2014年07月08日

◆「古寺旧跡巡礼」 当麻寺 A

石田 岳彦


当麻寺は、境内の南側に2つの三重塔があり、その北側に金堂、更にその北側に講堂があるという、薬師寺と同じ伽藍の配置ですが、スペースが足りなかったのか、敷地の南側は丘になっていて、2つの塔は斜面を削り取って造成された高台に建てられています。

しかも、金堂と講堂の西側に本堂が東向きに建っていて(講堂と金堂は南向き)、大門(正門)が南ではなく、東側にあり(金堂ではなく、本堂に合わせているようです。)、更に金堂と東西の塔の間に2つのお坊が割り込み、西塔と東塔の間にもやはりお坊が建てられるなど、平地に整然と建物が並んでいる薬師寺に比べて、かなりのカオス状態です。

そこに見えている2つの三重塔に境内案内図で通路を確認しながらでないと辿り着けないというのですから、何時か、何処かで、何かを間違えてしまったに違いありません。

 金堂とはその寺のご本尊となる仏像がまつられているお堂で、本堂とはその寺の中心的なお堂をいいます。講堂は仏法についての講話を聴くための場所となるお堂です。

 古代からの寺院の場合、法隆寺、東大寺、興福寺、薬師寺、唐招提寺等のように、金堂はあっても、本堂とはされていない(つまり、その寺院に「本堂」と呼ばれる建物がない)ことが多いようです。仏舎利をまつった塔が伽藍の中心という考えが強かったためでしょうか。

 他方、比較的新しい時代のお寺では、金堂=本堂で、単に「本堂」と呼ぶことが多く、いずれにしても、金堂とは別に本堂があるという当麻寺のようなお寺は珍しいです(ざっと調べた範囲では、有名な寺院だと、他に室生寺くらいです)。

 もともと当麻寺は、聖徳太子の異母弟の麻呂古王(日本書紀によると当麻氏の祖とされています)が開いた寺を、当麻国見(たいまのくにみ)が現在の地に移したとされる(あくまでも寺伝で、実際のところはよく分かっていないようです)、金堂を中心とするお寺でした。

 しかし、後世に中将姫伝説が有名になってしまい、もとから存在した金堂とは別に、中将姫お手製の曼荼羅をまつったお堂(曼荼羅堂)が「本堂」に昇格してしまったため、「金堂」と「本堂」が並存するという珍しい状態になったようです。

本堂にある受付にいって、本堂、金堂、講堂の拝観共通券を買います。国宝の本堂は瓦葺で、寄棟造(屋根の形状で、棟から4方向に傾斜する屋根面を持つもの)、平入り(床が長方形の建物で、広い辺の側に入り口があることをいいます)と、仏教寺院の本堂としては、オーソドックスな形をしています。

上記のように中将姫の織った曼荼羅をまつるお堂で、奈良時代末から平安時代初期に建てられたものが、平安時代末期に改造されて現在の姿になったということです。

 本堂の中央に立派な須弥檀(しゅみだん)があり、その上にやたらとでかい厨子が載っています。奈良時代末から平安時代の初期に作られたものといわれているそうです。

 厨子の中に飾られている曼荼羅(約4m×4mというでかさです。厨子がでかくなるのも当然です)は、まさしく中将姫により織られた伝説の曼荼羅・・・ではなく、残念ながら、室町時代に作られた複本ですが、それでもかなりの古さを感じさせます。というか、相当に傷んでいます。

ちなみにオリジナルは更に傷みが激しいらしく、原則として非公開になっていて、私もいまだに実物にお目にかかったことがありません。オリジナルの写真を見ましたが、思わず「傷み」を「悼み」と誤植したくなるくらい、相当に傷んでいます。

 阿弥陀様が中央に座っていて、その周囲を多くの菩薩が囲み、後方に描かれた横長の建物は平等院鳳凰堂のモデルになったということですが、退色に加え、曼荼羅の上に金網が張られているので、細かな部分までは分かりません。

ちなみに厨子の蓋(現在残っているのは鎌倉時代に作られた後補のものですが)は取り外されていて、時々、奈良国立博物館に展示されています。黒漆の地に金蒔絵というシンプルながら豪華な一品です。

 厨子の右側には中将姫の念持仏と言われる十一面観音像がまつられており、弘仁時代(平安前期。810年−823年)の作といわれています。

「奈良時代に亡くなったお姫様が、何故、平安時代に作られた観音様を拝めたのだろう?」という素朴な疑問は忘れて、素直な心でお参りしましょう。歴史考証というものは、少なからずロマンと対立するものす。 (つづく)  <弁護士>               

2014年07月07日

◆「古寺旧跡巡礼」当麻寺 @

石田 岳彦



<私は大阪で弁護士をしています。大学生時代からの趣味で、社寺、名勝、旧跡から、明治以降のいわゆる近大遺産まで、九州から東北まで(そのうち北海道にも行きたいです)、「歴史的なもの」を見て回っています。今回「私の古寺旧跡巡礼」と題して綴ってみました>。
 

さて本題―。奈良県葛城市(旧当麻町)にある「当麻寺」というのは、不思議なお寺です。

国宝の仏像、曼荼羅、厨子、本堂、2基の三重塔、梵鐘、重要文化財多数を持っているという文化財の宝庫で、「古寺巡礼」、「日本の寺院100選」といった書籍、雑誌の特集があれば、必ず名前のあがるという古寺巡りや古文化財のファンの間では常識というか、知らない人はもぐり扱いされるという有名なお寺ですが、世間一般の知名度は高くないようです。

 おそらく、奈良、飛鳥、斑鳩という奈良県内のメジャーな観光地から離れたところにあるので、観光客が少ないことが原因でしょう。観光ガイドの扱いも微々たるものです。

もし、奈良市内にあれば、東大寺や興福寺は無理でも、薬師寺や唐招提寺なみにはメジャーになれたであろうという、ある意味とても不運なお寺といえます。

もっとも、奈良市内にあったならば、上記の文化財の少なからずが、戦火に巻き込まれて灰になった可能性もありますが。


ところで、当麻寺の最大の売り物(?)は、中将姫伝説です。

中将姫は、奈良時代の貴族のお姫様で、継母に度々、命を狙われるという苦難を乗り越え、阿弥陀如来の導きによって極楽浄土の光景を描いた曼荼羅を織り上げ、極楽浄土へ旅立ったとされる伝説上の人物です。

これが、「本当は怖いグリム童話」なら、シンデレラのように、継母の目を鳩がほじくったり、或いは、白雪姫のように、継母に焼けた鉄の靴を履かせたりといった感じのハッピーエンドになるところですが、そういう物騒な展開はありません。仏教説話ですから。

 継母がその後、地獄に落ちて、閻魔様に舌を抜かれるという因果応報的な後日談はあるかも知れません。仏教説話ですから。

近鉄南大阪線の当麻寺駅を出て、まっすぐ西を目指します。駅から出発してまも無く、右側路傍に当麻蹴速(たいまのけはや)の墓、とされる五輪塔があります。

 この蹴速は、垂仁天皇の時代の人で、天下最強を宣言して挑戦者を募っていたところ、垂仁天皇の命で、出雲からやってきた野見宿禰(のみのすくね)と相撲をとることになり、宿禰に蹴り殺された(当時の相撲は今よりもかなりバイオレンスなルールだったようですね。)という、色々な意味で「痛い」人です。

もっとも、垂仁天皇(日本書紀等の記述によると紀元前1世紀から1世紀にかけて在位。卑弥呼よりも前です。)自体、実在が危ぶまれている状況ですので、この話も歴史というより、伝説の部類です。

この蹴速と宿禰の対戦が、わが国の相撲の始まりとされているそうです。すぐ近くに相撲館という、相撲資料館まで建てられています。中将姫と当麻蹴速とおぼしき男女のかわいらしいキャラクターのイラストがポスターに載っていました。今、はやりのユルキャラというやつでしょうか。余計なお世話だと思いますが、かなり幸の薄そうなカップルです。

駅から歩いて15分ほどで大門に着きます。境内の東端に建っている楼門で、古寺にふさわしい風格です。大門を入ってすぐ、正面には鐘楼があります。国宝の梵鐘を「吊ってある」お堂です。

「吊ってある」というのは、一見、梵鐘が吊られているように見えますが、実は下に台が設けられていて、梵鐘はその上に置かれているからです。以前にお寺の方から聞いた話では、十数年前まで当麻寺には鐘楼は存在せず、梵鐘もいずれかのお堂に置かれていたそうです。

その後、鐘楼が再興され、それに合わせて梵鐘を鐘楼に吊るすことになったものの、いざ、吊るそうという段になって、龍頭(梵鐘を吊るすための上部にある輪状の突起)にひびがあるのが発見され、吊るすことができなくなってしまいました。

にもかかわらず、「せっかく再建したのだから鐘楼に梵鐘を飾りたい」ということで、こうなったようです。観光ガイドにも載っていない、思いっきりどうでもよいトリビアといえます。(つづく)

<福岡県福岡市出身、大阪弁護士会・弁護士>

2014年06月22日

◆古寺旧跡巡礼:「太宰府天満宮」

〜福岡県太宰府市〜
石田 岳彦


私の生まれた福岡市とその周辺には筥崎宮、香椎宮、宗像大社、住吉神社等、全国的に見て(知名度は兎も角)格式の高い神社が揃っています。

言うまでもなく、太宰府天満宮は学問の神様、受験の神様として全国的に有名で、私も高校受験、大学受験とお世話になりました(重ねて私事で大変恐縮ですが、実は私の結婚式もこの神社です。)。

平安時代前期の学者、政治家である菅原道真公は、藤原時平との政争に破れて大宰府(ちなみにお役所として「だざいふ」という場合には「太宰府」ではなく「大宰府」と書くそうです。

あと、本来「大宰府」とは複数の国を管轄する役所を指す普通名詞で、大宝律令以前には吉備国等にも大宰府があったとか。)に左遷(実質的には流罪)され、その地でさびしく世を去りました。

