2015年07月13日

◆蕪村公園横の「毛馬の閘門」

石田 岳彦(弁護士)


阪急千里線の柴島駅(本筋から思い切り離れますが「柴島」を初見で「くにじま」と読める人がどれだけいるでしょうか。)から天神橋筋六丁目駅へ向かい、淀川にかかる鉄橋を渡る際、左側奥、淀川大堰の向こう側に大きな「水門」が見えますが、その水門には「毛馬こうもん」と白抜きで大きく書かれています。

「こうもん」を漢字で書くと「閘門」です(ちなみに「毛馬」は地名で「けま」と呼びます)。

最近は警察署にも建物の壁に「けいさつ」と平仮名で大きく書いているところがありますが、「閘門」と書いても読めない人が多いので、「こうもん」と平仮名で書いているのでしょうか。

もっとも、警察署と違い、読みだけ知ったところで何をやっている施設かは分からないと思いますが。

それはさておき、阪急千里線を通勤経路にしている私にとって、毛馬の閘門は見慣れた存在でしたが、近くにまで行く機会はありませんでした。

平成20年春、毛馬の閘門が国の重要文化財に指定されることになったというニュースを聞いた私は、これをよい機会と毛馬の閘門に行ってみました。我ながらミーハーです。

毛馬の閘門に行くには、天神橋筋六丁目駅(阪急千里線、地下鉄堺筋線・谷町線)から北上し、淀川にかかる長柄橋の南詰めから河川敷に出て、更に5分ほど東へ歩きます。

河川敷は公園になっていて、堤防上には歩道も整備されていて、歩いていて楽しい道ですが、天神橋筋六丁目駅からは20分以上の歩きになり、大阪市内ということを考えると交通の便の悪い場所といえるでしょう(私がなかなか行く気になれなかった理由もこれです。)。
 
現地に設けられていた説明板によると、閘門というのは、水位の異なる川、運河等の間で船を行き来させるため、両側に水門を設けた水路で、毛馬の閘門の場合、大川(低)と淀川(高)との間の高低差を調整して船を通すために建造されたものです。

淀川から大川に入る場合、まず、水路内の水位を淀川に合わせたうえ、淀川側の水門のみを開けて船を水路に入れたうえで閉じ、水路内の水を抜いて、水面の高さを大川と同水位に下げた後、大川側の水門を開けて船を通過させるという仕組みになっています。

逆に大川から淀川に行く場合には、大川側から水路に船を入れたうえ、水を補充して水路面を淀川と同水位にまで上げてから、淀川側の水門を開放することになります。

なお、そもそも隣り合っている2つの川の水面に何故、極端な高低差があるかといえば、本来の淀川の流れは大川の方で、現在の淀川のうち毛馬よりも河口側の部分(新淀川)は明治43年に治水上の必要で人工的に作られたためだそうです。

ちなみに現在の毛馬の閘門は3代目で、私が毎朝見かけている「毛馬こうもん」もこの3代目にあたります。今回、重要文化財に指定されたのは、初代と2代目(今は船溜になっているそうです)で、このうち初代の閘門は、3代目のすぐ近くに見学用として整備されていました。

初代閘門の水門は2つの扉が観音開きになる方式で(なお、現役の3代目の閘門は門扉が上下して開閉するシャッター方式だそうです。)、現在は半開きの状態で固定されています。最近になって塗りなおされているようで、水色の大きな扉が鮮やかです。

北側の淀川側の水門は、近くにある堤防から一段低いところにあり、階段で下まで降りることもできますが、降りたところに柵が設けられていて、その先の水門をくぐることはできません。

もっとも、南側にある大川側の水門(淀川側に比べてかなり小型です)は開放されていて、そちら側から(旧)水路(当然のことながら現在では水路に水は流されていません。)の中に入ることができ、更に進んで淀川側の水門をくぐることもできます。北側の柵はいったい何のためでしょうか。

水路の中央に見学用の通路が設けられていて、その両側は何故か芝生になっていました。先ほどの柵といい、「こうもん」のペイントといい、この芝生といい、大阪市はよく分からないことに、金と手間を使います。

水路といっても船が通り抜けることができるだけのスペースですから、幅もそれなりにあり、スペース自体はちょっとした広場並みです。両側の側壁はレンガ造りになっていて、ところどころに鎖が取り付けられています。係船環と呼ばれる船を繋ぐためのものだそうです。水路に水を注入または排出するときに船が動かないようにするためでしょうか。

近くには初代閘門の付属施設として建設された洗堰(水が堰の上を越えて流れるタイプの堰)も残っています。淀川(新淀川)から大川に流れ込む水の量を調節するためのものだそうです。なかなかシックなデザインですね。

大阪市やその近郊にお住まいの方であれば、天気のよい休日にでも、広々とした淀川の河川敷や与謝蕪村公園の横をを歩きつつ、ちょっと「毛馬の閘門」に寄ってみられるのも悪くないでしょう。(終)

2015年06月26日

◆名所旧跡だより 犬山城

〜愛知県犬山市〜
 石田 岳彦(弁護士)



「現存12天守」なる言葉をご存知でしょうか。
 
昭和以降、鉄筋コンクリートで再現された天守閣のレプリカ(?)は全国各地に数あれど(天守閣が建てられた歴史的事実がない城跡にまで建てるのはさすがにいかがなものかと思います。)、江戸時代以前の本物の天守閣が残っている城は全国に12しかありません。

これを総称して「現存12天守」と呼ぶことがあります。

12の城は、弘前城(青森県・弘前市)、松本城(長野県松本市)、犬山城(愛知県犬山市)、丸岡城(福井県丸岡町)、彦根城(滋賀県彦根市)、姫路城(兵庫県姫路市)、備中松山城(岡山県高梁市)、松江城(島根県松江市)、丸亀城(愛媛県丸亀市)、松山城(愛媛県松山市)、宇和島城(愛媛県宇和島市)、高知城(高知県高知市)です。

このうち、松本城、犬山城、彦根城、姫路城の4城の天守閣が国宝に指定され、残り8城では重要文化財に指定されています。

今回はその国宝4天守の1つ、犬山城のお話です。

愛知県犬山市の木曽川の河畔の丘の上に聳え立つ犬山城は、その立地から、「白帝城」(オリジナル白帝城は長江流域の丘上にある城で、三国志の主人公である劉備玄徳が諸葛孔明に後事を託して亡くなった城として有名です)とも呼ばれているそうです。

荻生徂徠(江戸時代、徳川綱吉の時代の学者。赤穂浪士の処分について切腹にすべきとの意見を述べ、採用されたことで有名ですね。)の命名ということなので、年季が入っています。

なお、横を流れている木曽川がライン川と似ているとのことで、木曽川の川下りは「日本ライン下り」という名称で興業されています。つまり、日本のライン川の河畔に、日本の白帝城が建っているということですね。少しは統一を図るべきだと思いますが。

犬山の地は尾張と美濃の国境にあるという戦略上の要衝であり、古くから城が築かれていたようですが、支配者もまた頻繁に変わり、最終的には、江戸時代に入って、御三家の筆頭である尾張徳川家の付家老成瀬家が城主になり、明治に至りました。

付家老というのは、御三家等に対し、将軍の直々の命により付けられた家老で、幕府からのお目付け役的な側面もあり、藩内での立場はかなり複雑だったようです。

明治以降も長く成瀬家が個人で所有していて、「個人所有のお城」ということでも有名でしたが、近年になり、さすがに維持が困難になったようで(相続税が恐ろしいことになりそうです)、現在、城は財団法人の所有となっています。

天守閣が建てられた時期については幾つか説があるようですが、増築によって今の形になったのは1620年ころということでした。
 
名古屋鉄道・犬山遊園駅を出て、正面に犬山城を見ながら、木曽川沿いの道を行きます。後述する有楽苑の横を通り、城の建つ丘に登ります。丘の下方は神社の境内になっていて、参道の階段を登って上へと進むと間も無く天守閣です。


犬山城にとって惜しむべきは、廃藩置県の際、多くの建物が破棄されてしまい、また、堀も大部分が埋められていることです。

城跡の歩き方といえば、堀に沿って歩き、橋を渡って城内に入って、幾つもの門をくぐり、所々で折れ曲がる道を登るという過程を経て、徐々に気分が盛り上がってきたところに本丸の天守に到着というのが理想です。が、犬山城の場合、近年になって天守付近の門や櫓の復元が行われているようですが、駅から天守閣に到達するまでの間には、城らしさを味あわせてくれるお堀、石垣、土塁といった構造物は残っていません。

お堀や石垣どころか、主要な建造物の大半が健在の姫路城は勿論、天守閣の他に幾つかの櫓と2重の堀が残っている彦根城に比べると寂しさは否めません。

それはさておき、入り口で靴を脱いで天守閣に登ります。犬山城に限らず、初めて「本物」の天守閣に登った方(なお、現存12天守は修復工事中の場合を除き、基本的に常時公開しています。)は、少なからず、愕然とするかと思いますが、天守閣の中は基本的に空っぽで、飾り気の欠片もありません。

犬山城の場合、一応、内部の壁も漆喰で塗られていて、畳敷きの部屋も一部ありますが(現存12天守の中には全層が板壁・板床というところもありました。)、豪華な装飾画などというものは皆無です。

織田信長の安土城や豊臣秀吉の大阪城の天守閣は、城主の住居として使われていて、狩野永徳に襖絵を描かせる等、内装にもかなり凝っていたようですが、安土桃山時代末期から江戸時代初期に立てられた城の天守(現存12天守はこの時期の建造です。)は、城主の権威を示すシンボルではあるものの、実際の用途という面では、主に倉庫として使われていたといわれています(城主は城内の御殿に住んでいました。

