それでもかなりの古さを感じさせます。というか、相当に傷んでいます。

ちなみにオリジナルは更に傷みが激しいらしく、原則として非公開になっていて、私もいまだに実物にお目にかかったことがありません。オリジナルの写真を見ましたが、思わず「傷み」を「悼み」と誤植したくなるくらい、相当に傷んでいます。

 阿弥陀様が中央に座っていて、その周囲を多くの菩薩が囲み、後方に描かれた横長の建物は平等院鳳凰堂のモデルになったということですが、退色に加え、曼荼羅の上に金網が張られているので、細かな部分までは分かりません。

ちなみに厨子の蓋(現在残っているのは鎌倉時代に作られた後補のものですが)は取り外されていて、時々、奈良国立博物館に展示されています。黒漆の地に金蒔絵というシンプルながら豪華な一品です。

 厨子の右側には中将姫の念持仏と言われる十一面観音像がまつられており、弘仁時代(平安前期。810年−823年)の作といわれています。

「奈良時代に亡くなったお姫様が、何故、平安時代に作られた観音様を拝めたのだろう?」という素朴な疑問は忘れて、素直な心でお参りしましょう。歴史考証というものは、少なからずロマンと対立するものす。   <弁護士>               

2016年10月29日

◆「古寺旧跡巡礼」当麻寺 @

石田 岳彦



<私は大阪で弁護士をしています。大学生時代からの趣味で、社寺、名勝、旧跡から、明治以降のいわゆる近大遺産まで、九州から東北まで(そのうち北海道にも行きたいです)、「歴史的なもの」を見て回っています。今回「私の古寺旧跡巡礼」と題して綴ってみました>。
 

さて本題―。奈良県葛城市(旧当麻町)にある「当麻寺」というのは、不思議なお寺です。

国宝の仏像、曼荼羅、厨子、本堂、2基の三重塔、梵鐘、重要文化財多数を持っているという文化財の宝庫で、「古寺巡礼」、「日本の寺院100選」といった書籍、雑誌の特集があれば、必ず名前のあがるという古寺巡りや古文化財のファンの間では常識というか、知らない人はもぐり扱いされるという有名なお寺ですが、世間一般の知名度は高くないようです。

おそらく、奈良、飛鳥、斑鳩という奈良県内のメジャーな観光地から離れたところにあるので、観光客が少ないことが原因でしょう。観光ガイドの扱いも微々たるものです。

もし、奈良市内にあれば、東大寺や興福寺は無理でも、薬師寺や唐招提寺なみにはメジャーになれたであろうという、ある意味とても不運なお寺といえます。

もっとも、奈良市内にあったならば、上記の文化財の少なからずが、戦火に巻き込まれて灰になった可能性もありますが。

ところで、当麻寺の最大の売り物(?)は、中将姫伝説です。

中将姫は、奈良時代の貴族のお姫様で、継母に度々、命を狙われるという苦難を乗り越え、阿弥陀如来の導きによって極楽浄土の光景を描いた曼荼羅を織り上げ、極楽浄土へ旅立ったとされる伝説上の人物です。

これが、「本当は怖いグリム童話」なら、シンデレラのように、継母の目を鳩がほじくったり、或いは、白雪姫のように、継母に焼けた鉄の靴を履かせたりといった感じのハッピーエンドになるところですが、そういう物騒な展開はありません。仏教説話ですから。

継母がその後、地獄に落ちて、閻魔様に舌を抜かれるという因果応報的な後日談はあるかも知れません。仏教説話ですから。

近鉄南大阪線の当麻寺駅を出て、まっすぐ西を目指します。駅から出発してまも無く、右側路傍に当麻蹴速(たいまのけはや)の墓、とされる五輪塔があります。

 この蹴速は、垂仁天皇の時代の人で、天下最強を宣言して挑戦者を募っていたところ、垂仁天皇の命で、出雲からやってきた野見宿禰(のみのすくね)と相撲をとることになり、宿禰に蹴り殺された(当時の相撲は今よりもかなりバイオレンスなルールだったようですね。)という、色々な意味で「痛い」人です。

もっとも、垂仁天皇(日本書紀等の記述によると紀元前1世紀から1世紀にかけて在位。卑弥呼よりも前です。)自体、実在が危ぶまれている状況ですので、この話も歴史というより、伝説の部類です。

この蹴速と宿禰の対戦が、わが国の相撲の始まりとされているそうです。すぐ近くに相撲館という、相撲資料館まで建てられています。中将姫と当麻蹴速とおぼしき男女のかわいらしいキャラクターのイラストがポスターに載っていました。今、はやりのユルキャラというやつでしょうか。余計なお世話だと思いますが、かなり幸の薄そうなカップルです。

駅から歩いて15分ほどで大門に着きます。境内の東端に建っている楼門で、古寺にふさわしい風格です。大門を入ってすぐ、正面には鐘楼があります。国宝の梵鐘を「吊ってある」お堂です。

「吊ってある」というのは、一見、梵鐘が吊られているように見えますが、実は下に台が設けられていて、梵鐘はその上に置かれているからです。以前にお寺の方から聞いた話では、十数年前まで当麻寺には鐘楼は存在せず、梵鐘もいずれかのお堂に置かれていたそうです。

その後、鐘楼が再興され、それに合わせて梵鐘を鐘楼に吊るすことになったものの、いざ、吊るそうという段になって、龍頭(梵鐘を吊るすための上部にある輪状の突起)にひびがあるのが発見され、吊るすことができなくなってしまいました。

にもかかわらず、「せっかく再建したのだから鐘楼に梵鐘を飾りたい」ということで、こうなったようです。観光ガイドにも載っていない、思いっきりどうでもよいトリビアといえます。(つづく)

         <福岡県福岡市出身、大阪弁護士会・弁護士>

2016年10月09日

◆名所旧跡だより犬山城・愛知県犬山市

石田 岳彦



「現存12天守」なる言葉をご存知でしょうか。
 
昭和以降、鉄筋コンクリートで再現された天守閣のレプリカ(?)は全国各地に数あれど(天守閣が建てられた歴史的事実がない城跡にまで建てるのはさすがにいかがなものかと思います。)、江戸時代以前の本物の天守閣が残っている城は全国に12しかありません。

これを総称して「現存12天守」と呼ぶことがあります。

12の城は、弘前城(青森県・弘前市)、松本城(長野県松本市)、犬山城(愛知県犬山市)、丸岡城(福井県丸岡町)、彦根城(滋賀県彦根市)、姫路城(兵庫県姫路市)、備中松山城(岡山県高梁市)、松江城(島根県松江市)、丸亀城(愛媛県丸亀市)、松山城(愛媛県松山市)、宇和島城(愛媛県宇和島市)、高知城(高知県高知市)です。

