眞鍋 峰松
最近、私はもう身の回りに起こる小さなことに、いちいち抗うのを止める気分になってきた。 何事につけ面倒臭くなってきたのだ。 多少自分に関係のある事件や事柄であったとしても、積極的に関わりたくない。
否むしろ、関わることによる責任を取ることを避けたいという気持の方が強いのかも知れない。 いよいよ、道歌の「 火の車 つくる大工はなけれども 己が造りて 己が乗り行く 」状態を避けたい、とでも言えようか。 この年齢ともなると、そういう気分になってきた。
これまでの人生の中にも、決して願わなかったことなのにどうしてそうなってしまったのか、と思うことが随分あった。それも、もはや自分が責任を取ろうにも、どうにもならない範疇のものだという経験を経て、このような実感を抱くことを繰り返してきたからだろう。
それが老年の狡さというものだろう。 関わらないことによってお叱りを受けたら、首を竦めて笑っているだけ、という姿である。
“老年は惚けるまでは、幼児と違って、自分で幸福を発見できるかどうかに関して責任がある。最後の腕の見せどころなのである”と仰る方もおられるが、果たしてそうとばかり言えるだろうか。
それも、“ 其の言 是れ青く、其の語 未だ熟せず”の気概が残された時期までのことだろう、と心中で悔しさ半分の諦めの境地。 これが現在の偽らざる心境である。
作家の曽野綾子さんはある本の中で、「この頃、晩年における四つの必要なものは、許容と納得と断念と回帰であろうと思うようになってきた。 すなわち、この世に起り得る全ての善も悪も、何らかの意味を持つと思えることが許容であり、自分の身に起った様々のことを丹念に意味づけしょうとするのが納得である。
宗教的に言えば、それは~の意志を、自分の上に起る全てのことに見ようとする努力である。 望んでも与えられなかったことが、どの人間の生涯にもあり、その時執着せずにそっと立ち去ることができれば、むしろ人間はふくよかになり得ると思えることが断念である。 そして回帰は、死後どこへ還るかを考えることである。」と、老年の心境について書かれていた。
いよいよ72歳の誕生日を迎え来たった、ここまでの己の人生。 自分には自分なりの幸福な人生の過し方があるのだと信じ、「或は是 或は非 人識(し)らず 逆行順行 天も測ること莫し」とばかりに驀進してきた。
だが今、人生行路を振り返ってみると、それも果たしてどうであったか、と自省・自責の念が起こる。
越し方を顧みて「この世に起り得る全ての善も悪も、何らかの意味を持つと思える」、「自分の身に起った様々のことを丹念に意味づけしょうとする」ばかりであった。
それこそ、「 一切の業障界はみな妄想より生ず。もし、懺悔せんと欲せば 端坐して実相を思え 」の仏の教えが身に沁みる。