2011年02月16日

◆「名所・旧跡だより」葛井寺(藤井寺市)

石田岳彦

関西に住んでいる方、若しくは古株のプロ野球ファンの方、特に旧・近鉄バファローズファンであれば、大阪府の南部に藤井寺市という街があることはご存知でしょう。

もっとも、この街に葛井寺(ふじいでら)という寺があり、そもそも街の名前がこの寺から来ているということは案外知られていないかも知れません。
 
とはいえ、葛井寺は決して無名のお寺ではありません。少なくとも、社寺巡りを趣味とする者の間では。かの西国三十三番観音霊場の五番霊場ですし、ご本尊として(少なくとも、仏像ファンの間では)有名な国宝の千手観音菩薩像がいらっしゃいますので。

近鉄南大阪線を藤井寺駅で降りて、商店街を抜け、5分足らずで葛井寺の境内に辿り着きます。

寺伝によれば、葛井寺は、聖武天皇の命を受けた行基が建立したとされているそうですが、この手の話はほとんどの場合、眉唾で、実際には渡来人系の豪族の葛井(ふじい)氏が建てたという学説が有力なのだそうです。

もっとも、度々、戦火や天災の被害にあっているため、現在、境内に建ち並んでいるのは安土桃山時代に建てられた西門(重要文化財)を除けば、江戸時代の建物となります。

葛井寺 西門.jpg

境内は広くなく、西門をくぐれば、すぐに本堂です(なお、正門は南側にある楼門の南大門で、なかなか立派なものです。)。

千手観音菩薩とは、観音菩薩の姿の1つで、広く衆生を救いたいという観音菩薩の慈悲の心を千本の腕で象徴しているわけですが、流石に千本も腕をこさえて、かつ、取り付けるのは至難の技であり、彫刻にするときは、普通、42本の腕で「千手」ということにしています。普通は。
 
そう。葛井寺のご本尊は「普通」に飽き足らず、敢えて至難の技に挑み、実際に千本の腕(実際には1000本を若干越えているようです。)を取り付けるという偉業(誤変換で「異形」と出てきましたが、ある意味正解です)を達成した「本物の千手観音菩薩」像なのです。

実際に千本以上の腕を取り付けた千手観音菩薩像の他の作例としては、唐招提寺金堂のもの(国宝)や、壽宝寺(京都府京田辺市)のもの(重要文化財)がありますが、これらは後年幾らかの腕が失われ、現存する腕は千本を切ってしまっており、そういう意味では、葛井寺のご本尊は現存唯一の「本当の千手観音菩薩像」ということになります(どこかのお寺なり、新興宗教団体が近年になって作成しているかも知れませんけど、ここでは無視します。)。

このご本尊は毎月18日のみ拝観が可能で、いわゆる秘仏です。

余談ですが、一概に「秘仏」といっても、毎月特定の日に公開されるというライトなものから、毎年特定の数日間のみ公開されるもの、数年から数十年に一度のみ公開されるもの、一般どころか文化庁のお役人にさえ絶対に公開されないもの(いわゆる「絶対秘仏」。

文化庁による審査を受けていないので、国宝や重要文化財にも指定されていません。)、果ては、ご本尊は絶対秘仏、その代わりを務める前立ち本尊(その名のとおり、ご本尊を納めた厨子の前に立つ、ご本尊の代行です)でさえ7年に1度しか公開されない善光寺(長野市)と、「秘され具合」のギャップには激しいものがあります。

葛井寺の本堂では参拝客が入ることができるのは外陣までで、そこから内陣奥のご本尊までは少し離れており、残念ながら、細部まではよく見えません。

観音様は坐像で(なお、上記の唐招提寺と壽宝寺の千手観音菩薩像は立像です。)、千本の腕のうちメインの2本は普通に両肩から伸びていて体の正面で合掌しています。

残りの腕は背中から左右に胴体を包み込むように放射線状に伸びていて(うち40本は比較的大きく、千手観音御用達の各種法具類を持っています)、少し離れた外陣から見ると、半分に分かれた巨大なボウルが、観音様の胴体を左右から挟みこんでいるようにも見えます。

写真撮影禁止のため(一般的に、名のある仏像の大半は撮影禁止です。国宝の仏様で撮影禁止でないのは、奈良と鎌倉の大仏様と東大寺南大門の仁王様、臼杵の石仏群くらいでしょうか。)、画像はありませんが、藤井寺市のホームページに写真が載っていますので、ご覧になってください。

写真を見て感じるところがあったら、18日に葛井寺に行ってください。仏像にそれほど関心のない方でも、話の種として一見の価値ありです。

同じ藤井寺市内、近鉄南大阪線の道明寺駅から徒歩5分足らずのところに道明寺と道明寺天満宮が隣り合わせで建っています。もとは1つだったのが、明治初期の神仏分離の折に強引に分離させられたようです。

天満宮といえば、当然、菅原道真公を祀っているわけですが、この道明寺のあたりは、菅原氏の先祖にあたる土師(はじ)氏の根拠地だったところで、太宰府に流される途中の道真公が、道明寺にいた叔母を訪ね、形見の品を遺したという伝説があります。

なお、この近辺は大阪夏の陣の激戦地の1つでもあり、豊臣方の勇将・後藤又兵衛が壮絶な戦死を遂げたその合戦は、その名も「道明寺の戦い」です。

道明寺のご本尊は国宝の十一面観音菩薩立像で(当然のことながら写真はなしです)、小さいながらも表情もプロポーションも端正です。葛井寺と異なり、かなり近くまで寄ってお姿を拝見できるのは嬉しいですね。

こちらも一応は秘仏で、毎月18日と25日に限り公開されます。葛井寺の千手観音様もそうですが、曜日さえ問わなければ毎月お目にかかれるので、秘仏の「秘され具合」としてはかなりライトな方といえます。

なお、お隣の道明寺天満宮には菅原道真公の遺品(上で述べた叔母さんに道真公が託したものですね)と伝えられる硯、櫛、銅鏡、石帯等が伝わっていて、一括して、やはり国宝に指定されています。毎年、梅の開花シーズンに合わせて宝物館で特別公開されていて、今年は2月11日から3月10日までの土日祝だそうです。

藤井寺市という一般観光客的にはノーマークな町に、国宝の仏様が2件いらっしゃるというのは驚くべきことで(国宝の仏像が2件以上存在する市町村は奈良市、京都市、斑鳩町、大津市(三井寺)、宇治市(平等院)、宇陀市(室生寺)等と数えるほどです。)、この地が古代から拓けていたということを実感させられます。

関西にお住まいの方は、休みの日にでも足をのばしてはいかがでしょうか(仏像ファンならば、たとえ九州・沖縄、北海道からでも来る価値はあります)。

18日なら葛井寺と道明寺を一緒に拝観できるので、お勧めです。


 


2011年01月22日

◆名所旧跡だより 高松塚古墳壁画

石田岳彦

今回は少し古い話をさせていただきます。

高松塚古墳の石室壁画といえば、飛鳥美人の群像や四神(正確には朱雀が失われて、青龍、白虎、玄武の「三神」になってしまっていますが)等、日本史の教科書にも載っている有名なものですが、現在、明日香村内の専用修理施設で修復中です。

平成16年に壁画の劣化が公になって以降、文化庁が早い段階で壁画の劣化を知りながら、長期間にわたり秘匿していた事実が判明し、同庁の隠蔽体質が問題となりました。

その反省の態度をアピールするためか、平成17年に古墳石室の解体修理が決まった直後、修理作業の一般公開が表明され、古文化財ファンを騒然とさせたのです。

というのも、「最も見るのが難しい国宝」ランキングNo1といわれていた高松塚古墳壁画が、修理中とはいえ見ることができる訳ですから、ファンとしては騒ぐなというのが無理です。

見学の申し込み方法は改めて公開されるということで、私も申し込み方法の発表の日を待ちかねていました。

平成20年春のある朝、私が新聞を見ると、一面に大きく高松塚古墳壁画の修理作業見学会の記事がありました。

申し込み方法は、往復はがきに希望の日時(細かな時間指定はできず、午前、午後のみの指定できることになっていました)を2つまで書いて、大阪市の西天満郵便局の受付まで郵送とのこと。

応募者が多数の場合は先着順・・・。早い者勝ち?!抽選ではなく(事前の報道では、応募者多数の場合、抽選になると言われていました。)、早い者勝ち?
つまり、早く出せば出すほど確実に見られる!遅くなればなるほど、確率はどんどん下がる!

何故、我が家に往復はがきが常備されていなかったのか!!!と、冗談抜きに頭を抱えつつ、偶々(そしてまことに好都合なことに)、福岡の実家から遊びに来ていた父に、郵便局が開き次第、可及的速やかに往復はがきを買い、申し込んでもらうよう頼んで(強要して)、後ろ髪を引かれつつ、事務所に向かいました(仕事をさぼって郵便局に行かない程度の分別は残っていました。)。

インターネットで拾った話によると、私の(父の)ように郵便局の開くのを待って、朝一で往復はがきを購入し、速達で出した者もいれば、西天満郵便局に葉書を持参した剛の者までいたようで、古文化財ファンによるある種の「祭り」が日本各地で繰り広げられていたようでした。

幸いにして、私は、希望していた見学会初日の午後に見学ができることになりましたが(正確には、見学会初日を含め、日時を変えて3通出したら、3通とも当選してしまいました。)、インターネットで見かけた話では、新聞報道がなされた当日に申し込みの葉書を出したにもかかわらず、落選した人もいたようです(余程遠方から出したのでしょうか)。

結局、応募が定員を早々と大幅に超過してしまい(私のように「念のため」に複数応募して、全部当選してしまった人間もいるでしょう。「早い者勝ち」制に加え、1通の葉書で1つの日時しか申し込めないようにした文化庁の責任です。)、第1回見学会の募集は、当初の予定よりも5日も早く打ち切られることになったのです。

そういうわけで見学当日。遅刻だけは絶対にするまいということで、早めに大阪の家を出たところ、目的地に1時間半前についてしまいました。さすがに自分がハイになっていることは自覚せざるを得ません。

時間指定がなされているので、早めに来るメリットはゼロですが、現地に来て、独特の雰囲気を味わいながら、待つというのも悪くない気分です。イベントとはそういうものでしょう。

修理施設は、飛鳥歴史公園館の裏側にあります。とはいえ、ほとんどの方が飛鳥歴史公園館自体を知らないと思いますが(飛鳥観光の際、施設の名前を知らないまま、トイレを利用された方はそれなりにいるかも知れません。)。

近鉄飛鳥駅の東側約1km、高松塚古墳の北西数百mにある施設で、飛鳥地方にある石造建造物や古墳等についての地図、パネル等を展示しています。

普段は閑散としていますが(パネルを見る暇があったら、周辺の本物を回った方がいいですからね。)、この日は多くの時間待ち客でにぎわっていました。

現場付近では朝日新聞が特別版を配布中。キトラ古墳壁画の公開の際も、毎年のように会場の飛鳥資料館の館内で特別版を配っていますが、朝日新聞は文化庁と仲がよいのでしょうか。