このうち、松本城、犬山城、彦根城、姫路城の4城の天守閣が国宝に指定され、残り8城では重要文化財に指定されています。

今回はその国宝4天守の1つ、犬山城のお話です。

愛知県犬山市の木曽川の河畔の丘の上に聳え立つ犬山城は、その立地から、「白帝城」(オリジナル白帝城は長江流域の丘上にある城で、三国志の主人公である劉備玄徳が諸葛孔明に後事を託して亡くなった城として有名です)とも呼ばれているそうです。

荻生徂徠(江戸時代、徳川綱吉の時代の学者。赤穂浪士の処分について切腹にすべきとの意見を述べ、採用されたことで有名ですね。)の命名ということなので、年季が入っています。

なお、横を流れている木曽川がライン川と似ているとのことで、木曽川の川下りは「日本ライン下り」という名称で興業されています。つまり、日本のライン川の河畔に、日本の白帝城が建っているということですね。少しは統一を図るべきだと思いますが。

犬山の地は尾張と美濃の国境にあるという戦略上の要衝であり、古くから城が築かれていたようですが、支配者もまた頻繁に変わり、最終的には、江戸時代に入って、御三家の筆頭である尾張徳川家の付家老成瀬家が城主になり、明治に至りました。

付家老というのは、御三家等に対し、将軍の直々の命により付けられた家老で、幕府からのお目付け役的な側面もあり、藩内での立場はかなり複雑だったようです。

明治以降も長く成瀬家が個人で所有していて、「個人所有のお城」ということでも有名でしたが、近年になり、さすがに維持が困難になったようで(相続税が恐ろしいことになりそうです)、現在、城は財団法人の所有となっています。

天守閣が建てられた時期については幾つか説があるようですが、増築によって今の形になったのは1620年ころということでした。
 
名古屋鉄道・犬山遊園駅を出て、正面に犬山城を見ながら、木曽川沿いの道を行きます。後述する有楽苑の横を通り、城の建つ丘に登ります。丘の下方は神社の境内になっていて、参道の階段を登って上へと進むと間も無く天守閣です。

犬山城にとって惜しむべきは、廃藩置県の際、多くの建物が破棄されてしまい、また、堀も大部分が埋められていることです。

城跡の歩き方といえば、堀に沿って歩き、橋を渡って城内に入って、幾つもの門をくぐり、所々で折れ曲がる道を登るという過程を経て、徐々に気分が盛り上がってきたところに本丸の天守に到着というのが理想ですが、犬山城の場合、近年になって天守付近の門や櫓の復元が行われているようですが、駅から天守閣に到達するまでの間には、城らしさを味あわせてくれるお堀、石垣、土塁といった構造物は残っていません。

お堀や石垣どころか、主要な建造物の大半が健在の姫路城は勿論、天守閣の他に幾つかの櫓と2重の堀が残っている彦根城に比べると寂しさは否めません。

それはさておき、入り口で靴を脱いで天守閣に登ります。犬山城に限らず、初めて「本物」の天守閣に登った方(なお、現存12天守は修復工事中の場合を除き、基本的に常時公開しています。)は、少なからず、愕然とするかと思いますが、天守閣の中は基本的に空っぽで、飾り気の欠片もありません。

犬山城の場合、一応、内部の壁も漆喰で塗られていて、畳敷きの部屋も一部ありますが(現存12天守の中には全層が板壁・板床というところもありました。)、豪華な装飾画などというものは皆無です。

織田信長の安土城や豊臣秀吉の大阪城の天守閣は、城主の住居として使われていて、狩野永徳に襖絵を描かせる等、内装にもかなり凝っていたようですが、安土桃山時代末期から江戸時代初期に立てられた城の天守(現存12天守はこの時期の建造です。)は、城主の権威を示すシンボルではあるものの、実際の用途という面では、主に倉庫として使われていたといわれています(城主は城内の御殿に住んでいました。

二条城の二の丸御殿を思い浮かべていただくと分かり易いかと。確かに4、5階建ての天守閣を毎日上り下りしながら暮らすのは大変でしょうからね。)。

さすがに「空っぽの倉庫」状態では物足りないので、天守の中に、鎧兜、刀、城の柱組みの模型等の資料を飾ったケースを並べたり、城の歴史や日本各地の城に関するパネルを設置したりといった努力もなされていますが、外観の華やかさに比して、味気ない内部です。

壁際に設けられている石落し等が、天守が(実際の運用は兎も角として)単なる倉庫ではなく、あくまで軍事施設であることを示しています。


最上階からの眺めは、月並みですが絶景です。平野の中の小高い丘の上、すぐ隣が木曽川というロケーションの勝利ですね。今のように高層建造物の少なかった昔において、高楼から遠方の眺めを楽しむというのは権力者の特権だったのでしょう。


さて、犬山城の麓には有楽園という庭園があります。名鉄犬山ホテルの施設の1つという扱いのようですが、一般にも公開されています(有料)。この庭園は、織田信長の弟である織田有楽が建てた茶室如庵(国宝)を中心に設計された日本庭園です。  


織田有楽は、本能寺の変で二条城に篭城した際には信忠(信長の長男で跡継ぎ)に切腹を勧めつつ、自分はちゃっかり脱出したり、大阪の陣の際も、淀殿の叔父(淀殿の母は、信長の妹のお市の方です)として豊臣方に世話になっていながら、直前になって城を脱出し、徳川方に転がり込んだりと(淀殿の妹のお江の方が2代将軍秀忠の正室でしたので、こういう芸当も可能でした。)、波乱に富んではいるものの、美しいとは言い難い人生を歩んだ人物ですが、茶人としては高名です。


国宝に指定されている茶室は、千利休の建てた待庵(京都府大山崎町の妙喜庵という寺院の中にあります)、大徳寺龍光院の密庵(京都市)の他はこの如庵だけなので極めて貴重な茶室といえます。

この茶室は、当初、京都にあったのを三井財閥に買い取られて、神奈川県大磯に移され(写真で見ましたが、大型トラックに茶室が丸ごと載せられて移動する姿は異様で、思わず、笑えてきました。)、更に名鉄に買われて、現在地に移築されました。