二条城の二の丸御殿を思い浮かべていただくと分かり易いかと。確かに4、5階建ての天守閣を毎日上り下りしながら暮らすのは大変でしょうからね。)。

さすがに「空っぽの倉庫」状態では物足りないので、天守の中に、鎧兜、刀、城の柱組みの模型等の資料を飾ったケースを並べたり、城の歴史や日本各地の城に関するパネルを設置したりといった努力もなされていますが、外観の華やかさに比して、味気ない内部です。

壁際に設けられている石落し等が、天守が(実際の運用は兎も角として)単なる倉庫ではなく、あくまで軍事施設であることを示しています。


最上階からの眺めは、月並みですが絶景です。平野の中の小高い丘の上、すぐ隣が木曽川というロケーションの勝利ですね。今のように高層建造物の少なかった昔において、高楼から遠方の眺めを楽しむというのは権力者の特権だったのでしょう。


さて、犬山城の麓には有楽園という庭園があります。名鉄犬山ホテルの施設の1つという扱いのようですが、一般にも公開されています(有料)。この庭園は、織田信長の弟である織田有楽が建てた茶室如庵(国宝)を中心に設計された日本庭園です。  

織田有楽は、本能寺の変で二条城に篭城した際には信忠(信長の長男で跡継ぎ)に切腹を勧めつつ、自分はちゃっかり脱出したり、大阪の陣の際も、淀殿の叔父(淀殿の母は、信長の妹のお市の方です)として豊臣方に世話になっていながら、直前になって城を脱出し、徳川方に転がり込んだりと(淀殿の妹のお江の方が2代将軍秀忠の正室でしたので、こういう芸当も可能でした。)、

波乱に富んではいるものの、美しいとは言い難い人生を歩んだ人物ですが、茶人としては高名です。

国宝に指定されている茶室は、千利休の建てた待庵(京都府大山崎町の妙喜庵という寺院の中にあります)、大徳寺龍光院の密庵(京都市)の他はこの如庵だけなので極めて貴重な茶室といえます。

この茶室は、当初、京都にあったのを三井財閥に買い取られて、神奈川県大磯に移され(写真で見ましたが、大型トラックに茶室が丸ごと載せられて移動する姿は異様で、思わず、笑えてきました。)、更に名鉄に買われて、現在地に移築されました。

年に数回程度、特別公開で茶室の中にも入れますので、興味のある方は有楽苑のホームページを小まめにチェックしてください。


犬山には、他にもかの明治村があり(汽車、市電、乗り合い馬車が走っていて乗ることができたり、明治時代のレシピの洋食屋や牛鍋屋で食事ができたりと、単に古い建造物を集めた資料館ではなく、明治時代を体験できるテーマパークという性格になってきました。)、お猿専門の動物園である日本モンキーセンターがあります(ニッチな商売です)。

1泊2日くらいでゆっくりと見てみたい町です(ゆっくり見て回るなら、明治村で丸1日、犬山城と有楽苑で半日というところでしょうか)。終
                             


2015年06月18日

◆名所旧跡だより 小村神社

〜(高知県日高村)〜

石田 岳彦



「伝世古」という言葉があります。読んで字のごとく。人の世を伝わって今日に至った古物を指します。

これに対し、土中の遺跡等から発掘された古物を「発掘古」あるいは「土中古」と呼ぶそうです。

古代から王朝が次々に交代し、また、数回にわたる大規模な仏教弾圧があった中国では、古物が人の世を無事に渡り切るのはなかなかに困難で、現存する古代の品のほとんどは土中古ということのようです。

他方、天皇家、藤原氏、伊勢神宮、出雲大社、法隆寺、東大寺といった古代からの勢力が現在まで少なからず生き残っている我が国では、古代からの伝世古も少なくありません。

今回はその伝世古の最たるものの話です。

古墳から掘り出されるものといえば、埴輪、馬具、装飾品、剣(日本刀が成立する以前の直刀)といったものがありますが、剣のうち柄頭に環状の飾りがついているものを環頭大刀(「かんとうたち」と読みます)と呼びます。

なお、「太刀」ではなく「大刀」です。日本刀の場合「太刀」ですが、直刀の場合「大刀」と書くのが慣例とのこと。どうでもよいトリビアですが。

環頭大刀は、近畿の古墳からもしばしば副葬品として発掘されるので、資料館、博物館で見たことのある方も多いかも知れません。
 

ただし、千年以上も土に埋もれていたわけですから、当然のことながら、刀身(鉄製)は錆びてぼろぼろ、それを包む拵え(青銅製)も溶けてぼろぼろ(銅の錆は表面を覆うのみで、内部にまで進行しませんが、水分の多い地中では、銅が水に溶け出してぼろぼろになります。)です。
 
もっとも、一部には古墳に副葬品として葬られることなく、神社のご神体として祀られた環頭太刀もありましたが、これらも歴史の荒波に呑まれて次々と姿を消し、現在、残るはただ一振り。高知県小村(おむら)神社に伝わる国宝の環頭大刀ただ一振りです。


現地に着いて初めて知りましたが、私が高知に降り立った2003年11月15日は、高知空港に「高知龍馬空港」(いうまでも無いですが、坂本龍馬に因んだ命名です。日本で初めての人名の付いた空港云々。)という愛称がつけられた当日でした。


ついでに私が大阪から乗ってきた飛行機は第一便。地元局のインタビューに適当に答えつつ(放送されたのでしょうか?確認する機会はありませんでした。)、レンタカーの受付へ。
 

途中のドライブインで昼食の鍋焼きラーメン(高知県須崎市のご当地B級グルメだそうです。ドライブイン自体は南国市にありましたが。)を食べ、目的地の小村神社へと向かいます。


読者の皆さんの大半は、おそらく「小村神社」の名前は初見かと思いますが、全国の古文化財ファンには国宝・環頭大刀のある神社として「小村神社」の名前はそれなりのネームバリューを持っています。
 

あくまでも私見ですが、国宝を1つ持っていると、それだけで、そのお寺や神社や美術館の知名度は数十倍になるのではないでしょうか。
 

「小村神社」は旧・土佐国の二の宮、つまり、歴史的に見て、高知県内では2番目の格式を持った神社ということになっていますが、現代においては、どこの町や村にも1つくらいはありそうな中小規模の神社に過ぎず(逆をいえば、そのクラスの規模の神社でも、古墳時代から今日まで続いているのが日本という国ともいえます。)、この神社が、文化財ファンに限られるとはいえ全国的な知名度を有しているのは一重に国宝の環頭大刀一振りのおかげでしょうから。
 

私が小村神社にたどり着いたのは11月15日の午後2時前。
 

ちなみにこの日付には意味があります。環頭大刀が公開されるのが一年で11月15日の大祭の1日だけなのです。
 

人数を揃えて、事前に申請すればこの限りでもないようですが、我々のような一般参拝客としては年に一度の、いえ、仕事休んで旅行するわけにもいかない、サラリーマン弁護士にとっては数年に一度のチャンスでした。
 

駐車場に車を止め、杉並木の参道(結構長く、立派なものです)を急ぎ境内に向かうと(時間的には十分に余裕があったのですが、数年越しの念願ともなると気分が急かされます。)、祭り自体は既に終わったようで、後片付け中の境内の隅の資料庫(?)に数名の観光客が集まっていました。
 

中に入ると早速、国宝の環頭大刀が目にとまります(というより、資料庫自体が狭いので、一目で全て視界に入りましたが)。拵えはさすがに全体的に緑青(銅製品の表面に出る青錆です。)が出ていますが、古墳から掘り出されたもののようにボロボロではなく、きちんとした形を保った状態です。
 

柄頭には環状(というよりは饅頭を縦に切った断面というような形です)の飾りが付き、解説によると「二匹の竜が向かい合い、一つの珠を銜えた形」が表されているそうですが、デザインが簡略化され過ぎていて、「珠」は兎も角、「竜」はとてもそうとは見えません(写真撮影禁止なので、今回、写真は無しです。


村のホームページ等に写真があるので、検索してみてください。)。


中身の刀身が拵えと並べて展示されていますが、こちらは銀色の輝きを保っていて、錆もそれほど目立ちません。


先端部分のみ錆付いていたため、その部分を切り落とし、全体的に砥ぎ直したということのようですが、それを差し引いても古墳時代の大刀がこの輝きを保っているのは驚嘆させられます。


これまで博物館で見たことのある他の環頭大刀の刀身(の成れの果て)は、赤茶色の錆びの塊になっているわけですから。


以前、本で読んだところによると(多分にうろ覚えなので、誤りがあっても御容赦ください。)、この大刀は、第二次大戦後、神社の本殿の修理の際に、その中から発見されたもののようです。発見した人はさぞかし驚いたでしょうね。
 

伝世品なのに「発見」というのは奇妙な気もしますが、神社の本殿は神様の住まいで、余程のことがない限り、神職でさえ内部に立ち入らないので、本殿の立替或いは大修理の際に、数百年前の宝物が忽然と発見されるというケースがしばしばあります。
 

例えば、近いところでは、平成12年に春日大社の摂社・若宮神社の社殿の修理の際、内部から平安時代の毛抜き形太刀(柄が毛抜きのような形をしている太刀です。)等が見つかったという事件がありました。


テレビや新聞でも大きく報道されましたし、その後、春日大社の宝物館で実物の公開もされたので、ご記憶の方もあるかと(これらの発見品は、その後、国宝の「若宮御料古神宝類」の一部に追加指定されました。)。
 

