2010年01月14日

◆私の「古寺旧跡巡礼」出雲大社

石田 岳彦


神宮といえば伊勢神宮、大社といえば出雲大社といわれるように、出雲大社はわが国でも指折りの格式の高い神社です。

古事記や日本書紀の神代巻によれば、大国主命が、地上の支配権を天照大神の孫のニニギノミコト(つまり今の天皇家のご先祖)に譲るのと引き換えに建ててもらった宮殿が出雲大社の起源とされています。

出雲大社は通常「いずもたいしゃ」と呼ばれ、私も勿論、そう呼んでいたのですが、「いずものおおやしろ」というのが正式な読みだそうです。驚きました。

もっとも、この名称自体、明治時代以降のもので、それ以前には杵築大社(きづきのおおやしろ)と呼ばれていたそうです。更に驚きました。
ともあれ、その出雲大社で、平成20年より国宝の本殿の修復が行われています。

御存知の方も多いと思いますが(各地からツアーが組まれていたようなので実際に行かれた方も少なくないかも知れません)、修理に先立つ大遷宮(神が仮の社に移ること)を記念して、平成20年に本殿の60年ぶりの公開が行われました。今回はその際の話をさせていただきます。

お盆を控えた平成20年8月のある週末、私は1泊2日で出雲に出掛けることにしました。朝一番の新幹線と在来線の特急を乗り継いで、JR出雲市駅(ちなみに平成の大合併により、出雲大社のあった大社町は出雲市の一部となりました。)からはタクシーを飛ばしたものの、出雲大社に着いたのは午前11時過ぎでした。

整理券をもらうと午後3時半。4時間半待ちです。事前情報として待ち時間がかなり長くなるのを知っていたので、驚きはありません。寧ろ、今日中に拝観できるのが決まって一安心です。

4月から5月にかけても本殿の公開が行われましたが、その際は境内に長蛇の列ができ、最大で4時間待ちになったとか。その反省もあってか、8月の公開の際には整理券が配られるようになったようです。まあ、8月の炎天下に長蛇の列ともなれば、熱射病で死屍累々となることは分かり切ったことですが。

幸い、日御碕神社、日御碕灯台や旧国鉄大社駅等、周囲に見るべきものは多く、正直4時間半でも短いくらいです(歴史ファンであればという条件付きですけど)。ともあれ、極めて有意義に時間を潰した私は午後3時前に出雲大社に戻ってきました。

本殿の拝観は、案内人に引率されて20人程度のグループ単位で行われます。
ようやく時間になったので、四脚門を潜って玉垣の中に入り、更に楼門をくぐって、靴を脱いだうえ、本殿正面の階段を登りました。本殿への階段は急で、高低差があります。

出雲大社の本殿はこの地方に独特の大社造りと呼ばれる高床式の建物で、正面に屋根付きの階段が設けられています。ただし、本殿の周囲に二重の玉垣が巡らされていることもあり、特に下部の構造は外部から分かりにくいです。

時間に余裕がある方には、出雲大社の前後にでも、松江市内の神魂(かもす)神社(本殿は現存最古の大社造りで国宝に指定)にも寄って、大社造りの建物の全容を見ておくのをお勧めします。現在の本殿は江戸時代に建てられたもので、高さは下から棟までで8丈(24.2m)だそうです。

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写真では分かりにくいのですが、実際に本殿の縁側にまで登って周囲を見下ろすと、だいたいビルの3階くらいの感覚で、かなり高く感じます。もっとも、言い伝えによると、中世以前の本殿はこの2倍の16丈、神話の時代においては更に倍の32丈の高さがあったということなので、この程度で驚いてはいけないのかも知れません。

なお、16丈の本殿については、従来、技術的に困難であるとして、単なる伝説であり、史実ではないとする説が強かったようですが、近年、昔の本殿の巨大な柱(丸太3本を束ねたもの)が境内から発掘されたこと等もあり、最近では、歴史的事実として認める説も有力のようです。