道真の学問上の弟子であり、道真のお供として都から大宰府に来て道真の世話をしていた味酒安行(うまさけ・やすゆき)は、道真の遺骸を牛車に乗せて、近くの安楽寺に運びましたが、寺の門前で牛が動かなくなったため、その地に道真を葬り、廟を建てたのが太宰府天満宮の起こりといわれています(明治以前は「安楽寺天満宮」と呼ばれていたそうです。なお、このエピソードに因んで牛は天神様の使いとされました。)。

その後、時平が急死し、道真の怨霊の仕業とされる天変地異が立て続けに生じたこともあり、時平の口車に乗って道真を左遷した醍醐天皇は恐怖にかられ、道真の霊に詫びを入れるべく、大臣を大宰府に派遣して本格的に社殿を造営しました(その甲斐もなく、結局、崇り殺されました。)。
 
ところで、天神様の総本社といえば、太宰府天満宮と並んで北野天満宮も有名ですが、こちらは平安京のとある巫女さんが神懸りになって、北野の地に道真を祀る神社を建てるよう託宣したのを契機として建立されています。

従って、太宰府天満宮と北野天満宮はどちらかが本で、どちらかが末というものではなく、祭神は同一ですが、それぞれ別個に成立した神社です。

もっとも、建てられたのは太宰府天満宮の方が早いですが。太宰府天満宮の方が早いですが(福岡県出身者として、とても大切なことなので2回言いました。)。

太宰府天満宮に参拝するのであれば、福岡市の中心である天神から西鉄大牟田線に乗り、二日市駅で太宰府線に乗り換えるのが便利でしょう。終点の太宰府駅の改札をくぐると、多くの参拝客で賑わう太宰府天満宮の門前町です。

参道沿いには、各種の土産店が並んでいますが、名物の「梅が枝餅(うめがえもち)」を店頭で焼いている店が目立ちます。

梅が枝餅は、餡子を薄い餅の生地で包み、梅の花の刻印の入った焼き型で焼いた焼餅で、焼き立てのものは、表面がパリッとしていて、中はヤワヤワでモチモチしていて美味です。個人的には、福岡に帰省した際に博多ラーメンと並んで食べたい懐かしい味ですね。

梅が枝餅の名の由来については、左遷された道真の境遇に同情した老婆が、餅を差し入れて慰めるようになり、道真の死後、その墓前に梅の枝に刺した餅を供えたという美しくも悲しい伝説が残されています。

鳥居をくぐり、先に進むと心字池という大きな池があり、美しいアーチを描く太鼓橋がかかっていますが、聞くところによると、カップルで太宰府天満宮に参拝に来た際、女性が先にこの橋を渡ると、間も無くそのカップルは破局を迎えるというローカルな都市伝説があるとか。

左右に回廊をめぐらした楼門をくぐると本殿(重要文化財)が見えてきます。

この本殿は、豊臣政権の下で筑前、筑後等を治めていた小早川隆景(毛利元就の三男。毛利家内で親豊臣政策を主導したこともあって秀吉から優遇されました。)により建てられました。

なお、居城は現在の福岡市東区にあった名島城です。ちなみに天下分け目の関ヶ原の戦で、勝敗を決する裏切りを行った小早川秀秋(隆景の養子)は、当時、名島城主でした。

唐破風付きの桧皮葺屋根の両流造(通常の流造は前側の屋根を延ばして庇にしたものですが、両流造では後側にも庇が付きます)で、各種の彫刻で飾られ、安土桃山時代らしく華やかな雰囲気です。

本殿前、向かって右側には有名な「飛梅」の姿。

太宰府に流される道真が都を離れる際、自邸の庭の梅の木に「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ(一説には「春を忘るな」)」と詠んだのは有名ですが、この梅の木が都から道真を慕って飛んできたというのが、これまた有名な飛び梅伝説です。味酒安行といい、梅が枝餅の老婆といい、道真の人徳を偲ばせる伝説ですね。

お参りの後、参道を引き返し、心字池の手前で左側に逸れると、細長い巨大な建物が境内から丘の上へと伸びているのが見えてきます。九州国立博物館に続くエスカレーターとトンネル(動く歩道)です。

九州国立博物館は太宰府天満宮のすぐ近くというより、境内の中にあります。

九州に国立博物館(当初の計画では「鎮西博物館」と仮称されていたようですが)を作る計画は岡倉天心が提唱したものですが、19世紀末の太宰府天満宮の宮司さんが計画を具体化するべく募金活動を開始し、その後、境内の一部を天満宮が建設予定地として寄付した結果が、九州国立博物館の現在の立地というわけです。

もっとも、建設資金の募金の開始が1893年、博物館の開館が2005年ですから、文字通り100年がかりの大事業ですね。

博物館には、宮地嶽古墳(福岡県福津市)から発掘された馬具類、平原遺跡(福岡県前原市)から発見された国内最大の銅鏡等、九州にゆかりの国宝等が展示されています。終   (弁護士)
 

2014年04月21日

◆大阪の「毛馬の閘門」

石田 岳彦


阪急千里線の柴島駅(本筋から思い切り離れますが「柴島」を初見で「くにじま」と読める人がどれだけいるでしょうか。)から天神橋筋六丁目駅へ向かい、淀川にかかる鉄橋を渡る際、左側奥、淀川大堰の向こう側に大きな「水門」が見えますが、その水門には「毛馬こうもん」と白抜きで大きく書かれています。

「こうもん」を漢字で書くと「閘門」です(ちなみに「毛馬」は地名で「けま」と呼びます)。

最近は警察署にも建物の壁に「けいさつ」と平仮名で大きく書いているところがありますが、「閘門」と書いても読めない人が多いので、「こうもん」と平仮名で書いているのでしょうか。

もっとも、警察署と違い、読みだけ知ったところで何をやっている施設かは分からないと思いますが。

それはさておき、阪急千里線を通勤経路にしている私にとって、毛馬の閘門は見慣れた存在でしたが、近くにまで行く機会はありませんでした。

平成20年春、毛馬の閘門が国の重要文化財に指定されることになったというニュースを聞いた私は、これをよい機会と毛馬の閘門に行ってみることにしました。我ながらミーハーです。

毛馬の閘門に行くには、天神橋筋六丁目駅(阪急千里線、地下鉄堺筋線・谷町線)から北上し、淀川にかかる長柄橋の南詰めから河川敷に出て、更に5分ほど東へ歩きます。

河川敷は公園になっていて、堤防上には歩道も整備されていて、歩いていて楽しい道ですが、天神橋筋六丁目駅からは20分以上の歩きになり、大阪市内ということを考えると交通の便の悪い場所といえるでしょう(私がなかなか行く気になれなかった理由もこれです。)。
 
現地に設けられていた説明板によると、閘門というのは、水位の異なる川、運河等の間で船を行き来させるため、両側に水門を設けた水路で、毛馬の閘門の場合、大川(低)と淀川(高)との間の高低差を調整して船を通すために建造されたものです。

淀川から大川に入る場合、まず、水路内の水位を淀川に合わせたうえ、淀川側の水門のみを開けて船を水路に入れたうえで閉じ、水路内の水を抜いて、水面の高さを大川と同水位に下げた後、大川側の水門を開けて船を通過させるという仕組みになっています。

逆に大川から淀川に行く場合には、大川側から水路に船を入れたうえ、水を補充して水路面を淀川と同水位にまで上げてから、淀川側の水門を開放することになります。

なお、そもそも隣り合っている2つの川の水面に何故、極端な高低差があるかといえば、本来の淀川の流れは大川の方で、現在の淀川のうち毛馬よりも河口側の部分(新淀川)は明治時代に治水上の必要で人工的に作られたためだそうです。

ちなみに現在の毛馬の閘門は3代目で、私が毎朝見かけている「毛馬こうもん」もこの3代目にあたります。今回、重要文化財に指定されたのは初代と2代目(今は船溜になっているそうです)で、このうち初代の閘門は、3代目のすぐ近くに見学用として整備されていました。


初代閘門の水門は2つの扉が観音開きになる方式で(なお、現役の3代目の閘門は門扉が上下して開閉するシャッター方式だそうです。)、現在は半開きの状態で固定されています。最近になって塗りなおされているようで、水色の大きな扉が鮮やかです。

北側の淀川側の水門は、近くにある堤防から一段低いところにあり、階段で下まで降りることもできますが、降りたところに柵が設けられていて、その先の水門をくぐることはできません。

もっとも、南側にある大川側の水門(淀川側に比べてかなり小型です)は開放されていて、そちら側から(旧)水路(当然のことながら現在では水路に水は流されていません。)の中に入ることができ、更に進んで淀川側の水門をくぐることもできます。北側の柵はいったい何のためでしょうか。

水路の中央に見学用の通路が設けられていて、その両側は何故か芝生になっていました。先ほどの柵といい、「こうもん」のペイントといい、この芝生といい、大阪市はよく分からないことに金と手間を使います。

水路といっても船が通り抜けることができるだけのスペースですから、幅もそれなりにあり、スペース自体はちょっとした広場並みです。両側の側壁はレンガ造りになっていて、ところどころに鎖が取り付けられています。係船環と呼ばれる船を繋ぐためのものだそうです。水路に水を注入または排出するときに船が動かないようにするためでしょうか。

近くには初代閘門の付属施設として建設された洗堰(水が堰の上を越えて流れるタイプの堰)も残っています。淀川(新淀川)から大川に流れ込む水の量を調節するためのものだそうです。なかなかシックなデザインですね。

最近は大きな書店に行けば「近代遺産巡り」のコーナーを見かけることも少なくありません。寺社や城跡に続き、この手の史跡の人気も上昇しているのかも知れません(自分も行っておいてなんですが、世の中にはマニアックな人が多いです。)。

大阪市やその近郊にお住まいの方であれば、天気のよい休日にでも、広々とした淀川の河川敷や堤防の上を歩きつつ、ちょっと寄ってみられるのも悪くないでしょう。(名跡巡礼・終)
                       <弁護士>

2012年10月25日

◆那須国造碑(栃木県大田原市)