年に数回程度、特別公開で茶室の中にも入れますので、興味のある方は有楽苑のホームページを小まめにチェックしてください。


犬山には、他にもかの明治村があり(汽車、市電、乗り合い馬車が走っていて乗ることができたり、明治時代のレシピの洋食屋や牛鍋屋で食事ができたりと、単に古い建造物を集めた資料館ではなく、明治時代を体験できるテーマパークという性格になってきました。)、お猿専門の動物園である日本モンキーセンターがあります(ニッチな商売です)。

1泊2日くらいでゆっくりと見てみたい町です(ゆっくり見て回るなら、明治村で丸1日、犬山城と有楽苑で半日というところでしょうか)。終 (再掲)
                             (弁護士)

2016年09月14日

◆名所旧跡だより 太宰府天満宮(福岡県)

石田 岳彦



お正月といえば初詣です。私の生まれた福岡市とその周辺には筥崎宮、香椎宮、宗像大社、住吉神社等、全国的に見て(知名度は兎も角)格式の高い神社が揃っていますが、初詣客の数では、例年、太宰府天満宮が最多となっています

言うまでもなく、太宰府天満宮は学問の神様、受験の神様として全国的に有名で、私も高校受験、大学受験とお世話になりました(重ねて私事で大変恐縮ですが、実は私の結婚式もこの神社です。)。

平安時代前期の学者、政治家である菅原道真公は、藤原時平との政争に破れて大宰府(ちなみにお役所として「だざいふ」という場合には「太宰府」ではなく「大宰府」と書くそうです。あと、本来「大宰府」とは複数の国を管轄する役所を指す普通名詞で、大宝律令以前には吉備国等にも大宰府があったとか。)に左遷(実質的には流罪)され、その地でさびしく世を去りました。

道真の学問上の弟子であり、道真のお供として都から大宰府に来て道真の世話をしていた味酒安行(うまさけ・やすゆき)は、道真の遺骸を牛車に乗せて、近くの安楽寺に運びましたが、寺の門前で牛が動かなくなったため、その地に道真を葬り、廟を建てたのが太宰府天満宮の起こりといわれています(明治以前は「安楽寺天満宮」と呼ばれていたそうです。)。

その後、時平が急死し、道真の怨霊の仕業とされる天変地異が立て続けに生じたこともあり、時平の口車に乗って道真を左遷した醍醐天皇は恐怖にかられ、道真の霊に詫びを入れるべく、大臣を大宰府に派遣して本格的に社殿を造営しました(その甲斐もなく、結局、崇り殺されました。)。
 
ところで、天神様の総本社といえば、太宰府天満宮と並んで大阪の北野天満宮も有名ですが、こちらは平安京のとある巫女さんが神懸りになって、北野の地に道真を祀る神社を建てるよう託宣したのを契機として建立されています。

従って、太宰府天満宮と北野天満宮はどちらかが元で、どちらかが末というものではなく、祭神は同一ですが、それぞれ別個に成立した神社です。

もっとも、建てられたのは太宰府天満宮の方が早いです。

太宰府天満宮に参拝するのであれば、福岡市の中心である天神から西鉄大牟田線に乗り、二日市駅で太宰府線に乗り換えるのが便利でしょう。終点の太宰府駅の改札をくぐると、多くの参拝客で賑わう太宰府天満宮の門前町です。

参道沿いには、各種の土産店が並んでいますが、名物の「梅が枝餅(うめがえもち)」を店頭で焼いている店が目立ちます。

梅が枝餅は、餡子を薄い餅の生地で包み、梅の花の刻印の入った焼き型で焼いた焼餅で、焼き立てのものは、表面がパリッとしていて、中はヤワヤワでモチモチしていて美味です。個人的には、福岡に帰省した際に博多ラーメンと並んで食べたい懐かしい味ですね。

梅が枝餅の名の由来については、左遷された道真の境遇に同情した老婆が、餅を差し入れて慰めるようになり、道真の死後、その墓前に梅の枝に刺した餅を供えたという美しくも悲しい伝説が残されています。

鳥居をくぐり、先に進むと心字池という大きな池があり、美しいアーチを描く太鼓橋がかかっていますが、聞くところによると、カップルで太宰府天満宮に参拝に来た際、女性が先にこの橋を渡ると、間も無くそのカップルは破局を迎えるというローカルな都市伝説があるとか。

左右に回廊をめぐらした楼門をくぐると本殿(重要文化財)が見えてきます。

この本殿は、豊臣政権の下で筑前、筑後等を治めていた小早川隆景(毛利元就の三男。毛利家内で親豊臣政策を主導したこともあって秀吉から優遇されました。)により建てられました。なお、居城は現在の福岡市東区にあった名島城です。ちなみに天下分け目の関ヶ原の戦で、勝敗を決する裏切りを行った小早川秀秋(隆景の養子)は、当時、名島城主でした。

唐破風付きの桧皮葺屋根の両流造(通常の流造は前側の屋根を延ばして庇にしたものですが、両流造では後側にも庇が付きます)で、各種の彫刻で飾られ、安土桃山時代らしく華やかな雰囲気です。


太宰府に流される道真が都を離れる際、自邸の庭の梅の木に「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ(一説には「春を忘るな」)」と詠んだのは有名ですが、この梅の木が都から道真を慕って飛んできたというのが、これまた有名な飛び梅伝説です。味酒安行といい、梅が枝餅の老婆といい、道真の人徳を偲ばせる伝説ですね。

お参りの後、参道を引き返し、心字池の手前で左側に逸れると、細長い巨大な建物が境内から丘の上へと伸びているのが見えてきます。九州国立博物館に続くエスカレーターとトンネル(動く歩道)です。

九州国立博物館は太宰府天満宮のすぐ近くというより、境内の中にあります。

九州に国立博物館(当初の計画では「鎮西博物館」と仮称されていたようですが)を作る計画は岡倉天心が提唱したものですが、19世紀末の太宰府天満宮の宮司さんが計画を具体化するべく募金活動を開始し、その後、境内の一部を天満宮が建設予定地として寄付した結果が、九州国立博物館の現在の立地というわけです。

もっとも、建設資金の募金の開始が1893年、博物館の開館が2005年ですから、文字通り100年がかりの大事業ですね。

博物館には、宮地嶽古墳(福岡県福津市)から発掘された馬具類、平原遺跡(福岡県前原市)から発見された国内最大の銅鏡等、九州にゆかりの国宝等が展示されています。
終 再掲

2016年09月01日

◆私の古寺旧跡巡礼」 当麻寺A

石田 岳彦



当麻寺は、境内の南側に2つの三重塔があり、その北側に金堂、更にその北側に講堂があるという、薬師寺と同じ伽藍の配置ですが、スペースが足りなかったのか、敷地の南側は丘になっていて、2つの塔は斜面を削り取って造成された高台に建てられています。

