2010年06月29日

◆古寺旧跡巡礼 瑞龍寺(富山県高岡市)

           石田岳彦


加賀百万石といわれますが、金沢藩・前田家は加賀国(現在、石川県南部)のみを治めていたわけではなく、能登(石川県北部。最初に織田信長からもらったのは実はこちらの方です。)と越中(現在の富山県)も前田家の領地です。

加賀藩の初代藩主である前田利長(としなが)は、異母弟で養子の利常に藩主の座を譲り、越中の富山城に隠居しましたが、火事で焼け出されたため、新たに越中国の関野の地に築城し、新たにこの地を「高岡」と名付け、こちらに移りました。

利長が亡くなった後、弟の利常はその菩提を弔うべく寺を建てたのですが(正確には利長が建てた寺を建て替えて改名したそうですが、前後で規模が全く違うので、「利常が建てた」と言ってよいでしょう)、それが今回ご紹介する瑞龍寺です(ちなみに山号は「高岡山」)。

特急サンダーバードを降り、高岡駅の改札口を出た私を出迎えたのは「としながくん」という鎧武者の格好をしたゆるキャラ(地方自治体作成の広報用キャラクター)の看板でした。

ひこにゃん(滋賀県彦根市のゆるキャラ)が大ヒットを飛ばして以来、地元ゆかりの武将をモチーフにしたゆるキャラを作る自治体が急増した気がしますが、利長は高岡市の生みの親といってもよい人物であり、それに由来したゆるキャラを作ったのでしょう。

駅の南口を出て5分ほど歩くと、「右へ行くと瑞龍寺、左へ行くと前田利長公墓」という立て札があります。右に曲ってさらに5分ほど歩くと瑞龍寺です。

拝観料を払い、総門(これもどっしりとした風格のあるものです)をくぐると、石畳の参道の両側には白洲が広がっており、正面に巨大で重厚な山門がそびえています。
 
瑞龍寺山門.JPG

瑞龍寺では、この山門と後述の仏殿、法堂の3棟が国宝に指定されており、ジャンルを問わずに富山県で唯一、建物としては北陸でやはり唯一の国宝です(平成22年6月現在)。

これだけ立派な寺をこしらえたのは、何人もの兄弟の中から自分を養子にし、藩主を継がせてくれた(利常の体格の良さが決め手だったとのことです)利長に対する利常の感謝の念がそれだけ大きかったということでしょう。

白洲の間の参道を歩いて山門を抜け、次に目に飛び込んでくるのは一面の鮮やかな緑。山門の左右から回廊が伸び、一番奥にある法堂を両側から挟み込み、中央の仏殿を囲む格好で四角形の中庭を形成していますが、その中庭には芝生が敷かれています。

お寺に芝生という意外な組み合わせにまず驚きますが、長い風雪を経てくすんだ古建造物と鮮やかな芝生の緑が違和感なく調和していることにもやはり驚かされます。誰が考え付いたのでしょうか。
瑞龍寺仏殿.JPG

仏殿の屋根瓦は白みがかった色をしていますが、これは瓦が鉛製のためで、鉛瓦葺の建物は現存するものではここと金沢城の石川門だけとのこと。

パンフレットによれば、鉛を使ったのは、美観に加え、戦のときに溶かして鉄砲玉にするためということですが、戦に備えた姿勢を公然と示すわけですから、江戸幕府に睨まれそうな気がします。

もっとも、利常という人物には、時として、幕府に対し反抗的と見られかねない行動を好んでとりたがる傾向があったようで、この件もその一環かも知れません。

ちなみに兄の利長は豊臣家と徳川家との間で板挟みになり、病死ではなく、服毒自殺だったのではと噂されるような人物で、兄弟といえどもかなり性格が異なったようです。

仏殿に入ると(鳩が入らないように、扉を開け放しにしないように張り紙があります。鳩の糞害も馬鹿になりません。)、中央の高い須弥壇上には釈迦三尊像。禅寺の場合、ご本尊は基本的に釈迦如来です。お釈迦様が菩提樹の下で瞑想のすえ、悟りを開かれたことをもって、座禅の始まりとされていますので。 

お参りを終えて法堂に向かいます。なだらかな銅板葺きの入母屋屋根の建物です。
瑞龍寺法堂・外観.JPG

入り口から見て、手前が土間の廊下になっていて、左右の回廊へと繋がっています。正面入り口で靴を脱いで板間に上ることができますが、土間との高低差はかなりのものです。
瑞龍寺法堂・内部.JPG
板間の奥は畳敷きの部屋が横3室×2列の方丈(禅寺で住職が居住する建物)様式の間取りで並んでいます。中央には利長の巨大な位牌が存在感たっぷりに立っていました。

回廊で繋がれている大庫裏、禅堂等もひとまわりし、総門から出て、法堂の裏側に回ると、織田信長、その長男で跡継ぎだった信忠(のぶただ)、前田利家、利長らの供養塔があります。

瑞龍寺の前身になった寺は、利長が織田信長・信忠父子の菩提を祀るために建立したということなので、利常がこれらに父(利家)と兄(利長)らを加えて、供養塔を建てたということでしょう。

なお、前田家がおそらく織田信長と同じか、それ以上に世話になったであろう豊臣秀吉の供養塔が無いのは、徳川政権下で生きるための大人の事情というやつでしょう。おそらく。

柴田勝家の供養塔が無いことまでとやかくいうのは、さすがに意地悪でしょうか。

来た道を戻り、先ほどの分岐点から、今度は前田利長の墓に向かいます。瑞龍寺からゆっくり歩いて15分ほどでしょうか。
前田利長公墓.JPG

「戦国大名としては日本一の規模」と看板やパンフレットに書かれており、確かに立派なものです。 もっとも、彼の父の利家は、本来、織田信長配下の一武将で、織田家の巨大化とともに大名になった人物ですし、その死後に跡を継いだ彼はあくまでも豊臣政権下(正確には秀吉亡き後の徳川幕府への移行期)の一大名だったので、利長が「戦国大名」といえるかについてはかなり疑問を感じますけど。

ともあれ、父と弟に挟まれていまいち存在感が薄く(利常又は、大河ドラマの主人公になる前の利家の一般的知名度が、利行のそれとどのくらい違うかと問われると実のところ困りますが、歴史ファン的にはそのようなイメージです)、かつ、幸福とも、穏やかとも言い難い晩年を送った利長ですが、立派な菩提寺と墓を建ててもらい、地元民から町の父と慕われ、ゆるキャラにも抜擢される(これに関しては喜んでないかもしれません)等、死後においてはそこそこ恵まれているようです。

駅に戻り、北側へ向かえば、利行の築いた高岡城があり、途中には鋳物の町・高岡のシンボル「越前大仏」が鎮座されています(本当にどうでもよいことですが、大仏前で大仏焼きというたい焼きの親戚が売っていました。)。

また、残念ながら、今回は行く時間がありませんでしたが(大阪〜高岡日帰りなんて無茶なことはするものではありませんね。)、郊外には、前田家により建てられた重要文化財建造物が多数残る、伏木地区も控えています。
 
泊りがけでゆっくりと見て回りたい町です。     終

2010年06月09日

◆古寺旧跡巡礼 美保神社、仏谷寺 〜(島根県松江市)〜

          石田岳彦
一、民家の屋根を突き破って隕石が落ちてきた事件で有名な美保関は、島根県の東の端、中の海と日本海とに挟まれた町です。その地の利を活かし、大正時代までは交通の要衝として多くの廻船問屋が集まっていたそうですが、今は静かな漁業と観光の町。

今回は、美保関の町にある美保神社、仏谷寺の回です。

二、恵比寿様といえば、七福神の1人(正確には1柱)で、釣竿を担いで、鯛を抱いたイメージの日本で最もメジャーな神様のひとつですが、幾つもの「正体」を持つ神様でもあります。

物の本によれば、えびす神への信仰とは、本来、海岸に打ち寄せられた「外からのもの」に神秘性を認め、これをご神体として祀るものだったそうですが、やがて日本書紀や古事記に登場する特定の神をえびす神と結びつけ、祀るようになりました。