こうしてみると、「伝世古」と「発掘古」の違いというのも案外相対的なものかもしれません。


お休みのとれる方は高知に行って、「小村神社」で「日本最古の伝世の剣」に会ってきてはいかがでしょうか。
 
仁淀川地域観光協議会が主催して高知駅発着のツアーもあるようなので(詳しくは仁淀川地域観光協議会のホームページを見てください。)、これを利用するのもよいかと。(弁護士:再掲)

2015年06月08日

◆石の宝殿(兵庫県高砂市)

石田 岳彦(弁護士)
 
1 今となっては正確な時期は忘れましたが、おそらく5年から10年ほど昔のことでしょうか。 朝日新聞の日曜版(当時 いまでは土曜版ですね。)に「石の宝殿」なるものの紹介記事が載っていました。
  
カラー写真に写っているのは、岩山を背景に横たわる巨大な岩の立方体。如何にも古代史の謎という印象です。
 
写真を見てから3ヶ月ほど後、休日を利用して現地を訪れることにしました(今回は割りと以前のお話なので、現在とは現地の状況が若干変化しているかも知れません。)。

2 大阪駅からJRの新快速で加古川まで行き、そこで普通電車に乗り換えて一駅。最寄り駅の名前はそのまんま「宝殿駅」。直球です。

 駅前の広場から、「石の宝殿」のある、というより、「石の宝殿」をご神体にしている生石神社(読みは、「おうしこじんじゃ」です。)へと向かいます。

 駅からは直線状の道路をまっすぐに行ったところにあるため、歩くのを開始してすぐに彼方の山の中腹に神社の建物が見え、「あそこまで歩くのか」とげんなりしました。歩いてみたら20分ほどですが。
 
途中にも「石の宝殿」に関する案内板が、ちらほら。「日本三奇の1つ、石の宝殿へ徒歩○分」。後の2つは何でしょうか?
 
遠くから見たら山という感じでしたが、近くに寄ってみると、小高い丘というところでしょうか。麓から神社まで急な石段が伸びています。石段を登り切ったところが神社の境内です。なお、車道も通っているので、自動車でも行けます。私が行った際にも境内に何台か停まっていました。
  
丘の上ということもあって、見晴らしはよいですが、右方を見ると隣の山が原型をとどめないほど、切り崩されています。この付近は竜山石と呼ばれる石材の産地だそうで、隣山の惨状も長きにわたる採掘の結果のようです。石の宝殿も勿論、竜山石で出来ています。

3 生石神社の本殿は変わった形をしていて、2つの建物を横に並べて屋根を連結したような感じになっており、2つの建物の間は「石の宝殿」へ向かう通路となっています。
 
ちなみにこの本殿では、大己貴命(「オオナムチノカミノミコト」と読みます。大国様の別名です)と少彦名命(「スクナヒコナノミコト」と読みます。大阪市中央区道修町の「神農さん」ですね。)の二柱の神様を祭っているそうです。協力して、わが国の国土開発を行ったとされる神々です。
 
本殿が2つの建物からなっているのも、祭神が二柱いらっしゃる関係でしょう。拝観料を賽銭箱に入れ、備え置きのパンフレットを一部もらって、本殿の建物の間を通り抜けます。
  
抜けた先には、巨大な岩の立方体(側面に溝が掘り込まれているので厳密には違いますが)「石の宝殿」が横たわっていました。
 
生石神社の境内は岩山で(幸い、隣の山のようにぼろぼろにはなっていません。)、「石の宝殿」は左右後方の3方を人工的に切り出された岩壁、正面を上で述べた本殿に塞がれた四角い空間の中に横たわっています。

 
 「石の宝殿」の下は池(というには狭いですが)で、その中に土台が在り、「石の宝殿」はその上に置かれた状態になっています。水に浮かんでいるかのように見えることから「浮石」との呼称もあるそうです。なるほど。
  
池の周りには細い道が設けられていて、参拝客はこれに従って、「石の宝殿」の周囲を回ることになりますが、「石の宝殿」が巨大な上に、岩壁がそれを囲むように高く、実際以上に圧迫感というか、自分の置かれている空間の「狭さ」を感じます。
  
写真を撮っても、全体像はとても入りませんね。後方に回ると「石の宝殿」の本体(立方体の部分)から三角柱のでっぱりが飛び出ていました。


 パンフレットによると、このでっぱりが屋根を表しているそうです。つまり、「石の宝殿」は、底を前方(本殿の方向)に向ける形で横たわっていることになります。

 作った後にわざわざ倒す理由も考え難いので、おそらく何らかの理由により未完成に終わったということでしょう。なお、「石の宝殿」を誰が造ったかについては、よく分かっておらず、播磨国風土記には「聖徳太子の時代に弓削の大連(物部守屋?)が作ったと伝えられている」と記載されているとのこと。
 
風土記は古事記や日本書紀と並ぶ「古代の書物」ですが、その風土記が編纂された時点で「石の宝殿」は既に「〜と伝えられている」という伝説上の存在だったわけですから、まさしく「古代史の謎」と言うべきです。
 
なお、聖徳太子は蘇我馬子と組んで、物部守屋を滅ぼし、推古天皇を立てたうえで摂政となっており、上記の記載にはその点で矛盾があって、当然に専門家からも突っ込まれているわけですが、この点については「風土記にはそう書いている」と答える他ないですね。
 
また、「石の宝殿」が横倒しのまま工事が終了した理由もよく分かっていないとのこと。

そもそも誰が造ったのかも、その動機もよく分からないのですから、工事が中断した理由が分からないのも、寧ろ、当然でしょうか。
  
神話によると、上記の大己貴命と少彦名命の2柱の神様が、一夜の予定で「石の宝殿」を造っていたところ、朝廷に対する反乱が起ったため、これを鎮圧しているうちに朝になってしまい、そのまま工事が中断されてしまったということです。

「鎮圧した後で、作業を再開すればよい」とか、「朝になっても工事を続ければいいじゃないか」等という、突っ込みはいけません。神罰が下ります。

また、「最初から、横倒しではなく、立った状態で岩を切り出せばよかったのではないか」等ということも言ってはいけません。神々には、我々、下々の者には分からない事情というものがあったのでしょう。

4 「石の宝殿」の周囲を巡った後、本殿の横から階段(山肌を削って、石段にしたものです。さすが岩山ですね。)を上り、岩壁の上にある山上公園に出て「石の宝殿」を見下ろすことができます。

  
 「石の宝殿」の上面(現状で上になっている面)には、土がつもり、草どころか小さな木までが生えています。もっとも、造られてから1300年から1400年程度経っている(推定)ことを考えると凄いんだか、凄くないんだか微妙なところです。

土の層のすぐ下が岩の塊となると、深く根をはるのはさすがに難しいので、大樹にはなれないのでしょうね。

5 一息ついたところで、パンフレットを熟読します。行きがけ見た看板にもあるように「石の宝殿」は「日本3奇」の1つとされており、数々の歴史上の有名人が訪れています。
  
有名どころでは、安藤広重、司馬江漢、シーボルト等の名前があり、シーボルトの書いた石の宝殿のスケッチがパンフレットに載っていました。

これを見ると、彼の来たころには本殿は設けられておらず、正面の離れた位置から岩壁の間に横たわる石の宝殿の全体像を見ることができたようです(現在は本殿が正面からの見通しを遮っていますし、本殿よりも内側に入る
と、接近し過ぎて、石の宝殿の全体像は捉えにくくなります)。
  
なお、比較的最近の訪問者には、松本清張や司馬遼太郎の名前もあります。確かに小説やエッセイの題材になりそうですね。
 
ちなみに、先ほど疑問に思った「日本3奇」の残り2つは、塩竃神社(宮城県)の塩釜と高千穂(宮崎県)の天の逆鉾なのだとのことです。

6 大阪からだと休日の日帰り旅行には、ちょうど良い距離かと思います。
  
見終えた後は、東隣の加古川市に寄って、鶴林寺(西の法隆寺−少し、誇大広告だと思いますが−とも呼ばれる古寺です。国宝の建物2棟があります。)に参拝に行くなり、かつめし(ご飯にトンカツ又はビーフカツとキャベツを乗せて、ソースをかけた加古川市のご当地グルメです)を食べるなりして帰るのも楽しいかと。
  
自動車があれば、加古川市から更に北上して小野市の浄土寺(国宝に指定されている快慶作の巨大な阿弥陀三尊立像は、一度は見ておきたい名品です)へ足を伸ばすのをお勧めします。(再掲)
                         終
 

2015年05月16日

◆平原遺跡とは (福岡県糸島市)

石田 岳彦



私の故郷である福岡市の周辺では、「桧原(ひばる)」、「屋形原(やかたばる)」、「前原(まえばる)」と、「原」を「はら」ではなく、「ばる」と呼ぶ地名が散在しており、上記の「平原」も「ひらはら」ではなく、「ひらばる」と読みます。

本日は福岡県糸島(いとしま)市にある平原遺跡について述べさせていただきます。

魏志倭人伝には邪馬台国を初め、多くの国名が記載されていますが、伊都(いと)国もその中の1つです。

現在の福岡市西区から糸島市にかけては、もともとは糸島郡であった地域ですが(平成の大合併で、前原市と志摩町、二丈町がまとまって糸島市が誕生し、糸島郡は最終的に消滅しました。)、この糸島郡自体、明治時代に怡土(いと)郡と志摩(しま)郡が合併して成立しました。

この怡土が伊都と通じること、佐賀県の旧松浦郡(現在の伊万里から唐津あたりにかけての地域)にあったとされる末廬国(まつら)国の南東に伊都国があったとの魏志倭人伝の記載から、伊都国は旧糸島郡にあったとされているそうです。

