平井 修一
「支那」というのは地域の名称である。「アメリカ」と一緒で、北米だけでもその地の国としては米国とカナダがある。本来は中国とは中共という国のことで、日本では昔から近畿以西の本州の一部を中国と呼んでいたから、ちょっと表現としてはおかしい。地域を示すのなら、やはり支那の方がいい。
支那はどの辺を指すのかというと、支那文化の発祥地とされる黄河中流域を中心としたところで、中華(世界の中心)とも言い、漢族が多い。周辺の「夷狄」(いてき)の地とは区別される。
夷狄とは漢族が辺境の異民族に対してつけた蔑称で、支那中華文明・文化のおよばない化外の蛮族、野蛮人、未開人という意味であり、地域によって東夷、北狄(ほくてき)、南蛮、西戎(せいじゅ)と呼んだ。
日本は地域としては東夷の倭(わ)、民族は倭人と呼ばれた。倭は「背が曲がって丈(たけ)の低い人」を意味するようで、北方の遊牧民族は匈奴(きょうど)であり、なにやらまがまがしい印象だ。
史上はじめて支那を統一したのは「秦」で、東北(満洲)方面の蛮族の侵攻を防ぐために秦始皇帝は「万里の長城」を着工し、大部分は「明」代に造られた。以来、長城の内(南側)を「関内」、外(北側)を「関外」と言った。
秦は西戎の羌(きょう、西方の遊牧民族)の王朝で、「隋」「唐」も鮮卑拓跋部(せんぴたくはつぶ、北部の遊牧騎馬民族)が出自だという。「宋」は突厥(とっけつ、中東のトルコ系)、「元」は蒙古族が建てた。漢民族が建てた統一王朝は「漢」「明」、それに現在の「中共」くらいしかないようだ。支那における異民族支配は別に珍しいことではなかった。
女真(じょしん)は、満洲の松花江一帯から朝鮮半島北部にかけて居住していたツングース系民族である。今の中共の遼寧省、吉林省、黒竜江省の東北3省あたりの民族で、10世紀ごろから記録に現れ、17世紀に民族とその地を「満洲」と改めた。
明末にこの満洲族が勢いを得て1616年に「後金」を建国した。女真族王朝である「金」の後裔だから「後金」と名乗った。明との間で長城の東端の山海関をめぐり死闘が繰り返されたが、明の遺臣の手引きにより山海関を越え、満洲族による支那支配が始まった。民族名の変更に伴って1636年には国号を「清」と改めた。
漢人にとっては「異民族支配」だが、それは別に珍しいことではないし、彼らにとって最も大事なことは「私欲・満腹・蓄財・拝金」で、自分(と家族)がうまくやっていければいいのであり、愛国心はまったくないから支配者が誰であろうとあまり気にしないようだ。
旧い支配者が去って新しい支配者が来れば迎合して「私欲・満腹・蓄財・拝金」のチャイニーズドリームをひたすら追求するというのが漢族の生き方なのである。強い者につくことを「事大主義」というが、そういう民族であることは今も変わらず、中共政権下でも「上に政策あれば下に対策あり」という民族なのだ。
「忠君愛国」「大義のために死す」といった思いは毛ほどもない。
小生はちょっと驚いたのだが、日本軍に投降した支那兵は翌日には嬉々として日本軍の軍夫になっていたりする。彼らにとって食べること、生きることが最優先の案件で、それを提供してくれれば主人は日本軍だろうと蒋介石の国民党軍だろうが、毛沢東の赤軍だろうが、どうでもいいのだ。生活の場が支那だろうと外国だろうとまったく気にしない。
つくずく漢族はすごい民族だと思わざるを得ない。タフである、生命力が強い。有史以来ひたすら「私欲・満腹・蓄財・拝金」を追求してきた。
漢の初代皇帝、劉邦は戦に負けて子供とともに馬車で逃亡した際、敵に追いつかれそうになったので車を軽くするために2人の子供を突き落とした。「親から子は生まれるが、子から親は生まれない。子供は親の犠牲なって当然だ」」という、究極的には自分さえよければいいという生き方なのである。
こういう漢族のなかで満洲国は建国されたのだが、結局は漢族に飲み込まれたような印象である。(つづく)(2013/10/26)
<「頂門の一針」から転載>