しかも、金堂と講堂の西側に本堂が東向きに建っていて(講堂と金堂は南向き)、大門(正門)が南ではなく、東側にあり(金堂ではなく、本堂に合わせているようです。)、更に金堂と東西の塔の間に2つのお坊が割り込み、西塔と東塔の間にもやはりお坊が建てられるなど、平地に整然と建物が並んでいる薬師寺に比べて、かなりのカオス状態です。

そこに見えている2つの三重塔に境内案内図で通路を確認しながらでないと辿り着けないというのですから、何時か、何処かで、何かを間違えてしまったに違いありません。

 金堂とはその寺のご本尊となる仏像がまつられているお堂で、本堂とはその寺の中心的なお堂をいいます。講堂は仏法についての講話を聴くための場所となるお堂です。

 古代からの寺院の場合、法隆寺、東大寺、興福寺、薬師寺、唐招提寺等のように、金堂はあっても、本堂とはされていない(つまり、その寺院に「本堂」と呼ばれる建物がない)ことが多いようです。仏舎利をまつった塔が伽藍の中心という考えが強かったためでしょうか。

 他方、比較的新しい時代のお寺では、金堂=本堂で、単に「本堂」と呼ぶことが多く、いずれにしても、金堂とは別に本堂があるという当麻寺のようなお寺は珍しいです(ざっと調べた範囲では、有名な寺院だと、他に室生寺くらいです)。

 もともと当麻寺は、聖徳太子の異母弟の麻呂古王(日本書紀によると当麻氏の祖とされています)が開いた寺を、当麻国見(たいまのくにみ)が現在の地に移したとされる(あくまでも寺伝で、実際のところはよく分かっていないようです)、金堂を中心とするお寺でした。

 しかし、後世に中将姫伝説が有名になってしまい、もとから存在した金堂とは別に、中将姫お手製の曼荼羅をまつったお堂(曼荼羅堂)が「本堂」に昇格してしまったため、「金堂」と「本堂」が並存するという珍しい状態になったようです。

本堂にある受付にいって、本堂、金堂、講堂の拝観共通券を買います。国宝の本堂は瓦葺で、寄棟造(屋根の形状で、棟から4方向に傾斜する屋根面を持つもの)、平入り(床が長方形の建物で、広い辺の側に入り口があることをいいます)と、仏教寺院の本堂としては、オーソドックスな形をしています。

上記のように中将姫の織った曼荼羅をまつるお堂で、奈良時代末から平安時代初期に建てられたものが、平安時代末期に改造されて現在の姿になったということです。

 本堂の中央に立派な須弥檀(しゅみだん)があり、その上にやたらとでかい厨子が載っています。奈良時代末から平安時代の初期に作られたものといわれているそうです。

 厨子の中に飾られている曼荼羅(約4m×4mというでかさです。厨子がでかくなるのも当然です)は、まさしく中将姫により織られた伝説の曼荼羅・・・ではなく、残念ながら、室町時代に作られた複本ですが、それでもかなりの古さを感じさせます。というか、相当に傷んでいます。

ちなみにオリジナルは更に傷みが激しいらしく、原則として非公開になっていて、私もいまだに実物にお目にかかったことがありません。オリジナルの写真を見ましたが、思わず「傷み」を「悼み」と誤植したくなるくらい、相当に傷んでいます。

 阿弥陀様が中央に座っていて、その周囲を多くの菩薩が囲み、後方に描かれた横長の建物は平等院鳳凰堂のモデルになったということですが、退色に加え、曼荼羅の上に金網が張られているので、細かな部分までは分かりません。

ちなみに厨子の蓋(現在残っているのは鎌倉時代に作られた後補のものですが)は取り外されていて、時々、奈良国立博物館に展示されています。黒漆の地に金蒔絵というシンプルながら豪華な一品です。

 厨子の右側には中将姫の念持仏と言われる十一面観音像がまつられており、弘仁時代(平安前期。810年−823年)の作といわれています。

「奈良時代に亡くなったお姫様が、何故、平安時代に作られた観音様を拝めたのだろう?」という素朴な疑問は忘れて、素直な心でお参りしましょう。歴史考証というものは、少なからずロマンと対立するものです。   <弁護士>           

2016年08月31日

◆私の「古寺旧跡巡礼」当麻寺@

石田 岳彦



<私は大阪で弁護士をしています。大学生時代からの趣味で、社寺、名勝、旧跡から、明治以降のいわゆる近大遺産まで、九州から東北まで(そのうち北海道にも行きたいです)、「歴史的なもの」を見て回っています。今回「私の古寺旧跡巡礼」と題して綴ってみました>。
 
さて本題―。奈良県葛城市(旧当麻町)にある「当麻寺」というのは、不思議なお寺です。

国宝の仏像、曼荼羅、厨子、本堂、2基の三重塔、梵鐘、重要文化財多数を持っているという文化財の宝庫で、「古寺巡礼」、「日本の寺院100選」といった書籍、雑誌の特集があれば、必ず名前のあがるという古寺巡りや古文化財のファンの間では常識というか、知らない人はもぐり扱いされるという有名なお寺ですが、世間一般の知名度は高くないようです。

 おそらく、奈良、飛鳥、斑鳩という奈良県内のメジャーな観光地から離れたところにあるので、観光客が少ないことが原因でしょう。観光ガイドの扱いも微々たるものです。

もし、奈良市内にあれば、東大寺や興福寺は無理でも、薬師寺や唐招提寺なみにはメジャーになれたであろうという、ある意味とても不運なお寺といえます。

もっとも、奈良市内にあったならば、上記の文化財の少なからずが、戦火に巻き込まれて灰になった可能性もありますが。

ところで、当麻寺の最大の売り物(?)は、中将姫伝説です。

中将姫は、奈良時代の貴族のお姫様で、継母に度々、命を狙われるという苦難を乗り越え、阿弥陀如来の導きによって極楽浄土の光景を描いた曼荼羅を織り上げ、極楽浄土へ旅立ったとされる伝説上の人物です。

これが、「本当は怖いグリム童話」なら、シンデレラのように、継母の目を鳩がほじくったり、或いは、白雪姫のように、継母に焼けた鉄の靴を履かせたりといった感じのハッピーエンドになるところですが、そういう物騒な展開はありません。仏教説話ですから。