 その特定の神の有力な1つが、大国主の息子の事代主神(コトシロヌシノカミ)で、美保関の町の中心というべき美保神社は事代主系の恵比寿神社の総本社とされています。

 上述の一般的な恵比寿様のイメージ(竿を担いで、鯛を持って)も事代主から来ているそうです。

 いわゆる国譲りの神話には、天照大神の使者タケミカヅチノカミから地上の支配権を譲るよう要求された大国主命が、美保関で釣りをしている事代主を呼び寄せて意見を聴いたという話が残っており(事代主は託宣の神様とされています。)、恵比寿様が釣竿を背負って、鯛を持っているのはこの神話の影響でしょう。

 父親である大国主命も大黒天と同視されているので、親子で七福神に入っていることになります。
 
なお、恵比寿神社の総本社としては、寧ろこちらの方が有名かと思いますが、兵庫県西宮市の西宮神社は、正確には蛭子命(ヒルコノミコト)系の恵比寿神社の総本社です。

 こちらの神様はイザナギ・イザナミが産んだ神で、骨の無い蛭のような子供だったので、藁の船に乗せて、海に流された(ひどい親です)とされています。

 もっとも、ホームページを見る限り、西宮神社も上記の「釣竿を担いで、鯛を抱えた姿」を恵比寿様のイメージとして採用しているようです。やはり「蛭子」では参拝客が逃げますか。

三、私が美保関に向かったのは、以前記事にした出雲大社の本殿の特別参拝に参加した次の日のことです。

JR松江駅から途中バスを乗り継いで1時間半ほど。海岸沿いの道を延々と揺られて、ようやく美保関に着きました。もっとも、行政区画上はここも松江市になります。

平成の大合併の結果ですが、「何でもかんでも、くっつければいいってもんじゃないだろう」と言いたくなります。この付近の住民にとっては、松江市の中心部よりも橋(中の海と日本海を結ぶ水道には大きな橋が架かっています。)を挟んで対岸の鳥取県境港市の方がはるかに近い存在でしょう。

 観光客の姿はほとんど見当たりません。ただし、土産物屋や旅館が何軒か並んでいるところを見ると、季節と時間帯によってはそれなりに客もいるのでしょうか。

 漁港のすぐ側のバス停から歩くと、直に美保神社の鳥居が見えてきました。鳥居の前は広場のようになっていて、右側奥は(詳しくは後述しますが)仏谷寺への参道「青石畳通り」への出入り口になっています。

 鳥居をくぐるとすぐ右側に宝物館がありましたが、残念ながら開いていないようです。先に進み、本殿へ向かいます。美保神社の見所は比翼大社造という特殊な形状の本殿です。

 比翼大社造というのは、大社造(出雲大社の回を参照してください。)の神殿を横に2つ並べて繋ぎ合わせたというものです。

「比翼」というのは、おそらく「比翼の鳥」から来ているのでしょう。雌雄で翼を1つずつ持ち、2体1組で飛ぶという中国の伝説上の鳥ですね。

「比翼の鳥」、「連理の枝」と白楽天の長恨歌にもあります。仲の良い男女の例えに使われます。他の地方から来た人間にとっては、そもそも大社造の神殿自体が珍しく、それが2つ繋がって並んで合体しているというのですから、その異容は社寺巡り、文化財巡りを趣味とする者であれば、一度は見ておきたいところです。

 もっとも、正面手前に大型の拝殿(ここまで巨大だと、これはこれで珍しいですが。)が建っており、これが邪魔(失礼)で、正面からは本殿の特異な形体を掴み難くなっています。後ろから見た方がよく分かりますね。
前から見た拝殿と本殿(奥).jpg後ろから見た本殿.jpg
ちなみに、社殿が2つ繋げられていることからも予想できたかと思いますが、祭神は事代主だけではなく、大国主の后である三穂津姫(ミホツヒメ)も加えた2柱です。事代主が大国主の息子で、三穂津姫が大国主の后だから、当然、三穂津姫は事代主の母親・・・ではないのですね。

 大国主は好色で、多くの后を持つ神様であり、「大穴持(オオアナモチ。多くの「穴」を持つの意。意味の分からない方はスルーしてください。お願いですから。)」という女性団体から猛抗議が来そうな別名の持ち主だったりします(これ以外にも様々な異名を持ちます。)。事代主の母は、別の女神とされているそうです。

 とはいえ、母子関係にない2柱を一緒に祀るというのも奇妙な話ですので、三穂津姫が本来の祭神で(「三穂」は「美保」に通じますので、土地神だったのでしょう)、その後、上記の国譲り神話をもとに事代主が祭神に加えられたとの説もあるとのことでした。祭神が後から足されることは、しばしばあることなので、あり得る話です。

四、美保神社から仏谷寺までの参道は、青石畳通りと呼ばれている天然石を敷き詰めた小道になっています。古い旅館や資料館が立ち並んでいて、落ち着いた雰囲気です。
  時間とお金があれば一泊して、落ち着いた雰囲気の中、海鮮料理を楽しみたいところですが、残念ながら、売れない弁護士の私には両方とも不足しています。
青石畳通り.jpg
仏谷寺を開いた人物としては、寺伝その他で聖徳太子、空海、行基の名が挙げられているそうですが、要するによく分かっていないということですね。有名人の名前を出すだけならただですから。
  
もっとも、後鳥羽上皇や後醍醐天皇が隠岐に流されるときに行在所(一時的な仮宮)とされたとのことなので、鎌倉時代のころに美保関一帯で中心的な寺院だったことは間違いないでしょう。

 とはいえ、現在は往時の面影もなく、広いと言い難い境内に本堂と収蔵庫等が残っているのみですが、その収蔵庫の中には、平安時代に作られた5体の重要文化財の仏像が納められていて、私(訪れる参拝客のほぼ全て)のお目当てもそれです。

 寺の近くの食堂の前に仏谷寺の収蔵庫の受付をやっているとの看板が立っていたので、そちらを訪ね、鍵を開けてもらい、中に入りました。ずらっと並んだ木製の仏像の印象は、良くも悪くも素朴で、造形的にはおよそ洗練されているとは言い難く、悪くいえば、やぼったい、よく言えば、親しみがあるという印象です(写真撮影禁止なので、写真は無しです)。

出雲様式というそうで、中央から離れた地方で、独自に発展した様式なのだとか。残念ながら、どこら辺がどう独自なのかまでは、不勉強な私には分かりませんでしたが。

 境内の出入り口の脇に八百屋お七の恋人吉三(名前その他の設定には幾つか説があるそうです。)の墓があります。お七は、江戸の町のとある八百屋の娘でしたが、火事で避難した際に巡り合った少年吉三との再会を願う余り、自ら放火を試みて、火あぶりの刑に処されたという悲劇のヒロインで、井原西鶴の好色5人女のモデルの1人ですね。

吉三は、お七の死を悲しみ、出家して各地の寺を巡り、この仏谷寺で倒れ、葬られたというのが寺伝になっているとのこと。ただの行き倒れの墓を適当に観光名所にでっちあげたのではないか等という無粋な詮索は止めておきましょう。

五、今回は松江市側から来ましたが、対岸の鳥取県境港市から車(バスの便もありますが、本数が少ないので、タクシーかレンタカーがよいでしょうか)で来る方がアクセスはよさそうです。

境港市の水木ストリート(ゲゲゲの鬼太郎とその仲間たちの銅像が並んでいる通りです)とセットで観光するのがお勧めです(私は帰りに寄りました。)

2010年05月12日

◆私の「古寺旧跡巡礼」住吉神社(福岡)

石田岳彦

一)山口県下関市の住吉神社の回で少し触れましたが、福岡市博多区の博多駅の近くにある住吉神社が、住吉神を祀る神社として最古のものだと考えられているそうです。

日本書紀によれば、仲哀天皇が后の神功皇后とともに、熊襲(九州南方の反朝廷勢力)を攻めようと筑前国(現在の福岡県北部)香椎宮(今の福岡市東区香椎にあった仮の宮殿)にあった際、住吉神が神功皇后に乗り移り、熊襲ではなく、朝鮮半島を攻めるようにとの神託を下したことになっています。

