渡邊好造
拙宅周辺の旧跡には各方面からの観光客が地図を頼りに訪れるが、いずれもハイキングスタイルが多く、京都の中心地、例えば鹿苑寺金閣、京都御所、清水寺の訪問客のような軽装でないのが特色である。
周辺はれっきとした住宅地なのに、とこれまでは不思議に思っていた。一つには京都市の観光案内の記述が目的地までアップダウンがあり、交通機関を降りてすぐでない個所が多いと書かれている所為もある。それと、私が現住地に移転した頃は足腰に自信があったので、駅からの上り坂が気にならなかっただけのこと。最近はハイキングコースも納得である。
そんな拙宅周辺半径1キロの見所を写真を添付しての紹介2回目で、前回「山科だより・琵琶湖疏水」の続編。
1) 山科第1疏水の第2、第3トンネル入口と出口の扁額(写真左・第2トンネル出口)
約11キロの琵琶湖疏水とそれに付帯する12か所の施設は、その全てが平成8(1996)年に国の重要文化財に指定された。うち5か所は山科近辺を流れる通称・山科疏水にある。これが第1疏水で明治23(1890)年に完成した。第2疏水は、依然にも触れたように第1疏水のすぐ北に明治45(1912)年暗渠として造られた。
第1疏水は発電と灌漑用、第2疏水は上水道用である。琵琶湖から京都へ灌漑用の水を引くいてはとのアイデアは、豊臣時代からあったらしい。主目的は多少違うものの、約3百年後に実現したわけである。
第1疏水には3つのトンネルがあり、それぞれの出入口に明治政府要人の筆による扁額(石額)が残されている。扁額は、中国古来の扁書体(字体から雫が垂れているような特殊文字)で書かれている。政府要人を動員してわざわざ書かせた扁書体文字、ここにも東京には負けられないとの京都の意気込みが窺える 。
第2と第3トンネルは、拙宅から200メートル以内にある。
第2トンネルの入口には、明治時代の初代総裁・伊藤博文のもとで外相、蔵相を歴任した井上 馨・筆の「仁以山悦智為水歡(じんはやまをもってよろこび、ちはみずをもってなるをよろこぶ)=仁者は動かない山をもってよろこび、智者は流れゆく水によろこぶ」とある。
同トンネルの出口には、明治の軍人で西郷隆盛の弟・西郷従道・筆の「随山到水源(やまにしたがいすいげんにいたる)=山に沿っていくと水源にたどりつく」。
第3トンネルの入口には、明治政府の財政を担当し日本銀行を創立した松方正義・筆の 「過雨看松色(かうしょうしょくをみる)=時雨が過ぎると鮮やかな松の緑がみられる」。
詳細は省略するが、第3トンネル出口には三条実美(内大臣)、第2トンネルから3キロほど上流の第1トンネル入出口には伊藤博文 と山県有朋(内大臣)らが、扁額に揮豪している。
2) 日本最初の鉄筋コンクリート製の橋(写真右)
山科第1疏水の第3トンネルの東出口をでたところに、中央が少しふくらむアーチ型の幅1メートルほどの橋がある。これが日本最初の鉄筋コンクリート製の橋で、琵琶湖疏水建設工事の中心技師・田辺朔郎が外国の技術援助なしに建造した。
田辺は東京工部大学(現・東京大学工学部)卒の技師で疏水完成時は29歳、京都帝国大学(現・京都大学)の教授を務めた。
西洋文明の工業技術を鵜吞みにすることなく、独自の新たな方向性を見出し、咀嚼し完成させていったのが明治維新後の日本であり、わずか百年余りで先進国西洋にあらゆる面で追いついた秘訣がここにある。その後建造された山の谷橋、トンネル出入口の扁額はすべて国の重要文化財に指定されている。
山科は日本の近代工業技術の発祥の地であるといっても過言ではない。
橋は今も利用されていて建造当時は欄干がなかったが、現在は転落防止用の柵が設置されている。安全上無理もないとはいえ柵の色(茶)、形状(直線)は、周囲との調和をもう少し考慮すべきではなかったか。(完)