テレビカメラも来ていました。古文化財ファンに限らず、世間一般の関心も高かったようです。

指定時間になり、まずは十数名のグループで公園館横のプレハブ小屋の中に通され、10分ほどの間、スライドを見ながらの説明会。

内容は高松塚古墳壁画の発見から、劣化の判明、修理方法の検討、解体修理の実行といった経緯を紹介するもので、一言でいうと「情報公開やってます」との文化庁の懸命のアピールでした。

ただし、かびたムカデの死体の写真(石室の中で生態系のサイクルが成立してしまっていることの証拠なのだとか)をアップで映すのは止めていただきたい。
 
いよいよ修復施設に入ります。

入り口の暗幕をくぐると、そこは見学者用通路で、大きなガラス窓の設けられた壁で作業室と区切られていました。作業室の中には高松塚古墳の石室を構成していた石材がずらっと並んで寝かせられています。

事前の説明にもありましたが、石材の大半は通路から離れた場所に置かれており、最も手前に置かれた3片を除けば、どのような絵が描かれているかは分かりません。壁画の公開ではなく、修理作業の公開ということを考えれば仕方がないのでしょう。

それでもギャラリーへのサービスということでしょうか。比較的保存状態がよく、また、描かれている絵が有名なものを3つ選んで手前に並べたようです。

一番左は四聖獣の玄武。(発見時において既に)絵の中心部分が剥落により欠けてしまっているので、遠めには黒い楕円にしか見えません。

真ん中は西壁女子群像。有名な飛鳥美人ですね。見学者もついつい中央に集まります。

一番右は東壁男子群像。石室の中に流れ込んだ泥により汚れている部分が多いですが、帯の赤色は鮮やかでした。 ただ、キャンバスである石材が寝かされている状態なので角度が悪く、ガラス窓から石材までの距離(最も手前のものとでも、やはり1m以上は離れています)の問題もあって、やはり見辛いです。
 修理施設での修理作業の公開に対し、博物館での展覧会のような(見る上での)快適さを求めるのがそもそも無理なのでしょうが・・・。

もっとも、面の凹凸は斜めから見る方がよく分かります。

事前の説明でも聞いていたのですが、キトラ古墳壁画(壁画の描かれている漆喰層が石室の壁から剥がれかけていた)とは異なり、高松塚古墳の壁画では、壁画の描かれた漆喰層が溶け出して、石材に染み付いてしまっているのです(そのため、キトラ古墳のように壁画=漆喰層のはぎとりができず、石室の解体を余儀なくされました)。

新聞、雑誌等の出版物に載っている高松塚壁画の写真は、壁画を正面から撮影しているので、それほど目立たなかったのだと思いますが、こうして斜めから見ると飛鳥美人の絵も石材の壁に沿ってかなり凸凹になっているのが一目瞭然で、痛々しさを感じます。

突然、電子音が鳴り始め、こんな時に誰がと思いつつ、周囲を見ると、係員の方がタイマーを持ち、すまなそうな顔をしているのが見え、10分間の見学時間の経過を知りました。あっという間です。

壁画の劣化をこの目で確認することともなりましたが、それを差し引いても、やはり「あの高松塚古墳壁画」を見ることができたのは印象深い経験でした。

外に出たところで朝日新聞と文化庁がそれぞれアンケートをとっていました。壁画の保存方法についてとの問いがあり、私としては、「空調の効いた施設できちんと保管した方がよい」と回答したのですが、翌日の新聞を見ると、もとの古墳に戻すという回答が最も多かったとのこと。

もっとも、現在の技術では自然下の条件で壁画の劣化を防止するのは困難ですので、古墳に戻される日が来るとしても、かなり先のことになりそうです。夕刊の一面や社会欄に見学会開始の記事が大きく載っており、世間の関心の高さを改めて感じさせられました。

もっとも、熱心なファンのほとんどが初回で見てしまったためか(展示内容は2回目以降も1回目と変わらないようです)、或いは、マスコミの扱いが格段に小さくなったためか(おそらく、こちらの影響が大でしょう。)、第2回以降の見学会の応募は定員割れの状態が続いているそうです。

今なら応募すれば、高い確率で見学会に参加することができるでしょう。毎年春と秋に行われているようですので、詳しくは文化庁のホームページまで。
                        終 
 

2011年01月07日

◆名所旧跡だより 太宰府天満宮(福岡県)

               石田岳彦

明けましておめでとうございます。

お正月といえば初詣です。私の生まれた福岡市とその周辺には筥崎宮、香椎宮、宗像大社、住吉神社(以前、紹介させていただきました)等、全国的に見て(知名度は兎も角)格式の高い神社が揃っていますが、初詣客の数では、例年、太宰府天満宮が最多となっています(ちなみに九州全体でも最多で、全国でもトップテンに入っています。)。

言うまでもなく、太宰府天満宮は学問の神様、受験の神様として全国的に有名で、私も高校受験、大学受験とお世話になりました(重ねて私事で大変恐縮ですが、実は私の結婚式もこの神社です。)。

平安時代前期の学者、政治家である菅原道真公は、藤原時平との政争に破れて大宰府(ちなみにお役所として「だざいふ」という場合には「太宰府」ではなく「大宰府」と書くそうです。あと、本来「大宰府」とは複数の国を管轄する役所を指す普通名詞で、大宝律令以前には吉備国等にも大宰府があったとか。)に左遷(実質的には流罪)され、その地でさびしく世を去りました。

道真の学問上の弟子であり、道真のお供として都から大宰府に来て道真の世話をしていた味酒安行(うまさけ・やすゆき)は、道真の遺骸を牛車に乗せて、近くの安楽寺に運びましたが、寺の門前で牛が動かなくなったため、その地に道真を葬り、廟を建てたのが太宰府天満宮の起こりといわれています(明治以前は「安楽寺天満宮」と呼ばれていたそうです。なお、このエピソードに因んで牛は天神様の使いとされました。)。

その後、時平が急死し、道真の怨霊の仕業とされる天変地異が立て続けに生じたこともあり、時平の口車に乗って道真を左遷した醍醐天皇は恐怖にかられ、道真の霊に詫びを入れるべく、大臣を大宰府に派遣して本格的に社殿を造営しました(その甲斐もなく、結局、崇り殺されました。)。
 
ところで、天神様の総本社といえば、太宰府天満宮と並んで北野天満宮も有名ですが、こちらは平安京のとある巫女さんが神懸りになって、北野の地に道真を祀る神社を建てるよう託宣したのを契機として建立されています。

従って、太宰府天満宮と北野天満宮はどちらかが本で、どちらかが末というものではなく、祭神は同一ですが、それぞれ別個に成立した神社です。

もっとも、建てられたのは太宰府天満宮の方が早いですが。太宰府天満宮の方が早いですが(福岡県出身者として、とても大切なことなので2回言いました。)。

太宰府天満宮に参拝するのであれば、福岡市の中心である天神から西鉄大牟田線に乗り、二日市駅で太宰府線に乗り換えるのが便利でしょう。終点の太宰府駅の改札をくぐると、多くの参拝客で賑わう太宰府天満宮の門前町です。

参道沿いには、各種の土産店が並んでいますが、名物の「梅が枝餅(うめがえもち)」を店頭で焼いている店が目立ちます。

梅が枝餅は、餡子を薄い餅の生地で包み、梅の花の刻印の入った焼き型で焼いた焼餅で、焼き立てのものは、表面がパリッとしていて、中はヤワヤワでモチモチしていて美味です。個人的には、福岡に帰省した際に博多ラーメンと並んで食べたい懐かしい味ですね。

梅が枝餅の名の由来については、左遷された道真の境遇に同情した老婆が、餅を差し入れて慰めるようになり、道真の死後、その墓前に梅の枝に刺した餅を供えたという美しくも悲しい伝説が残されています。

鳥居をくぐり、先に進むと心字池という大きな池があり、美しいアーチを描く太鼓橋がかかっていますが、聞くところによると、カップルで太宰府天満宮に参拝に来た際、女性が先にこの橋を渡ると、間も無くそのカップルは破局を迎えるというローカルな都市伝説があるとか。

左右に回廊をめぐらした楼門をくぐると本殿(重要文化財)が見えてきます。

この本殿は、豊臣政権の下で筑前、筑後等を治めていた小早川隆景(毛利元就の三男。毛利家内で親豊臣政策を主導したこともあって秀吉から優遇されました。)により建てられました。なお、居城は現在の福岡市東区にあった名島城です。ちなみに天下分け目の関ヶ原の戦で、勝敗を決する裏切りを行った小早川秀秋(隆景の養子)は、当時、名島城主でした。

唐破風付きの桧皮葺屋根の両流造(通常の流造は前側の屋根を延ばして庇にしたものですが、両流造では後側にも庇が付きます)で、各種の彫刻で飾られ、安土桃山時代らしく華やかな雰囲気です。

太宰府天満宮本殿.jpg 飛び梅.jpg

本殿前、向かって右側には有名な「飛梅」の姿。

太宰府に流される道真が都を離れる際、自邸の庭の梅の木に「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ(一説には「春を忘るな」)」と詠んだのは有名ですが、この梅の木が都から道真を慕って飛んできたというのが、これまた有名な飛び梅伝説です。味酒安行といい、梅が枝餅の老婆といい、道真の人徳を偲ばせる伝説ですね。

お参りの後、参道を引き返し、心字池の手前で左側に逸れると、細長い巨大な建物が境内から丘の上へと伸びているのが見えてきます。九州国立博物館に続くエスカレーターとトンネル(動く歩道)です。

九州国立博物館は太宰府天満宮のすぐ近くというより、境内の中にあります。

九州に国立博物館(当初の計画では「鎮西博物館」と仮称されていたようですが)を作る計画は岡倉天心が提唱したものですが、19世紀末の太宰府天満宮の宮司さんが計画を具体化するべく募金活動を開始し、その後、境内の一部を天満宮が建設予定地として寄付した結果が、九州国立博物館の現在の立地というわけです。

もっとも、建設資金の募金の開始が1893年、博物館の開館が2005年ですから、文字通り100年がかりの大事業ですね。

博物館には、宮地嶽古墳(福岡県福津市)から発掘された馬具類、平原遺跡(福岡県前原市)から発見された国内最大の銅鏡等、九州にゆかりの国宝等が展示されています。

初詣に(場所が場所だけに元旦から開いています。しかも今年はゴッホ展が来ています。)太宰府天満宮に行かれた際は、セットでご覧ください。

2010年12月26日

◆名所旧跡だより「南明寺」(奈良県奈良市)