記録に残っている限りでは、住吉神が人間とコンタクトをとったのはこれが最初です。

結局、仲哀天皇はこの神託に逆らったために祟り殺され(おっかないですね。)、未亡人となった神功皇后が朝鮮半島に遠征して勝利を収めました。

また、同じく日本書紀によると、それより遡る神代のころ、イザナギノミコトが黄泉国から命からがら逃げ帰ってきた後、「筑紫(現在の福岡県の大半。北部の筑前と南部の筑後に分かれます)の日向の橘の小戸の阿波伎原」で禊をし、その際、他の神々と一緒に住吉神が生まれたことになっています。

これらの話は、勿論、歴史というより、神話、伝説の類ですが、このような伝説が残り、日本書紀にまで記載されていることは、住吉神が古代より筑紫国、特に筑前国と深く関わる神と考えられてきたことの証拠といえるでしょう。

ということで、福岡市博多区の住吉神社が最古です。本家です。本元です。福岡市出身者としてはよい気分です。

もっとも、ご存知のように、現在、住吉神を祀る神社の総本社は大阪市内にある住吉大社とされています。

これは、住吉大社の方が、摂津国にあり、都に近く、天皇や貴族が参拝しやすいので、都を遠く離れた筑前の住吉神社よりも、朝廷から重く扱われるようになったということでしょうか。

とはいえ、同じ九州にある宇佐神宮(大分県宇佐市)が、石清水八幡宮(京都府八幡市にあります。

数多くの八幡宮の中で実質的にNo2です。)が建立された後も八幡宮の総本社の地位を守っていることを思うと、宇佐神宮の持っていた政治力(東大寺の大仏建立に協力したり、道鏡事件でポイントを稼いだり)を筑前の住吉神社が持っていなかったといえるのかも知れません。

二)住吉神社の境内の南端には小さいとも大きいともいい難いサイズの池が1つあります。昔、この池は海と繋がっていたそうで、上でも述べた「筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原」もこの地ではないかと言われているそうです。

もっとも、現在残っているのは上記のように大して広くもなく、水も綺麗とはいい難い池で、しかも、現在(平成22年1月現在)、工事中で水が抜かれていますが、そのあたりは想像力で補うべきでしょう。名所・旧跡マニアには想像力は不可欠のスキルといえます。

ちなみに、イザナギノミコトの禊の際、住吉神と一緒に生まれたのは、天照大神(アマテラスオオミカミ)、スサノオノミコト、月読命(ツクヨミノミコト)等の極めて有名な神々です。

つまり、天照大神も、スサノオノミコトも、月読命も、住吉神もみんな私と同じ福岡市出身です。博多っ子です(無論、神代には福岡市も、博多の町も博多っ子もありませんでしたが。)。福岡市出身者として、すごくよい気分です。

それはさておき、参道を北へと進むと、間も無く、石鳥居の向こうに門と回廊が見えてきます。

住吉神社社殿.JPG


門をくぐると、拝殿の後方に重要文化財の本殿が見え・・・といいたいところですが、残念ながら、こちらも現在、工事中です。

住吉神社の由緒書によると、本来、博多の住吉神社には住吉3神(山口の住吉神社の回で触れましたが、住吉神は3柱の神の総称です。)のそれぞれに1棟ずつ、計3棟の本殿があったそうですが(なお、大阪の住吉大社には、+神功皇后で本殿が4棟あります。)、戦国時代に火災で失われ、江戸時代初期の1623年に福岡藩の初代藩主の黒田長政が本殿を再建することになったものの、財政上の理由から1棟だけで終了ということになったようです。

・・黒田52万石が泣きます。

本殿は、住吉造と呼ばれる、住吉神を祀る神社に特有の形式です(ただし、長門の住吉神社が九間流造だったように、住吉神社だからといって、必ずしも住吉造というわけでもありません。)。具体的には、切妻屋根で妻入(平面図が長方形の建物の短い方の辺に入り口があること)。壁は白く、他方、柱、垂木(棟から延びる屋根を支える部材)等が朱塗りで、白と赤のコントラストが綺麗です。

また、本殿の周囲にびっしりと赤い板(上端のみ黒に塗られ、先が丸まっている)を並べた玉垣がめぐらされています。本殿が玉垣に囲まれているのは他の形式の社殿にもありますが、住吉造りの場合、玉垣が本殿に密着して設けられ、本殿の一部のようになっているのが特色です。

実のところ、ここの本殿は、住吉造の建物としても、やはり、現存最古なのですが、住吉大社の本殿が国宝に指定されているのに対して、こちらは重要文化財止まり(?)となっています。

確かに、客観的に見て、住吉大社の本殿の方がはるかに立派で、金のかかっていそうな建物です。

しかし、福岡の方が180年以上も古い(住吉大社の現存の本殿は1810円の建立です)わけですし、田舎の方の小さな神社で「△△形式では現存最古」という理由で本殿が国宝に指定されているところもあるので、愛郷心が旺盛な者としては、総本社の地位も含め、美味しいところを住吉大社に持っていかれているようで複雑な気分になります。

博多駅(駅のどこにいるかにもよりますが)から徒歩10分未満。日本神話に心惹かれるという方にお勧めです。(終)

2010年05月02日

◆私の「古寺旧跡巡礼」道成寺(御坊市)

石田 岳彦

kaidan.jpg

長い階段を数えながら登ると確かに62段でした。
上りつめたところには仁王門があり、当然のことながら仁王さんが立っています。門をくぐって左側には金属製の手水鉢が置かれていました。
 
小学校の音楽の時間に教わった童謡「道成寺」にある「62段の階(きざはし)をあがりつめたら仁王さん 左は唐銅(からかね)手水鉢」との歌詞は事実でした。しばしば追憶と感傷にふけります。

本日は、安珍・清姫伝説で有名な道成寺です。

大阪からJRの特急で御坊駅まで。そこから普通電車に乗り換え(本数が少ないので、時間的余裕と人数に応じてタクシーを利用するのがよいかと思います)、1駅行くと道成寺駅です。

改札を通り、踏切を渡って、駐車場と土産物屋(兼食堂)に挟まれた短い参道を通り抜けると冒頭の階段へ至ります。
62段の階段を登りつめ、仁王門をくぐると、正面に本堂、その右側(東側)には三重塔。いずれも江戸時代の建物で、相応に貫禄があります。

3jyutou.jpg

もっとも私の(おそらく、ほとんどの参拝客の)お目当ては、境内西側にある鉄筋コンクリート製の宝仏殿・縁起堂の中で待っています。
宝仏殿・縁起堂は1つ繋がりの建物で、仁王門から見て、手前の、入り口のある建物が縁起堂、奥が宝仏殿です。

縁起堂では、和尚さんが絵巻物(のコピー)を拡げ、安珍・清姫伝説についてユーモアを交えながら、絵解き説法をしてくださいます。説法は頻繁に繰返し行われるので、そう待たされることはないでしょう。

次に述べるように、安珍と清姫の伝説は、事件それ自体は極めて陰惨で後味の悪いものですが、和尚さんの語りのお蔭で、全く暗くなりません(それはそれで問題な気もしますが)。

時は平安時代前期の醍醐天皇の御世。安珍という若い僧侶が熊野三山の巡礼のために奥州から紀伊の国にやってきました。

ところが、道中、安珍が土地の有力者の屋敷に泊まった際、その屋敷の娘である清姫は安珍に惚れてしまい、還俗して自分と結婚してくれるよう強く迫ってきたのです。

結果から見ると、ここで安珍はきっぱりと断るべきだったのでしょうが、清姫の執拗な懇願を拒絶し切れず、結局、巡礼を終えたら帰り道にまた清姫に会いに来ると嘘をつき、屋敷を後にしました。

その後、清姫は首を長くして安珍を待ちますが、約束の日になっても安珍は訪れません。清姫は屋敷を抜け出し、安珍を探し出しましたが、安珍は人違いだと嘘をつき、清姫を相手にしようとしません。