もっとも、昔の技術で16丈の高さにするには無理があったためか、文献上、しばしば本殿の転倒事故が起きているのが確認できるとのこと。

神代の32丈(約96m)の本殿については、さすがにこれを信じている人は少ないようですが、土を盛って人工の丘を作り、そのうえに建物を建てることにより、麓からの高さで32丈を確保したとの説もあるそうです。ここまでくるとほとんど頓知話ですね。

本殿のうえは大渋滞で、一旦、縁側を右側に回り、後方を巡って、最後に正面に回り込み、本殿内部を除きこんで、降りるというコースになっていました。
正面に回るまで15分ほど縁側で待たされることになりましたが、本殿上にとどまれる時間がその分長くなるわけですから、悪くない話です。

普段は玉垣の外からしか覗けない、本殿の周囲の建物の桧皮葺の屋根も、今は、私の眼下にあります。私がこの光景を見るのもこれが生涯で最後、若しくは、50年以上先の次回の修理のときだろうと思うと、有難味もひとしおです(数年後に修理が完了した際に、もう一度特別公開をやるという落ちになるかもしれませんが)。

写真撮影禁止なのが泣けてきます。ようやく正面に回り、縁側から内部を覗き込みました。さすがに中には入れてもらえません。神様の家ですから。

本殿の中央には文字通りの大黒柱(仏教の守護神であった大黒天と大国主命はもともと別の神様ですが、「大国」が「ダイコク」と読めるということで、次第に混同されるようになりました。袋をかついだ七福神の大黒様は大国主命のイメージから来ています。

また、事前情報として知っていましたが、大国主命の御神像を収める御神座は何故か正面ではなく、右側(拝観者から見て左側)を向いていて、参拝者の方を向いていません。

理由については争いがあり、中には、「出雲大社は大国主命の宮殿ではなく、その霊を封じ込める牢獄である」というおどろおどろしい説まであるようです。
更に天井には極彩色の「八雲」が描かれているのが見えます。もっとも、「八雲」であるにもかかわらず、何故か描かれている雲は7つだけです。

疑問に思って、説明の方に話を聞くと、昔から7つしかないけど「八雲」と呼ばれているとのことでした。残り1つは心眼で見るのでしょうか。そういえば、八岐大蛇(やまたのおろち)も、頭が8つだから七股なのに八岐と呼ばれていますね。

「八雲」は兎も角として、本殿の内部は、外観と同様全体的には簡素で装飾性が少ないという印象でした。

本殿の参拝が終わった後、改めて境内をノンビリと歩きます。特に印象に残ったのは、本殿の東西にあった十九社という細長い建物で、毎年11月に全国から出雲に神様が集まってくる際の宿舎になる社ということのようです。

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 また、出雲大社のすぐ近くには県立の歴史博物館もあります。上で述べた発掘された昔の本殿の柱に加え、加茂岩倉遺跡(一箇所の遺跡から最多の銅鐸が発見されたことで有名)から出土した銅鐸、荒神谷遺跡(358本という常識外れの大量の銅剣が発掘されたことで有名。

勿論、国内最多。)から発掘された銅剣もまとめて見る事ができます。巨大なガラスケースの中に300本以上の銅剣が並ぶ様にはあっけにとられます。

 本殿の修理が終わるまで、まだ、時間がかかりますが、機会があれば、一度、出雲の地に行かれてみてください。(終)

2009年12月22日

◆私の「古寺旧跡巡礼」仏隆寺

〇(奈良県宇陀市)              
石田 岳彦

まず、見えてきたのは、参道の階段の両側を飾る鮮やかな彼岸花の群れ。 

近鉄大阪線榛原駅から1時間に1本のバスで高井バス停まで。さらに20分以上歩いて(微妙に登りのうえ、歩道も整備されていないので、時間以上に疲れます。)ようやく到着しました。

交通の便の悪さもあり、観光ガイドにはまず載っていませんが、思いのほか人が多いです。駐車場にも多くの自動車がとまっています。おそらく彼岸花目当てで近隣の県から来た人たちでしょう。
彼岸花畑.jpg
(写真―彼岸花畑)