 継母がその後、地獄に落ちて、閻魔様に舌を抜かれるという因果応報的な後日談はあるかも知れません。仏教説話ですから。

近鉄南大阪線の当麻寺駅を出て、まっすぐ西を目指します。駅から出発してまも無く、右側路傍に当麻蹴速(たいまのけはや)の墓、とされる五輪塔があります。

 この蹴速は、垂仁天皇の時代の人で、天下最強を宣言して挑戦者を募っていたところ、垂仁天皇の命で、出雲からやってきた野見宿禰(のみのすくね)と相撲をとることになり、宿禰に蹴り殺された(当時の相撲は今よりもかなりバイオレンスなルールだったようですね。)という、色々な意味で「痛い」人です。

もっとも、垂仁天皇(日本書紀等の記述によると紀元前1世紀から1世紀にかけて在位。卑弥呼よりも前です。)自体、実在が危ぶまれている状況ですので、この話も歴史というより、伝説の部類です。

この蹴速と宿禰の対戦が、わが国の相撲の始まりとされているそうです。すぐ近くに相撲館という、相撲資料館まで建てられています。中将姫と当麻蹴速とおぼしき男女のかわいらしいキャラクターのイラストがポスターに載っていました。今、はやりのユルキャラというやつでしょうか。余計なお世話だと思いますが、かなり幸の薄そうなカップルです。

駅から歩いて15分ほどで大門に着きます。境内の東端に建っている楼門で、古寺にふさわしい風格です。大門を入ってすぐ、正面には鐘楼があります。国宝の梵鐘を「吊ってある」お堂です。

「吊ってある」というのは、一見、梵鐘が吊られているように見えますが、実は下に台が設けられていて、梵鐘はその上に置かれているからです。以前にお寺の方から聞いた話では、十数年前まで当麻寺には鐘楼は存在せず、梵鐘もいずれかのお堂に置かれていたそうです。

その後、鐘楼が再興され、それに合わせて梵鐘を鐘楼に吊るすことになったものの、いざ、吊るそうという段になって、龍頭(梵鐘を吊るすための上部にある輪状の突起)にひびがあるのが発見され、吊るすことができなくなってしまいました。

にもかかわらず、「せっかく再建したのだから鐘楼に梵鐘を飾りたい」ということで、こうなったようです。観光ガイドにも載っていない、思いっきりどうでもよいトリビアといえます。(つづく)

<福岡県福岡市出身、福岡県立修猷館高等学校、京都大学法学部卒業
大阪弁護士会・弁護士>


2016年08月19日

◆古寺旧跡巡礼・壺阪寺(奈良県高取町)

石田 岳彦



昔々、沢市とお里という夫婦が大和の国におりました。

夫の沢市は眼病を患っており、妻のお里は眼病にご利益のある壺阪寺(つぼさかでら)に毎晩お参りにいっていましたが、沢市はお里が他の男のもとに通っていると邪推し、お里を問い詰めたのです。

お里から事情を聞いた沢市は、自らの狭量を恥じ、お里の勧めで、一緒に壺阪寺に篭り、ご本尊の千手観音に祈ることにしました。
 
お篭りの最中、沢市は自分の眼病のために苦労するお里を不憫に思い、自分が死ねば、お里が他の男と再婚できるだろうと考え、谷に身を投げてしまいます。これに気付いたお里は沢市の後を追って、やはり、谷に身を投げました。
 
しかし、互いを想い合う夫婦の愛を嘉(よみ)したもうた千手観音は2人の命を助け、そればかりか、沢市の眼病も直してくださいました。
めでたし。めでたし。

感動的な霊異譚(ご都合主義が過ぎると考える人は心が穢れています。多分。また、沢市が身を投げる前にさっさと眼病を直してやれよという無粋な突っ込みを入れたくなった方は仏罰に気をつけましょう。

物事には話を盛り上げるためのタイミングというものがあり、仏様もそのあたりの空気は当然に読んでいるのです。)で有名な壺阪山南法華寺。通称、壺阪寺は奈良県中部の高市郡高取町にあるお寺です。

壺阪寺は、かの西国33番観音霊場の6番札所で、上でも述べたように、特に眼病についてのご利益で知られています。

創建は、寺伝によると大宝3年(703年)に弁基上人という方が拓いたということになっているそうですが、歴史学的には眉唾みたいです。もっとも、古代寺院の縁起は古事記や日本書紀にでも明記されていない限り、一般的に眉唾にならざるを得ないわけですが。

とはいえ、境内から藤原京(平城京の前の都ですね)時代の古い瓦が発掘されているので(本堂内にレプリカが展示されています。本物は奈良国立博物館です。)、遅くともそのころには寺が存在していたことになります。

近鉄吉野線の壺阪山駅から1時間に1、2本のバスに揺られて10分ちょっと。山の中腹にある終点バス停で降りるとそこは壺阪寺です。

壺阪寺の境内から逸れる形で山頂の方へ更に道が続いており、「高取城(たかとりじょう)はこちら」との立て札が立っていて、バスの同乗者の中には、リュックサックを担いでそちらに歩いていく人の姿も見受けられます。

この高取城は、日本三大山城(他の2つは岐阜県の岩村城と岡山県の備中松山城ということです。)の1つに挙げられているという大規模な山城で、私もそのうち行ってみたいと思っていますが、今回はスルーです。

壺阪寺の境内は、バス停のある駐車場から境内の奥に向かって段状になっており、参拝客は奥にある本堂、三重塔に向かって登っていく形になります。

仁王門の前は桜の並木になっていますが、私が行った際(2010年4月11日)は、ちょうど散りかけのものが多く、あと1週間早く来ていればと惜しまれました。

仁王門をくぐって、まず、眼に入ってくるのは右手に建っている、いや、座られている石製の釈迦四尊(?)像。お釈迦様は本体10m、台座5mとかなり大型です。その手前に控える文殊菩薩と普賢菩薩はそれぞれ本体3m、台座2m。そして、十一面観音像が本体3.3m、台座1.5m。

お寺のホームページによると、文殊菩薩は釈迦如来の「智慧」を、普賢菩薩は「行」、観音菩薩は「慈悲」を表しているとのことです。

文殊菩薩は釈迦如来の「智慧」、普賢菩薩は「慈悲」、そして観音菩薩は阿弥陀様の脇侍というのが一般的な知識で、私もそうだとばかり思っていたのですが、壺阪寺では独自の解釈をとっているのでしょうか。

この壺阪寺はボランティア活動に力を入れているお寺としても有名で、例えば、境内の一角で養護盲老人ホームを運営するのみならず、インド(お釈迦様の母国ということでしょうか)でハンセン病患者の救済事業を行っています。