石田 岳彦

 
お久しぶりです。

さて、以前にもお話しましたが、日本人は「三大○○」というのが好きでして、「日本三景」、「日本三大がっかり名所」のようなメジャーなものから、「石の宝殿」の回で取り上げた「日本三奇」のようなマイナーなものまで、枚挙に暇がありません。

今回は、その中でもかなりマイナーかつマニアックな「日本三碑」の1つ那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)のお話をさせていただきます。
 
なお、今回の話は、私が司法修習を終えるころという、今から十年以上前の話であり、現状とはかなり異なっているところもあろうかと思いますので、現地に向かわれる際にはくれぐれも最新の情報をご確認ください。

日本三碑というのは、日本に古代から残る3つの代表的な石碑のことで、一般的には、宮城県多賀城跡の多賀城碑(重要文化財)、群馬県高崎市の多胡碑(特別史跡)、そして栃木県大田原市の那須国造碑(国宝)を指します。

ちなみに考古学や歴史学ではなく、書道史上の概念だそうです。書道的に見て、素晴らしい字ということなのでしょうか。

なお、どうでもよいことですが、多賀城碑は重要文化財、那須国造碑は国宝という「物」扱いなのに、多胡碑だけ特別史跡という「場所」扱いなのは何故でしょうか。石碑が突っ立っていて、その周囲が覆い屋で覆われているという構造まで一緒なわけですが。

司法試験に合格した後の司法修習の期間が1年間になった今では考え難いことですが、修習期間が2年間だった我々52期修習生までは、二回試験(司法修習の最後、法律家としての資格を得るために受ける最終試験のことです。)の後、結果発表までの間、2週間近い「春休み」が存在し、その間を利用して長期の海外旅行に行く修習生も少なくありませんでした。

金の無い私は、大阪に就職が決まっていたこともあり、「司法研修所を宿代わりに関東地方の各地を安く見て廻る最後のチャンス」と考え、この期間を利用し、関東の方々を廻ることにしました。

その目的地の1つが那須国造碑でした。
 
那須塩原駅で東北新幹線を降り(同駅にとまる列車自体が結構少なかったと記憶しています。)、バス停に行ったところ、次のバスは2時間後。泣く泣くタクシーに乗り込み(5000円以上かかりました。)、那須国造碑のある笠石神社へ。

那須国造碑は笠石神社のご神体なのです。

笠石神社では、那須国造碑を予約制で公開しており、当然、私も予約したうえで赴いたわけですが、私は不安を感じていました。

というのも、ご神体というものは基本的に非公開であり(山がご神体といった場合はまた話が別ですが、ご神像、剣、鏡等のような、本殿の中に収まるようなサイズのものの場合には、非公開がほとんどのようです。)、ご神体が国宝に指定されているからといって、それを見せて欲しいという見学希望者の存在は、神社側にとって、実のところ迷惑なのではないだろうか、招かれざる客ではなかろうかと、小心者の私は、考えても仕方のないことをあれこれと考えてしまうのです。

それでも「あちらにとって迷惑でも、やはり見たいものを見せてくれるなら見たい」という結論になるのが、文化財マニアの業というものでしょうか。

タクシーを降り、社務所に向かいました。笠石神社は、道路に沿った畑の中、そこだけ林になった狭い境内の中に、いかにも「村の鎮守の神様」という雰囲気で鎮座されていました。
社務所の前には、何故かパイプ椅子が2列ほど並べられており、簡易な屋根までついています。

出てこられた神主さんから渡されたのは那須国造碑と笠石神社に関する詳細な資料一式。もしかして「見学者大歓迎」ですか。早速、神主さんからのレクチャーが始まります。参拝客は私だけです。

神主さんのお話によると、那須国造碑は西暦700年ころ、那須の国造(大和朝廷の支配下に入った地方豪族に与えられた称号)で那須郡の高位の役人になった人物を、その亡き後、息子らが顕彰するために建てた石碑だったそうです。石碑の上に笠状の石が乗せられており、そのため「笠石」さまと呼ばれたとのこと。

もっとも、土台となった石が小さく、バランスが悪かったためか、建立されて、それほど経たないうちに倒れてしまいましたが、その際、碑面が下になったため、碑文が保存されたそうです。

その後、何故か「祟り石」という評判が立ってしまい、数百年間にわたり、放置されていたところ、江戸時代になって円順という旅の僧侶(物好きだったのでしょう)が笠石様を調べて碑文の存在に気付き、それを在郷の学者(郷土史家の走りというものでしょうか。)が本にしました。

そこに現れたのが、徳川光圀公、いわゆる水戸黄門様ですね。自ら大日本史という大歴史書の編纂作業に着手するほどの歴史好きだった黄門様は、笠石様について書かれた書物を献上され(言い忘れましたが、那須国造碑の所在地は水戸藩領でした。)、那須国造碑に強い興味を持ちます。

早速、水戸藩の学者に碑文の解読を命じるとともに、倒れていた碑を建て直し(土台の石をより大きなものにし、元の土台石をその中に収めたそうです。)、これをご神体とした笠石神社を建立しました。

神社のご神体という形をとったのは、「文化財の保護」という概念のない当時において、那須国造碑を永続的に保管するという目的を達成するためには、それが一番簡便であったということでしょう。都合のよいことに、笠石様として既に一定の宗教的権威をもっていましたし。

また、このような笠石神社の由来を知れば、同神社が、ご神体であるはずの那須国造碑の公開に積極的なのも理解できます。

この神社は単なる神社ではなく、貴重な歴史的遺産の保存、研究者への公開をも使命とする文化的施設でもあったわけですから。

そして、黄門様は笠石神社の創建にとどまらず、近くにあった古墳を那須国造碑に顕彰された国造とその息子(建立者)のものではないかと考え、古墳を発掘させ、発掘品をその姿を絵画として記録したうえで、箱に入れて埋め戻させ、更に樹木を植えて古墳が崩れないように指示を出したそうです。

感動しました。江戸時代初期の人間が、文化財・遺跡の保護、遺跡の学術的発掘といった現在に通じる考えを既に持っていたということですね。
何と先進的な。さすがに黄門様です。全国を漫遊しているのがテレビ時代劇の作り話に過ぎないとしても、やはり偉大な人物でした。

感動を胸に抱きながら、神主さんに連れられて本殿へ。耐火性の、祠というよりも大き目の金庫という印象の本殿の扉を開くと、中に笠石様が鎮座していらっしゃいました。

碑面は説明で聞いたとおり、保存状態が良く、文字もはっきりと残っています。綺麗な整った形の字という印象です。

書道に詳しい人ならば、もう少し気の利いた表現で、「那須国造碑の味わい方」を説明することが可能なのでしょうが、当時の(おそらく現在も)私としては、この程度の感想がせいぜいでした。高校の書道の時間にもう少し真面目に授業を受けておくべきだったでしょうか。

とはいえ、1300年も昔の石碑がほぼ完全に近い形で現在に残っており、今、自分の前に立っているという事実はそれ自体、感慨を抱かせるものです。

この石碑を巡る黄門様の逸話を聞いた後となれば、尚更のこと。私と同じように、かつて黄門様もこの石碑に向かい、その碑文を一文字、一文字眺めたことでしょう。

(おそらく今も)公共交通機関が不便なので、自動車免許のある方ならば、駅からはレンタカーの利用が望ましいと思います。付近(というにはかなり離れていますが)には、九尾の狐伝説で有名な殺生石もありますので、時間があれば、そちらも御覧になられてください。

                     (弁護士)

2012年04月15日

◆名所旧跡だより 石の宝殿(高砂市)

石田 岳彦


1 今となっては正確な時期は忘れましたが、おそらく5年から10年ほど昔のことでしょうか。  朝日新聞の日曜版(当時。いまでは土曜版ですね。)に「石の宝殿」なるものの紹介記事が載っていました。
  
カラー写真に写っているのは、岩山を背景に横たわる巨大な岩の立方体。如何にも古代史の謎という印象です。
 
写真を見てから3ヶ月ほど後、休日を利用して現地を訪れることにしました(今回は割りと以前のお話なので、現在とは現地の状況が若干変化しているかも知れません。ご注意ください)。

2 大阪駅からJRの新快速で加古川まで行き、そこで普通電車に乗り換えて一駅。最寄り駅の名前はそのまんま「宝殿駅」。直球です。

 駅前の広場から、「石の宝殿」のある、というより、「石の宝殿」をご神体にしている生石神社(読みは、「おうしこじんじゃ」です。)へと向かいます。

 駅からは直線状の道路をまっすぐに行ったところにあるため、歩くのを開始してすぐに彼方の山の中腹に神社の建物が見え、「あそこまで歩くのか」とげんなりしました。歩いてみたら20分ほどですが。
 
途中にも「石の宝殿」に関する案内板がちらほら。「日本三奇の1つ、石の宝殿へ徒歩○分」。後の2つは何でしょうか?
 