仏隆寺は山1つ超えたところにある室生寺の末寺です。室生寺までの道がハイキングコースにもなっていて、「室生寺まで〇km」といった立て札も見えます。

お寺の創建については、平安時代に空海の弟子の堅恵(けんね)が建てたとか、それ以前に別の僧侶が建てていたとか、幾つか説があり、はっきりとしないそうです。

いずれにしても地味な(失礼)縁起ですが、その分、リアリティは感じます。

地方の比較的小さなお寺の縁起話に聖徳太子や行基菩薩が出てくると(「言うだけなら只だと思っているだろう。」と思わず突っ込みたくなるくらい、よく聞きます。)、
それだけで眉唾ですから。

階段を上る途中の右手に桜の大樹があります。「千年桜」と呼ばれているそうで、確かに千年生きていそうな堂々たる姿です。花の季節にもう一度訪ねてみたいですね。

百年桜.jpg
(写真―百年桜)

もっとも、文化財ファンの私のお目当ては実のところ、彼岸花でも千年桜でもありません

(そもそも彼岸花の名所ということも、千年桜の存在も知らずに仏隆寺に来たわけですが、それでいて、偶々、彼岸花の綺麗な季節にやってくることになったのは、幸運でした。
御仏のお導きでしょうか。お賽銭を少し多めに入れておきましょう。)。

本堂の右奥にある石造りのそれは、石室と呼ばれています。そのまんまです。

立方体の上に四角錐の屋根を載せたような形をしていて、正面中央に狭い通路があり、内部に入ると、一番奥の窪みに小さな石塔がすっぽりと収まっています。この塔が上記の堅恵のお墓といわれているそうです。

石室.jpg
(写真―石室)

世の中には、比較的きれいにピラミッド状になっている山を人工物だと決めつけて「日本のピラミッドだ!」と騒いでいる人も少なからずいるようですが、丸ごと石造りで、(上の方のみだけど)

四角錐になっていて、しかもお墓ということを考えれば、仏隆寺の石室こそ、「日本のピラミッド」の名にふさわしいかも知れません。サイズはかなり可愛らしいですけど。

境内には他に鎌倉時代末の十三重石塔と大和茶発祥の地という記念碑があります。
空海が唐から茶の種を持ち帰ってこの地で栽培したそうで(最澄にも似たような話があり、大津市坂本に日本最古の茶園の記念碑があります。)、
現在に至る大和茶の起源となったとのことでした。
交通の便は悪いですが、見所はそれなりにあります。車で行くか(その場合、かなり遠回りになりますが)、ハイキングを楽しむ時間と体力の余裕があれば、室生寺とセットで見て回るのも楽しいかも知れません。(完)

2009年12月11日

◆私の「古寺旧跡巡礼」住吉神社(山口)

<石田岳彦>

一) 住吉神は、あまり知られていませんが、1柱の神様ではなく、「底筒男神(そこつつおのかみ)」、「中筒男神(なかつつおのかみ)」、「表筒男神(うわつつおのかみ)」という3神の総称です。
そして、住吉神を祀る神社の総本社といえば、当然、大阪の住吉大社です。

もっとも、住吉大社は必ずしも最古の住吉神社ではありません。

日本書紀によれば、仲哀天皇の未亡人の神功皇后が、住吉神の神託に従って朝鮮半島に遠征して凱旋帰国し、まず、「穴門(あなと)の山田邑」に住吉神社を建てたと記されています。

更に日本書紀では、その後、神功皇后が近畿に帰り、留守中に起こった皇族の反乱を、やはり住吉神の助けを借りて鎮圧し、そのお礼として住吉大社を建てたとされているので、住吉大社よりも前に、少なくとも「穴門の山田邑」の住吉神社が存在したことになります(なお、最古の住吉神社としては、福岡市博多区の住吉神社を挙げる学説が有力なようです。)。

そして、今から述べます下関市にある住吉神社がこの「穴門(長門)の山田邑の住吉神社」と目されているそうです。

ただし、神功皇后の実在自体に争いがあるので(継体天皇以前の古事記や日本書紀の記載をどこまで信用するかについては学界で争いがあるそうです。)、あくまでも伝説の中ではということになりますが。