これも結果論ですが、安珍はここできちんとした謝罪のうえ、清姫と一緒になるなり、きっぱりと拒絶するべきだったのでしょう。清姫は悲しみの余り、半狂乱になってしまい、やがて蛇の化け物になり、安珍を猛追します。

安珍は死に物狂いで逃げ、道成寺に逃げ込み、寺の僧侶らに事情を話しました。僧侶らは鐘楼に吊ってあった梵鐘を下ろし、その中に安珍を隠しますが、清姫の化けた大蛇は梵鐘に撒きつき、火を噴いて安珍を焼き殺してしまい、自身は入水自殺してしまいました。お終い(実際の説法では、この後、夫婦円満その他の在り難い和尚さんのお話が続きます。)。

この事件は、記録(?)に残っている限り、日本で最古・・・かは知りませんが(未遂でよければ、イザナギ、イザナミの黄泉比良坂の件が最古の事例として挙げられそうです)、おそらく最も有名なストーカー殺人事件でしょう。

歌舞伎、謡曲等、様々な芝居の題材になっていて、道成寺ものというジャンルを形成しており、縁起堂にも様々な道成寺もののポスターが張っていました。

和尚さんの絵解き説法を聴き終えたら奥の宝仏殿に進みましょう。

道成寺の創建には複数の伝承があり、時期についてもはっきりしないそうですが、遅くとも奈良時代前半には建立されていて、古い寺宝・仏像も少なからず残っています。

その中で最も有名で、かつ特筆するべきものは、やはり国宝に指定されている平安時代の千手観音立像・伝日光菩薩立像、伝月光菩薩立像の仏像3体でしょうか。

肉付きのよい、がっしりとした体躯の堂々たるお姿です(ご多聞にもれず、写真撮影禁止なので残念ながら画像はありません。)。ここで、あれっと思われた方もいるかも知れません。

というのも、日光菩薩、月光菩薩は本来、薬師如来の左右を守る脇侍であり、他の如来や菩薩につくことは基本的に無く、また、千手観音は単体で祀られることがほとんどで、脇侍がつくことは、まず無いからです。
   
そういうこともあり、実のところ、この3体が1つのセットとして作成されたものか否かについては確証がなく、争いがあるとのことでした。
ちなみに奈良市の東大寺の法華堂では、千手観音ではありませんが、不空羂索観音と日光菩薩・月光菩薩という組み合わせが見られます。

こちらについては、日光菩薩と月光菩薩が後になってから余所のお堂より移されてきたのではないかとの説が有力なのだそうです。

大阪からはやや遠いですが、早起きをすれば余裕をもって日帰りできるはずです。白浜温泉への行き帰りに途中下車をして立ち寄るのもよいかもしれません。

2010年04月22日

◆私の「古寺旧跡巡礼」伝香寺(奈良市)

石田 岳彦


今年は平城京遷都(710年)1300周年ということで、奈良県では様々な企画が予定されているようですが、私のような社寺巡りを趣味とする者が一番興味を持っている(というより、それ以外どうでもよい)のは勿論、社寺の特別公開です。

昨年に特別公開リストが奈良県から発表されて以来、どこの寺に何時行くかの予定を立てていますが、今回はそのうち、奈良市内にある伝香寺のお話です。

近鉄奈良駅から南西に8分ほど歩いたところに伝香寺というお寺があります。このお寺は本堂と地蔵菩薩立像が重要文化財に指定されていますが、奈良市内では特に目立つ存在でもなく、また、境内で幼稚園を経営しているという防犯上の理由もあってか、普段は、立ち入り禁止です。

前からその存在を知っていた私は、去年、1300年祭の特別公開リストが発表された際、リストの中にその名前を見つけ、行く予定にしていました。我ながらマニアックです。

戦国時代末から安土桃山時代にかけて、織田信長、豊臣秀吉に仕えて活躍した筒井順慶という武将がいます。この伝香寺は、順慶が若くして病死した後、その母が息子の菩提を弔うために建立したお寺です。

筒井順慶といえば、一般には本能寺の変の後、山崎の合戦の際の「洞ヶ峠の日和見」の話で有名になっています。

これは、山崎の合戦を前に豊臣秀吉と明智光秀からそれぞれ味方につくよう誘われた順慶が、どちらに味方をするか決心がつかず、山崎の地からほど近い洞ヶ峠(京都府八幡市と大阪府枚方市との境界にある峠)で日和見を決め込んでいたというものです。

しかし、近年の研究では、実際に洞ヶ峠に向かい、順慶に出兵を促したのは光秀であり、順慶は一部の兵を光秀側に送ろうとしたものの、途中で止め、自身は大和から動いていないという説が有力になっています・・・と拝観券と一緒に受け付けでもらったパンフレットには載っていました。

拝観券売り場の横に積まれていた「洞ヶ峠の真実」という本にも多分、同じような内容が載っているのでしょう。

もっとも、光秀と親しかった順慶としては、光秀を見殺しにすることにかなり忸怩たるものがあったようで、結局、秀吉と密かに通じつつも、合戦には参加せず(秀吉としても順慶が光秀側に参戦しないことでよしとしたようです。)、中途半端な態度をとったのは事実です。

とはいえ、光秀の姻族(光秀の娘、いわゆるガラシャ夫人は細川忠興の正妻でした。)でありながら、信長の喪に服して出家するとの理由で、あっさりと局外中立の姿勢をとった細川藤孝、忠興の親子が世間から特に非難を浴びているわけでもないのに、順慶が洞ヶ峠の件で揶揄されるのは確かに不公平な話で、筒井一族が文句をいいたくなるのはよく分かります。

受付のある境内北東角の門をくぐると(というか、くぐる前から)本堂は目の前です。境内が狭いですね。
南側の入り口に回りこむ途中、参道の右側に見事な椿の木があります。この椿は「武士の椿(もののふのつばき)」と呼ばれ、大和三名椿に数えられているそうです(他の2つは白毫寺五色椿、東大寺開山堂糊こぼし椿とのこと。機会があったら見てみたいです。)。

denonji.jpg


一般に椿は花が散らず、そのままボトリと落ちるため、斬首を連想させ、武士からは不吉として忌まれていますが、この椿は花びらが桜のように潔く散るため、武士たちからも好まれていたとのこと。突然変異でしょうか。

参道の左側には筒井順慶の像を祀っている最近になって建てられたお堂があります。筒井一族が浄財を出し合って建てたとのことです。

正面に回り、本堂へ。

本堂奥に釈迦如来が鎮座していますが、その前に立っている地蔵菩薩立像の存在感の前に霞んでしまっています。

この重要文化財の地蔵菩薩立像は裸形であり、その上に布製の僧衣をまとっているのが特色で、くすんだ木肌の仏像と色鮮やかな布製の僧衣とのギャップがインパクト大ですね。

鎌倉時代の作で、もともとは別の寺院にあったのが、廃仏毀釈の際に伝香寺に持ち込まれたそうです。

この記事が載っているころには伝香寺の公開自体は終了しているかと思いますが、1300年祭の特別公開はまだまだこれからです。

奈良に出掛けましょう!