遠くから見たら山という感じでしたが、近くに寄ってみると、小高い丘というところでしょうか。麓から神社まで急な石段が伸びています。石段を登り切ったところが神社の境内です。なお、車道も通っているので、自動車でも行けます。私が行った際にも境内に何台か停まっていました。
  
丘の上ということもあって、見晴らしはよいですが、右方を見ると隣の山が原型をとどめないほど、切り崩されています。この付近は竜山石と呼ばれる石材の産地だそうで、隣山の惨状も長きにわたる採掘の結果のようです。石の宝殿も勿論、竜山石で出来ています。

3 生石神社の本殿は変わった形をしていて、2つの建物を横に並べて屋根を連結したような感じになっており、2つの建物の間は「石の宝殿」へ向かう通路となっています。
 
ちなみにこの本殿では、大己貴命(「オオナムチノカミノミコト」と読みます。大国様の別名です)と少彦名命(「スクナヒコナノミコト」と読みます。大阪市中央区道修町の「神農さん」ですね。)の二柱の神様を祭っているそうです。協力して、わが国の国土開発を行ったとされる神々ですね。
 
本殿が2つの建物からなっているのも、祭神が二柱いらっしゃる関係でしょう。拝観料を賽銭箱に入れ、備え置きのパンフレットを一部もらって、本殿の建物の間を通り抜けます。
  
抜けた先には、写真で見たとおりの巨大な岩の立方体(側面に溝が掘り込まれているので厳密には違いますが)「石の宝殿」が横たわっていました。
 
生石神社の境内は岩山で(幸い、隣の山のようにぼろぼろにはなっていません。)、「石の宝殿」は左右後方の3方を人工的に切り出された岩壁、正面を上で述べた本殿に塞がれた四角い空間の中に横たわっています。
石の宝殿.jpg
 「石の宝殿」の下は池(というには狭いですが)で、その中に土台が在り、「石の宝殿」はその上に置かれた状態になっています。水に浮かんでいるかのように見えることから「浮石」との呼称もあるそうです。なるほど。
  
池の周りには細い道が設けられていて、参拝客はこれに従って、「石の宝殿」の周囲を回ることになりますが、「石の宝殿」が巨大な上に、岩壁がそれを囲むように高く、実際以上に圧迫感というか、自分の置かれている空間の「狭さ」を感じます。
  
写真を撮っても、全体像はとても入りませんね。後方に回ると「石の宝殿」の本体(立方体の部分)から三角柱のでっぱりが飛び出ていました。
石の宝殿の後部.jpg

 パンフレットによると、このでっぱりが屋根を表しているそうです。つまり、「石の宝殿」は、底を前方(本殿の方向)に向ける形で横たわっていることになります。

 作った後にわざわざ倒す理由も考え難いので、おそらく何らかの理由により未完成に終わったということでしょう。なお、「石の宝殿」を誰が造ったかについては、よく分かっておらず、播磨国風土記には「聖徳太子の時代に弓削の大連(物部守屋?)が作ったと伝えられている」と記載されているとのこと。
 
風土記は古事記や日本書紀と並ぶ「古代の書物」ですが、その風土記が編纂された時点で「石の宝殿」は既に「〜と伝えられている」という伝説上の存在だったわけですから、まさしく「古代史の謎」と言うべきです。
 
なお、聖徳太子は蘇我馬子と組んで、物部守屋を滅ぼし、推古天皇を立てたうえで摂政となっており、上記の記載にはその点で矛盾があって、当然に専門家からも突っ込まれているわけですが、この点については「風土記にはそう書いている」と答える他ないですね。
 
また、「石の宝殿」が横倒しのまま工事が終了した理由もよく分かっていないとのこと。

そもそも誰が造ったのかも、その動機もよく分からないのですから、工事が中断した理由が分からないのも、寧ろ、当然でしょうか。
  
神話によると、上記の大己貴命と少彦名命の2柱の神様が、一夜の予定で「石の宝殿」を造っていたところ、朝廷に対する反乱が起ったため、これを鎮圧しているうちに朝になってしまい、そのまま工事が中断されてしまったということです。
「鎮圧した後で、作業を再開すればよい」とか、「朝になっても工事を続ければいいじゃないか」等という、突っ込みはいけません。神罰が下ります。

また、「最初から、横倒しではなく、立った状態で岩を切り出せばよかったのではないか」等ということも言ってはいけません。神々には、我々、下々の者には分からない事情というものがあったのでしょう。
4 「石の宝殿」の周囲を巡った後、本殿の横から階段(山肌を削って、石段にしたものです。さすが岩山ですね。)を上り、岩壁の上にある山上公園に出て「石の宝殿」を見下ろすことができます。
上から見た石の宝殿.jpg
 写真を見れば、お分かりかと思いますが、「石の宝殿」の上面(現状で上になっている面)には、土がつもり、草どころか小さな木までが生えています。もっとも、造られてから1300年から1400年程度経っている(推定)ことを考えると凄いんだか、凄くないんだか微妙なところです。

土の層のすぐ下が岩の塊となると、深く根をはるのはさすがに難しいので、大樹にはなれないのでしょうね。

5 一息ついたところで、パンフレットを熟読します。行きがけ見た看板にもあるように「石の宝殿」は「日本3奇」の1つとされており、数々の歴史上の有名人が訪れています。
  
有名どころでは、安藤広重、司馬江漢、シーボルト等の名前があり、シーボルトの書いた石の宝殿のスケッチがパンフレットに載っていました。

これを見ると、彼の来たころには本殿は設けられておらず、正面の離れた位置から岩壁の間に横たわる石の宝殿の全体像を見ることができたようです(現在は本殿が正面からの見通しを遮っていますし、本殿よりも内側に入る
と、接近し過ぎて、石の宝殿の全体像は捉えにくくなります)。
  
なお、比較的最近の訪問者には、松本清張や司馬遼太郎の名前もあります。確かに小説やエッセイの題材になりそうですね。
 
ちなみに、先ほど疑問に思った「日本3奇」の残り2つは、塩竃神社(宮城県)の塩釜と高千穂(宮崎県)の天の逆鉾なのだとのことです。

6 大阪からだと休日の日帰り旅行には、ちょうど良い距離かと思います。
  
見終えた後は、東隣の加古川市に寄って、鶴林寺(西の法隆寺−少し、誇大広告だと思いますが−とも呼ばれる古寺です。国宝の建物2棟があります。)に参拝に行くなり、かつめし(ご飯にトンカツ又はビーフカツとキャベツを乗せて、ソースをかけた加古川市のご当地グルメです)を食べるなりして帰るのも楽しいかと。
  
自動車があれば、加古川市から更に北上して小野市の浄土寺(国宝に指定されている快慶作の巨大な阿弥陀三尊立像は、一度は見ておきたい名品です)へ足を伸ばすのをお勧めします。
                         終

2012年02月06日

◆名所旧跡だより 園城寺(大津市)・後編

石田 岳彦


金堂の西側、一段高くなったところに霊鐘堂という小さなお堂があり、横には「弁慶の引き摺り鐘」との案内板が立っていました。中には梵鐘が1つ安置されていて、その側面の一部に擦った痕が残っています。青銅製の鐘が擦れるわけですから、かなりの力が加わったということでしょう。

弁慶の引き摺り鐘.jpg


この鐘については、かの武蔵坊弁慶に関わる伝説があります。



すなわち、源義経の家来になる前、弁慶は比叡山延暦寺で僧兵をしていましたが、ある時、三井寺に攻め込んで、この梵鐘を奪い、延暦寺まで引き摺って帰った際にこの痕が付いたとのこと。



なお、何故、延暦寺に持って行かれた鐘が三井寺に戻っているかというと、延暦寺に連れて行かれた梵鐘が、三井寺に帰りたがって、まともな音を出さなかったので、怒った弁慶が山下まで投げ下ろしたとか・・・。



ちなみに「弁慶の引き摺り鐘まんじゅう」という鐘型の饅頭(名前は違いますが、和歌山の道成寺でも売っていましたね。)が、境内の茶屋や付近の土産物屋で売っていて、甘党の私は来る度に買っています。



霊鐘堂の隣は一切経蔵という、その名のとおり一切経を納めた建物で、回転式の経庫が見た目に面白いです。これを回すとお経を読んだのと同様の功徳があるとかないとか。

一切経蔵の経庫.jpg


南に向かうと唐院と呼ばれるエリアで、三重塔の他に円珍を祀る大師堂、伝法潅頂という儀式を行う潅頂堂があり、大師堂には2体の円珍像と1体の不動明王像が並んでいて、円珍像2体は国宝指定です。



3体の像の中央に祀られている円珍像は「中尊大師」と呼ばれ、上記のように国宝に指定されていて、普段は非公開ですが、毎年10月29日の円珍の命日の法要の後、一般公開されます。



大津地方裁判所での修習生時代、10月29日の昼休みにタクシーを使って、拝みに来たことも、今となっては、よい思い出です。



もう1体の円珍像(国宝)は円珍の遺骨が納められており、「お骨大師」と呼ばれています。この像と不動明王立像(重要文化財。三井寺にあり、「黄不動」の名で有名な国宝の画像を立体化したものです。)は残念ながら、原則として公開の機会はありません(それをいうと中尊大師も原則非公開なのですが、年に1回、定期的に見る機会があるというだけ、ましなのですね)。



三井寺にはこの他にも数多くの質の高い寺宝がありますが、宗教的理由に加え、三井寺に自前の宝物館が無いこともあり、残念ながら、それらの寺宝を見る機会は限られています(同様のことは、同じ大津市内の石山寺にもいえますね。)。



そういう意味では、平成20年から21年に大阪、福岡、東京を回った三井寺展は千載一遇・・・というのはさすがに大げさですが、10年から15年に一度くらいの好機でした。



この展覧会の最大の売りは、国宝に指定された4体の秘仏(「中尊大師」、「お骨大師」、「黄不動(画像)」、「新羅善神像」)の特別公開で、うち中尊大師像を除く3体は十数年ぶりの公開です(他に上記の大師堂の不動明王像等も展示されました)。



展覧会の開催が発表されるや、インターネット上の仏像関係の掲示板が狂騒状態に陥ったのも無理からぬことでした。十数年から20年くらいの周期でこの手の特別展が行われているようなので(保証はできかねますが)見損なった方は気長にお待ちください。



唐院を出て、高台にある観音堂に向かうと途中に勧学院という塔頭があります(三井寺にはこの他にも光浄院等、幾つかの塔頭が存在します。)。

 

三井寺は桜の季節には夜間に境内を無料開放することがあり、私も2回ほど出かけましたが、その際、この勧学院の書院(国宝)が特別公開されていました(こっちは有料でした)。



昼間公開している寺院が、期間を限定して、夜間も特別に公開するというケースは京都市の清水寺、青蓮院等、けっこうありますが、昼間でさえ基本的に公開していない寺院が、夜間だけ特別公開するというのはかなり珍しいケースでしょう(もっとも、普段でも3名以上で予約すれば、拝観可能なようですが)。



日本庭園の中に鮮やかな絵の書かれた紙製の灯篭(中身は電灯です。火事が怖いですので。)がなかなかに幻想的だったと憶えています。



境内の南西のはずれの高台に観音堂と幾つかの建物があり、観音堂は西国三十三番観音霊場の1つです。



西国三十三番観音霊場はその名のとおり観音菩薩様を祀る霊場33箇所を集めたものですが、中にはこの三井寺観音堂のように本堂(金堂)以外の脇役(?)のお堂が入っていることもあります(他に興福寺南円堂、醍醐寺准胝堂)。