二)JR新下関駅は、山陽新幹線の開業前は「長門一ノ宮」という駅名でした。

この「長門一ノ宮」とは長門の国で最も格式の高い神社という意味で、要は住吉神社を指しています。新下関駅からバスで10分足らず、バス停から更に少し歩いたところにある森。そこが住吉神社です。

この神社の見所は、室町時代初期に守護大名の大内氏により再興された国宝の本殿で、九間社流造という変わった形をしています。

ここで「九間」とは、庇を支える柱の間が9つ(つまり柱は10本)という意味になります(京都の三十三間堂も同様に柱の間が33という意味です)。

他方、「流造」というのは、切妻平入(「切妻」とは屋根の形状です。本を半開きにして、開いている方を下にして置いた形を思い浮かべてください。また、「平入」は長方形の建物の長い辺の側に入り口のあることです。)の建物の正面側の屋根を前方に長く延ばして、それを柱で支えて庇(向拝)にしたものです(横から見ると、屋根が「ヘ」型です。)。

流造自体は神社の本殿としては極めてメジャーな形状で、現在日本にある神社の過半数がこの形式の本殿といわれているそうです。

しかし、通常、流造の神殿は小型のもので一間、中型から大型のもので三間という場合が多いので、九間というのは、神社の本殿として異常なほどに横幅が広いということになります。

とりあえず、百聞は一見に如かずで、写真をご覧ください。1枚の写真に収めようとすると、横に長いうえに、前の拝殿が邪魔(毛利元就のこさえた重要文化財の拝殿に対して失礼な言い草ですが)になる関係で、空撮でもしない限り、真横に近い方向からの撮影を余儀なくされます。

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構造的に見ると、一間社流造の神殿を横に5つ並べて、屋根を繋ぎ合わせて1つにしたものです。

また、各神殿の正面には千鳥破風という三角形の飾りがそれぞれ設けられていて、視界の左右いっぱいに延びる桧皮葺の焦げ茶色の屋根(これを美しいと思えるか否かで、古社寺巡りを楽しめるかどうかが決まるというのは言い過ぎでしょうか?)の上に整然と5つの千鳥破風が並ぶという、おそらく日本ではここだけという偉観を作り出しています。

5つの神殿には、向かって左側の第一殿から順に、住吉神の荒魂(神々の荒々しい側面を指します。対義語は和魂−ニギタマ−です。)、神功皇后、応神天皇(神功皇后の息子)、武内宿禰(神功皇后の功臣)、建御名方命(タケミナカタノミコト。大国主命の息子で、諏訪大社の神様)が祀られているそうですが、建御名方命だけは住吉神や神功皇后との繋がりがよく分かりません。何故でしょう?

下関に行くのであれば、この住吉神社は一見の価値ありです。私のように古い建物が好きな方なら、この神社自体を目的に下関に行かれてもよいかと思います。

なお、平成22年1月より本殿の屋根の葺き替えが行われるそうなので、参拝される方はご注意ください。同年11月ころには葺き替えが終わるそうなので、それに合わせて行ってみるのもよいかもしれません。
(終)

2009年11月30日

◆私の「古寺旧跡巡礼」 当麻寺B

石田岳彦


3koudou.jpg(講堂)


さて講堂へと移動します。講堂も瓦葺で、寄棟、平入りですが、本堂に比べると一回りほど小さく感じます。講堂の中には、ずらっと2列で阿弥陀如来×2、千手観音、地蔵菩薩、不動明王、多聞天・・・・。
  
このラインナップを見て、だから何だと思った人はお寺巡りの初心者です。このラインナップを見て、その組み合わせの必然性の無さに疑問を感じた人は中級者です。このラインナップを見て、なるほどと思った人は上級者です。多分。