               石田岳彦

今年もあとわずかになってきました。

古文化財ファンにとって今年最大のイベントは奈良県で行われた平城京遷都1300年祭でしたが、新聞によると、予想以上に盛況だったようです。

不況の影響で寄付金が予定どおり集まらず、平城宮跡に多くのパビリオンを建てる計画を縮小する等、お金をかけない方針に転向したのがかえって功を奏したような気がします。

やはり、奈良県の最大の魅力は、昔からの寺社の建物、仏像、絵画、工芸品等の文化財や古墳等の遺跡であり、その魅力をアピールするのが一番だと思うのです(蜘蛛型巨大ロボットを呼ぶ等して散財し、大コケした横浜市の開港記念博覧会を見ると、特にそう思います。)。

1300年祭の秘仏・秘法特別開帳に参加した寺社の中には、参拝客が急増したところも多かったようで、朝日新聞によると奈良市の「南明寺」(なんみょうじ)では、通常1月あたり10人(「1日あたり」ではありません)であった参拝客が、特別開帳中の1カ月足らずの間に3000人を越えたとのことでした。

今回はその「南明寺」の回です。

「南明寺」があるのは、奈良市の中央部とその東方の柳生の里(有名な柳生一族の本拠地ですね。今は合併によって奈良市内になっています。)を結ぶ柳生街道沿いになります。

以前にも1度行きましたが、その際には内部は公開されておらず、本堂の外観だけ見て帰ってきましたので、今回の特別開帳に合わせて、改めてお参りすることにしました。

奈良市中心部と柳生の里を結ぶ路線バスは2、3時間に1本という頻度で、奈良県内のそれなりに名の知れた観光地としては交通の便が悪いといわざるを得ません。事前に行きと帰りのバスの時刻を調べることは必須といえます(この点はインターネットのお蔭でかなり便利になりましたが)。

近鉄奈良駅を出てバス停に着くと、既に行列となっていました。「南明寺」、または同じ柳生街道沿いの円成寺(運慶作の大日如来像等、国宝を2件も持っています。)の特別開帳に向かう参拝客です。

知名度からいって円成寺(私見ですが、国宝が1件あるのとないのとでは知名度に数倍の差が出てきます。)に行く人が大半かと思ったのですが、意外なことに円成寺の最寄りの忍辱山(「にんにくせん」と読みます。円成寺の山号です。)バス停で降りたのは半分ほどでした。半分は「南明寺行き」。意外です。

「円成寺には行ったことがあるが(円成寺の場合、今回行われた秘法の特別公開は兎も角として、境内と国宝2件は基本的に常時公開されています。)、「南明寺」には行ったことがない」という微妙にマニアな層が「南明寺」に大挙して向かっていたということでしょうか。

円成寺から更に10分ほどバスに揺られ、「南明寺」の最寄りの阪原バス停に着きました。渋滞がなければ近鉄奈良駅から30分ほどです(ちなみに我々の乗ったバスは奈良公園付近で大渋滞に巻き込まれたので50分ほどかかりました。)。

バス停から3分ほど、最近立てられたと思しき案内板に従い、集落の中の道を歩くと寄せ棟作りの瓦屋根の建物が見えてきます。「南明寺の本堂」です。

南明寺 本堂.JPG

鎌倉時代に建てられたもので国の重要文化財に指定されています。

お寺の建造物というと、組み物(柱の上に置かれて梁を支える構造)の複雑さが見所の1つですが、こちらの本堂は写真を見ればお分かりのように、このうえなくシンプルなつくりです(後述の縁起話を聞いた後だと、実用的でない部分に金銭を使う経済的余裕がなかったのだろうかと思ってしまいますね。)。

とはいえ、やはり何かしらの風格を感じます。

これは別に霊的な何かというものではなく、柱・梁等の部材の古さに加え(鎌倉時代の建物となれば、創建当初の部材は少数で、大部分は途中の修理により、後補の部材に代わっているとは思いますが、それでも数十年から数百年の風雪に耐えていることになります。)、土壁の塗り方、屋根に載せる瓦の製法の違い(国宝、重要文化財クラスとなると、修復にあたっても、極力、昔のとおりの手法、製法で復元することが要求されます。)といったものが、全体として、そこらの建物との「違い」というか、「歴史」を感じさせているのでしょう。

拝観料を払い、本堂の中に入ります(いつものごとく堂内撮影禁止なので、残念ながら写真はなしです。)。ちょうどお寺の方(寺を管理している近所の方という感じです)による解説が行われていました。

それによると、鎌倉時代、近隣の寺が何箇所か廃寺になったため、そこで祀られていた仏像をまとめて安置するために建てられたお寺が「南明寺」とのこと・・・・・・・。

お寺の縁起というと、聖徳太子、行基、空海、円仁(天台宗の第3代座主。唐に留学して「入唐求法巡礼行記」を著す。日本各地を実際に巡ったこともあってか、師匠で宗祖の最澄よりもこの分野では人気者?です。)といったビッグネームが「名前を使うだけなら只だと思っているだろう」と言いたくなるくらい頻繁に持ち出され、摩訶不思議な霊異譚で飾られることが多いのですが、ここまで正直というか、現実的というか、不景気な縁起というのは初めて聞きました。

「実際にはこれと同様」というケースは腐るほどあると思いますが。おそらく。

なお、受付でもらった参拝のしおりによると、一応、「南明寺」にも「飛鳥時代に天竺からやってきたバラモンが云々」、「その後、信西が再建して云々」という「普通」の寺伝もあるそうです。

もっとも、「境内から鎌倉時代以前の遺構、遺物が発見されないため、実際には鎌倉時代の創建と考えられている」とのことでした。それにしても、何故、信西の名前が出てくるのでしょうか。よりによって。

史実に関係なく、有名どころを持ってきて縁起話をこしらえるのであれば、もっとふさわしいというか、無難な人物はいくらでもいると思いますが。

信西(藤原通憲)といえば、後白河上皇に仕え、保元の乱で崇徳上皇方に勝利した後、部下の源義朝(義経と頼朝の父親ですね)に対し、敵方についた実の父と弟達(この乱では源氏、平家とも敵味方に分かれての戦でした。)の首をはねるように命じた件があまりにも惨いということで(その復讐として、後の平治の乱で義朝に殺されることになります)日本史上の嫌われ者といってよい人物ですけど。

確かに信西の名前を出すくらいなら、「鎌倉時代、近隣の寺が何箇所か廃寺になったため、そこで祀られていた仏像をまとめて安置するために建てられた」と正直に話す方がまだマシでしょうか。

それはさておき、本堂中央に祀られている本尊は平安時代に作られた薬師如来坐像(重要文化財)で、高さ84.2cmとやや小ぶりなものの、端正で形のよく整った仏像です。

薬師如来というと、脇侍の日光菩薩・月光菩薩にボディーガード役の十二神将をお供にされるのがデフォルトですが、「南明寺」にはこれらの神仏の姿はなく、本尊薬師如来の左右は四天王が固めています。

参拝のしおりによると、この四天王像は本来、四天王として作られたものではなく、十二神将像のうち4体のみが残った結果、四天王として扱われるようになったのではないかとの不景気な説もあるようです。不景気な縁起話を持つ南明寺には似つかわしい説と言ったら怒られるでしょうか。

四天王は全体的にずんぐりむっくりで、ご本尊に比べると、よくいえばユーモラス、悪くいえば拙いという印象です。

本尊の左右には、重要文化財の釈迦如来座像と阿弥陀如来座像があり、ともに140cm前後とご本尊よりも1回り大きいため、間に挟まれたご本尊が一層小さく見えるような気がします。別にそのような効果を狙ったわけでもないでしょうが、何気にご本尊の肩身が狭そうです。

サイズが同程度で、座っている蓮華座のデザインが似ている(蓮華座だけ後補という可能性もあります)ので、対で作られたのかとも思ったのですが、しおりによると、平安時代のそれぞれ異なる時期に作られたとのこと。

本堂の向かって一番左側には140.5cmの地蔵菩薩坐像。明治になってから近所の廃寺から運びこまれたとのこと。廃寺の詳しい経緯は書かれていませんでしたが、当麻寺の回でも述べた廃仏毀釈の爪痕でしょうか。

今回は特別に一般公開されていましたが、南明寺本堂内部の拝観には、通常は事前の予約が必要です。これは決してもったいぶっているのではなく、単に管理人を常駐させるほど参拝客がいないということでしょう(月10人では、1人300円でも月収3000円ですからね。)。

もっとも、今回の盛況を見ると、春夏の観光シーズンに公開すればそれなりに参拝客がいるようにも思えます。

近くにある柳生の里は十分にネームバリューがありますし、柳生街道沿いには「円成寺」、「南明寺」以外にも国宝・重要文化財を有する社寺も多く、上手く宣伝して知名度を上げ、交通の便を改善すれば、観光客も増えるのではないでしょうか。

観光シーズンの土日・祝日の昼間に限って、1時間に1本くらいの頻度にバスの増便を。お寺とバス会社に英断を求めたいところです。終 (弁護士)

2010年11月28日

◆名所旧跡だより犬山城・愛知県犬山市

          石田岳彦

「現存12天守」なる言葉をご存知でしょうか。
 
昭和以降、鉄筋コンクリートで再現された天守閣のレプリカ(?)は全国各地に数あれど(天守閣が建てられた歴史的事実がない城跡にまで建てるのはさすがにいかがなものかと思います。)、江戸時代以前の本物の天守閣が残っている城は全国に12しかありません。

これを総称して「現存12天守」と呼ぶことがあります。

12の城は、弘前城(青森県・弘前市)、松本城(長野県松本市)、犬山城(愛知県犬山市)、丸岡城(福井県丸岡町)、彦根城(滋賀県彦根市)、姫路城(兵庫県姫路市)、備中松山城(岡山県高梁市)、松江城(島根県松江市)、丸亀城(愛媛県丸亀市)、松山城(愛媛県松山市)、宇和島城(愛媛県宇和島市)、高知城(高知県高知市)です。

このうち、松本城、犬山城、彦根城、姫路城の4城の天守閣が国宝に指定され、残り8城では重要文化財に指定されています。

今回はその国宝4天守の1つ、犬山城のお話です。

1.犬山城 遠影.JPG

愛知県犬山市の木曽川の河畔の丘の上に聳え立つ犬山城は、その立地から、「白帝城」(オリジナル白帝城は長江流域の丘上にある城で、三国志の主人公である劉備玄徳が諸葛孔明に後事を託して亡くなった城として有名です)とも呼ばれているそうです。

荻生徂徠(江戸時代、徳川綱吉の時代の学者。赤穂浪士の処分について切腹にすべきとの意見を述べ、採用されたことで有名ですね。)の命名ということなので、年季が入っています。

なお、横を流れている木曽川がライン川と似ているとのことで、木曽川の川下りは「日本ライン下り」という名称で興業されています。つまり、日本のライン川の河畔に、日本の白帝城が建っているということですね。少しは統一を図るべきだと思いますが。

