毛馬 一三
「蕪村公園」は、大阪市毛馬町の毛馬桜ノ宮公園の北端、毛馬閘門近くの大川沿いに大阪市が平成20年に造営した。
これで、都島南端、川崎橋あたりまでの毛馬桜ノ宮公園迄との道筋が完成することになり、春に桜の咲くころには大川河畔が新名所として市民が楽しむことが出来るようになった。
与謝蕪村は、松尾芭蕉、小林一茶と並んで江戸俳諧を代表する俳人だが、その蕪村の生誕地が何処かということになると、あまり知らない人が多い。
蕪村は、享保元年(1716)に大阪毛馬村の裕福な農家の主人と奉公人の母との間に生まれた。家督を引き継げない私生児にすぎなかった。その上不幸にも幼くして両親が亡くしため、家人から総いじめされたからか、この辛苦に耐えられず、蕪村は20歳の頃(18歳の説も)毛馬村を出奔して、江戸に出奔を決意。家出して京都に向かった。
京都で人生を定めることになると人物と出会っている。それが俳人早野巴人だった。早野巴人を師匠として俳句を学びながら一緒に暮らしていたが、その後、二人は江戸に旅たった。
江戸では、早野巴人の真弟子として俳諧の世界に没入したが、頼りにしていた早野巴人師が急没して仕舞った。蕪村が26歳の時だった。師匠の急逝を悲しみつつも、新しい「俳句の世界」へ身を投じなければと決断。かねてから愛着のあった芭蕉俳句を追求するため、芭蕉が訪ねて廻った奧羽地方を放浪した。
宝暦元年(1751)になって、京に移り俳諧に挑む一方、南宋画家として励み、池大雅と並ぶ名声を得るようになった。その上、蕪村は、早野巴人を継いで「夜半亭」(初代巴人)主宰となった。
蕪村は京都で68歳の生涯を閉じたが、終生故郷の毛馬村には一度も帰っていない。しかし蕪村にとっては、生まれ故郷毛馬村の「慕情」は消えることは無く、この想いを脳裡に巡らせながら、書き記した「春風馬堤曲」がある。奉公娘の帰省の物語になぞって書き綴り、俳句を添えて「望郷」の念を一気に発散させている。
いまだに大阪には、蕪村に関する「伝承文献」は皆無だ。しかも明治19年に政府による淀川の河川改修工事によって毛馬村が総て埋め尽くされたため、生誕地の痕跡も一切残されていない。これが長い間、大阪俳人の蕪村を顕彰することが出来なかった主因なのだろう。
しかし、明治になり正岡子規が「蕪村俳句」を顕彰するようになったが、それでも地元大阪では依然として関心が薄く、蕪村顕彰には誰も手を付けなかった。
そこで、10年ほど前地元の有力市議会議員と私は共同して「蕪村顕彰公園」建設を大阪市政に働きかけました。大阪俳人蕪村を大々的な顕彰しようという運動は、嬉しいことに活発になりだした。
この運動も契機となり、大阪市は平成18年度から2年計画で、前述の「記念碑」と「春風橋」の中間にある市有地1.1hrの土地に、約2億5千万円をかけて「蕪村公園」を整備することを決定。
同「蕪村公園」には、公園の中央に大広場、公園全体に「蕪村俳句石碑」の建立、「自画絵、春風馬堤曲」などの「蕪村説明写真集」の掲示、公園全体には樹木植栽をする計画が立てられた。大阪輩出の与謝蕪村名を高揚し、文化集客地にしたいと大阪市は考えたのだ。
同公園は、重要文化財の「毛馬閘門」の側にあり、有名な「毛馬桜の宮公園」の北端に位置して、市の中心地中之島に通じる大川沿いの「桜回廊」の出発点になっている。「屋形船」や「遊覧船」の折り返し地点でもある。
いまや、同公園の建立で、大川沿いの見事な桜回廊と繋がった一連の観光名所として、集客効果が期待されている。
どうか、大阪市毛馬村の「蕪村公園」を是非お訪ね頂きたい。皆様のお力をお借りして、蕪村俳句の後世への継承と俳句文化を世界へを広める活動に、今後取り組んでいきたい。
(了)
◆本稿は、1月5日(土)刊:全国版メイル・マガジン「頂門の一針」2838号に
掲載されました。
<2838号 目次>
・米国製憲法の「決定的証拠」:西村眞悟
・選挙協力は維新の意思統一が焦点:古澤 襄
・「こんにちは!鶴蒔靖夫です」:加瀬英明
・テレビと認知症 関係ある:平井修一
◆「蕪村公園」をご存知?:毛馬一三
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