お寺の方の説明にもありましたが、明治初期の廃仏毀釈で多数のお寺が廃寺になった際、つぶれた寺院の仏像が生き残った寺のお堂にまとめて押し込まれるというケースがしばしばあり(近畿地方の古寺を回っていると、誇張抜きに、しばしば出くわします)、この講堂のやたらと脈絡のない顔触れも、要するにその名残というか、傷痕ということになります。

講堂の南隣には金堂があります。こちらは入母屋屋根(文章での説明はややこしいので、ググってください)です。正面入り口は南側ですが、何故か拝観者には北側の裏口が開放されていて、そこから入って、正面に回り込む形になっています。

6kondou.jpg(金堂)


 金堂の中には、国宝の弥勒仏像と重要文化財の四天王像がまつられていますが、本尊の弥勒仏坐像は頭でっかちで、造形的にはあまり美的感覚を刺激されません。

しかし、この仏様こそが当麻寺の本来のご本尊で、7世紀後半の白鳳時代の作だそうです。ここで「弥勒仏」とは、弥勒菩薩が遠い未来において悟りをひらき、如来になった後の姿を指します。

実は、「弥勒仏」の像は、他に興福寺の北円堂や東大寺などにあるくらいで、作例が少なく、結構、レアものだったりします。

他方、周囲を囲む四天王立像は、説明書によると、現存するものの中では法隆寺金堂のものに次ぐ古い四天王像だそうですが、4人全員が見事なまでのアゴヒゲを生やしていて、やたらと男臭い像になっています。

 私はこれまで様々な四天王像を見てきましたが、ここまで「濃い」アゴヒゲを生やした四天王像というか仏像はこれ以外に見たことがありません。

一見の価値ありです。ただし、やたらとインパクトがあるので、一度見てしまったら、忘れたくても忘れさせてくれないかも知れません。

上でも述べたように2基の三重塔はそれぞれ1段高い斜面上にあります。塔の一層目には仏像が祀られているそうですが、基本的に開扉はなされていません。

もっとも、来年(2010年)は平城京遷都1300年祭関係のイベントとして、特別に東西の塔の開扉が行われるという話です。今から楽しみです。

4higashi.jpg(東塔)5nishi.jpg(西塔)

 本を見ると、古代に建てられた東塔と西塔が揃って現存するのは当麻寺が唯一とありますが、両塔は同時に建てられたものではなく、東塔が奈良時代末、西塔が平安時代初めだそうで、屋根の組み物や、窓の有無など、デザイン的にもかなり違ったものになっています。

他に中之房、奥の院といった塔頭も公開されています。真面目に見て回ると半日がかりです。

当麻寺から少し歩いたところには中将姫の墓とされる石造の十三重塔があります。ちなみにこの塔は鎌倉時代の作らしいですが(中将姫は上記のように奈良時代の方です)、無粋なことはいいっこなしです。
(当麻寺編・終)
<弁護士>                  
                       

2009年11月29日

◆私の「古寺旧跡巡礼」 当麻寺A


石田岳彦


2hondou.jpg(本堂)


当麻寺は、境内の南側に2つの三重塔があり、その北側に金堂、更にその北側に講堂があるという、薬師寺と同じ伽藍の配置ですが、スペースが足りなかったのか、敷地の南側は丘になっていて、2つの塔は斜面を削り取って造成された高台に建てられています。

しかも、金堂と講堂の西側に本堂が東向きに建っていて(講堂と金堂は南向き)、大門(正門)が南ではなく、東側にあり(金堂ではなく、本堂に合わせているようです。)、更に金堂と東西の塔の間に2つのお坊が割り込み、西塔と東塔の間にもやはりお坊が建てられるなど、平地に整然と建物が並んでいる薬師寺に比べて、かなりのカオス状態です。

そこに見えている2つの三重塔に境内案内図で通路を確認しながらでないと辿り着けないというのですから、何時か、何処かで、何かを間違えてしまったに違いありません。

 金堂とはその寺のご本尊となる仏像がまつられているお堂で、本堂とはその寺の中心的なお堂をいいます。講堂は仏法についての講話を聴くための場所となるお堂です。

 古代からの寺院の場合、法隆寺、東大寺、興福寺、薬師寺、唐招提寺等のように、金堂はあっても、本堂とはされていない(つまり、その寺院に「本堂」と呼ばれる建物がない)ことが多いようです。仏舎利をまつった塔が伽藍の中心という考えが強かったためでしょうか。