平原遺跡はこの伊都国の女王の墓とされています。 平原遺跡は糸島市の平原地区(遺跡の大半は発見された場所の地名で呼ばれます)にあり、周辺はのどかな農村地帯です。

そもそもこの遺跡が発見されたのも、昭和40年に地元の農家が蜜柑の木を植えようとして、銅鏡の欠片を発見したことがきっかけでした。

報告を受けた福岡県は、郷土史家の原田大六(大正6年の生まれということで、こう名付けられたそうです。)に発掘の指揮を依頼しました。

この原田大六は、糸島中学校(今の福岡県立糸島高校)を出たものの、大学では学ばず(歴史しか勉強しようとしなかったので、進学が無理だったとか)、太平洋戦争から復員した後、公職追放にあったのを契機に(軍隊において憲兵隊に入っていたのが祟ったといわれています)、中山平次郎博士に弟子入りし、博士から9年以上にわたり、1日6時間以上のマンツーマン指導を受け、考古学者になったという歴史小説の主人公にもなれそうなユニークな経歴と個性の持ち主です。

ちなみに中山博士は、現在でいうところの九州大学医学部の教授でありながら、寧ろ考古学者としての業績が有名という(九州考古学会の設立者だそうです)、これまた変わった経歴の持ち主で、この師匠にして、この弟子ありというところでしょうか。

この原田大六が、途中からは自費で発掘を継続し、遺跡からは墳墓の副葬品と見られる多くの出土品が発掘されました。

発掘品の中でも特に目立つのは39面又は40面(何分、破片で見つかったので、枚数について争いがあるようです。)発見された銅鏡で、うち4枚は直径46.5cmと、日本で発見された銅鏡として最大のものです。

他方で、剣等の武器はほとんど見つかっておらず、被葬者が女性であったことをうかがわせます。 副葬品の内容と豪華さから見て、時代は弥生時代。被葬者は王クラスの女性、つまり女王。遺跡(墳墓)のあった場所は伊都国があったとされるエリアということで、現在では、上記のように伊都国の女王の墓と推定されています。

弥生時代の女王といえば、邪馬台国の卑弥呼が有名ですが(実際には「日巫女」という太陽神を祀る神官女王の役職名だったのではないかとの説もあるそうですが)、それ以外にも女王がいたのですね。

ちなみに原田大六は玉依姫(たまよりひめ。神武天皇の母親とされる神話上の女神です。)の墓と主張していました。

平原遺跡の女王の墓は四角形(現在では少なからず形が崩れていますが)で、写真を見ればお分かりのように、その周囲には溝が掘られています。学問的には方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)と呼ばれるタイプの墓だそうで、上記の発掘品も近年になって「福岡県平原方形周溝墓出土品」という名称で一括して国宝に指定されています。

現在の平原遺跡は、墳墓の周りが低い柵で囲まれ、その周囲は横長のレリーフが建っているのを除けば何もない広場になっており、少し離れたところに古民家(遺跡とは全く関係ありませんが、保存のため移築されたようです)が1軒ぽつんという、よく言えば開放的、率直にいえばスペースが広々と余った歴史公園となっています。個人的にはこういう長閑な雰囲気は好きですが。

平原遺跡から車で10分ほど走ると農村風景の中に4階建の立派な建物がそびえているのが見えてきます。伊都国歴史博物館です。もともとは伊都歴史資料館といったようですが、平成16年に新館が建てられて博物館に昇格したとのこと。

「福岡県平原方形周溝墓出土品」の一部は九州国立博物館の平常展示室で公開中ですが、大半の発掘品はこちらの新館に保管・展示されています。館内撮影禁止のために写真はありませんが、鈍く緑色に輝く大型の銅鏡がケースの中にずらっと並ぶ姿はさすがに壮観です。
 
展示ケースの前に、立てられた状態の銅鏡が1枚、機械仕掛けでゆっくりと回転しながら展示されていましたが、見学者が私と妻の他におらず(施設と所蔵品の豪華さを考えれば、もったいない限りです。)、静けさの中で、微妙なモーター音をあげながら回転する銅鏡の姿は率直にいって不気味でした。

この博物館の前身たる伊都歴史資料館の初代館長には、上でも述べた原田大六が予定されていたそうですが、大六が開館を待たずに死去したため、名誉館長の称号が追贈され、資料館の前に銅像が立てられました(銅像は現在も立っていますが、新館の入り口からだと目立たない場所になっています)。

自分の主導で遺跡を発掘し、国宝級の副葬品を発見して、それを納めた郷里の資料館の前に銅像を建ててもらう。郷土史家としては頂点を極めたという感じですね。大学の考古学の教授でもここまでの成功を得られる人は滅多にいないでしょう。
 
福岡市やその近郊にお住まいの方は休日にでもドライブがてらにでも、平原古墳と伊都国歴史博物館を訪れてみてください。晴れた日には本当に気持ちの良い場所ですので。(終)  <弁護士>

2015年04月21日

◆蕪村公園横の「毛馬の閘門」

石田 岳彦(弁護士)



阪急千里線の柴島駅(本筋から思い切り離れますが「柴島」を初見で「くにじま」と読める人がどれだけいるでしょうか。)から天神橋筋六丁目駅へ向かい、淀川にかかる鉄橋を渡る際、左側奥、淀川大堰の向こう側に大きな「水門」が見えますが、その水門には「毛馬こうもん」と白抜きで大きく書かれています。

「こうもん」を漢字で書くと「閘門」です(ちなみに「毛馬」は地名で「けま」と呼びます)。

最近は警察署にも建物の壁に「けいさつ」と平仮名で大きく書いているところがありますが、「閘門」と書いても読めない人が多いので、「こうもん」と平仮名で書いているのでしょうか。

もっとも、警察署と違い、読みだけ知ったところで何をやっている施設かは分からないと思いますが。

それはさておき、阪急千里線を通勤経路にしている私にとって、毛馬の閘門は見慣れた存在でしたが、近くにまで行く機会はありませんでした。

平成20年春、毛馬の閘門が国の重要文化財に指定されることになったというニュースを聞いた私は、これをよい機会と毛馬の閘門に行ってみました。我ながらミーハーです。

毛馬の閘門に行くには、天神橋筋六丁目駅(阪急千里線、地下鉄堺筋線・谷町線)から北上し、淀川にかかる長柄橋の南詰めから河川敷に出て、更に5分ほど東へ歩きます。

河川敷は公園になっていて、堤防上には歩道も整備されていて、歩いていて楽しい道ですが、天神橋筋六丁目駅からは20分以上の歩きになり、大阪市内ということを考えると交通の便の悪い場所といえるでしょう(私がなかなか行く気になれなかった理由もこれです。)。
 
現地に設けられていた説明板によると、閘門というのは、水位の異なる川、運河等の間で船を行き来させるため、両側に水門を設けた水路で、毛馬の閘門の場合、大川(低)と淀川(高)との間の高低差を調整して船を通すために建造されたものです。

淀川から大川に入る場合、まず、水路内の水位を淀川に合わせたうえ、淀川側の水門のみを開けて船を水路に入れたうえで閉じ、水路内の水を抜いて、水面の高さを大川と同水位に下げた後、大川側の水門を開けて船を通過させるという仕組みになっています。

逆に大川から淀川に行く場合には、大川側から水路に船を入れたうえ、水を補充して水路面を淀川と同水位にまで上げてから、淀川側の水門を開放することになります。

なお、そもそも隣り合っている2つの川の水面に何故、極端な高低差があるかといえば、本来の淀川の流れは大川の方で、現在の淀川のうち毛馬よりも河口側の部分(新淀川)は明治43年に治水上の必要で人工的に作られたためだそうです。

ちなみに現在の毛馬の閘門は3代目で、私が毎朝見かけている「毛馬こうもん」もこの3代目にあたります。今回、重要文化財に指定されたのは、初代と2代目(今は船溜になっているそうです)で、このうち初代の閘門は、3代目のすぐ近くに見学用として整備されていました。

初代閘門の水門は2つの扉が観音開きになる方式で(なお、現役の3代目の閘門は門扉が上下して開閉するシャッター方式だそうです。)、現在は半開きの状態で固定されています。最近になって塗りなおされているようで、水色の大きな扉が鮮やかです。

北側の淀川側の水門は、近くにある堤防から一段低いところにあり、階段で下まで降りることもできますが、降りたところに柵が設けられていて、その先の水門をくぐることはできません。

もっとも、南側にある大川側の水門(淀川側に比べてかなり小型です)は開放されていて、そちら側から(旧)水路(当然のことながら現在では水路に水は流されていません。)の中に入ることができ、更に進んで淀川側の水門をくぐることもできます。北側の柵はいったい何のためでしょうか。

水路の中央に見学用の通路が設けられていて、その両側は何故か芝生になっていました。先ほどの柵といい、「こうもん」のペイントといい、この芝生といい、大阪市はよく分からないことに、金と手間を使います。

水路といっても船が通り抜けることができるだけのスペースですから、幅もそれなりにあり、スペース自体はちょっとした広場並みです。両側の側壁はレンガ造りになっていて、ところどころに鎖が取り付けられています。係船環と呼ばれる船を繋ぐためのものだそうです。水路に水を注入または排出するときに船が動かないようにするためでしょうか。

近くには初代閘門の付属施設として建設された洗堰(水が堰の上を越えて流れるタイプの堰)も残っています。淀川(新淀川)から大川に流れ込む水の量を調節するためのものだそうです。なかなかシックなデザインですね。

大阪市やその近郊にお住まいの方であれば、天気のよい休日にでも、広々とした淀川の河川敷や与謝蕪村公園の横をを歩きつつ、ちょっと「毛馬の閘門」に寄ってみられるのも悪くないでしょう。(終)