この観音堂のある高台からは昔は琵琶湖がよく見えたようですが、近年、大津港の周辺に大型ビルが建てられ、景観が損なわれました。



もっとも、そうまでして建てたビルがテナントの撤退等で上手くいっていないようで、お役所主導の開発の失敗例になっています。



やはり、「この事業が上手くいかなかったら、会社がつぶれるかもしれない。潰れなくても、俺は会社に居辛くなるかもしれない。」という緊張感がないと事業とは上手くいかないのでしょうか。



余談はさておき、三井寺の境内は狭すぎず、広すぎず、通常であれば、のんびり歩いても1時間半あれば、一周できるはずです(少し離れたところに国宝の新羅善神堂がありますが)。



拝観が終わったら、ついでに琵琶湖を観光するのはどうでしょうか。



ミシガンやビアンカといった観光船に乗り込む手もありますが(私は長いこと色物扱いしていましたが、友人たちとガヤガヤと話しながら乗る分には案外楽しいです)、湖風に吹かれながら、湖畔の散策路(大津港の東側は特によく整備されています)を歩くのもよい感じです。      (終)

2012年02月05日

◆名所旧跡だより 園城寺(大津市)・前篇

石田 岳彦


私は現在、大阪で弁護士をやっていますが、司法修習生のときは大津で1年4月にわたり実務修習を受けていました(司法修習が2年間の時代の話です。今は修習期間が1年ですので色々とスケジュールがタイトのようですね。)。



その間、三井寺(通称です)こと長等山園城寺(ながらさん・おんじょうじ)には何回も行く機会があり、弁護士になってからも2年に1回くらいの頻度で訪れています。



三井寺は、壬申の乱で破れ自殺した大友皇子の霊を慰めるためにその息子の大友与多王が建立したという寺院・・・が、すっかり荒れ果てていたのを、平安時代前期に円珍が再興したというお寺です。



素直に円珍が建てた時点をスタートにすればよいような気がしますが。大友与多王なんて、ほとんど誰も知りませんし。



ちなみに、私が大津地方裁判所で実務修習していた際に聞いた話では、以前、三井寺が民事訴訟の当事者になった際、境内の土地所有権を主張するにあたり、壬申の乱後の大友与多王のくだりから説き起こしたそうです。



民事訴訟法の原則上、極めて正しい態度なのですが、スケールが大き過ぎるせいか、思わず笑えてきます。



智証大師・円珍は、唐に留学し、天台宗の座主(トップ)になった僧侶です。後年、延暦寺内の派閥争いが激化して、円珍の流れを汲む僧侶たちが山を降り、三井寺に移って天台宗寺門派を築くにあたり、その祖として仰がれるようになりました。

 

この派閥争いは、端的にいうと、日本天台宗の開祖である最澄亡き後の延暦寺の座主を巡る派閥争いで、一般的には円仁(第3代座主。円珍に先立ち唐に留学。慈惠大師。)派と円珍派との争いと言われることが多いようです。



もっとも、派閥抗争自体は最澄の死後早々、円仁や円珍が座主になる以前に既に生じており、しかも、円仁、円珍とも派閥抗争には批判的だったそうですので、「円仁派」、「円珍派」という呼称は両大師にとって極めて心外なものに違いありません。なお、円仁派を山門派、円珍派を寺門派と呼ぶこともあります。



その後、三井寺は比叡山延暦寺から何度も焼き討ちにあっていて、安土桃山時代には何故か(いまだに理由がよく分からないそうです)豊臣秀吉の逆鱗に触れ、いったん廃寺になるという苦難の歴史をたどっています。

 

これまた、理由がよく分かっていませんが、死の直前の秀吉から再興許可をもらい、現在の建物の大半は、その後の安土桃山時代末期から江戸時代にかけて建てられたものです(一部、伏見城や御所から移築したものもあるとのこと)。

 

京阪電鉄の石山坂本線(大津市内の石山と坂本を結ぶ線という意味です。どうでもよい話ですが、しばしば、観光客から「いしやまざか・ほんせん」と誤読されます。)に三井寺駅がありますが、三井寺までは駅から10分近く歩きます。途中の道が平らなのが救いです。



同じ石山坂本線の石山寺駅からも石山寺へは10分以上歩きますので、京阪電鉄はネーミングを反省して欲しいところです。「三井寺口」、「石山寺口」あたりが相当でしょう。



JR大津駅からは更に離れているので、足の弱い方はJR大津駅又は京阪の浜大津駅(三井寺駅は小さな駅ですので、タクシー乗り場はありません。)からタクシーを使うことをお勧めします。



三井寺の境内へは幾つか入り口がありますが、私はできるだけ、正門である大門(重要文化財)から入ることにしています(駐車場、土産物屋もこちらにあります)。



別の寺にあった室町時代に建てられた楼門を家康が寄進したものだそうで、大寺にふさわしい立派なものです。

大門.jpg

大門をくぐり、拝観料を払って、まっすぐに進んで階段を登ると金堂(国宝)と鐘楼が見えてきます。

金堂.jpg

大門が東向きなのに対し、金堂は南側を向いているため、大門から歩いてくると、金堂は横向きになっていて、正面の入り口へは左側に回りこむ必要があります。



金堂は南向きに建てるのが普通なので、本来、正門も南向きに立てるべきなのですが、三井寺の場合、南側が丘陵になっているため、東側(琵琶湖側)に正門(大門)を建てることになったのでしょう。





金堂の中は、本尊の祀られている内陣の四方を外陣が取り囲む構造となっており、参拝者は外陣に並ぶ様々な仏像を拝みながら一周することになります。個人的には円空の彫った数体の善女竜王像がお気に入りです。



なお、内陣にいらっしゃるご本尊は弥勒菩薩ですが、秘仏になっていて、見ることができません。こちらは絶対秘仏といわれ、一般人が見る機会はありません。



善光寺(長野市)のご本尊のようなインパクトのある縁起も無く、文化財にも指定されていないので(文化庁のお役人も見せてもらえないですので)、失礼ながら、参拝客にとって存在感が限りなく薄いです。三井寺のご本尊がどの仏様かと聞かれて、参拝経験のある人でもおそらく9割は答えられないでしょう。



 

金堂を出て、鐘楼へと向かいます。いわゆる「近江八景」の「三井の晩鐘」です。「近江八景」は、その名のとおり近江国(現在の滋賀県)の代表的な風景を8つ集めたもので、中国湖南省の瀟湘八景に因んで江戸初期のころに、とある貴族に選ばれたとか。



他の7つは「石山の秋月」、「瀬田の夕照」、「矢橋の帰帆」、「粟津の晴嵐」、「比良の暮雪」、「唐松の夜雨」、「堅田の落雁」とされています。滋賀県に住んでいたころはしばしば耳にしました。



もっとも、瀟湘八景に合わせて8つ揃えたものですし、現在では都市化による環境の変化もありますので(「比良の暮雪」以外は現在、それなりに市街地です。)、現地に行ってがっかりという場所も少なくありません。

「三井の晩鐘」はまだ往時の姿をよく残している方です。



本堂の正面に向かって左側に回りこむと小さなお堂を見つけることができます。閼伽井屋(あかいや)といって、井戸というより、泉を囲むお堂です。この湧き水が3代の天皇の産湯に使われたのが「三井寺(御井寺)」の名前の由来になったとのこと。静かにしていると、ゴポゴポという水の湧く音も聞こえます。



閼伽井屋の正面には龍の彫刻が取り付けられていて、江戸初期の名工・左甚五郎の作といわれているそうです(この手の話は言った者の勝ちです。)。日光東照宮の眠り猫を作った人ですね。

閼伽井屋の竜.jpg

竜が度々、琵琶湖に遊びに行くので、眼に釘を打って、動けなくしたとのこと。確かに釘が打たれています。

                    (続く)

2011年10月30日

◆名所旧跡だより 小村神社(高知県日高村)

石田 岳彦

「伝世古」という言葉があります。読んで字のごとく。人の世を伝わって今日に至った古物を指します。これに対し、土中の遺跡等から発掘された古物を「発掘古」あるいは「土中古」と呼ぶそうです。

古代から王朝が次々に交代し、また、数回にわたる大規模な仏教弾圧があった中国では、古物が人の世を無事に渡り切るのはなかなかに困難で、現存する古代の品のほとんどは土中古ということのようです。

他方、天皇家、藤原氏、伊勢神宮、出雲大社、法隆寺、東大寺といった古代からの勢力が現在まで少なからず生き残っている我が国では、古代からの伝世古も少なくありません。

今回はその伝世古の最たるものの話です。

古墳から掘り出されるものといえば、埴輪、馬具、装飾品、剣(日本刀が成立する以前の直刀)といったものがありますが、剣のうち柄頭に環状の飾りがついているものを環頭大刀(「かんとうたち」と読みます)と呼びます。

なお、「太刀」ではなく「大刀」です。日本刀の場合「太刀」ですが、直刀の場合「大刀」と書くのが慣例とのこと。どうでもよいトリビアですが。

環頭大刀は、近畿の古墳からもしばしば副葬品として発掘されるので、資料館、博物館で見たことのある方も多いかも知れません。
 

ただし、千年以上も土に埋もれていたわけですから、当然のことながら、刀身(鉄製)は錆びてぼろぼろ、それを包む拵え(青銅製)も溶けてぼろぼろ(銅の錆は表面を覆うのみで、内部にまで進行しませんが、水分の多い地中では、銅が水に溶け出してぼろぼろになります。)です。
 

もっとも、一部には古墳に副葬品として葬られることなく、神社のご神体として祀られた環頭太刀もありましたが、これらも歴史の荒波に呑まれて次々と姿を消し、現在、残るはただ一振り。高知県小村(おむら)神社に伝わる国宝の環頭大刀ただ一振りです。