2010年01月25日

◆私の「古寺旧跡巡礼」毛馬の閘門 大阪

石田 岳彦

阪急千里線の柴島駅(本筋から思い切り離れますが「柴島」を初見で「くにじま」と読める人がどれだけいるでしょうか。)から天神橋筋六丁目駅へ向かい、淀川にかかる鉄橋を渡る際、左側奥、淀川大堰の向こう側に大きな「水門」が見えますが、その水門には「毛馬こうもん」と白抜きで大きく書かれています。

「こうもん」を漢字で書くと「閘門」です(ちなみに「毛馬」は地名で「けま」と呼びます)。

最近は警察署にも建物の壁に「けいさつ」と平仮名で大きく書いているところがありますが、「閘門」と書いても読めない人が多いので、「こうもん」と平仮名で書いているのでしょうか。

もっとも、警察署と違い、読みだけ知ったところで何をやっている施設かは分からないと思いますが。

それはさておき、阪急千里線を通勤経路にしている私にとって、毛馬の閘門は見慣れた存在でしたが、近くにまで行く機会はありませんでした。

平成20年春、毛馬の閘門が国の重要文化財に指定されることになったというニュースを聞いた私は、これをよい機会と毛馬の閘門に行ってみることにしました。我ながらミーハーです。

毛馬の閘門に行くには、天神橋筋六丁目駅(阪急千里線、地下鉄堺筋線・谷町線)から北上し、淀川にかかる長柄橋の南詰めから河川敷に出て、更に5分ほど東へ歩きます。

河川敷は公園になっていて、堤防上には歩道も整備されていて、歩いていて楽しい道ですが、天神橋筋六丁目駅からは20分以上の歩きになり、大阪市内ということを考えると交通の便の悪い場所といえるでしょう(私がなかなか行く気になれなかった理由もこれです。)。
 
現地に設けられていた説明板によると、閘門というのは、水位の異なる川、運河等の間で船を行き来させるため、両側に水門を設けた水路で、毛馬の閘門の場合、大川(低)と淀川(高)との間の高低差を調整して船を通すために建造されたものです。

淀川から大川に入る場合、まず、水路内の水位を淀川に合わせたうえ、淀川側の水門のみを開けて船を水路に入れたうえで閉じ、水路内の水を抜いて、水面の高さを大川と同水位に下げた後、大川側の水門を開けて船を通過させるという仕組みになっています。

逆に大川から淀川に行く場合には、大川側から水路に船を入れたうえ、水を補充して水路面を淀川と同水位にまで上げてから、淀川側の水門を開放することになります。

なお、そもそも隣り合っている2つの川の水面に何故、極端な高低差があるかといえば、本来の淀川の流れは大川の方で、現在の淀川のうち毛馬よりも河口側の部分(新淀川)は明治時代に治水上の必要で人工的に作られたためだそうです。

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(3代目現役の閘門)     (初代閘門 )     (初代閘門内部)


ちなみに現在の毛馬の閘門は3代目で、私が毎朝見かけている「毛馬こうもん」もこの3代目にあたります。今回、重要文化財に指定されたのは初代と2代目(今は船溜になっているそうです)で、このうち初代の閘門は、3代目のすぐ近くに見学用として整備されていました。


初代閘門の水門は2つの扉が観音開きになる方式で(なお、現役の3代目の閘門は門扉が上下して開閉するシャッター方式だそうです。)、現在は半開きの状態で固定されています。最近になって塗りなおされているようで、水色の大きな扉が鮮やかです。

北側の淀川側の水門は、近くにある堤防から一段低いところにあり、階段で下まで降りることもできますが、降りたところに柵が設けられていて、その先の水門をくぐることはできません。

もっとも、南側にある大川側の水門(淀川側に比べてかなり小型です)は開放されていて、そちら側から(旧)水路(当然のことながら現在では水路に水は流されていません。)の中に入ることができ、更に進んで淀川側の水門をくぐることもできます。北側の柵はいったい何のためでしょうか。

水路の中央に見学用の通路が設けられていて、その両側は何故か芝生になっていました。先ほどの柵といい、「こうもん」のペイントといい、この芝生といい、大阪市はよく分からないことに金と手間を使います。

水路といっても船が通り抜けることができるだけのスペースですから、幅もそれなりにあり、スペース自体はちょっとした広場並みです。両側の側壁はレンガ造りになっていて、ところどころに鎖が取り付けられています。係船環と呼ばれる船を繋ぐためのものだそうです。水路に水を注入または排出するときに船が動かないようにするためでしょうか。

近くには初代閘門の付属施設として建設された洗堰(水が堰の上を越えて流れるタイプの堰)も残っています。淀川(新淀川)から大川に流れ込む水の量を調節するためのものだそうです。なかなかシックなデザインですね。

最近は大きな書店に行けば「近代遺産巡り」のコーナーを見かけることも少なくありません。寺社や城跡に続き、この手の史跡の人気も上昇しているのかも知れません(自分も行っておいてなんですが、世の中にはマニアックな人が多いです。)。

大阪市やその近郊にお住まいの方であれば、天気のよい休日にでも、広々とした淀川の河川敷や堤防の上を歩きつつ、ちょっと寄ってみられるのも悪くないでしょう。(終)
                       

2010年01月14日

◆私の「古寺旧跡巡礼」出雲大社

石田 岳彦


神宮といえば伊勢神宮、大社といえば出雲大社といわれるように、出雲大社はわが国でも指折りの格式の高い神社です。

古事記や日本書紀の神代巻によれば、大国主命が、地上の支配権を天照大神の孫のニニギノミコト(つまり今の天皇家のご先祖)に譲るのと引き換えに建ててもらった宮殿が出雲大社の起源とされています。

出雲大社は通常「いずもたいしゃ」と呼ばれ、私も勿論、そう呼んでいたのですが、「いずものおおやしろ」というのが正式な読みだそうです。驚きました。

もっとも、この名称自体、明治時代以降のもので、それ以前には杵築大社(きづきのおおやしろ)と呼ばれていたそうです。更に驚きました。
ともあれ、その出雲大社で、平成20年より国宝の本殿の修復が行われています。

御存知の方も多いと思いますが(各地からツアーが組まれていたようなので実際に行かれた方も少なくないかも知れません)、修理に先立つ大遷宮(神が仮の社に移ること)を記念して、平成20年に本殿の60年ぶりの公開が行われました。今回はその際の話をさせていただきます。

お盆を控えた平成20年8月のある週末、私は1泊2日で出雲に出掛けることにしました。朝一番の新幹線と在来線の特急を乗り継いで、JR出雲市駅(ちなみに平成の大合併により、出雲大社のあった大社町は出雲市の一部となりました。)からはタクシーを飛ばしたものの、出雲大社に着いたのは午前11時過ぎでした。

整理券をもらうと午後3時半。4時間半待ちです。事前情報として待ち時間がかなり長くなるのを知っていたので、驚きはありません。寧ろ、今日中に拝観できるのが決まって一安心です。

4月から5月にかけても本殿の公開が行われましたが、その際は境内に長蛇の列ができ、最大で4時間待ちになったとか。その反省もあってか、8月の公開の際には整理券が配られるようになったようです。まあ、8月の炎天下に長蛇の列ともなれば、熱射病で死屍累々となることは分かり切ったことですが。

幸い、日御碕神社、日御碕灯台や旧国鉄大社駅等、周囲に見るべきものは多く、正直4時間半でも短いくらいです(歴史ファンであればという条件付きですけど)。ともあれ、極めて有意義に時間を潰した私は午後3時前に出雲大社に戻ってきました。

本殿の拝観は、案内人に引率されて20人程度のグループ単位で行われます。
ようやく時間になったので、四脚門を潜って玉垣の中に入り、更に楼門をくぐって、靴を脱いだうえ、本殿正面の階段を登りました。本殿への階段は急で、高低差があります。

出雲大社の本殿はこの地方に独特の大社造りと呼ばれる高床式の建物で、正面に屋根付きの階段が設けられています。ただし、本殿の周囲に二重の玉垣が巡らされていることもあり、特に下部の構造は外部から分かりにくいです。

時間に余裕がある方には、出雲大社の前後にでも、松江市内の神魂(かもす)神社(本殿は現存最古の大社造りで国宝に指定)にも寄って、大社造りの建物の全容を見ておくのをお勧めします。現在の本殿は江戸時代に建てられたもので、高さは下から棟までで8丈(24.2m)だそうです。

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写真では分かりにくいのですが、実際に本殿の縁側にまで登って周囲を見下ろすと、だいたいビルの3階くらいの感覚で、かなり高く感じます。もっとも、言い伝えによると、中世以前の本殿はこの2倍の16丈、神話の時代においては更に倍の32丈の高さがあったということなので、この程度で驚いてはいけないのかも知れません。