2015年03月29日

◆懐かしい園城寺(通称三井寺)後編

石田 岳彦(弁護士)



金堂の西側、一段高くなったところに霊鐘堂という小さなお堂があり、横には「弁慶の引き摺り鐘」との案内板が立っていました。中には梵鐘が1つ安置されていて、その側面の一部に擦った痕が残っています。

青銅製の鐘が擦れるわけですから、かなりの力が加わったということでしょう。この鐘については、かの武蔵坊弁慶に関わる伝説があります。

すなわち、源義経の家来になる前、弁慶は比叡山延暦寺で僧兵をしていましたが、ある時、三井寺に攻め込んで、この梵鐘を奪い、延暦寺まで引き摺って帰った際にこの痕が付いたとのこと。

なお、何故、延暦寺に持って行かれた鐘が三井寺に戻っているかというと、延暦寺に連れて行かれた梵鐘が、三井寺に帰りたがって、まともな音を出さなかったので、怒った弁慶が山下まで投げ下ろしたとか・・・。

ちなみに「弁慶の引き摺り鐘まんじゅう」という鐘型の饅頭(名前は違いますが、和歌山の道成寺でも売っていましたね。)が、境内の茶屋や付近の土産物屋で売っていて、甘党の私は来る度に買っています。

霊鐘堂の隣は一切経蔵という、その名のとおり一切経を納めた建物で、回転式の経庫が見た目に面白いです。これを回すとお経を読んだのと同様の功徳があるとかないとか。

南に向かうと唐院と呼ばれるエリアで、三重塔の他に円珍を祀る大師堂、伝法潅頂という儀式を行う潅頂堂があり、大師堂には2体の円珍像と1体の不動明王像が並んでいて、円珍像2体は国宝指定です。

3体の像の中央に祀られている円珍像は「中尊大師」と呼ばれ、上記のように国宝に指定されていて、普段は非公開ですが、毎年10月29日の円珍の命日の法要の後、一般公開されます。

大津地方裁判所での修習生時代、10月29日の昼休みにタクシーを使って、拝みに来たことも、今となっては、よい思い出です。

もう1体の円珍像(国宝)は円珍の遺骨が納められており、「お骨大師」と呼ばれています。この像と不動明王立像(重要文化財。三井寺にあり、「黄不動」の名で有名な国宝の画像を立体化したものです。)は残念ながら、原則として公開の機会はありません(それをいうと中尊大師も原則非公開なのですが、年に1回、定期的に見る機会があるというだけ、ましなのですね)。

三井寺にはこの他にも数多くの質の高い寺宝がありますが、宗教的理由に加え、三井寺に自前の宝物館が無いこともあり、残念ながら、それらの寺宝を見る機会は限られています(同様のことは、同じ大津市内の石山寺にもいえますね。)。

そういう意味では、平成20年から21年に大阪、福岡、東京を回った三井寺展は千載一遇・・・というのはさすがに大げさですが、10年から15年に一度くらいの好機でした。

この展覧会の最大の売りは、国宝に指定された4体の秘仏(「中尊大師」、「お骨大師」、「黄不動(画像)」、「新羅善神像」)の特別公開で、うち中尊大師像を除く3体は十数年ぶりの公開です(他に上記の大師堂の不動明王像等も展示されました)。

展覧会の開催が発表されるや、インターネット上の仏像関係の掲示板が狂騒状態に陥ったのも無理からぬことでした。十数年から20年くらいの周期でこの手の特別展が行われているようなので(保証はできかねますが)見損なった方は気長にお待ちください。

唐院を出て、高台にある観音堂に向かうと途中に勧学院という塔頭があります(三井寺にはこの他にも光浄院等、幾つかの塔頭が存在します。)。

三井寺は桜の季節には夜間に境内を無料開放することがあり、私も2回ほど出かけましたが、その際、この勧学院の書院(国宝)が特別公開されていました(こっちは有料でした)。

昼間公開している寺院が、期間を限定して、夜間も特別に公開するというケースは京都市の清水寺、青蓮院等、けっこうありますが、昼間でさえ基本的に公開していない寺院が、夜間だけ特別公開するというのはかなり珍しいケースでしょう(もっとも、普段でも3名以上で予約すれば、拝観可能なようですが)。



日本庭園の中に鮮やかな絵の書かれた紙製の灯篭(中身は電灯です。火事が怖いですので。)がなかなかに幻想的だったと憶えています。

境内の南西のはずれの高台に観音堂と幾つかの建物があり、観音堂は西国三十三番観音霊場の1つです。

西国三十三番観音霊場はその名のとおり観音菩薩様を祀る霊場33箇所を集めたものですが、中にはこの三井寺観音堂のように本堂(金堂)以外の脇役(?)のお堂が入っていることもあります(他に興福寺南円堂、醍醐寺准胝堂)。

この観音堂のある高台からは昔は琵琶湖がよく見えたようですが、近年、大津港の周辺に大型ビルが建てられ、景観が損なわれました。

もっとも、そうまでして建てたビルがテナントの撤退等で上手くいっていないようで、お役所主導の開発の失敗例になっています。

やはり、「この事業が上手くいかなかったら、会社がつぶれるかもしれない。潰れなくても、俺は会社に居辛くなるかもしれない。」という緊張感がないと事業とは上手くいかないのでしょうか。

余談はさておき、三井寺の境内は狭すぎず、広すぎず、通常であれば、のんびり歩いても1時間半あれば、一周できるはずです(少し離れたところに国宝の新羅善神堂がありますが)。

拝観が終わったら、ついでに琵琶湖を観光するのはどうでしょうか。

ミシガンやビアンカといった観光船に乗り込む手もありますが(私は長いこと色物扱いしていましたが、友人たちとガヤガヤと話しながら乗る分には案外楽しいです)、湖風に吹かれながら、湖畔の散策路(大津港の東側は特によく整備されています)を歩くのもよい感じです。      (終)

2015年03月27日

◆懐かしい園城寺(通称三井寺)前編

石田 岳彦



私は現在、大阪で弁護士をやっていますが、司法修習生のときは大津で1年4月にわたり実務修習を受けていました(司法修習が2年間の時代の話です。今は修習期間が1年ですので色々とスケジュールがタイトのようですね。)。

その間、三井寺(通称です)こと長等山園城寺(ながらさん・おんじょうじ)には何回も行く機会があり、弁護士になってからも2年に1回くらいの頻度で訪れています。

三井寺は、壬申の乱で破れ自殺した大友皇子の霊を慰めるためにその息子の大友与多王が建立したという寺院・・・が、すっかり荒れ果てていたのを、平安時代前期に円珍が再興したというお寺です。

素直に円珍が建てた時点をスタートにすればよいような気がしますが。大友与多王なんて、ほとんど誰も知りません。

ちなみに、私が大津地方裁判所で実務修習していた際に聞いた話では、以前、三井寺が民事訴訟の当事者になった際、境内の土地所有権を主張するにあたり、壬申の乱後の大友与多王のくだりから説き起こしたそうです。

民事訴訟法の原則上、極めて正しい態度なのですが、スケールが大き過ぎるせいか、思わず笑えてきます。

智証大師・円珍は、唐に留学し、天台宗の座主(トップ)になった僧侶です。後年、延暦寺内の派閥争いが激化して、円珍の流れを汲む僧侶たちが山を降り、三井寺に移って天台宗寺門派を築くにあたり、その祖として仰がれるようになりました。

この派閥争いは、端的にいうと、日本天台宗の開祖である最澄亡き後の延暦寺の座主を巡る派閥争いで、一般的には円仁(第3代座主。円珍に先立ち唐に留学。慈惠大師。)派と円珍派との争いと言われることが多いようです。

もっとも、派閥抗争自体は最澄の死後早々、円仁や円珍が座主になる以前に既に生じており、しかも、円仁、円珍とも派閥抗争には批判的だったそうですので、「円仁派」、「円珍派」という呼称は両大師にとって極めて心外なものに違いありません。なお、円仁派を山門派、円珍派を寺門派と呼ぶこともあります。

その後、三井寺は比叡山延暦寺から何度も焼き討ちにあっていて、安土桃山時代には何故か(いまだに理由がよく分からないそうです)豊臣秀吉の逆鱗に触れ、いったん廃寺になるという苦難の歴史をたどっています。

これまた、理由がよく分かっていませんが、死の直前の秀吉から再興許可をもらい、現在の建物の大半は、その後の安土桃山時代末期から江戸時代にかけて建てられたものです(一部、伏見城や御所から移築したものもあるとのこと)。

京阪電鉄の石山坂本線(大津市内の石山と坂本を結ぶ線という意味です。どうでもよい話ですが、しばしば、観光客から「いしやまざか・ほんせん」と誤読されます。)に三井寺駅がありますが、三井寺までは駅から10分近く歩きます。途中の道が平らなのが救いです。

同じ石山坂本線の石山寺駅からも石山寺へは10分以上歩きますので、京阪電鉄はネーミングを反省して欲しいところです。「三井寺口」、「石山寺口」あたりが相当でしょう。

JR大津駅からは更に離れているので、足の弱い方はJR大津駅又は京阪の浜大津駅(三井寺駅は小さな駅ですので、タクシー乗り場はありません。)からタクシーを使うことをお勧めします。