 他方、比較的新しい時代のお寺では、金堂=本堂で、単に「本堂」と呼ぶことが多く、いずれにしても、金堂とは別に本堂があるという当麻寺のようなお寺は珍しいです(ざっと調べた範囲では、有名な寺院だと、他に室生寺くらいです)。

 もともと当麻寺は、聖徳太子の異母弟の麻呂古王(日本書紀によると当麻氏の祖とされています)が開いた寺を、当麻国見(たいまのくにみ)が現在の地に移したとされる(あくまでも寺伝で、実際のところはよく分かっていないようです)、金堂を中心とするお寺でした。

 しかし、後世に中将姫伝説が有名になってしまい、もとから存在した金堂とは別に、中将姫お手製の曼荼羅をまつったお堂(曼荼羅堂)が「本堂」に昇格してしまったため、「金堂」と「本堂」が並存するという珍しい状態になったようです。

本堂にある受付にいって、本堂、金堂、講堂の拝観共通券を買います。国宝の本堂は瓦葺で、寄棟造(屋根の形状で、棟から4方向に傾斜する屋根面を持つもの)、平入り(床が長方形の建物で、広い辺の側に入り口があることをいいます)と、仏教寺院の本堂としては、オーソドックスな形をしています。

上記のように中将姫の織った曼荼羅をまつるお堂で、奈良時代末から平安時代初期に建てられたものが、平安時代末期に改造されて現在の姿になったということです。

 本堂の中央に立派な須弥檀(しゅみだん)があり、その上にやたらとでかい厨子が載っています。奈良時代末から平安時代の初期に作られたものといわれているそうです。

 厨子の中に飾られている曼荼羅(約4m×4mというでかさです。厨子がでかくなるのも当然です)は、まさしく中将姫により織られた伝説の曼荼羅・・・ではなく、残念ながら、室町時代に作られた複本ですが、それでもかなりの古さを感じさせます。というか、相当に傷んでいます。

ちなみにオリジナルは更に傷みが激しいらしく、原則として非公開になっていて、私もいまだに実物にお目にかかったことがありません。オリジナルの写真を見ましたが、思わず「傷み」を「悼み」と誤植したくなるくらい、相当に傷んでいます。

 阿弥陀様が中央に座っていて、その周囲を多くの菩薩が囲み、後方に描かれた横長の建物は平等院鳳凰堂のモデルになったということですが、退色に加え、曼荼羅の上に金網が張られているので、細かな部分までは分かりません。

ちなみに厨子の蓋(現在残っているのは鎌倉時代に作られた後補のものですが)は取り外されていて、時々、奈良国立博物館に展示されています。黒漆の地に金蒔絵というシンプルながら豪華な一品です。

 厨子の右側には中将姫の念持仏と言われる十一面観音像がまつられており、弘仁時代(平安前期。810年−823年)の作といわれています。

「奈良時代に亡くなったお姫様が、何故、平安時代に作られた観音様を拝めたのだろう?」という素朴な疑問は忘れて、素直な心でお参りしましょう。歴史考証というものは、少なからずロマンと対立するものです。(つづく)  <弁護士>                                          

2009年11月28日

◆私の「古寺旧跡巡礼」 当麻寺@

石田岳彦


<私は大阪で弁護士をしています。大学生時代からの趣味で、社寺、名勝、旧跡から、明治以降のいわゆる近大遺産まで、九州から東北まで(そのうち北海道にも行きたいです)、「歴史的なもの」を見て回っています。今回「私の古寺旧跡巡礼」と題して綴ってみました>。
 