犬山の地は尾張と美濃の国境にあるという戦略上の要衝であり、古くから城が築かれていたようですが、支配者もまた頻繁に変わり、最終的には、江戸時代に入って、御三家の筆頭である尾張徳川家の付家老成瀬家が城主になり、明治に至りました。

付家老というのは、御三家等に対し、将軍の直々の命により付けられた家老で、幕府からのお目付け役的な側面もあり、藩内での立場はかなり複雑だったようです。

明治以降も長く成瀬家が個人で所有していて、「個人所有のお城」ということでも有名でしたが、近年になり、さすがに維持が困難になったようで(相続税が恐ろしいことになりそうです)、現在、城は財団法人の所有となっています。

天守閣が建てられた時期については幾つか説があるようですが、増築によって今の形になったのは1620年ころということでした。
 
名古屋鉄道・犬山遊園駅を出て、正面に犬山城を見ながら、木曽川沿いの道を行きます。後述する有楽苑の横を通り、城の建つ丘に登ります。丘の下方は神社の境内になっていて、参道の階段を登って上へと進むと間も無く天守閣です。

2.犬山城天守.JPG

犬山城にとって惜しむべきは、廃藩置県の際、多くの建物が破棄されてしまい、また、堀も大部分が埋められていることです。

城跡の歩き方といえば、堀に沿って歩き、橋を渡って城内に入って、幾つもの門をくぐり、所々で折れ曲がる道を登るという過程を経て、徐々に気分が盛り上がってきたところに本丸の天守に到着というのが理想ですが、犬山城の場合、近年になって天守付近の門や櫓の復元が行われているようですが、駅から天守閣に到達するまでの間には、城らしさを味あわせてくれるお堀、石垣、土塁といった構造物は残っていません。

お堀や石垣どころか、主要な建造物の大半が健在の姫路城は勿論、天守閣の他に幾つかの櫓と2重の堀が残っている彦根城に比べると寂しさは否めません。

それはさておき、入り口で靴を脱いで天守閣に登ります。犬山城に限らず、初めて「本物」の天守閣に登った方(なお、現存12天守は修復工事中の場合を除き、基本的に常時公開しています。)は、少なからず、愕然とするかと思いますが、天守閣の中は基本的に空っぽで、飾り気の欠片もありません。

犬山城の場合、一応、内部の壁も漆喰で塗られていて、畳敷きの部屋も一部ありますが(現存12天守の中には全層が板壁・板床というところもありました。)、豪華な装飾画などというものは皆無です。

織田信長の安土城や豊臣秀吉の大阪城の天守閣は、城主の住居として使われていて、狩野永徳に襖絵を描かせる等、内装にもかなり凝っていたようですが、安土桃山時代末期から江戸時代初期に立てられた城の天守(現存12天守はこの時期の建造です。)は、城主の権威を示すシンボルではあるものの、実際の用途という面では、主に倉庫として使われていたといわれています(城主は城内の御殿に住んでいました。

二条城の二の丸御殿を思い浮かべていただくと分かり易いかと。確かに4、5階建ての天守閣を毎日上り下りしながら暮らすのは大変でしょうからね。)。

さすがに「空っぽの倉庫」状態では物足りないので、天守の中に、鎧兜、刀、城の柱組みの模型等の資料を飾ったケースを並べたり、城の歴史や日本各地の城に関するパネルを設置したりといった努力もなされていますが、外観の華やかさに比して、味気ない内部です。

壁際に設けられている石落し等が、天守が(実際の運用は兎も角として)単なる倉庫ではなく、あくまで軍事施設であることを示しています。
3.犬山城 内部 1.JPG
4.犬山城 内部 2.JPG

最上階からの眺めは、月並みですが絶景です。平野の中の小高い丘の上、すぐ隣が木曽川というロケーションの勝利ですね。今のように高層建造物の少なかった昔において、高楼から遠方の眺めを楽しむというのは権力者の特権だったのでしょう。

5.最上部から 1.JPG
6.最上部から 2.JPG

さて、犬山城の麓には有楽園という庭園があります。名鉄犬山ホテルの施設の1つという扱いのようですが、一般にも公開されています(有料)。この庭園は、織田信長の弟である織田有楽が建てた茶室如庵(国宝)を中心に設計された日本庭園です。  

織田有楽は、本能寺の変で二条城に篭城した際には信忠(信長の長男で跡継ぎ)に切腹を勧めつつ、自分はちゃっかり脱出したり、大阪の陣の際も、淀殿の叔父(淀殿の母は、信長の妹のお市の方です)として豊臣方に世話になっていながら、直前になって城を脱出し、徳川方に転がり込んだりと(淀殿の妹のお江の方が2代将軍秀忠の正室でしたので、こういう芸当も可能でした。)、波乱に富んではいるものの、美しいとは言い難い人生を歩んだ人物ですが、茶人としては高名です。
国宝に指定されている茶室は、千利休の建てた待庵(京都府大山崎町の妙喜庵という寺院の中にあります)、大徳寺龍光院の密庵(京都市)の他はこの如庵だけなので極めて貴重な茶室といえます。

この茶室は、当初、京都にあったのを三井財閥に買い取られて、神奈川県大磯に移され(写真で見ましたが、大型トラックに茶室が丸ごと載せられて移動する姿は異様で、思わず、笑えてきました。)、更に名鉄に買われて、現在地に移築されました。

年に数回程度、特別公開で茶室の中にも入れますので、興味のある方は有楽苑のホームページを小まめにチェックしてください。

7.如庵.JPG

犬山には、他にもかの明治村があり(汽車、市電、乗り合い馬車が走っていて乗ることができたり、明治時代のレシピの洋食屋や牛鍋屋で食事ができたりと、単に古い建造物を集めた資料館ではなく、明治時代を体験できるテーマパークという性格になってきました。)、お猿専門の動物園である日本モンキーセンターがあります(ニッチな商売です)。

1泊2日くらいでゆっくりと見てみたい町です(ゆっくり見て回るなら、明治村で丸1日、犬山城と有楽苑で半日というところでしょうか)。終
                             (弁護士)

2010年11月22日

◆名所旧跡だより 日本民家集落博物館

          石田岳彦

合掌造住宅といえば、岐阜県の白川郷や富山県の五個荘が有名ですが、大阪市近郊、豊中市の服部緑地公園でも見ることができます(1軒だけですが)。勿論、当初からこちらに建てられていたわけではなく、白川郷から移設されたものです。

昔々、今から50年以上前のこと、発電用ダムの建設により水没予定の合掌造の家屋について、関西電力が引き取り手を募ったところ、大阪府豊中市が手を挙げました・・が、その家屋は結局、名古屋市の東山動・植物園に引き取られていってしまい、関西電力から「もう一軒あるけど、どう?」と声をかけられたのがこの家という、若干、脱力させられる経緯となっております。

その後も、日本各地から古民家が同地に移設、収集され、1956年、日本初の野外博物館である日本民家集落博物館がオープンしました。現在は十数棟の民家、米蔵、倉庫、風車、農村歌舞伎舞台等が建ち並びます。
 
入場料を払い(ちなみに東大阪市布施の庄屋宅から移設された長屋門が入り口のゲートになっています。適材適所です。)、まずは上で述べた合掌造りの建物、旧大井家住宅へと向かいます。

 
写真を見ていただければ分かりますが、この建物は母屋の前方左右に2棟の接続小屋が設けられているのが特色で、合掌造の家屋の中でも珍しいタイプのものだそうです。
旧・大井家住宅.jpg

私が行った際は、囲炉裏に火が入っていました。日本民家集落博物館に限らず、古民家を展示する博物館では、建物の保存のために定期的に囲炉裏に火をくべて、煙によって余分な湿気を除くとともに、害虫の駆除を行っているそうです。

川崎市にある日本民家園(民家を集めた博物館としては日本で最大の施設です。)に行った際、職員の方に薪の調達が大変という話を聞きましたが、こちらではどうしているのでしょうか。

屋敷の中に貼ってあったポスターによると、日によっては、囲炉裏端で子供向けの昔話の朗読会も行われているようです。これ以上ない舞台装置といえますね。
  
合掌造の建物の特徴といえば、建物の棟が高く、屋根裏が広いことですが、その屋根裏部屋にも昇れるようになっており、そこで行われていた養蚕の様子も再現されています。

旧・大井家住宅の屋根裏.jpg

上でも述べましたが、日本民家集落博物館には、大井家住宅の他にも、全国各地から貴重な民家が移築されており、その中で私が一番インパクトを受けたのは、信濃国(現・長野県)は秋山の地から移設された旧山田家住宅(国の重要文化財)です。

特徴は、壁土を塗る代わりに、柱の間に茅の束を幾つも括りつけて壁にしています。

旧・山田家住宅.jpg

茅壁というそうですが、屋根から壁まで一面茶色という異様な姿で、初めて見たときの私の率直な感想は「家の壁に毛が生えている?」、「雪男でも住んでいそうな家だ」というものでした。地元の方、申し訳ありません。

何分、壁が茅の束ですので、夏は薄く、冬は厚くという具合に壁の厚みを調節できるそうで、そういう点では、極めてフレキシブルな建物といえます。

他方、耐久性については疑問を感じます。成獣のイノシシ(最近、六甲山地でハイキング客相手に猛威を振るっているようですが)が全速力で突っ込んできたら、余裕で貫通されそうですね。ツキノワグマなら腕を一振りでしょう。

民家集落博物館にはこの他にも重要文化財に指定されている民家が2棟あります(旧・泉家住宅、旧・椎葉家住宅。なお、上記の旧・大井家住宅は重要有形民俗文化財です。文化財の指定制度も複雑で、私のようなマニアにもよく分かりません、というより、一々正確に覚える気になれません。)。

下の写真の旧・泉家住宅は大阪府の能勢町から移築されたものです。

旧・泉家住宅.jpg

現在は、文化財としての価値の高い民家については現地保存が主流になってきましたので(それ自体は喜ばしいことですが、現地まで見に行く身としては、洒落にならないくらい面倒です。)、これだけの質・量の民家を収集するのは困難になりました。

合掌造りの家屋を見てみたいけど白川郷まで行く時間がないという方(新しい道路ができて、飛騨高山からの交通の便はいくらかよくなったそうですが、飛騨高山に行くまでが、やはり大変ですからね。)、古い民家の中でのんびりとした時間を過ごして癒されたいという方(日によりますが、囲炉裏にもあたれます)は、大阪市営地下鉄・御堂筋線の緑地公園駅で降りてみてください。

(阪急宝塚線の曽根駅からも歩いていけますが、健脚な方で20分以上です。緑地公園からだったら15分ほどでしょうか。)。

2010年10月04日

◆古寺旧跡巡礼・壺阪寺(奈良県高取町)

石田岳彦

昔々、沢市とお里という夫婦が大和の国におりました。

夫の沢市は眼病を患っており、妻のお里は眼病にご利益のある壺阪寺(つぼさかでら)に毎晩お参りにいっていましたが、沢市はお里が他の男のもとに通っていると邪推し、お里を問い詰めたのです。