三井寺の境内へは幾つか入り口がありますが、私はできるだけ、正門である大門(重要文化財)から入ることにしています(駐車場、土産物屋もこちらにあります)。

別の寺にあった室町時代に建てられた楼門を家康が寄進したものだそうで、大寺にふさわしい立派なものです。

大門をくぐり、拝観料を払って、まっすぐに進んで階段を登ると金堂(国宝)と鐘楼が見えてきます。

大門が東向きなのに対し、金堂は南側を向いているため、大門から歩いてくると、金堂は横向きになっていて、正面の入り口へは左側に回りこむ必要があります。

金堂は南向きに建てるのが普通なので、本来、正門も南向きに立てるべきなのですが、三井寺の場合、南側が丘陵になっているため、東側(琵琶湖側)に正門(大門)を建てることになったのでしょう。

金堂の中は、本尊の祀られている内陣の四方を外陣が取り囲む構造となっており、参拝者は外陣に並ぶ様々な仏像を拝みながら一周することになります。個人的には円空の彫った数体の善女竜王像がお気に入りです。

なお、内陣にいらっしゃるご本尊は弥勒菩薩ですが、秘仏になっていて、見ることができません。こちらは絶対秘仏といわれ、一般人が見る機会はありません。

善光寺(長野市)のご本尊のようなインパクトのある縁起も無く、文化財にも指定されていないので(文化庁のお役人も見せてもらえないですので)、失礼ながら、参拝客にとって存在感が限りなく薄いです。三井寺のご本尊がどの仏様かと聞かれて、参拝経験のある人でもおそらく9割は答えられないでしょう。

金堂を出て、鐘楼へと向かいます。いわゆる「近江八景」の「三井の晩鐘」です。「近江八景」は、その名のとおり近江国(現在の滋賀県)の代表的な風景を8つ集めたもので、中国湖南省の瀟湘八景に因んで江戸初期のころに、とある貴族に選ばれたとか。

他の7つは「石山の秋月」、「瀬田の夕照」、「矢橋の帰帆」、「粟津の晴嵐」、「比良の暮雪」、「唐松の夜雨」、「堅田の落雁」とされています。滋賀県に住んでいたころはしばしば耳にしました。

もっとも、瀟湘八景に合わせて8つ揃えたものですし、現在では都市化による環境の変化もありますので(「比良の暮雪」以外は現在、それなりに市街地です。)、現地に行ってがっかりという場所も少なくありません。

「三井の晩鐘」はまだ往時の姿をよく残している方です。

本堂の正面に向かって左側に回りこむと小さなお堂を見つけることができます。閼伽井屋(あかいや)といって、井戸というより、泉を囲むお堂です。この湧き水が3代の天皇の産湯に使われたのが「三井寺(御寺)」の名前の由来になったとのこと。静かにしていると、ゴポゴポという水の湧く音も聞こえます。

閼伽井屋の正面には龍の彫刻が取り付けられていて、江戸初期の名工・左甚五郎の作といわれているそうです(この手の話は言った者の勝ちです。)。日光東照宮の眠り猫を作った人ですね。

竜が度々、琵琶湖に遊びに行くので、眼に釘を打って、動けなくしたとのこと。確かに釘が打たれています。 (続く)

2015年03月03日

◆平原遺跡:福岡県糸島市

石田 岳彦


〜名所旧跡だより〜


私の故郷である福岡市の周辺では、「桧原(ひばる)」、「屋形原(やかたばる)」、「前原(まえばる)」と、「原」を「はら」ではなく、「ばる」と呼ぶ地名が散在しており、上記の「平原」も「ひらはら」ではなく、「ひらばる」と読みます。

本日は福岡県糸島(いとしま)市にある平原遺跡について述べさせていただきます。

魏志倭人伝には邪馬台国を初め、多くの国名が記載されていますが、伊都(いと)国もその中の1つです。

現在の福岡市西区から糸島市にかけては、もともとは糸島郡であった地域ですが(平成の大合併で、前原市と志摩町、二丈町がまとまって糸島市が誕生し、糸島郡は最終的に消滅しました。)、この糸島郡自体、明治時代に怡土(いと)郡と志摩(しま)郡が合併して成立しました。

この怡土が伊都と通じること、佐賀県の旧松浦郡(現在の伊万里から唐津あたりにかけての地域)にあったとされる末廬国(まつら)国の南東に伊都国があったとの魏志倭人伝の記載から、伊都国は旧糸島郡にあったとされているそうです。

平原遺跡はこの伊都国の女王の墓とされています。 平原遺跡は糸島市の平原地区(遺跡の大半は発見された場所の地名で呼ばれます)にあり、周辺はのどかな農村地帯です。

そもそもこの遺跡が発見されたのも、昭和40年に地元の農家が蜜柑の木を植えようとして、銅鏡の欠片を発見したことがきっかけでした。


報告を受けた福岡県は、郷土史家の原田大六(大正6年の生まれということで、こう名付けられたそうです。)に発掘の指揮を依頼しました。


この原田大六は、糸島中学校(今の福岡県立糸島高校)を出たものの、大学では学ばず(歴史しか勉強しようとしなかったので、進学が無理だったとか)、太平洋戦争から復員した後、公職追放にあったのを契機に(軍隊において憲兵隊に入っていたのが祟ったといわれています)、中山平次郎博士に弟子入りし、博士から9年以上にわたり、1日6時間以上のマンツーマン指導を受け、考古学者になったという歴史小説の主人公にもなれそうなユニークな経歴と個性の持ち主です。


ちなみに中山博士は、現在でいうところの九州大学医学部の教授でありながら、寧ろ考古学者としての業績が有名という(九州考古学会の設立者だそうです)、これまた変わった経歴の持ち主で、この師匠にして、この弟子ありというところでしょうか。

この原田大六が、途中からは自費で発掘を継続し、遺跡からは墳墓の副葬品と見られる多くの出土品が発掘されました。

発掘品の中でも特に目立つのは39面又は40面(何分、破片で見つかったので、枚数について争いがあるようです。)発見された銅鏡で、うち4枚は直径46.5cmと、日本で発見された銅鏡として最大のものです。


他方で、剣等の武器はほとんど見つかっておらず、被葬者が女性であったことをうかがわせます。 副葬品の内容と豪華さから見て、時代は弥生時代。被葬者は王クラスの女性、つまり女王。遺跡(墳墓)のあった場所は伊都国があったとされるエリアということで、現在では、上記のように伊都国の女王の墓と推定されています。

弥生時代の女王といえば、邪馬台国の卑弥呼が有名ですが(実際には「日巫女」という太陽神を祀る神官女王の役職名だったのではないかとの説もあるそうですが)、それ以外にも女王がいたのですね。


ちなみに原田大六は玉依姫(たまよりひめ。神武天皇の母親とされる神話上の女神です。)の墓と主張していました。


平原遺跡の女王の墓は四角形(現在では少なからず形が崩れていますが)で、写真を見ればお分かりのように、その周囲には溝が掘られています。学問的には方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)と呼ばれるタイプの墓だそうで、上記の発掘品も近年になって「福岡県平原方形周溝墓出土品」という名称で一括して国宝に指定されています。


現在の平原遺跡は、墳墓の周りが低い柵で囲まれ、その周囲は横長のレリーフが建っているのを除けば何もない広場になっており、少し離れたところに古民家(遺跡とは全く関係ありませんが、保存のため移築されたようです)が1軒ぽつんという、よく言えば開放的、率直にいえばスペースが広々と余った歴史公園となっています。個人的にはこういう長閑な雰囲気は好きですが。


平原遺跡から車で10分ほど走ると農村風景の中に4階建の立派な建物がそびえているのが見えてきます。伊都国歴史博物館です。もともとは伊都歴史資料館といったようですが、平成16年に新館が建てられて博物館に昇格したとのこと。


「福岡県平原方形周溝墓出土品」の一部は九州国立博物館の平常展示室で公開中ですが、大半の発掘品はこちらの新館に保管・展示されています。館内撮影禁止のために写真はありませんが、鈍く緑色に輝く大型の銅鏡がケースの中にずらっと並ぶ姿はさすがに壮観です。
 

展示ケースの前に、立てられた状態の銅鏡が1枚、機械仕掛けでゆっくりと回転しながら展示されていましたが、見学者が私と妻の他におらず(施設と所蔵品の豪華さを考えれば、もったいない限りです。)、静けさの中で、微妙なモーター音をあげながら回転する銅鏡の姿は率直にいって不気味でした。


この博物館の前身たる伊都歴史資料館の初代館長には、上でも述べた原田大六が予定されていたそうですが、大六が開館を待たずに死去したため、名誉館長の称号が追贈され、資料館の前に銅像が立てられました(銅像は現在も立っていますが、新館の入り口からだと目立たない場所になっています)。


自分の主導で遺跡を発掘し、国宝級の副葬品を発見して、それを納めた郷里の資料館の前に銅像を建ててもらう。郷土史家としては頂点を極めたという感じですね。大学の考古学の教授でもここまでの成功を得られる人は滅多にいないでしょう。
 

福岡市やその近郊にお住まいの方は休日にでもドライブがてらにでも、平原古墳と伊都国歴史博物館を訪れてみてください。晴れた日には本当に気持ちの良い場所ですので。(2011年04月16日:再掲)  <弁護士>

2015年02月05日

◆「古寺旧跡巡礼」伝香寺(奈良市)

石田 岳彦



今回は、奈良市内にある「伝香寺」のお話です。

近鉄奈良駅から南西に8分ほど歩いたところに伝香寺というお寺があります。このお寺は本堂と地蔵菩薩立像が重要文化財に指定されていますが、奈良市内では特に目立つ存在でもなく、また、境内で幼稚園を経営しているという防犯上の理由もあってか、普段は、立ち入り禁止です。

戦国時代末から安土桃山時代にかけて、織田信長、豊臣秀吉に仕えて活躍した筒井順慶という武将がいます。この伝香寺は、順慶が若くして病死した後、その母が息子の菩提を弔うために建立したお寺です。