なお、16丈の本殿については、従来、技術的に困難であるとして、単なる伝説であり、史実ではないとする説が強かったようですが、近年、昔の本殿の巨大な柱(丸太3本を束ねたもの)が境内から発掘されたこと等もあり、最近では、歴史的事実として認める説も有力のようです。

もっとも、昔の技術で16丈の高さにするには無理があったためか、文献上、しばしば本殿の転倒事故が起きているのが確認できるとのこと。

神代の32丈(約96m)の本殿については、さすがにこれを信じている人は少ないようですが、土を盛って人工の丘を作り、そのうえに建物を建てることにより、麓からの高さで32丈を確保したとの説もあるそうです。ここまでくるとほとんど頓知話ですね。

本殿のうえは大渋滞で、一旦、縁側を右側に回り、後方を巡って、最後に正面に回り込み、本殿内部を除きこんで、降りるというコースになっていました。
正面に回るまで15分ほど縁側で待たされることになりましたが、本殿上にとどまれる時間がその分長くなるわけですから、悪くない話です。

普段は玉垣の外からしか覗けない、本殿の周囲の建物の桧皮葺の屋根も、今は、私の眼下にあります。私がこの光景を見るのもこれが生涯で最後、若しくは、50年以上先の次回の修理のときだろうと思うと、有難味もひとしおです(数年後に修理が完了した際に、もう一度特別公開をやるという落ちになるかもしれませんが)。

写真撮影禁止なのが泣けてきます。ようやく正面に回り、縁側から内部を覗き込みました。さすがに中には入れてもらえません。神様の家ですから。

本殿の中央には文字通りの大黒柱(仏教の守護神であった大黒天と大国主命はもともと別の神様ですが、「大国」が「ダイコク」と読めるということで、次第に混同されるようになりました。袋をかついだ七福神の大黒様は大国主命のイメージから来ています。

また、事前情報として知っていましたが、大国主命の御神像を収める御神座は何故か正面ではなく、右側(拝観者から見て左側)を向いていて、参拝者の方を向いていません。

理由については争いがあり、中には、「出雲大社は大国主命の宮殿ではなく、その霊を封じ込める牢獄である」というおどろおどろしい説まであるようです。
更に天井には極彩色の「八雲」が描かれているのが見えます。もっとも、「八雲」であるにもかかわらず、何故か描かれている雲は7つだけです。

疑問に思って、説明の方に話を聞くと、昔から7つしかないけど「八雲」と呼ばれているとのことでした。残り1つは心眼で見るのでしょうか。そういえば、八岐大蛇(やまたのおろち)も、頭が8つだから七股なのに八岐と呼ばれていますね。

「八雲」は兎も角として、本殿の内部は、外観と同様全体的には簡素で装飾性が少ないという印象でした。

本殿の参拝が終わった後、改めて境内をノンビリと歩きます。特に印象に残ったのは、本殿の東西にあった十九社という細長い建物で、毎年11月に全国から出雲に神様が集まってくる際の宿舎になる社ということのようです。

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 また、出雲大社のすぐ近くには県立の歴史博物館もあります。上で述べた発掘された昔の本殿の柱に加え、加茂岩倉遺跡(一箇所の遺跡から最多の銅鐸が発見されたことで有名)から出土した銅鐸、荒神谷遺跡(358本という常識外れの大量の銅剣が発掘されたことで有名。

勿論、国内最多。)から発掘された銅剣もまとめて見る事ができます。巨大なガラスケースの中に300本以上の銅剣が並ぶ様にはあっけにとられます。

 本殿の修理が終わるまで、まだ、時間がかかりますが、機会があれば、一度、出雲の地に行かれてみてください。(終)

2009年12月22日

◆私の「古寺旧跡巡礼」仏隆寺

〇(奈良県宇陀市)              
石田 岳彦

まず、見えてきたのは、参道の階段の両側を飾る鮮やかな彼岸花の群れ。 

近鉄大阪線榛原駅から1時間に1本のバスで高井バス停まで。さらに20分以上歩いて(微妙に登りのうえ、歩道も整備されていないので、時間以上に疲れます。)ようやく到着しました。

交通の便の悪さもあり、観光ガイドにはまず載っていませんが、思いのほか人が多いです。駐車場にも多くの自動車がとまっています。おそらく彼岸花目当てで近隣の県から来た人たちでしょう。
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(写真―彼岸花畑)

仏隆寺は山1つ超えたところにある室生寺の末寺です。室生寺までの道がハイキングコースにもなっていて、「室生寺まで〇km」といった立て札も見えます。

お寺の創建については、平安時代に空海の弟子の堅恵(けんね)が建てたとか、それ以前に別の僧侶が建てていたとか、幾つか説があり、はっきりとしないそうです。

いずれにしても地味な(失礼)縁起ですが、その分、リアリティは感じます。

地方の比較的小さなお寺の縁起話に聖徳太子や行基菩薩が出てくると(「言うだけなら只だと思っているだろう。」と思わず突っ込みたくなるくらい、よく聞きます。)、
それだけで眉唾ですから。

階段を上る途中の右手に桜の大樹があります。「千年桜」と呼ばれているそうで、確かに千年生きていそうな堂々たる姿です。花の季節にもう一度訪ねてみたいですね。

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(写真―百年桜)

もっとも、文化財ファンの私のお目当ては実のところ、彼岸花でも千年桜でもありません

(そもそも彼岸花の名所ということも、千年桜の存在も知らずに仏隆寺に来たわけですが、それでいて、偶々、彼岸花の綺麗な季節にやってくることになったのは、幸運でした。
御仏のお導きでしょうか。お賽銭を少し多めに入れておきましょう。)。

本堂の右奥にある石造りのそれは、石室と呼ばれています。そのまんまです。

立方体の上に四角錐の屋根を載せたような形をしていて、正面中央に狭い通路があり、内部に入ると、一番奥の窪みに小さな石塔がすっぽりと収まっています。この塔が上記の堅恵のお墓といわれているそうです。

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(写真―石室)

世の中には、比較的きれいにピラミッド状になっている山を人工物だと決めつけて「日本のピラミッドだ!」と騒いでいる人も少なからずいるようですが、丸ごと石造りで、(上の方のみだけど)

四角錐になっていて、しかもお墓ということを考えれば、仏隆寺の石室こそ、「日本のピラミッド」の名にふさわしいかも知れません。サイズはかなり可愛らしいですけど。

境内には他に鎌倉時代末の十三重石塔と大和茶発祥の地という記念碑があります。
空海が唐から茶の種を持ち帰ってこの地で栽培したそうで(最澄にも似たような話があり、大津市坂本に日本最古の茶園の記念碑があります。)、
現在に至る大和茶の起源となったとのことでした。
交通の便は悪いですが、見所はそれなりにあります。車で行くか(その場合、かなり遠回りになりますが)、ハイキングを楽しむ時間と体力の余裕があれば、室生寺とセットで見て回るのも楽しいかも知れません。(完)

2009年12月11日

◆私の「古寺旧跡巡礼」住吉神社(山口)

<石田岳彦>

一) 住吉神は、あまり知られていませんが、1柱の神様ではなく、「底筒男神(そこつつおのかみ)」、「中筒男神(なかつつおのかみ)」、「表筒男神(うわつつおのかみ)」という3神の総称です。
そして、住吉神を祀る神社の総本社といえば、当然、大阪の住吉大社です。

もっとも、住吉大社は必ずしも最古の住吉神社ではありません。

日本書紀によれば、仲哀天皇の未亡人の神功皇后が、住吉神の神託に従って朝鮮半島に遠征して凱旋帰国し、まず、「穴門(あなと)の山田邑」に住吉神社を建てたと記されています。

更に日本書紀では、その後、神功皇后が近畿に帰り、留守中に起こった皇族の反乱を、やはり住吉神の助けを借りて鎮圧し、そのお礼として住吉大社を建てたとされているので、住吉大社よりも前に、少なくとも「穴門の山田邑」の住吉神社が存在したことになります(なお、最古の住吉神社としては、福岡市博多区の住吉神社を挙げる学説が有力なようです。)。