さて本題―。奈良県葛城市(旧当麻町)にある「当麻寺」というのは、不思議なお寺です。

国宝の仏像、曼荼羅、厨子、本堂、2基の三重塔、梵鐘、重要文化財多数を持っているという文化財の宝庫で、「古寺巡礼」、「日本の寺院100選」といった書籍、雑誌の特集があれば、必ず名前のあがるという古寺巡りや古文化財のファンの間では常識というか、知らない人はもぐり扱いされるという有名なお寺ですが、世間一般の知名度は高くないようです。

 おそらく、奈良、飛鳥、斑鳩という奈良県内のメジャーな観光地から離れたところにあるので、観光客が少ないことが原因でしょう。観光ガイドの扱いも微々たるものです。

もし、奈良市内にあれば、東大寺や興福寺は無理でも、薬師寺や唐招提寺なみにはメジャーになれたであろうという、ある意味とても不運なお寺といえます。

もっとも、奈良市内にあったならば、上記の文化財の少なからずが、戦火に巻き込まれて灰になった可能性もありますが。

ところで、当麻寺の最大の売り物(?)は、中将姫伝説です。

中将姫は、奈良時代の貴族のお姫様で、継母に度々、命を狙われるという苦難を乗り越え、阿弥陀如来の導きによって極楽浄土の光景を描いた曼荼羅を織り上げ、極楽浄土へ旅立ったとされる伝説上の人物です。

これが、「本当は怖いグリム童話」なら、シンデレラのように、継母の目を鳩がほじくったり、或いは、白雪姫のように、継母に焼けた鉄の靴を履かせたりといった感じのハッピーエンドになるところですが、そういう物騒な展開はありません。仏教説話ですから。

 継母がその後、地獄に落ちて、閻魔様に舌を抜かれるという因果応報的な後日談はあるかも知れません。仏教説話ですから。

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(蹴速塚)


近鉄南大阪線の当麻寺駅を出て、まっすぐ西を目指します。駅から出発してまも無く、右側路傍に当麻蹴速(たいまのけはや)の墓、とされる五輪塔があります。

 この蹴速は、垂仁天皇の時代の人で、天下最強を宣言して挑戦者を募っていたところ、垂仁天皇の命で、出雲からやってきた野見宿禰(のみのすくね)と相撲をとることになり、宿禰に蹴り殺された(当時の相撲は今よりもかなりバイオレンスなルールだったようですね。)という、色々な意味で「痛い」人です。

もっとも、垂仁天皇(日本書紀等の記述によると紀元前1世紀から1世紀にかけて在位。卑弥呼よりも前です。)自体、実在が危ぶまれている状況ですので、この話も歴史というより、伝説の部類です。

この蹴速と宿禰の対戦が、わが国の相撲の始まりとされているそうです。すぐ近くに相撲館という、相撲資料館まで建てられています。中将姫と当麻蹴速とおぼしき男女のかわいらしいキャラクターのイラストがポスターに載っていました。今、はやりのユルキャラというやつでしょうか。余計なお世話だと思いますが、かなり幸の薄そうなカップルです。

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(鐘楼)


駅から歩いて15分ほどで大門に着きます。境内の東端に建っている楼門で、古寺にふさわしい風格です。大門を入ってすぐ、正面には鐘楼があります。国宝の梵鐘を「吊ってある」お堂です。

「吊ってある」というのは、一見、梵鐘が吊られているように見えますが、実は下に台が設けられていて、梵鐘はその上に置かれているからです。以前にお寺の方から聞いた話では、十数年前まで当麻寺には鐘楼は存在せず、梵鐘もいずれかのお堂に置かれていたそうです。

その後、鐘楼が再興され、それに合わせて梵鐘を鐘楼に吊るすことになったものの、いざ、吊るそうという段になって、龍頭(梵鐘を吊るすための上部にある輪状の突起)にひびがあるのが発見され、吊るすことができなくなってしまいました。

にもかかわらず、「せっかく再建したのだから鐘楼に梵鐘を飾りたい」ということで、こうなったようです。観光ガイドにも載っていない、思いっきりどうでもよいトリビアといえます。(つづく)

<福岡県福岡市出身、福岡県立修猷館高等学校、京都大学法学部卒業
大阪弁護士会・弁護士>