高知空港に降り立ったところ、何故か、テレビ局が来ていました。
 

現地に着いて初めて知りましたが、私が高知に降り立った2003年11月15日は、高知空港に「高知龍馬空港」(いうまでも無いですが、坂本龍馬に因んだ命名です。日本で初めての人名の付いた空港云々。)という愛称がつけられた当日でした。


ついでに私が大阪から乗ってきた飛行機は第一便。地元局のインタビューに適当に答えつつ(放送されたのでしょうか?確認する機会はありませんでした。)、レンタカーの受付へ。
 

途中のドライブインで昼食の鍋焼きラーメン(高知県須崎市のご当地B級グルメだそうです。ドライブイン自体は南国市にありましたが。)を食べ、目的地の小村神社へと向かいます。


読者の皆さんの大半は、おそらく「小村神社」の名前は初見かと思いますが、全国の古文化財ファンには国宝・環頭大刀のある神社として「小村神社」の名前はそれなりのネームバリューを持っています。
 

あくまでも私見ですが、国宝を1つ持っていると、それだけで、そのお寺や神社や美術館の知名度は数十倍になるのではないでしょうか。
 

「小村神社」は旧・土佐国の二の宮、つまり、歴史的に見て、高知県内では2番目の格式を持った神社ということになっていますが、現代においては、どこの町や村にも1つくらいはありそうな中小規模の神社に過ぎず(逆をいえば、そのクラスの規模の神社でも、古墳時代から今日まで続いているのが日本という国ともいえます。)、この神社が、文化財ファンに限られるとはいえ全国的な知名度を有しているのは一重に国宝の環頭大刀一振りのおかげでしょうから。
 

私が小村神社にたどり着いたのは11月15日の午後2時前。
 

ちなみにこの日付には意味があります。環頭大刀が公開されるのが一年で11月15日の大祭の1日だけなのです。
 

人数を揃えて、事前に申請すればこの限りでもないようですが、我々のような一般参拝客としては年に一度の、いえ、仕事休んで旅行するわけにもいかない、サラリーマン弁護士にとっては数年に一度のチャンスでした(2003年11月15日は土曜日)。
 

駐車場に車を止め、杉並木の参道(結構長く、立派なものです)を急ぎ境内に向かうと(時間的には十分に余裕があったのですが、数年越しの念願ともなると気分が急かされます。)、祭り自体は既に終わったようで、後片付け中の境内の隅の資料庫(?)に数名の観光客が集まっていました。
 

中に入ると早速、国宝の環頭大刀が目にとまります(というより、資料庫自体が狭いので、一目で全て視界に入りましたが)。拵えはさすがに全体的に緑青(銅製品の表面に出る青錆です。)が出ていますが、古墳から掘り出されたもののようにボロボロではなく、きちんとした形を保った状態です。
 

柄頭には環状(というよりは饅頭を縦に切った断面というような形です)の飾りが付き、解説によると「二匹の竜が向かい合い、一つの珠を銜えた形」が表されているそうですが、デザインが簡略化され過ぎていて、「珠」は兎も角、「竜」はとてもそうとは見えません(写真撮影禁止なので、今回、写真は無しです。


村のホームページ等に写真があるので、検索してみてください。)。


中身の刀身が拵えと並べて展示されていますが、こちらは銀色の輝きを保っていて、錆もそれほど目立ちません。


先端部分のみ錆付いていたため、その部分を切り落とし、全体的に砥ぎ直したということのようですが、それを差し引いても古墳時代の大刀がこの輝きを保っているのは驚嘆させられます。


これまで博物館で見たことのある他の環頭大刀の刀身(の成れの果て)は、赤茶色の錆びの塊になっているわけですから。


以前、本で読んだところによると(多分にうろ覚えなので、誤りがあっても御容赦ください。)、この大刀は、第二次大戦後、神社の本殿の修理の際に、その中から発見されたもののようです。発見した人はさぞかし驚いたでしょうね。
 

伝世品なのに「発見」というのは奇妙な気もしますが、神社の本殿は神様の住まいで、余程のことがない限り、神職でさえ内部に立ち入らないので、本殿の立替或いは大修理の際に、数百年前の宝物が忽然と発見されるというケースがしばしばあります。
 

例えば、近いところでは、平成12年に春日大社の摂社・若宮神社の社殿の修理の際、内部から平安時代の毛抜き形太刀(柄が毛抜きのような形をしている太刀です。)等が見つかったという事件がありました。


テレビや新聞でも大きく報道されましたし、その後、春日大社の宝物館で実物の公開もされたので、ご記憶の方もあるかと(これらの発見品は、その後、国宝の「若宮御料古神宝類」の一部に追加指定されました。)。
 

こうしてみると、「伝世古」と「発掘古」の違いというのも案外相対的なものかもしれません。


今年の11月15日はあいにくの火曜日ですが、お休みのとれる方は高知に行って、「小村神社」で日本最古の伝世の剣に会ってきてはいかがでしょうか。
 

2008年に神社のすぐ近くにJR土讃線の小村神社前駅が開業し、私の時よりも交通の便は向上しています。


今年は仁淀川地域観光協議会が主催して、高知駅発着のツアーもあるようなので(詳しくは仁淀川地域観光協議会のホームページを見てください。)、これを利用するのもよいかと。(終)

2011年10月06日

◆名所旧跡だより 園城寺(大津市)後編

石田 岳彦

閼伽井屋(あかいや)を見終わった後、来た道を戻ると金堂の西側、一段高くなったところに小さなお堂があることに気付きます。横には「弁慶の引き摺り鐘」との案内板。

 霊鐘堂というお堂で、その名のとおり、中には梵鐘が1つ安置されていて、その側面の一部に擦った痕が残っています。青銅製の鐘が擦れるわけですから、かなりの力が加わったということでしょう。

B弁慶の引き摺り鐘.JPG

 この鐘については、かの武蔵坊弁慶に関わる伝説があります。
すなわち、源義経の家来になる前、弁慶は比叡山延暦寺で僧兵をしていましたが、ある時、三井寺に攻め込んで、この梵鐘を奪い、延暦寺まで引き摺って帰った際にこの痕が付いたとのこと。
 なお、何故、延暦寺に持って行かれた鐘が三井寺に戻っているかというと、延暦寺に連れて行かれた梵鐘が、三井寺に帰りたがって、まともな音を出さなかったので、怒った弁慶が山下まで投げ下ろしたとか・・・。
 ちなみに「弁慶の引き摺り鐘まんじゅう」という鐘型の饅頭(名前は違いますが、和歌山の道成寺でも売っていましたね。)が、境内の茶屋や付近の土産物屋で売っていて、甘党の私は来る度に買っています。

 霊鐘堂の南隣には一切経蔵があり、その名のとおり一切経を収めた蔵です。
 中には八角柱の回転式の経庫があり、これを回転させるとお経を読んだのと同じ功徳があるとか、ないとか。
 ちなみにこの一切経蔵は、大内氏が本拠地の山口市内のお寺に建てたものを、大内氏を滅ぼした毛利元就の孫の輝元が、三井寺に寄付したもので、よそ様を滅ぼしたうえ、分捕ったものを寺へのお布施にする。大内氏の恨み言が聞こえてきそうです。

 その更に南側は「唐院」と呼ばれるエリアで、三重塔に加え、円珍を祀る大師堂が存在します。
 この大師堂には、普段、前に柵が設けられていて近寄れませんが、毎年10月29日の円珍の命日には、法要が終わった後、一般参拝者も近くまで寄ることが可能です。
 そして、その際には、大師堂の3つの扉のうち、中央の扉が開かれ、国宝の円珍坐像(中央に祀られているため、「中尊大師」と呼ばれています。)のお姿を拝むことができます。
 大津地方裁判所での修習生時代、昼休みにタクシーを使って、拝みに来たことも、今となっては、よい思い出です。
 ちなみにあと2つの扉には、もう1体の円珍坐像(こちらも国宝。円珍の遺骨が入れられており、「お骨大師」と呼ばれています。)と不動明王立像(重要文化財。黄色く塗られているので「黄不動」と呼ばれます。同じ名称で呼ばれる国宝の画像を立体化したものです。)がいらっしゃいますが、こちらは基本的に公開されません。
 三井寺には数多くの、質の高い寺宝がありますが、宝物館が無いこと、秘仏が多いこと等の理由により、残念ながらそれらの寺宝を見る機会は限られています。
 そういう意味では、平成20年から21年にかけて、大阪、福岡、東京を回った三井寺展は千載一遇・・・というのはさすがに大げさですが、10年から15年に一度くらいの好機でした。
 この展覧会の最大の売りは、国宝に指定された4体の秘仏(上で述べた「中尊大師」、「お骨大師」、「黄不動(画像)」に加え「新羅善神像」)の特別公開で、うち中尊大師像を除く3体は十数年ぶりの公開です。
 そういうこともあってか、展覧会の開催が発表されるやインターネット上の仏像関係の掲示板が狂騒状態に陥りました。仏像に詳しい人ほど大騒ぎしていた気がします。
 十数年から20年くらいの周期でこの手の特別展が行われているようなので(保証はできかねますが)、見損なった方は気長にお待ちください。

 唐院を出て、10分ほど歩き、高台にある観音堂に向かいます。
 この観音堂は西国三十三番観音霊場の1つでもあり、本堂に負けない程の参拝客が見かけられます。この観音堂や奈良の興福寺南円堂に見られるように、西国三十三番札所には、その寺の本堂ではなく、脇役(?)のお堂が指定されていることもしばしばです。
この観音堂のある高台からは、以前は琵琶湖がよく見えたのですが、近年、大津港の周辺に大型ビルが建てられた関係で見えにくくなっています。

C観音堂からの眺め.JPG

ちなみにそうまでして建てたビルが入居した店舗の相次ぐ撤退等で上手くいっていないようで、税金の無駄遣いもいいところです。

 通常であれば、のんびり歩いても1時間半あれば、境内を一周できるでしょう。拝観が終わったら、ついでに琵琶湖を観光するのもよろしいかと。
 ミシガンやビアンカといった観光船に乗り込む手もありますが(私は長いこと色物扱いしていましたが、友人たちとガヤガヤと話しながら乗る分には案外楽しいことに最近気付きました。)、湖風に吹かれながら、湖畔の散策路(よく整備されています。)を歩くのもよい感じです(ただし、夏場は水コケの繁殖で青臭いのでお勧めしません)。(終)