そして、今から述べます下関市にある住吉神社がこの「穴門(長門)の山田邑の住吉神社」と目されているそうです。

ただし、神功皇后の実在自体に争いがあるので(継体天皇以前の古事記や日本書紀の記載をどこまで信用するかについては学界で争いがあるそうです。)、あくまでも伝説の中ではということになりますが。

二)JR新下関駅は、山陽新幹線の開業前は「長門一ノ宮」という駅名でした。

この「長門一ノ宮」とは長門の国で最も格式の高い神社という意味で、要は住吉神社を指しています。新下関駅からバスで10分足らず、バス停から更に少し歩いたところにある森。そこが住吉神社です。

この神社の見所は、室町時代初期に守護大名の大内氏により再興された国宝の本殿で、九間社流造という変わった形をしています。

ここで「九間」とは、庇を支える柱の間が9つ(つまり柱は10本)という意味になります(京都の三十三間堂も同様に柱の間が33という意味です)。

他方、「流造」というのは、切妻平入(「切妻」とは屋根の形状です。本を半開きにして、開いている方を下にして置いた形を思い浮かべてください。また、「平入」は長方形の建物の長い辺の側に入り口のあることです。)の建物の正面側の屋根を前方に長く延ばして、それを柱で支えて庇(向拝)にしたものです(横から見ると、屋根が「ヘ」型です。)。

流造自体は神社の本殿としては極めてメジャーな形状で、現在日本にある神社の過半数がこの形式の本殿といわれているそうです。

しかし、通常、流造の神殿は小型のもので一間、中型から大型のもので三間という場合が多いので、九間というのは、神社の本殿として異常なほどに横幅が広いということになります。

とりあえず、百聞は一見に如かずで、写真をご覧ください。1枚の写真に収めようとすると、横に長いうえに、前の拝殿が邪魔(毛利元就のこさえた重要文化財の拝殿に対して失礼な言い草ですが)になる関係で、空撮でもしない限り、真横に近い方向からの撮影を余儀なくされます。

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構造的に見ると、一間社流造の神殿を横に5つ並べて、屋根を繋ぎ合わせて1つにしたものです。

また、各神殿の正面には千鳥破風という三角形の飾りがそれぞれ設けられていて、視界の左右いっぱいに延びる桧皮葺の焦げ茶色の屋根(これを美しいと思えるか否かで、古社寺巡りを楽しめるかどうかが決まるというのは言い過ぎでしょうか?)の上に整然と5つの千鳥破風が並ぶという、おそらく日本ではここだけという偉観を作り出しています。

5つの神殿には、向かって左側の第一殿から順に、住吉神の荒魂(神々の荒々しい側面を指します。対義語は和魂−ニギタマ−です。)、神功皇后、応神天皇(神功皇后の息子)、武内宿禰(神功皇后の功臣)、建御名方命(タケミナカタノミコト。大国主命の息子で、諏訪大社の神様)が祀られているそうですが、建御名方命だけは住吉神や神功皇后との繋がりがよく分かりません。何故でしょう?

下関に行くのであれば、この住吉神社は一見の価値ありです。私のように古い建物が好きな方なら、この神社自体を目的に下関に行かれてもよいかと思います。

なお、平成22年1月より本殿の屋根の葺き替えが行われるそうなので、参拝される方はご注意ください。同年11月ころには葺き替えが終わるそうなので、それに合わせて行ってみるのもよいかもしれません。
(終)

2009年11月30日

◆私の「古寺旧跡巡礼」 当麻寺B

石田岳彦


3koudou.jpg(講堂)


さて講堂へと移動します。講堂も瓦葺で、寄棟、平入りですが、本堂に比べると一回りほど小さく感じます。講堂の中には、ずらっと2列で阿弥陀如来×2、千手観音、地蔵菩薩、不動明王、多聞天・・・・。
  
このラインナップを見て、だから何だと思った人はお寺巡りの初心者です。このラインナップを見て、その組み合わせの必然性の無さに疑問を感じた人は中級者です。このラインナップを見て、なるほどと思った人は上級者です。多分。

お寺の方の説明にもありましたが、明治初期の廃仏毀釈で多数のお寺が廃寺になった際、つぶれた寺院の仏像が生き残った寺のお堂にまとめて押し込まれるというケースがしばしばあり(近畿地方の古寺を回っていると、誇張抜きに、しばしば出くわします)、この講堂のやたらと脈絡のない顔触れも、要するにその名残というか、傷痕ということになります。

講堂の南隣には金堂があります。こちらは入母屋屋根(文章での説明はややこしいので、ググってください)です。正面入り口は南側ですが、何故か拝観者には北側の裏口が開放されていて、そこから入って、正面に回り込む形になっています。

6kondou.jpg(金堂)


 金堂の中には、国宝の弥勒仏像と重要文化財の四天王像がまつられていますが、本尊の弥勒仏坐像は頭でっかちで、造形的にはあまり美的感覚を刺激されません。

しかし、この仏様こそが当麻寺の本来のご本尊で、7世紀後半の白鳳時代の作だそうです。ここで「弥勒仏」とは、弥勒菩薩が遠い未来において悟りをひらき、如来になった後の姿を指します。

実は、「弥勒仏」の像は、他に興福寺の北円堂や東大寺などにあるくらいで、作例が少なく、結構、レアものだったりします。

他方、周囲を囲む四天王立像は、説明書によると、現存するものの中では法隆寺金堂のものに次ぐ古い四天王像だそうですが、4人全員が見事なまでのアゴヒゲを生やしていて、やたらと男臭い像になっています。

 私はこれまで様々な四天王像を見てきましたが、ここまで「濃い」アゴヒゲを生やした四天王像というか仏像はこれ以外に見たことがありません。

一見の価値ありです。ただし、やたらとインパクトがあるので、一度見てしまったら、忘れたくても忘れさせてくれないかも知れません。

上でも述べたように2基の三重塔はそれぞれ1段高い斜面上にあります。塔の一層目には仏像が祀られているそうですが、基本的に開扉はなされていません。

もっとも、来年(2010年)は平城京遷都1300年祭関係のイベントとして、特別に東西の塔の開扉が行われるという話です。今から楽しみです。

4higashi.jpg(東塔)5nishi.jpg(西塔)

 本を見ると、古代に建てられた東塔と西塔が揃って現存するのは当麻寺が唯一とありますが、両塔は同時に建てられたものではなく、東塔が奈良時代末、西塔が平安時代初めだそうで、屋根の組み物や、窓の有無など、デザイン的にもかなり違ったものになっています。

他に中之房、奥の院といった塔頭も公開されています。真面目に見て回ると半日がかりです。

当麻寺から少し歩いたところには中将姫の墓とされる石造の十三重塔があります。ちなみにこの塔は鎌倉時代の作らしいですが(中将姫は上記のように奈良時代の方です)、無粋なことはいいっこなしです。
(当麻寺編・終)
<弁護士>                  
                       

2009年11月29日

◆私の「古寺旧跡巡礼」 当麻寺A


石田岳彦


2hondou.jpg(本堂)


当麻寺は、境内の南側に2つの三重塔があり、その北側に金堂、更にその北側に講堂があるという、薬師寺と同じ伽藍の配置ですが、スペースが足りなかったのか、敷地の南側は丘になっていて、2つの塔は斜面を削り取って造成された高台に建てられています。

しかも、金堂と講堂の西側に本堂が東向きに建っていて(講堂と金堂は南向き)、大門(正門)が南ではなく、東側にあり(金堂ではなく、本堂に合わせているようです。)、更に金堂と東西の塔の間に2つのお坊が割り込み、西塔と東塔の間にもやはりお坊が建てられるなど、平地に整然と建物が並んでいる薬師寺に比べて、かなりのカオス状態です。

そこに見えている2つの三重塔に境内案内図で通路を確認しながらでないと辿り着けないというのですから、何時か、何処かで、何かを間違えてしまったに違いありません。

 金堂とはその寺のご本尊となる仏像がまつられているお堂で、本堂とはその寺の中心的なお堂をいいます。講堂は仏法についての講話を聴くための場所となるお堂です。

 古代からの寺院の場合、法隆寺、東大寺、興福寺、薬師寺、唐招提寺等のように、金堂はあっても、本堂とはされていない(つまり、その寺院に「本堂」と呼ばれる建物がない)ことが多いようです。仏舎利をまつった塔が伽藍の中心という考えが強かったためでしょうか。