筒井順慶といえば、一般には本能寺の変の後、山崎の合戦の際の「洞ヶ峠の日和見」の話で有名になっています。

これは、山崎の合戦を前に豊臣秀吉と明智光秀からそれぞれ味方につくよう誘われた順慶が、どちらに味方をするか決心がつかず、山崎の地からほど近い洞ヶ峠(京都府八幡市と大阪府枚方市との境界にある峠)で日和見を決め込んでいたというものです。

しかし、近年の研究では、実際に洞ヶ峠に向かい、順慶に出兵を促したのは光秀であり、順慶は一部の兵を光秀側に送ろうとしたものの、途中で止め、自身は大和から動いていないという説が有力になっています・・・と拝観券と一緒に受け付けでもらったパンフレットには載っていました。

拝観券売り場の横に積まれていた「洞ヶ峠の真実」という本にも多分、同じような内容が載っているのでしょう。

もっとも、光秀と親しかった順慶としては、光秀を見殺しにすることにかなり忸怩たるものがあったようで、結局、秀吉と密かに通じつつも、合戦には参加せず(秀吉としても順慶が光秀側に参戦しないことでよしとしたようです。)、中途半端な態度をとったのは事実です。

とはいえ、光秀の姻族(光秀の娘、いわゆるガラシャ夫人は細川忠興の正妻でした。)でありながら、信長の喪に服して出家するとの理由で、あっさりと局外中立の姿勢をとった細川藤孝、忠興の親子が世間から特に非難を浴びているわけでもないのに、順慶が洞ヶ峠の件で揶揄されるのは確かに不公平な話で、筒井一族が文句をいいたくなるのはよく分かります。

受付のある境内北東角の門をくぐると(というか、くぐる前から)本堂は目の前です。境内が狭いですね。

南側の入り口に回りこむ途中、参道の右側に見事な椿の木があります。この椿は「武士の椿(もののふのつばき)」と呼ばれ、大和三名椿に数えられているそうです(他の2つは白毫寺五色椿、東大寺開山堂糊こぼし椿とのこと。機会があったら見てみたいです。)。

一般に椿は花が散らず、そのままボトリと落ちるため、斬首を連想させ、武士からは不吉として忌まれていますが、この椿は花びらが桜のように潔く散るため、武士たちからも好まれていたとのこと。突然変異でしょうか。

参道の左側には筒井順慶の像を祀っている最近になって建てられたお堂があります。筒井一族が浄財を出し合って建てたとのことです。

正面に回り、本堂へ。

本堂奥に釈迦如来が鎮座していますが、その前に立っている地蔵菩薩立像の存在感の前に霞んでしまっています。

この重要文化財の地蔵菩薩立像は裸形であり、その上に布製の僧衣をまとっているのが特色で、くすんだ木肌の仏像と色鮮やかな布製の僧衣とのギャップがインパクト大ですね。

鎌倉時代の作で、もともとは別の寺院にあったのが、廃仏毀釈の際に伝香寺に持ち込まれたそうです。

奈良に出掛けましょう!    (弁護士)

2014年10月26日

◆古寺旧跡巡礼「住吉神社」(福岡)

石田 岳彦



一)福岡市博多区の博多駅の近くにある住吉神社が、住吉神を祀る神社として最古のものだと考えられているそうです。

日本書紀によれば、仲哀天皇が后の神功皇后とともに、熊襲(九州南方の反朝廷勢力)を攻めようと筑前国(現在の福岡県北部)香椎宮(今の福岡市東区香椎にあった仮の宮殿)にあった際、住吉神が神功皇后に乗り移り、熊襲ではなく、朝鮮半島を攻めるようにとの神託を下したことになっています。

記録に残っている限りでは、住吉神が人間とコンタクトをとったのはこれが最初です。

結局、仲哀天皇はこの神託に逆らったために祟り殺され(おっかないですね。)、未亡人となった神功皇后が朝鮮半島に遠征して勝利を収めました。

また、同じく日本書紀によると、それより遡る神代のころ、イザナギノミコトが黄泉国から命からがら逃げ帰ってきた後、「筑紫(現在の福岡県の大半。北部の筑前と南部の筑後に分かれます)の日向の橘の小戸の阿波伎原」で禊をし、その際、他の神々と一緒に住吉神が生まれたことになっています。

これらの話は、勿論、歴史というより、神話、伝説の類ですが、このような伝説が残り、日本書紀にまで記載されていることは、住吉神が古代より筑紫国、特に筑前国と深く関わる神と考えられてきたことの証拠といえるでしょう。

ということで、福岡市博多区の住吉神社が最古です。本家です。本元です。福岡市出身者としてはよい気分です。

もっとも、ご存知のように、現在、住吉神を祀る神社の総本社は大阪市内にある住吉大社とされています。

これは、住吉大社の方が、摂津国にあり、都に近く、天皇や貴族が参拝しやすいので、都を遠く離れた筑前の住吉神社よりも、朝廷から重く扱われるようになったということでしょうか。

とはいえ、同じ九州にある宇佐神宮(大分県宇佐市)が、石清水八幡宮(京都府八幡市にあります。

数多くの八幡宮の中で実質的にNo2です。)が建立された後も八幡宮の総本社の地位を守っていることを思うと、宇佐神宮の持っていた政治力(東大寺の大仏建立に協力したり、道鏡事件でポイントを稼いだり)を筑前の住吉神社が持っていなかったといえるのかも知れません。

二)住吉神社の境内の南端には小さいとも大きいともいい難いサイズの池が1つあります。昔、この池は海と繋がっていたそうで、上でも述べた「筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原」もこの地ではないかと言われているそうです。

ちなみに、イザナギノミコトの禊の際、住吉神と一緒に生まれたのは、天照大神(アマテラスオオミカミ)、スサノオノミコト、月読命(ツクヨミノミコト)等の極めて有名な神々です。

つまり、天照大神も、スサノオノミコトも、月読命も、住吉神も、みんな私と同じ福岡市出身です。博多っ子です(無論、神代には福岡市も、博多の町も博多っ子もありませんでしたが。)。福岡市出身者として、すごくよい気分です。

それはさておき、参道を北へと進むと、間も無く、石鳥居の向こうに門と回廊が見えてきます。

住吉神社の由緒書によると、本来、博多の住吉神社には住吉3神(山口の住吉神社の回で触れましたが、住吉神は3柱の神の総称です。)のそれぞれに1棟ずつ、計3棟の本殿があったそうですが(なお、大阪の住吉大社には、+神功皇后で本殿が4棟あります。)、戦国時代に火災で失われ、江戸時代初期の1623年に福岡藩の初代藩主の黒田長政(軍師黒田官兵衛・如水の長男)が、本殿を再建することになったものの、財政上の理由から1棟だけで終了ということになったようです。

・・黒田52万石が泣きます。

本殿は、住吉造と呼ばれる、住吉神を祀る神社に特有の形式です(ただし、長門の住吉神社が九間流造だったように、住吉神社だからといって、必ずしも住吉造というわけでもありません。)。具体的には、切妻屋根で妻入(平面図が長方形の建物の短い方の辺に入り口があること)。壁は白く、他方、柱、垂木(棟から延びる屋根を支える部材)等が朱塗りで、白と赤のコントラストが綺麗です。

また、本殿の周囲にびっしりと赤い板(上端のみ黒に塗られ、先が丸まっている)を並べた玉垣がめぐらされています。本殿が玉垣に囲まれているのは他の形式の社殿にもありますが、住吉造りの場合、玉垣が本殿に密着して設けられ、本殿の一部のようになっているのが特色です。

実のところ、ここの本殿は、住吉造の建物としても、やはり、現存最古なのですが、住吉大社の本殿が国宝に指定されているのに対して、こちらは重要文化財止まり(?)となっています。

確かに、客観的に見て、住吉大社の本殿の方がはるかに立派で、金のかかっていそうな建物です。

しかし、福岡の方が180年以上も古い、田舎の方の小さな神社で「△△形式では現存最古」という理由で本殿が国宝に指定されているところもあるので、愛郷心が旺盛な者としては、総本社の地位も含め、美味しいところを住吉大社に持っていかれているようで複雑な気分になります。

博多駅(駅のどこにいるかにもよりますが)から徒歩10分未満。日本神話に心惹かれるという方にお勧めです。(弁護士)

2014年10月11日

◆平原遺跡(福岡県糸島市)

石田 岳彦



私の故郷である福岡市の周辺では、「桧原(ひばる)」、「屋形原(やかたばる)」、「前原(まえばる)」と、「原」を「はら」ではなく、「ばる」と呼ぶ地名が散在しており、上記の「平原」も「ひらはら」ではなく、「ひらばる」と読みます。

本日は福岡県糸島(いとしま)市にある平原遺跡について述べさせていただきます。

魏志倭人伝には邪馬台国を初め、多くの国名が記載されていますが、伊都(いと)国もその中の1つです。

現在の福岡市西区から糸島市にかけては、もともとは糸島郡であった地域ですが(平成の大合併で、前原市と志摩町、二丈町がまとまって糸島市が誕生し、糸島郡は最終的に消滅しました。)、この糸島郡自体、明治時代に怡土(いと)郡と志摩(しま)郡が合併して成立しました。

この怡土が伊都と通じること、佐賀県の旧松浦郡(現在の伊万里から唐津あたりにかけての地域)にあったとされる末廬国(まつら)国の南東に伊都国があったとの魏志倭人伝の記載から、伊都国は旧糸島郡にあったとされているそうです。