この釈迦三尊像はそのお礼としてインドから贈られたものの1つだそうで、右手奥の遠方に見えている観音菩薩立像(全長20m)や後述のレリーフもインドから寄贈されたものだそうです。

心が洗われる話ではありますが、これらの石造物群は、壺阪寺の境内を我々が思い描くところの古寺の風景とかなり異質なものともしています。一参拝者の勝手な言い草ですけど。

階段を更に登ると右手に三重塔(重要文化財)、左手に礼堂(重要文化財)と本堂。三重塔の初層(一層目)特別開扉の案内板が立っています。

室町時代に現在の三重塔が再建されて以来、初めての公開ということで、平城遷都1300年祭の関連行事の1つです。

実のところ、今回、私が壺阪寺に十年ぶりに来る気になった理由もこの特別開扉なのですが、実際に一層目の中に入ってみると、中の壁には壁画も無く、柱の前に小ぶりな大日如来像と弘法大師像が1体ずつ置かれているだけという素っ気無さで「これだけ!?」と呆気にとられました。

決して皮肉ではないのですが、確かに、こういう機会(1300年祭)に誘われでもしないと、わざわざ特別公開しようという気にまではならなかったであろうなあ、と納得できてしまいます。ちなみに私が行ったのは春の公開の際ですが、秋も10月1日から12月18日まで公開しているようです。

三重塔の裏側には、これもインドから贈られたお釈迦様の一生を描いた巨大な石製のレリーフが並んでいます。

レリーフの前のところどころに各場面の詳細な解説も設けられているので、お釈迦様の一生を前世(仏教の教えでは、お釈迦様はシャカ族の王子として生まれる前に、何回も転生を繰り返しつつ、善行を積んでいたという設定になっています)から誕生、出家、苦行、悟り、布教、涅槃(死去)まで大画面(?)で追うことが可能です。

ただ、無彩色とはいえ、巨大な石造物ですので、三重塔の背景にこれが来るのは、やはり、かなり違和感がありますが。

お次は礼堂。礼堂は、ご本尊を祀る本堂の手前に設けられた大きめの建物で、壺阪寺の本堂が手狭なため、ご本尊の面前で多数の僧侶の参加する儀式を行うために建てられたようで、奥が本堂と繋がっていました。

礼堂の中には、インドでの慈善活動のための募金箱とインド製のアクセサリー(募金したら、好きなのをもって帰れます。)が置かれていて、募金した参拝者が持ち帰れるようになっています。

本堂は八角円堂という形式で、円堂というと法隆寺の夢殿や興福寺の南北の円堂が有名ですが、壺阪寺の八角円堂は裳階(もこし。飾りの屋根)が付いていて、屋根が二重になっているのが特色です。

去年から今年にかけ、西国33箇所の観音霊場のご本尊特別公開が行われていて、ちょうど壺阪寺でもご本尊の特別拝観が行われていました。ご本尊は千手観音の坐像で、比較的小ぶりです。室町時代に彫られたということで、色彩(全体的に赤く感じます)が比較的鮮やかに残っています。

礼堂を出て、更に奥に進むと沢市とお里が身を投げたという崖です。冒頭の2人の像もここに建てられています。柵から乗り出して下を見ましたが、草木が深くて、いまいち高低差は分かり辛いですね。

巨大な石造仏群については好みが分かれるところかも知れません。天気のよい日にハイキングがてら高取城とセットで回るのが楽しそうです。実行するには体力が問われますが。
                                 終   (弁護士)

2016年06月24日

◆古寺旧跡巡礼 美保神社、仏谷寺

〜(島根県松江市)〜

石田 岳彦
一、


民家の屋根を突き破って隕石が落ちてきた事件で有名な美保関は、島根県の東の端、中の海と日本海とに挟まれた町です。その地の利を活かし、大正時代までは交通の要衝として多くの廻船問屋が集まっていたそうですが、今は静かな漁業と観光の町。

今回は、美保関の町にある美保神社、仏谷寺の回です。

二、恵比寿様といえば、七福神の1人(正確には1柱)で、釣竿を担いで、鯛を抱いたイメージの日本で最もメジャーな神様のひとつですが、幾つもの「正体」を持つ神様でもあります。

物の本によれば、えびす神への信仰とは、本来、海岸に打ち寄せられた「外からのもの」に神秘性を認め、これをご神体として祀るものだったそうですが、やがて日本書紀や古事記に登場する特定の神をえびす神と結びつけ、祀るようになりました。

 その特定の神の有力な1つが、大国主の息子の事代主神(コトシロヌシノカミ)で、美保関の町の中心というべき美保神社は事代主系の恵比寿神社の総本社とされています。

 上述の一般的な恵比寿様のイメージ(竿を担いで、鯛を持って)も事代主から来ているそうです。

 いわゆる国譲りの神話には、天照大神の使者タケミカヅチノカミから地上の支配権を譲るよう要求された大国主命が、美保関で釣りをしている事代主を呼び寄せて意見を聴いたという話が残っており(事代主は託宣の神様とされています。)、恵比寿様が釣竿を背負って、鯛を持っているのはこの神話の影響でしょう。

 父親である大国主命も大黒天と同視されているので、親子で七福神に入っていることになります。
 
なお、恵比寿神社の総本社としては、寧ろこちらの方が有名かと思いますが、兵庫県西宮市の西宮神社は、正確には蛭子命(ヒルコノミコト)系の恵比寿神社の総本社です。

 こちらの神様はイザナギ・イザナミが産んだ神で、骨の無い蛭のような子供だったので、藁の船に乗せて、海に流された(ひどい親です)とされています。

 もっとも、ホームページを見る限り、西宮神社も上記の「釣竿を担いで、鯛を抱えた姿」を恵比寿様のイメージとして採用しているようです。やはり「蛭子」では参拝客が逃げますか。

三、私が美保関に向かったのは、以前記事にした出雲大社の本殿の特別参拝に参加した次の日のことです。

JR松江駅から途中バスを乗り継いで1時間半ほど。海岸沿いの道を延々と揺られて、ようやく美保関に着きました。もっとも、行政区画上はここも松江市になります。

平成の大合併の結果ですが、「何でもかんでも、くっつければいいってもんじゃないだろう」と言いたくなります。この付近の住民にとっては、松江市の中心部よりも橋(中の海と日本海を結ぶ水道には大きな橋が架かっています。)を挟んで対岸の鳥取県境港市の方がはるかに近い存在でしょう。