お里から事情を聞いた沢市は、自らの狭量を恥じ、お里の勧めで、一緒に壺阪寺に篭り、ご本尊の千手観音に祈ることにしました。
 
お篭りの最中、沢市は自分の眼病のために苦労するお里を不憫に思い、自分が死ねば、お里が他の男と再婚できるだろうと考え、谷に身を投げてしまいます。これに気付いたお里は沢市の後を追って、やはり、谷に身を投げました。
 
しかし、互いを想い合う夫婦の愛を嘉(よみ)したもうた千手観音は2人の命を助け、そればかりか、沢市の眼病も直してくださいました。
めでたし。めでたし。
1-1.沢市とお里.JPG

上記の感動的な霊異譚(ご都合主義が過ぎると考える人は心が穢れています。多分。また、沢市が身を投げる前にさっさと眼病を直してやれよという無粋な突っ込みを入れたくなった方は仏罰に気をつけましょう。

物事には話を盛り上げるためのタイミングというものがあり、仏様もそのあたりの空気は当然に読んでいるのです。)で有名な壺阪山南法華寺。通称、壺阪寺は奈良県中部の高市郡高取町にあるお寺です。

壺阪寺は、かの西国33番観音霊場の6番札所で、上でも述べたように、特に眼病についてのご利益で知られています。

創建は、寺伝によると大宝3年(703年)に弁基上人という方が拓いたということになっているそうですが、歴史学的には眉唾みたいです。もっとも、古代寺院の縁起は古事記や日本書紀にでも明記されていない限り、一般的に眉唾にならざるを得ないわけですが。

とはいえ、境内から藤原京(平城京の前の都ですね)時代の古い瓦が発掘されているので(本堂内にレプリカが展示されています。本物は奈良国立博物館です。)、遅くともそのころには寺が存在していたことになります。

近鉄吉野線の壺阪山駅から1時間に1、2本のバスに揺られて10分ちょっと。山の中腹にある終点バス停で降りるとそこは壺阪寺です。

壺阪寺の境内から逸れる形で山頂の方へ更に道が続いており、「高取城(たかとりじょう)はこちら」との立て札が立っていて、バスの同乗者の中には、リュックサックを担いでそちらに歩いていく人の姿も見受けられます。

この高取城は、日本三大山城(他の2つは岐阜県の岩村城と岡山県の備中松山城ということです。)の1つに挙げられているという大規模な山城で、私もそのうち行ってみたいと思っていますが、今回はスルーです。

壺阪寺の境内は、バス停のある駐車場から境内の奥に向かって段状になっており、参拝客は奥にある本堂、三重塔に向かって登っていく形になります。

仁王門の前は桜の並木になっていますが、私が行った際(2010年4月11日)は、ちょうど散りかけのものが多く、あと1週間早く来ていればと惜しまれました。

仁王門をくぐって、まず、眼に入ってくるのは右手に建っている、いや、座られている石製の釈迦四尊(?)像。お釈迦様は本体10m、台座5mとかなり大型です。その手前に控える文殊菩薩と普賢菩薩はそれぞれ本体3m、台座2m。そして、十一面観音像が本体3.3m、台座1.5m。

お寺のホームページによると、文殊菩薩は釈迦如来の「智慧」を、普賢菩薩は「行」、観音菩薩は「慈悲」を表しているとのことです。

文殊菩薩は釈迦如来の「智慧」、普賢菩薩は「慈悲」、そして観音菩薩は阿弥陀様の脇侍というのが一般的な知識で、私もそうだとばかり思っていたのですが、壺阪寺では独自の解釈をとっているのでしょうか。

この壺阪寺はボランティア活動に力を入れているお寺としても有名で、例えば、境内の一角で養護盲老人ホームを運営するのみならず、インド(お釈迦様の母国ということでしょうか)でハンセン病患者の救済事業を行っています。

この釈迦三尊像はそのお礼としてインドから贈られたものの1つだそうで、右手奥の遠方に見えている観音菩薩立像(全長20m)や後述のレリーフもインドから寄贈されたものだそうです。

心が洗われる話ではありますが、これらの石造物群は、壺阪寺の境内を我々が思い描くところの古寺の風景とかなり異質なものともしています。一参拝者の勝手な言い草ですけど。

階段を更に登ると右手に三重塔(重要文化財)、左手に礼堂(重要文化財)と本堂。三重塔の初層(一層目)特別開扉の案内板が立っています。

1-2.三重塔と礼堂.JPG

室町時代に現在の三重塔が再建されて以来、初めての公開ということで、平城遷都1300年祭の関連行事の1つです。

実のところ、今回、私が壺阪寺に十年ぶりに来る気になった理由もこの特別開扉なのですが、実際に一層目の中に入ってみると、中の壁には壁画も無く、柱の前に小ぶりな大日如来像と弘法大師像が1体ずつ置かれているだけという素っ気無さで「これだけ!?」と呆気にとられました。

決して皮肉ではないのですが、確かに、こういう機会(1300年祭)に誘われでもしないと、わざわざ特別公開しようという気にまではならなかったであろうなあ、と納得できてしまいます。ちなみに私が行ったのは春の公開の際ですが、秋も10月1日から12月18日まで公開しているようです。

三重塔の裏側には、これもインドから贈られたお釈迦様の一生を描いた巨大な石製のレリーフが並んでいます。

レリーフの前のところどころに各場面の詳細な解説も設けられているので、お釈迦様の一生を前世(仏教の教えでは、お釈迦様はシャカ族の王子として生まれる前に、何回も転生を繰り返しつつ、善行を積んでいたという設定になっています)から誕生、出家、苦行、悟り、布教、涅槃(死去)まで大画面(?)で追うことが可能です。

ただ、無彩色とはいえ、巨大な石造物ですので、三重塔の背景にこれが来るのは、やはり、かなり違和感がありますが。

お次は礼堂。礼堂は、ご本尊を祀る本堂の手前に設けられた大きめの建物で、壺阪寺の本堂が手狭なため、ご本尊の面前で多数の僧侶の参加する儀式を行うために建てられたようで、奥が本堂と繋がっていました。

礼堂の中には、インドでの慈善活動のための募金箱とインド製のアクセサリー(募金したら、好きなのをもって帰れます。)が置かれていて、募金した参拝者が持ち帰れるようになっています。

本堂は八角円堂という形式で、円堂というと法隆寺の夢殿や興福寺の南北の円堂が有名ですが、壺阪寺の八角円堂は裳階(もこし。飾りの屋根)が付いていて、屋根が二重になっているのが特色です。

去年から今年にかけ、西国33箇所の観音霊場のご本尊特別公開が行われていて、ちょうど壺阪寺でもご本尊の特別拝観が行われていました。ご本尊は千手観音の坐像で、比較的小ぶりです。室町時代に彫られたということで、色彩(全体的に赤く感じます)が比較的鮮やかに残っています。

礼堂を出て、更に奥に進むと沢市とお里が身を投げたという崖です。冒頭の2人の像もここに建てられています。柵から乗り出して下を見ましたが、草木が深くて、いまいち高低差は分かり辛いですね。

巨大な石造仏群については好みが分かれるところかも知れません。天気のよい日にハイキングがてら高取城とセットで回るのが楽しそうです。実行するには体力が問われますが。

2010年06月29日

◆古寺旧跡巡礼 瑞龍寺(富山県高岡市)

           石田岳彦


加賀百万石といわれますが、金沢藩・前田家は加賀国(現在、石川県南部)のみを治めていたわけではなく、能登(石川県北部。最初に織田信長からもらったのは実はこちらの方です。)と越中(現在の富山県)も前田家の領地です。

加賀藩の初代藩主である前田利長(としなが)は、異母弟で養子の利常に藩主の座を譲り、越中の富山城に隠居しましたが、火事で焼け出されたため、新たに越中国の関野の地に築城し、新たにこの地を「高岡」と名付け、こちらに移りました。

利長が亡くなった後、弟の利常はその菩提を弔うべく寺を建てたのですが(正確には利長が建てた寺を建て替えて改名したそうですが、前後で規模が全く違うので、「利常が建てた」と言ってよいでしょう)、それが今回ご紹介する瑞龍寺です(ちなみに山号は「高岡山」)。

特急サンダーバードを降り、高岡駅の改札口を出た私を出迎えたのは「としながくん」という鎧武者の格好をしたゆるキャラ(地方自治体作成の広報用キャラクター)の看板でした。

ひこにゃん(滋賀県彦根市のゆるキャラ)が大ヒットを飛ばして以来、地元ゆかりの武将をモチーフにしたゆるキャラを作る自治体が急増した気がしますが、利長は高岡市の生みの親といってもよい人物であり、それに由来したゆるキャラを作ったのでしょう。

駅の南口を出て5分ほど歩くと、「右へ行くと瑞龍寺、左へ行くと前田利長公墓」という立て札があります。右に曲ってさらに5分ほど歩くと瑞龍寺です。

拝観料を払い、総門(これもどっしりとした風格のあるものです)をくぐると、石畳の参道の両側には白洲が広がっており、正面に巨大で重厚な山門がそびえています。
 
瑞龍寺山門.JPG

瑞龍寺では、この山門と後述の仏殿、法堂の3棟が国宝に指定されており、ジャンルを問わずに富山県で唯一、建物としては北陸でやはり唯一の国宝です(平成22年6月現在)。

これだけ立派な寺をこしらえたのは、何人もの兄弟の中から自分を養子にし、藩主を継がせてくれた(利常の体格の良さが決め手だったとのことです)利長に対する利常の感謝の念がそれだけ大きかったということでしょう。

白洲の間の参道を歩いて山門を抜け、次に目に飛び込んでくるのは一面の鮮やかな緑。山門の左右から回廊が伸び、一番奥にある法堂を両側から挟み込み、中央の仏殿を囲む格好で四角形の中庭を形成していますが、その中庭には芝生が敷かれています。

お寺に芝生という意外な組み合わせにまず驚きますが、長い風雪を経てくすんだ古建造物と鮮やかな芝生の緑が違和感なく調和していることにもやはり驚かされます。誰が考え付いたのでしょうか。
瑞龍寺仏殿.JPG

仏殿の屋根瓦は白みがかった色をしていますが、これは瓦が鉛製のためで、鉛瓦葺の建物は現存するものではここと金沢城の石川門だけとのこと。

パンフレットによれば、鉛を使ったのは、美観に加え、戦のときに溶かして鉄砲玉にするためということですが、戦に備えた姿勢を公然と示すわけですから、江戸幕府に睨まれそうな気がします。