平原遺跡はこの伊都国の女王の墓とされています。 平原遺跡は糸島市の平原地区(遺跡の大半は発見された場所の地名で呼ばれます)にあり、周辺はのどかな農村地帯です。

そもそもこの遺跡が発見されたのも、昭和40年に地元の農家が蜜柑の木を植えようとして、銅鏡の欠片を発見したことがきっかけでした。

報告を受けた福岡県は、郷土史家の原田大六(大正6年の生まれということで、こう名付けられたそうです。)に発掘の指揮を依頼しました。

この原田大六は、糸島中学校(今の福岡県立糸島高校)を出たものの、大学では学ばず(歴史しか勉強しようとしなかったので、進学が無理だったとか)、太平洋戦争から復員した後、公職追放にあったのを契機に(軍隊において憲兵隊に入っていたのが祟ったといわれています)、中山平次郎博士に弟子入りし、博士から9年以上にわたり、1日6時間以上のマンツーマン指導を受け、考古学者になったという歴史小説の主人公にもなれそうなユニークな経歴と個性の持ち主です。


ちなみに中山博士は、現在でいうところの九州大学医学部の教授でありながら、寧ろ考古学者としての業績が有名という(九州考古学会の設立者だそうです)、これまた変わった経歴の持ち主で、この師匠にして、この弟子ありというところでしょうか。

この原田大六が、途中からは自費で発掘を継続し、遺跡からは墳墓の副葬品と見られる多くの出土品が発掘されました。

発掘品の中でも特に目立つのは39面又は40面(何分、破片で見つかったので、枚数について争いがあるようです。)発見された銅鏡で、うち4枚は直径46.5cmと、日本で発見された銅鏡として最大のものです。

他方で、剣等の武器はほとんど見つかっておらず、被葬者が女性であったことをうかがわせます。 副葬品の内容と豪華さから見て、時代は弥生時代。被葬者は王クラスの女性、つまり女王。遺跡(墳墓)のあった場所は伊都国があったとされるエリアということで、現在では、上記のように伊都国の女王の墓と推定されています。

弥生時代の女王といえば、邪馬台国の卑弥呼が有名ですが(実際には「日巫女」という太陽神を祀る神官女王の役職名だったのではないかとの説もあるそうですが)、それ以外にも女王がいたのですね。

ちなみに原田大六は玉依姫(たまよりひめ。神武天皇の母親とされる神話上の女神です。)の墓と主張していました。

平原遺跡の女王の墓は四角形(現在では少なからず形が崩れていますが)で、写真を見ればお分かりのように、その周囲には溝が掘られています。学問的には方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)と呼ばれるタイプの墓だそうで、上記の発掘品も近年になって「福岡県平原方形周溝墓出土品」という名称で一括して国宝に指定されています。

現在の平原遺跡は、墳墓の周りが低い柵で囲まれ、その周囲は横長のレリーフが建っているのを除けば何もない広場になっており、少し離れたところに古民家(遺跡とは全く関係ありませんが、保存のため移築されたようです)が1軒ぽつんという、よく言えば開放的、率直にいえばスペースが広々と余った歴史公園となっています。
個人的にはこういう長閑な雰囲気は好きですが。

平原遺跡から車で10分ほど走ると農村風景の中に4階建の立派な建物がそびえているのが見えてきます。伊都国歴史博物館です。もともとは伊都歴史資料館といったようですが、平成16年に新館が建てられて博物館に昇格したとのこと。

「福岡県平原方形周溝墓出土品」の一部は九州国立博物館の平常展示室で公開中ですが、大半の発掘品はこちらの新館に保管・展示されています。館内撮影禁止のために写真はありませんが、鈍く緑色に輝く大型の銅鏡がケースの中にずらっと並ぶ姿はさすがに壮観です。
 
展示ケースの前に、立てられた状態の銅鏡が1枚、機械仕掛けでゆっくりと回転しながら展示されていましたが、見学者が私と妻の他におらず(施設と所蔵品の豪華さを考えれば、もったいない限りです。)、静けさの中で、微妙なモーター音をあげながら回転する銅鏡の姿は率直にいって不気味でした。

この博物館の前身たる伊都歴史資料館の初代館長には、上でも述べた原田大六が予定されていたそうですが、大六が開館を待たずに死去したため、名誉館長の称号が追贈され、資料館の前に銅像が立てられました(銅像は現在も立っていますが、新館の入り口からだと目立たない場所になっています)。

自分の主導で遺跡を発掘し、国宝級の副葬品を発見して、それを納めた郷里の資料館の前に銅像を建ててもらう。郷土史家としては頂点を極めたという感じですね。大学の考古学の教授でもここまでの成功を得られる人は滅多にいないでしょう。
 
福岡市やその近郊にお住まいの方は休日にでもドライブがてらにでも、平原古墳と伊都国歴史博物館を訪れてみてください。晴れた日には本当に気持ちの良い場所ですので。  <弁護士>

2014年09月04日

◆蕪村公園横の「毛馬の閘門」

石田 岳彦


阪急千里線の柴島駅(本筋から思い切り離れますが「柴島」を初見で「くにじま」と読める人がどれだけいるでしょうか。)から天神橋筋六丁目駅へ向かい、淀川にかかる鉄橋を渡る際、左側奥、淀川大堰の向こう側に大きな「水門」が見えますが、その水門には「毛馬こうもん」と白抜きで大きく書かれています。

「こうもん」を漢字で書くと「閘門」です(ちなみに「毛馬」は地名で「けま」と呼びます)。

最近は警察署にも建物の壁に「けいさつ」と平仮名で大きく書いているところがありますが、「閘門」と書いても読めない人が多いので、「こうもん」と平仮名で書いているのでしょうか。

もっとも、警察署と違い、読みだけ知ったところで何をやっている施設かは分からないと思いますが。

それはさておき、阪急千里線を通勤経路にしている私にとって、毛馬の閘門は見慣れた存在でしたが、近くにまで行く機会はありませんでした。

平成20年春、毛馬の閘門が国の重要文化財に指定されることになったというニュースを聞いた私は、これをよい機会と毛馬の閘門に行ってみました。我ながらミーハーです。

毛馬の閘門に行くには、天神橋筋六丁目駅(阪急千里線、地下鉄堺筋線・谷町線)から北上し、淀川にかかる長柄橋の南詰めから河川敷に出て、更に5分ほど東へ歩きます。

河川敷は公園になっていて、堤防上には歩道も整備されていて、歩いていて楽しい道ですが、天神橋筋六丁目駅からは20分以上の歩きになり、大阪市内ということを考えると交通の便の悪い場所といえるでしょう(私がなかなか行く気になれなかった理由もこれです。)。
 
現地に設けられていた説明板によると、閘門というのは、水位の異なる川、運河等の間で船を行き来させるため、両側に水門を設けた水路で、毛馬の閘門の場合、大川(低)と淀川(高)との間の高低差を調整して船を通すために建造されたものです。

淀川から大川に入る場合、まず、水路内の水位を淀川に合わせたうえ、淀川側の水門のみを開けて船を水路に入れたうえで閉じ、水路内の水を抜いて、水面の高さを大川と同水位に下げた後、大川側の水門を開けて船を通過させるという仕組みになっています。

逆に大川から淀川に行く場合には、大川側から水路に船を入れたうえ、水を補充して水路面を淀川と同水位にまで上げてから、淀川側の水門を開放することになります。

なお、そもそも隣り合っている2つの川の水面に何故、極端な高低差があるかといえば、本来の淀川の流れは大川の方で、現在の淀川のうち毛馬よりも河口側の部分(新淀川)は明治時代に治水上の必要で人工的に作られたためだそうです。

ちなみに現在の毛馬の閘門は3代目で、私が毎朝見かけている「毛馬こうもん」もこの3代目にあたります。今回、重要文化財に指定されたのは、初代と2代目(今は船溜になっているそうです)で、このうち初代の閘門は、3代目のすぐ近くに見学用として整備されていました。

初代閘門の水門は2つの扉が観音開きになる方式で(なお、現役の3代目の閘門は門扉が上下して開閉するシャッター方式だそうです。)、現在は半開きの状態で固定されています。最近になって塗りなおされているようで、水色の大きな扉が鮮やかです。

北側の淀川側の水門は、近くにある堤防から一段低いところにあり、階段で下まで降りることもできますが、降りたところに柵が設けられていて、その先の水門をくぐることはできません。

もっとも、南側にある大川側の水門(淀川側に比べてかなり小型です)は開放されていて、そちら側から(旧)水路(当然のことながら現在では水路に水は流されていません。)の中に入ることができ、更に進んで淀川側の水門をくぐることもできます。北側の柵はいったい何のためでしょうか。

水路の中央に見学用の通路が設けられていて、その両側は何故か芝生になっていました。先ほどの柵といい、「こうもん」のペイントといい、この芝生といい、大阪市はよく分からないことに、金と手間を使います。

水路といっても船が通り抜けることができるだけのスペースですから、幅もそれなりにあり、スペース自体はちょっとした広場並みです。両側の側壁はレンガ造りになっていて、ところどころに鎖が取り付けられています。係船環と呼ばれる船を繋ぐためのものだそうです。水路に水を注入または排出するときに船が動かないようにするためでしょうか。

近くには初代閘門の付属施設として建設された洗堰(水が堰の上を越えて流れるタイプの堰)も残っています。淀川(新淀川)から大川に流れ込む水の量を調節するためのものだそうです。なかなかシックなデザインですね。

大阪市やその近郊にお住まいの方であれば、天気のよい休日にでも、広々とした淀川の河川敷や与謝蕪村公園の横をを歩きつつ、ちょっと「毛馬の閘門」に寄ってみられるのも悪くないでしょう。(終)