2011年10月05日

◆名所旧跡だより 園城寺(大津市)前編

石田 岳彦

お久しぶりです。
 私は現在、大阪で弁護士をやっていますが、司法修習生のときは大津で1年4月にわたり実務修習を受けていました(司法修習が2年間の時代の話です。今は修習期間が1年ですので色々とスケジュールがタイトのようですね。)。

その間、三井寺(通称です)こと長等山園城寺(ながらさん・おんじょうじ)には何回も行く機会があり、弁護士になってからも2年に1回くらいの頻度で訪れています。

 三井寺は、壬申の乱で破れ自殺した大友皇子の霊を慰めるためにその息子の大友与多王が建立したという寺院・・・が、すっかり荒れ果てていたのを、平安時代前期に円珍が再興したというお寺です。

素直に円珍が建てた時点をスタートにすればよいような気がしますが。大友与多王なんて、ほとんど誰も知りませんし。

 ちなみに、私が大津地方裁判所で実務修習していた際に聞いた話では、以前、三井寺が民事訴訟の当事者になった際、境内の土地所有権を主張するにあたり、壬申の乱後の大友与多王のくだりから説き起こしたそうです。民事訴訟法の原則上、極めて正しい態度なのですが、スケールが大き過ぎるせいか、思わず笑えてきます。

 智証大師・円珍は、唐に留学し、天台宗の座主(トップ)になった僧侶です。

後年、延暦寺内の派閥争いが激化して、円珍の流れを汲む僧侶たちが山を降り、三井寺に移って天台宗寺門派を築くにあたり、その祖として仰がれるようになりました。

 この派閥争いは、端的にいうと、日本天台宗の開祖である最澄亡き後の延暦寺の座主を巡る派閥争いで、一般的には円仁(第3代座主。円珍に先立ち唐に留学。慈惠大師。)派と円珍派との争いと言われることが多いようです。

 もっとも、派閥抗争自体は最澄の死後早々、円仁や円珍が座主になる以前に既に生じており、しかも、円仁、円珍とも派閥抗争には批判的だったそうですので、「円仁派」、「円珍派」という呼称は両大師にとって極めて心外なものに違いありません。

なお、円仁派を山門派、円珍派を寺門派と呼ぶこともあります。

 その後、三井寺は比叡山延暦寺から何度も焼き討ちにあっていて(比叡山も信長のことを非難できませんね。)、安土桃山時代には何故か(いまだに理由がよく分からないそうです)豊臣秀吉の逆鱗に触れ、いったん廃寺になるという苦難の歴史をたどっています。

 そして、これまた、理由がよく分かっていませんが、死の直前の秀吉から再興許可をもらい、現在の建物の大半は、その後の安土桃山時代末期から江戸時代にかけて建てられたものです(一部、伏見城や御所から移築したものもあるとのこと。)。
 
 京阪電鉄の石山坂本線(大津市内の石山と坂本を結ぶ線という意味です。どうでもよい話ですが、しばしば、観光客から「いしやまざか・ほんせん」と誤読されます。)に三井寺駅がありますが、三井寺までは駅から10分近く歩きます。途中の道が平らなのが救いです。

同じ石山坂本線の石山寺駅からも石山寺へは10分以上歩きますので、京阪電鉄はネーミングを反省して欲しいところです。「三井寺口」、「石山寺口」あたりが相当でしょう。

JR大津駅からは更に離れているので、足の弱い方はJR大津駅又は京阪の浜大津駅(三井寺駅は小さな駅ですので、タクシー乗り場はありません。)からタクシーを使うことをお勧めします。

三井寺の境内へは幾つか入り口がありますが、私はできるだけ、正門である大門(重要文化財)から入ることにしています(駐車場、土産物屋もこちらにあります。)。

別の寺にあった室町時代に建てられた楼門を家康が寄進したものだそうで、大寺にふさわしい立派なものです。 大門をくぐり、拝観料を払って、まっすぐに進んで階段を登ると金堂(国宝)と鐘楼が見えてきます。

@金堂.JPG

 大門が東向きなのに対し、金堂は南側を向いているため、大門から歩いてくると、金堂は横向きになっていて、正面の入り口へは左側に回りこむ必要があります。

 金堂は南向きに建てるのが普通なので、本来、正門も南向きに立てるべきなのですが、三井寺の場合、南側が丘陵になっているため、東側(琵琶湖側)に正門(大門)を建てることになったのでしょう。

 金堂の中は、本尊の祀られている内陣の四方を外陣が取り囲む構造となっており、参拝者は外陣に並ぶ様々な仏像を拝みながら一周することになります。
個人的には円空の彫った数体の善女竜王像がお気に入りです。

なお、内陣にいらっしゃるご本尊は弥勒菩薩ですが、秘仏になっていて、見ることができません。こちらは絶対秘仏といわれ、一般人が見る機会はありません。

善光寺(長野市)のご本尊のようなインパクトのある縁起も無く、文化財にも指定されていないので(文化庁のお役人も見せてもらえないですので)、失礼ながら、参拝客にとって存在感が限りなく薄いです。三井寺のご本尊がどの仏様かと聞かれて、参拝経験のある人でもおそらく9割は答えられないでしょう。

 金堂を出て、鐘楼に向かいます。いわゆる「近江八景」の「三井の晩鐘」です。「近江八景」は、その名のとおり近江国(現在の滋賀県)の代表的な風景を8つ集めたもので、中国湖南省の瀟湘八景に因んで江戸初期のころに、とある貴族に選ばれたとか。

 他の7つは「石山の秋月」、「瀬田の夕照」、「矢橋の帰帆」、「粟津の晴嵐」、「比良の暮雪」、「唐松の夜雨」、「堅田の落雁」とされています(滋賀県に住んでいたころはしばしば耳にしました。)。

もっとも、瀟湘八景に合わせて、やや無理やりに8つ揃えたものですし、現在では都市化による環境の変化もありますので(「比良の暮雪」以外は現在、それなりに市街地です。)、現地に行ってがっかりという場所も少なくありません。

 「三井の晩鐘」はまだ往時の姿をよく残している方です。

 本堂の正面に向かって左側に回りこむと小さなお堂があります。
 閼伽井屋(あかいや)といって、井戸というより、泉を囲むお堂です。この湧き水が3代の天皇の産湯に使われたのが「三井寺(御井寺)」の名前の由来になったとのこと。静かにしていると、ゴポゴポという水の湧く音も聞こえます。

Aあかいやの龍.JPG

 閼伽井屋の正面には龍の彫刻が取り付けられていて、江戸初期の名工・左甚五郎の作といわれているそうです(この手の話は言った者の勝ちです。)。日光東照宮の眠り猫を作った人ですね。

 竜が度々、琵琶湖に遊びに行くので、眼に釘を打って、動けなくしたとのこと。確かに釘が打たれています。(続く)

2011年07月23日

◆名所旧跡だより 住友活機園(滋賀県大津市)

石田岳彦


お久しぶりです。
滋賀県大津市石山に「住友活機園」という施設があります。重要文化財に指定されたお屋敷とその庭園で、毎年5月ころに2日ほど一般に特別公開されている他は、住友グループの社員しか見学できません。

しかも、この特別公開も事前に往復はがきで申し込む必要があり、かつ定員を超過すれば、抽選となります。実際には毎年定員を超過するので、毎年抽選です。

私の場合、最初の申し込みは抽選で外れ、翌年は当選したものの、妻の体調不良で行けず(号泣。冗談抜きに妻と一緒に寝込みました。)、今年の春、3度目の正直で見学の機会を得ました。今回はその際の話です。

京阪電鉄石山坂本線の東側の終点である石山寺駅から、来し方に向かって5分ほど歩き、新幹線の高架をくぐって、すぐ左側に高い塀で囲まれた森が見えてきます。

苔生した石段を登り、門で見学証(当選を伝える往復はがき)を示して中へ。
入って早々、鬱蒼と葉の茂った木の枝が歩道に垂れかかって、緑の幕のようになっています。

このような演出なのでしょうか。それとも雨で濡れて重くなり、垂れてきたのでしょうか(そう、せっかくの3年越しだというのに見事な雨です。)。坂道を蛇行し、左側に池を見下ろしつつ進んでいくとやがて2階建ての洋館が見えてきます。

洋館.JPG

洋館の外壁の下半分は鱗のような板で飾られています。
鱗といえば、神戸市北野の異人館街にも「鱗の館」というのがありますが、石製のスレートで葺かれた「鱗の館」と異なり、こちらの洋館の鱗は木製なので、「鱗の館」に比べて、見た目にも柔らかな雰囲気です。

洋館の左隣には和館も見えます。明治のころのお屋敷には洋館と和館を併設したものが少なくありません。

洋館で公務或いはビジネス関係の客と会い、プライベートな時間は和館で過ごすという使い分けになります。まだまだ、西洋風の生活様式になじめない人が多く、和館の方がくつろげたということでしょう。明治天皇もプライベートな時間は服装その他で和風を好んだという話です。

この屋敷自体は基本的に隠居所なのですが、住友財閥の元・総理事(住友財閥の筆頭番頭。住友家が王家で、総理事が首相というイメージでよいでしょうか。)ともなると、隠居先にもそれなりにグループ各社の幹部がやってきたのでしょう。

遅くなりましたが、この屋敷の本来の主は、伊庭貞剛(いば・ていごう)といい、上記のように住友財閥で総理事を務めたという超大物財界人です。

貞剛が晩年、故郷、滋賀の地(もっとも、大津市ではなく、現在の近江八幡市の出身のようですが)に建てた隠居所がこの屋敷であり、現在は住友グループの研修施設となっています。

見学者は我々の他、30人弱のようです。このグループで屋敷を見学して回ることになります。(やや記憶が曖昧になっていますが)一日3グループほどで、2日間ですから、特別公開に参加できるのは1年で180人くらいでしょうか(30人×3回×2日)。