もっとも、利常という人物には、時として、幕府に対し反抗的と見られかねない行動を好んでとりたがる傾向があったようで、この件もその一環かも知れません。

ちなみに兄の利長は豊臣家と徳川家との間で板挟みになり、病死ではなく、服毒自殺だったのではと噂されるような人物で、兄弟といえどもかなり性格が異なったようです。

仏殿に入ると(鳩が入らないように、扉を開け放しにしないように張り紙があります。鳩の糞害も馬鹿になりません。)、中央の高い須弥壇上には釈迦三尊像。禅寺の場合、ご本尊は基本的に釈迦如来です。お釈迦様が菩提樹の下で瞑想のすえ、悟りを開かれたことをもって、座禅の始まりとされていますので。 

お参りを終えて法堂に向かいます。なだらかな銅板葺きの入母屋屋根の建物です。
瑞龍寺法堂・外観.JPG

入り口から見て、手前が土間の廊下になっていて、左右の回廊へと繋がっています。正面入り口で靴を脱いで板間に上ることができますが、土間との高低差はかなりのものです。
瑞龍寺法堂・内部.JPG
板間の奥は畳敷きの部屋が横3室×2列の方丈(禅寺で住職が居住する建物)様式の間取りで並んでいます。中央には利長の巨大な位牌が存在感たっぷりに立っていました。

回廊で繋がれている大庫裏、禅堂等もひとまわりし、総門から出て、法堂の裏側に回ると、織田信長、その長男で跡継ぎだった信忠(のぶただ)、前田利家、利長らの供養塔があります。

瑞龍寺の前身になった寺は、利長が織田信長・信忠父子の菩提を祀るために建立したということなので、利常がこれらに父(利家)と兄(利長)らを加えて、供養塔を建てたということでしょう。

なお、前田家がおそらく織田信長と同じか、それ以上に世話になったであろう豊臣秀吉の供養塔が無いのは、徳川政権下で生きるための大人の事情というやつでしょう。おそらく。

柴田勝家の供養塔が無いことまでとやかくいうのは、さすがに意地悪でしょうか。

来た道を戻り、先ほどの分岐点から、今度は前田利長の墓に向かいます。瑞龍寺からゆっくり歩いて15分ほどでしょうか。
前田利長公墓.JPG

「戦国大名としては日本一の規模」と看板やパンフレットに書かれており、確かに立派なものです。 もっとも、彼の父の利家は、本来、織田信長配下の一武将で、織田家の巨大化とともに大名になった人物ですし、その死後に跡を継いだ彼はあくまでも豊臣政権下(正確には秀吉亡き後の徳川幕府への移行期)の一大名だったので、利長が「戦国大名」といえるかについてはかなり疑問を感じますけど。

ともあれ、父と弟に挟まれていまいち存在感が薄く(利常又は、大河ドラマの主人公になる前の利家の一般的知名度が、利行のそれとどのくらい違うかと問われると実のところ困りますが、歴史ファン的にはそのようなイメージです)、かつ、幸福とも、穏やかとも言い難い晩年を送った利長ですが、立派な菩提寺と墓を建ててもらい、地元民から町の父と慕われ、ゆるキャラにも抜擢される(これに関しては喜んでないかもしれません)等、死後においてはそこそこ恵まれているようです。

駅に戻り、北側へ向かえば、利行の築いた高岡城があり、途中には鋳物の町・高岡のシンボル「越前大仏」が鎮座されています(本当にどうでもよいことですが、大仏前で大仏焼きというたい焼きの親戚が売っていました。)。

また、残念ながら、今回は行く時間がありませんでしたが(大阪〜高岡日帰りなんて無茶なことはするものではありませんね。)、郊外には、前田家により建てられた重要文化財建造物が多数残る、伏木地区も控えています。
 
泊りがけでゆっくりと見て回りたい町です。     終

2010年06月09日

◆古寺旧跡巡礼 美保神社、仏谷寺 〜(島根県松江市)〜

          石田岳彦
一、民家の屋根を突き破って隕石が落ちてきた事件で有名な美保関は、島根県の東の端、中の海と日本海とに挟まれた町です。その地の利を活かし、大正時代までは交通の要衝として多くの廻船問屋が集まっていたそうですが、今は静かな漁業と観光の町。

今回は、美保関の町にある美保神社、仏谷寺の回です。

二、恵比寿様といえば、七福神の1人(正確には1柱)で、釣竿を担いで、鯛を抱いたイメージの日本で最もメジャーな神様のひとつですが、幾つもの「正体」を持つ神様でもあります。

物の本によれば、えびす神への信仰とは、本来、海岸に打ち寄せられた「外からのもの」に神秘性を認め、これをご神体として祀るものだったそうですが、やがて日本書紀や古事記に登場する特定の神をえびす神と結びつけ、祀るようになりました。

 その特定の神の有力な1つが、大国主の息子の事代主神(コトシロヌシノカミ)で、美保関の町の中心というべき美保神社は事代主系の恵比寿神社の総本社とされています。

 上述の一般的な恵比寿様のイメージ(竿を担いで、鯛を持って)も事代主から来ているそうです。

 いわゆる国譲りの神話には、天照大神の使者タケミカヅチノカミから地上の支配権を譲るよう要求された大国主命が、美保関で釣りをしている事代主を呼び寄せて意見を聴いたという話が残っており(事代主は託宣の神様とされています。)、恵比寿様が釣竿を背負って、鯛を持っているのはこの神話の影響でしょう。

 父親である大国主命も大黒天と同視されているので、親子で七福神に入っていることになります。
 
なお、恵比寿神社の総本社としては、寧ろこちらの方が有名かと思いますが、兵庫県西宮市の西宮神社は、正確には蛭子命(ヒルコノミコト)系の恵比寿神社の総本社です。

 こちらの神様はイザナギ・イザナミが産んだ神で、骨の無い蛭のような子供だったので、藁の船に乗せて、海に流された(ひどい親です)とされています。

 もっとも、ホームページを見る限り、西宮神社も上記の「釣竿を担いで、鯛を抱えた姿」を恵比寿様のイメージとして採用しているようです。やはり「蛭子」では参拝客が逃げますか。

三、私が美保関に向かったのは、以前記事にした出雲大社の本殿の特別参拝に参加した次の日のことです。

JR松江駅から途中バスを乗り継いで1時間半ほど。海岸沿いの道を延々と揺られて、ようやく美保関に着きました。もっとも、行政区画上はここも松江市になります。

平成の大合併の結果ですが、「何でもかんでも、くっつければいいってもんじゃないだろう」と言いたくなります。この付近の住民にとっては、松江市の中心部よりも橋(中の海と日本海を結ぶ水道には大きな橋が架かっています。)を挟んで対岸の鳥取県境港市の方がはるかに近い存在でしょう。

 観光客の姿はほとんど見当たりません。ただし、土産物屋や旅館が何軒か並んでいるところを見ると、季節と時間帯によってはそれなりに客もいるのでしょうか。

 漁港のすぐ側のバス停から歩くと、直に美保神社の鳥居が見えてきました。鳥居の前は広場のようになっていて、右側奥は(詳しくは後述しますが)仏谷寺への参道「青石畳通り」への出入り口になっています。

 鳥居をくぐるとすぐ右側に宝物館がありましたが、残念ながら開いていないようです。先に進み、本殿へ向かいます。美保神社の見所は比翼大社造という特殊な形状の本殿です。

 比翼大社造というのは、大社造(出雲大社の回を参照してください。)の神殿を横に2つ並べて繋ぎ合わせたというものです。

「比翼」というのは、おそらく「比翼の鳥」から来ているのでしょう。雌雄で翼を1つずつ持ち、2体1組で飛ぶという中国の伝説上の鳥ですね。

「比翼の鳥」、「連理の枝」と白楽天の長恨歌にもあります。仲の良い男女の例えに使われます。他の地方から来た人間にとっては、そもそも大社造の神殿自体が珍しく、それが2つ繋がって並んで合体しているというのですから、その異容は社寺巡り、文化財巡りを趣味とする者であれば、一度は見ておきたいところです。

 もっとも、正面手前に大型の拝殿(ここまで巨大だと、これはこれで珍しいですが。)が建っており、これが邪魔(失礼)で、正面からは本殿の特異な形体を掴み難くなっています。後ろから見た方がよく分かりますね。
前から見た拝殿と本殿(奥).jpg後ろから見た本殿.jpg
ちなみに、社殿が2つ繋げられていることからも予想できたかと思いますが、祭神は事代主だけではなく、大国主の后である三穂津姫(ミホツヒメ)も加えた2柱です。事代主が大国主の息子で、三穂津姫が大国主の后だから、当然、三穂津姫は事代主の母親・・・ではないのですね。

 大国主は好色で、多くの后を持つ神様であり、「大穴持(オオアナモチ。多くの「穴」を持つの意。意味の分からない方はスルーしてください。お願いですから。)」という女性団体から猛抗議が来そうな別名の持ち主だったりします(これ以外にも様々な異名を持ちます。)。事代主の母は、別の女神とされているそうです。

 とはいえ、母子関係にない2柱を一緒に祀るというのも奇妙な話ですので、三穂津姫が本来の祭神で(「三穂」は「美保」に通じますので、土地神だったのでしょう)、その後、上記の国譲り神話をもとに事代主が祭神に加えられたとの説もあるとのことでした。祭神が後から足されることは、しばしばあることなので、あり得る話です。

四、美保神社から仏谷寺までの参道は、青石畳通りと呼ばれている天然石を敷き詰めた小道になっています。古い旅館や資料館が立ち並んでいて、落ち着いた雰囲気です。
  時間とお金があれば一泊して、落ち着いた雰囲気の中、海鮮料理を楽しみたいところですが、残念ながら、売れない弁護士の私には両方とも不足しています。
青石畳通り.jpg
仏谷寺を開いた人物としては、寺伝その他で聖徳太子、空海、行基の名が挙げられているそうですが、要するによく分かっていないということですね。有名人の名前を出すだけならただですから。
  
もっとも、後鳥羽上皇や後醍醐天皇が隠岐に流されるときに行在所(一時的な仮宮)とされたとのことなので、鎌倉時代のころに美保関一帯で中心的な寺院だったことは間違いないでしょう。

 とはいえ、現在は往時の面影もなく、広いと言い難い境内に本堂と収蔵庫等が残っているのみですが、その収蔵庫の中には、平安時代に作られた5体の重要文化財の仏像が納められていて、私(訪れる参拝客のほぼ全て)のお目当てもそれです。

 寺の近くの食堂の前に仏谷寺の収蔵庫の受付をやっているとの看板が立っていたので、そちらを訪ね、鍵を開けてもらい、中に入りました。ずらっと並んだ木製の仏像の印象は、良くも悪くも素朴で、造形的にはおよそ洗練されているとは言い難く、悪くいえば、やぼったい、よく言えば、親しみがあるという印象です(写真撮影禁止なので、写真は無しです)。

