2017年03月11日

◆木津川だより 式内社岡田国神社と家康の伝承 続

白井 繁夫



岡田国神社はJR木津駅の南(約500m)にある天神山裾の少し小高い所に鎮座し、平城京から平城山(ならやま)を越えて泉津(平城京の玄関港)に至る港の出入口にあります。
(古代より泉津の東部;木津に岡田国神社、西部:相楽に相楽神社が同様に祀られています。)

南山城の木津は京.大和.難波へ通じる水陸交通の要衝として、古代の壬申の乱(大海人皇子:後の天武天皇)から戦国時代の織田信長.大坂の陣の徳川家康など話題が歴史の表舞台には出ませんが、それぞれの時代の立場において、木津川流域の木津が関りを持ちました。

家康は慶長19年(1614)10月、大坂城(豊臣秀頼)の攻撃を決定して、全国の諸将に出陣の下知を発しました。自らは同月23日に京都二条城へ入り、11月に伏見城から来た将軍秀忠と軍議を持ち、軍勢を2ルートに分けて進軍する大坂城総攻めを決めました。

�@家康本隊:先鋒は藤堂高虎 山城(木津)→大和→河内→大坂
�A秀忠部隊:先鋒は上杉景勝 山城(木津→玉水)→淀川沿い→大坂

11月13日に二条城を出発する家康に備え京都所司代板倉の家臣(板倉三郎左衛門)は淀船使用(過書船)支配者(木村宗右衛門)へ木津の稲田孫右衛門を通じて木津川船橋の架設は13日までの完成と命じた。(この船橋に敷く畳のため淀の町の畳が総動員されたと云う)

先鋒の藤堂高虎は木津の陣(稲田孫右衛門宅)に10月23日まで宿泊して受け入れ態勢等を整え大和へ発つ、秀忠の先鋒(上杉景勝)は11月6日木津に着き9日に玉水の陣に入る。

名古屋の初代尾張城主(徳川義直:家康の九男:尾張徳川家の始祖)は伏見から12日に木津宿陣して翌13日大和郡山に入りました。他方13日に木津到着予定の家康は南光坊天海と金地院崇伝が13日の南行は悪日との意見に従い出発を15日に変更しました。

15日の午後2時に家康は予定通り木津の稲田孫右衛門宅に到着して、奈良の大乗院.一条院両門跡をはじめ、寺門社家.町人と接見しましたが、木津に宿泊せずに、夕方旗本衆15騎と兵員や付き人だけを従へて、奈良の中坊秀政の所に宿泊しました。

家康が京の二条城を出て最初の宿泊所として、京都所司代(板倉勝重)が手配した稲田孫右衛門宅が防備上無用心との事ですが、稲田宅には家康の本陣の旗や軍勢はそのまま残して、少人数だけで出発したのです。(家康は大変思慮深くて用心深い武将だと思います。)

その後の大坂冬の陣は皆さんご存知のごとく、12月24日和議成立しますが、大坂城は外堀だけでなくことごとく堀は破壊されて、丸裸の城となりました。慶長20年(1615)の4月に和議が破棄されて、家康は諸将を再度大坂へ動員するのです。

徳川方の軍勢:冬の陣約20万、夏の陣約16.5万人、豊臣方の冬の陣約9万、夏は約5.5万人と言われますが夏は冬ほどの軍勢を集めた戦闘人員ではありませんでした。

木津の陣を通過した軍勢も冬より少数でした。伊達政宗の軍勢の場合は4月末、木津に陣を置き5月3日に大和へ発って、大和路から大坂への進軍の途次、道明寺の戦いで、小松山を越えた戦闘時、豊臣方の後藤基次軍(2800人)の単独軍と伊達政宗.松平忠明の幕府軍約2万と戦っています。(後藤基次はこの戦いで討ち死にしました。)

このように、歴史上の話題には出ませんが、大坂の陣では冬も夏も数多の武将が木津に陣を置くか通過して戦場へと赴き生死をかけた戦闘に吞み込まれて行ったのです。

時は過ぎて、17世紀末から18世紀初め、江戸時代中期の木津地域の所領の状態です。

元禄10年(1697)12月、五代将軍綱吉の時代、幕府より、天神社(現岡田国神社)は社領高:24石6斗、この反別は三町二反三畝十一歩の下付を賜る。松平美濃守等の下知(相楽郡誌)と勘定奉行松平重良からの下知(京都山城寺院神社大辞典 平凡社)の2説があります。