 他方、比較的新しい時代のお寺では、金堂=本堂で、単に「本堂」と呼ぶことが多く、いずれにしても、金堂とは別に本堂があるという当麻寺のようなお寺は珍しいです(ざっと調べた範囲では、有名な寺院だと、他に室生寺くらいです)。

 もともと当麻寺は、聖徳太子の異母弟の麻呂古王(日本書紀によると当麻氏の祖とされています)が開いた寺を、当麻国見(たいまのくにみ)が現在の地に移したとされる(あくまでも寺伝で、実際のところはよく分かっていないようです)、金堂を中心とするお寺でした。

 しかし、後世に中将姫伝説が有名になってしまい、もとから存在した金堂とは別に、中将姫お手製の曼荼羅をまつったお堂(曼荼羅堂)が「本堂」に昇格してしまったため、「金堂」と「本堂」が並存するという珍しい状態になったようです。

本堂にある受付にいって、本堂、金堂、講堂の拝観共通券を買います。国宝の本堂は瓦葺で、寄棟造(屋根の形状で、棟から4方向に傾斜する屋根面を持つもの)、平入り(床が長方形の建物で、広い辺の側に入り口があることをいいます)と、仏教寺院の本堂としては、オーソドックスな形をしています。

上記のように中将姫の織った曼荼羅をまつるお堂で、奈良時代末から平安時代初期に建てられたものが、平安時代末期に改造されて現在の姿になったということです。

 本堂の中央に立派な須弥檀(しゅみだん)があり、その上にやたらとでかい厨子が載っています。奈良時代末から平安時代の初期に作られたものといわれているそうです。

 厨子の中に飾られている曼荼羅(約4m×4mというでかさです。厨子がでかくなるのも当然です)は、まさしく中将姫により織られた伝説の曼荼羅・・・ではなく、残念ながら、室町時代に作られた複本ですが、それでもかなりの古さを感じさせます。というか、相当に傷んでいます。

ちなみにオリジナルは更に傷みが激しいらしく、原則として非公開になっていて、私もいまだに実物にお目にかかったことがありません。オリジナルの写真を見ましたが、思わず「傷み」を「悼み」と誤植したくなるくらい、相当に傷んでいます。

 阿弥陀様が中央に座っていて、その周囲を多くの菩薩が囲み、後方に描かれた横長の建物は平等院鳳凰堂のモデルになったということですが、退色に加え、曼荼羅の上に金網が張られているので、細かな部分までは分かりません。

ちなみに厨子の蓋(現在残っているのは鎌倉時代に作られた後補のものですが)は取り外されていて、時々、奈良国立博物館に展示されています。黒漆の地に金蒔絵というシンプルながら豪華な一品です。

 厨子の右側には中将姫の念持仏と言われる十一面観音像がまつられており、弘仁時代(平安前期。810年−823年)の作といわれています。

「奈良時代に亡くなったお姫様が、何故、平安時代に作られた観音様を拝めたのだろう?」という素朴な疑問は忘れて、素直な心でお参りしましょう。歴史考証というものは、少なからずロマンと対立するものです。(つづく)  <弁護士>                                          

2009年11月28日

◆私の「古寺旧跡巡礼」 当麻寺@

石田岳彦


<私は大阪で弁護士をしています。大学生時代からの趣味で、社寺、名勝、旧跡から、明治以降のいわゆる近大遺産まで、九州から東北まで(そのうち北海道にも行きたいです)、「歴史的なもの」を見て回っています。今回「私の古寺旧跡巡礼」と題して綴ってみました>。
 
さて本題―。奈良県葛城市(旧当麻町)にある「当麻寺」というのは、不思議なお寺です。

国宝の仏像、曼荼羅、厨子、本堂、2基の三重塔、梵鐘、重要文化財多数を持っているという文化財の宝庫で、「古寺巡礼」、「日本の寺院100選」といった書籍、雑誌の特集があれば、必ず名前のあがるという古寺巡りや古文化財のファンの間では常識というか、知らない人はもぐり扱いされるという有名なお寺ですが、世間一般の知名度は高くないようです。

 おそらく、奈良、飛鳥、斑鳩という奈良県内のメジャーな観光地から離れたところにあるので、観光客が少ないことが原因でしょう。観光ガイドの扱いも微々たるものです。

もし、奈良市内にあれば、東大寺や興福寺は無理でも、薬師寺や唐招提寺なみにはメジャーになれたであろうという、ある意味とても不運なお寺といえます。

もっとも、奈良市内にあったならば、上記の文化財の少なからずが、戦火に巻き込まれて灰になった可能性もありますが。

ところで、当麻寺の最大の売り物(?)は、中将姫伝説です。

中将姫は、奈良時代の貴族のお姫様で、継母に度々、命を狙われるという苦難を乗り越え、阿弥陀如来の導きによって極楽浄土の光景を描いた曼荼羅を織り上げ、極楽浄土へ旅立ったとされる伝説上の人物です。

これが、「本当は怖いグリム童話」なら、シンデレラのように、継母の目を鳩がほじくったり、或いは、白雪姫のように、継母に焼けた鉄の靴を履かせたりといった感じのハッピーエンドになるところですが、そういう物騒な展開はありません。仏教説話ですから。

 継母がその後、地獄に落ちて、閻魔様に舌を抜かれるという因果応報的な後日談はあるかも知れません。仏教説話ですから。

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(蹴速塚)


近鉄南大阪線の当麻寺駅を出て、まっすぐ西を目指します。駅から出発してまも無く、右側路傍に当麻蹴速(たいまのけはや)の墓、とされる五輪塔があります。

 この蹴速は、垂仁天皇の時代の人で、天下最強を宣言して挑戦者を募っていたところ、垂仁天皇の命で、出雲からやってきた野見宿禰(のみのすくね)と相撲をとることになり、宿禰に蹴り殺された(当時の相撲は今よりもかなりバイオレンスなルールだったようですね。)という、色々な意味で「痛い」人です。

もっとも、垂仁天皇(日本書紀等の記述によると紀元前1世紀から1世紀にかけて在位。卑弥呼よりも前です。)自体、実在が危ぶまれている状況ですので、この話も歴史というより、伝説の部類です。

この蹴速と宿禰の対戦が、わが国の相撲の始まりとされているそうです。すぐ近くに相撲館という、相撲資料館まで建てられています。中将姫と当麻蹴速とおぼしき男女のかわいらしいキャラクターのイラストがポスターに載っていました。今、はやりのユルキャラというやつでしょうか。余計なお世話だと思いますが、かなり幸の薄そうなカップルです。

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(鐘楼)


駅から歩いて15分ほどで大門に着きます。境内の東端に建っている楼門で、古寺にふさわしい風格です。大門を入ってすぐ、正面には鐘楼があります。国宝の梵鐘を「吊ってある」お堂です。

「吊ってある」というのは、一見、梵鐘が吊られているように見えますが、実は下に台が設けられていて、梵鐘はその上に置かれているからです。以前にお寺の方から聞いた話では、十数年前まで当麻寺には鐘楼は存在せず、梵鐘もいずれかのお堂に置かれていたそうです。

その後、鐘楼が再興され、それに合わせて梵鐘を鐘楼に吊るすことになったものの、いざ、吊るそうという段になって、龍頭(梵鐘を吊るすための上部にある輪状の突起)にひびがあるのが発見され、吊るすことができなくなってしまいました。

にもかかわらず、「せっかく再建したのだから鐘楼に梵鐘を飾りたい」ということで、こうなったようです。観光ガイドにも載っていない、思いっきりどうでもよいトリビアといえます。(つづく)

<福岡県福岡市出身、福岡県立修猷館高等学校、京都大学法学部卒業
大阪弁護士会・弁護士>