出雲様式というそうで、中央から離れた地方で、独自に発展した様式なのだとか。残念ながら、どこら辺がどう独自なのかまでは、不勉強な私には分かりませんでしたが。

 境内の出入り口の脇に八百屋お七の恋人吉三(名前その他の設定には幾つか説があるそうです。)の墓があります。お七は、江戸の町のとある八百屋の娘でしたが、火事で避難した際に巡り合った少年吉三との再会を願う余り、自ら放火を試みて、火あぶりの刑に処されたという悲劇のヒロインで、井原西鶴の好色5人女のモデルの1人ですね。

吉三は、お七の死を悲しみ、出家して各地の寺を巡り、この仏谷寺で倒れ、葬られたというのが寺伝になっているとのこと。ただの行き倒れの墓を適当に観光名所にでっちあげたのではないか等という無粋な詮索は止めておきましょう。

五、今回は松江市側から来ましたが、対岸の鳥取県境港市から車(バスの便もありますが、本数が少ないので、タクシーかレンタカーがよいでしょうか)で来る方がアクセスはよさそうです。

境港市の水木ストリート(ゲゲゲの鬼太郎とその仲間たちの銅像が並んでいる通りです)とセットで観光するのがお勧めです(私は帰りに寄りました。)

2010年05月12日

◆私の「古寺旧跡巡礼」住吉神社(福岡)

石田岳彦

一)山口県下関市の住吉神社の回で少し触れましたが、福岡市博多区の博多駅の近くにある住吉神社が、住吉神を祀る神社として最古のものだと考えられているそうです。

日本書紀によれば、仲哀天皇が后の神功皇后とともに、熊襲(九州南方の反朝廷勢力)を攻めようと筑前国(現在の福岡県北部)香椎宮(今の福岡市東区香椎にあった仮の宮殿)にあった際、住吉神が神功皇后に乗り移り、熊襲ではなく、朝鮮半島を攻めるようにとの神託を下したことになっています。

記録に残っている限りでは、住吉神が人間とコンタクトをとったのはこれが最初です。

結局、仲哀天皇はこの神託に逆らったために祟り殺され(おっかないですね。)、未亡人となった神功皇后が朝鮮半島に遠征して勝利を収めました。

また、同じく日本書紀によると、それより遡る神代のころ、イザナギノミコトが黄泉国から命からがら逃げ帰ってきた後、「筑紫(現在の福岡県の大半。北部の筑前と南部の筑後に分かれます)の日向の橘の小戸の阿波伎原」で禊をし、その際、他の神々と一緒に住吉神が生まれたことになっています。

これらの話は、勿論、歴史というより、神話、伝説の類ですが、このような伝説が残り、日本書紀にまで記載されていることは、住吉神が古代より筑紫国、特に筑前国と深く関わる神と考えられてきたことの証拠といえるでしょう。

ということで、福岡市博多区の住吉神社が最古です。本家です。本元です。福岡市出身者としてはよい気分です。

もっとも、ご存知のように、現在、住吉神を祀る神社の総本社は大阪市内にある住吉大社とされています。

これは、住吉大社の方が、摂津国にあり、都に近く、天皇や貴族が参拝しやすいので、都を遠く離れた筑前の住吉神社よりも、朝廷から重く扱われるようになったということでしょうか。

とはいえ、同じ九州にある宇佐神宮(大分県宇佐市)が、石清水八幡宮(京都府八幡市にあります。

数多くの八幡宮の中で実質的にNo2です。)が建立された後も八幡宮の総本社の地位を守っていることを思うと、宇佐神宮の持っていた政治力(東大寺の大仏建立に協力したり、道鏡事件でポイントを稼いだり)を筑前の住吉神社が持っていなかったといえるのかも知れません。

二)住吉神社の境内の南端には小さいとも大きいともいい難いサイズの池が1つあります。昔、この池は海と繋がっていたそうで、上でも述べた「筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原」もこの地ではないかと言われているそうです。

もっとも、現在残っているのは上記のように大して広くもなく、水も綺麗とはいい難い池で、しかも、現在(平成22年1月現在)、工事中で水が抜かれていますが、そのあたりは想像力で補うべきでしょう。名所・旧跡マニアには想像力は不可欠のスキルといえます。

ちなみに、イザナギノミコトの禊の際、住吉神と一緒に生まれたのは、天照大神(アマテラスオオミカミ)、スサノオノミコト、月読命(ツクヨミノミコト)等の極めて有名な神々です。

つまり、天照大神も、スサノオノミコトも、月読命も、住吉神もみんな私と同じ福岡市出身です。博多っ子です(無論、神代には福岡市も、博多の町も博多っ子もありませんでしたが。)。福岡市出身者として、すごくよい気分です。

それはさておき、参道を北へと進むと、間も無く、石鳥居の向こうに門と回廊が見えてきます。

住吉神社社殿.JPG


門をくぐると、拝殿の後方に重要文化財の本殿が見え・・・といいたいところですが、残念ながら、こちらも現在、工事中です。

住吉神社の由緒書によると、本来、博多の住吉神社には住吉3神(山口の住吉神社の回で触れましたが、住吉神は3柱の神の総称です。)のそれぞれに1棟ずつ、計3棟の本殿があったそうですが(なお、大阪の住吉大社には、+神功皇后で本殿が4棟あります。)、戦国時代に火災で失われ、江戸時代初期の1623年に福岡藩の初代藩主の黒田長政が本殿を再建することになったものの、財政上の理由から1棟だけで終了ということになったようです。

・・黒田52万石が泣きます。

本殿は、住吉造と呼ばれる、住吉神を祀る神社に特有の形式です(ただし、長門の住吉神社が九間流造だったように、住吉神社だからといって、必ずしも住吉造というわけでもありません。)。具体的には、切妻屋根で妻入(平面図が長方形の建物の短い方の辺に入り口があること)。壁は白く、他方、柱、垂木(棟から延びる屋根を支える部材)等が朱塗りで、白と赤のコントラストが綺麗です。

また、本殿の周囲にびっしりと赤い板(上端のみ黒に塗られ、先が丸まっている)を並べた玉垣がめぐらされています。本殿が玉垣に囲まれているのは他の形式の社殿にもありますが、住吉造りの場合、玉垣が本殿に密着して設けられ、本殿の一部のようになっているのが特色です。

実のところ、ここの本殿は、住吉造の建物としても、やはり、現存最古なのですが、住吉大社の本殿が国宝に指定されているのに対して、こちらは重要文化財止まり(?)となっています。

確かに、客観的に見て、住吉大社の本殿の方がはるかに立派で、金のかかっていそうな建物です。

しかし、福岡の方が180年以上も古い(住吉大社の現存の本殿は1810円の建立です)わけですし、田舎の方の小さな神社で「△△形式では現存最古」という理由で本殿が国宝に指定されているところもあるので、愛郷心が旺盛な者としては、総本社の地位も含め、美味しいところを住吉大社に持っていかれているようで複雑な気分になります。

博多駅(駅のどこにいるかにもよりますが)から徒歩10分未満。日本神話に心惹かれるという方にお勧めです。(終)

2010年05月02日

◆私の「古寺旧跡巡礼」道成寺(御坊市)

石田 岳彦

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長い階段を数えながら登ると確かに62段でした。
上りつめたところには仁王門があり、当然のことながら仁王さんが立っています。門をくぐって左側には金属製の手水鉢が置かれていました。
 
小学校の音楽の時間に教わった童謡「道成寺」にある「62段の階(きざはし)をあがりつめたら仁王さん 左は唐銅(からかね)手水鉢」との歌詞は事実でした。しばしば追憶と感傷にふけります。

本日は、安珍・清姫伝説で有名な道成寺です。

大阪からJRの特急で御坊駅まで。そこから普通電車に乗り換え(本数が少ないので、時間的余裕と人数に応じてタクシーを利用するのがよいかと思います)、1駅行くと道成寺駅です。

改札を通り、踏切を渡って、駐車場と土産物屋(兼食堂)に挟まれた短い参道を通り抜けると冒頭の階段へ至ります。
62段の階段を登りつめ、仁王門をくぐると、正面に本堂、その右側(東側)には三重塔。いずれも江戸時代の建物で、相応に貫禄があります。

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もっとも私の(おそらく、ほとんどの参拝客の)お目当ては、境内西側にある鉄筋コンクリート製の宝仏殿・縁起堂の中で待っています。
宝仏殿・縁起堂は1つ繋がりの建物で、仁王門から見て、手前の、入り口のある建物が縁起堂、奥が宝仏殿です。

縁起堂では、和尚さんが絵巻物(のコピー)を拡げ、安珍・清姫伝説についてユーモアを交えながら、絵解き説法をしてくださいます。説法は頻繁に繰返し行われるので、そう待たされることはないでしょう。

次に述べるように、安珍と清姫の伝説は、事件それ自体は極めて陰惨で後味の悪いものですが、和尚さんの語りのお蔭で、全く暗くなりません(それはそれで問題な気もしますが)。

時は平安時代前期の醍醐天皇の御世。安珍という若い僧侶が熊野三山の巡礼のために奥州から紀伊の国にやってきました。

ところが、道中、安珍が土地の有力者の屋敷に泊まった際、その屋敷の娘である清姫は安珍に惚れてしまい、還俗して自分と結婚してくれるよう強く迫ってきたのです。

結果から見ると、ここで安珍はきっぱりと断るべきだったのでしょうが、清姫の執拗な懇願を拒絶し切れず、結局、巡礼を終えたら帰り道にまた清姫に会いに来ると嘘をつき、屋敷を後にしました。

その後、清姫は首を長くして安珍を待ちますが、約束の日になっても安珍は訪れません。清姫は屋敷を抜け出し、安珍を探し出しましたが、安珍は人違いだと嘘をつき、清姫を相手にしようとしません。

これも結果論ですが、安珍はここできちんとした謝罪のうえ、清姫と一緒になるなり、きっぱりと拒絶するべきだったのでしょう。清姫は悲しみの余り、半狂乱になってしまい、やがて蛇の化け物になり、安珍を猛追します。

安珍は死に物狂いで逃げ、道成寺に逃げ込み、寺の僧侶らに事情を話しました。僧侶らは鐘楼に吊ってあった梵鐘を下ろし、その中に安珍を隠しますが、清姫の化けた大蛇は梵鐘に撒きつき、火を噴いて安珍を焼き殺してしまい、自身は入水自殺してしまいました。お終い(実際の説法では、この後、夫婦円満その他の在り難い和尚さんのお話が続きます。)。

この事件は、記録(?)に残っている限り、日本で最古・・・かは知りませんが(未遂でよければ、イザナギ、イザナミの黄泉比良坂の件が最古の事例として挙げられそうです)、おそらく最も有名なストーカー殺人事件でしょう。

