渡邊好造
山科だよりの「昆虫標本�@〜�D」について、読者諸氏から非難と質問を頂戴した。
非難は、『虫嫌いにとってこんな気持ちの悪い記事はない。書き手も採用した編集者も悪い』というのだったが、勿論本誌の編集者にまったく責任はない。
蚊が飛んでいても寒気がする人。蛇は写真を見ただけで気持ちが悪くなる人。反対に蛇が大好きで青大将をポケットにいれて可愛がるくらいなのに、蜘蛛をみると体長5ミリの小さな"イエグモ"でも「わ〜!」と叫び逃げ回る人。石やガラスを擦り合せる音に寒気を覚える人。昆虫標本作成を趣味としながら蝶と蛾の鱗粉(翅の粉)が苦手な人。
”鍋物”の食事は高級料亭は別にして普通の店では絶対に食べない人--高級料亭だと仲居さんが個別に椀によそってくれるからいいが、自分以外の他人の箸が入る鍋、それが気持ち悪いというのである。その同じ人が美人ホステスの侍る高級クラブでは周りの女性とやたらキスをしまくるのだから理解に苦しむ。
まさに人それぞれである。昆虫標本シリーズのスタート時に「虫嫌いの人ごめんなさい」と一応断りをいれたものの、日本中に昆虫館があるくらいだから、非難されるとは思いもしなかった。まあこんな趣味もあることを知ってほしかっただけのこと。
さて質問の方だが、高校時代以来の友人からのメールに『"バカの壁"の著書で有名な養老孟司氏は、幼少時に微細に描かれた昆虫の本(ファーブルらしい)を教材にして丁寧に説明してくれた先生がいて、それが解剖学の今の仕事に繋がった、とNHKのテレビ番組でいっておられた。君の場合、昆虫標本作成にのめりこんだキッカケはなんだったのか、、?』とあった。
養老先生も、江戸東京博物館「大昆虫博」の開催(本年6〜9月)に尽力されておられることからみて、大の昆虫贔屓らしい。
筆者の場合以下のような経緯があり、その後の仕事にも活きている。
昆虫標本の作成を始めたのは終戦の翌昭和21(1946)年のこと。大阪市東住吉区の小学生だった頃、8歳年長の先輩に見事に整理された数箱の昆虫標本を見せられて以来である。この時、昆虫てこんなに美しいものか、と感動を覚えた。
最初に作った標本は道路に落ちていた「アシナガバチ」で、縫い針を刺して手製の標本箱に入れて眺めていると益々本格的にやってみたいと思い、先輩に教えを請うことにした。
捕虫網は母親にステテコを細工してもらって針金を通し竹の棒にとりつけた。殺虫瓶にナフタリンや樟脳を使うも効き目は遅い。効き目が遅いと採った虫同士の食合いでバラバラになる。現在はベンジンを脱脂綿に染みこませているが、当時はベンジンも高価だったしすぐ蒸発し効率が悪かった。
メッキ工場で使う猛毒薬"青酸カリ"が安価で効果的だとわかり知人から譲りうけた。"青酸カリ"は、発生ガスで虫を殺す。日がたつと殺虫瓶の中でドロドロになるので石灰を混ぜて固める。今思えば乱暴な話だが、素手で触っていても舐めなければいい位に軽く考えていた。
大量に保管していた"青酸カリ"はその後燃やして"塩"に変化させ処分した。
その折、昆虫標本作成にとりつかれたのは筆者の他に1歳下の2人。しかし、昆虫を飯の種にしたのは指導してくれた先輩だけ。大学農学部で樹木の害虫「アメリカシロヒトリ」、稲の害虫「ニカメイチュウ」の研究を続けて農薬会社に入社し、最後は大学農学部教授まで勤められた。
教えられた方、ひとりは大学農学部卒業後キリスト教の牧師、もうひとりは工学部から関西大手電気メーカーの役員。筆者も昆虫は高校でストップ、社会学を専攻し社会調査が本業となった。昆虫転じて社会調査が本業とはなんの脈絡もないようだが、昆虫採集時の統計学が人間行動の統計学に転化したのである。
筆者が最初に勤務した広告代理店調査部で統計数字の読み方、社会調査結果の文章をチェックしてくれたのは2回り年長で新聞記者から転じた上司であった。その時の経験が今日に活きている。
そして、今から10年程前の定年リタイヤ後、山科疎水道をウオーキング中に見かける甲虫類の名前は図鑑なしでも全部覚えていたこともあって、幼少時に取付かれた魅惑にまたもや火がついた次第である。
振り返ってみると、人生とは不思議なものだとつくづく感じる。昆虫標本の作成にのめりこんだがために、物書きを仕事にすることになった。本誌の読者の皆さんとの接触が始まったのはそんなわけである。(完)