 観光客の姿はほとんど見当たりません。ただし、土産物屋や旅館が何軒か並んでいるところを見ると、季節と時間帯によってはそれなりに客もいるのでしょうか。

 漁港のすぐ側のバス停から歩くと、直に美保神社の鳥居が見えてきました。鳥居の前は広場のようになっていて、右側奥は(詳しくは後述しますが)仏谷寺への参道「青石畳通り」への出入り口になっています。

 鳥居をくぐるとすぐ右側に宝物館がありましたが、残念ながら開いていないようです。先に進み、本殿へ向かいます。美保神社の見所は比翼大社造という特殊な形状の本殿です。

 比翼大社造というのは、大社造(出雲大社の回を参照してください。)の神殿を横に2つ並べて繋ぎ合わせたというものです。

「比翼」というのは、おそらく「比翼の鳥」から来ているのでしょう。雌雄で翼を1つずつ持ち、2体1組で飛ぶという中国の伝説上の鳥ですね。

「比翼の鳥」、「連理の枝」と白楽天の長恨歌にもあります。仲の良い男女の例えに使われます。他の地方から来た人間にとっては、そもそも大社造の神殿自体が珍しく、それが2つ繋がって並んで合体しているというのですから、その異容は社寺巡り、文化財巡りを趣味とする者であれば、一度は見ておきたいところです。

 もっとも、正面手前に大型の拝殿(ここまで巨大だと、これはこれで珍しいですが。)が建っており、これが邪魔(失礼)で、正面からは本殿の特異な形体を掴み難くなっています。後ろから見た方がよく分かりますね。

ちなみに、社殿が2つ繋げられていることからも予想できたかと思いますが、祭神は事代主だけではなく、大国主の后である三穂津姫(ミホツヒメ)も加えた2柱です。事代主が大国主の息子で、三穂津姫が大国主の后だから、当然、三穂津姫は事代主の母親・・・ではないのですね。

 大国主は好色で、多くの后を持つ神様であり、「大穴持(オオアナモチ。多くの「穴」を持つの意。意味の分からない方はスルーしてください。お願いですから。)」という女性団体から猛抗議が来そうな別名の持ち主だったりします(これ以外にも様々な異名を持ちます。)。事代主の母は、別の女神とされているそうです。

 とはいえ、母子関係にない2柱を一緒に祀るというのも奇妙な話ですので、三穂津姫が本来の祭神で(「三穂」は「美保」に通じますので、土地神だったのでしょう)、その後、上記の国譲り神話をもとに事代主が祭神に加えられたとの説もあるとのことでした。祭神が後から足されることは、しばしばあることなので、あり得る話です。

四、美保神社から仏谷寺までの参道は、青石畳通りと呼ばれている天然石を敷き詰めた小道になっています。古い旅館や資料館が立ち並んでいて、落ち着いた雰囲気です。
  
時間とお金があれば一泊して、落ち着いた雰囲気の中、海鮮料理を楽しみたいところですが、残念ながら、売れない弁護士の私には両方とも不足しています。

仏谷寺を開いた人物としては、寺伝その他で聖徳太子、空海、行基の名が挙げられているそうですが、要するによく分かっていないということですね。有名人の名前を出すだけならただですから。
  
もっとも、後鳥羽上皇や後醍醐天皇が隠岐に流されるときに行在所(一時的な仮宮)とされたとのことなので、鎌倉時代のころに美保関一帯で中心的な寺院だったことは間違いないでしょう。

 とはいえ、現在は往時の面影もなく、広いと言い難い境内に本堂と収蔵庫等が残っているのみですが、その収蔵庫の中には、平安時代に作られた5体の重要文化財の仏像が納められていて、私(訪れる参拝客のほぼ全て)のお目当てもそれです。

 寺の近くの食堂の前に仏谷寺の収蔵庫の受付をやっているとの看板が立っていたので、そちらを訪ね、鍵を開けてもらい、中に入りました。ずらっと並んだ木製の仏像の印象は、良くも悪くも素朴で、造形的にはおよそ洗練されているとは言い難く、悪くいえば、やぼったい、よく言えば、親しみがあるという印象です(写真撮影禁止なので、写真は無しです)。

出雲様式というそうで、中央から離れた地方で、独自に発展した様式なのだとか。残念ながら、どこら辺がどう独自なのかまでは、不勉強な私には分かりませんでしたが。

 境内の出入り口の脇に八百屋お七の恋人吉三(名前その他の設定には幾つか説があるそうです。)の墓があります。お七は、江戸の町のとある八百屋の娘でしたが、火事で避難した際に巡り合った少年吉三との再会を願う余り、自ら放火を試みて、火あぶりの刑に処されたという悲劇のヒロインで、井原西鶴の好色5人女のモデルの1人ですね。

吉三は、お七の死を悲しみ、出家して各地の寺を巡り、この仏谷寺で倒れ、葬られたというのが寺伝になっているとのこと。ただの行き倒れの墓を適当に観光名所にでっちあげたのではないか等という無粋な詮索は止めておきましょう。

五、今回は松江市側から来ましたが、対岸の鳥取県境港市から車(バスの便もありますが、本数が少ないので、タクシーかレンタカーがよいでしょうか)で来る方がアクセスはよさそうです。

境港市の水木ストリート(ゲゲゲの鬼太郎とその仲間たちの銅像が並んでいる通りです)とセットで観光するのがお勧めです(私は帰りに寄りました。)


2016年04月15日

◆名所旧跡だより犬山城・愛知県犬山市

石田 岳彦



「現存12天守」なる言葉をご存知でしょうか。
 
昭和以降、鉄筋コンクリートで再現された天守閣のレプリカ(?)は全国各地に数あれど(天守閣が建てられた歴史的事実がない城跡にまで建てるのはさすがにいかがなものかと思います。)、江戸時代以前の本物の天守閣が残っている城は全国に12しかありません。

これを総称して「現存12天守」と呼ぶことがあります。

12の城は、弘前城(青森県・弘前市)、松本城(長野県松本市)、犬山城(愛知県犬山市)、丸岡城(福井県丸岡町)、彦根城(滋賀県彦根市)、姫路城(兵庫県姫路市)、備中松山城(岡山県高梁市)、松江城(島根県松江市)、丸亀城(愛媛県丸亀市)、松山城(愛媛県松山市)、宇和島城(愛媛県宇和島市)、高知城(高知県高知市)です。

このうち、松本城、犬山城、彦根城、姫路城の4城の天守閣が国宝に指定され、残り8城では重要文化財に指定されています。

今回はその国宝4天守の1つ、犬山城のお話です。

愛知県犬山市の木曽川の河畔の丘の上に聳え立つ犬山城は、その立地から、「白帝城」(オリジナル白帝城は長江流域の丘上にある城で、三国志の主人公である劉備玄徳が諸葛孔明に後事を託して亡くなった城として有名です)とも呼ばれているそうです。