歌舞伎、謡曲等、様々な芝居の題材になっていて、道成寺ものというジャンルを形成しており、縁起堂にも様々な道成寺もののポスターが張っていました。

和尚さんの絵解き説法を聴き終えたら奥の宝仏殿に進みましょう。

道成寺の創建には複数の伝承があり、時期についてもはっきりしないそうですが、遅くとも奈良時代前半には建立されていて、古い寺宝・仏像も少なからず残っています。

その中で最も有名で、かつ特筆するべきものは、やはり国宝に指定されている平安時代の千手観音立像・伝日光菩薩立像、伝月光菩薩立像の仏像3体でしょうか。

肉付きのよい、がっしりとした体躯の堂々たるお姿です(ご多聞にもれず、写真撮影禁止なので残念ながら画像はありません。)。ここで、あれっと思われた方もいるかも知れません。

というのも、日光菩薩、月光菩薩は本来、薬師如来の左右を守る脇侍であり、他の如来や菩薩につくことは基本的に無く、また、千手観音は単体で祀られることがほとんどで、脇侍がつくことは、まず無いからです。
   
そういうこともあり、実のところ、この3体が1つのセットとして作成されたものか否かについては確証がなく、争いがあるとのことでした。
ちなみに奈良市の東大寺の法華堂では、千手観音ではありませんが、不空羂索観音と日光菩薩・月光菩薩という組み合わせが見られます。

こちらについては、日光菩薩と月光菩薩が後になってから余所のお堂より移されてきたのではないかとの説が有力なのだそうです。

大阪からはやや遠いですが、早起きをすれば余裕をもって日帰りできるはずです。白浜温泉への行き帰りに途中下車をして立ち寄るのもよいかもしれません。

2010年04月22日

◆私の「古寺旧跡巡礼」伝香寺(奈良市)

石田 岳彦


今年は平城京遷都(710年)1300周年ということで、奈良県では様々な企画が予定されているようですが、私のような社寺巡りを趣味とする者が一番興味を持っている(というより、それ以外どうでもよい)のは勿論、社寺の特別公開です。

昨年に特別公開リストが奈良県から発表されて以来、どこの寺に何時行くかの予定を立てていますが、今回はそのうち、奈良市内にある伝香寺のお話です。

近鉄奈良駅から南西に8分ほど歩いたところに伝香寺というお寺があります。このお寺は本堂と地蔵菩薩立像が重要文化財に指定されていますが、奈良市内では特に目立つ存在でもなく、また、境内で幼稚園を経営しているという防犯上の理由もあってか、普段は、立ち入り禁止です。

前からその存在を知っていた私は、去年、1300年祭の特別公開リストが発表された際、リストの中にその名前を見つけ、行く予定にしていました。我ながらマニアックです。

戦国時代末から安土桃山時代にかけて、織田信長、豊臣秀吉に仕えて活躍した筒井順慶という武将がいます。この伝香寺は、順慶が若くして病死した後、その母が息子の菩提を弔うために建立したお寺です。

筒井順慶といえば、一般には本能寺の変の後、山崎の合戦の際の「洞ヶ峠の日和見」の話で有名になっています。

これは、山崎の合戦を前に豊臣秀吉と明智光秀からそれぞれ味方につくよう誘われた順慶が、どちらに味方をするか決心がつかず、山崎の地からほど近い洞ヶ峠(京都府八幡市と大阪府枚方市との境界にある峠)で日和見を決め込んでいたというものです。

しかし、近年の研究では、実際に洞ヶ峠に向かい、順慶に出兵を促したのは光秀であり、順慶は一部の兵を光秀側に送ろうとしたものの、途中で止め、自身は大和から動いていないという説が有力になっています・・・と拝観券と一緒に受け付けでもらったパンフレットには載っていました。

拝観券売り場の横に積まれていた「洞ヶ峠の真実」という本にも多分、同じような内容が載っているのでしょう。

もっとも、光秀と親しかった順慶としては、光秀を見殺しにすることにかなり忸怩たるものがあったようで、結局、秀吉と密かに通じつつも、合戦には参加せず(秀吉としても順慶が光秀側に参戦しないことでよしとしたようです。)、中途半端な態度をとったのは事実です。

とはいえ、光秀の姻族(光秀の娘、いわゆるガラシャ夫人は細川忠興の正妻でした。)でありながら、信長の喪に服して出家するとの理由で、あっさりと局外中立の姿勢をとった細川藤孝、忠興の親子が世間から特に非難を浴びているわけでもないのに、順慶が洞ヶ峠の件で揶揄されるのは確かに不公平な話で、筒井一族が文句をいいたくなるのはよく分かります。

受付のある境内北東角の門をくぐると(というか、くぐる前から)本堂は目の前です。境内が狭いですね。
南側の入り口に回りこむ途中、参道の右側に見事な椿の木があります。この椿は「武士の椿(もののふのつばき)」と呼ばれ、大和三名椿に数えられているそうです(他の2つは白毫寺五色椿、東大寺開山堂糊こぼし椿とのこと。機会があったら見てみたいです。)。

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一般に椿は花が散らず、そのままボトリと落ちるため、斬首を連想させ、武士からは不吉として忌まれていますが、この椿は花びらが桜のように潔く散るため、武士たちからも好まれていたとのこと。突然変異でしょうか。

参道の左側には筒井順慶の像を祀っている最近になって建てられたお堂があります。筒井一族が浄財を出し合って建てたとのことです。

正面に回り、本堂へ。

本堂奥に釈迦如来が鎮座していますが、その前に立っている地蔵菩薩立像の存在感の前に霞んでしまっています。

この重要文化財の地蔵菩薩立像は裸形であり、その上に布製の僧衣をまとっているのが特色で、くすんだ木肌の仏像と色鮮やかな布製の僧衣とのギャップがインパクト大ですね。

鎌倉時代の作で、もともとは別の寺院にあったのが、廃仏毀釈の際に伝香寺に持ち込まれたそうです。

この記事が載っているころには伝香寺の公開自体は終了しているかと思いますが、1300年祭の特別公開はまだまだこれからです。

奈良に出掛けましょう!

2010年01月25日

◆私の「古寺旧跡巡礼」毛馬の閘門 大阪

石田 岳彦

阪急千里線の柴島駅(本筋から思い切り離れますが「柴島」を初見で「くにじま」と読める人がどれだけいるでしょうか。)から天神橋筋六丁目駅へ向かい、淀川にかかる鉄橋を渡る際、左側奥、淀川大堰の向こう側に大きな「水門」が見えますが、その水門には「毛馬こうもん」と白抜きで大きく書かれています。

「こうもん」を漢字で書くと「閘門」です(ちなみに「毛馬」は地名で「けま」と呼びます)。

最近は警察署にも建物の壁に「けいさつ」と平仮名で大きく書いているところがありますが、「閘門」と書いても読めない人が多いので、「こうもん」と平仮名で書いているのでしょうか。

もっとも、警察署と違い、読みだけ知ったところで何をやっている施設かは分からないと思いますが。

それはさておき、阪急千里線を通勤経路にしている私にとって、毛馬の閘門は見慣れた存在でしたが、近くにまで行く機会はありませんでした。

平成20年春、毛馬の閘門が国の重要文化財に指定されることになったというニュースを聞いた私は、これをよい機会と毛馬の閘門に行ってみることにしました。我ながらミーハーです。

毛馬の閘門に行くには、天神橋筋六丁目駅(阪急千里線、地下鉄堺筋線・谷町線)から北上し、淀川にかかる長柄橋の南詰めから河川敷に出て、更に5分ほど東へ歩きます。

河川敷は公園になっていて、堤防上には歩道も整備されていて、歩いていて楽しい道ですが、天神橋筋六丁目駅からは20分以上の歩きになり、大阪市内ということを考えると交通の便の悪い場所といえるでしょう(私がなかなか行く気になれなかった理由もこれです。)。
 
現地に設けられていた説明板によると、閘門というのは、水位の異なる川、運河等の間で船を行き来させるため、両側に水門を設けた水路で、毛馬の閘門の場合、大川(低)と淀川(高)との間の高低差を調整して船を通すために建造されたものです。

淀川から大川に入る場合、まず、水路内の水位を淀川に合わせたうえ、淀川側の水門のみを開けて船を水路に入れたうえで閉じ、水路内の水を抜いて、水面の高さを大川と同水位に下げた後、大川側の水門を開けて船を通過させるという仕組みになっています。

逆に大川から淀川に行く場合には、大川側から水路に船を入れたうえ、水を補充して水路面を淀川と同水位にまで上げてから、淀川側の水門を開放することになります。

なお、そもそも隣り合っている2つの川の水面に何故、極端な高低差があるかといえば、本来の淀川の流れは大川の方で、現在の淀川のうち毛馬よりも河口側の部分(新淀川)は明治時代に治水上の必要で人工的に作られたためだそうです。

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(3代目現役の閘門)     (初代閘門 )     (初代閘門内部)


ちなみに現在の毛馬の閘門は3代目で、私が毎朝見かけている「毛馬こうもん」もこの3代目にあたります。今回、重要文化財に指定されたのは初代と2代目(今は船溜になっているそうです)で、このうち初代の閘門は、3代目のすぐ近くに見学用として整備されていました。


初代閘門の水門は2つの扉が観音開きになる方式で(なお、現役の3代目の閘門は門扉が上下して開閉するシャッター方式だそうです。)、現在は半開きの状態で固定されています。最近になって塗りなおされているようで、水色の大きな扉が鮮やかです。

北側の淀川側の水門は、近くにある堤防から一段低いところにあり、階段で下まで降りることもできますが、降りたところに柵が設けられていて、その先の水門をくぐることはできません。

もっとも、南側にある大川側の水門(淀川側に比べてかなり小型です)は開放されていて、そちら側から(旧)水路(当然のことながら現在では水路に水は流されていません。)の中に入ることができ、更に進んで淀川側の水門をくぐることもできます。北側の柵はいったい何のためでしょうか。

水路の中央に見学用の通路が設けられていて、その両側は何故か芝生になっていました。先ほどの柵といい、「こうもん」のペイントといい、この芝生といい、大阪市はよく分からないことに金と手間を使います。

水路といっても船が通り抜けることができるだけのスペースですから、幅もそれなりにあり、スペース自体はちょっとした広場並みです。両側の側壁はレンガ造りになっていて、ところどころに鎖が取り付けられています。係船環と呼ばれる船を繋ぐためのものだそうです。水路に水を注入または排出するときに船が動かないようにするためでしょうか。

近くには初代閘門の付属施設として建設された洗堰(水が堰の上を越えて流れるタイプの堰)も残っています。淀川(新淀川)から大川に流れ込む水の量を調節するためのものだそうです。なかなかシックなデザインですね。

最近は大きな書店に行けば「近代遺産巡り」のコーナーを見かけることも少なくありません。寺社や城跡に続き、この手の史跡の人気も上昇しているのかも知れません(自分も行っておいてなんですが、世の中にはマニアックな人が多いです。)。

大阪市やその近郊にお住まいの方であれば、天気のよい休日にでも、広々とした淀川の河川敷や堤防の上を歩きつつ、ちょっと寄ってみられるのも悪くないでしょう。(終)