ところで、当時の日本の石高は全体で約2800万石、9割以上が武家領(幕府領.大名領.旗本領)となっていました。しかし、山城国は武家領が約37%、非武家領が約63%と非武家領(禁裏御料.公家領.寺社領)の比率が極端に高くなっていたのです。

然しながら、享保14年(1729)の「山城国各村領主別石高表」での木津町域の所領構成によると、木津の武家領は58%、非武家領が42%と山城国の比率とも異なり、その武家領も幕府領が30.5%(2168石)、旗本領が27.8%(1981石)であり大名領や藩領は0%と(豊臣家の旧支配地も完全になく)全国的に見ても特異な比率になっていました。

話題を最近の岡田国神社に戻します。当神社の朱色の大鳥居がある国道24号線と163号線が交差する木津の大谷交差点から東の天神山裾の神社の境内林へ向ってR163のバイパス事業を国交省が実施する前に、岡田国遺跡「発掘調査期間(平成28年5月〜29年2月末)」の発掘調査を実施した現地説明会が平成29年1月28日にありました。

(調査地の北東約5�qの所には奈良時代の中期(740〜744年)に聖武天皇の恭仁宮(くにのみや)が造営されていました。)

今回の発掘調査での出土遺物は奈良時代中期の瓦.塼せん.円面硯.刀子とうす.和同開珎など、掘立柱建物跡などの柱跡から東西3間以上の建物跡や井戸跡など、他方検出した道路は条坊と類似と思え、古代の都:恭仁京の都城に設置した碁盤目状の道路の可能性があるとのことでした。

昭和46年のR24号の大谷交差点工事に伴い、現在地に移動した朱色の大鳥居をくぐり、岡田国遺跡を南側に眺めながら、日本に一つしかないJR(奈良線.大和路線)を越える珍しい『神社参拝用の跨線橋』を渡り岡田国神社に参拝しました。

現神社の新社殿は昭和53年(1978)に建て替えられ、その時、『岡田国神社の石碑』も神社の正面入口に移設されました。私はこの石碑に刻まれた銘を見て驚きました。

『東照宮宮司 源容保』即ち明治5年に蟄居が解かれ、明治13年(1880)から日光東照宮の宮司に任じられた最後の会津藩主 松平容保が筆を執っていました。

天神社(現岡田国神社)は江戸幕府と家康の件で明治まで絆があったのかと一瞬思いました。

新社殿は本殿(相殿).末社.拝殿.南北に氏子詰所など有りますが、旧社殿と異なり能舞台はなく、神殿の前面は大きく広場を取り、布団太鼓2基が神前奉納できる十分な余裕があります。(嘗て、旧社殿時代、木津御輿太鼓祭は9基が参道を練り奉納していたのです。)

旧社殿は隣接する北側の一段低い場所に従前通りの状態で佇んでいます。即ち、本殿.末社.摂社.拝殿.舞台.南北氏子詰所等の構成です。まさに室町時代の南山城の惣社の社殿配置の特徴を留めており、京都府登録文化財となり、現状のまま保存されています。

能舞台の西側に巨大な杉の大木が在ったのですが、樹齢数百年の古木ともなるとJRの線路には危険と判断した宮司が木を伐採したため、現在は舞台の西に巨大な切り株だけが残りました。(樹齢は不明ですが室町時代からの杉の巨木であったとも云われています。)

旧社殿の建物:
本殿(2棟相殿)一間社春日造、身舎(もや)側面1間、 檜皮葺、安永3年(1774)築。
拝殿:桁行5間、梁行2間、切妻造、本瓦葺、元和6年(1620)築。
能舞台:桁行1間、梁行1間、切妻造、桟瓦葺、明治15年(1882)築。
北.南氏子詰所:桁行6間、梁行2間、切妻造、桟瓦葺、明治40年(1907)(棟札)
摂社 恵美須神社:二間社流見世棚造、檜皮葺、江戸時代中期。
その他文物:
手水鉢:石造、慶安5年(1652)9月、寄進される。
常夜燈:石造。明和8年(1771)9月の銘
絵馬 :慶安5年(1652)の作、その他江戸時代の作が多数あり。
また岡田国神社所蔵の大般若経は相楽神社所蔵も含め京都府立山城郷土資料館に保管されています。
(完)(初編掲載は、2月20日)

参考資料:
 木津町史 本文篇、 史料篇、 木津町。 加茂町史 第一巻 古代.中世篇 加茂町。
 木津町埋蔵文化財調査報告書 第3集。 岡田国遺跡現地説明会資料(京都府埋文調研)
 岡田国神社 (木津川市教育委員会)
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