荻生徂徠(江戸時代、徳川綱吉の時代の学者。赤穂浪士の処分について切腹にすべきとの意見を述べ、採用されたことで有名ですね。)の命名ということなので、年季が入っています。

なお、横を流れている木曽川がライン川と似ているとのことで、木曽川の川下りは「日本ライン下り」という名称で興業されています。つまり、日本のライン川の河畔に、日本の白帝城が建っているということですね。少しは統一を図るべきだと思いますが。

犬山の地は尾張と美濃の国境にあるという戦略上の要衝であり、古くから城が築かれていたようですが、支配者もまた頻繁に変わり、最終的には、江戸時代に入って、御三家の筆頭である尾張徳川家の付家老成瀬家が城主になり、明治に至りました。

付家老というのは、御三家等に対し、将軍の直々の命により付けられた家老で、幕府からのお目付け役的な側面もあり、藩内での立場はかなり複雑だったようです。

明治以降も長く成瀬家が個人で所有していて、「個人所有のお城」ということでも有名でしたが、近年になり、さすがに維持が困難になったようで(相続税が恐ろしいことになりそうです)、現在、城は財団法人の所有となっています。

天守閣が建てられた時期については幾つか説があるようですが、増築によって今の形になったのは1620年ころということでした。
 
名古屋鉄道・犬山遊園駅を出て、正面に犬山城を見ながら、木曽川沿いの道を行きます。後述する有楽苑の横を通り、城の建つ丘に登ります。丘の下方は神社の境内になっていて、参道の階段を登って上へと進むと間も無く天守閣です。

犬山城にとって惜しむべきは、廃藩置県の際、多くの建物が破棄されてしまい、また、堀も大部分が埋められていることです。

城跡の歩き方といえば、堀に沿って歩き、橋を渡って城内に入って、幾つもの門をくぐり、所々で折れ曲がる道を登るという過程を経て、徐々に気分が盛り上がってきたところに本丸の天守に到着というのが理想ですが、犬山城の場合、近年になって天守付近の門や櫓の復元が行われているようですが、駅から天守閣に到達するまでの間には、城らしさを味あわせてくれるお堀、石垣、土塁といった構造物は残っていません。

お堀や石垣どころか、主要な建造物の大半が健在の姫路城は勿論、天守閣の他に幾つかの櫓と2重の堀が残っている彦根城に比べると寂しさは否めません。

それはさておき、入り口で靴を脱いで天守閣に登ります。犬山城に限らず、初めて「本物」の天守閣に登った方(なお、現存12天守は修復工事中の場合を除き、基本的に常時公開しています。)は、少なからず、愕然とするかと思いますが、天守閣の中は基本的に空っぽで、飾り気の欠片もありません。

犬山城の場合、一応、内部の壁も漆喰で塗られていて、畳敷きの部屋も一部ありますが(現存12天守の中には全層が板壁・板床というところもありました。)、豪華な装飾画などというものは皆無です。

織田信長の安土城や豊臣秀吉の大阪城の天守閣は、城主の住居として使われていて、狩野永徳に襖絵を描かせる等、内装にもかなり凝っていたようですが、安土桃山時代末期から江戸時代初期に立てられた城の天守(現存12天守はこの時期の建造です。)は、城主の権威を示すシンボルではあるものの、実際の用途という面では、主に倉庫として使われていたといわれています(城主は城内の御殿に住んでいました。

二条城の二の丸御殿を思い浮かべていただくと分かり易いかと。確かに4、5階建ての天守閣を毎日上り下りしながら暮らすのは大変でしょうからね。)。

さすがに「空っぽの倉庫」状態では物足りないので、天守の中に、鎧兜、刀、城の柱組みの模型等の資料を飾ったケースを並べたり、城の歴史や日本各地の城に関するパネルを設置したりといった努力もなされていますが、外観の華やかさに比して、味気ない内部です。

壁際に設けられている石落し等が、天守が(実際の運用は兎も角として)単なる倉庫ではなく、あくまで軍事施設であることを示しています。


最上階からの眺めは、月並みですが絶景です。平野の中の小高い丘の上、すぐ隣が木曽川というロケーションの勝利ですね。今のように高層建造物の少なかった昔において、高楼から遠方の眺めを楽しむというのは権力者の特権だったのでしょう。


さて、犬山城の麓には有楽園という庭園があります。名鉄犬山ホテルの施設の1つという扱いのようですが、一般にも公開されています(有料)。この庭園は、織田信長の弟である織田有楽が建てた茶室如庵(国宝)を中心に設計された日本庭園です。  

織田有楽は、本能寺の変で二条城に篭城した際には信忠(信長の長男で跡継ぎ)に切腹を勧めつつ、自分はちゃっかり脱出したり、大阪の陣の際も、淀殿の叔父(淀殿の母は、信長の妹のお市の方です)として豊臣方に世話になっていながら、直前になって城を脱出し、徳川方に転がり込んだりと(淀殿の妹のお江の方が2代将軍秀忠の正室でしたので、こういう芸当も可能でした。)、波乱に富んではいるものの、美しいとは言い難い人生を歩んだ人物ですが、茶人としては高名です。

国宝に指定されている茶室は、千利休の建てた待庵(京都府大山崎町の妙喜庵という寺院の中にあります)、大徳寺龍光院の密庵(京都市)の他はこの如庵だけなので極めて貴重な茶室といえます。

この茶室は、当初、京都にあったのを三井財閥に買い取られて、神奈川県大磯に移され(写真で見ましたが、大型トラックに茶室が丸ごと載せられて移動する姿は異様で、思わず、笑えてきました。)、更に名鉄に買われて、現在地に移築されました。

年に数回程度、特別公開で茶室の中にも入れますので、興味のある方は有楽苑のホームページを小まめにチェックしてください。


犬山には、他にもかの明治村があり(汽車、市電、乗り合い馬車が走っていて乗ることができたり、明治時代のレシピの洋食屋や牛鍋屋で食事ができたりと、単に古い建造物を集めた資料館ではなく、明治時代を体験できるテーマパークという性格になってきました。)、お猿専門の動物園である日本モンキーセンターがあります(ニッチな商売です)。

1泊2日くらいでゆっくりと見てみたい町です(ゆっくり見て回るなら、明治村で丸1日、犬山城と有楽苑で半日というところでしょうか)。終
                             (弁護士)