一般的な旅行ガイドにはまず記載がないし、滋賀県内でも一般的な知名度が高いとは言い難いのですが、(人のことは言えませんが)世の中には結構マニアックな人が多いです。

案内の方の話によると、例年10倍近い抽選になるところ、今年は東日本大震災後の自粛ムードもあってか、応募数がかなり低く、競争率は2倍程度にとどまったとのこと。

「皆さん運が良いです。」というのが締めくくりの言葉でしたが、「空気の読めない野郎共(の中で相対的にくじ運のよい者)が集まった」と聞こえてしまうのは被害妄想でしょうか。

それはさておき、屋敷の中に入りましょう。
洋館と和館の間は廊下で繋がっていて、中央に玄関があり、そこでスリッパに履き替えて、まず、洋館に進みます。残念ながら室内撮影禁止のため、画像はありません。

壁紙は真っ白、階段も(彫刻はされているものの)白木のままで飾り金具も無い、シャンデリアもシンプル。実に装飾控え目の上品な雰囲気です。

貞剛が設計者に「清楚に」との注文を出していたとのこと。私のような小市民からすれば、洋館のお屋敷という時点で「豪華」と思えてしまうのですが、確かに、少なくとも派手ではありません。

窓ガラスに微妙に歪みがあり、外の光景が若干屈折して見えます。昔の製法で作成されているため、現在のガラスのように均一にはなっていないのです。

現代では再現が難しいとのことで、慣れてしまえば、この歪みも味があるように感じます。古い洋館に入る際には注意して見てください。

2階に登ると貞剛の事績に関するパネルが置かれています。案内の方が特に触れなかったので(奥ゆかしさというところでしょうか。)、自分で読むことにします。

貞剛は別子銅山(愛媛県)の経営の任にあたって成功を収めた人物であり、しかも、精錬場からの煙害を解決するため、これを四国本土から島に移し、或いは銅山開発によって荒れ果てた山に植林を実施した云々。

開発と環境保全の両立を目指す、この時代の人物としてはかなり先見的だったようです(足尾鉱毒事件の解決に尽力した田中正造が、別子銅山については賞賛していたとのこと。)。

大財閥のトップに立つ程の人物となれば、やはり、単に事業家として優秀なだけではなく、自分の哲学を持ち、社会に対して利益を還元できるようでなくてはいけないということでしょうか。なるほど。

廊下を渡って、和館に回ります。こちらは平屋です。

和館から見た庭園.JPG

 素人の私には、それなりに広いものの一般的な和室に見えますが、案内の方によると、かなり珍奇で高価な木材を所々に使っているとのことで、幾つか、解説してくださいました。

説明されても素人の私には「そうなんだ。」としか思えませんが。
「分かる人だけ、分かってくれればよい」という、成金趣味とは対極的な趣向です。
 
奥の座敷の襖を開けたところ、暖炉が出てきたのは少々びっくりしました。

庭をのんびりと眺めていると、時々、轟音が響きます。実は、活機園の敷地に入る前から何度と無く響いているのですが。

上でも書きましたが、新幹線の高架橋が活機園の敷地のすぐ傍を通っている(というよりも、本来、新幹線の線路を含め、その向こう側まで活機園の敷地だったのが、新幹線を通す際に分断されてしまい、敷地面積が大幅に減少してしまったそうです。)ので、新幹線が通過する度、耳を劈く騒音が活機園の敷地全域に響き渡ります。

史跡の中にわざわざ新幹線を通さずともよかろうと思わなくもありませんが、「一般人の住宅を何棟も立ち退かせるより、本来の主を既に失った屋敷の広い敷地の一部を割く方がよい」という発想は民主国家としては、おそらく健全なものでしょうね。多分。

来年以降はおそらく競争率もいつもどおり高くなると思いますが、今回の記事を読んで興味を持たれた方は、来年4月ころに往復はがきを用意のうえ、住友活機園のホームページを覗いてみてください。(終)
                          <弁護士>

2011年04月16日

◆名所旧跡だより 平原遺跡(福岡県糸島市)

石田岳彦

私の故郷である福岡市の周辺では、「桧原(ひばる)」、「屋形原(やかたばる)」、「前原(まえばる)」と、「原」を「はら」ではなく、「ばる」と呼ぶ地名が散在しており、上記の「平原」も「ひらはら」ではなく、「ひらばる」と読みます。

本日は福岡県糸島(いとしま)市にある平原遺跡について述べさせていただきます。

魏志倭人伝には邪馬台国を初め、多くの国名が記載されていますが、伊都(いと)国もその中の1つです。

現在の福岡市西区から糸島市にかけては、もともとは糸島郡であった地域ですが(平成の大合併で、前原市と志摩町、二丈町がまとまって糸島市が誕生し、糸島郡は最終的に消滅しました。)、この糸島郡自体、明治時代に怡土(いと)郡と志摩(しま)郡が合併して成立しました。

この怡土が伊都と通じること、佐賀県の旧松浦郡(現在の伊万里から唐津あたりにかけての地域)にあったとされる末廬国(まつら)国の南東に伊都国があったとの魏志倭人伝の記載から、伊都国は旧糸島郡にあったとされているそうです。

平原遺跡はこの伊都国の女王の墓とされています。 平原遺跡は糸島市の平原地区(遺跡の大半は発見された場所の地名で呼ばれます)にあり、周辺はのどかな農村地帯です。

そもそもこの遺跡が発見されたのも、昭和40年に地元の農家が蜜柑の木を植えようとして、銅鏡の欠片を発見したことがきっかけでした。

平原遺跡.jpg

報告を受けた福岡県は、郷土史家の原田大六(大正6年の生まれということで、こう名付けられたそうです。)に発掘の指揮を依頼しました。

この原田大六は、糸島中学校(今の福岡県立糸島高校)を出たものの、大学では学ばず(歴史しか勉強しようとしなかったので、進学が無理だったとか)、太平洋戦争から復員した後、公職追放にあったのを契機に(軍隊において憲兵隊に入っていたのが祟ったといわれています)、中山平次郎博士に弟子入りし、博士から9年以上にわたり、1日6時間以上のマンツーマン指導を受け、考古学者になったという歴史小説の主人公にもなれそうなユニークな経歴と個性の持ち主です。

ちなみに中山博士は、現在でいうところの九州大学医学部の教授でありながら、寧ろ考古学者としての業績が有名という(九州考古学会の設立者だそうです)、これまた変わった経歴の持ち主で、この師匠にして、この弟子ありというところでしょうか。

この原田大六が、途中からは自費で発掘を継続し、遺跡からは墳墓の副葬品と見られる多くの出土品が発掘されました。

発掘品の中でも特に目立つのは39面又は40面(何分、破片で見つかったので、枚数について争いがあるようです。)発見された銅鏡で、うち4枚は直径46.5cmと、日本で発見された銅鏡として最大のものです。

他方で、剣等の武器はほとんど見つかっておらず、被葬者が女性であったことをうかがわせます。 副葬品の内容と豪華さから見て、時代は弥生時代。被葬者は王クラスの女性、つまり女王。遺跡(墳墓)のあった場所は伊都国があったとされるエリアということで、現在では、上記のように伊都国の女王の墓と推定されています。

弥生時代の女王といえば、邪馬台国の卑弥呼が有名ですが(実際には「日巫女」という太陽神を祀る神官女王の役職名だったのではないかとの説もあるそうですが)、それ以外にも女王がいたのですね。

ちなみに原田大六は玉依姫(たまよりひめ。神武天皇の母親とされる神話上の女神です。)の墓と主張していました。

平原遺跡の女王の墓は四角形(現在では少なからず形が崩れていますが)で、写真を見ればお分かりのように、その周囲には溝が掘られています。学問的には方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)と呼ばれるタイプの墓だそうで、上記の発掘品も近年になって「福岡県平原方形周溝墓出土品」という名称で一括して国宝に指定されています。

現在の平原遺跡は、墳墓の周りが低い柵で囲まれ、その周囲は横長のレリーフが建っているのを除けば何もない広場になっており、少し離れたところに古民家(遺跡とは全く関係ありませんが、保存のため移築されたようです)が1軒ぽつんという、よく言えば開放的、率直にいえばスペースが広々と余った歴史公園となっています。個人的にはこういう長閑な雰囲気は好きですが。

平原遺跡から車で10分ほど走ると農村風景の中に4階建の立派な建物がそびえているのが見えてきます。伊都国歴史博物館です。もともとは伊都歴史資料館といったようですが、平成16年に新館が建てられて博物館に昇格したとのこと。

「福岡県平原方形周溝墓出土品」の一部は九州国立博物館の平常展示室で公開中ですが、大半の発掘品はこちらの新館に保管・展示されています。館内撮影禁止のために写真はありませんが、鈍く緑色に輝く大型の銅鏡がケースの中にずらっと並ぶ姿はさすがに壮観です。
 
展示ケースの前に、立てられた状態の銅鏡が1枚、機械仕掛けでゆっくりと回転しながら展示されていましたが、見学者が私と妻の他におらず(施設と所蔵品の豪華さを考えれば、もったいない限りです。)、静けさの中で、微妙なモーター音をあげながら回転する銅鏡の姿は率直にいって不気味でした。

この博物館の前身たる伊都歴史資料館の初代館長には、上でも述べた原田大六が予定されていたそうですが、大六が開館を待たずに死去したため、名誉館長の称号が追贈され、資料館の前に銅像が立てられました(銅像は現在も立っていますが、新館の入り口からだと目立たない場所になっています)。

自分の主導で遺跡を発掘し、国宝級の副葬品を発見して、それを納めた郷里の資料館の前に銅像を建ててもらう。郷土史家としては頂点を極めたという感じですね。大学の考古学の教授でもここまでの成功を得られる人は滅多にいないでしょう。
 
福岡市やその近郊にお住まいの方は休日にでもドライブがてらにでも、平原古墳と伊都国歴史博物館を訪れてみてください。晴れた日には本当に気持ちの良い場所ですので。(終)  <弁護士>